琥珀のまたたき
- 別荘 (163)
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静かに恐ろしく、優しいけど残酷。モヤモヤするのに小さな幸せもあったりして。 もう、やめよう、やめようと思いながら、読み切ってしまいました。 エネルギーを消耗する本ですが、素敵だと思います。 | ||||
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小川洋子の「琥珀のまたたき」を読んだあと、私はオートクチュールのような美しさを感じた。 オート(高級)クチュール(仕立服)はその名の通り「高級注文服」である。それは店頭に普通に並ぶ量産品とは異なり、顧客の注文に応じてあつらえる1点ものである。美しく繊細な極上の生地を贅沢に惜しみなく使い、刺繍やレースなど緻密な熟練の手仕事によって生命を吹き込まれたドレスはまさに特別・格別なものである。 芸術を身に纏うとはまさにオートクチュールを着ているその瞬間ではないだろうかと思う。 しかし、そのオートクチュールを身に纏った美しいモデルたちを雑誌やその他メディアを通して見るたび、庶民の私には全く別世界のように感じてしまう、見えてしまうのである。あそこは本当に同じ世界なのだろうかと、、、、繋がっているのだろうかと、、、 何が言いたいのかと言うと、小川洋子の「琥珀のまたたき」を読んでいる時の感触・感覚と本当によく似ているのだ。 フランスのパリのランウェイという場で、オートクチュールを身に纏った妖精のようなモデルたちを眺めるように見るのは誰もが美しいと感じるだろう。きっと息をのむ美しさに違いない。 しかし、場所を変え、、、、 もし日本の地方のスーパーマーケットでこのオートクチュールを纏い歩いている女性を見かけたら、、、、、?? どうだろう?? しかも、纏っている人物は妖精のようなモデルではなくごく普通の女性。 しかし、纏っている物は正真正銘の一流メゾンのオートクチュール。 どうであろう?? 人はその光景を見てため息がでるほどうっとりするほど美しいと瞬時に感じるだろうか? まずは異様さを感じるのではないだろうかか。 何か場違いのような戸惑いを感じ混乱するのではないだろうか。 纏っているものは間違いなく格別に美しいドレスにもかかわらず。 もしかすると人はそのアンバランスな状況に狂気を感じるのかもしれない。 私はそう思う時がある。 小川洋子のこの「琥珀のまたたき」という小説は、異様で狂気すら感じる光景一つひとつを実に丁寧に手間をかけて紡ぐかのようにして描いている。それはまさにオートクチュールの手仕事の素晴らしさに値する。作家は緻密な作業を繰り返すことで異界ではあるが一つの美しい世界を小説の中に見事に存在させている。 ただし、決して忘れてはいけないこと注意しなければならないことがある。 その美しい世界は実に脆く虚弱であるということを決して忘れてはならない。 それは均衡のとれていない美しさなのである。まさにアンバランス。 それ故に、脆い。 オートクチュールのドレス同様「取扱注意」である。 「Fragile!!」 また「美しさ」について少し触れ、説明しておきたい。 何を美しいと感じるかは人それぞれであり、「美しい」・「美しくはない」どちらの判断をするかはもちろん個人の自由である。 均衡のとれていない、アンバランスな様を美しいと思う人間はもちろんこの世にはいる。 しかし、大抵の人間は均衡のとれている様に美しさを感じることが多い。 バランスよく保たれている様を人は好むのだ。 まあ、個人の好みはどうでもいいことで、他人がどうこう言うとではない。 ただ、この小説を読むうえで大切なことは、2つあるということをまず認識することだ。 美しさにも、均衡のとれている美しさと、均衡のとれていない美しさ、2通りあるように、 2通り、2パターン、2世界、とにかく2つ存在させているということをきちんと認識することが重要となる。そして作家はその2つを対極・真逆・反対という位置に隔たるようにして存在させ、繋がりを持たせようとしている。その繋がりは道というより細く頼りない線のような糸であるかもしれない、しかし、その糸を切らすことなく紐解いていくことを私たち読者に求めている、私はそう思う。 そのことを理解すると、この小説は極上のミステリー小説のような喜びも与えてくれる。 それは、トリックやからくりを発見するかのような喜びだ。 魅力的な面白い物語は、読者に「矛盾」という一つの問いのようなものを導きださせる。「矛盾」を見つけ出し考え、自分なりの納得する一つの答えを導くことが読書の最大の喜びである、と私は考える。 もちろん「矛盾」を見つけるにも、まず「矛」となる「盾」となる2つの事柄・2つの命題を見つけ出すことが当然必要となる。そして、なぜそれが矛盾しているのか、作家はどのような意図をもってその矛盾を描いているのか、読み手はそれを紐解くかのように、あるいは薄皮をゆっくり丁寧に剥ぐかのようにして導く。 そのようにして導きだしたものは「真実」と呼べるかもしれない。しかし「真実」がみんなと同じように見えるとは限らない。導き方は様々だし、その「真実」を美しいとするかは、個人の自由であるからだ。また「真実」=「人間としての正しさ」とならないことだってもちろんあるはずだ。 矛盾を感じずに生きていくことは人間に可能だろうか。 矛盾を感じない、矛盾がない世界、それは死んでいるにことに等しいように私は思う。 私たちは読書を通して矛盾を感じ、その感触・感覚を通してその自分という人間の存在を再確認することはないだろうか。 小説の中に出てくる人物を通して、小説の中で矛盾を感じている人物を通して、私たちは「矛盾」と対峙する。夢と現実を対峙させるように。 そのような読書体験で人間は自分が生きていると実感することはないだろうか。 やはり、説明は難しい。上手く説明できない。 だから、この小説の3兄弟たちが行っている楽しい遊びの場面を例として挙げたい。 それは「事情ごっこ」の場面である。 「事情ごっこ」とは、小説の中で3兄弟が新たに作った遊びで、まず2つの言葉を使って自由にある状況を作り上げ、その後その状況についてそこにどんな事情があるのかを説明するゲームのことである。 要は、きちんとつじつまを合わせるのである。 聞き手も話し手も納得ができるように。 そこが最も重要となる。 以下は小説から抜粋させて頂く。 (とても短いやりとりの抜粋だが、細かい部分は実際に小説を読んでこの手間と時間がかかる遊びを是非一緒に楽しんで欲しい。) 「事情って、何?」 瑪瑙はオリンピックごっこより多少入り組んだ、新しい遊びの仕組みをつかみかねていた。 「どんな出来事も、理由なく起こるわけではないの。そこにはちゃんとした顛末があるということ」 オパールが説明した。 「訳が分からない、と思うところに隠された訳を発見するんだ」 琥珀はそう付け加えた。 この短いやりとりから、私は子どもたちが「事情ごっこ」を通して自分たちの置かれた状況と向かい合おうと、また向かい合うことで何かを超えようとしているように感じた。 またそれは未来を模索し今の現実とどうにか繋ぎ合わせようとしている姿にも思えた。 小説の中の子どもたちは何の反抗もせず母親から言われたことを忠実に守り、母親の築いた世界に従って生きている。しかし、閉ざされたその世界の中で、子どもたちは母親よりも物事をずっと冷静に捉え、考えようとしている。 「事情ごっこ」はその表れと言えるのではないだろうか。 異界を生み作ったのは母親であるが、それはまた父親の責任である。母親が封じ込めた、その閉ざされた世界で、子どもたちは父親の作った百科事典をテキストのようにして読み漁る。読み漁り、生きるための餌を探し求めるかのように、子どもたちは深い海に潜り込む。そして、自分という人間の中にある一つの水源のような場所を発見する。そこは水源から湧き出る清らかな水のように、豊かな想像力が溢れだす場所だ。 その溢れ出る想像力を生かして、独自の遊び「事情ごっこ」を創り出す。独自の遊びではあるが、そこで子どもたちは二つの言葉をピックアップするという一つのルールをきちんと定める。そして、ルールに従い二つの言葉・対象をきちんと対峙させ、繋ぎ合わせていく。 その作業は、時間と手間がかかる。想像と思考の繰り返しの作業だからだ。 そして最も重要な大切なことはその遊びは一人では成立しないことである。 自分以外の他者がいて成り立つのである。 話し手と聞き手が存在するのだ。子どもたちはどちらの役も交代して行う。 どれほど理屈に合わない無理矢理な状況でも、話し手は聞き手に自分の存在を知らせるかのように事情を披露する。また聞き手はどんな事情であろうとも最期まで相手の語る事情に黙って耳を傾ける。 子どもたちは事情ごっこという遊びを通して、自分の物語を作り、自分の人生を模索し始める。物語を作るのには二つの要素が必要であること、また一人では物語は成り立たないということを、事情ごっこを通して理解し始める。 いつでも、子どもは遊びを通して、大きく成長するものだ。 どれほど理屈にあわない状況でも、想像と思考を繰り返し、どうにかつじつまを合わせていくことを話し手の立場から理解し、またその導き方は様々であることを聞き手の立場から理解する。 現実、世の中は理屈の合わない、矛盾で溢れかえっている。 しかし、子どもたちはその「矛盾」ばかりの本当の世界を知ろうと、近づこうとあるいは受け入れようとしているのではないか。 矛盾のある世界は確かに危険を伴う、けれどその危険のある世界を選択することも人間は可能なはずだ。生きていくことを選択するならば、想像と思考を繰り返し危険な世界を生き抜いていかなければならない。 その後の物語の結末は小説を読めば分かるので、ラストについては触れないことにする。 紐解くように、糸を切らすことなく、、、、 それが読者に求められているのならば、小説という架空の世界ではあるが私はその世界に入り込む。そして、糸を繋ぎたい、また編み込んで少しずつその糸を強化していきたい。 母親の友達、職場の同僚として物語に登場して、二つの世界を繋ぐ役を果たしたい。 この小説の中で二つの世界を繋ぐものは、ツルハシをはじめとする道具、また動物のロバや子猫である。ジョーという人物も途中から現れるがジョーは母親と会うことはなく、娘のオパールを救う人物である。 だから、私は母親を助ける人物として登場したいのだ。 二つの世界を繋ぐものが道具ではなく、また動物だけでなく言葉を交わせる人間であるならば、何かが変わったのではないか。 現実的な美しさとは、それは人との繋がり、大切な人と出会うことであると私は信じている。また実用的にその大切な人の役に立てるならば、それはなお光栄なことではないだろうか。 この小説の中で最も私が好きな部分は、オパールが「事情ごっこ」で披露するクレオパトラ 小母さんの事情物語だ。クラシック音楽の最も好きな部分を繰り返し聴くかのように、この物語に繰り返し耳を傾ける。それはまさに圧巻である。 大きな拍手を届けたい。「矛盾」という一つの壁を越えたであろうオパールがジョーと二人でしっかりと人生を歩んでいることを心から願って。また新たな壁が立ちはだかっても、想像と思考を繰り返し、本当の世界で本当の名前で羽ばたいて欲しい。 「ジョーだけの扉」とオパールがそう言ったその小さな扉を見つけたジョーならば壁を超える、いや通り抜けることがきっとできるはず。 最後になったが、この小説の中で私が伏線と捉えた部分を抜粋する。 オパールが勤務表を持ち出してジョーと交わす約束の矛盾に、琥珀は最初から気づいていた。 | ||||
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小川さんの独特の雰囲気は味わうことができます。 ただ、これまで読んだ作品と比べると感情移入が弱いというか、物語の世界観に素直に浸れなかったです。理由はわかりませんが、、、 ママの嘘を知っていた姉、まだ分別のつなかい弟、その中間でママに従順な主人公、監禁された時の年齢の違いから、それぞれバラバラの人生に歩むことになるところが切ないです。幸せな生活って一体どういうものだろう、そんな印象が残りました。 | ||||
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医者によると、妹の死因は肺炎。 母親はそれを受け入れなかった。 普通に考えて野良犬に舐められて肺炎で死ぬのはおかしい。 オパールの昔の記憶で、家族みんなでデパートに行った→母が末妹を警備員に差し出した→オパール『魔犬ではない。4人のうち末妹を選んで差し出したのは母親だ』 妹は警備員に強〇され、梅毒になって死んだのではないかと思いました。あくまで考察です。 梅毒の症状で、全身に発疹(母が魔犬に舐められた、紋様と言っていたもの)と発熱(作中での症状)、肺炎(作中での死因)があります。 妹が発症する前に、たまたま犬に舐められたので、母親は魔犬のせいだ、と思い込んでいる(この時点で狂ってる)又は自分の娘の身体を売った現実から逃避している デパートの展覧会に入りたいがために嘘までついて物心ついていない末妹を差し出した…? 妹の謎の死、これが一番辻褄合うんじゃないんでしょうか。 ひとつ言えることは、母親は精神を病む前からヤバかった。 | ||||
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猟奇的で刹那的で読むのにすごい神経的に疲れた、読み終わってホッとした。小川洋子さんの本っていつもドキドキする。 | ||||
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