東京自叙伝
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全1件 1~1 1/1ページ
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東京に棲みつく地霊というキャラクターを借りて、東京における近現代史をひもといていく、 | ||||
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奥泉光さんの本です。 基本ルールとして、この本にでてくる人物たちは、それぞれリンクしています。 といっても、そのリンクの仕方が独特で、 「自意識」というものが、輪廻していくという意味で、リンクしているのです。 このリンクについては、作者は「地霊」だとか、いろいろと合理的な理屈をつけようとしつつ、でも、決定的な結論を述べることはありません。 とはいえ、我々の「自意識」や「アイデンティティ」というのは、実は共同幻想にも支えられている面もあるわけで、 その共同幻想がリンクしていく、という感じですね。 東京に巣くった「地霊」っぽい「自意識」というか、共同幻想が主人公の物語であります。 また、基本は人間ですが、ネズミやら猫やらにも自意識が輪廻していくことがあります。 登場人物たちは、東京になぜか強く惹かれているけど、でも憎んでもいたりして、 そういう人物が、明治、大正、昭和、平成と、それぞれの時代で、おのおのが歩んだ歴史を語る感じになっています。 ただ、やたらと歴史的事実に「実は、それは私がいっちょ噛みしてまして」「実は、これは私の発案で」的な自慢話っぽいのが、かなり挟まってくるので、「うぜえ」と感じるところであります。 また、東京に、原発を誘致しようとか、そういう話になったりして、さりげなく3・11の福島原発のことを語っています。 さらに、最後の方になると、地方都市も東京化しているため、登場人物たちが地方に発現したりして、 だんだんと意識が拡散していく感じも、なかなか面白く思いました。 最初は、かなりかちっと世界観を作り込んでいるのですが、最後の方には、その世界観が崩れていくというか、 お約束が平気で破られていく感じというか、 物語の疾速感というか、ドライブ感が、なかなか面白く思いました。 | ||||
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「純文学」と言う視点でどうなのかはわからないが、作者特有の饒舌な語り口で一気に読ませるエンタメ作。 これも「地霊」と言う視点で学術的にどうなのかはわからないが、実在した人物を含め地霊が実態化したものとして同一の私として語られる「東京」の自叙伝とは斬新で、タイトルでは全く予想も付かなかった。内容は現代史の実録ルポみたいなものではあるが、とても楽しく読ませてもらった。地霊であるから人間の道徳など無関係と言う免罪符を持ち、自分勝手に暴れ回る無責任ぶりは、ある意味痛快。 もともと太古から東京に存在し動物でもあった地霊が、福島原発事故を鼠として体験し、原発作業員となる最終章は、分量は乏しいが、東京が繁栄の影で実は滅んでしまうと言う、未来予言のような内容で、オリンピックが延期となった今読むと、暗示的で実に興味深い。ただ、エンタメ作としては尻切れトンボな感は否めないと思う。 | ||||
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こんな視点で書かれた小説は初体験でしたので、あえて説明しません。終わり方が良ければ★5にしたのに。 | ||||
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登場するのは6人の人物。1人1章で、明治維新から平成23年の東日本大震災までの歴史を語り継ぎます。といってもこの作家の場合、一筋縄ではいきません。 実は語り手である「私」は、東京の「地霊」。「地霊」が6人の登場人物に憑依(?)して、それぞれの半生を語るわけです。しかもこれ、Aさんが死んだら次はBさんへ憑依~みたいな輪廻転生・リレー方式ではなくて、Aさんである「私」とBさんである「私」が同時に存在するんだからややこしい。おまけにこの「地霊」、鼠やら猫やらカゲロウにだってなります。 この「私」なんですが、かなりテキトーで、利己的、人間的な温かみというものがほとんど感じられない。安易に感情移入できないヤカラなんですね。 「鳥類学者のファンタジア」あたりから作者のトレードマークとなった講談調の語り口は健在です。ユーモラスな語り口は、「桑潟幸一」など作者お得意の情けないけど憎めない中年男にどハマりだったんですが、本作では逆に、語り手の非人間性(「地霊」だから当たり前か)、得体の知れない不気味さを際立たせています。 圧巻は最終章。ラストを飾るにふさわしい荒れっぷり・壊れっぷりです。原発作業員の「郷原清士」は、福島原発事故に際し、「他の者がなんとか原子炉の暴走を押しとどめるべく懸命な努力を繰り返していた傍らで、むしろ一層の破滅を熱望しつつ、お祭り気分の有頂天で」(p.435)ではしゃいでいた。防護服も作業服も脱ぎ棄てて下着姿でいたところで捕まります。なんて不謹慎なんでしょうか。狂ってます。素敵です。 さらに郷原は、原発事故の結果廃墟となった東京を見出します。 「あれは個人が見た幻覚ではなく、いわば東京と云う街そのものが見た夢であり、東京が想起した記憶であり、その意味でリアルな東京の現実である」(p.457)。 薄皮一枚剥けばこういう世界が現実に起こっている、と言います。確かに非常にリアルで、暗い気持ちになります。しかしここで作者は、安易な希望を口にしたりはせず、さらに読者を突き放すのです。 「心配するとしたら、壊滅後の東京の行く末。しかし壊滅したからと云って東京の地がなくなるわけでもないから、これも全然心配は無用。(略)なにもかもが崩壊し、人間が去った後にも、廃墟には鼠が走り、放射性物質まみれの土中でミミズや蛆虫は蠢く」(p.458) そりゃ、人間に束の間憑依していただけの「地霊」からすれば、人間がどうなろうと、痛くも痒くもない。この非情さ。この作品は、安っぽいヒューマニズムを完全に放棄してます。 こんな世界は嫌だ。絶対に。でも、こんな風になった世界を見てみたい気もする。 普段は抑圧されている、破滅願望を刺激します。文学はかように危険なものなのです。 難があるとすれば、冗長に過ぎる面と、とくに陸軍将校「榊幸彦」と戦後日本で暗躍した「友成光宏」の章の記述が、参考文献の引用のようで、彼らが絡むリアリティが薄いこと。しかし、大事件を取り上げては、これも「私」がやった、あれも「私」がやった、と言い続ける「私」の語り口にはテキトーさ、胡散臭さが溢れており、語り手の「誠実さ」を無邪気に信じる読者を嘲笑っているのではないか、と言えば穿ちすぎでしょうか? | ||||
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東京の地霊、といっても、さまざまな語り手が近代以降のニッポンを奥泉流にさぁーっとおさらいしたみたいな感じ。 これじゃ、「地霊」が泣きます。 特に第4章以降は、つまりお話が現代に近づいてくるにつれ、語り口がどんどん冗長になってきて、退屈です。 一貫して流れている、テーマのようなもの、も陳腐。 それに、小説の終わらせ方が…ちょっと、これはヒドイんじゃないでしょうか。 ヒドイ、なんて言葉、これはもう感想にもなってないけど、やっぱりヒドイ。 地霊という言葉は広義にわたるけれど、本作では局所的なものではなく、 広範な大地の持つ一つの傾向を持った力、というくらいな意味で使われています。 そういった地霊に、近代以降の日本人論を込めているのはわかるのだけれど、 それがまた(繰り返しになりますが)陳腐で底が浅い―。 純文学の衰退って、単に読者の数が減って本が売れない、というんじゃないと思う。 本当は、インテリが今の純文を相手にしなくなったんじゃないの? | ||||
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