■スポンサードリンク


証言拒否 リンカーン弁護士



新規レビューを書く⇒みなさんの感想をお待ちしております!!

証言拒否 リンカーン弁護士の評価: 9.00/10点 レビュー 2件。 Aランク
書評・レビュー点数毎のグラフです平均点9.00pt

■スポンサードリンク


サイトに投稿されている書評・レビュー一覧です
全1件 1~1 1/1ページ
No.1:1人の方が「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(10pt)

正しきことをしようとしたハラーだったが…

リンカーン弁護士ミッキー・ハラーシリーズ第4作目。
今までハリー・ボッシュシリーズを主に書き継ぎ、その合間にノンシリーズ物やスピンオフ物、そしてこのミッキー・ハラーシリーズが書かれていたが、このシリーズが連続して刊行されたのは本書が初めて。よほどコナリーの中で弁護士を主人公とした取り扱いたいテーマがあったのか、はたまた『ナイン・ドラゴンズ』以降、娘を引き取ることになったボッシュの動かし方を模索している最中なのか、いずれにせよコナリーにとってこのミッキー・ハラーシリーズはもはや作家として新たな地平に立つために必要なシリーズとなったようだ。

それを証明するかのように本書では刑事弁護士であるミッキーが民事も扱うようになる。当時世間を騒がしたサブプライムローン問題で住宅ローンが支払えなくなり、多くの差し押さえが発生したこの事件にミッキーはビジネスチャンスを嗅ぎ取り、差し押さえ訴訟を多数扱うようになる。

しかしやはり常に災厄を抱えるこの弁護士は自身の依頼人の一人リサ・トランメルが住宅ローンの責任者であった副社長のミッチェル・ボンデュラント殺害の容疑を掛けられることで久々に刑事裁判を取り扱うようになるのである。

ただこれまでと違い、不当な差し押さえ案件を扱うことで不当に虐げられ、不利な立場を強いられている人々を救うことになり、救世主的な存在となっていることがハラーの中で今まで刑事裁判を扱っていた時の疚しさを和らげていることが救いとなっている。それは娘のヘイリーから母親が犯罪者を刑務所に送る検事であるのに対し、本来は無実の人を冤罪から救うための正義の使途であるはずの弁護士が犯罪者の味方をする職業のように見られていたことからも改善する一助なっていることが多分に大きいのだろう。

このヘイリーの想いはそのまま私の想いにも繋がる。
ミッキー・ハラーの物語を読むといつもこう思うのだ。一体正義とは何なのだろうか、と。

今回ハラーの“事務所”は1人の新人を雇っている。ブロックスことジェニファー・アーロンスン。彼女は裁判が無実を証明するためのものだと信じている方に携わる人間で彼女を配置することでアメリカの裁判がもはや正義を証明するものではなく、被告人がその犯罪を行うのに妥当であることを証明しているに過ぎなく、従って弁護士は検察側が繰り出す数々の証拠や証言の矛盾点を突くこと、もしくは別の方向から攻め立て、捜査事態が正当な手続でなされていない、もしくは違法に行われたことであることを立証して事件自体を無効化することに腐心する。
従ってハラーは決して依頼人が無実であるとは信じていない。寧ろやったかやっていないかを聞きもしない。彼は父親の教えから依頼人が潔白でないことに立脚して事を進めるのだ。

そんなアメリカの裁判にまだ浸っていないアーロンスンは恐らく全ての弁護士がかつてそうであった、正義を重んじ、あらぬ罪を掛けられた依頼人を護る正義の使途としての純粋さを持ったルーキーで、事あるごとにハラーのやり方に疑問を挟む。

なぜ依頼人の話を聞かないのか?
単に目くらましだけで他の容疑者を召喚するのか?
なぜ証人を誤魔化すためにありもしなかったことを訊くのか?
実際に起こってないかもしれないのに陪審員の注意をそらせるために偶然かもしれないことを利用するのか?

ハラーと調査員のシスコがその都度アーロンスンを諭す。
我々は弁護の手段を模索し、依頼人に最良の弁護を施す方策を、戦略を作るのだ、と。

このアーロンスンとハラーのやり取りはそのまま今のアメリカの裁判が抱えている、いや世界の裁判が抱えている正義を成すことに対する矛盾を見事に示唆している。
我々一般人が常に弁護士や検察官たちが下す判定に違和感を覚えることをこの新人とベテランのやり取りを通じて教えてくれる。アーロンスンがまだ感情というものに寄りかかっている我々に近い立場の人間であり、ハラーたちは徹底して論理を追及する法律を扱う側の人間である。ここにかなり大きな溝があることを知らしめされるのだ。

そしてそれは訴追する検事側も同様だ。
やり手の女性検事アンドレア・フリーマンは次から次へと奇手を繰り出してハラーを翻弄する。物的証拠を二度に亘って裁判の大事な局面の直前に提出し、ハラーに検証する余地を与えようとしない。フェアであるべき裁判はいかに相手を出し抜くかのゲームに終始するのだ。アングラな場所で行われる違法な高額で行われるポーカーゲームと大差がないほどに。

こういった裁判の実情を思い知らされるとボッシュが正しいことが為されるべきとして自ら制裁を加えたくなる衝動に駆られるのも無理もない、むしろそちらの方が正しいのではないかと思わされてしまう。

さてそのハリー・ボッシュも本書でカメオ出演する。ハラーが二人組に襲われ重傷を負い、その快気祝いのメンバーとして娘のマデリンと駆け付けるのだ。
前作でお互いの娘を引き合わせ、それまでビジネスライクだった関係から親戚付合いへと発展する兆しを見せた両者だが、それ以降の発展はないことが語られる。今回の事件は前作から1年後とされており、日本人ならまだしも親戚同士の付き合い、事あるごとにパーティーを開く慣習のあるアメリカ人にとってこの疎遠ぶりは珍しいことだろう。それはハリーが孤独、いや孤高であろうとすることへの拘りの強さから来ているのだと思う。
犯罪者と向き合う仕事は常に家庭を、もしくは親類を危険に晒すようなもので、特に犯罪者に対して徹底的に容赦を見せないボッシュにとって前作でもそうであったように娘マデリンだけでも足枷、弱点になっている。ボッシュの性格もあるだろうが、根っからの刑事であるボッシュがハラーとの付き合いに発展を見せないのはそういった配慮もあるのではないだろうか。

前作の感想で私はハラーとマギーが知の戦士でボッシュが力の戦士を担うと書いた。
これは実際に犯罪者と立ち向かうのがボッシュであることから来ているが、本書ではその役割を担うのが調査員のシスコことデニス・ヴォイチェホフスキーだ。

1作目で殺害されたラウル・レヴンの後釜でハラーに雇われるようになった元武闘派ハーレー集団の1人だったこの調査員は有能ではあるものの、いわゆるその腕っぷしを披露する機会はさほどなかった。しかし今回はハラーの守護天使ぶりを存分に発揮する。

2作目で秘書のローナ、3作目で元妻マギー、4作目でシスコとシリーズごとにそれぞれのキャラクターに厚みを持たせている。このシリーズは単に作者の気分転換のための物でなく、もう私も含めコナリー読者が待ちわびる、ボッシュシリーズと比肩するほどの人気と実力を備えているといっても過言ではないだろう。

今回驚いたのがハラーがハリウッド・エージェントと契約していることだった。
これまでコナリーは作中で自作の映画化について登場人物に語らせており、本書の中でも第1作の『リンカーン弁護士』が映画化されていることが触れられているが、話題性のある裁判が映画化され、ヒットする可能性を秘めていることからハラーは単にその裁判の弁護を務めるだけでなく、映画化の際に映画会社にその権利を売ることができ、しかも本を書いて売ることも出来るようになっている(ところでコナリーは映画でミッキー・ハラー役を務めたマシュー・マコノヒーがよほど気に入ったようで本書のみならず何度も引き合いに出しているのが面白い)。

リサ・トランメルの裁判の映画化権を巡るハリウッド・ゴロと呼ばれるハーバート・ダールとの丁々発止のやり取りもこの裁判に掛かる副次的な戦いとして描かれており、もはや弁護士は単に裁判の弁護や法律相談役といった法的関係の仕事のみでなく、メディア関係にも手を伸ばして多角経営をしないと生き残れないのかと感じ入った。

裁判はもはやショーであり、法廷の中にドラマがあるのだ。

あとやはり触れておかねばならないのはSNSが犯罪に利用されやすいということだ。
リサは銀行の不当な差し押さえに抗議する活動団体の代表を務めており、フォロワーが1000人以上もいるが、その大半は彼女が自分たちの活動を支援する人々だと思って、申請を許可した人ばかりだ。

まさに現代のIT社会が招く恐ろしさを本書では扱っている。私がこのFacebookのみならずLINEやインスタグラムをしないのは、そのネタのために話題作りをしたり、まめにアップするのが煩わしいからもあるが、自分の行動を他者に伝えることで自ら禍を招くことを恐れてのことでもある。今回の事件はまさに私の懸案が扱われたものとして興味深く思った。

さて今回のタイトルである証言拒否だが、これは物語の終盤になってようやく登場する。証言を証人に拒否させることで自分に有利に裁判を運ばせる。
私は裁判のことをよく知らないが、究極のテクニックではないか。証人がこの権利を行使するよう、追い詰め、そうさせたハラーはメンタリストとしても超一流のように思える。原題の“The Fifth Witness”は「証言拒否をさせられるための証人」を意味するらしい。

また今回特に元妻マギー・マクフィアスとの再婚を熱望する彼がいた。
しかし弁護士と検事の夫婦は真逆の立場で仕事を家庭に持ち込まないようにしないと夫婦生活が成り立たないのだ。やり手の2人はそれが出来なくて結婚が破綻した。

このリンカーン弁護士シリーズの結末はいつも苦い。

ボッシュシリーズが彼が悪と信じる人間をとことん追求し、そして捕えるまでを描くため、そこでいかなる形にせよ終止符が打たれるのに対し、このシリーズは容疑者が捕まり、それが果たして本当の犯人なのかを証明する物語であるが、もはや法廷が無実を証明する場所でなく、無罪か有罪かを勝ち取るゲームになっているからだ。
裁判とは証拠に基づいて裁かれることで、一抹の割り切れなさを残して終わるものとなり、それが決して万人を満足させるものになっていないのだ。

そこに正義はない。あるのは有罪であると証明できるか否かしかない。たとえ被告人が犯罪者であろうがなかろうが。

正しいことが出来なくなってきているこの複雑になり過ぎた社会の苦さを痛感させられる物語だった。


▼以下、ネタバレ感想

※ネタバレの感想はログイン後閲覧できます。[]ログインはこちら

Tetchy
WHOKS60S

スポンサードリンク

  



新規レビューを書く⇒みなさんの感想をお待ちしております!!