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東京自叙伝
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東京自叙伝の評価:
書評・レビュー点数毎のグラフです | 平均点3.68pt |
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Amazonサイトに投稿されている書評・レビュー一覧です
※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
未読の方はご注意ください
全28件 1~20 1/2ページ
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奥泉光さんの本です。 基本ルールとして、この本にでてくる人物たちは、それぞれリンクしています。 といっても、そのリンクの仕方が独特で、 「自意識」というものが、輪廻していくという意味で、リンクしているのです。 このリンクについては、作者は「地霊」だとか、いろいろと合理的な理屈をつけようとしつつ、でも、決定的な結論を述べることはありません。 とはいえ、我々の「自意識」や「アイデンティティ」というのは、実は共同幻想にも支えられている面もあるわけで、 その共同幻想がリンクしていく、という感じですね。 東京に巣くった「地霊」っぽい「自意識」というか、共同幻想が主人公の物語であります。 また、基本は人間ですが、ネズミやら猫やらにも自意識が輪廻していくことがあります。 登場人物たちは、東京になぜか強く惹かれているけど、でも憎んでもいたりして、 そういう人物が、明治、大正、昭和、平成と、それぞれの時代で、おのおのが歩んだ歴史を語る感じになっています。 ただ、やたらと歴史的事実に「実は、それは私がいっちょ噛みしてまして」「実は、これは私の発案で」的な自慢話っぽいのが、かなり挟まってくるので、「うぜえ」と感じるところであります。 また、東京に、原発を誘致しようとか、そういう話になったりして、さりげなく3・11の福島原発のことを語っています。 さらに、最後の方になると、地方都市も東京化しているため、登場人物たちが地方に発現したりして、 だんだんと意識が拡散していく感じも、なかなか面白く思いました。 最初は、かなりかちっと世界観を作り込んでいるのですが、最後の方には、その世界観が崩れていくというか、 お約束が平気で破られていく感じというか、 物語の疾速感というか、ドライブ感が、なかなか面白く思いました。 | ||||
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「純文学」と言う視点でどうなのかはわからないが、作者特有の饒舌な語り口で一気に読ませるエンタメ作。 これも「地霊」と言う視点で学術的にどうなのかはわからないが、実在した人物を含め地霊が実態化したものとして同一の私として語られる「東京」の自叙伝とは斬新で、タイトルでは全く予想も付かなかった。内容は現代史の実録ルポみたいなものではあるが、とても楽しく読ませてもらった。地霊であるから人間の道徳など無関係と言う免罪符を持ち、自分勝手に暴れ回る無責任ぶりは、ある意味痛快。 もともと太古から東京に存在し動物でもあった地霊が、福島原発事故を鼠として体験し、原発作業員となる最終章は、分量は乏しいが、東京が繁栄の影で実は滅んでしまうと言う、未来予言のような内容で、オリンピックが延期となった今読むと、暗示的で実に興味深い。ただ、エンタメ作としては尻切れトンボな感は否めないと思う。 | ||||
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こんな視点で書かれた小説は初体験でしたので、あえて説明しません。終わり方が良ければ★5にしたのに。 | ||||
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登場するのは6人の人物。1人1章で、明治維新から平成23年の東日本大震災までの歴史を語り継ぎます。といってもこの作家の場合、一筋縄ではいきません。 実は語り手である「私」は、東京の「地霊」。「地霊」が6人の登場人物に憑依(?)して、それぞれの半生を語るわけです。しかもこれ、Aさんが死んだら次はBさんへ憑依~みたいな輪廻転生・リレー方式ではなくて、Aさんである「私」とBさんである「私」が同時に存在するんだからややこしい。おまけにこの「地霊」、鼠やら猫やらカゲロウにだってなります。 この「私」なんですが、かなりテキトーで、利己的、人間的な温かみというものがほとんど感じられない。安易に感情移入できないヤカラなんですね。 「鳥類学者のファンタジア」あたりから作者のトレードマークとなった講談調の語り口は健在です。ユーモラスな語り口は、「桑潟幸一」など作者お得意の情けないけど憎めない中年男にどハマりだったんですが、本作では逆に、語り手の非人間性(「地霊」だから当たり前か)、得体の知れない不気味さを際立たせています。 圧巻は最終章。ラストを飾るにふさわしい荒れっぷり・壊れっぷりです。原発作業員の「郷原清士」は、福島原発事故に際し、「他の者がなんとか原子炉の暴走を押しとどめるべく懸命な努力を繰り返していた傍らで、むしろ一層の破滅を熱望しつつ、お祭り気分の有頂天で」(p.435)ではしゃいでいた。防護服も作業服も脱ぎ棄てて下着姿でいたところで捕まります。なんて不謹慎なんでしょうか。狂ってます。素敵です。 さらに郷原は、原発事故の結果廃墟となった東京を見出します。 「あれは個人が見た幻覚ではなく、いわば東京と云う街そのものが見た夢であり、東京が想起した記憶であり、その意味でリアルな東京の現実である」(p.457)。 薄皮一枚剥けばこういう世界が現実に起こっている、と言います。確かに非常にリアルで、暗い気持ちになります。しかしここで作者は、安易な希望を口にしたりはせず、さらに読者を突き放すのです。 「心配するとしたら、壊滅後の東京の行く末。しかし壊滅したからと云って東京の地がなくなるわけでもないから、これも全然心配は無用。(略)なにもかもが崩壊し、人間が去った後にも、廃墟には鼠が走り、放射性物質まみれの土中でミミズや蛆虫は蠢く」(p.458) そりゃ、人間に束の間憑依していただけの「地霊」からすれば、人間がどうなろうと、痛くも痒くもない。この非情さ。この作品は、安っぽいヒューマニズムを完全に放棄してます。 こんな世界は嫌だ。絶対に。でも、こんな風になった世界を見てみたい気もする。 普段は抑圧されている、破滅願望を刺激します。文学はかように危険なものなのです。 難があるとすれば、冗長に過ぎる面と、とくに陸軍将校「榊幸彦」と戦後日本で暗躍した「友成光宏」の章の記述が、参考文献の引用のようで、彼らが絡むリアリティが薄いこと。しかし、大事件を取り上げては、これも「私」がやった、あれも「私」がやった、と言い続ける「私」の語り口にはテキトーさ、胡散臭さが溢れており、語り手の「誠実さ」を無邪気に信じる読者を嘲笑っているのではないか、と言えば穿ちすぎでしょうか? | ||||
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東京の地霊、といっても、さまざまな語り手が近代以降のニッポンを奥泉流にさぁーっとおさらいしたみたいな感じ。 これじゃ、「地霊」が泣きます。 特に第4章以降は、つまりお話が現代に近づいてくるにつれ、語り口がどんどん冗長になってきて、退屈です。 一貫して流れている、テーマのようなもの、も陳腐。 それに、小説の終わらせ方が…ちょっと、これはヒドイんじゃないでしょうか。 ヒドイ、なんて言葉、これはもう感想にもなってないけど、やっぱりヒドイ。 地霊という言葉は広義にわたるけれど、本作では局所的なものではなく、 広範な大地の持つ一つの傾向を持った力、というくらいな意味で使われています。 そういった地霊に、近代以降の日本人論を込めているのはわかるのだけれど、 それがまた(繰り返しになりますが)陳腐で底が浅い―。 純文学の衰退って、単に読者の数が減って本が売れない、というんじゃないと思う。 本当は、インテリが今の純文を相手にしなくなったんじゃないの? | ||||
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ほかの方のレビューにもありましたが一気に読めます。 確かに後半は拡散しすぎて焦点がぼけた感はありますが、大変おもしろい視点で書き進められています。 | ||||
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良くできた話と思いますが、すごく面白いかというと、どうでしょう? 特に、各時代のエピソードを交錯させた箇所で「因縁だ」「奇遇だ」とやられても、所詮小説という著者の作り話なんだからなぁ・・・と、どんどん興醒めに…。 ただ、巻末の参考文献は色々面白そうな本が載っていて、読んでみたくさせました笑 | ||||
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谷崎賞受賞作だが、実にくだらん。最近の疑似純文学の流れの必然的帰結。『氷川清話』みたいな語り口で、生まれ変わり死に変わりして語っているというが単に日本近代史を語っているだけ。最初に想像した通りの展開で、どこまで読んでも、おお、そう来るか、というのがなくて、奥泉だなあ、という感だけが延々と続く。『帝都物語』と「豊穣の海」をこき混ぜたみたいなもの。天皇にも触れるがおそるおそるって感じで、浅沼刺殺事件は出てきても「風流夢譚」事件は出てこないというヘタレぶり。『すばる』じゃあしょうがねえが、奥泉ってこういう手でずっとだまくらかしてやってきたんだよなあ。きっちり調べて娯楽小説のいいのを書いてる作家はもっと怒るべし。 | ||||
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東京に居たので、過去の東京・現在の東京の様子がわかり懐かしく読みました。 今度の東京オリンピックを目標に元気で過ごしたいと思います。 | ||||
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ここまでやれば文句はない! 次回作品が、待たれます。純文学だよね! | ||||
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6人の主人公がでてくる連作小説。 これがまあ、読んでいて笑っちゃうようなイヤな奴ばかり。姑息、卑怯、手前勝手、無責任…小汚い悪徳にまみれた6人の主人公が、明治維新から3・11大震災までの各時代を生きているさまを、ひとり語りする。とぼけた、独特の小狡さを感じさせる語り口なんだけど、読むのをやめられない。作家の芸です。 実はこの6人は、東京の地霊が憑依したものたちで、いわば同一人物の転生ともいえる、という設定。「東京自叙伝」というタイトルは、そこからきている。 第1章は柿崎幸緒(さちお)という旧幕臣が主人公。上野寛永寺にたてこもり、脱走者を成敗するほどの熱烈な反官軍なのに、勝ち目がないとみるとスイと転身して新政府の役人に。 第2章は榊春彦という陸軍参謀。ノモンハン事件など、無能・無責任な作戦に狂奔して多大な犠牲者をだしてもテンとして恥じることなく、「つまり勝てる戦争じゃなかったわけです」と口をぬぐい、日本人の島国根性なるものに責任転嫁する。もう、小説の主人公としてだってむかつくようなイヤなやつです。 しかし、小説としては、この2章までがバツグンに面白い。 第3章からは戦後で、焼跡・闇市の愚連隊・暴力団、曾根大吾。第4章、右翼フィクサーの参謀で「原子力の平和利用」の仕掛け人、友成光弘。第5章、バブルに踊るディスコの女王、やがてギャンブルに狂い、保険金殺人に走る女、戸部みどり。第6章、派遣の原発ジプシー、3・11の福島原発事故に遭遇する郷原聖士(きよし)。 各時代の「典型的東京っ子」を、こういう人物像に仮託したわけです。 しかし、残念なことに、だんだんパワーダウンしてやや退屈と感じ始めます。評者が生きてきた時代だから新味を感じないせいかもしれない。それぞれの時代相を浮かび上がらせようとして、あれもこれもてんこ盛りにする書き方に食傷したようにも感じる。 最終章は、暗鬱です。福島原発事故現場と東京が重ね合わせられ、薄皮一枚を剥ぎとればメルトダウンし収拾不可となった事故現場そのものが東京だという暗喩。 放射能を浴びて喜び興奮するネズミたち、富士山噴火、終末の絵図が描かれます。 「なるようにしかならぬ」ー主調音のように響くことば。成り行きにまかせ、滅びるまで流される。それが東京であり、東京っ子でしょという批評でもある。 ウーム。希望なさすぎ。わたしにとってはホームラン性の大ファールという作品でした。 | ||||
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これ以上ないというくらいの痛烈な批判。圧巻。2014年のベストでした。 | ||||
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日本人の持つ危うさを見事に描ききっている。 小説の形はとっているが、日本人について、もしくは、東京について、深い考察が見える。 東京の地霊としての「私」。 鼠がキーポイントといえるか。 小説という事で、著者は、自由に、日本人を、東京を捉え書くことができている。 いわゆる東京で起きてきた事々を、揶揄するような、描き方が面白かった。 拡張していく東京、現代に近づくにつれ、膨張し、勝手に増殖していく。 果ては制御を自分自身できなくなっていく様は圧倒的で、緊張を強いられた。 江戸なのか、東京なのか、それとも、日本そのものなのか。 | ||||
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縄文時代に野川に棲み、平将門でもあり、数々の大地震や富士山噴火を経験し、八百屋お七として火をつけた"東京の地霊"の自叙伝。総体として、東京に生きる鼠や猫でもあり、ずるくて、調子のいい、破滅的な特定の人だったり、クウキと一体化するゾンビのような大勢だったり、メディアを使って、時代の勢いを参謀として煽り、「東京が世界を支配する」と、陸軍叛乱未遂/ノモンハン事件/東南アジア侵略/日米開戦/ガダルカナル玉砕/インパール作戦を企画し、戦後は暴力団/政商/宗教団体の形で、TVの普及/原発導入/岸内閣打倒デモに暗躍。再び「東京が世界を支配する」とバブルに酔って、ジュリアナ東京で集団動物のように踊り狂い、新宿の雑居ビルに火をつけ、秋葉原などで無差別殺人をし、派遣労働者として福一で被爆します。 丸山眞男さんが日本の古層/執拗低音として見つけた「なる」/「いきほい」と、加藤周一さんが日本の伝統文化から見つけた「今・ここ」/「大勢順応主義(conformism)」とを小説にすると、この小説のようになるのではないでしょうか? 短い歯切れの良い文章に惹き込まれながら、日本の(原始的/無責任)ファシズムの伝統/歴史を、"日本の神様"の視点で見られる斬新/秀逸な本だと思います。 | ||||
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それほど多くない読者を、内輪のウケねらいだけでお手軽に、しかし、「大作に見せかけるべく」長々と書き、厚い本にしているのは、高橋源一郎と同じ「純文学作法」である。私も、「地霊」には関心があったので、その地霊に東京の歴史を語らせると、なにかの解説にあったので、本書をすぐ求めて読んだ。確信犯的な、語りは相変わらずであるが、レビュアーのどなたかも書いていたとおり、題名と内容との齟齬に苦笑い。 だいたい、地霊と言いながら、人物だの、動物だの、「語り手」=「視点」をどんどん変えて、空疎なおしゃべりを連ねているだけ。エンターテインメント系の新人賞なら1次も通らないのでは(笑)? こんなにお手軽に長編小説ができてしまうのか、の見本である。しかも、ちょっと内容があるみたいにするために「3.11」に絡めたりするのも、まったく確信犯的。 参考文献を見ると、「地霊」について、きわめて示唆的な本、鈴木博之著『東京の地霊』が抜けていた。本作を見るかぎり、読んだ形跡はない。そもそも地霊の概念とは、英国十八世紀のものらしい。ラテン語では、Genius loki(ゲニウス・ロキ)。この概念を踏まえつつ、東京という土地の歴史的、政治的「変遷」を、「具体的に」表出した『東京の地霊』は、静かな衝撃を読者に与えずにはおかない。真に地霊を語るにふさわしいものとなっている。たとえフィクションでも、なんらかの意味で、『東京の地霊』を意識し得なかったら、それは著者の勉強不足であろう。 谷崎賞を与えられた『東京自叙伝』であるが、いまの日本の純文学界は、選考委員の方も大したことないので、なんの意味があるのかわからない。読者は正直だから、そう売れてない(Amazonレビュー数がそう多くないにもひとつの目安)ようなのを見ると、お金を払う価値はないのだろう。 ****** 追記。 荒俣宏の『江戸の幽明』という本が出たが、ものすごく詳細で、これを見ているだけで、「地霊」いうものが浮かび上がってくるような気がします。こういう本に比べたら、『東京自叙伝』など、「東京」でも「歴史」でも、なんでもない、冗長なおしゃべりに過ぎません。水増し、上げ底、ご注意! | ||||
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期待していたものとは異なる内容。「東京」という新開地は京都や浪速、大阪とは異なり少なくとも1000年の歴史はなく、従って「地霊」もせいぜい将門以来であり、関西に舞台があれば、パリを舞台とした既存の他作家の作品と同様、もう少し内容が豊かになったのではと思われる。 「東京」を取り上げた作品であり、東京人の一人としては必死に拝読したが、期待はずれであった。 | ||||
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語り手は東京の地霊そのものであり、一時的にその宿主となった六人が、 幕末維新から311に至るまでの東京の歴史を語るという、今までにおそらく 誰も思いつかなかった構想の大きさは見事だし、敗戦やバブル崩壊、震災 などの有為転変を経ても、「なるようになるさ」と嘯くだけで無反省に続いて 行くかに見える、近現代日本へのそれなりに鋭い批評にもなっている。 この作者の本来の持ちネタである、講談調にツルツル流れて行く文体も、 今回は題材にうまくはまっているように感じられるが、贅沢を言うならば、 全編をこの文体で押し通すのはやや一本調子で、とくに五人目の戸部に なると、バブル期の女性がこの文体で語るのには、若干の不自然さを感じた。 もちろん、語り手は煎じ詰めれば地霊一人なわけだが、講談調の文体は 特定の時代に由来するものである以上、本来なら、時代の変化につれて 文体も少しずつ変えるべきだったろう。 また、普通なら六人を順番に輪廻転生させようと考えそうなところ、複数の 「私」が同時に生きていて互いに殺意を抱いたり、その合間に鼠その他の 生物であった記憶を思い出したりするという設定はなかなかユニークだが、 ラストに至って、Kをはじめとする通り魔殺人事件の犯人は全員自分であり、 果ては東京人のすべてが我なり、と断言するところまで来ると、さすがに 強引に決着をつけようとし過ぎているような気もしないではなかった。 | ||||
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東京の地霊をもって幕末からの歴史を語らせるという発想は面白いし、戦後70年を前に戦後史を手軽に振り返るという意味で読者を広げているのも分かる。文体は勝海舟「氷川清話」、福沢諭吉「福翁自伝」の下手なぱくり。あれは聞き書きだから虚実取り混ぜにようなおもしろみが出たのであって、一人語りにすると自慢話の羅列みたいではなはだ読み苦しい。地霊をもって…というのも荒俣宏の「帝都物語」(これは怨霊だけど)に似たようなものがあるのだから、主人公の生まれ変わりというような安易なつなぎ方ではちょっと白々しい。ここまで何でもかんでも主人公のやらかしたことだとするなら思い切ってもう少し大風呂敷を広げた方がよかったのでは。日本の近代史を読みやすい文体で振り返るというお手軽な意味で読者が喜ぶのは理解できるが、作者の実力を考えると「俗情との結託」でしょ。まあまともな小説が評価されず、売れない現状にいらだつのはわかりますが…。 | ||||
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とても評判になっている作品ですから、手に取ってみたの出すが、いまいちよく理解 できません。再読してみようと思っています。 | ||||
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「私」がそこらに遍在する、こういう手があったのかと作家の着想にびっくり。 東京の地霊を装っているけど、端的に言えば日本そのものの自画像なんですね。 長いもの(権力)に巻かれ、なるようにしかならぬ、建国以来の庶民の生き方です。 全体を読まず部分的に切り取れば、あらゆる方面から矢が飛んできておかしくない。 右からも、左からも、匿名クレーマーからも、「オレを茶化しやがったな!」って。 だって鼠だもの、エンタテインメントなんだよ、今は風流夢譚の時代じゃないよ。 ユーモアがわからないの?って言ったって、それが分かるなら矢を放たないし。 先日ラジオで作家のフルートを聴きました。 ちょっとウディ・アレンと重なりました。 民主主義陣営のはずの現代日本で、言論が一色に統制される前に(もうそこまできている)、この作品のことをみんなに知ってほしい。 | ||||
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