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春にして君を離れ
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春にして君を離れの評価:
| 書評・レビュー点数毎のグラフです | 平均点4.50pt | ||||||||
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Amazonサイトに投稿されている書評・レビュー一覧です
※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
未読の方はご注意ください
全234件 81~100 5/12ページ
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| 主婦ですが自分を振り返るいい機会になりました。 主人公の女性のようにはなりたくないと思いました。 夫や子供からあんな風に思われたら悲しすぎます。 | ||||
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| 時代は1930年代。イギリス人の弁護士夫人ジョーン・スカダモアは末娘バーバラが暮らすイラクのバグダードに旅する。病気のバーバラを見舞うためだ。そしてイギリスへの帰途、接続列車が遅延したためにテル・アブ・ハミドの宿泊所にひとり留め置かれてしまう。無聊を慰めるために来し方を振り返るジョーンは、夫や子どもたちの不審な仕草や行動に思いを巡らすのだった……。 ------------------- ポワロやマープルのシリーズで知られるアガサ・クリスティが、メアリ・ウェストマコット名義で1944年に発表した長編小説です。 凶悪な事件が起こるわけではなりません。家族にとって最大の幸福を追求し、それを守らんがためにジョーンがこれまで下してきた決断の数々は見方によっては保守の極みであり、彼女はキリスト教信仰に支えられた伝統的家族観の信奉者といえるでしょう。自身がリスクや冒険や変化を恐れるがあまり、夫と子どもたちの人生にもその保守を求めていく妻であり母です。 「自由ですって? 【中略】そんなもの、いったいこの世の中にありまして?」とジョーンは夫に軽蔑的に語ります。 一方、夫ロドニーは「何か事をする前にすべてを綿密に計算し、けっして冒険をしないような慎重きわまる世間というものにつくづく嫌気がさしただけだ」とつぶやきます。 ジョーン自身はいささかも自己の生き方に疑問をさしはさまなかったはずですが、異国情趣あふれる中東への旅が彼女の夢想と妄想に拍車をかけ、やがて自身の生き方に罪悪感を抱くにいたる物語が展開していきます。 ジョーンの生き方、考え方は大なり小なり、ささやかな家族の幸せを維持するうえで求められうる負の側面であり、読者自身の人生観にも沿うところがないとはいえません。ですから彼女の旅路に同行することは、ジョーンの中に読者が自身を見つける旅にもなります。 彼女は後段、自身の生き方について贖罪の念を抱くかに至りますが、その思いが家族に届くことはないようです。エピローグは一転して夫ロドニーの視点から家族の真相が語られますが、それは底なしの哀しみとおののきを読者に与えるものでしょう。 しかし私自身は、ジョーンの生き方を徹頭徹尾斥ける気持ちにもなりませんし、かといってそのすべてをまるまる受け入れることもできません。 ボブ・ディランの楽曲「いつもの朝に」にはこんな一節があります。 “You’re right from your side. I’m right from mine.” (きみの立場からすればきみは正しく 私の立場からすれば私は正しいのだ) まさにジョーンと家族の視点はこのディランの歌詞のとおり。ジョーンだけを断罪することも、ロドニーら家族の視点だけを無邪気に肯(がえ)んずることもするまいと自己を戒めながら書を閉じました。 人と家族の一筋縄ではいかない実相を巧みにえがいた長編小説です。 最後に、この邦訳についても言及しておきたいと思います。 訳者の中村妙子氏がこの小説を日本語に移し替えたのは昭和46(1971)年とのこと。しかしその妙なる訳文は今読んでも決して古びていません。ジョーンの心のひだの揺れ動きを見事に描出していて、ほれぼれします。中村氏の訳文があったればこそ、この小説が今もクリスティの傑作のひとつと数えられるのでしょう。 私はこの小説を堪能しました。 ------------------- 主人公の姓は「スカダモア」とカタカナ表記されていますが、イギリス人の名前Scudamoreは「スク(―)ダモア」とするのが原音に近いといえます。2010年代にサッカーのイングランド・プレミアリーグの最高経営責任者(CEO)だったRichard Scudamore氏は、日本のスポーツ紙では「リチャード・スクダモア」と表記されていました。 ----------------- この小説を読んでいるうちに、以下の小説のことを思い出しました。 ◆モーパッサン『 女の一生 』 :主人公ジャンヌは妻として母としての幸福を夢見て結婚生活に入るものの、そこには決して無垢な幸せが待ち受けていたわけではないという悲劇です。 . | ||||
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| 考えさせられました。何にもわかっていなかったのではないかと言う思い方、謙虚に振り返っていく生き方、とても感銘を受けました | ||||
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| クリスティの代表作はあらかた読んでいますが、私は今作がベストと思いました。 歴史に残るミステリのトリックを数多想像した作家が、これほどまでに人間を深く知悉していたということ自体が信じられない奇跡です。 読書中にゾクゾクと鳥肌が立つような感覚を覚えたのは、久々の体験でした。そして、もっとも恐ろしいのはラストです。この顛末をある種の「やさしさ」と解釈する読者のいるのかもしれません。しかし、私は底の見えない不可思議な人の闇をみた気がしました。 …文学であり、ミステリであり、そしてホラー小説です。 | ||||
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| 最初はとても古臭くてつまらない小説に感じ、そのまま読み進めるかどうか迷ったほどでしたが、作者の悪意(と言っていいと思う)に気づいてからは、夢中で読み終わってしまいました。それにしても、こんな話を書く作者も意地が悪いとは思いますが、ついつい登場人物の不幸を願ってしまう私もまた意地が悪いなあと思わされてしまったのでした。 | ||||
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| 巷で「愛情」と謝って取られがちな心情があって、しかもこいつの厄介なところは、相手の人生も自分の人生も破滅に追いやってしまうという点で愛と正反対の性格を持っていることにある。 これは、「所有欲」「優越欲」と言われるもので、メンヘラとかモンスターペアレントとか呼ばれる人間が陥りがちな「ニセモノの愛情」なのである。 今作の主人公「プア・リトル・ジョーン」はまさにこの人間である。 口では「あなたのため」「子どものため」「生活のため」ともっともらしい先見性をちらつかせている。しかし実際は、夫の職業選択権も娘の恋愛の自由も容赦なく奪いさって、自分の思い通りに操ろうとしているだけなのである。 いったいなぜなのか?原因は二つ。 一つは彼女の抱える、病的なまでのナルシシズム。 「私がブランチのようにならなくてよかった!」 「ロドニーは先見の明がないから、『有能な私』が導かなきゃ!」 「娘たちは若いんだから、正常な恋愛なんてできるはずがない!」 ジョーンはこんな具合に独白する。言葉ではいかにも他人を思いやっているようで、実際はだれもかれもを見下し、ゆえに誰にも心を通わせることがないのだ。 だって、他人は「自分より下」で当たり前なのだから――。 もう一つは、自分でさえ気づかない他人への無関心さ。 ある意味ナルシシズムの延長ともいえるだろうが、彼女はとにかく議論をしない。それは「円滑に会話しているから」などではなく、「すべてをろくに聞かずに突っぱね続けているから」に他ならない。 どうして夫が弁護士でなく農家になりたがったのか。 どうして娘がジョーンの思いもよらないような男と交際したのか。 どうしてブランチが奔放な生活を続けるのか。 聞けばわかることだ。たとえ理解できなくても尊重ならできるはずなのだ。 しかしジョーンは、「愚かだからだ」と安易に決めつけ、そして嘲笑するのだ。 その結果、彼女はどうなったか。 このあたりが、この小説が「ホラー」と呼ばれるゆえんだろう。 結論から言えば、ジョーンは思った以上にみんなから疎まれていた。 夫にはとっくに愛想をつかされ、娘からも距離を置かれ。 ゆいいつ苦言を呈してくれたブランチさえも、最終的にはまた貶めた。 ジョーンはこれからもずっと不平を垂れ続ける。真実から目をそらし続ける。 だからこそ、彼女は「プア・リトル・ジョーン」なのである。 ……ちなみにこの作品を読んで「女って怖い」という人がいますが、違いますよ。 女が怖いんじゃないんです。 「こういう女」が怖いんです。 そしてこういう男も怖いんですよ……。 | ||||
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| 帯に鴻上尚史の推薦文があったが、その通りの内容だった。アガサ・クリスティ作なので、題名では一般的なサスペンスでは無いと判っていたが、家庭生活を送っている誰にも当てはまりそうな、真実の怖さを感じないわけにはいかなかった。 誰もが経験する日常の危うい真実のミステリー‼ 心に引っ掛かったまま、取れそうにない棘になった。 | ||||
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| クリスティの小説ですが推理小説ではありません | ||||
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| 子育てが終わり第二の人生が始まった女性向けの本です。 物語を楽しむ為の本で実生活で為になる事はありません。 何処かしら東洋人や低い身分の者を見下しているようでアガサ クリスティはあまり好きな作家ではありませんが、 そこを除けば良い内容だと思います。ミステリー本ではなく女性の人生って一体何?的な女の一生のような感じの小説です。 | ||||
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| とても恐ろしい作品である。 その昔読んだときはすごいなーとしか感じなかった。 主人公の年齢もあってむしろ自分のことは置いておいて親に重ねて読んだりしていた。 その主人公の年齢をとうに越した今再読して衝撃を大きく受ける。 自己認知と他己認知がこんなにずれていることはあり得るのだろうか。 本人が選んで夫や家族に与えてきた価値観は家族には何の魅力もなくむしろ苦痛にしかなっていないことが、 本人に家族が向き合うことなく回避し続けることが、 それを本人が全く認識していないことが、 そしてそれを本人が自覚してそのGAPに衝撃を受けても、生活を関係性を変えずに生きて行くことが。 これが自分のことだとするとこんな不幸なことはない。 出来上がってしまったそして変えることが難しい自己を、近しい大切な人にとって少しでもより良いものにできればと感じている。 以前持っていた昭和61年の八刷版には翻訳の中村妙子さんのご本人のインテリジェンスを表すキルケゴールに関するあとがきがありました。 現在の版には存在しないこともあり、一部引用します。 非常に示唆に富んだ内容です。キルケゴール難しすぎて読めないですし。 -------------------------------------- こんな「あとがき」にキルケゴールを持ち出すのはどうかとも思うが、「春にして君を離れ」を読み返しながら私が「死にいたる病」の一節を思い出して、ジェーンの哀れさが人ごとならず身に沁みたのは偽りのないところである。 絶望というものは必ずしも外からの衝撃によらないでも、自省というものを通じて明らかになり得る。 そしてこの自省とともに一種の分離作用が始まって、自分の環境とか、外界、またそこからくるさまざまな影響と本質的に区別されたものとして、 自己自身への注目がはじまる。 ジョーンは友人との何気ない会話をきっかけに、過去の出来事を新たなめで見直す。砂漠の静寂の中で、過去の出来事は一つ一つ息を吹き返し、次から次へと波紋を呼ぶ。 しかし、自制によって自己が自己自身を引き受けようとするとき、自己の必然性の中で多くの困難に遭遇する。 弱き自己はこれらの困難の前で尻込みをする。 さらにまた、自省を越えて、もっと深刻に彼のうちなる直接性を粉砕するようなものが現れるとき、自己は絶望する。 人間は自己を放棄することになかなか承服できない。彼の絶望は、自己自身であることを望まない絶望なのである。 そこで彼は一時難を避けて、危機が過ぎ去るまで待とうとする。そして危機が去ったと知ると、もとの古巣にもどって、かつて自己を捨てかけた、その所からまたはじめようとする、、つまり変わり映えしない自己を引き受けて生きて行くのである。。 -------------------------------------- | ||||
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| 今年の初めに英国の石黒さんの小説を読んだ。普段読まないジャンルだが、面白かった。だから、たまにはこの様なジャンルの小説も良いかなと思い購入した。じっくりと読み通したいと思う。 | ||||
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| クリスティーの本は何冊も読んでいますが、殺人事件が起きないのでこの作品は敬遠していました。 しかし評価が高いので読んでみたら、まさかのこれがクリスティー作品の中で一番のお気に入りに。 子育てを終えた中年女性である主人公が、過去の自分の言動を振り返る、ただそれだけの話です。 しかし次第に不安感に襲われ、追い詰められていく描写が見事です。 そしてこの主人公の過去の言動が、読み手である私自身の過去にもあるのではないかと気付くと、急に背筋がゾッとしました。 今まで意識していなかった心の奥底を抉られたような感じでした。 主人公の心の変遷に読み手まで巻き込んでしまう、人間の本質を描いた傑作でした。 | ||||
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| あなたの目を通して見た世界、あなたの目を通して見た周囲の人々は、本当にあなたの解釈した通りに存在し、行動し、感情を持ち、あなたが定義づけた通りにあなたを扱ってくれているのでしょうか? 本当に??? なんとも地味な筋書きなんです。けれどこれは、探偵役も、犯人役も、被害者役も主人公という立派なミステリー。その要のトリックは、人間の傲慢な自意識。だからこの小説はきっと、千年経っても廃れないことでしょう。 | ||||
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| 表面に見えている部分が真実だと疑わない。テレビの言うことや、新聞の書くこと、政府の言い分、いわゆる常識、これを信じていたら戦争に突入したり、気候変動が起きたりする。この小説こそ現代の常識がコロコロ覆っている我々が読むべきではないか、そんな風に思う。多分こんな主人公の様な人、世の中の殆どの人は死んだ時に全てを気づいてそして去っていくのだろう。 | ||||
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| 翻訳は、もう少し現代風にしてもいいのではないかと思います。 ネタバレです。 一番不幸なのは、間違いなく夫のロドニーですね。「休暇もついに終わりか」の一言に尽きます。 「かわいそうなジョーン」という自分を棚に上げ、上から目線の発言。 かわいそうなロドニー。 こんな男にはなりたくない。 | ||||
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| 既婚男性にぜひ読んでいただきたい。あなたの奥さんは主人公よりいい奥さんだろうか。 | ||||
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| 個人的にアガサクリスティの代表作(オリエント急行殺人事件、ABC殺人事件、アクロイド殺し等) は読んでいたのですが、この作品は恥ずかしながら未読でした。 評判が高かったので読み始めたところ、翻訳は非常にすばらしく読みやすい文章ではあるのですが、 読み進めるうちに次第に不穏な雰囲気があらわになってきて「どう考えてもハッピーエンドで終わらないだろ」 という不吉な予感しか感じられず、読み進めるのに非常に時間がかかりました。 終盤で明らかになる真相に(というか、主人公が真相に気がつく瞬間に)明らかなカタルシスはあるのですが、 その後の展開が、もうなんと言って良いのか分からないような重苦しい展開となり、 最後は主人公の旦那さんの重い独白で終わるという構成。 読んだ人は共感してくれると思うのだけど最後の一文を読んだ瞬間に、なんとも言えない気持ちに包まれました。 自分の人生に当てはめてみても、果たして主人公のような振る舞いをしてないか、と考え込んでしまいました。 この小説は殺人事件は無いですし、厳密な意味では推理小説ではないのかも知れないけれども、 アガサクリスティが残したものすごい名作だ、と個人的には思いました。 希有な読書体験をしたい人にオススメな1冊ですね。 | ||||
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| いわゆるキリスト教圏ではない日本では馴染みのない「回心=悔い改め」ですが、キリスト教の基本であり最高の美徳でもあります。 自分の愚かさや無力さ、罪深さを実感し、自分が「塵から作られ塵に還る」ただそれだけの虚しい存在であることを認める絶望。 しかしそのような自分のためにも、キリストは命を捨ててくださった、キリストの犠牲によって神との和解が成立したことを受け入れ「生まれ変わる」のがクリスチャンです。 けれども人の心には防衛機制があり、正当化したり忘れたり都合のいい記憶に塗り替えたりしてしまいます。人間には完全な悔い改めというのは、不可能なことなのでしょう。 クリスティーはクリスマスをテーマにキリスト教を皮肉る内容の短編集も書いているので、この小説はもしかしたら、そこまでの「悔い改め」が本当に人間に可能なのか。あるいは「かわいそうなジョーン」には永遠に救いは訪れないのか。というキリスト教の「救い」への問いのようなテーマかもしれません。 この小説の「ジョーン」という語り手は、わかりやすく独善的で、自分を直視できない臆病者として描かれているのでつい「こういう人いるよね」と他人事として 「問題のある誰かさん」と重ねて読んでしまいがちですが、そうやって読んでいる自分こそが、ジョーンと似た状態に陥っているのだと思います。 「いくらなんでもジョーンほど愚かではない、私はもうちょっと人の気持ちに気づけるわ」 あるいは母親としてのジョーンに対して 「ウチも似たような面があるのかな…いや、でもウチは結局、最後は子どものが我を通したこともあるもの。やっぱりジョーンの家庭ほどの問題はない」 こういう読み手は、ジョーンが「私がブランチのようでないことを感謝します」と祈ったのと同じ場所にいるのです。「ジョーンのような鈍い性格でなくてよかった」と。 ちなみに「私が〜のような罪人でなくて感謝します」という祈りは、罪を嘆き、神の哀れみを請う祈りを捧げる罪びとの祈りとの対比で、聖書に記されている有名なエピソードです。「〜さんのような罪を犯していないことを感謝します」という祈りは誤りであり、罪人の祈りこそ神は求めておられる、という教訓として。 | ||||
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| 登場人物の心理や描写、観察力のある筆が素敵です。こういう作品も書かれていたのですね。 | ||||
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| 究極の推理小説とはどういうものかというと、その候補の一つは、小説ではないが、紀元前に書かれたギリシャ悲劇が原型を示しているかも知れない。アリストテレス「詩学」が簡便にまとめたように、ここでの物語は「発見」とそれによる「急展開」を中核とする。そして、さらにその中の典型としてはソフォクレス「オィディプス王」が挙げられる。「自分」を発見することで、急転直下破滅へと至る男が主人公で、これがつまりは推理ものの究極と言えるのではないだろうか。 アガサ・クリスティーは、ミステリーの女王の名に相応しく、様々な手法に挑戦している。その要点は、「真相」のすごさというよりはむしろ、「発見」を、どのような形でどのように描くか、それによってどのように読者を驚かせつつ納得させるか、にある。その点から見て、叙述トリックを使った「アクロイド殺し」と「そして誰もいなくなった」は特に傑作の名が高い。しかし、その彼女にしても、犯人=探偵のプロットは、推理小説としては書けなかった。叙述トリックとは読者をだますもので、広く見ればすべての推理小説がそうだ。しかし、主人公が自分の行為の意味を最初は知らず、つまり、自分で自分をだましていて、後になってそれを発見する、というのは、ありそうな気もするが、我々がよくなじんでいる推理小説の型からはかけ離れている。 そこでこのような作品は、別人名義で、「ロマンス小説」として発表された。八割以上がヒロインの内面で展開する。そこで彼女は、たまたま会った学生時代の友人と、天候のために足止めされたトルコ国境の町の荒涼たる景色に触発され、自分を見つめ直す。自分が家人にとってどのような存在であったか、本当は気づいていたのに意識の底に沈めてしまっていたものを、改めて発見するのである。犯罪などまったくないのに、回想と情景描写とが重層的に積み重なる叙述は、この種の小説としては稀なスリリングさを獲得している。 ところで、この「発見」は「客観的な真実」であるのかどうか。そのへんは曖昧にして小説を終えることもできたろう。トルストイ「クロイツェル・ソナタ」はそのように構成されている。この作品は、最後の章で主人公の夫の視点を出して、彼女の「発見」は他者から見ても真実であることがわかる。これはエンターテインメント小説だからだろうか? 必ずしもそうではないようだ。この末尾で、主人公が「真実」を再び無意識へと追いやってしまったこと、それに、もっと短く、世間的な基準からすれば、彼女は「正しい」としか言えないことが示されているからだ。最後にきてこの人生の皮肉には、かなり慄然とさせられた。 | ||||
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