数学者と哲学者の密室――天城一と笠井潔、そして探偵と密室と社会
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数学者と哲学者の密室――天城一と笠井潔、そして探偵と密室と社会の総合評価:
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. 完璧にだまされた。本書はまさに、よく出来た「長編本格ミステリ」のような作品だ。 正直に言えば、本書を書店で見かけて手に取り、パラパラとめくってみた印象では「天城一と笠井潔と並べて賛嘆した作家論」というだけの印象であった。だから「飯城さん、こんな提灯本を書いてるようじゃダメだな。すっかり業界の人間になっちゃったか…」という感じだった。 それで、その時はそのまま棚に戻したのだが、先日、本書が(「本格ミステリ大賞」は別にして)「日本推理作家協会賞【評論・研究部門】候補作」になっていることを知り、本書が提灯本なら「受賞前に、ガツンと批判しといてやらなきゃな」と、そういう意図で購入したのである。 で、読み始めてみると、基本的には、天城にしろ笠井にしろ「肯定的」に評価しているのだが、具体的な作品分析においては、けっこう仮借なく、弱点や難点を指摘している。 しかも、両者に共通する「批評家」的な側面については、そこが「面白い」と言いながら、どちらも「自身の小説作品の価値を高めるために書かれている」と、身も蓋もない指摘をして、しかし、だからこの二人はダメだ、とは決して言わない。そういうものであっても「面白い」という、基本的な評価は揺るがないようなのだ。しかしこれでは、読者から見れば、ほとんど「誉め殺し」だよ、という書き方だったのである。 飯城勇三という評論家の特徴は「アナロジー(類似性)」を縦横に駆使する点にあり、これは数十年も昔からのもので、本書でもそれは変わらない。要は「天城一と笠井潔の類似点」を中心に論が展開されていくのだ。 私は、もともと笠井潔の熱心なファンで、それが「可愛さ余って憎さ百倍」で「笠井潔葬送派」に転じた人間なのだが、もとは笠井ファンだから「理屈」というものが好きだし、その意味では、ちょっと気難しい評論を書く天城一という作家にも好意的であった。また、飯城と同時期に、ほとんど重なる同人誌で活動したものだから、天城とも何度か手紙のやり取りをしたことがある。 私にとって、天城一という作家は、基本的にユニークで好ましい存在であり、私が「心の師」と仰ぐ作家/評論家の大西巨人と(年齢的な部分も含めて)重なる印象があった。だから、私としては、そんな天城と笠井潔を「一緒にして欲しくないな」という印象が、本書終盤までつきまとったのだが、その最終章で、本書が基本的には「周到な笠井潔批判」だとわかり、天城の方は、一種の「煙幕」だったと、そう気づかされたのである。 ○ ○ ○ 本書を読んでいて、途中で「あれっ?」と引っかかったのは、何度か登場する「それは私の手に余るから、ここでは問わない」「そこまでは踏み込まない」といった趣旨の、飯城の言葉である。 こうした言葉を額面どおりに受け取れば、飯城勇三は「私は本格ミステリマニアであり、本格ミステリという文学形式とその作品には興味があるが、作者の思想や人間性の是非にまでは踏み込むつもりはない」とでも言っているかのように見える。しかし、ふつう「文芸批評」というものは、「作品分析を通して作者を語る(作家論)」といったものが多く、作者の内面に踏み込まないままで終わる、純粋に「作品論」といったものは、(蓮實重彦の「表層批評」などの例外的なものを除けば)きわめて珍しいと言えるだろう。 たしかに飯城勇三の「作品構造分析」は素晴らしい。ここまで的確に作品の「構造的」な長所や短所を、分析的に語れる評論家はちょっといないし、さすがは筋金入りの「本格ミステリマニア」だと感心させられたのだが、しかし、それでも「作家の内面」に踏み込まず、「作家の実存」を問題にしないというのは、やはり「文芸批評」としては不徹底としか思えない。ほとんど、作家評価の根拠を示しておきながら、結論だけを語らないまま「作品の構造分析」に止まるのでは、それは「本格マニア向け(限定)の評論」に、わざわざ止まることになってしまうではないかと、最終章の手前までは、そんなふうに危惧されたのである。 しかし、前記のとおり、本書は最終章において、その「真相」を明らかにした。 本書は紛れもなく「笠井潔批判」の書であったのだ。 本書の構成は、「2つの類似した事件(天城一と笠井潔)」「それぞれについての事件捜査と謎めいた展開」そして最後に「真相の暴露」というものである。 「なんだかスッキリしない書き方だなあ」などと思いながら読んでいたら、じつはその段階で飯城勇三は、周到に「伏線」を張っていたというわけだ。「黄金期の本格ミステリ」は、しばしば「途中の展開がタルい」という印象を与えがちだが、すべては最終章での謎解きに供せられたものだったのである。 ○ ○ ○ 私は、笠井潔ファンとして、そして「笠井潔葬送派」として、笠井のほとんどの著作を読んでいるのだが、天城一ついては「面白い人(作家)」だと興味と敬意は持ちながらも、単純にその「文章が読みづらい(ほとんど苦痛)」という理由で、『密室犯罪学教程』といくらかのエッセイしか読んでいなかった。 だからむしろ本書では、天城一について教えられるところが多かったし、天城と笠井の往復書簡(?)があったというのも初めて知って、とても面白く読ませてもらった。そうした天城一に関わる部分では、決して中だるみもしなかったのである。 そして、本書において最終的に批判されているのは笠井潔だけであって、天城一の方は(褒めつつ、利用されただけで)批判されてはいないと解していいだろう。 たしかに、天城の方も、自分の作品の価値を高らしめるための評論文を自ら書くというのは、なかなか日本人ばなれしていて、少々奇矯だとも評し得ようが、それも作家であるなら「ユニークさ」の範疇として許されよう。また、「事実は事実なのだから、自分で書いて何が悪い」というロジックは、作家としては、むしろ「正論」なのである。 つまり、笠井潔についても、問題なのは「自分で自分を褒める」ところではない。問題は、「論理的一貫性がなく、ご都合主義的に論が変化していくところ」であり、しかも変わっているという事実を認めないで「私は昔から、そう言っていた」と臆面もなく言い切ってしまう、その「ペテン師」ぶりなのである。 笠井潔のこうした「言ってることが、だんだん変わっていく」「その事実を認めない」「他人の説を歪めて語り、それを批判して、我賢しとする」といった特徴は、笠井潔を5年10年と観察していれば、それと気付く人も少なくはないだろう。 だが、そもそもそこまで笠井潔に興味を持っている者など(利害関係者は別にして)ほとんどいないだろうし、気づいた人がいたとしても、なにしろ笠井は「剛腕の論客」であり「白を黒に言いくるめる」力量を持ったエセ評論家(※ 笠井は、柄谷行人との対談で「昔、セクトの仲間の前で、理屈なら何とでもつけられる、と放言して顰蹙を買った」という趣旨のことを、笑い話めかして語っている)だから、私のような元ファンの「可愛さ余って憎さ百倍」といった人間でもないかぎり、「触らぬ神に祟りなし」で、わざわざ笠井潔を批判しようなどという「奇特な人」など『滅多に出るものではない』のだった。 一一だが、飯城勇三は、その「奇特な人」だったのである。 飯城勇三と私は、旧知の仲である。今から30年ほども前の話だが、二人とも、本書の中でも言及されている、老舗のミステリファン・サークル「SRの会」の会員であり、全国大会などで何度か顔をあわせて、面識もあった。 飯城の方が先輩会員で、年齢も三つ上。しかも私は、ちょうど綾辻行人がデビューした頃にミステリファンになったばかり「素人」であったが、飯城の方は、当時すでに「エラリー・クイーン・ファンクラブ」の会長として、押しも押されもしない「筋金入りのミステリマニア」として、知られる存在だった。 飯城の評論文については、SRの会の会誌「SRマンスリー」に載ったものや、その後だいぶ経ってからの単発同人誌『天城一研究』などで、いくつかは読んでいるが、当時の私の興味を惹くことはあまりなかった。 当時も、飯城の評論は「アナロジー」を駆使したユニークなもので、たしか、これもご一緒した同人誌『新世紀エヴァンゲリオン研究』だったかに「エラリー・クイーン作品と『新世紀エヴァンゲリオン』の類似性」を論じた文章を投じているのを見て「本当に器用な人だな」と感心したり呆れたりした記憶がある。 つまり、私にとっての飯城勇三という評論家は「ユニークかつ有能な評論家」ではあるけれど、当時すでに私の方向性となっていた「人間の内面」の問題を扱う「文芸批評」や「社会批評」「思想哲学」といったところには踏み込まない、「オタク評論家」だとして、あまり興味を持たず、目にしても読まないことが多かったのだ。 だから、本書を読んで、良い意味で「裏切られた」。まさに「やられた」という感じだった。 まさか「○○さん(飯城勇三の本名)」が、本書の「おわりに」と「あとがき」を、ほとんど同じ文言で締めくくるほどの「思い」を持っていようとはと、驚きであると同時に、ある種の感動さえおぼえたのである。 ・ 『 私の答えは、「この二人は〝やりすごす〟ことができない性格だから」となる。 天城は、「もう戦争は終わったのだから」、「もう天皇は人間になったのだから」で終わりにすることができなかったのだ。権力者である江戸川乱歩におもねることができなかったのだ。自作の評価の低さに対して、「みんな、わかっていないな」で済ませることができなかったのだ。 笠井は、自分は直接には関与していなかった〈連合赤軍事件〉を、見て見ぬ振りができなかったのだ。《後期クイーン的問題》も《容疑者X問題》も、3·11も、シャルリ・エブド事件も、「どうでもいい」で済ませることができなかったのだ。 現在は、〝やりすごす〟ことが処世術になっている。空気を読み、波風を立てないことが美徳なのだ。私のような人間にとっては、二人の小説や評論には、刺さるものがある。 しかし、それでも二人の作品を読むことをやめられない。刺さる部分も含め、大きな魅力を持っているからだ。 「自分に都合の良いことだけが書いてある作品しか読みたくない」と考える読者が増えている現在こそ、天城一と笠井潔の作品は、読まれるべきではないだろうか。いや読まれるべきなのだ。 本書がその一助となれば光栄である。』(P358〜359、「おわりに」より) ・ 『 現在は、〝やりすごす〟ことが処世術になっている。空気を読み、波風を立てないことが美徳なのだ。そして、「自分に都合の良いことだけが書いてある作品しか読みたくない」と考える読者も少なくない。こういう人たちにとっては、天城一も笠井潔も、読む必要がない作家なのだろう。 だが、今年(二〇二〇年)起こった新型コロナウィルスによるパンデミックは、〝やりすごす〟ことができない現実であり、「自分に都合の良いことだけが書いてある文」だけ読んでいては対応できないのだ。こんな現在だからこそ、天城一と笠井潔の作品は、読まれるべきではないだろうか。いや、読まれるべきなのだ。 本書がその一助になれば光栄である。』(P364、「あとがき」より) . 私も「〝やりすごす〟ことができない性格」だった。 ファンであったればこそ、納得できない笠井潔の言動に噛みつき、それでも正されそうにないと気づくと、それでは「笠井潔を葬るのは、ナンバー1ファンである私の仕事だ」と、笠井がかつて名乗った「マルクス葬送派」をもじって「笠井潔葬送派」を名乗り、笠井潔批判をライフワークにした。 「SRの会」についても、「森村誠一との論争」というささやかなワンエピソードを誇示して「在野精神」などと言っているわりには、年間ベスト本紹介誌『このミステリーがすごい!』への「投票」依頼に喜んで乗ったり、『このミス』投票を睨んで出版社が事前に献本してきた白本をありがたく頂戴したりする、そんな姿勢を批判した。なんだ結局は「権威主義の有名好き」ではないかと批判したのである。しかも、その当時の私は、二十代の若手会員で、私が批判した当時の中心的な会員たちは、親ほども年上の会員たちだったのである。 本書を読んで「ああ、私も○○さんも、当時の中心会員くらいの年齢になったんだな」と、感慨ぶかいものがあった。 そして、私の誤解だったのか、飯城が歳相応に変わったのかはわからないが、本書における飯城勇三のスタンスに、私は深く共感したのである。 すでに私は「SRの会」を離れている。もう二十年も前から、会誌を送ってもらっているだけで、会合には一切参加しておらず、飯城と顔をあわせる機会もなかったのだが、数ヶ月前にとうとう会費の振込みもやめて、自動的に退会することになったところだった。 そんなわけで、私はAmazonカスタマーレビューの自己紹介で『もともとは、ミステリ(推理小説)を中心とした「文学趣味」の人間(小説読み)であった』と書いているとおり、すでにミステリとの縁は切れているに等しいのだが、〝やりすごす〟ことができない性格は、今も少しも変わってはいない。 そうした私を、飯城が少しは見ていてくれたなら嬉しいと、そう思った次第である。 —————————————————————————— 【補記】(2021.5.6) 笠井潔の最新刊『例外状態の道化師 ポスト3.11文化論』(南雲堂)については、本年(2021年)1月20日に、下のAmazonレビューをアップ済みなので、是非ご参照ください。 「笠井潔葬送派」の肩書きが、伊達ではないことを、きっとご理解いただけます。 ・ 追放されし偽王・笠井潔への〈諫告〉 . | ||||
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笠井潔の今後の矢吹駆シリーズで現象法による本質直感による事件の真相への接近がどのようになされるかをみていく上でヒントをこの本でもらった気がします。 | ||||
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世代の異なる作家の差異、共通点等かなり読み応えがあります!初出と単行本の比較に著者独自の資料を加えてマニアックな内容です。 惜しむらくは原本の作品が入手しずらくなっているのが現状です。 笠井さんの作品は増補改訂が顕著なことで有名ですが、蛇足ながら気になったことが二点。 矢吹駆の本名が『青銅の悲劇 瀕死の王』にて明かされてますが単行本と初出では異なります。 『吸血鬼と精神分析』カッパノベルスのカバーのタイトル表記の英訳が雑誌連載時の『吸血鬼の精神分析』になっています。 | ||||
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