無実はさいなむ
- アリバイ (477)
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予想してたよりかなり面白く、読みごたえがありました。巻末解説に《愛すべき失敗作》とタイトルがついてるけど、失敗作だとは思わなかったけどなあ。濱中利信氏の解説文にある《本書の最大の難点は、事件に対する視点が一定していないことにあるのでは》p.427 にしても、私は違和感を感じなかったし。作者が上から俯瞰(ふかん)して物事を眺めている視線、登場人物たちにその眼差しを照射して語らせている味わいがあって、これはこれでありなんじゃないのと思ったんだけど。 本作品でまず印象に残ったのは、二年前に殺されたレイチェル・アージルという人物のキャラクターでした。この人、クリスティーの『春にして君を離れ』の主人公・ジョーンの系譜に連なる人かなあと。 自分では自覚せずに他者を抑圧し、彼らの自由を奪っている人。一見、大人物の立派な人とも見えますが、その実、自己満足の塊と言ってもいい独裁者。殺されたこのレイチェルって婆さんの養子として引き取られた某人物の次の台詞など、ぞっとしちゃいましたよ。 《「わたしが憎んだのは、お母様がいつも正しいことばかりしていたからよ」(中略)「いつも正しい人間なんて、こわくない? 見ていると、こっちが無能力者みたいな気持ちになってくるわ。(後略)」》p.308 もう一つ、本書の肝(きも)としてスリリングで面白かったのは、過去の事件が蒸し返されたことによって起こる家族間の疑心暗鬼、そのぞくぞくする恐怖でした。それは、次の文章に要約されるものです。 《「あの一家に嫌疑がかかるとすれば、その嫌疑は永いあいだ──たぶん永久に晴れないかもしれません。そして真犯人が家族の一員だとすれば、それが誰なのかということは、かれら自身にも分からないのです。アージル家の人びとは、お互いに顔を見合って、疑心暗鬼で‥‥‥そう、それが一番おそろしいことではありませんか。誰かが犯人なのに、それが一つの家のなかですら分からないという‥‥‥」》p.84 小笠原豊樹の訳文。初出は1960年なので、今から六十年以上前の訳文です。ですが、ほとんど違和感なく読んでいくことができました。古びていない、しっかりとした訳文だなあと感じました。 それと、文庫の表紙カバーの写真が、なかなかに意味深なものではないですか。大きな環(わ)に、いくつもの環がからまって付いている鎖(くさり)の写真。これあたかも、作中のアージル家を暗示しているみたい。ふと、ショスタコーヴィチの『交響曲第5番』の音楽が脳裏をよぎりました。妙なさむけを覚えました。 | ||||
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本書『無実はさいなむ』は、ノン・シリーズものです。 シリーズものの集大成でもあり、その原型でもあるように感じます。 本書『無実はさいなむ』のタイトルは、奇妙で、絶妙です。 「無実」という言葉と「さいなむ」という言葉は、反対語のようです。 「無実」はポジティヴでよろこばしい。 一方、「さいなむ」はネガティヴで悩ましい。 原書のタイトルは、 ”Ordeal by Innocence” 直訳すれば、無実によって生ずる試練。 試練? 「この試練に耐えることこそ義務なのだと思いました」(43頁) 「いわば神の試練です」(348頁) 現実の事件でも冤罪が後を絶ちません。 犯罪捜査が犯人を特定できないとき、 誰かを犯人と推定し、解決させることがあるからでしょう。 しかし、これは、正しい「解決」ではありません。 「何事も解決されない。それが正しく解決されるまでは」(27頁) 「正しく」とは? どのような価値観で、どのような法体制で正しいのか? キップリングの言葉のようですが、出典を知りたくて、 キップリングの本を何冊か読んで探してみましたが、まだ見つけられません。 しかし、読者にとって、この探すこと自体が楽しいから不思議です。 普段、素行の悪い者は、確たる証拠がないのに、 状況証拠だけで犯人にされてしまいがちです。 自らアリバイを証明できなければ、有罪にされてしまいます。 無実のアリバイが証明されたら、 今度は、では真犯人は誰か、ということになります。 動機のある人間は実にたくさんいます。 動機だけでは有罪を断定できません。 容疑者がたくさんいる場合、真犯人は誰か、 決め手が無く、悩ましい状況になります。 警察は再捜査しなければなりません。 疑わしい人たちは互いに疑心暗鬼となり、愛する人まで疑ってしまいます。 愛どころではなくなってしまうのです。 真犯人にとっては、口の軽い人間がうっかり真相をしゃべることが恐ろしい。 口封じのために第二の殺人が計画されてしまうこともあります。 本書では、メアリの夫のフィリップ(フィル)・デュラントみたいな人間があぶない。 ゲーム感覚で首を突っ込みの探偵好きの人間も、第二の殺人事件に巻き込まれやすい。 本書には登場しませんが、ミス・マープルのような好奇心の強い人間も危険です。 真犯人による口封じの犠牲となるリスクが大きいからです。 マープルは、どうしても推理の筋がつながらない場合、 ちょっとした罠を使ってまで真犯人に自供させるところがあります。 これがアガサのフィクションを面白くさせているところです。 最後に、「帆柱の鳩」の謎について。 「ふねが行くとき帆柱の鳩は、ひたすら嘆き悲しんで」(424頁) 「カーステンがよく歌ってくれた唄」(424頁) 「恋人はわたしの右手に立って」(424頁)歌います。 「おお乙女、いとしい乙女、わたしはここにおりませぬ。どこにもいない、海にも、岸にも。いとしいあなたの胸にいる」(424頁) この唄の出典が知りたくなりました。 インターネットで調べてみましたが、依然不明。 アガサの創作なのかも。 長年、アージル家の忠実な家政婦を務めてきたカーステン。 彼女にも若き乙女だった頃があったはず。 本書の殺人事件の動機の一部を示すために、 アガサが創作した唄だったのかも知れませんが・・・ | ||||
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どの作品にも共通していることだが、人間の心理描写につい引き込まれてしまう。 本作品に登場する多彩な人物像もしっかり描写されており、飽きさせない。 作者自身の思いが作品に投射されているのだろうことを、強く意識させられる。 | ||||
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勇気を持って、良かれと思ってしたことでも、受け手によってはとんでもない迷惑になることもある。それでも、想像力の欠如によって自分が起こしたことに対する責任を果たし、そして人を信じることができる勇気をもった主人公キャルガリに拍手を送りたい。 真相が明らかになるまで、罪は疑いを持たれた全ての人を害する。見て見ぬふりをすることが一番良いのかと感じてしまうこともある。でも、偽の真実ではなく、真実を前提にしなくては平安は訪れない。ことなかれ主義ではなく、こんな風に勇気をもっていられたらと思う。 | ||||
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最高に面白い。 本(紙)とドラマ(映像)ではラストが違うが、どちらもそれぞれで個人的には、良いと思う。 ドラマの方は全3回なので、もしどこかで放送されていたら是非。 | ||||
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