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騎士団長殺し



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騎士団長殺しの評価: 3.46/5点 レビュー 721件。 Cランク
書評・レビュー点数毎のグラフです平均点3.46pt


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Amazonサイトに投稿されている書評・レビュー一覧です

※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
未読の方はご注意ください

全721件 121~140 7/37ページ
No.601:
(5pt)

1部を読み終えたところで

5月くらいでしょうか、中日新聞に村上氏のインタビューが掲載されていました。
すこし読み始めたのですが、「騎士団長殺し」を読んでからではないと
そのインタビューは読んではいけないと直感的に思いました。
まだ読んでいません。
様々な理由から読むべき時がきたと思いました。
なんじゃこりゃ、ですね。まだ1部ですが。
読みやすいし、いろんなことが起こります。
2部が楽しみです。
騎士団長殺し :第1部 顕れるイデア編Amazon書評・レビュー:騎士団長殺し :第1部 顕れるイデア編より
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No.600:
(1pt)

結末が陳腐な失敗作です。

途中までは面白い。4分の3までは。さすが春樹ワールド。しかし、ラストの4分の1は愚作。まりえの失踪先をめぐる語り以降は、村上春樹の作品とは思えないほど、平凡で何の興味も面白味もない。途中で作品を放棄したのかな。後半がこれでは、全体のモチーフも何も伝わってこない。失敗作ですね。
騎士団長殺し :第1部 顕れるイデア編Amazon書評・レビュー:騎士団長殺し :第1部 顕れるイデア編より
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No.599:
(5pt)

とても好きです

村上春樹の作品は、小説からエッセイ、全て読んでいる。
騎士団長殺し :第1部 顕れるイデア編Amazon書評・レビュー:騎士団長殺し :第1部 顕れるイデア編より
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No.598:
(3pt)

春樹氏とノーベル賞

私はずっと長いこと、氏とノーベル賞について考えてきた。結論から言うと、このままではノーベル賞は取れそうにない。私は熱烈なファンでもないが、アンチではない。むしろノーベル賞を取れるなら取ってもらいたいと思っている。しかし現段階では難しいであろう。

以前、ユーチューブで、「カズオイシグロ氏と村上春樹氏の違い」という動画を見た。「イシグロ氏は社会的テーマを扱っているが、村上氏の小説にはそれが見受けられない」という論調だったが、私はそのテーマについて、もう少し自分なりに掘り下げてみることにした。

イシグロ氏がどんな人物なのかを知るために、氏のノーベル賞受賞式でのコメントが全文掲載してある本を読んだ。一番印象的だったのは、イシグロ氏の影響を受けた音楽に対するエピソードだった。イシグロ氏はトム・ウェイツなどから影響を受けたそうだが、彼の声や歌唱法に強くインスパイアされ、自身の小説にもその影響が反映されているそうである。他にも、ボブ・ディラン、ニール・ヤングなどから影響を受けたそうだが、そこには音楽家に対しての深いリスペクトがあると感じた。

一方の春樹氏はというと、音楽に対する知識や愛着などはあるのだが、何より感じるのは、それらを深く鑑賞することができ、目利きである「自分自身」である。イシグロ氏の他者に対する敬愛に対し、春樹氏の自己愛、それが一番の違いだと思った。

「社会的テーマ」に関しては、本作で取り組んでいるように見えるが、どうもそのテーマが上滑りしている。そこに書かれている事実の信ぴょう性だけが問題なのではないと思う。作者がそれを取り上げ、読者に何をどう訴えようとしているのか、それが問題なのである。確かに南京大虐殺やホロコーストは重いテーマである。ただそうしたものに対する「憎しみ」以上のものが伝わってこない。そのテーマを掘り下げた動機があまりにも軽い。作者のルサンチマンのはけ口としてそういったものを利用しているのにすぎないといった印象を拭えなかった。

彼の小説には総じて「愛」の要素がたりないと思う。「自己愛」、それはおおいに感じるが、「人類愛」、「世界への愛」、そして自己や他者に対する愛がたりない(全くないとは言わないが)。そのテーマを克服せずに、表面的にどれだけ社会的テーマを盛りこんだところで、多くの読者を納得させることはできないのではないか。かりに著者が真剣にノーベル賞を目指すなら(目指さなくても)、ぜひ全身全霊をかけて、このテーマに取り組んでほしいところだ。
騎士団長殺し :第2部 遷ろうメタファー編Amazon書評・レビュー:騎士団長殺し :第2部 遷ろうメタファー編より
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No.597:
(4pt)

面白かったけれど・・・

最近の作品の中では、かなり面白い方。ただし、イデアの騎士団長殺しをしなくても、まりえは勝手に戻って来たのでは?と思うのだが。仮に免色に家の中で発見されたとしても、好奇心で忍び込んでごめんなさい、で済む話と思うし。騎士団長のファンタジー抜きでも、画家と妻や、謎の男免色とまりえの人間関係の話で充分成立するはず。無理やりファンタジーをからめて、意味ありげにした感じ。
騎士団長殺し :第2部 遷ろうメタファー編Amazon書評・レビュー:騎士団長殺し :第2部 遷ろうメタファー編より
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No.596:
(1pt)

いつものアレ

すべての登場人物の台詞に入る比喩表現、保留なしの完璧な勃起、都合のいいセックス(フェ○チオ付き)。いや~内容よりもいつものアレが満載の村上ワールドでした。
騎士団長殺し :第1部 顕れるイデア編Amazon書評・レビュー:騎士団長殺し :第1部 顕れるイデア編より
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No.595:
(5pt)

やっぱり大好きです。

やっぱり好きです。
どんどん引き込まれる独特な世界観が大好きです。好き嫌いはありそうだけど、私は彼の作品を読むと心が落ち着きます。
いつもそうなんですが、何でもない料理やお酒がすごく美味しそうなところが好きで、毎回読んでる最中に主人公が食べているものを真似して作ったりしています。
免色さんの家の料理、食べてみたいな〜〜。
お肉料理のチョイスが鹿肉な所もセンスが良い。
シーバスリーガルを買いに行って飲みながらまた読みたいと思います。
騎士団長殺し :第2部 遷ろうメタファー編Amazon書評・レビュー:騎士団長殺し :第2部 遷ろうメタファー編より
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No.594:
(5pt)

騎士団長がかわいい

村上春樹をまともに読んだのは今作が初めてですが面白かった。
ノーベル賞候補に挙がり続ける理由がよく分かるような、別に受賞する必要ないんじゃないかと思ったりするような読後感でした。
騎士団長殺し 第2部: 遷ろうメタファー編(下) (新潮文庫)Amazon書評・レビュー:騎士団長殺し 第2部: 遷ろうメタファー編(下) (新潮文庫)より
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No.593:
(1pt)

間違えられました。

第二部を頼んだのに、きたのは第一部、、電話したら五分以上待たされるし。電話の録音してる音もまる聞こえなんで
びっくりした。頼んだのがいつくるか、間違えたのをどうするか、メールでとは言ったけど未だメールなし。
騎士団長殺し :第2部 遷ろうメタファー編Amazon書評・レビュー:騎士団長殺し :第2部 遷ろうメタファー編より
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No.592:
(2pt)

作者の意図は大丈夫?

文庫本にする際、
ハードカバーを2冊に分けるのが、
なんだかとても嫌なんです。
騎士団長殺し 第1部: 顕れるイデア編(上) (新潮文庫)Amazon書評・レビュー:騎士団長殺し 第1部: 顕れるイデア編(上) (新潮文庫)より
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No.591:
(2pt)

本作のメタファーとは、がっかり感

これまでゆっくりと語られていた物語が、本作で急に加速する。それは物語の山場というより作者が早く終わらせたいだけのようなやっつけ感。
がっかりしました。
あと、南京事件の主張も私にとっては興をそがれました。
騎士団長殺し 第2部: 遷ろうメタファー編(下) (新潮文庫)Amazon書評・レビュー:騎士団長殺し 第2部: 遷ろうメタファー編(下) (新潮文庫)より
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No.590:
(5pt)

村上 春樹氏のスタイル批判が多すぎる。

過去の作品の踏襲とか皆さん氏のことが大好きなくせに悪く言いすぎです。いや期待が大きすぎてガッカリするのか知れませんけど、カズオイシグロ氏のような上品な作風ではもともとないし、世界的に人気の理由はノーベル文学賞候補としての部分ではなく読んで面白いグイグイ引っ張られて読んでしまうところにあると思います。本人は変わらず小説書いているのですからにてあたりまえです。「騎士団長殺し」では今までのテーマを読者により理解しやすく提供していている点を評価したいです。村上氏に期待しすぎです、想像ですが氏はノーベル文学賞など欲しくはないのでは。私は氏の作品を読むたびになぜか故池波正太郎氏の藤枝梅安を読んでるような錯覚に陥ります。もっと素直に楽しんで読んであげてほしいと願います。
騎士団長殺し :第1部 顕れるイデア編Amazon書評・レビュー:騎士団長殺し :第1部 顕れるイデア編より
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No.589:
(5pt)

引き込まれた。

やはり村上作品はおもしろいと思いました。非現実的なことを、本当にリアルに描いてあって、まさに引き込まれる感じです。
騎士団長殺し 第2部: 遷ろうメタファー編(上) (新潮文庫)Amazon書評・レビュー:騎士団長殺し 第2部: 遷ろうメタファー編(上) (新潮文庫)より
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No.588:
(2pt)

ストーリーがショボい

皆さん書いているけど、歳を重ねるごとに、
設定がショボくなる。残念。
騎士団長殺し :第1部 顕れるイデア編Amazon書評・レビュー:騎士団長殺し :第1部 顕れるイデア編より
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No.587:
(4pt)

Well madeな作品

村上春樹氏の作品は、デビュー作から、
(或いは)朝日ジャーナルに記事を
書いていた頃から、何だかんだ言って読み続けている。
今回は単行本では買わず、文庫本が出たタイミングで買った。
以前のように面白かった。彼が嫌いそうな円熟した
ウェルメイドな小説。中国怪異小説というか、
やはり上田秋成なんでは?安心した。
読んでてぞくぞくするってほどではないけど
(一番楽しかったのは世界の終わりとハードボイルドランドかな)、
後に鈍い剃刀のようにシュッとくる、いつもの読後感。

平成が終わり、この30年間は平和だったけれど、
どちらかと言えば右と抵抗なく言える人々が増えたようだ。
南京大虐殺がいつから、過小化、もしくはないことに
なったのだろうか。ついこの間までは事実として
了承され「南京大虐殺のまぼろし」は少数派だったのに。
嫌な時代に老いていかないとならないなんて。
私の大叔父も満州で特務機関に選ばれました。
試験をした中で2番だったそうで、
スパイになればお金は使い放題、だけど、
命を落としても屍は拾われない、
靖国には葬られないと説明されて、
断ったそうです。終戦までの期間、
総司令部で暗号解読の仕事をしてました。
シベリア抑留されても無事帰って来ましたが、
晩年体が弱ったときにもち堪えられ無かったのは
シベリア体験の過酷さや耳の横で地雷が爆発した
せいだったと思います。
騎士団長殺し 第1部: 顕れるイデア編(上) (新潮文庫)Amazon書評・レビュー:騎士団長殺し 第1部: 顕れるイデア編(上) (新潮文庫)より
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No.586:
(3pt)

長時間フライトにオススメ!

安定の村上ワールドがあり、異次元?の世界を通ったり、人妻を抱いたり、普通の人には見えないコビトが居たり。のめり込んで読みました。
騎士団長殺し :第1部 顕れるイデア編Amazon書評・レビュー:騎士団長殺し :第1部 顕れるイデア編より
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No.585:
(5pt)

村上春樹氏とラジオ

一般に
作品中の主人公は
著者のモデルであるとは限りません。
しかし何パーセントかは
著者の投影である可能性があります。
私は本書の次の一文に注目しました。
【そして私はラジオでは
AM放送のニュースと天気予報
以外の番組をまず聞かなかった
(地形の関係でFM放送の電波は
ほとんど入らなかった)。】
(pp.283-284)
「書かれた文字」が主戦場である著者と
ラジオには予想外の関係があるようです。

実は村上春樹氏(1949-)は
あるFMラジオ局で不定期の番組
『村上RADIO』(村上レディオ)を
持っています。ごく最近
その5回めがオンエアーされた由です。
村上氏みずからディレクターとなり
テーマに合わせて音楽(レコード?)を
選曲しDJも勤める内容です。
メディアへの露出が少ない
ことで知られる村上氏ですが
ラジオという媒体にはご自身
何らかの親和性があるのかもしれません。
ゲーテ(1749-1832)なら端的に
「親和力」と呼んだことでしょう。
(恐縮ですが私は作品中の「私」同様
AMラジオしか聴かないので
村上氏のFMラジオ番組の存在を
これまで知りませんでした)

また村上氏には
『村上ラヂオ』(マガジンハウス → 新潮文庫)
『おおきなかぶ、むずかしいアボカド
村上ラヂオ2』(同)
『サラダ好きのライオン
村上ラヂオ3』(同)
という随筆集もあります。
挿絵は大橋歩氏です。ただし
もともとは雑誌『anan』の連載であり
ラジオ放送やラジオ器機とは関係ありません。
しかし連載のタイトルを
『村上ラヂオ』とつけた点から忖度しますと
radio への親しみやすさを持っているのかも
しれません(本当の経緯は不明です)。

ミリオンセラーとなった
『ノルウェイの森』(1987)の初めの方で
「突撃隊」(あだ名)という学生が
早朝ラジオをつけて室内でラジオ体操を
する行為が vivid に描かれていました。
跳躍する「突撃隊」と寝起きで
それをにらんでいる「ワタナベ君」が
私にはくっきりと映像(image)として
目に見えたように感じました。
リアリズムの文体でリアリズムの物語を
書いた『ノルウェイの森』の中の
挿入話として光るものがあります。

このように
村上氏の作品の中では
クルマや音楽ほどではありませんが
ラジオもときどき顔を出す小道具として
有効に使われているように思います。
そこの何かのメタファー(隠喩)が
あるかと問われれば、ないと思います。
私がAMラジオのファンなので
深読みしているだけかもしれません。
村上作品の中のラジオはともかくとして
現実のラジオは厳しい環境にあります。

2019年は
「ラジオ業界がルビコン川を渡った年」
として後年、記憶されることになる
のではないかと思います
(あくまで個人の感想です)。
総務省が2016年1月29日に発表した
「ラジオ放送事業者の経営状況と
ラジオにおける新しい動き」と
題する資料をもとに要点を述べます。

1)日本の民間ラジオの広告収入は減少している。
2)欧米主要国(米・英・仏・独)においては
民間ラジオの市場規模は減少していない。
3)欧米主要国(同上)に比較すると
日本のラジオ聴取時間は少ない。
特に英・仏・独に比較すると明確に少ない。

このような総務省の意向を受けて
その後の経過を付け足しますと
4)2015年頃から順次
「FM補完放送」
(AMと同じ内容を同時にFMでも流すこと)
(関東地区ならば「ワイドFM]という愛称)
が開始された。
ちなみに電波を周波数ないし波長でわけると
AM=中波
FM=超短波
となる。高校の物理で習うように
周波数と波長は反比例の関係にある。
5)それより先
インターネットで音声コンテンツとして
ラジオ番組を配信するサービスが開始された。
例えば
radiko (民間AMラジオが多く加盟)
らじる★らじる(公共放送)
LISMO、WIZ RADIO(ともにFM局)
などがある。
6)2019年3月27日
民放連が総務省に対し
AMラジオのFMへの転換を要請した。
理由は「広告収入の減少による
送信所など設備維持困難」。
(一般にAM=中波の場合
送信アンテナの設置に
広い面積が必要とされる)

この5年くらいの流れのうち
節目節目の出来事をピックアップしますと
おおむね上のようになります。
「AMからFMへの転換」
というよりはむしろ
「AMからインターネットへの転換」が
(総務省と関係者の)ホンネでしょう。
ひとことで標語的に申し上げますと
「ニュースからコンテンツへ」です。
総務省が敷いた線路の上を自動運転の
電車が走っているような印象を受けます。

この方向を推進する人の中には
「AM廃止は世界の潮流だ。
FM化・インターネット化されても
同じものが聴けるから何も変わらない」
と主張する人もいます。
しかし末端のヘヴィーリスナーとして
それは間違っていると
「皮膚感覚で」感じます。
そのことを以下で説明いたします。

「AM廃止 → FM化・ネット化」が
純粋に技術面・ハード面の問題ならば
いたしかたない一面もあります。
AMラジオが入りにくい建物が増えた
のは事実ですから。
しかしあたかもそれに「便乗」するように
ソフト面・内容面で大きな2つの変化が
リスナーへの説明抜きに起こっている
気がしてなりません。
それは
[1]これまでのAMラジオを聴いてきた
(おこがましいですが「支えてきた」)
相対的高年齢者層の切り捨て。
[2]政権へのやさしいよりそい。
の2つです。

具体例を挙げましょう。
この春、終了となった番組があります。
たとえば次の5つです。
①『歌の日曜散歩』
‥(公共放送 日曜午前)
②『かんさい土曜ほっとタイム』
‥(公共放送 土曜午後)
③上記②の中の『ぼやき川柳アワー』
‥(同 午後3時台)
④『荒川強啓デイ・キャッチ!』
‥(民間放送 月~金夕方)
⑤『NHKマイあさラジオ』の中の
『社会の見方・私の視点』
‥(公共放送 月~金早朝6:42頃)

①~④は長年続いた番組です。
正確な数字は持ち合わせませんが
聴取率は良かったと思います。
特に③における「ぼやき川柳」の投稿数と
番組終了が決まったときに
山のように届いた惜しむ声の川柳は
それを反映していています。
(『ぼやき川柳』は『ラジオ深夜便』の中の
いちコーナーに移りましたが遅い時間ですし
選択の方針も変わったような印象です)
あるいは
④の中には毎週水曜日に「時事川柳」という
コーナーがありました。
毎回5句前後紹介されるのですが
へたな新聞のコラムよりも
山椒は小粒でぴりりと辛い
と感じるものが多かったように思います。
公共放送でも民放でも人気があった
「川柳」はあくまで一例ですが
相対的高年齢者層がよく聴いていた
ラジオ番組がこの春
「一方的に」「足並みをそろえて」
終わってしまった印象です。
喪失感(番組ロス)を味わっている人も
少なくないように思います。
ニーチェ(1844-1900)ならそれを
「ルサンチマン」(怨念)と呼ぶことでしょう。

公共放送第一では昔も今も
午前6時30分からラジオ体操を流し
その後、放送していたのが⑤です。
意見を述べる方は日替わりで
竹中平蔵氏(1951ー)のように
政権の中にいた方もあれば
それとは意見を異にする
内橋克人氏(1932-)
森永卓郎氏(1957-)
のような方もいて
バランスが良かったのが特長です。
若き憲法学者
木村草太氏(1980-)も
社会の諸現象を「法の精神」という切り口で
説明していて分かりやすかったものです。
現在では目先の金儲けのような番組に
変わりましたので聴くのをやめました。
「マイあさラジオ」の後継番組が
「マイあさ!」というのは文字通り
AM「ラジオ」の切り捨てを象徴して
いるので公共放送から私たちへの
メッセージなのかもしれません。

出演者という点で申し上げれば
④は日替わりの「デイキャッチャー」
(いわゆるコメンテーター)が
「ボイス」というコーナーを
担当しているのが特長でした。
青木理氏(1966-)
小西克哉氏(1954-)
近藤勝重氏(1945-)
山田五郎氏(1958-)
宮台真司氏(1959-)
がいちばん最後のレギュラーでした。
私も曜日の関係で毎日毎回
聴いていたわけではありませんが
(たまたま聴いた)
地道な取材に基づいた
沖縄の人の本当の心情
(野中さん小渕さんのころは
情があった。それにひきかえ…)
などは今でも記憶に残っています。
政権与党にとっては決して
心地良いものではなかったと思われます。
しかし
番組が終了したことによって
当然ボイスのコーナーもなくなり
デイキャッチャーの出演もなくなりました。
結果として
政権にやさしくよりそう方向に足を
踏み出したことになろうかと思います。
単純に考えても
ニュース番組がなくなって娯楽番組になれば
それだけでも効果は大きいと思われます。
もしそれがコンテンツ化の実態であると
するならば夢も希望もありません。

2019年春に起こった
AMラジオ局における変化は
個々の変化は量的には小さいものですが
総体を俯瞰して見ると
質的な変化に転じているように思います。
「ルビコン川を渡った」
と表現したのはその意味です。

村上春樹氏は
その作品の中で
不思議な能力を有する謎めいた少女を
手を変え品を変え描いています。
『ダンス・ダンス・ダンス』の「ユキ」
『ねじまき鳥クロニクル』の「笠原メイ」
『騎士団長殺し』の「秋川まりえ」
がその代表です。このように
いわゆる若者層・若年層にも
たいへん意味深い・有意義な人たちも
いるのは事実です。しかし
そういう人たちの発掘ではなくて
なだれのような「若者文化総体への迎合」が
(個々の若者とのコミュニケーションではなく)
AMラジオのインターネット・コンテンツ化に
伴って推進されているように思います。

例えば
このラジオ番組が「やばい」と言われたときに
もちろん私にも意味は分かりますが
自分からそういうコトバは決して使いません。
(誰に頼まれたわけでもないのに)
正しい日本語の牽引車のような
過剰とも言える自意識のもと
正しい日本語の話し方みたいな番組すら
作っている公共放送が
「良い」「すごい」という意味での
「やばい」に迎合するのは
組織として自己矛盾した現象です。

最初に戻って
欧米主要国(特に英・仏・独)に比べて
日本におけるラジオ聴取時間が少ない
ことの原因は
技術面・ハード面ではないところに
存在していると考えています。
現代、日本人の文化的水準も
関係しているかもしれません。
確か日本人のテレビ視聴時間は世界でも
トップクラスだったように記憶します。
テレビ番組の改革が必要かもしれません。

一例を挙げますならば
年末のジェンダー対抗の歌番組や
1年50回近くかけて微視的に進むドラマ
を見るために安くはない受信料を
払っているのではないような気がします。
しかも昨今は受信料が
受信設備設置にともなう「国税」のような
厳しい存在になっています。
あたかも徳川時代初期の
天草・島原の年貢の取り立てを
彷彿とさせるときがあります。
(あくまで個人の感想です)

2019年春は私に取りまして
・『騎士団長殺し』を読了した余韻
・いくつかのAMラジオ番組が終了したこと
による喪失感(番組ロス)
・ラジオのインターネット・コンテツ化が
促進されることへの「ぼんやりとした不安」
‥などが二重らせんのようにからみ合って
記憶されることと思います。
後年
良きシナリオをたどったか
悪しきシナリオをたどったかは
判定可能となるでしょう。
果たしてその時まで私が生きているかどうか
という根源的な問題もありますが
Information Technology の変化は
迅速と思われますので
ひょっとすると自分の目と耳で
確かめることができるかもしれません。
そして tough な村上氏はその時も
作品を書き続けていることと思います。
騎士団長殺し 第2部: 遷ろうメタファー編(上) (新潮文庫)Amazon書評・レビュー:騎士団長殺し 第2部: 遷ろうメタファー編(上) (新潮文庫)より
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No.584:
(5pt)

「ザ・グレート・ギャツビー」へのオマージュです

開高健(1930-1989)が
随筆で書いていましたが
小説に対する評価とは要するに
好きか/嫌いか
良いか/悪いか
しかありません。
好きな作家・良い作家については
繰り返しその作品を読みます。
何十回も百回を超えても読みます。
村上春樹氏(1949-)は
好きな作家であり好きな長編小説は
『ねじまき鳥クロニクル』(1994-95)
です。その同じ系譜と考えられる
『騎士団長殺し』を一気に読みました。

読んだ回数で言えば
『ダンス・ダンス・ダンス』(1988)
のほうが多いかもしれません。
『ねじまき鳥クロニクル』と比較すると
現実性がやや高く
ヴァイオレンスの度合いが少なかったので
読みやすかったと思わます。
『ダンス・ダンス・ダンス』に登場する
湘南(辻堂)在住の作家「牧村拓」
Makimura Hiraku
は「村上春樹」
Murakami Haruki
のアナグラムであるとは
後で知りました。
いくつかの要素だけから判断すると
湘南(茅ヶ崎)に住んでいたある作家が
モデルかなと推察することも可能ですが
相違点も大きいので何とも言えません。

さて
村上氏は
スコット・フィッツジェラルド(1896-1940)
について随筆と翻訳を集めた本
『ザ・スコット・フィッツジェラルド・ブック』
(TBSブリタニカ 1988 後に中公文庫)
を上梓しています。よく知られているように
フィッツジェラルドは
村上氏にとって好きな作家です。
私は読了したあとに『騎士団長殺し』は
『ザ・グレート・ギャツビー』への
オマージュとして書かれた
‥ということを知りました。
逆にそれを知ってふり返れば
まさしくそうだなと納得できます。
「ジェイ・ギャツビー」は
誰に投影されているか?
「ニック・キャラウェイ」は
誰に投影されているか?
良い読者ならば1秒で分かることと思います。

読書は私にとって道楽であり
良い小説を読むことは楽しみです。
しかし小説の中身について
ピンポイントにあれこれとりあげて
あたかも評論家のように
論評するのは野暮というものです。
(そもそも私は評論家ではありません)

よって
中身について具体的に論じる代わりに
少し作家論を述べてみましょう。
(あくまで個人の感想です)

①開高健
‥『全集』をはじめおおむねすべての
本を読んだと思います。繰り返し
読んでいる途中です。

②加賀乙彦氏(1929-)
‥『永遠の都』『雲の都』『湿原』
は繰り返し読みました。

③夏目漱石(1867-1916)
‥旧仮名・旧漢字の全集を大小2種類
持って読み返しています。一般には
後期の心理描写のある作品の評価が
高いですが私はむしろ
初期の作品のほうが優れていると思い
読み返すことが多いです。

④芥川龍之介(1892-1927)
‥旧仮名・旧漢字の全集を2セット
持っています。優秀な作家ですが
好きな作家かどうかと問われれば
作品によりけりです。

⑤森鷗外(1862-1922)
‥選集を持っています。
医学者として脚気の原因について
細菌説を支持した森林太郎ですが
文学者としては良い作品も残しました。

⑥川端康成(1899-1972)
‥中学の国語教師に言われて
『古都』『千羽鶴』『雪国』など
読みました。その後いちども
読み返したことがありません。
世間的には
オリエンタルなリリシズムが
受けたものと思われます。

⑦三島由紀夫(1925-1970)
‥先輩に言われて『憂国』と
『わが友ヒットラー』(戯曲)は
読みました。後者は
「長いナイフの夜」で粛清された
エルンスト・レーム
グレゴール・シュトラッサー
らを描いた戯曲です。
レームにとってヒトラーは
「おれ・おまえ」で話をするポン友でした。
タイトルはそれを反映しています。
レームから見ればヒトラーはわが友です。
残念ながら
他の作品は印象に残っていません。
三島はある作家について
「あんなものは文学じゃない」と
批判的で、ある出版社が企画した
日本文学全集にその作家も入ると
聞いて「だったら俺はおりる」と
抵抗しました。結果として
三島の作品は入り、その作家の
作品は入らなかった由です。
作家は(作家でなくとも)
他人のことに干渉するべきではない
と思います。

⑧大江健三郎氏(1935-)
‥高校の国語教師に読むように
言われましたがまだ読んでいません。
文体が難解なので。

⑨谷崎潤一郎(1886-1965)
‥随筆『陰翳礼讃』『文章読本』
は繰り返し読みました。
短編『神童』は谷崎でなければ
書けないであろうユニークな
作品です。長編小説については
良い読者ではないので恐縮です。

⑩松本清張(1909-1992)
‥純文学というよりは
推理小説・伝奇小説・時代小説
評論などを多く書きました。
「最初の5ページは特に面白い」
のが最大の特長です。作品は
玉石混淆の観がなきしもあらず
ですがユニークな作品もあります。
短編『天城越え』は推理小説ですが
ある作家の高名な作品と「逆向き」の
ルートで天城峠を越える設定に
なっています。選良階級に対する
松本清張の意地と考える人もいます。

‥こうして見ると
私はむしろリアリズムの方が
好みであるかもしれません。
しかしリアリズムではありませんが
世界的に有名な作品
例えば
ガルシア=マルケス(1927-2014)の
『百年の孤独』
カフカ(1883-1924)の
『変身』
はごく自然に読めましたし
百年どころか千年後も残る名作
であると思います。従って
リアリズムか/そうでないか
という観点(切り口)はあまり
本質的なことではないと思います。
村上作品についても同様と考えています。
(以上あくまで個人の感想です)
騎士団長殺し 第1部: 顕れるイデア編(上) (新潮文庫)Amazon書評・レビュー:騎士団長殺し 第1部: 顕れるイデア編(上) (新潮文庫)より
4101001715
No.583:
(5pt)

集合的無意識をサルベージして 諸テーマを書いた小説かもしれません

1983年に
短編集『中国行きのスロウ・ボート』
を読んで以来
村上春樹氏(1949-)の作品を
ぼちぼちと読んできました。
長編小説・短編小説・随筆・紀行文
そして対談を中心に読みました。
繰り返し読みその回数がいちばん多いのは
『ダンス・ダンス・ダンス』(1988)
であり、最良の作品と思うのは
『ねじまき鳥クロニクル』(1994-95)
です。その諸テーマを間接的に引き継ぎ
ある意味、完結編と考えられるのが
『騎士団長殺し』と感じています。

一般に小説の批評を
内容に即して記載するのは
野暮というものでしょう。
なぜなら小説の醍醐味は
自分で読んで楽しむところに
あるのですから。

従って
やや総論的に村上氏の作品について
述べてみようと思います。
『ノルウェイの森』は
リアリズムの文体で書いたリアリズムの話ですが
それ以外のほとんどの長編は
シュールリアリズムです。
(用語の正確さを期すならば
マジックリアリズムと呼ぶべきかもしれません)
作品全体が何かのメタファー(隠喩)
ではないかと感じるときもあります。

と同時に
複数の作品において
あたかも伏流水のように
何回も現れるテーマもいくつかあります。
例えば
「恋人ないし妻が出ていく」
(いなくなる・失踪する・連絡が一方的に切れる)
というテーマは
『羊をめぐる冒険』(1982)
『ノルウェイの森』(1987)
『ダンス・ダンス・ダンス』(1988)
『国境の南、太陽の西』(1992)
『ねじまき鳥クロニクル』(1994ー95)
『スプートニクの恋人』(1999)
などに見ることができます。
「一方的に妻が出ていく」
(代わりに自分が出ていく)
という点では『騎士団長殺し』は
『ねじまき鳥クロニクル』と同じ系譜と
考えられるのではないかと思います。

また
「女の子」から「女」になる中間の
少女(不思議な能力あるいは性格を有する)も
テーマのひとつでしょう。
たとえば
『ダンス・ダンス・ダンス』の「ユキ」
『ねじまき鳥クロニクル』の「笠原メイ」
『騎士団長殺し』の「秋川まりえ」
がその線上にあります。
一般的には
ダンテ(1265-1321)による
「ベアトリーチェ」
ゲーテ(1749-1832)による
「グレートヒェン」
にその原型を見ることも可能でしょう。
あるいは
ドストエフスキー(1821-1881)による
「ソーニャ」
かもしれません。

また別のテーマとして
・井戸、穴、洞窟、暗闇
のようなものも指摘できます。
テーマはそれぞれが単独で
メタファーになっているようにも思います。
ただしメタファーが何の比喩かなのか
唯一無二の解答は
著者がこれと指定しない限り
存在しないでしょう。
メタファーは
implicit にしか定義されないので
複数の解釈が可能になるからです。
(その点だけ考えれば
公理主義による現代数学と同じです)

複数個の同じテーマが
繰り返し別の作品に登場することは
現象として見れば、あたかも
「夢」(どちらかと言うと悪夢)
のようであると感じます。
フロイト(1856-1939)なら
「潜在意識」と呼び
ユング(1875-1961)なら
「集合的無意識」と呼んだものを
村上氏はみずからサルベージして
文章として表現しているのではあるまいか
という印象を受けるときがあります。
(あくまで個人の感想です)

村上氏の作品のもうひとつの特徴は
抽象的な記述の所と
きわめて具体的で精緻な記述の所と
2つが並立している点です。
「具体的で精緻な記述」は
・音楽(クラシックまたはジャズ)
・クルマ
・料理ないし食べ物
・服装ないし服飾
などです。
おそらくクルマは
メタファーとしても使われていて
『騎士団長殺し』ならば
「良きもの」…「ジャガー」
「悪しきもの」…「スバル・フォレスター」
は容易に見てとることができます。
『ダンス・ダンス・ダンス』なら
「良きもの」…「スバル・レオーネ」…星・空
「悪しきもの」…「マセラッティ」…海・水
ということになろうかと思われます。

村上氏には
『小沢征爾さんと、音楽について話をする』(2011)
という対談もあれば
ジャズについての共著の随筆もあります。

『騎士団長』は
モーツアルト(1756-1791)の
オペラ『ドン・ジョバンニ』に登場するそうです。
残念ながら私は見たことがありません。
私は読書と並んで音楽を聴くのも好きですが
クラシック音楽600年の歴史の中で
(ルネサンス音楽も少し聴き)
バロックはよく聴き
古典派はまあまあ聴き
ロマン派はほとんど聴かず
19世紀末から20世紀にかけては
そこそこ聴くという時代的偏愛があります。
また
・バッハ(1685-1750)
・ヘンデル(1685-1759)
は別格としても
ドイツ音楽よりは相対的にフランス音楽
・リュリ(1632-1687)
・ラモー(1683-1764)
・フォーレ(1845-1924)
・ラヴェル(1875-1937)
を聴くことが多いかもしれません。
残念ながら有名どころのオペラは
ほとんど聴かず(見ず)
リュリやラモーのオペラ用音楽が
転用されたのを聴くくらいです。

従って
著者の表現を借りるならば
「ヴィヴァルディとバッハとヘンデルの違い」
はおおむね瞬時に分かると思います。
バッハはヴィヴァルディの主題を借りて
器楽曲をいくつか書いていますが
オーケストレーション(バロック時代に
そういう用語があるのかは別として)が
違うので容易に判別できます。逆に
モーツアルトのオペラは何を聴いても
わからないだろうと思います。
あえてウィーン古典派・ロマン派で
聴くことがあるドイツ人を挙げれば
・ベートーヴェン(1770-1827)
・ブラームス(1833-1897)
というところです。たまたまですが
オペラについては寡作であるか
1曲も書かなかった作曲家が
私がよく聴く作曲家であるようです。
従って
私程度の音楽的素養では
村上氏の作品を理解する上での
何らかの手助けになるということは
全くないと考えてよさそうです。

最後に
この「第1部(下)」では
本筋に関係ない挿入的エピソードとして
森鷗外(1862-1922)による
『阿部一族』(1913)
への言及があります。
中学生のときに最初に読み
大人になってからまた読みました。
森鷗外は岩波書店の「選集」を持っているので
まあまあ読みました。
ひとことで申し上げると
殉死をめぐって藩と対立した
阿部一族が最終的には
立てこもって滅亡する話です。
実際に肥後(熊本)の細川藩であった
話に基づいていますが
史実とは必ずしも一致しないようです。
この1ページにも満たない挿入話は
別に『阿部一族』でなくてもいいように
思いますが
著者にとっては何か必然があったのかもしれません。
騎士団長殺し 第1部: 顕れるイデア編(下) (新潮文庫)Amazon書評・レビュー:騎士団長殺し 第1部: 顕れるイデア編(下) (新潮文庫)より
4101001723
No.582:
(5pt)

ユング派心理学を連想させる長編小説

つまるところ
小説の評価とは
【好きか/嫌いか】
【良いか/悪いか】
に尽きると考えています。
これまでに私は
村上春樹氏(1949-)の
長編小説はすべて読み
短編小説もおおむね読んだように思います。
随筆・紀行・対談・インタビューしかりです。
その意味で村上氏は好きな小説家であり
有象無象の小説家に比較しますと
村上氏の小説の水準は群を抜いています。
『騎士団長殺し』もそうであると思います。

私にとって
読書は道楽であり
良い小説を読むことは楽しみのひとつです。
仕事とは何の関係ありません。
以前は読めば読んだだけの
読みっぱなしでしたが現在では
こうしてレヴューを記載することによって
読書録をつけるのと同じ行為が
できるようになりました。

1983年、知人に勧められて
短編集『中国行きのスロウ・ボート』
(中央公論社)を読んだのが始まりで
2019年『騎士団長殺し』を読むまで
36年間 ぽつぽつと
村上氏の作品を読んできました。
出版された作品を1秒でも早く読むかどうか
という点では私は良い読者ではなく
最近は出版されてから数年経過するのを待って
落ち着いて読むのが習慣になりました。

『騎士団長殺し』も初版2017年2月ですから
出版から2年以上経ってようやく読みました。
実はヒコーキを待っている時間に
空港の書店でたまたま一冊だけ残っていた
第1部(下)(新潮文庫 2019.03)
を見つけて購入したのが始まりです。
読み始めたら止まらなくなったので
出張先で残り3冊を買い
入浴しながら読んだところ
表紙がぼろぼろになってしまいました。

あとで詳しく述べますが
私は村上氏の小説の中では
『ねじまき鳥クロニクル』(1994ー95)
が一番良いと思っており
『騎士団長殺し』はそのテーマを
間接的に引き継ぐ作品と感じました。
ある意味、完結編かもしれません。
(あくまで個人の感想です)

ちなみに
村上氏の長編小説の中で
繰り返し読んだ回数が一番多い作品は
『ダンス・ダンス・ダンス』(1988)
です。おそらく百回以上読みました。
理由は単純でいちばん面白かったからです。
半分純文学、半分エンターテインメント
半分リアリズム、半分シュールレアリズム
というブレンドが私にはちょうど良かった
のではないかと思います。
過去に札幌に住んでいたことがあるので
イメージがわきやすかったせいもあります。

読んだ回数で言えば
その次に多いのが
『ノルウェイの森』(1987)
です。これも百回くらい読んだと思います。
この長編小説は村上氏が
リアリズムの文体でリアリズムの物語を書いた
めずらしい作品です。というより
ミリオンセラーになりましたので
今さら何をか言わんやでしょう。
小説の舞台となるか小説の中で言及がある
東京・京都・旭川に住んだことがあるので
リアルな印象が残っています。
(映画も見ました)

逆に
読んだ回数で2~3回しか読んでいないのが
『スプートニクの恋人』(1999)
『海辺のカフカ』(2002)
です。もっと少なくて
1回読んだきりの作品が
『アフターダーク』(2004)
『1Q84』(2009)
『色彩を持たない田崎つくると、彼の巡礼の年』(2013)
です。

読んだ回数で中間に位置するのが
『羊をめぐる冒険』(1982)
『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』(1985)
『国境の南、太陽の西』(1992)
です。
『羊をめぐる冒険』は村上氏が
フルタイムの作家となって第一作であり
執筆時間の制約がない環境で書かれ
ひとつの方向が決定された作品です。
『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』は
同時進行する2つのストーリーが語られる
という点で村上氏のスタイルが確立された作品です。
最初に読んだときは知人と
「すごい小説が出てきた」
と言い合ったのを覚えています。

こうして振り返ってみますと
私にとっての村上氏の作品(長編小説)は
『ねじまき鳥クロニクル』がピークで
その後はあまり読まなくなり
最近では新刊を読むよりは
気に入った既刊書を繰り返し読むことが
多くなっていました。

その理由は私の側にあり
リアリズムの小説が好きだから
だんだん遠のいて行ったと言えます。
しかし『ねじまき鳥クロニクル』は
シュールリアリズムですが
なかなか印象的なテーマがあります。
例えば
・井戸、穴、洞窟、暗闇。
・少女。
・出ていった妻。
・セックスとヴァイオレンス。
というようなテーマは
『騎士団長殺し』にも引き継がれ
あるものは「完結」したと考えられます。
(あくまで個人の感想です)

よく指摘されることですが
村上氏の小説全体が
何かのメタファー(隠喩)なのだろう
と感じておりましたところ
『騎士団長殺し』の第2部が
「遷ろうメタファー編」(うつろうメタファー編)
と題されたので驚きました。
「遷(うつ)ろう」の「遷」という漢字は
化学で習う「遷移元素」の「遷」
臨床医学で言う「遷延化」の「遷」であり
「うつろい行く季節」と言うときの
「遷い」です。

1996年 村上氏は
『村上春樹、河合隼雄に会いに行く』(岩波書店)
を上梓されています。
河合隼雄(1928-2007)と言えば
京大・教育学部で長く教鞭をとられ
「ユング派の分析家」(日本人初)であり
「箱庭療法」でも知られています。
高名な臨床心理学の大家です。
ユング派の開祖である
ユング(1875-1961)と言えば
夢分析や集合的無意識で知られています。
私は個人的に
ユング心理学は思想・文化・哲学としては
たいへん優れていて
西洋思想の一大潮流を形成したと評価しています。

しかし
臨床における治療法としては疑問が残ります。
対象(患者さん)をよく選択する必要があり
適応を誤ると良い結果が出ないのではないかと
考えています。例えば少なくとも
内因性のうつ
双極性Ⅱ型によるうつ
に対しては奏功しないように感じます。
単に寛解しないのみならず
遷延化するのではないかと思います。
「夢分析」は興味深い研究ではありますが
臨床では夢を分析することよりも
質の良い睡眠を確保することのほうが
重要ではないかと考えています。
(あくまで個人の見解です)

いずれにせよ
河合隼雄のようなユング派分析家ならば
村上氏の小説に
私たちにはうかがい知りようもない
深い意味を見出すのではないかと思います。

最後に
村上氏はどこかで
『騎士団長殺し』は
「『グレート・ギャツビー』への
オマージュとして書いた」
と述べておられたと記憶しています。
読了後に知ったのですが
さもありなんと思います。
なるほど言われてみれば
「免色渉」は「ジェイ・ギャツビー」
のように登場します。
やはり村上氏にとって
スコット・フィッツジェラルド(1896-1940)
は最も好きな作家なのだと
再認識した次第です。
騎士団長殺し 第2部: 遷ろうメタファー編(下) (新潮文庫)Amazon書評・レビュー:騎士団長殺し 第2部: 遷ろうメタファー編(下) (新潮文庫)より
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