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罪と罰
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【この小説が収録されている参考書籍】
罪と罰の評価:
書評・レビュー点数毎のグラフです | 平均点4.34pt |
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Amazonサイトに投稿されている書評・レビュー一覧です
※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
未読の方はご注意ください
全425件 301~320 16/22ページ
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初めてドストエフスキーを読んだ。 ドストエフスキーは僕の先入観で読みにくいと思っていて、しばらく読むことを遠ざけてたのだが、まさかこれほどまで読みやすく楽しめるとは予想してなかった。 主人公ラスコーリニコフが金貸し婆を殺す場面を読んだ後は、もう自分がやってしまったような心境にまで至ってしまい、それからの中下巻は一気に読み上げた。 そして僕は初めて本を読んで、本物の感動を味わったと心底思った。 今まで読んだ本でも感動したことはあったが、それとは違うものだった。 もしかしたらドストエフスキー独特のものなのかもしれない。 エピローグの最後を読んだ後は初めて本を読んで泣き、胸に本をあててしばらく目を閉じていた・・・・・・。 読んだ後に、これほどにまで自分が救われるような気持ちになったのは、奇妙なことだった。 いや僕は救われたのだと思う。 まだ僕は読んでいない・・・・・・『貧しき人々』『白痴』『悪霊』、そしてドストエフスキーの最高傑作であり、世界文学の頂点と言われる『カラマーゾフの兄弟』・・・・・・。 僕はこれから何度ドストエフスキーという人物に救われ、涙を流し、衝撃を受けるのだろうか? 彼を知らずに人生など果たして語れるだろうか? その答えを僕はまだ見つけていない。 | ||||
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以前読んだ「カラマーゾフの兄弟」より読みやすいと感じました。 なぜか、呼吸が最小限になり、奥歯をかみ締めながら読み進めていたので、 ちょっと息苦しかったりした。 ラスコーリニコフの心の葛藤と行動に、目が離せなくなり引き込まれていきました。 相変わらず、ロシアの地域性とかわからない部分がたくさんあったけれど、 それでも何か心に共感するものがあるような不思議な感覚が残っています。 個人的に、カチェリーナが苦手で、彼女に照準が絞られていたときは ちょっと、読んでて辛かったりもしたけれど。 でも、また他の作品を読んでみたくなりました。 (2009.3読) | ||||
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高校時代、有名どころの名作をかったっぱしから読んでやろうと意気込んでいた。赤と黒、戦争と平和、風と共に去りぬ。読めた読めた。だが、罪と罰。重たかった、あまりに重たかった。耐えられず金貸し老女を殺したあたりで挫折。あれから30余年たった。最近、新書の類の本しか(それも時々)読んでいなかった。老眼になって、根気もなくなっていた。こんなとき亀山氏の番組を偶然見た。食い入るように見てしまった。もしかして読み通せるかもしれない予感がした。恐る恐る第一巻だけを買って読んだ。すらすらと読めるじゃないか。そして、第二巻、第三巻あっという間にお盆休みに読んでしまった。ラスコーリニコフだけではなく彼を取り巻く人物が生き生きと縦横無尽に動き回る。五十を過ぎてやっと内容に頭が着いて来たか、はたまた亀山氏の名訳のおかげか。罪と罰読破挫折人間よ。もう一度挑戦してみては如何か。こうなったら、カラ兄いくっきゃないでしょう。 | ||||
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分かる気がした。 この世界観に浸ってしまえば、中々抜けられない。 読書が苦手な方には、お勧めできないが、好きなら、一度読んでも損は無いはず。 ちなみに、今、下巻を読んでます。 | ||||
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言うまでもない傑作だが、トルストイの外に広がる客観的思想に対して この作品はドストエフスキーならではの内へと探求を深める主観的思想 につながっている。 そのために、より人間の内省的な部分を刺激している。 ドストエフスキーは小さな一室に閉じこもってこの作品を書いたというが 、そのとおり心の深淵にある洞窟に潜り込むような作品だ | ||||
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この岩波文庫では、全三巻なのですがこの巻が一番引き込まれて読んだ気がします。 これだけの長編ですから、個人的な面白さの起伏は当然あります。 また、独特の表現法を用いたり、登場人物が多数いたりで、「あれ、何か良く分かんなくなってきたなぁ・・・」とか、「コイツ誰だっけ?」みたいなことは、しょっちゅうです。 まぁ、それが比較的少なく、一番集中して読めたっていうことですね。 | ||||
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かなり、熱中して読んだ・・・。 ようやくこの巻で、ラスコーリニコフが、何故、高利貸しの老婆を殺したのかが、ハッキリする。 非凡人と凡人を分ける、明確な境界線とは・・・? 自ら課せられた使命のためならば、殺人を犯しても良いはずだ・・・、そして、自分は、それを出来る人間だろうか? ラスコーリニコフは、自らの運命をこの一事に賭けた。 しかし、激しい自責の念にかられた彼が、最期にとった行動とは・・・。 絶望の真っ暗闇の中、かすかな一条の光が差し込む、個人的に意外なラストが待っていた。 | ||||
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あれは大学生の時、新潮文庫の「罪と罰」に手を出した。下宿の洋式便所に座ってウンウンうなりながら、何とか上巻を読み終えて、そして下巻は買わなかった。面白みを感じないどころか、苦痛だった。 10年後。「カラマーゾフの兄弟」で虜にさせられた亀山訳を買ってみた。本当にあれと同じ物語なのか。熱病の主人公がずぶりずぶりと沼に足をとられていく様。この読み手を捉える吸着力が新訳の魅力だ。 ただ、「カラマーゾフ」に比べ、いくらか訳が軽く、それでいて「新訳」になりきっていない、古い表現も目に付いた。たとえば、2巻の帯にある「ぼくをなぶりものにはさせませんよ」。なぶりものって、いかにも岩波文庫で使われそうな表現じゃないか。「ぼくを弄ばせたりはしませんよ」とかでいいんじゃないのかなあ。 | ||||
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1865年、帝政ロシアの首都ペテルブルグは暑かった。青年ラスコーリニコフは金貸しの老婆とその妹を惨殺し、金品を奪う。この陰惨な殺人事件を犯した彼にはあるひとつの信念があった。 1995年、ある新興宗教団体が日本を震撼させた時、私はその15年ほど前の中学時代に読んだ「罪と罰」の主人公ラスコーリニコフのことを想い起こしていました。ロシアの青年が、大義のためには許される殺人があると考えるこの小説をドストエフスキーが著わしたのは19世紀中葉のこと。社会主義革命までまだ数十年があるという時代です。それなのにこの小説の中には20世紀末を生きる日本の私たちが描かれているのではないかという気持ちに強くとらわれ、めまいがしたものです。 今回 ゆえあって再び、3巻合計で1200頁を超えるこの長編小説を手にしたのですが、ラスコーリニコフの物語は決して古びることなく、今も私たちを描いているといえます。 「『非凡人』は権利をもつというのは公的な権利ではなくて、自分の良心に対してある種の障害をふみ越える権利を持つということなんで、それも、彼の思想の実現(ある場合には、全人類を救済するような思想かもしれませんがね)にとってそれが必要である場合に限るのです」(中巻 143頁)。 この言葉が20世紀末のある教祖の言葉でもなく、今世紀初頭に中東の国の一部の人々を突き動かした言葉でもなく、そしてまたその中東の人々に向けて戦闘機を放った政権担当者たちの言葉でもなく、150年も前の帝政ロシアの青年の言葉であるということを、大きなため息とともに再認識するのはひとり私だけではないと思います。 この小説が今も読み継がれるということが、果たして人類にとって書を読む喜びといえるのか。 この小説を今も必要とする原野が世界に広がっているということに思いが至り、大変複雑な気持ちとともにこの書を閉じました。 | ||||
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この『罪と罰』も同じ翻訳者による『カラマーゾフ』もすばらしい!と思います。ロシア語を勉強しておりますので『罪と罰』の原文を、いろいろな翻訳とつき合わせたりもしています。今までは江川卓氏の岩波版を標準としてましたが、亀山氏訳の方が原文の意図するところを、より生き生きと伝えているように感じます。『カラマーゾフ』同様、小さな誤訳はきっと発見出来るでしょう。翻訳者のクセもあるでしょう。でも、そんな誤訳やクセはどんな翻訳にも付きものだし、それで作品全体の意図が歪められたりはしないでしょう。ロシア語読解の実力はプロの翻訳家の先生方なら、誰にでもありあまるほどあるでしょう。でも、ロシア語の原文をこんなにわかりやすく、こんな自然な日本語に仕立て上げるセンスは誰にでもそなわっているわけではないでしょう。 世の中は広いので「この翻訳はダメだ!」とめくじらを立てる人もいるでしょう。私はそういう人達に「いや、この翻訳はいいんですよ!」と説得しようとするつもりも、詳細について議論するつもりも全くありません。そんなことは時間の無駄ですから… これまで、私は亀山氏の翻訳に感動させてもらったとともに、翻訳というものについて深く考える絶好の機会を与えてもらったことに、いたく感謝しております。翻訳については、いろんな人がああだ、こうだ言いたがります。一種の野次馬的な快感すら伴います。推理小説の謎解きみたいでもあります。でも、私が一番面白いと思うのは、褒める人・批判する人によって全く正反対の主張をしている場合です。「真っ向から対立する価値観」とでも言えるでしょうか。例えば、哲学の理論についての議論であれば「真っ向から対立する価値観」がこんなに赤裸裸に表には出て来たりしないでしょう。翻訳についての議論の場合は、本当に「価値観が対立する」なんて生やさしいものでなくて、「人間の種類が違う」感じがします。だから、私は、私の反対の立場の人達(私とは違う種類の人種)に「これは良い翻訳ですよ!」なんて言えません。 恐らく、この『罪と罰』も前回の『カラマーゾフ』と同じく、ある人達から「目の敵」にされ、さんざんたたかれることでしょう。そして、再び、大変な話題作りをするでしょう。理由は? 一つは、彼らの嫌いな亀山氏の翻訳だから。もう一つは、ドストエフスキーの『罪と罰』だから! あの世ではきっとトルストイも、シェイクスピアも、ゲーテも、セルヴァンテスも、ダンテも「自分も翻訳のことであんな風に騒がれてみたいよ!」とつぶやいていることでしょう… そう、ドストエフスキーというのはそれぐらい偉大なのです。だから、読んでない人はぜひ読みましょう。私の書いてることにちょっとでも共感される方は、この版で、そうでない方は正反対とも言える工藤精一郎氏の版(新潮文庫)で。 | ||||
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ラスコーリニコフより下の年齢(高校・浪人・大学初年かのいずれかの時代)に、始めて「罪と罰」を読み、小説を読んで受ける満足感がそれまでと別のものになった。どの訳かは忘れたが、なにしろ自分がラスコーリニコフになった感じにさせられ、まだ知らなかったサンクトペテルブルグを熱病にうなされながら歩いている感じになった。小説とはこういうものか、と強く感じ、それ以後同じような「快感」を求めながら次々とロシア文学を読みあさった。何度も「罪と罰」には立ち戻った。多くの訳の中では、米川訳が好きで、読んだ回数も最も多いだろう。いずれにしても、最初の「罪と罰」読破を契機にして、ロシア文学への興味は当然として、最初に訪問したい外国が当時のソヴィエト連邦の、シベリアかサンクトペテルブルグ(当時はレーニングラード)になった。そういう意味で、私の小説の読み方の原点を与えてくれた「罪と罰」の亀山訳が出るというので、当然飛びついた。亀山訳は「カラマーゾフの兄弟」で感心したからである。少なくとも1巻を読んだ結果は、それなりの満足を覚えたが、不思議と過去の「罪と罰」を読んだときとは違った感覚だった。いうなら、「罪と罰」が私にとって特別な小説ではなく、普通の意味での面白い、かつ考えさせてくれる小説の仲間入りをはたしたのだ。もう今はラスコーリニコフの年齢をはるかに超えてしまったからかもしれないし、過去は名前でしか知らずにさまよい歩いたセンナヤ広場付近やフォンタンカ運河・ネヴァ河・ネフスキー大通りなどを実際に歩き回ってよく知っているからかは不明だが、過去の各種の訳本とは違っている。最大は、やはり訳語が現代的で読みやすくなっているのが原因なんだろうと肯定的に捕らえている。このために、どういう反応が出るのか。少なくとも私の場合である。なにしろ文脈を追いやすいがために、深く小説に没入しないのだろうが、グイグイ読める。そして、小説の背後を常に考えながら読めるようになる。読みながら、現代の世相を考えることができる。特に、強く思ったのは、金貸し老婆殺人での考え方だ。ラスコーリニコフが学生と士官から聞いた話にある、人を苦しめるだけで無用の人間を殺してもいいという殺人の論理だ。彼の殺人には、このような、優れた人間が悪質な人間を殺人しても許されるという「特異な」論理の裏づけがされている。これは、あくまで小説の中であって、ラスコーリニコフも、結局はあれこれさいなまれ、最後に福音書での助けによって再生するのだが、今の日本の世の中を見るとどうだろう。少し前までは考えもされなかったような殺人も多いし、人命軽視がはなはだしい。多くは、ラスコーリニコフのように苦悩もしないのだろうし、再生も望まない人たちが増えている。このような日本に何故なってしまったのだろう?多くの若者が、テストと偏差値で追いまくられ、夢も希望も持たなくなった国に誰がしたのだろう?こういうことを考えさせてくれるのが、亀山訳だ。改めて翻訳の重要さを思い知らせてもらった感じがする。「カラマーゾフの兄弟」でもそうだったが、この訳のお陰で、今まで「罪と罰」を敬遠していた人たちも読みやすくなるのではないだろうかと思う。どこかの国の総理大臣のように、漫画しか読まない人にはまだ難解なのだろうが。なお、1巻では巻末に読者用にセンナヤ広場近くの地図がつけてある。これは非常に便利だ。ここに、直接小説に関係しないから記入してないのだろうが、折角だから「ドストエフスキー博物館」の位置も加えてもらうといいと思う(「マリンスキー劇場」は入っているのだから)。 | ||||
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・・・・。がよかった。 人間ってきっとこういうものなんでしょうね。 | ||||
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読み終えてから一ヶ月。思う事。。。覚えてる事: 読んでる時はガンガンはまって読めた。ドストエフスキーの頭の良さ、理論的な所などが文体自体に伺える。主人公の頭の中を読むのが一番興味深かった。読みやすいしハラハラさせられる部分もあったりで面白かった。ただ、読み終えてなぜこれが世界的にここまで有名になったのかがいまいち納得出来なかった。この時代にこのくらいの少年の精神的描写をしたのが初だったのだろうか?今の日本にはこのように理想と現実をごちゃまぜにしてしまう青年犯罪も確かに多い。という所では当時は新しかったのだろうか?!結末は特にこの時代にしては、う〜んという感じだった。 | ||||
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読み始めてすぐに、文意の取りにくさを感じた。そこで、岩波文庫の江川訳(1999年刊)と比べてみたところ、こちらの方が遥かに明晰で文脈が読みやすく、日本語もしっかりしている。前半の第1部から幾つか例を挙げてみます。 (1)まずは、物語の冒頭、ラスコーリニコフが通りを歩きながら、頭の中で想念をぐるぐるとめぐらせる場面。 「それにしても、おしゃべりがすぎるな。何もせずにいるのは、このおしゃべりのせいだ。いや、逆にこういうことかもしれん。おしゃべりがすぎるのは、何もしていないからだ、一日中、下宿に寝ころがって……そう、ゴロフ王のことなんか考えながら、こうしてしゃべることを覚えたのはついこのひと月じゃないか。」(亀山訳p.11) 「それにしても、おれはどうもおしゃべりがすぎるな。おしゃべりがすぎるから、何もしないんだ。いや、待てよ、何もしないから、おしゃべりをするのか。こんなおしゃべりの癖がついたのも、おれがこの一カ月、のべつ部屋にばかりごろごろして、考えごと……なに、ゴロフ王がどうのと愚にもつかんおとぎ話をでっちあげていたせいだ。」(江川訳p.13) (2)すぐその後の、主人公のひどい身なりについて説明する箇所。 「それに、青年の心は、敵意にも似た軽蔑の念が溜まりに溜まり、もともとがごくデリケートで、ときには初々しいほど敏感ながら、今はこうしてぼろぼろの服で外出することすら、少しも恥ずかしいとは感じなかった。」(亀山訳p.13) 「それに青年の心は、敵意にも似た軽蔑にこりかたまっていたから、根が潔癖なほうで、ときには少年くさいくらいの彼も、こんなぼろ服で往来に出てきたことを、いっこうに恥じる様子がなかった。」(江川訳p.15) (3)続いて、マルメラードフの住まいの描写。玄関口から、一家の、みすぼらしくてひどくちらかった部屋が見わたせる。 「マルメラードフは、同じ部屋の片隅にではなく、独立した別の一室で寝起きしていたが、その部屋が、じつは通りぬけになっていることがわかった。」(亀山訳p.62) 「話とちがって、マルメラードフは部屋の片隅を借りているのではなく、独立した一室に住まっていたが、この部屋は通りぬけになっていた。」(江川訳p.56) マルメラードフ一家が借りているのは集合住宅の住居の一室である。ふた部屋借りているのではない。これは誤訳の一例ですね。 上記引用は、直前に酒場でマルメラードフが主人公を相手に、自分の一家は他人の家で「部屋の片隅を借りております」(江川訳p.40)と、くだを巻いているのを受けているのである。(亀山訳はこの照応関係を捉え損なっており、同じ箇所も、他人の家の「ひと間に住んでおります」(p.43)となっている。) 新訳『カラマーゾフの兄弟』でも感じたことだが、訳者はどうも原文の文脈(文と文の論理的前後関係)を十分に読み取っていないようである。 最後に、不適切な日本語の例を一つだけ挙げておきます。 (4)ラスコーリニコフは図らずも金貸し老婆の妹(リザヴェータ)をも殺害するはめになる。その後の主人公の恐怖と混乱を語る場面。 「(…)自分がここを抜けだし、下宿にたどりつくのにさらにどれほどの困難を乗りこえ、ことによると、悪事さえ重ねなければならないと理解できたら、彼はおそらくすべてを放りだし、ただちに自首して出たことだろう。」(亀山訳p.190) 「(…)自分がここを脱けだし、家にたどりつくためには、まだどれほどの困難を克服し、もしかすると、悪事をさえ働かなければならないかを理解することができさえしたら、おそらく彼はいっさいをほうり出して、すぐさま自首して出たことだろう。」(江川訳p.166) 「どれほどの〜」と来たら、正しく「〜か(を理解…)」と受けてほしいものです。 大量誤訳を指摘されている新訳『カラマーゾフの兄弟』ほどではないにせよ、本訳書もあちこちで不備が目立つ。訳者も出版社も仕事を急ぎすぎているのではないか。両訳書の不備が全面的に正され、また、続巻の訳文が入念に吟味されることを望みます。 | ||||
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読んでみてまず思ったことは・・・ 「読みやすい!わかりやすい!」 これに尽きます。 翻訳書にありがちな、難解な言い回しをできるだけしない努力をされていることがよくわかります。 抑揚のつけ方も上手く、内容もスラスラ頭に入ってきますし、途中で「あれ?これ何だっけ?この人誰だっけ?」となって同じところを読み返す、という事が少なかったですね(あくまでも私はですが。) ただ、こういう「わかりやすい・簡単な」文章は、文学ではどうしても諸刃の剣なわけで・・・ ドストエフスキーの小説が、普通の小説レベルになりました。 合う、合わないはあると思います。 | ||||
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「罪と罰」を読むのは、これで3回目である。いやいやながら読まされましたっていう感じの高校時代の第一回目、激しいお色気攻勢のさなか、学園騒動(決して紛争ではない!)のうごめきの中で読み進んだ第二回目、そして、今回社会人になって始めて読んだ第三回目、当然この三回目がいっちゃん面白かった。古典新訳の泰斗、亀山先生の真骨頂がこの文庫に現れているといっても過言ではない。言い過ぎても聞き取れないくらいのこの充実した翻訳内容である。 第2部第3章のラスコーリニコフ、ラズミーヒン、ナスターシャ、というここでの若者三人組の会話文の翻訳の新鮮さったらない、21世紀日本のトレンディ・ドラマを観ているようだ。 今まで読んできた「罪と罰」と同じあのドストエフスキー先生の書いたものかいなと勘ぐってしまうほど、ラスコーリニコフ自身のしゃべりも可笑しく、爽やか1粒300bである。ナスターシャって、ロージャに本当に気があるなあ・・・・・。 「カラマーゾフ」の巻末の「読書ガイド」も充実していたが、今回もなかなかいい。当時の時代背景を勘案しつつ、21世紀の今の経済と比較するのに有意義で、ラスコーリニコフ君のお財布の中身を除くのに好都合な「1ルーブル=○○円」というこの○○、「読書ガイド」で確認してみましょう。 | ||||
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賭博で一文無しになった44歳のドストエフスキーが、乾坤一擲の思いで書いた傑作。選ばれた者の例外的特権、大いなる善の為に小さな悪は許されるか否かなど、重い思想的テーマを扱うが、心理描写や推理小説のような緊張感が素晴らしい。亀山氏の新訳は、日本語としてとても読みやすい。日本語は関係代名詞をもつ西洋語と違い、複雑な構文を苦手としており、主語・述語、主語・述語と短い文章にバラして並列することによって、先へ先へと文章が流れるからである。たとえば、金貸しの老婆を殺した直後のラスコーリニコフの動揺場面を、既訳と比べてみよう。「けれども一種の放心が、瞑想ともいうべきものが、次第に彼を領しはじめた。そして彼は、ともすれば我を忘れて、というよりはむしろ大事なことを忘れて、瑣末な事にかかずらうというあんばいであった」(中村白葉訳、岩波文庫p135)。「ところが放心というか、瞑想とさえいえるような状態が、次第に彼の心を捉えはじめた。数分の間彼は自分を忘れたようになっていた。いやそれよりも、肝心なことを忘れて、つまらないことにばかりひっかかっていた」(工藤精一郎訳、新潮文庫p139)。「だが、ある種の放心といおうか、ある瞑想にも似た状態が、徐々に彼をとらえはじめた。ときおり、われを忘れたような状態に陥った。というより、大事なことを忘れつまらないことばかりこだわるのだった」(本訳p191)。 | ||||
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ドストエフスキーが1866年に発表した長編小説。ドストエフスキーなんて長いし、ややこしい名前だし、余程の本好きか、学者しか読まない筈だと思っていた。読み始めて、そんな先入観は吹き飛んだ。罪の定義、それに見合う罰。そんなものを、普通の人は決められない。だが、主人公ラスコ-リニコフは決めてしまう。「自分は特別な人間だから」という、もっともらしくも脆い根拠で、やってしまう。この男は悪意に満ちた悪い人間かと言うと、そんな事はなく、自分の根拠に確信が持てずに、悩んでいる。その様は滑稽で笑えてくるのだ。哀れだ。当然のごとく、自らも罰を受ける。その罰が妥当か、自分には分からない。生態系のルールに従えば、許される行為では無い。そして、そのルールは正しいと思う。 | ||||
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こんなにも間違いだらけの本をよく作れたもの。ドフトエフスキーが泣きますよ。 これから読むなら、絶対他の人の訳をお勧めします。 | ||||
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作者は人を殺したことがあるんじゃないかというくらいに殺人者の心理描写がリアル。それぞれのキャラクターもたっている。長い話なのに全く飽きない展開。よい演劇を見ているかのようだった。 人間の心理をこんなに深く重厚に描いてくれて、文学万歳と思った。 | ||||
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