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東京自叙伝
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東京自叙伝の評価:
書評・レビュー点数毎のグラフです | 平均点3.68pt |
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Amazonサイトに投稿されている書評・レビュー一覧です
※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
未読の方はご注意ください
全28件 21~28 2/2ページ
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芥川賞受賞「石の来歴」でも感じましたが、基本的に大変に饒舌な文体の作家さんです。自分のテンポに読者を引きずり込んでいく、テクニックは正にプロの作家であると感心したものです。 この大作も、著者の面目躍如といった感じの奇想天外なお話が続き、あっという間に読ませてくれます。日本史の流れの中を、東京という土地に住む(?)地霊が虚実取り混ぜて渡り歩くという着眼点がすごいです。それも、妙に説得力にあふれているから、不思議。「え、ほんとう?」なんて思わず独りごちたりして・・・・・。 この夏お勧めの1冊ですね。 ただ、個人的には文末の敬体と常体の混在は、最後までなじめませんでした(これは、私の仕事の影響もあるかも、ですが・・・・)。 | ||||
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以前奥泉光氏の本を読んだことがありますが、次から次に読み進み、飽きませんでした。この『東京自叙伝』も、最後まで読み進みました。後半になって次第に意味不明な迷路に入っていきますが、前半の物語をしっかり読んでいると、何事にもうなずけます。なるようにしかならない。という言葉が出てきますが、戦中戦後の世相のありさまなど、興味が尽きない語り物でした。 | ||||
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「どちらにしたところで東京は、と申しますか、日本はいずれ天変地異とともに滅び去るわけだから、あまり深刻に考えても仕方がありません。」(第四章、245ページより) 奥泉光といえばなんといっても冴え渡るのは流麗なる筆致と眩惑するようなメタフィクションの構造。しかし作中で惑うのはあくまで登場人物(=個人)であり、ともすれば顕微鏡で拡大された自意識のようなものじゃないか――そんな誹りを受ければ成る程仰る通りなわけで、スケールという点で見れば幾分見劣りするじゃん、というのが一般の評価かもしれない。まあ、クワコーシリーズだけで評価されれば「なんだ胡乱な、なんちゃってミステリーか」と判断されるかもしれないが。 しかし本作の主人公は東京という地霊(のようなもの)であり、遡るは縄文弥生、大陸が大和と呼ばれていた頃にまで遡る『東京』の一代自叙伝だ。 地霊がついた人間は要領がよく即物的で、驚きのスピードで悪行に手を染める。そしてその結果知り合いが死んだとしてもまったく心を痛めず、「マア、そういう運命だったんでしょう」「その方が世の中のためになったのです」などと嘯き、平気の平左で夜遊びに繰り出したりする。さながら試練と必然性のないピカレスクロマンのようでもあり、テンポよく悪事と成功、立身出世を繰り返していく。だがそれも混乱と闘争の世だから許されたことであり、つまり平和と錯綜の21世紀では……とまあ、時代時代の事件の連続、まるで日本の近代史の総決算のようで、読書中はただひたすらにオモシロイ。幸福な時間が続くことだろう。 鼠、漱石、軍国主義、天皇、竹槍、ゲイ、などなど過去の作品でも使われてきた単語や知識が、今作の中でもちらほらと散見される。しかしメインではない、あくまで添え物のパセリみたいなものだ。この作品は総合小説であり、メタフィクション小説でもあるが、今回そのターゲットなっているのは我々読者だ。奥泉光は隙あらば我々を鼠人間にしようとしている――というか、読み終えてから、「自分、ネズミ人間じゃないッス。真人間ッス!」と胸を張って宣言できる人間がどれだけいるだろう? 彼、東京はところどころでこう宣言している。「歴史には残っちゃいませんけど、それは私です」と。なるほど東京、というか日本という国家は「なるようにしかならない」の思想とともに発展してきたのかもしれない。 本書の最後は、彼の抗弁、というよりか予言で終わっている。もし「なるようにしかならない」が蔓延し続ければ、『東京』の読みどおり、最後にはネズミが踊り狂う世の中が待っているかもしれない。それが笑い飛ばせない、不気味なリアリティを持っているのだから、まったく奥泉光は恐ろしい。自分の知る範囲じゃ2014年で出た中で一番の、鳥肌ものの小説です。 | ||||
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第一章から不思議な世界に自然と入り込んでしまう面白い小説。 自分の前世が人間以外の生き物だったのではないかと思ったことが有る人は多く居ると思うが、そういうことではなくて「私」が東京の自霊で様々な生き物に取り憑くというか、そのものになってしまい、しかも、同時に生存するという設定が面白い。読み進むにつれて、タイトルの意味が分かってきた。 「私」は主人公に取り憑いた?上で、歴史上の様々な政治経済事件と関わり、戦中戦後、そして、現在の社会の裏側も見せてくれる。ダイナミックな場面展開がまた「私」を通じて、様々な時と場所に飛び込ませてくれる。それぞれの「私」が関連して物語が進むところも複雑ながら想像力を掻き立てられる。 後半になると、様々な「私」が入り乱れて来て、ごちゃごちゃになる感じが、鼠の生態と合わさり、混沌とした東京の姿を表しているような感じがする。それまでの話からすると、最後の無差別殺人の部分が何と無く中途半端な感じで残念に感じたが、全体としてはとても面白く、一気に読み終えた。 自分も「私」の可能性があると、感じさせるのは自分だけではないだろう。。。 | ||||
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すごい小説が現われた。主人公は人間ではない。東京である。正確に言うと東京の地霊である。太古の昔から東京に住む地霊がネズミや蛆や猫や人間に姿を変えてこの都市を影で動かしてきたのだ。ここでは幕末から明治、大正、昭和、15年戦争を経て、戦後の混乱期、高度成長期、バブル経済期、そして3.11および福島第一原発事故までの間、東京の地霊は自分がどのように考え行動したのかを歴史的事実をふんだんに示しながら物語っている。まさに東京自叙伝。奇想天外、抱腹絶倒、虚実取り混ぜたパロディであり、壮大な実験小説なのである。 地霊は特定の人物に憑依するが、時代と共に次々に人物を乗り換えていく。その地霊に乗り移られた6人が順に自叙伝を語る。そして、それぞれの人物は関係し合うという展開になる。たとえば陸軍参謀の「私」が隠匿した物資を後年に別の「私」が掘り出して大儲けする、という具合である。しかし、後半になると地霊は複数の人物に同時に憑りつくのでややこしい。そのために「私」が「私」を殺すという事件まで起こる始末だ。最終には地霊は大量のネズミの群れになっている。ネズミなら東京が廃墟になっても生きていける。 地霊が姿を変えた「私」は揃って、わがままで計算高く、無責任で、無反省、そして自己愛だけは過剰である。繰り返される火災、地震、戦争の中で人が死のうが不幸に陥ろうが「気の毒なことをしました」「仕方がなかった」と片付ける。思想も善悪も道理もまったく気にしない。視野が狭く、自意識過剰で思慮深くないから物量ではるかに勝るロシアやアメリカに戦いを挑み、コテンパンにやられる。その経験は蓄積されず、経緯から学ばず、過ちは繰り返す。作者は毒のある言葉で日本人の姿を風刺しているのである。 最初の章から5章まではすべて最終章の「事件」への伏線であったと言う。その「事件」とは2014年3月11日の福島第一原発の事故である。「私」は原発作業員として事故対応に当っている。この原発も「私」がアメリカにそそのかされて「正刀杉太郎」に命じて「原子力の平和利用」を掲げてつくらせたものだ。ここにも思慮の浅さで目先の利益に飛びついた過去がある。福島原発から東京に戻った「私」は原発事故によって廃墟になった東京でネズミの大軍を幻視する。この大事故があっても懲りない日本人は無節操、無反省から滅びていくのだ、とのメッセージが読み取れる。日本人の「なるようにしかならない」とのいい加減な特質は変わらないからだ。奥泉氏の描くこの醜悪な未来図はもちろん「そうであってはならない」という私たちへの警鐘である。この作品はパロディの体裁をとっているが、壮大な構想に基づいて濃密、洒脱な文体で説得力のある日本人論を展開している。多くの人々に読まれるべき傑作である。 | ||||
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本書は、複数の人間また数多の動物として意識を共有する「私」を通じた、幕末から3.11に至る日本の歴史を描いている。 とはいえ、虚虚実実というか、有名無名・有象無象の出来事・人物を巧みに換骨奪胎した架空の歴史であり(なにせ、歴史的出来事の多くが「私」の仕業となっているのだから)、むしろ、歴史の中心にいた人物の自叙伝をパロディにしたものだろう。 本書はパロディであるとともに、無責任で何事も反省せずに諦念にも似た形で受容していく日本人論でもある、自意識の拡散を繰り返し人格崩壊から犯罪へと踏み出していき、ラストでは「私」の妄想ではあるが福島原発事故で焦土と化した東京と重ね合わせることで、成り行き任せの日本人の行き着く果てをシニカルかつ破壊的に描き切ったストーリーは大変読み応えがある。 著者が、いわゆる日本人論を核としたのか、それすらもパロディの素材としたのか、見極めづらいところだが、私としては、架空の名前(正刀杉次郎のように分かりやすいものはわずかで、昭和史をよく知らないと多くの出来事がモデル的にはあったことに気付かない人も多いのではないだろうか)と巧みに組み替えられた出来事によるパロディを多く評価したい。 | ||||
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東京の「地霊」の一人称という奇抜なスタイルで、今そこにある日本を描く、 ヴォネガットの『ガラパゴスの箱船』を彷彿させる痛快風刺小説。 「私」こと東京の地霊は、ボディスナッチャーよろしくくるくると宿主を替えるのだが、 その中でもメインとなる語り手が6人いて、それぞれが独立した一章をなしている。 あえて名前をつけるならば、幕末編、第二次大戦編、戦後混乱期編、 高度成長期編、バブル経済期編、2000年代編、といったところだろうか。 近現代の日本の大きな出来事をダイジェスト的に追いながら、 史実と虚構を緻密に織り交ぜ、時空を股にかけた壮大なパノラマとして 再構築してみせた著者の力量は見事と言うほかない。 本作の終盤、現実の風景の向こうに透けて見える廃墟と化した東京の光景は、 著者のデビュー作、『地の鳥、天の魚群』中で、いささか唐突に挿入される、 鳥の足にびっしりと埋め尽くされた荒野のイメージとぴたりと重なる。 破滅の予感と隣り合わせの笑いは、氏が一貫して扱ってきたテーマであろう。 実力はありながらも、引き出しが少ないというか、端的にワンパターンな作風が 難であった奥泉氏だが、本作で一歩突き抜けた感がある。 将門公から某有名ネズミキャラまで、徹底的に茶化してみせる氏の筆致は まさに怖いもの知らず。人を選ぶ作品ではあるが、気になったならばぜひ一読を。 | ||||
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3.11を出発点にして書かれた初の奥泉作品。 自らの虚栄心を満足させるために国民を騙し続け、 一切反省せずに邁進してきた「東京」の地霊が主人公である。 彼は、地震や火災が大好きで、高層ビルや道路でオシャレして、 高いところからその姿を眺めることに狂喜するナルシストである。 明治維新、太平洋戦争、高度経済成長、バブル経済などが そんな無責任キャラ「東京」の地霊によって引き起こされたことが 乗り移られたさまざまな人物の証言によって饒舌に語られる。 そして、「東京」は、福島原発事故でもあいかわらず反省しないし、 その経験から何も学ばない。そのことを述べた最終章が 分量的に乏しく、失速感があるのは残念だが、これは間違いなく傑作だ。 | ||||
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