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ソラリス
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ソラリスの評価:
書評・レビュー点数毎のグラフです | 平均点4.32pt |
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Amazonサイトに投稿されている書評・レビュー一覧です
※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
未読の方はご注意ください
全136件 101~120 6/7ページ
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この妙にウエットな邦題はどうしたものかと思います。更にこの新版のメロドラマっぽい表紙デザインはどうしたものか。本来の読者を逃しまくること山の如しではなかろうかと(少なくともわたしはこんなおっさん向けハークレインみたいな表紙なら手に取らなかった)どこへゆくハヤカワ。 さて内容。 この話の中で主人公とありがちなメロドラマを繰り広げるヒロインらしきものは主人公の記憶を元に惑星の自然現象が生み出した生成物に過ぎないわけですが、まあそれを言うならば我々にしたところで、「惑星の生成物」に過ぎないという点ではおんなじなのですね。 人間の感情だの思考だの精神活動のすべては単純極まりない電気信号の複雑怪奇な塊であることを我々はとうに知っていますが、この物語が書かれた時代にどの程度それが解明されていたか、また知られていたかは。61年の作品なので執筆はもっと前でしょう。 記憶やら精神やらを肉体その他と同等の「物体」つうか「現象」つうか、解析可能な物質と捕らえていなくてはこの設定は成り立たない。現代人にとっては至極あたりまえの認識ですが、当時はどうか。これが世界中で非常に広く読まれたことそれ自体が、「読書」の面白さだと思います。 人間のほうではあれこれ懊悩するけどソラリスは単なる「現象」に過ぎない。苦痛も苦悩も愛も絶望も希望も人間のものであって当然ソラリスには関係がない。ただ、自然現象の生成物である「お客」のそれと、我々のそれとの間に本質的な違いがあるかといえば、それも、ない。 ソラリス自体には存在しない「感情」だの「精神」だのが、確かに生成物の「お客」には存在している。「お客」のそれがまがい物なら、我々のそれだってまがい物。 最初読んだときは「お客」のなかにある感情を「感情」と捉えてなかったあたりわたしちゃんと読んでなかったです。確かにこれ、人間の脳の電気信号がソラリスにぶつかって出来た生成物なんだが。イコール「人格がない」というわけではないのだ、全然。「お客」が泥人形ならば、我々人間もやっぱり泥人形に過ぎんのです。「精神」自体には本質的な違いはない。おもしろいね。 完訳ではないことと、邦題のウェットさ、そして表紙デザインに星一個減らしました。それだけ瑕疵があっても傑作は傑作。 再読、再々読、再々々読に耐える古典です。おっさん向け恋愛三文小説みたいな表紙に騙されちゃだめ。ぜひ。 | ||||
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「未知の知的生命体を理解するとはどういうことか」をテーマとしたSFの古典。 一般のSF作品では地球外生命体が登場する場合、その生命体から 何らかのメッセージを受け取りうることが暗黙の前提となっている。 しかし本書ではその暗黙の前提が成り立たない世界を描くことで、 擬人化(=人間中心主義)の無根拠性をグロテスクに暴き出している。 かつての恋人のレプリカ(=擬人化のメタファ)を通じた男女間の理解の断絶、 更には自己自身の理解不能性が二重写しとなって物語に厚みを与えている。 根源的な理解不能性を前にした時、 ケルビンのように健全な自らの世界に引き返すのか、 スナウトのようにあくまで理解を目指しそこに踏みとどまるのか、 人類がその判断を迫られる日がいつか来るのだろうか。 | ||||
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ソラリスの海が知的生命体だとしても、人間に理解可能な感情や目的を持っていない可能性があるどころか、 そういった基本的な概念の枠組みすら共有していないのでは?という疑問がわきます。 そうだとする、人間が人間である限りソラリスの海の意図を理解することは不可能なのでは?"意図"なんてカテゴリーは人間のものだから。 これを読むと大概のSF映画に出てくるような"人間らしい"エイリアンは、本当の意味でのエイリアンではないということがわかりますね(笑)。 もうひとつ思ったのは、主人公は彼女を愛しているのかも知れないが、一体誰を愛しているのだろうか?ということ(意味不明)。 愛はオリジナルに向けられていたはずなのに、コピーの彼女にも向いている。 ソラリスの複製は不完全だけど、完璧に同じ記憶を持ち同じ振る舞いをする恋人が現れたら、人間はどう反応するんでしょうね。 第一、入れ替わっても気づきさえしないのでは。。。恐ろしい。(シュワちゃん主演のシックス・デイという映画はそういう話でした) 愛とは無条件にその人を慈しむことだとかよく言われますが、完璧に同じ人間は他にいないという前提での話になりますね。 | ||||
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学生時代SFをよく読んでいましたが、社会人になって離れ、 久しぶりに手にしたSF本でした。 大変冷たいような、無機質な語り口で紡がれる物語は、 SFならではの発想力を持って、人間の内面、 感情の深い所を浮き彫りにしている様に感じました。 閉塞した空間、狂ったとしか思えない研究所員、 徘徊する陰、そして目の前に現れた、<お客>。 印象に残ったのはサルトリウスの周りの子供です。 ゴヤの暗い絵、「我が子を食らうサルトゥヌス」を思い出しました。 読後の寂寥感と共に,「理解しあえると思ってたのかな?」 と笑うレムを想像してしまいました。 | ||||
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映画「惑星ソラリス」のイメージが強く、頭からバッハのコラール・プレリュード「イエスよ、私は主の名を呼ぶ」BWV639が離れないのですが、「2001年宇宙の旅」と同じように、映画は映画で、本は本で素晴らしい作品だと思います。 レムの重要なテーマ、他者と遭遇した時、あまりに異質すぎて互いに理解しあえないというのが、この作品にも色濃くあらわれています。地球外生命体に限らず人間同士でも同様で、うわべだけの共感、同情など消し飛ぶ、深遠な疎外感を全編通じて味わうことができます。 | ||||
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他のレビュアーの方が書いておられるように、SFの形態をとりながら、哲学的思考を迫る画期的な小説。 本書は秀作だが、タルコフスキー監督の映画と比べると、行間にふくらみを持たせ、説明を省略した映画の独特な雰囲気の方に軍配を上げる。つまり本書は説明過多の感をぬぐえない。 逆に言うと、タルコフスキー監督は、本書からよくあれだけのイメージを抽出し、情感あふれる異色のSF映画を作ったものだと感心する。願うはリマスターされた映画DVDの発売。 | ||||
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宇宙を舞台に、人間洞察を繰り広げるSF小説。 だが、どちらかというと表情に乏しい文章と哲学が多いようで、直接感情に響いてくる表現は少なかったような感じがした。 気を付ける点としては、表面だけ読むようにしても面白いところはあまり見つからないということではないか。 詩的なイメージもあるが、そう簡単に開いてはくれない箱のように思える。 面白く読める人もいるだろうが、私は、表現が淡泊すぎるように感じた。 | ||||
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20世紀のSFの最高傑作の1つにあげられているこの作品ですが、私には、やはり難解でした。読後の雰囲気は、アーサー=C=クラークの「2001年宇宙の旅」を初めて読んだ時や映画で見た時、ブレードランナーを初めて映画で見た時に似ている感じです。 なんとなく惹かれるけど、よくわからない不思議な雰囲気... この小説の主題は、「異なる生命体とのコンタクト」。そのコンタクトは、必ずしも、人間が理解できるものであるとは限らない... ということが主題のようです。(解説によれば) でも読んでみて、やはりドキドキして、早く次の展開が知りたいと思ったのは、些細なことで喧嘩別れした恋人が直後に自殺したという主人公の心の闇を惑星ソラリスの「海」が感知して、なんとかつての恋人のコピーを作り出してよこす部分です。 主人公は、恋人の自殺にショックを受け、なぜ些細なことで喧嘩別れしてしまったのか、ずっと悔いてきました。ただ、突如現れたコピーにどう接していいか、悩みます。彼女は、主人公の恋人であるということ以外は、何も覚えていないのですが、やがて彼女自身も自分が人間ではないことに気がつきます。 主人公が、彼女を地球に連れて帰ろうと決意した時、哀しくも愛おしい形で物語が終了します。 人間ではないことに気がついた彼女が見せた、人間らしい愛。 読後感としては、これに惹かれるのです。作者は、このような読み方はあまり好んでいないそうですが... ジョージ=クルーニー主演の映画も見てみようかなと思いました。映画「ソラリス」は愛の物語にしぼって描いているらしく、私の感覚に合っていそうです。 | ||||
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この作品は、おれが自分の手で脚色して映画化したいSFの第二位である。 そもそも、この小説を恋愛ものとして読むことを断固拒否する。 おれがつくるであろう映画では、 始まりは、ソラリスの海に落ちるパイロットの描写から始まる。 そして、えんえん三十分かけて、ソラリスの海が再現するパイロットの心象風景を描くのである。大きさ二メートルの胎児をつくる。 つづいて、客の登場である。客とは何か。それは、ソラリスの海の感覚器ではないか。ソラリスの海は、客をつかって、落ちてきたパイロットの仲間と対話したかったのである。それは醜い子供のようなぎこちなさで。それは、海によるいじめにも似てた誘い文句である。 最後に、握手して終わる。 レムは断固として、握手できない拒絶を描き、だから名作といわれるが、 おれの映画では握手するのである。 そんな映画をつくれたらいいなあ。 | ||||
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主人公に感情移入させてくれないレムの作品群は、物語を読むこととは別の次元を読者に要求する。『GOLEM 14』においてはるか人間の知能を超えてしまった人工知能は人間の知能とは別次元に行き、その知性に人間は触れることはできない。卑近なもので例えれば、高速で動く物体からは低速のものが止まったように見えるが低速のものにとっては高速の物体は細部まで認識することが難しい。そのような認識の不可知性をレムは様々な作品の中で示してきた。IQが180あったというレムにとってみても宇宙や物理の世界は認識できないことだらけであり、認識しても認識しても確実な知識が得られないことに突き当たる科学者レムにとって、想像の世界において描くべきことは、不可知その一点に尽きるのである。とすれば、人間の理性を超えた理性としての『ソラリス』は描かれるべくして描かれた存在であり、そこに挑んでは跳ね返される我々もまたレムを含めた知性の限界の想像として当然描かれる。想像力の限界を超える創造性を指向しないものは、恋愛にテーマを見、我々自身にテーマを見ることしかできない。だから、新訳において追加された惑星の、ストーリー上不要とも思える長い描写は、『ソラリス』の小説世界として必然であり、あれこそが知性としてのそして我々が認識できない存在としての『ソラリス』を、最も想像力を持って描いた部分である。だからこの描写を入れてこそ、この小説の訳として完成といえるのである。その意味で旧訳は単なるSF小説であって、新訳こそがレムの小説だといえるのだ。だが、もう一つ落とせない視点は、このような描写がレムの頭の中に繰り返し現れたことを想像させるという点である。というのも最後の長編『fiasko』において、その冒頭部分の『バーナムの森』が作者によってイメージされ書かれた後、その後のストーリーがなかなかできあがらなかったという事実がある。『バーナムの森』と『ソラリス』の描写はイメージとしてよく似ている。つまり不可知であり、十分に科学と経験によって危険を予想しているにもかかわらず、その当事者の人間を飲み込む。故に『バーナムの森』は『ソラリス』の後日譚であるとも言え、そこで作者の中のストーリーが止まってしまったことも十分に想像できるのだ。…続きは『fiasko』のレビューにて。 | ||||
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奇抜な科学的論理と幻想的な雰囲気が見事に融合した、東欧SF界の大物・レムの最高傑作。タルコフスキー監督の手で映画化されたことでも有名。地球的諸条件を単に広大無辺な宇宙に移し替えるのではなく、「未知との遭遇」を真正面から描いて人間の知性と認識の新たなる可能性を謳ったこの作品は、真の意味でのSFと言えるだろう。ケルビンとハリーの切ない恋も泣かせる。 | ||||
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ソラリスの海は人間による理解をかたくなに拒む。しかし、それは個人の心を読み、もっとも触れられたくない過去の形を選り抜く能力を持っていた。差し向けられた過去たちは純真に優艶に主人公たちの精神を侵食する。主人公の内へ内へ。心を強く強く揺さぶる。読者の胸にも確実に迫るだろう。 そして、物語は終盤へ向かい、あるときを境に現象は途絶え平穏と静寂が訪れる。ソラリスに害意があったのか、好奇心ゆえのいたずらだったか、それは分からない。しかし、主人公の内へ激しく打ち寄せていた情念のさざなみが、いつのまにかそのままの振幅でソラリスに向かって折り返されているのが分かる。それはもはや学問的関心ではない。読者にとっても同様だろう。レムは恐ろしい。SFが持ちえたもっとも親しみのある地球外生命体はソラリスではないかと思う。 | ||||
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膨大な研究のあとに無数のデータ、本、新しい概念が山のように残されても、それは結局、人間が人間の認識能力に基づいて集積し解釈した山でしかない。「理解する」とはいったい何なのか? ソラリスは人間以外のものすべての象徴であるといってもいい。 | ||||
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SF史に残る名作中の名作。でも、この作品の最大の魅力は、(作者の意図に反して)、《メロドラマ》としても楽しめる所にあるのだと思う。特に「私のこと、愛してないのね。」と、拗ねて拗ねて拗ねまくるヒロインの艶姿は、とても良いです。《本格SF》と《実験文学》と《メロドラマ》が融合してしまった、希有な傑作。SFファン以外にも、オススメです。 | ||||
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【ネタばれ注意】 映画を先に観ました。映画のほうも素晴らしいですが、 小説の方も、劣らず味わい深い作品です。 架空の星であるはずのソラリスについての 学問・研究史は何故か楽しめます。 そして、 「奥さん」の置手紙・・・これは確か 映画には無かったもので、 あー、映画だけでなく小説を読んで良かった と思わされました。 | ||||
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星そのものが生命体というアイデアがすごいです 地球もひとつの生物とみなすことができますがソラリスは我々の想像を超えるものです 自殺したはずの妻が出てくるというのはオカルトですね これも我々の想像を超えています ソラリスは歴史に残るSFです | ||||
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SF界を代表する名作。広い意味での"異星人コンタクトもの"だが、そんな分類を遥かに超越した作者の意匠が光る。 宇宙船に乗った地球人が惑星ソラリスを発見する。ソラリスは厚い霞に覆われた一見何の変哲もない惑星。ところが、霞の下には知的生命体"海"が存在していた。"海"は人間を無視しているのか、嘲笑っているのか、隊員のコンタクトに応じようとしない。人類と異星人(地球を舞台と考えれば、人間どうしと考えても良い)の意志の疎通の難しさを感じさせる。物語の展開は、まるでカフカ「城」のようで、茫洋として着地点が見えない。これが、隊員の焦燥感・孤立感を高めている。最早、SFと言うよりは文学作品である。安易に異星人コンタクトものに手を出すアメリカの作家・映画人に対する皮肉も感じられる。 人類と異星人とのコンタクトに仮託して、知的生命体に関する常識(=人類に似ている)を打ち破り、更には地球における人間(民族)どうしの相互理解の難しさを風刺した記念碑的名作。 | ||||
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的外れかもしれませんが、この作品は、ここで読めるもの以上にここから喚起されるもののほうが大きく、有益である、そんな印象を持ちました。平行して「虚数」のような作品があるからでしょうか、素直に読めないというか、なにか全体を暗喩のようにして読んでしまった気がします。新たに訳出されたことについては、ハヤカワ文庫版に長年親しんではきましたが、細部をはっきり覚えているわけでもないので、改訳されたといっても、読み比べでもしない限りほとんどの人にはそんなに抵抗感はないと思います(抵抗感はないものの、やはりだいぶ違いますが)。映画はタルコフスキーのほうが僕は好きですが。 | ||||
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多田富雄の「免疫の意味論」などと平行して読んだせいか、ソラリスの在り方が、免疫が塩基を組み合わせて外からの侵入者に対処するのと似ているように思いました。僕らのアイデンティティが、自分の精神を形作っている構成要素を組み換えることで、いろいろな人や出来事に面食らいながらもなんとか対処しているのと同様にです。個人的には国書刊行会から出ている「完全な真空」や「虚数」みたいな作品のほうが好きです。 | ||||
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取っ掛かりとして、映画版『コンタクト』との 比較でレヴューして見る。 『コンタクト』で最初に琴座のヴェガから、送られてきた 信号が、1から200までの素数。ジョディ・フォスターが 「数は『宇宙共通語』です。」と言うが、異議あり。 カール・セイガンの原作は、兎も角として、ソラリスの様に 1個体で1生物種をつくっている場合は、「代数」の概念が 必要ないだろう。但し、「超長物」や「対称物」をつくって見たり、 二重恒星系を巡る公転軌道を「計算」して、自分でコントロールして 仕舞っているので「純粋幾何学的な世界認識」で 「思考」しているのかも知れない。 考えて見れば、フラクタル理論のマンデルブロも幾何学者だ。 彼の本にブラックショールズ式に「対峙」する様な数式が無いのも 当然と言えば当然かも。マンデルブロも「ソラリス的」思考を していたと言っては、SF駄洒落の様なものか。 | ||||
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