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大いなる眠り
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【この小説が収録されている参考書籍】
大いなる眠りの評価:
書評・レビュー点数毎のグラフです | 平均点4.02pt |
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Amazonサイトに投稿されている書評・レビュー一覧です
※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
未読の方はご注意ください
全42件 1~20 1/3ページ
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村上春樹翻訳ということもあり、高校生の時以来、数十年ぶりに読んだ。主人公マーロウが金に潔癖であったり、美女の誘惑にも全くのらないなど、あまりにもかっこよすぎるように思うが、ストーリー自体は想像以上に複雑な構成で大いに楽しめた。イメージではバーボンだったが、意外にもスコッチを飲むのね。村上春樹の翻訳については、特に強烈な個性は感じないが、そのほうが良いかも。次は、「さらば愛しき女よ」を読みたい。 | ||||
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東京創元社が1956年(昭和31)に上梓した世界推理小説全集26巻(双葉十三郎訳)を67年後の2023(令和6)年に読んだ。 出版から二世代が過ぎ、パラフィンも読む端から砕けて剥落していく時の重圧を実感しながら読了したが(もっと凄いのはこの60年でたぶん一度か二度しか読まれなかったと思われる綺麗さ)その後ハードボイルドミステリの歴史に雷名轟かせたこの本、わずか190ページなんですね…。 初めて読んだチャンドラーだが、処女作にして重たく眠く熱い芸風は完璧で、もっとも驚愕したのが次々とむぞうさに人が死んでいく。ところでこの中で死者となるのは男ばかり。 その死があっけなく、また死因が殺人大全集のようにそれぞれまったく異なるのにも驚くことしきり。 こういう事を書くと異様かもしれない。 とおびえつつ書くのだが、その死が即物的であっさりと虫でも潰すように簡単なことと、生死の際があまりに容易、散歩でもするように生死の境を越えるところは、他のいかなるミステリにもない無機質さで、しかも、それぞれの死が妙に官能的なことに声を失った。 著者そんなつもりはないのかもしれないが、たとえば毒でこの世を去るとある人物などは男性性なのか潔くなのか従容としてかそれとも気づかないままなのか、妙に男伊達を感じさせ、銃で世を去る人物は銃声だけが説明であっさりと横たわるのだがそれがまた被害者本人の意志を越えて男の死という感じで舞台から消えていく。 正直、本筋は最後まで説明不足だし、末尾でS・S・ヴァン・ダインのように、しかもそれより簡略、かつなんの証拠もなく2ページたらずで全体像が浮かび上がるのは皆様ご存知あまりにも有名な主人公のセリフだけ、というのはいささかフェアでなくない?とぶつぶつ思うのだが、それを圧倒するなにか、末尾になって出現してあっと叫んだタイトル・ロール 大いなる眠り が惑星のような重量感で描写され、あっけにとられるうちに物語は立ち去ってしまう。 文学的完成度とは不平等なもので、P・D・ジェイムズもその文章の密度で殺人事件の内容以上の迫力を持つのと同じだった。 人生に研磨された年になって書いたことが、やはり大きいのだろうか。 これに先立って、1980年代のスティーヴン・グリーンリーフやダン・キャヴァナー、カーター・ブラウンやレス・ロバーツを読んでいたが、どれほど巧みにそれぞれの時代・地域ごとに活写されていても、最終的にはハードボイルドとはレイモンド・チャンドラーの天才によって顕現した個人の例外的傑作であり、それが個人を越えて余りにも巨大な影響を及ぼしたために後世の小説家たちをも洗脳させ、もしかしたらそれら作家の本来の資質を捻じ曲げてでもフィリップ・マーロウの弟子たちがそれらの著書たちの脳に産み落とされ、かくしてジャンルが形成されたような気がしてならない。 ハードボイルドの読み方としては邪道、異端かもしれない。だが、この作家の本質は死の官能、タナトスと、ミステリの内容としては実は貧弱な展開、そしてそれを覆い隠し、きびきびした描写で全編を支配する重力のような、人を掴んで離さない筆力の三点セットに思われた。 以上、原著が描かれて84年後の感想でした。 | ||||
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文体は一人称で、主人公は私立探偵の男。タフで金や暴力にさらされても、決して己の信条を曲げない。そういう、いわゆる本格派のハードボイルドの原点ですね。 最初にロンググッドバイから読んだ私としては、本作の探偵フィリップ・マーロウもまだ三十代前半と若く、女性の扱いが荒っぽく感じられるなど、チャンドラーやマーロウの変化も楽しめました。 文章も後期の作品に比べると描写が長く、ぶんぶん腕を振り回しながら書いている印象です。 しかしながら、そんな諸々の若さを考慮しても、本作は名作と呼ばなければならないと思います。 もしまだチャンドラーを読んだことがないという方には、本書から順番通りに読んでいくことをお勧めします。 | ||||
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1922年にデビューし、アーネスト・ヘミングウェイを祖とするハードボイルド手法を、推理小説に持ち込んで成功させたのはサミュエル・ダシール・ハメットであったが、続いて1933年にハメットと同じく、推理小説パルプ・マガジン『ブラック・マスク』誌でデビューを果たしたレイモンド・チャンドラーは、それまでゴミ扱いをされていた推理小説を文学に引き上げた、ハードボイルド推理小説界の圧倒的存在である。 1939年発表の本作「The Big Sleep」は、そのチャンドラーの処女長編であると同時に、彼の作品に於いての、と言うより、ハードボイルド小説の世界に於ける最も重要な主人公である私立探偵フィリップ・マーロウの初登場作品でもある。 マーロウは出現と同時に一躍有名になった。そして、生涯で7作品しかないチャンドラーの長編小説の主人公は全てマーロウであったのである。 そのスタイルは常に一人称形式。ストーリーはマーロウの視点で描かれ、また、余計な心情の吐露を取っ払った客観的な文体は、ストーリーを分かり難くさせている節もあるが、チャンドラーの長編作品群はハードボイルド小説史上の古典として高く評価されている。 大富豪スターンウッド将軍家に招かれたマーロウ。依頼の内容は将軍の次女カーメンが受けている強請りの解決についてであった。脅迫状の差出人の家の前に張り込んだマーロウは、稲妻の様な閃光と金属的で痴呆じみた叫び声を耳にする。続いて聞こえたのは三発の銃声だった。部屋に飛び込んでみると、そこには男の死体と裸身のカーメンの姿があった。 精神が薄弱な上に、色情の気のあるカーメンはトラブルの種を撒き散らかす。 次々に現れる不審な人物達、複雑化していく事件、更には先んじて起きていた将軍の長女ヴィヴィアンの夫の失踪も関わってくるのであった。 本作は、二度映画化されている。 1946年のアメリカ映画「三つ数えろ」ではハンフリー・ボガートが、1978年にはイギリス・アメリカ映画「大いなる眠り」でロバート・ミッチャムが主演をしているが、二人共役よりも年齢がいっている様に思う。特にロバート・ミッチャムは貫禄が有り過ぎだろう。チャンドラー自身は、一番イメージに近いのはケーリー・グラントであると明言している。 個人の感想をついでに述べれば、本書の冒頭に於ける将軍とマーロウの遣り取りがなかなか個性的で面白い。年老い、人生に飽いた将軍は老い先が短いらしく、普通の人間ならば耐えられられない様な高温の蘭栽培の温室の中で一日を過ごしており、マーロウもその温室に招じ入れられる。 将軍はブランデーを薦め、自分の好みはシャンパンで割ったものだと言うが、ただマーロウが飲むのを見るのみで舌で唇を湿らす。そして、匂いは好きだと言い、タバコを吸うマーロウをじっと見つめる。それから依頼を打ち明け、二人は会話を交わす。そんなシーンだ。 本書は、双葉十三郎の翻訳版である。原書自体が古いのであるから、日本語版の発刊は1956年で本書の出版も1959年。戦争を挟んでいる為にタイムラグは有るがそれでも随分昔だ。当然古くさい表現も有りはするが、時代がそうさせているのだからしょうがない。却って当時を想うに丁度良いと言うものだ。 最近では村上春樹もチャンドラー作品を新たに翻訳しており、試しに少し立ち読みしてみたことはあるが、わざわざ改めるまでの意味が見いだせなかったのが正直なところだ。 | ||||
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私立探偵フィリップ・マーロウの初登場作品とのこと。次々と芋づる式に事件は続いていくが、関係者みんなが触れようとしない靄の中に一人の消えた男がいる? 影を潜めて。静かな沼のように。空気など読まないフィリップ・マーロウはただ一人靄の中に踏み込んでいく。 | ||||
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初めて村上春樹訳のチャンドラー作品を読みましたが、非常に読みやすいと感じました。 そして、若き日のフィリップマーロウという男に改めて惚れ込んでしまいました。 チャンドラーの他の作品と同様に、これからも何度も何度も読み返していこうと思っています。 | ||||
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著者・訳者ともに素晴らしく、名作です。 本に対しては星をいくつも追加したい気持ちですが、問題はオーディブル版。何故ハードボイルドをあんな風に読むのか、制作したのは他の作品とは違う人なのか、それで良しと販売に進めたのか不思議でした。マーロウがまるで好青年みたいな話し方で別人になってしまって 聞くことができませんでした。 オーディブルではタイトルを聞かないと評価することができないみたいですが、聞くに堪えないもの。 | ||||
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財力と名声が故の隠蔽事件の複雑な絡み合いを、薄皮を剥ぐようにして暴いていく私立探偵フィリップ・マーロウの手並みは見事という他はありません。 一癖も二癖もある登場人物達と交わす、人生についての含蓄のある台詞の数々は、ハードボイルドの真骨頂でしょうか。 個人的には、事件に関わる女性達への粋な優しさが印象的でした。主人公、犯人、そして読者の「大いなる眠り」の為に。 | ||||
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新訳でチャンドラーの名作がより良い表現でマーローの人物像が際立ち三作を何度も聴いています。ナレーションも素晴らしい。残念なのは長いお別れだけナレーターがあっておらず聴く気にならない。古屋敷さんの朗読での再版を切望します。 | ||||
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主人公で語り手の私立探偵マーロウは、元警官。 彼は自分を「私」と呼んで、ちょっと気取った一人称単数で語る探偵小説です。 この「私」という自称には、読者としてのワシは終始、違和感を感じましたでごわす。 かと言って、 <僕>では、育ちのよい坊ちゃんぽくて、大人になりきっていないようで、探偵なんかに似合わないし…… ひらがなの<わたし>では、なんとなくやわでオカマっぽいし…… <おいら>では、教養がなく、頭悪そうだし…… <自分>から<自分は>と呼ぶ人間では、 上役の忖度ばかりしている下級の軍人とか警官みたいであります。失礼、敬礼。 自分で自分の行動を決められない組織人っぽいし…… やっぱり<おれ>くらいってことになるのかな。 本書の書名『大いなる眠り』は、 <ザ・ビッグ・スリープ>と、カタカナのタイトルにしてほしかったでごわす。 『リトル・シスター』のように。 ビッグとかリトルは最早、日本語です。「大いなる」とか「ちっこい」とかの翻訳不要。 「小鳥くん(リトル・バード)」(262頁)は、ちょっと小馬鹿にした感じが出てて、 いい和訳だとは思いますが、 リトルは今や、カタカナが書ける小学生でも訳せそう。 幼稚園生だって、ぼくビッグ・バードちってるよ。 「彼女は君にはでかすぎる」(219頁) 「出ていってくれないか、スモール・サイズくん」(220頁) こんな日本語の言外の深い意味だって、中学生でも分かるヤツには分かるよな。ですよね。 「スモール」も最早、日本語です。 「スモール・サイズくん」という「くん」付けのカタカナ書きで必要十分です。 「大いなる」という日本語は、「大」という文字が入っている割には、ビッグな感じがしません。 古臭い、黴臭い、加齢臭のする日本語ダッチューノ。やだ、古過ぎ。 ワシみたいな老人だって、『大いなる眠り』って何じゃい? って訊きたくなるもんな。 死のことか? 大便、小便じゃあ、あるまいし。眠りに大小はない。昼食後のチョイ寝は毎日するけどな。 歳をとれば、 「眠りは浅く、起きているとも眠っているとも見分けのつかんような、情けない代物」(13頁)になる。 睡眠時間だけ多くなるけど、眠った気が全然せえへん。多いなる眠り、なんちゃって。 情けないと言えば、昨日までグレート、グレートを頻発してた、どっかの大統領を思い出します。 大国小国をやたら強調する時代はやっと終わりました。 眠りについても、これからは、電気自動車の時代です。電気羊の眠りを考える時代です。 「死者は大いなる眠りの中にいるわけだ」(309頁) 「ほどなく彼もまた、ラスティー・リーガンと同じ、大いなる眠りに包まれるだろう」(310頁) 読書の好きな読者のワシも既に、一日24時間の半分(12時間)は、多いなる眠りに包まれ、 多いなる眠りの中にいる。じいちゃん、寝過ぎ、の孫の声が聞こえてくるけど。 「シカゴのオーバーコート(棺桶のこと)」(234頁)の中に片足、突っこんでいるわけだ。 ワシはもう半分、死んでいるのか。 本書に登場する老人ガイ・スターンウッド将軍なんて、「三分の二は死んでいる」(18頁) 「ただ時が来るのを待っている」(310頁) 「大いなる眠りに包まれる」日も近いだろう。 「それこそ時間に競争するみたいに」(308頁) 「まず妹をどこかの施設に入れることだ。二十四時間監視のついたところにね」(308頁) 「大いなる眠りに包まれる」までは、二十四時間毎に、無意識の浅い眠りがくり返される。 浅い眠りの中では、無意識の悪行も繰り返される。 恐いことです。 だけれども、「酒は助けにはならなかった」(310頁) 巻末の「訳者あとがき」は、力作です。 題して「警察にできなくて、フィリップ・マーロウにできること」 この「訳者あとがき」を読んで、読者のワシは、思い出しました。 行方不明になった子どもを、大勢の警察や消防団は何日かけても見つけられなかったのに、 スーパーヴォランティアのおじちゃんは、瞬く間に発見した話を。 「…くーん、どこだ?」 「ぼく、ここだよ」 | ||||
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チャンドラーの作品を読むのは2冊目。おもしろいですね。マーロウの冷静でシュールな姿が素敵です。今回もミステリアスな内容になっていて、どうストーリーが展開されるのか楽しみながら読みました。 | ||||
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驚くことに、作中でいくつか起こる殺人のうち、未解決のまま本編が終わります。 「誰が犯人なのですか」と聞かれた作者は「知らない」と答えたそうです。 これは読者の想像に任せる、という意味ではなく、本当に何も考えてないのだと思います。 この作品に限らず、マーロウ物はチャンドラーが別で書いた短編をいくつもつなぎ合わせて書かれていることが影響しているそうです。 でもそんなの関係ねえ。 マーロウが抽斗からウイスキーを飲んだり、タフな振る舞いをするこの空気を吸いたくて何度でも読んでしまいます。自分にとって大切な感情を呼び覚ますために想い出の場所に立ち返るように。 ところでマーロウ物にでてくる「オールドフォレスター」はあまり出回ってないようで、私が立ち寄ったいくつかのバーではおいてませんでした。 | ||||
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推理小説や探偵諸説は好きなのですが、どうも翻訳モノは言い回しが独特なことが多く、読んでいてじれったく感じてしまい、若いころはともかく、年を取ってくるとあまり長続きしません。 そんな中、こちらの作品は有名な村上春樹の新訳版ということで、何気なく手に取ってみました。村上春樹の作品は読んだことがないので、どんなものかと最初はドキドキしておりました。しかし、読んでみるとやっぱり言い回しが気になってしまい、回りくどい喋り方にイライラすることに。やっぱりダメかと思ったのですが、なぜか先の展開が気になり始め、気が付くと二週間、毎日読んでいました。 仕事が終わって寝る前の、少しの時間に読んでいただけなのですが、読んでいない間はフィリップ・マーロウがいる世界を早く読みたくてウズウズしてしまう自分にビックリしました。本の中の世界に引っ張られているというか、不思議な感じでした。 チャンドラーの独特で、かつ、魅力的な世界観が確立しているとして高い評価を受けている本作ですが、それを追体験させてくれた翻訳に感謝しています。久々に小説で楽しい時間を過ごせました。 | ||||
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好きなものを期待どおりに味わいながら、でもスリルを楽しめる。 | ||||
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双葉氏の旧訳を十代の頃読んだ時はどこがいいのかわからなかった。同じ旧約を今回再読して名作と言われる所以がようやく理解できた。現実性に富んだ人物描写が見事で特に大金持ちのスターンウッド老将軍の二人の娘、姉のヴィヴィアンと妹のカーメンの強烈な個性が鮮やかに描き分けられている。ただ登場人物はチンピラやペテン師が多く人間的魅力のある人物があまりいない。強いて挙げれば終盤に登場する「銀鬘(シルバー・ウイグ)」くらいであろうか。ただ彼女も善良な常識人でしかなく他の偽悪的な人物たちの中ではそれが目立つだけという感もある。 物語は前半が3つの殺人事件の解明、後半はヴィヴィアンの失踪した夫リーガンの行方を追うという展開で生き生きとした会話やスリリングなアクションの中で名探偵マーロウが鮮やかに真相を解明していく。 ただ、前半は事件としては通俗で格調は低く真相が判明しても特に感心するものはなかった。後半は凶悪な殺人鬼との対決となるがこれも事件としては結果的には本筋とは直接関係が無いためやや興ざめであった。 前半の最後で事件の新聞記事をマーロウが読むシーンがあるがこれはマーロウが解明した真相とは若干異なっておりこのへんも皮肉がよくきいている。終盤でマーロウがスターンウッド将軍に語るセリフ「僕はシャーロック・ホームズでもファイロ・ヴァンスでもない」(p253)には驚いたがこれも本格物への皮肉であろうか。またラストにタイトルの「大いなる眠り」という言葉が出て来るが、これも人間の死という尊厳なるものをネタにしてヒーローを気取る従来の名探偵たちへの痛烈な批判となっているのではなかろうか。 なお、中島河太郎氏の解説が非常に参考になった。 | ||||
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レイモンド・チャンドラーの全7長編の記念すべき第一作。 石油会社の副社長を勤めたチャンドラーが故に垣間見た闇かどうかは分かりませんが、ロックフェラーよろしく石油で財を成した大富豪とそのカルマを背負わされた歳の離れた娘二人が、ミステリを舞台に描かれています。 精神疾患、精神薬=ドラッグが、戦前のアメリカを既に蝕んでいたことを我々はこのチャンドラーの小説から学ぶことができます。 優れた小説は読者にその時代性を感じさせるものとするならば、『ロング・グッドバイ』や『さよなら、愛しい人』に及ばずとも、本書は探偵ミステリの傑作だと思います。 また原文に忠実にチャンドラーの文体を現代の日本語に復刻頂いた村上春樹さんに感謝です。 | ||||
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チャンドラーのマーロウは清水俊二氏訳のハヤカワ・ミステリ文庫「長いお別れ」「高い窓」「湖中の女」「プレイバック」を何度も読み返したものでした。 以前にはこの4冊くらいしか手に入れることが出来なかったからです。 最初の作品である「大いなる眠り」も読んでみたいものの手に入りませんでした。 今回2012年初版発行のハードカバーで村上春樹さん訳のものを読みました。 私は村上春樹さんも好きで全ての作品を読んでいます。 村上春樹さん訳のチャンドラーは「くすくす」「やれやれ」など村上春樹さんの作品の主人公が口にするような言葉も多いですね。 「背が高いのね」「それは私の意図ではない」と不自然なせりふもありますが…クールでいいです。 村上春樹さんは訳にかなりこだわりがあるのだと思います。 「グレート・ギャツビィー」の「old sport」などもいい例です。 普通は「親友」と訳しますが村上春樹さんは日本語には訳しようがないとそのまま英語で載せていました。 長編第1作目ですが本当にすでに完成されています。 「まるで失業中のショー・ガールが最後の無疵のストッキングをはくときのように」など比喩もおもしろいし文体も乾いたハードボイルドそのものです。 ヘミングウェイやコーマック・マッカーシーに似ています。 1日25ドルプラス経費で法執行組織を敵にまわしても依頼人を守る。 まるでゴッサムシティの「ダークナイト」バットマンのようです。 自作には「あとがき」は書かない村上春樹さんですが本作では詳しく解説してくれています。 映画化の際に監督の「あの運転手を殺したのは誰ですか?」の質問にチャンドラーが「私が知るわけない」と答えた話は興味深くおもしろい話です。 | ||||
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レイモンド・チャンドラー『長いお別れ』の映画DVDを入手する前に、400ページ以上の本ではあったが、本の方を再読してからDVDを観たら、あまりにも原作と異なる物語に脚色されていたのでがっかりしてしまった。 チャンドラーが1939年発表の処女長編『大いなる眠り』が気になり探してみたが処分したようで見付けることが出来なかった。 この『大いなる眠り=原題:The Big Sleep』を、どうしても再読してみたくなりAmazonで入手して読むことにした。 評者の手元に届いたのは、創元推理文庫の1959年(昭和34年)初版であり、訳者は双葉十三郎氏である。 少し調べてみたら1956年(昭和31年)に、東京創元社(のち創元推理文庫)から出版されたのが初出だったようである。 読みはじめてかなり物語の粗筋を思い出したが、やはり翻訳に隔世の感を覚えてしまった。 この本だけ読んでいたらマーロウは、かなり乱暴者のような感じを受けてしまうのは、翻訳がマーロウの話す言葉の訳に起因しているようである。 「うふう」(原書でどう書いてあるか興味津々だが)とマーロウが唸ったり、土砂降りの雨のなかで車を運転しながら、「窓拭装置はあっても、ガラスは絶えず曇り」などと訳している。(P219) 窓拭装置?まあ、ワイパーと訳せばだれでもわかるのだが、なんだか面白く読んでしまったのである。 「車庫」なども気になった。 これは英語で「garage」と書いてる直訳だと思うが「自動車整備工場」としたほうがよいだろう。 本邦初登場したフィリップ・マーロウだから仕方がないが、この後の『さらば愛しき女よ』から清水俊二氏がほとんどマーロウものを翻訳してマーロウ像を修正(インテリ探偵として)している。 清水俊二氏が双葉十三郎氏から面白いから『さらば愛しき女よ』読むよう勧められ、この本を読んでから、どうしても自分が翻訳したくなった経過をなにかで読んだ記憶がある。 古くは田中小実昌氏も何冊か翻訳しているが、最近では村上春樹氏がマーロウもの全作翻訳している。 が、粋な翻訳本を読むより二葉氏や清水氏の翻訳本で十分楽しめるから評者などは、それでよしとしておきたい。 フィリップ・マーロウは、ハードボイルド派の中で最も有名な探偵といえる。 その末裔として数多くの探偵が登場しているが、ローレンス・ブロックのマット・スカダーなどへと受け継がれていると思うのは評者だけではないだろう。 大昔名画座で観たボギーがマーロウを演じている『三つ数えろ』のDVDも入手して、もう一度映画も観たくなってしまった。 双葉十三郎氏訳『大いなる眠り』を楽しみながら読み終えました。 | ||||
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最初に読んだときはストーリーを追うことだけに意識が集中してしまったのですが、時間をおいてから再読してみたら、村上春樹氏の翻訳のすばらしさに気づかされました。 何がすばらしいかと言うと、レイモンド・チャンドラーの文体や文章の味わいを、可能な限り日本語で再現しようという翻訳の取り組み方です。 多くの読者にとっての「良い翻訳」というのは、日本語の文章として読みやすく、意味がわかりやすいことだと思いますが、本書における村上氏の翻訳は、多少意味がわかりづらくなってもチャンドラーの原文に忠実に訳している部分があります。 例えば、タキシードではなくディナージャケットという言葉を使ったり、カジノのディーラーのことをクルピエと呼んだりしているところです。 それはレイモンド・チャンドラーがイギリスで教育を受けていて、イギリス英語を使う作家であり、原文でそのような単語を使っているからです。 日本の読者としては、タキシードやディーラーという言葉に訳してもらったほうが読みやすいですが、意味がわかりづらくなってもあえてディナージャケットやクルピエという言葉を使うことで、村上氏はチャンドラーの文章の雰囲気を残そうとしているのだと思います。 このことで、アメリカ人がチャンドラーの本を読んだときに感じるであろう、異国の作家が書いた英語のような雰囲気を、我々も日本語の文章で感じることができるのです。 原文に忠実な翻訳は、単語のレベルだけではなく、もう少し長い文章に関しても当てはまります。 例えば物語の前半の会話の中の下記の文章です。 原文 「The Sternwoods have money. All it has bought them is a rain check」 村上氏の訳文 「スターンウッド家はお金を持っている。でもそれで買うことができたのは雨天順延券だけ」 ※「雨天順延券」に「レインチェック」とルビがふってあります。 rain checkという単語には、文字どおりの雨天順延券の意味だけじゃなくて、物事を実行しないときの言い訳というニュアンスもあります。 ですので、意訳するなら、 「スターンウッド家はお金にものを言わせて、いろいろな問題を先送りにしてしまった」 という感じになるでしょうか。 しかし、村上氏はあえて意訳はせずに、レインチェックというルビまでふって雨天順延券という日本ではちょっと馴染みの薄い言葉を使っています。 村上氏がそうまでして 「The Sternwoods have money. All it has bought them is a rain check」 という原文にこだわったのは、これが本書のテーマだからじゃないかと思います。 テーマというのは、タイトルやあらすじのことじゃなくて、「描こうとしていた世界」とでも言い換えればいいでしょうか。 チャンドラーはこの本で、金持ちが金の力で何でも解決してしまおうとする不条理な世界のモヤモヤ感を、雨の情景に重ね合わせて描いているのだと思います。 雨が少ないはずのロサンジェルスでやたらと雨のシーンが続く理由もそこにありますし、最終的にそれはエンディングのシーンにも関係してきます。 この文章を意訳したり、あるいは端折ってしまっても、物語の展開には影響はないかもしれませんが、チャンドラーの文章の味わいは失われてしまいますし、チャンドラーが物語を通して描こうとしたテーマそのものが曖昧になったはずです。 こんなふうに原文の細部にまで忠実な翻訳をするということは、下手すると「直訳っぽい」とか「意味がわかりづらい」という批判を受ける危険性すらあると思います。 しかし、村上氏が勇気を持ってその方針を貫いてくれたおかげで、チャンドラーの文章の味わいを現在の日本語で楽しめるようになりました。とにかくそのことには感謝したいです。 | ||||
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ミステリとしての謎が,表層のものと深層のものとの,二層構造になっている。深層の謎の方が古く, 物語開始時点では事態は一応落ち着いていて,「大いなる眠り」の中にあるが,これを遠因にして,表層の謎で扱われる事件がリアルタイムで起こる。物語の3分の2が終わった時点で,表層の謎が一件落着するが,その翌日に情報屋が現れて,深層の謎の一端が顔をのぞかせ, 事件として再起動する。 物語前半で感じた微妙な違和感の半分は,深層の謎の伏線になってる(まあ,違和感の残り半分は,単に小説のアラだろうが)。この構成が面白いのは,この深層の謎の向こうに,さらなる深層が存在する可能性が(原理的,潜在的には)存在することで,メタミステリ的な方向性さえ感じさせる試みと思う。 で,事故車から死体で発見されたお抱え運転手の死因が,最後まで明言されないことが,本作のミステリとしての駄目さ加減の象徴として良く取り上げられるが,これって,彼が極度の興奮状態で人事不省に陥って運転を誤った事故,または衝動的な自殺でしょ。最後の目撃者も「(奴は)神経がおかしくなっていた」と言ってるし。 早い話,彼もメンヘラ。だから,彼が将軍の次女にピストルを贈ったこと自体,(やや文学的な)伏線・・と思う。あと,長女が運転手を雇い続けた理由も,色々想像が膨らむ。 確かに,プロットの錯綜は見られるが,これは単純に,著者の力量不足やミステリ要素への無関心ではなく,「エヴァンゲリオン状態」と言うか,豊富な裏設定を用意しておきながら,それを明かしていないせいもあると思う。 誰か,評論家か英文学者に ちゃんと分析して欲しい。 | ||||
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