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ソラリス
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ソラリスの評価:
書評・レビュー点数毎のグラフです | 平均点4.32pt |
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Amazonサイトに投稿されている書評・レビュー一覧です
※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
未読の方はご注意ください
全6件 1~6 1/1ページ
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他の方が書かれているように、わたしも飯田規和訳『ソラリスの陽のもとに』のほうがよかったと思います。なので、★3つです。(飯田規和訳『ソラリスの陽のもとに』は★5つと評価しました) こちらの翻訳を読んで「がっかり」したり「うんざり」した方は是非、飯田規和訳『ソラリスの陽のもとに』を読んでみることをおすすめします。 こちらのバージョンは図書館で借りて’読んだのですがいささかうんざししました。しかし内容的には同じなので『ソラリスの陽のもとに』を読み返しながら感じたことを書きます。 ★★★ いまから45年前に購入したハヤカワ文庫・飯田規和訳『ソラリスの陽のもとに』の背表紙にある短い解説には次のように記されている。 「すみれ色の霞に覆われ、ものうげにたゆたう惑星ソラリスの海。だが、一見何の変哲もなく見える海も、その内部では、一種数学的な会話が交わされ、ソラリスの複雑な公転軌道を自己修正する能力さえ持つ驚くべき高等生命だった! しかしその知性は、人類のそれとはあまりにも異質であった。いかなる理論をも、いかなる仮説をも受け入れず、常にその形を変え、人類を嘲笑(ちょうしょう)するかのように新たなる謎を提出する怪物=生きている「海」。 人類と「思考する海」との奇妙な交渉を通して、人間の認識の限界を探り、大宇宙における超知性の問題に肉薄する傑作!」 2022年の現在に於いて、とりわけこの作品が書かれてから61年を経た現在において上記のテーマはきわめて「現代的」な問題提起として読む者の知性を激しく揺さぶるものがあると思う。 読んでみるとわかるのだけれど、この作品はその一見難解な形而上的展開と同時に古典的とも言える人間の心の問題、人間としての愛と倫理を取り扱うラブ・ストーリーでもあるのであって、わたしはむしろその部分に強く魅かれる。 ポーランドの作家、スタニスラフ・レムによって書かれたこの小説を基にアンドレイ・タルコフスキーによって映画化された「惑星ソラリス」をもう一度この機会に見てみようと思っている。映画では後者が(どちらかといえば)メインテーマになっていて、その切なさは見る者をつきることのない優しい哀しみでいっぱいにするに違いない。 惑星ソラリスの周回軌道上に浮かぶ宇宙船の奇妙な状況をようやく理解し始めた彼のところに、かつて自殺した妻が突然現れる。もちろん幽霊などではない。彼は驚愕するとともに彼女を失った癒しようのない苦痛と悔恨とを改めて喚起される。 これは紛れもない彼女だ、しかし「これは自分の記憶の中にある限りの彼女なのだ」と気づくのにさほど時間はかからなかった。 彼の苦しみはそこから始まる。この「彼女」自身が自分が誰なのか,なぜここにいるのかを知らないからだ。しかも彼の記憶どおり彼を心から愛している。その所作も笑顔も寸分たがわず愛しい彼女そのものだ。 苦しみから逃れようと彼は「彼女」を何度も宇宙船から追放しようとするが、いつのまにかふたたび「彼女」は彼の前に現れる。 やがて彼の苦しみを察した「彼女」液体酸素を飲んで自殺を図る。かつての妻としてではなく「彼女自身」賭して彼を愛すようになったからだ。 しかし、ニュートリノで形作られている「彼女」はすぐに再生してしまい死ぬことができない。苦しみ抜いたすえ、死ぬことができず、再生してしまう。そのことがまた「彼女」を苦しめるのだ。 物語の終盤、彼の同僚の研究者に頼み「彼女」は自分を形作るニュートリノを分解する装置を使って消滅する道を選ぶ。「彼女」が消滅したあと彼はその事実を知る。 彼はこの一連の出来事を神の罰と考えるようになる。そしてその神とは「この惑星ソラリスの海」なのだと確信する。 悲嘆に暮れて窓から海面を見下ろすと、そこに小さな島が形成されていた。彼の見慣れた世界がそこに実物大で再現されていた,彼自身までも。 幼い頃の想い出に満ちた実家周辺の風景、その色、におい、湖沼部の水の輝き、小川を流れる涼やかな水の音、太陽の光・・・。そのなかを黙想しながら歩く主人公。その場面はこの作品の冒頭の情景とうりふたつだ。 われわれの「現実」とはいったい何なのだろう。 物語の最後に主人公は深い思索へと沈んでいく。 私が前回語った 意識(顕在意識) 無意識(潜在意識) によるフレームワークを寓話として語るとこのような物語になるのかと思うので、ご一読をお薦めしたい。 心に残った主人公の台詞: 「わからない。でも、ぼくにはそれこそが本当に、本当に正しいものじゃないかと思えた。僕が信じてもいいと思えるような唯一の神だ。その神は苦しんでも、罪を贖うわけではないし、何も救わないし、何にも奉仕しない。ただ存在するだけ」 ソラリスの「海」とはそのようななにものかなのだ。主人公にとってもわたし自身にとっても。 | ||||
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沼野充義氏のポーランド語原典からの翻訳には、旧ハヤカワ文庫に所収された飯田規和氏の翻訳『ソラリスの陽のもとに』(ロシア語からの重訳)で欠落していた箇所も含まれている。いわば、本邦初の全訳である。そのこと自体には価値があるのが、しかし、沼野氏の翻訳の文章は躍動感がなく、日本語としてきわめて読みづらい、典型的な学者の訳文となっている。 また、肝心の欠落部も主にレムの思弁的な叙述箇所が多く、分量的にも内容的にも、必ずしも作品のキモに関わるものではないというのが私の読後感である。作家本人による余計な自己言及的解説といった趣きさえあり、むしろ、欠落部の補填により作品の奥行きが失われてしまったのではないかと危惧する。 ロシア語版での削除は基本的に政治的なものだが、皮肉にも、削除(検閲)により作品は文学的に洗練化されていたのではないかというのが両者の日本語訳を読んだうえでの私の印象である。 沼野訳『ソラリス』冒頭 「宇宙時間の十九時、私は竪穴(シャフト)の周りに立っている人たちの前を通りすぎ、金属製の梯子を降りてカプセルの中に入った。内部はちょうど肘を持ち上げるだけの空間しかなかった。壁から突き出ている管にホースの先端をねじ込むと、宇宙服が膨れあがり、もう身動きがまったくできなくなっていた。私はこうしてエアー・ベッドの中で立ちーーいや、宙ぶらりんになってーー金属製の殻と一体化していた。」 飯田訳『ソラリスの陽のもとに』冒頭 「宇宙時間12.00時、私は狭い金属の階段を降りて、カプセルの中にはいった。カプセルには、ひじを張ればつかえてしまうほどの空間しかなかった。私は管の先端を、壁から突き出ているネジにはめこんだ。宇宙服がふくらんで、完全に身動きができなくなった。私は金属のケースと一体になっていた。いや、正確には、空気のボックスの中で宙ぶらりんになっていたと言うべきだろう。」 冒頭の訳文を読みくらべてみるだけで、飯田訳には日本語としての文章のリズムがあることが分かる。リリカルであり、可能な限り文学性を留めようと志向しながらも、短文の積み重ねで読者にイメージしやすい描写を届けようという確かな意思が感じられる。一方、沼野訳は原文の構造に忠実であろうとしたのかもしれないが、複文の訳し方に生硬さやぎこちなさが感じられ、あたかも「ヴォイス」のない機械翻訳のようであり、特に副詞を置く位置に関していえば文章のリズムを破壊する致命的なポジションにあり、忌憚なく言うと、日本語として「小説」の文章になっていない。 既に何人かのレビュアーが指摘されているように、純粋にSF小説を楽しみたいかたには、飯田訳 『ソラリスの陽のもとに』 をおすすめしたい。また、レムの原文により忠実な翻訳としては、BIll Johnstonの2014年のKindle版英訳 Solaris(English Editon) がいいだろう。 沼野訳がハヤカワ文庫でスタンダードとなることには個人的に抵抗感があり、早川書房にも旧訳の復刊を希望したい。 無論、沼野充義氏が日本におけるロシア・スラブ文学の第一線の紹介者であることは疑いがない。エッセイや時事的な文芸評論(特に90年代)では良い仕事をされたと思う。ただ、このレムの『ソラリス』訳に関していうなら、沼野氏はレムをやや神格化しすぎているきらいがあり、翻訳に際しても原文テキストを前に一紹介者として萎縮してしまった感が否めない。自由な日本語話者として、ご自身で再翻訳・改訳されてみてもいいのではなかろうか。 (追記) 『ペンギン・ハイウェイ』に触れられているレビューが多いので所感を一言。 3年前にアニメ映画を見て、 森見登美彦氏の原作小説 も読んだが、レムの『ソラリス』の根本テーマと繋がる要素の全くない、独立したファンタジーだった。唯一「スタニスワフ症候群」のネタだけがレムへのオマージュか。 | ||||
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惑星ソラリスに行った心理学者クリスと、ソラリスの海が複製したらしい10年前に死んだクリスの元恋人ハリー。人間ではない、しかし知性や感情もハリーとそっくりでなおかつ複製であるとも認知している複製ハリーへ感情移入したせいか、クリスと(複製)ハリーとのラブ・ロマンスとして読んでしまった。訳者あとがきで解説されていたように、レム自身はテーマは違うところにあるということらしい。ラブ・ロマンス部分は作品を駆動させる装置であるということかもしれないが、でも、複製ハリーの心情がけっこう気になるのだ。 | ||||
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ソラリスの新訳が文庫化されたことで読んだ。映画「惑星ソラリス」の昔からのファンであることが 主たる動機である。 僕にとって本書は読みにくい一冊となった。これは著者の文章のリズムが合わなかったこともある。 途中で延々と著者が語る「ソラリス学の系譜」に、ついていけなかったことも確かだ。著者がなぜ かような系譜に、淫するが如く、拘ったのかは僕には正直理解不能であった。クトゥルー神話に溺れていった ラヴクラフトに、少し重なるものも感じた次第だ。 著者はタルコフスキーの「惑星ソラリス」をこき下ろしていたらしい。ソラリスを「郷愁」という狭い範囲に 閉じ込めてしまった点を難じている様子だ。それは僕にとって例えばキューブリックの「シャイニング」に 対するスティーブンキングの批難にも通じるようで面白い。 キューブリックの「シャイニング」は僕にとっては大傑作である。キングは、キューブリックに対して「彼はホラーを 分かっていない」と言ったらしいが、どう鑑賞していても映画「シャイニング」は怖い。 文章で語る恐怖と映像で見せる恐怖の本質的な差がある。後者に関しては、より本能に近い。見た瞬間に総毛たつ ようなことは時として起こる。見たものを言語化する前に既に鳥肌が立っている状態だ。キューブリックはそこに 訴える。キングの文章力とはまたフィールドが違う話だ。従い、キングの批難は僕には腹に落ちない。 ではソラリスはどうか。著者がソラリスで語ろうとした、おそらくは、「膨大な何か」がある。それを言語化する 中で「ソラリス学の系譜」を用意しなくてはならなかったはずだ。それに対してタルコフスキーは、ごく一部を切 り取ったように見えたのだろう。 但し、タルコフスキーの切り取った「ごく一部」の美しさというものがある。「惑星ソラリス」をSF映画だと 考えて観る人はいても、SF映画だと感じて観る人などいないだろう。そんな切り取り方をされたソラリスという 本や、その著者が不幸だとは僕は思わない。タルコフスキーに一部を切り取らせた段階で、本書の勝ちで あるだろうから。 | ||||
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スタニスワフ・レムの代表作で、訳者は沼野充義である。訳者解説にも書いてある通り、「できるだけレムの精神に忠実に、なおかつ日本語として文意ができるだけ明晰に通るように」(p419)訳されているので、おそらく、レムの文章の直訳が多かったのではないか、と思われる。そのため、最初は読みづらさを感じるものの、読み進めていくうちに、その違和感は消え、レム独特の描写の細かい文体に慣れていく。 さて、内容であるが、amazonレビューのタイトルの通り、あらゆるジャンルが重層的に交わった作品である。とは言っても、やはり、メインモチーフはSFである。人類が、人類の思考の範疇から外れた生命体に、宇宙で、出会ったとき、人類はその他者とどのようにコンタクトを図るか、といったことが話の主軸である。その他者とは、惑星ソラリスであり、ソラリスの海である。この海は人類を遙かにしのぐ知的生命体であることはわかっているが、人間のような器官を持った生命体ではないので、人類は、どのようにコンタクトを取っていいのかがわからないままである。その悪戦苦闘の約80年の歴史が、「ソラリス学」であり、この物語の背景となっている。 この本の初出は1961年で、レムはポーランドの作家なので、当時の共産主義圏のユートピア思想へのアンチテーゼといった意味合いが含まれているようだ。人類は、地球上で最高の知的生命体であり、その生命体が築く共産主義国家が、ヘーゲル・マルクス流の発展の最終段階であるという思想である。このような考えを相対化するために、『ソラリス』は書かれたのではないだろうか。 | ||||
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20世紀SFを代表するポーランドの作家スタニスワフ・レム(1921-2006)の不朽の名作と云われる、1961年。アンドレイ・タルコフスキーによる映画『惑星ソラリス』(1972年)などの原作としても知られる。 人間は、人間的なるものの類比=アナロジーという方法論以外で以て「未知なる他者」を理解することは可能なのか。 そもそも「未知なる他者」を理解するとは如何なる情況を指すのか。更には「未知なる他者」との関係性は理解する・理解しようとするという機制以外に在り得ないのか。 『ソラリス』は数多ある既存のファーストコンタクトSFに見られるあらゆる人間中心主義(「擬人主義」)的な紋切型――「われわれは人間以外の誰も求めていない。われわれには地球以外の別の世界など必要ない。われわれに必要なのは自分をうつす鏡だけだ。他の世界など、どうしていいのかわれわれにはわからない。われわれには自分の地球だけで充分だ」「われわれは・・・・・・われわれはありふれた存在だ。・・・。そして自分の平凡さが非常に広く通用することを誇りにし、その平凡さのうつわの中に宇宙のすべてのものを収容できると思っている。・・・。しかし、別の世界とはいったいなんだろう? われわれがかれらを征服するか、かれらがわれわれを征服するかのどちらかで、それ以外のことは何も考えていなかった・・・」――を超越したと云われ、哲学的SFの傑作と評価されている。にも拘らず、本作に於いてなお残存しているドグマがある。それを一言で云うなら【出会われる未知なる存在は他者である】ということだ。 ソラリスの海は【他者】たり得るか。然り、ソラリスの海は【他者】である。なんとなれば、「・・・ソラリスの海は一種の数学的言語のようなものによって話をしているらしい・・・」則ち、ソラリスの海は【言語(個物の概念化作用)】を有しているのだ、ひいては【理性】を有していることになる。たとえその形態が人類のそれと如何に隔たったものであろうとも。作中に於いてソラリスの海はしばしば生命体に擬えられてもいる。全ての【他者】は"人間同士と同程度の相互理解"の可能性に開かれている。そうであればこそ、「理解不可能である」ということも可能なのである。 しかし、【非-他者】に対しては「理解不可能である」という機制自体が不可能なのであろうか。他者/非‐他者とは何か、そしてそれが理解可能であるとはそもそも如何なる事態なのか。問いはまだまだ広がりをみせるのか。或いはこれが【他者】とのコンタクトの極北・論理的限界なのか。 地球から遠く離れた惑星ソラリスの海が映し出してみたものが、実は人間自身の内部にある深淵そのものだった。これは、他者理解の可能性の問題について、極めて示唆的だ。 | ||||
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