テロルとゴジラ



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    初公開日(参考)2016年12月
    分類

    長編小説

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    テロルとゴジラ

    2016年12月22日 テロルとゴジラ

    世界戦争、大量死、例外社会、群衆の救世主、行動的ニヒリズム、トランプ…常に“今”という時代のアイコンとしての機能を持った「ゴジラ」をめぐる論考を筆頭に、多彩な角度から「サブカル」と「ポスト戦後」を検証する著者渾身の21世紀的文化表象の思想論集。(「BOOK」データベースより)




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    No.2:
    (5pt)

    『ユートピアの現象学』への道

    『新版 テロルの現象学』以来、初めての本格的批評となる1冊。
    第1部に表題作「テロルとゴジラー〈本土決戦〉の創造的回帰としての」をはじめとして、ゼロ年代以来、文化表象関連の論考を1つの明確なテーマのもとに集約している。『新版 テロルの現象学』の補論で言及されていた、「68年の文化的闘争の持続としてアニメやゲームを検証する作業は依然として残されている」との提起をストレートに反映した第1部の内容であるが、『シン・ゴジラ』という作品をめぐる問題を中心にしながらも、本質的には「1968」の問題がどのように現在に継続されているのかに照準を絞った感がある。
    そのため、吉田満・旧大日本帝国海軍少尉の手記であり「戦記文学」とされる『戦艦大和ノ最期』と、東アジア反日武装戦線の「武装闘争」をめぐって著された、桐山襲『パルチザン伝説』に次ぐ作品として、ふたつの「ゴジラ」(初代ゴジラと「シン・ゴジラ」)が言及される点には説得力がある。
    一方で、この第1部に収録されている「セカイ系と例外状態」は、これまた『新版 テロルの現象学』補論のテーマを引き継いだ論考であるが、とりわけ「コードギアス」を90年代の「新世紀エヴァンゲリオン」に匹敵する画期的作品とみなし、この作品と並んで押井守氏との対談『創造元年1968』で言及されていた「東のエデン」を詳細に論じている点が注目される。いわば、この後に来る「シン・ゴジラ」を10年代のひとつの分水嶺として、その前触れをなした「21世紀の例外状態」を表現したアニメ作品の功績と問題点を論じたのであるが、「シン・ゴジラ」に集約されるイデオロギー的問題をもって、著者が「1968年」とサブカルチャーの連関する諸問題にけりをつけたとみることもできるだろう(あとがきの末尾を参照のこと)。

    第2部、第3部は『例外社会』、および『国家民営化論』をふまえて、「アラブの春」をはじめとする10年代の「世界内戦」状況にあってのデモ/蜂起論の現在形を論じているが、第1部で言明された戦前・戦後の「ニッポン・イデオロギー」との対峙の姿勢、加えてシールズに代表される「1968年」の遺産に否定的な「市民運動」と、デモ/蜂起の原理を明確に峻別する視点が、脱政治化された現在の「批評」界にあって新鮮に映る。
    気になったのは、『新版 テロルの現象学』の問題提起をストレートに発展させたことで近年の著者の社会批評としては最も説得的でかつ戦闘的な成果に到達している一方、『新版 テロルの現象学』補論には言及されていた「涼宮ハルヒの憂鬱」や「魔法少女まどか☆マギカ」にみられる、キャラクターの象徴的問題や世界の現象学的「変容」についての視点が忘れられてしまった感があるところだ(それゆえに、第1部ではハードSFの歴史の延長で「例外社会」問題を描くアニメ作品を定義しなおすという新しい視点が開かれたのであるが)。かつて奈須きのこ『空の境界』(講談社ノベルス)についての印象的な解説を記していた著者だけに、一読者としては、社会批評とは距離を置いた批評眼あってこその「現象学論」を期待してしまう。

    なお、「ラディカルな自由主義」という語の定義であるが、旧形態としてのアナルコ・サンディカリズム無き後の21世紀の「アナーキー」に応答する語としては少しく不明瞭であり、不徹底であろうと個人的には思う。本書でトマス・ミュンツアーの千年王国運動を評価し、20世紀ドイツにおける決断主義の代表として(晩年に「アナルク」=「無政府状態」を称揚した)エルンスト・ユンガーに言及しえたのだから、今後、著者が考察し開拓する世界観は「自由主義」といった20世紀的旧態の近代主義ではなく、「存在論的アナーキー」=ontological anarchy(HAKIM BEY)となるのではないだろうかと思われる。確実にその呼び水となるであろう、『ユートピアの現象学』への助走として、本書はしかるべき時期に登場したのではなかったか。
    テロルとゴジラAmazon書評・レビュー:テロルとゴジラより
    4861826063
    No.1:
    (4pt)

    強引な箇所多々あれど、それがないと笠井潔では無くなってしまうからなあ・・・

    学生運動から離れた後も当時の状況に拘り続ける笠井潔による、映画やアニメ等の表象文化と社会思想を絡めた評論集では、久々となる一冊。

     「本土決戦」を謳いながら沖縄戦と二発の原子爆弾で、あっさり無条件降伏(江藤淳他、異論は多いが)、「敗戦」を「終戦」に擦り替え、東京裁判において戦犯の汚名を着せられた極一部にのみ責任転嫁後、民主主義の旗を高々と掲げ、高度成長期へと雪崩れ込んで行ったニッポン・イデオロギーや重要な基点となった〈68年〉等を多角的に検討する考察でもある。

     昭和天皇暗殺計画を扱った桐山襲の小説『パルチザン伝説』の主人公が発する、「戦前が許せない以上に、いつわりの自由といつわりの平和でみたされた戦後こそが、僕たちには耐えることができなかった」(P23)という言葉は、確かに未だに重い。
     共産主義者同盟赤軍派や京浜安保共闘、日本赤軍、連合赤軍などの過激派メンバーが自らに詰問し、自らを追い込んで行った一つには、過去の何か大切なものを捨て去り、あるいは曖昧にしたまま、豊かな「戦後」を享受しようとしていたメイン・ストリームと自分への極めてプリミティヴな違和感、その大きな流れに追随する周囲と自己に対して積極的に異議を主張できない内なる卑劣、怯懦と闘うためということもあったのではないか。
     
     細かいことを言えば、P40、製作サイドの意図としてあった「核爆弾の化身=ゴジラ」に対して、「川本三郎は異説を唱えた」とあるが、川本の当時衝撃的だった「ゴジラ=戦没兵士の亡霊」(『今ひとたびの戦後日本映画』 岩波現代文庫で読める)という図式は、硬派な文体で身を立てる著者なら、「異説」という表現ではなく、「新たな視点が付加され、創作物が創作者の意識を常に超えるテキストでもある一例」くらいのセンシティヴなニュアンスを含んでもよかったかもしれない。
     言わんとしていることをお解りいただけるだろうか、確かに複雑なことに深く関わろうとすれば、平易な言葉で表現するのは難しくならざるを得ないが、笠井の単著に時折読み取れる良くも悪くも論理の飛躍、直観を主にした強引さ等に、御本人はどれだけ自覚的であるのか。

     また、P278~、ドストエフスキーの『悪霊』から始まる「ラディカルな自由主義の哲学的前提」では、「主観と実体」等について西欧哲学を核に廣松渉や加藤尚武をも引いて論を組み上げ、P85~の「3・11とゴジラ/大和/原子力」において近年迷走著しく誤解及び批判し易くもある中沢新一の文章をも例に挙げるなら、特に前半、ブッティズムの唯識学派ヴァスバンドゥやナーガールジュナの『中論』くらいには言及すべきだったと思うのは贅沢か。

     P206、長崎浩の文章を引きながら、「学生運動に失敗、すぐ企業戦士に転向」という、バンバンのシングル「『いちご白書』をもう一度」(作詞:荒井由実)みたいなことに異を唱える箇所は痛快。
     ユーミンは変わって行く時代に流される平凡な学生の悲哀を描きたかったのだろうが、それは笠井が指摘しているように「デモの尻尾にくっついていた程度」の運動をファッションとして行っていた多くの軟派たちに過ぎず、逮捕歴・起訴歴のある学生は一旦就職でもして革命のための資金でも集めるかとか思っても(甘いなあ)、採用する側は組合活動をリードされても困るのでガードを堅くしてことごとく撥ねた。
     当然だろう。
     そのくらい、よど号ハイジャック事件、浅間山荘事件などが立て続けに起こった後、大企業は新卒採用に神経質だったのだから。
     高校どころか中学からデモに参加していた我が先輩の先輩の先輩の多くは研究者か自営(彫金師及びアクセサリー販売、喫茶店か飲み屋経営、父親の稼業を継ぐ等)の道しかなく、調べてもらえれば解るのだが、団塊世代は人口構成の最も膨らんだ部分に属しつつ、政治に絶望しているから政治家の道を選んだ者は驚くほど少なく、いたとしてもろくでもない連中が少なくはないよ。

     新井英樹の漫画『ザ・ワールド・イズ・マイン』(絶版になった方の単行本14巻)が無視されたのは残念だったが、「与えられた二〇年」が齎したような「セカイ系と例外状態」の問題は、附属池田小事件の宅間守や秋葉原通り魔事件の加藤智大を持ち出すまでもなく、もっと広く語られるべき。

     P274~、吉本隆明の死に触れていて、“理念的な「父」のような人だった”と記し、文体は抑制されているものの、その内実はほぼミーハー状態。
     二世代以上もの大先輩に対して、実に失礼ではあるが、カワイイではないかと言ってしまおう。
    テロルとゴジラAmazon書評・レビュー:テロルとゴジラより
    4861826063



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