雪の階
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昭和初期の華々しさとが感じられるような文章が、魅力的。 物語としては、どこかチグハグな、捉えどころのなさが、時代的で楽しめた。 とても不可解な主人公も、その不可解さに、かえって惹きつけられた。 最後の展開に少々なじめず、⭐︎は4にした。 | ||||
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. 本作が、三島由紀夫を意識した作品であろうことは、毎日出版文化賞の選考委員である林真理子をはじめとして、多くの人の指摘する、比較的わかりやすい事実だと言えるだろう。 だが、その「狙い」について、ハッキリと指摘したものを、私はまだ目にしていないので、その点につき、ここに私の思うところを記しておきたいと思う。 【 ※ 本作の、結末及び本質について論じますので、ネタバレが気になる方は、ご注意ください】 . 本作は、戦争に傾きつつあった大戦前昭和日本の上流階級社会を舞台にした、オカルト趣味の推理小説だと言って良いだろう。 日清・日露戦争に勝利し、東アジアへの覇権を強めていた日本は、しかし欧米の帝国主義諸国から警戒されて、思うような国際的地位を築けずにいた。イギリスやアメリカといった列強との関係が悪化する中、日本はヨーロッパにおいて、急成長を遂げていたナチス・ドイツに接近したが、ヒトラー率いる国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)の母体のひとつである秘密結社トゥーレ協会は、人種差別的なアーリア民族主義と結びついた、異教的神秘主義という特徴を有していた。 本作は、こうしたしばしば語られるところの「ナチスのオカルト」といった謎めいた側面に、謎の失踪事件や変死事件がからむ「オカルト趣味の推理小説」として展開するのだが、その一方で、「文体」的には、戦前昭和日本の上流階級社会を描くにふさわしく、しばしば典雅なレトリックを駆使し、現代の推理小説とは一線を画する「文学的」な香気を漂わせて、そこが少なからぬ評者から高く評価されもした。 本作が、三島由紀夫を連想させるのも、単に「上流階級」や「青年将校」や「二・二六事件」が描かれるだけではなく、その意識的に凝らされた「文学的文体」によるところが大きかったのではないだろうか。言い変えれば、純文学ファンには喜ばれ、今どきの推理小説ファンには、やや冗漫に感じられる文体だったのである。 無論、作者は、こうした「文体」を意図的に凝らしたのである。 そしてその狙いは、本作の本質が「美的幻想批判」であり、「三島由紀夫批判」にあったのだと言えよう。 本作は、いかにも「神秘的なもの」が隠されているかのような真相探求譚として展開するが、その結果、主人公がたどりつくのは、良くも悪くも「(非神秘的な)当たり前の、この生活世界」である。 主人公の周辺では、謎めいた「間諜組織」らしきものが暗躍し、一方、昭和維新を呼号する青年将校たちの陰で、これに便乗して「天皇家」を打倒し、「純血純粋な日本人」による真の日本を実現しようという陰謀が進行する。 しかし、これらは結局のところ、「オカルト的思考」にとらわれた人たちの妄想や妄執によってひき起されたものでしかなく、その野望はあえなく潰えてしまう。彼らが「特別に選ばれた人間」でもなければ「特別な能力をもった神人」でもなかったことが、最後に明らかになるのである。 つまり、さんざ「謎めいた物語」を盛り上げたおいて、そのあげく作者は、読者の梯子を外してしまうのだ。「そんなものは妄想でしかないのですよ」と。 付言すれば、本作はこうした狙いにおいて、ウンベルト・エーコの『フーコーの振り子』と相似的な作品だとも言えるだろう。 したがって、エーコの『フーコーの振り子』がそうであったように、本作の「意図的な梯子はずし」に対し、期待はずれだ、失敗作だ、などと言って怒る読者が、一定数出てくるのはしかたのないところだろう。 しかしそれは、作者が最初から意図したことなのだから、そこを読みとれないままに腹を立てるような読者は、単に本作を「理解できなかった読者」だと断じて良いだろう。批判するのなら、作者の意図を読み切った上で、そうすべきなのである。 たしかに、主人公の笹宮惟佐子は「神秘的な魅力」がある(ように書かれている)。しかし、彼女は非凡に美しく、個性的ではあるものの、決して「人間以上のもの」としては描かれていないし、それは作者が彼女の「内面」を描いている事実にも明らかだ。彼女を「人間以上のもの」として描くつもりなら、三人称の客観描写で、彼女の「人間的な内面」を描くわけなどないからである。 事程左様に、作者は「思わせぶり」な外面描写を多用して、読者を煽り(誤導し)ながらも、決して「嘘」はついていない。つまり「推理小説」の流儀からしても、決して「アンフェア」な描写はしておらず、あくまでも「文学的レトリック」において、読者を「酔わせた」その上で、最後に冷水を浴びせたのである。「目をお醒しなさい」と。 作者の意図が、「神秘主義的ロマン主義」にはなく、「当たり前の人間」であり「当たり前の生活者」の側にあるというのは、意図的な「耽美的レトリック」をふんだんに盛り込んだ本作の中においても、ときどき登場する「普通の人への、愛情のこもった描写」に明らかであろう。 例えば、笹宮惟佐子の幼い頃に、遊び相手(おあいてさん)を仰せつかっていた、庶民の娘である牧村千代子と、彼女の想い人で、しかしちょっと抜けたところもある蔵原誠治とのやりとりは、いかにも人間的な温かみに包まれていて、たいへん微笑ましい。 また何よりも、不幸な友人マキ代の運命を悲しむ、女学生・鈴木奈緒美の言葉は、作者の想いを代弁して、ほとんど決定的だ。 『「馬鹿なんです、マキ代は。きれいだし、スタイルもいいし、やさしいし。あんなに歌もうまいのに。でも、馬鹿だから、すぐ騙されて。」 緋色外套を着たままの女学生は、潤み光る眼で千代子をまっすぐ見つめた。』(P467) どんなに、美人でも、才能があっても、人柄が良くても、「馬鹿」だったら、騙されてしまう。それは、人間の、哀しい現実なのである。 同様に、「選ばれた人間」だの「神人の血筋」だのといった話についても、「馬鹿だから」こそ、自分を騙し、人から騙されもするのだ。 そして、「神人であるイエス・キリスト」を信じたキリスト教徒をはじめとして、世界中の多くの「信仰者」たちは、いもしない「神」を信じる「馬鹿」であるし、日本人の多くは「現人神」を信じた「馬鹿」だったし、今だって、それと大差のない「馬鹿」なのである。 一一そして当然、三島由紀夫もまた「馬鹿」だった。 三島由紀夫の代表作のひとつにして遺作である「豊饒の海」四部作は、そんな三島の精神史として読むことができる。 . 『『豊饒の海』(ほうじょうのうみ)は、三島由紀夫の最後の長編小説。『浜松中納言物語』を典拠とした夢と転生の物語で、『春の雪』『奔馬』『暁の寺』『天人五衰』の全4巻から成る。最後に三島が目指した「世界解釈の小説」「究極の小説」である。最終巻の入稿日に三島は、陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地で割腹自殺した(三島事件)。 第一巻は貴族の世界を舞台にした恋愛、第二巻は右翼的青年の行動、第三巻は唯識論を突き詰めようとする初老の男性とタイ王室の官能的美女との係わり、第四巻は認識に憑かれた少年と老人の対立が描かれている。構成は、20歳で死ぬ若者が、次の巻の主人公に輪廻転生してゆく』 (Wikipedia「豊饒の海」) 「貴族の世界を舞台にした」美しい青年の恋愛譚として始まり、青年の「輪廻転生」という「美的ロマン主義」に貫かれた物語として展開する「豊饒の海」は、しかし最終巻『天人五衰』において、それが「夢想」にすぎなかったという、残酷な現実を暗示して終る。 . 『天人五衰(てんにんのごすい)とは、仏教用語で、六道最高位の天界にいる天人が、長寿の末に迎える死の直前に現れる5つの兆しのこと。 大般涅槃経19においては、以下のものが「天人五衰」とされる、大の五衰と呼ばれるもの。これは仏典によって異なる。 1. 衣裳垢膩(えしょうこうじ):衣服が垢で油染みる 2. 頭上華萎(ずじょうかい):頭上の華鬘が萎える 3. 身体臭穢(しんたいしゅうわい):身体が汚れて臭い出す 4. 腋下汗出(えきげかんしゅつ):腋の下から汗が流れ出る 5. 不楽本座(ふらくほんざ):自分の席に戻るのを嫌がる』(Wikipedia「天人五衰」) 「選ばれた存在として、美の極みにあった天人」ですらも、最後は年老いて「醜く」なってしまう。 「豊饒の海」という物語もまた、この運命をたどるのだが、最終巻『天人五衰』の「入稿日に三島は、陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地で割腹自殺した」という事実は、いかにも、この時の三島の想いを暗示しているようではないか。 つまり、三島は「若く美しいままで、死にたかった」のではないだろうか。彼は、自身の「美しい姿」だけを、人々の記憶に留めたかったのではないだろうか。 もともと、勉強はできるが虚弱体質の「おぼっちゃん」であった三島は、しかし、文学者として名をなした後、ボディビルに凝ってムキムキのマッチョな体を見せびらかすようになった。 写真家・細江英公による、三島由紀夫を被写体とした裸体写真集『薔薇刑』の刊行はもとより、映画『からっ風野郎』に出演して『ヤクザの跡取りながらどこか弱さや優しさを持ったしがない男』を演じたり、映画『人斬り』で『迫真の切腹演技』をして見せたりしたのも、この「鍛え上げられた肉体美」があって上であった。(Wikipediaを参照した) しかし、そんな三島について、友人の中井英夫に興味深い証言がある。 『 自殺するとは思わなかった。というのは、やはりしばらく会っていないという不明のせいであろう。たとえば銀座を一緒に歩いていると、すれ違いざまに若い男が、「お、三島だぜ、殺してやろうーか」と無邪気な声をあげ、「殺されちゃたまらねぇや」と笑いとばす横顔とか、さる老大家の話になって、「オレもいまにこうなるぜ」と、ゲクゲクという形で首をふりながら真似をしてみせるのに、「さぞまあ始末に悪い、扱いにくい爺さんになるだろうよ」と笑い合った記憶しか持っていないので、本物の三島どおり、長寿を完うするものと信じていたからである。』 (「ケンタウルスの嘆き」より、『中井英夫全集 6』P241』 著名な老作家の真似をして、おどけて笑いを取ってみせた三島には、しかしこの時すでに「老い衰える」ことへの恐怖があったからこそ、彼はそれを「笑いとばそう」としたのではなかったろうか。 しかしまた、それが「笑いとばせない」ものだと覚悟した時、彼は「美しいままで死のう」としたのではないだろうか。 「過去の仕事」において、「大家」然として澄まし込んでいられるような、文壇の「老作家」になど、彼はなりたくなかったのであろう。彼にはそうした生が、「老醜」にしか見えなかったのであろう。だから「美しいままで死にたい」と願ったのだ。 しかし、それは人間の「生」というものの、その広がりや深さを見ず、あまりに表面的にとらえたものではなかったか。そして、彼はその文学と同様に、あまりにも一面的な「美」としての「美しい幻想」にとらわれ、それに殉じた「馬鹿」だったのではないだろうか。 三島由紀夫の見たもの。まさに「幻視した」ものは、しかし「夢想」でしかなかった。 それは、この世のものではないし、それに自身の生のすべてを賭けてしまうのは、「全共闘の若者たち」と大差のない「観念的で一面的な理想」に賭けることでしかなく、それはやはり「馬鹿」であり、健気な「愚か者」のすることなのだ。言い変えれば、どこか「弱い」人間のすることなのだ。 また、だからこそ、理想主義的な学生運動の果てに、「人間の生を軽んじた、観念的な理想主義的ロマン主義」の果てに、グロテスクな「総括殺人」などといったことが、ついに現出してしまったのではないだろうか。 たしかにこの世は「薄汚れている」だろう。それでも「つましくも美しく温かい生」がそこにはあって、それを知らないままに死ぬのは、やはり「見る目の弱い馬鹿」に違いないのである。 ○ ○ ○ 『人生も数学のように明晰ならどれほどいいだろうかと惟佐子は思い、いや、違う、いま自分が彷徨い込んだ迷宮は、むしろ数学的とも云うべき抽象原理に貫かれている点にこそ妖しさがあるのではないか、純粋に透明な結晶は眼に見えず、夾雑物の濁りが混じってはじめて眼に映るのではあるまいか、などと考えるうちにひょっこりと千代子が部屋に現れたのだった。』(P551〜552) 『「結婚式には、ぜひ呼んでくださいね」 「もちろんですわ」 千代子が血色のよい頬を輝かせて応じた瞬間、そうだ、少なくともそのときまでは自分はこの世界に留まるだろう、それがどれほど馬鹿げていようと、嗤うべき俗臭に満ちているにしても、ここにいるべきだ一一いや、いたいのだと惟佐子は思い直せば、寿子もまたこの世にいましばらくはあるべきだったのだとの、無念の思いが再び心の水面にぽかりと浮かび上がるのを覚えた。』(P563) 『自分が数学を好きな理由は、論理の美にあるのではなく、論理の力で構築された記号の高塔から、ひとつひとつが無限の広がりを有する天体の無数に存する宇宙を望みうることにあるのだと惟佐子はあらためて思い、自分がいま棲む数学の宇宙は、再び水の比喩にしたがうならば、ほんの小さな水溜まりにすぎぬことをこともまた実感した。』(P564) 『「寿子さんと結婚するようなことはお考えにならないならなかったの?」 云ったとたん、なんて俗な、土産物屋の店先でひなたに晒されている名産品みたいな質問なのだろうと惟佐子は呆れたが、いや、そこにはなにかしら厳粛な思想が孕まれてもいるのだと思い直して返事を待てば、椅子の士官の顔はどこか道化たような笑いの色に染まった。』(P578) 『蔵原がやたら発酵を礼賛していたのを思い出して、酢も発酵食品ではないかと指摘すると、蔵原は苦笑する顔になった。 「そうなんです。そこが僕の抱える絶対矛盾なんです」 蔵原の大げさな云い方が可笑しくて千代子が笑うと、矛盾というならばと、蔵原は軽い調子で続けた。』(P587) . これらは、物語の最終盤での「数学と結婚」に関わる描写だが、このそれぞれが象徴するのが「美的抽象世界と生活世界」という対象性であり、作者が後者に肩入れしているのは明らかであろう。 例えば、「決起」を目前に控えた「近衛士官」が、善意によって睡眠薬を一服盛られ、その結果、決起に「寝坊」してその野望を断たれ、あげく、彼と深いと契りを結んでいた部下に射たれて重傷を負うという展開は、いっそ滑稽であり、毒のある皮肉が利いている。 このように、この物語は、「美的抽象世界」に踏み迷ってしまった人々の見る世界を前半で描き、後半でその「迷妄」を暴いて、観念的な人々の目を醒させようとした作品だと言えるだろう。「たしかに、この世界は、俗で凡庸だけれど、それでもあなたが憧れる美的抽象世界の幻想よりも、もっと深い真実があるんじゃないだろうか」と、そう訴えているのではないだろうか。 だからこそ、「老い」を怖れ、「美的抽象世界」への逃避の果てに挫折して果てた三島由紀夫の遺作を踏まえて、本作はその「絶望的な自死」を、あえて批判的に引き受けてみせた作品なのではないか。「三島さん、あなたは馬鹿だ」と、哀悼の意を想いをこめて難じた作品だったのではないだろうか。 . 『「馬鹿なんです、マキ代は。きれいだし、スタイルもいいし、やさしいし。あんなに歌もうまいのに。でも、馬鹿だから、すぐ騙されて。」 緋色外套を着たままの女学生は、潤み光る眼で千代子をまっすぐ見つめた。』(P467) 奈緒美がこのように難じた親友のマキ代は、三島由紀夫に代表される「夢に溺れすぎる人たち」の「象徴」なのではないだろうか。そして、私たちはもっと、この「生活世界」の中にある「美」を、まっすぐに見つめるべきではないか。 本作が、そう語っているように、私には思えるのである。 . | ||||
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戦前史とくに陸軍の若手士官が暴走した事件や米国やソ連との関係も絡んで、戦前史ファンならば読み応えはあるだろう。元なるミステリーだけでなく、当時の時代背景も描かれており、なかなかの秀作である。 戦前史を知っている人にはより深く読めて面白いと思う。 2人の女性が交互に描かれ、事件の解決にそれぞれ進んでいく。方や華族出身かたや戦前では珍しい女性カメラマンの比較も面白く、女性カメラマンの相方の行動にはユーモアがある。2/3までは読み応え十分だが、残念ながら、最後の詰めが、甘い気がする。なので★4つ。 | ||||
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主人公の伯爵令嬢が男性を誘う手紙の「難波江の葦のかりねにつかまって・・」を読むまでは楽しめた ”つかまって”ってなに? 手紙を読んだ木島が、惟佐子がわざと拙い表現をしていると思った、つまりブリッ子していると感じた、というのだが・・・ 同じ華族階級で10歳も年上の男に対して可愛くみせる必要など無いと思われるし、描写されている主人公の性格を考えると”つかまって”という奇妙な表現など絶対しないと思う 変だなと思ったことがもう一つある 惟佐子の兄を紅玉院の清漣尼と引き合わせたのは誰か? 重要なことだと思うが、これがどこにも書かれていない 一度読み終えてなぜかモヤモヤが残り、後半だけを二度読んでこのことに気がつき 確かめるために三度読んだ 惟秀が伯父の白雉とヨーロッパで会った際に惟秀の双子の妹である清漣尼のことを聞いたのか? そうだとすると、父親の笹宮伯爵も双子で生まれた娘(惟佐子の姉)の存在を知らなかったのに、なぜ伯父は知っていたのか? 清漣尼をこっそり隠した笹宮伯爵の母親藤乃は、白雉の妹(惟秀、惟佐子の母)の姑であり、白雉は藤野が完璧に隠した惟秀の(双子の)妹の存在を知る立場にないと思われるのに、どのようにして伯父は清漣尼の存在と居場所を知ったのか? 清漣尼は伯父の白雉を知っているのだから、伯父が清漣尼の存在を探り出したのだろうが これに関する記述が全く無い それとも友人で部下の槇岡によって清漣尼と引き合わされたのか? 惟佐子が受け取った槇岡の手紙には、子供の頃から紅玉院へ出かけていた、と書かれていたから、それが真実だと 仮定すると(槇岡の手紙には後に明らかになる虚偽が書かれていた)槇岡の仲介だったことになるが・・・ 伯父の白雉と槇岡とルートは二つあったことも考えられるが、全く記述がないのはどうしてか? 惟佐子が2.26事件に巻き込まれ自身も家族も破滅するのを回避した方法は、これしかない!というもので 秀逸だが、重要な記述がスッポリ抜けてしまって何とも気抜けした ☆2つにしようかとも思ったが睡眠薬で惟秀を眠らせたアイディアに敬意を表して☆3つにした | ||||
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登場人物がそれぞれ訳ありで個性があり、2・26事件に向かっていることは想像できましたが、発想が柔軟で面白い組み立てでした。難しい言葉遣いが多く、たびたび辞書を引かざるを得なかったのは、文章に重さを出したかったからでしょうか。 | ||||
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