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ガラスの村



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ガラスの村の評価: 3.57/5点 レビュー 7件。 Cランク
書評・レビュー点数毎のグラフです平均点3.57pt


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Amazonサイトに投稿されている書評・レビュー一覧です

※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
未読の方はご注意ください

全5件 1~5 1/1ページ
No.5:
(5pt)

アメリカへの失望と希望

エラリイ・クイーンが登場しないエラリイ・クイーンの小説、というのを初めて読んだ。最初はどうかなと思っていたが、予想外に面白かった。

閉鎖的な村で殺人事件が起こり、あらゆる状況証拠が外部から来た浮浪者に不利な中で、村人が一致団結する様子には、得もいわれぬ怖さがある。このまま放っておくとリンチにされるところを、登場人物の判事の機転で急ごしらえの村内裁判が開かれ、やがて…。
と、ストーリーを紹介しても仕方ないけれど、クイーンの小説の中では最も文学的な雰囲気のある作品だと感じた。いくつか印象に残ったくだりやセリフを挙げてみよう。

●「変わるということは悪いことじゃありません。でも結局、良いものはちゃんと生き残ります――つまり値打のあるものはね」(P42)

●「記憶というものは、あらゆる苦痛のなかで一ばん辛(つら)い苦しみです」(P104~105)

●人間というものは、たとえ民主主義のもとにおいても、暴民に堕落する傾向が多分にある。(P141)

●「彼らはたしかに間違っている。だが彼らは信念をもって、なすべきだと思うことをやっているのだ。しかしなにが正しいかを知りながらそれを守り続けないとすれば――そういう人間は失われた人間ですぞ」(P285)

●「貧しいものだけが与えることのぜいたくさを知るといったのはだれでしたかな?」(P308)

本書は、マッカーシズムが吹き荒れ、公民権運動の機運が高まっていた1950年代に書かれている。アメリカという国に不信感を覚えながらも、それでもクイーンはアメリカを信じていたのだと思う。だからこそ本書のラストシーンには、希望がある。
差別や偏見によって分断が進む今のアメリカも、似たような状況にあるのではないか。クイーンが現代に生きていたら、どんな小説を書くだろうと想像する。やっぱり、法治国家や民主主義には健全な自浄作用があることを期待せずにはいられないのではあるまいか。
ガラスの村 (ハヤカワ・ミステリ文庫 2-8)Amazon書評・レビュー:ガラスの村 (ハヤカワ・ミステリ文庫 2-8)より
4150701083
No.4:
(4pt)

作家クイーンが、狂気ともいえる時代の中で、市民的自由の尊厳を訴えた作品

最初に読んだのは20代後半。当然ながら、本作の成り立ちというか、クイーンの意図も知っていたはずだが、当時は、単に“読んだ”だけだった。四半世紀ぶりに再読したのだが、当時読み落としていた部分に改めて気付かされた。

まず、ミステリとしての評価だが、それほどの作品ではない。クイーンの作品の全てを読んでいるわけではないが、代表作として挙げられる『Yの悲劇』や『ギリシア棺の謎』はおろか、国名シリーズのなかでも評判のよくない『アメリカ銃の謎』と比べても、見劣りする。探偵エラリー・クイーンが出てこないことも、その要因だが、全体に低調である。

ただ、訳者が「あとがき」で書いているが、本書に関してはクイーンの狙いは「別のところ」にある。
それを端的に表しているのは、主人公のシン判事が独立記念日に村の人々に話すスピーチだ(54〜57ページ)。それは当時アメリカ合衆国に吹き荒れていたマッカーシズムへの批判、市民的自由に対する攻撃への批判、もっと言えばアメリカ憲法の精神をないがしろにすることへの批判である。独立記念日という設定は、それと無縁ではあるまい。そして、このスピーチを聞いたばかりといっていい村人たちの変貌、要するに、リーダーの勇ましい発言に引きずられ、簡単に理性を失っていく姿も、クイーンが描きたかったものだろう。

原著では、どうなっているのか分からないが、11ページに「るつぼ」という言葉が出てくる。原著刊行(1954年)の前年、アーサー・ミラーが魔女狩りを題材にした『るつぼ』という作品を発表している。この作品も、マッカーシズム批判であることを考えると、この言葉を意図的に使ったような気がするが、どうなのだろうか。
ガラスの村 (ハヤカワ・ミステリ文庫 2-8)Amazon書評・レビュー:ガラスの村 (ハヤカワ・ミステリ文庫 2-8)より
4150701083
No.3:
(4pt)

つまり民主主義のペルソナに偲び込んでみる単なるattribute

しかしそれでもなお彼らすべてがこの中にいるのも事実なんだね

1954年作。エラリーは出てこないだ そんな条件付けからの解放によって肌合いは違うようでやっぱりこの抑圧的非常識さともいえる知性は...
さて舞台はニューイングランドの北部、〈シンの辻〉と呼ばれる人口三十六人の寒村。独立記念日の翌日、産業も衰退したここを経済的に支えて
くれてもいた村の唯一の誇りといえる老女流画家が無惨にも殺された。その時たまたまここを通りかかっていた他国者の浮浪者なんかがいて、
まあ村における生理作用として犯人はすぐに断定され捕まったわけだけど、どぎつく差し迫ってくるこの画面! なんだかリンチめいて、、
極度の感情表出による野蛮な不協和音を奏で始める。。レオ・フランクもびっくりです
しかしこれには理由があって、過去のある事件に起因してるんだね。そんな喪失に対する恐怖が架空の敵と戦うかのような形で常に表面下に
存在していたんだ。よって映し出される失意ではあるんだが、いくらなんでも非常に不穏なことになりだして、
あくまで自分達で取り扱って裁判もするんだと、干渉は許さぬと息巻いて、司直には委ねないわ州警察の介入には武装でもってこれを
拒んでみる一触即発(笑) P2Pで無限責任組合員
さてそんなことなので出番です 唯一外部との接点が強い州裁判所の老判事。このフレーム問題を解決する為にわざと定義を循環的にしてみる。
こそこそと這いまわるバグにはバグでもって対応するという知恵、連帯に対する共鳴の反映にしてそれを発展的に解消するが為の行動、
故に設けられる存続を決議する場、この順番で必須......... 統率 処理 このじいさんがすごいの(笑)。
結果として招聘しながらvaporwareなわけだけど(笑)。枯れた技術の水平思考的に逆説的な優しい終身の独裁者というわけさ
んで相棒は投げ遣りなフェロー(笑) 訪ねてきていた従弟の元少佐なんだけど、人生に意義が見いだせなくなってしまったんだ。 
第二次大戦と朝鮮戦争、二度の戦争経験で大量の死を目の当たりにしたことにより虚無的になっている男。それが一人の人間の尊厳に直面した
ときにどうその冷めた目による観察から心が動いて目標を定めてゆけるのか と、こういうことだわな
謎解き的には現場状況の着眼点は たき木 だわな。これさえあれば・・・・・しかし消えて紛失してるんだから平沢貞通もびっくりです。
あとあれだな、この状況の設定の一部がアーサー・コナン・ドイルが擁護した冤罪事件を思い起こさせるところがあったりもする。
あれも動機的にはあれが真犯人だと目されていたわけだし、まああれだけど(笑)。
まあそれはいいとしてまとめれば、生と死、磔(貼り付け)、プログラムされたあがない主、と、やはり結果的ではなく第三者視点の手続き的
埋め込みとしての過程でアルゴリズムを禁欲的かつ温もりをもって改良しているのかもしれないなあ。
解けるかな?ヒントはHurtsの「Wonderful Life」の歌詞及びビデオの中にあるよ!never give upと
ガラスの村 (ハヤカワ・ミステリ文庫 2-8)Amazon書評・レビュー:ガラスの村 (ハヤカワ・ミステリ文庫 2-8)より
4150701083
No.2:
(4pt)

クィーンの美しき仕事

クィーンと言えば本格ミステリの王道を行く作家であるが、本作はミステリ風味を極力排し、人間の尊厳を慎ましくも高らかに謳いあげた感動作。
本作の背景には1950年代初頭に起こった、いわゆる「マッカーシー旋風」がある。中世の"魔女狩り"にも似たこの政策にクィーンは義憤を覚えたのであろう。クィーンの仲間の作家にも捕らえられた人がいたのかもしれない。事件の舞台はニュー・イングランドの田舎町。舞台をここに設定したのも、アメリカ入植者が最初に切り開いた土地で、アメリカ民主主義の発祥の地という意識があるのだろう。事件は単純で、村で殺人事件が起きるが、たまたま村にいた外国人浮浪者が犯人として捕まえられる。ここで、村人達は"魔女狩り"のようにロクに調べようともせず、浮浪者を犯人として郡の警察に引き渡そうとする。それを村に住む判事とその甥が正義感から押し止め、やがて真相を明らかにして行く...。
事件そのものにトリックめいたものはなく、探偵クィーンも登場しないという不利を承知で、民主主義、人間の尊厳の大切さ、思想・信条の自由を訴えたクィーンの情熱は素晴らしい。ミステリ・ファンならずとも是非読んで欲しい一作。
ガラスの村 (ハヤカワ・ミステリ文庫 2-8)Amazon書評・レビュー:ガラスの村 (ハヤカワ・ミステリ文庫 2-8)より
4150701083
No.1:
(4pt)

クィーンの美しき仕事

クィーンと言えば本格ミステリの王道を行く作家であるが、本作はミステリ風味を極力排し、人間の尊厳を慎ましくも高らかに謳いあげた感動作。

本作の背景には1950年代初頭に起こった、いわゆる「マッカーシー旋風」がある。中世の"魔女狩り"にも似たこの政策にクィーンは義憤を覚えたのであろう。クィーンの仲間の作家にも捕らえられた人がいたのかもしれない。

事件の舞台はニュー・イングランドの田舎町。舞台をここに設定したのも、アメリカ入植者が最初に切り開いた土地で、アメリカ民主主義の発祥の地という意識があるのだろう。事件は単純で、村で殺人事件が起きるが、たまたま村にいた外国人浮浪者が犯人として捕まえられる。ここで、村人達は"魔女狩り"のようにロクに調べようともせず、浮浪者を犯人として郡の警察に引き渡そうとする。それを村に住む判事とその甥が正義感から押し止め、やがて真相を明らかにして行く...。

事件そのものにトリックめいたものはなく、探偵クィーンも登場しないという不利を承知で、民主主義、人間の尊厳の大切さ、思想・信条の自由を訴えたクィーンの情熱は素晴らしい。ミステリ・ファンならずとも是非読んで欲しい一作。
ガラスの村 (1960年) (世界ミステリシリーズ)Amazon書評・レビュー:ガラスの村 (1960年) (世界ミステリシリーズ)より
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