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オイディプス症候群
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【この小説が収録されている参考書籍】
オイディプス症候群の評価:
| 書評・レビュー点数毎のグラフです | 平均点4.12pt | ||||||||
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Amazonサイトに投稿されている書評・レビュー一覧です
※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
未読の方はご注意ください
全33件 1~20 1/2ページ
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| 笠井潔の代表作の一つであり、現象学的思索に満ちた長大な哲学ミステリー『オイディプス症候群』は、2002年に刊行された。 全865ページという厚さは、その重厚さと深遠さの象徴であり、簡単に読書は難しい。 本書を読む者には、相応の覚悟と根気が求められる。本書は哲学・思想の論議と、それを基にしたミステリー的展開とを両立させる、難解でありながらも読む挑戦を強いられる。本書は、単なる推理小説にとどまらず、フッサール現象学やイギリス経験論、さらには東洋哲学や宗教思想との融合を追究した、思想的な作品である。 本書の中心的テーマの一つは、「現象学的本質直観」の概念である。この用語は、フッサールの哲学において極めて重要なものである。フッサールによれば、「本質直観」とは、個別具体的な事象を超え、その背後に潜む普遍的な本質を直観的に捉える認識の能力である。リンゴの色を見たとき、その具体的なリンゴの色彩を超え、すべてのリンゴに共通する「赤さ」を把握しようとする知的態度こそが、「本質直観」の意義である。 これにより、感覚的経験から抽出される普遍的真理の確立と、その基盤を支えるための現象学的還元の方法論が生まれる。すなわち、先入観や自然的態度を一時的に判断停止(エポケー)し、純粋な意識の構造を分析し、背後の本質を直観することが主眼とされる。 笠井潔がここで展開する「矢吹駆」の「本質直観」は、これらと一線を画している。それは、あくまでミステリー的探究において、個々の事件の背後にある根源的な思想や歴史的背景を直観的に「見抜く」ことを目的とする、独自の応用思想である。言わば、フッサールの哲学的手法をミステリー作法に転用し、「事件の深層に潜む意味や背景を直観的に理解し」ようとする、アクティブな認識の仕方である。 例えば、首のない死体の出現という奇怪な事件が起きた場合、その場の事実や証拠の羅列だけでは解決できない。探偵の矢吹駆は、「なぜ首を隠す必要があったのか」「なぜこのような方法で死体を残すのか」といった問いを立て、その背後にある思想や背景を直観的にとらえる。これは、表層的な論理証拠の積み上げを超えた、事件の背後に潜む「意味の系譜」を見抜く行為のようだ。こうしたアプローチは、従来の探偵小説の枠組みにはない、哲学的奥深さと思索行動を伴う。 この点で、フッサールの「本質直観」と、笠井の「矢吹の本質直観」は、目的において明確な差異を持つ。前者は抽象的な哲学的作業として、個々の事例から普遍的な本質を抽出することに終始するのに対し、後者は事件の「意味」を解明し、社会的・歴史的な側面を直観し、深層にある思想展開や文化的背景を掘り起こすことに重きを置く点で異なるのである。 さらに本書は、哲学的な論議だけにとどまらず、東洋思想や宗教的な概念にも踏み込む。笠井は、ヒンドゥー教の聖者が語る「彼方にあるものは彼方にあるものだ」「ここにないものはどこにもない」との言葉に、フッサールの現象学のエッセンスを見出す。これは、「ここ」(phenomenon)と「彼方」(beyond)を二分しない、今ある現象そのものの深さを追究する思想といえる。ヒンドゥー思想の「梵我一如」「アートマンとブラフマンの一体性」も、認識の根源にある「自己と世界の絶対的同一性」を示し、現象学の「事象そのものへ」の態度とも共鳴する。 このように、フッサールの「現象学」は、「事象の純粋記述」を目的とし、「先入観排除」の通奏低音を奏でる。彼の「志向性」に着目した理論は、「対象の意識的構造」を明らかにし、外部世界の本質に迫るための方法論を提供した。一方で、イギリス経験論の系譜を持つ伝統は、「感覚経験のみが知識の源泉」とし、「外界の本質の直接知識は困難」という懐疑的立場をとる。これに対し、フッサールは、「意識の構造」に着目し、「意味」や「志向性」の働きにより、外部現象の本質へと至る道を切り開こうとした。 ハイデッガーの哲学も絡む。彼は、「私の死を死ぬ」ことの哲学的意義を、個人の非代替性と孤独性において解釈した。死は、「他者にとっての出来事」ではなく、「私にとっての究極の一回限りの経験」であり、その瞬間、あらゆる他者や外界は閉ざされる。自己の死と向き合うことにより、より深い自己理解と自己の実存性を高めることが可能とされる。これは、自己喪失や解放を説いた東洋思想や、西洋の存在論とも呼応し、また、本書の中核的テーマの一つとなる。 物語の一環として、ナディアと矢吹の哲学的対話も重要な役割を果たす。「自分が悪であることを知った時、どんなに苦しいことか」と矢吹は語る。これは、自己認識と責任の問題を示唆し、悪と闘うこと、それ自体が「究極の離脱(解脱)」につながるという思想を反映している。彼の言う「地上に還って悪と闘え」という言葉は、まさに探偵の倫理と重なる。通常のミステリーでは、謎解きが主な関心事であるが、笠井は「悪と対決し、その本質を理解することこそ、真の目的」と位置づける。 さらに、歴史的な背景も絡む。1968年の世界的な反体制運動群、フランスの五月革命、プラハの春、アメリカの反戦運動などを引き合いに出し、その時代の社会的変動を文化的背景としながら、矢吹駆や笠井の思想を展開させる。1968年は、「新しい時代の幕開け」かつ、「終焉」の象徴ともなり得る年として、著者の思想的スプリングボードに位置付けられる。 知性と感情の相互作用もテーマの一つ。ナディアと矢吹の関係性を通して、「男が追いかけ女が逃げる」原理の心理、生物学、社会文化的根拠を考察。進化心理学、文化的ジェンダーステレオタイプに基づき、多層的な解釈を織り交ぜる。矢吹は、「身体的差異よりも、精神的・倫理的な価値の同一性」が人間の根源的な普遍性であるとする。 こうした思索の合間に、クレタ島のエピソードや迷宮、ミノタウロス伝説といった文化人類学的考察も交え、儀式、魔除け、権力の象徴としての迷宮の歴史性を掘り下げる。迷宮は、ただの迷路ではなく、「死と再生の象徴」「未知なる自己の探索装置」としての深い意味を持っている。渦巻き模様は、生命の循環や宇宙の秩序の象徴であり、その形象は、自然界や神話の中に遍在する。 最後に、物語のクライマックスにおいて、殺人事件の真相と共に、ウイルス拡散を企てるニコライイリイチの陰謀も明らかとなる。矢吹の「本質直観」により、事件の背後にある「オイディプス症候群」のウイルスの連鎖とその背景に潜む闇の意図が解明される瞬間は、まさに計り知れないスリルと思想的緊張に満ちている。 総じて、『オイディプス症候群』は、哲学的思索とミステリーの融合を目指した、挑戦的かつ壮大な作品である。笠井潔は、単なる物語の枠を超え、読者に「深層の真実」に目を向けさせるための挑戦を仕掛けている。読者は、膨大な哲学的資料と物語の複雑な網の目を追いながら、自己と世界の根源的な関係性について、さまざまな視点から思弁し続ける必要がある。 この作品を通じて、現象学の方法論が、ただの学問的な抽象ではなく、人間の存在理解や社会問題の解明にまで及ぶ可能性を示しているともいえよう。したがって本書は、哲学・思想の深淵を探求したい者、ミステリーの枠を超えた精神的な冒険を求める読者にとって、極めて意義深い書籍であると考えられる。 | ||||
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| いやあ長かった。 分冊でもない本書ですが、いつもの寝ながら読みには支える手が疲れました。 相変わらず著者も著作も全く知らずに、ただただ「本格ミステリ大賞受賞」というのと、この分厚さに惹かれて購読。なので矢吹駆が主人公の連作とももちろん知らず、とはいえ序章でザイールのジャングルの描写から始まる物語に、期待が膨らむじゃありませんか! ミステリには興味があるものの、”本格”なるものがよくわかっていないのだけど「虚無への供物」や「ミステリオペラ」あるいは(ちょっと違うけど長いということでは)「薔薇の名前」は面白かったので、そんな趣のお話と勝手に思ってた次第。 で、読み進んでいくと、AIDSと容易に想像がつく”オイディプス症候群”という感染症とギリシャ神話、テラーであるナディア・モガールと現象学による探偵役の矢吹駆、そしとその天敵、あとは思想闘争やら推理小説の論評やらが話の中に錯綜して進んでいきますがーいやあ、難しかった。 ギリシャ神話にも詳しくないし、ここで語られるような哲学?論争にも昏い、ましてや”本格”というミステリの理もよく知らない人間にとっては、なんだかよくわからないうちに、それでも引き返せない物語を並走した感じです。 なので印象くらいしか思いつかないのだけれど、”本格”ミステリなるものが、きわめて演劇性の高いものであることと、(こう言っては何ですが)予期せぬことというのが都合よく物語の裏書をしているのは”本格”でも”非格”(なるのもがあるのかどうか)でも同じなんだなあ、と思いました。その点、自分としては、動機にしろ殺害方法にしろ、そういったハプニング抜きの、堅牢に構築された理論というのを期待したかったのですが、その点は少し残念でした。とはいえ、これだけ長い物語を最後まで読ませられたということでは、やはり面白かったのだと思います(多少、歯切れが悪いが)。 著者はミステリの評論でも高い評価を受けているだけでなくSFも著している人らしいのですが、「ミステリオペラ」の山田正紀も元はといえばSF書きだし、自分がなじみの半村良や筒井康隆なんかもミステリ(といわれる)ものを書いてるしなあ・・物語の広げ方と回収の仕方ということでは、SFとミステリも似ているところがあるのかも、なんて関係ないことも思ったりしました。 | ||||
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| 単行本で約860ページの長編。それに加えて、登場人物の間で繰り広げられる事件や哲学の議論が難解で、思考力を全開にしなければ付いていけず、1ページを読むのにも相当の時間がかかった。ギリシャ神話がモチーフの作品で、ギリシャ神話に関する薀蓄が随所に出てくるが、なにぶん、ギリシャ神話の知識がないものだから、余計に時間がかかる。また、思考力を全開にしても、理解できないところが多々あり、特に矢吹駆の話は難しい。読み手を選ぶ作品だ。 孤島の連続殺人事件で、様々な謎がこれでもかと盛り込まれている。事件に関する議論は、あらゆる可能性が漏れなく検討されていて、極めて論理的。哲学的論争もハーバード白熱教室で取り上げられるような興味深い内容。 事件の真相に関しては、あまりきれいな解答ではないので、おそらく、読者の多くはカタルシスが得られないだろう。個人的には、このような真相は十分に可能性としてありうることなので全く問題はないのだが。途中でナディアが示した仮説の方がすっきりとしていて、面白いと感じる。ナディアの仮説には論理的に瑕疵があることが矢吹駆によって示されるが、おそらく、普通の作家であれば、ナディアの仮説が真相となるような設定にするのだろうなと思った。 孤島に人が集められた理由が斬新。 最終章のまとめ方が素晴らしいと感じた。 | ||||
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| 「バイバイ、エンジェル」からずっと矢吹駆シリーズを読んできた中で、それまでの作品に勝るとも劣らない傑作と感じます。 が、反面、1作ごとに鼻についてきた推理のしつこさ、登場人物が一言発するたびに、何気ないそぶりをひとつするごとにナディアが犯罪に絡めた推論をしては疑心暗鬼に陥る、その頻度のしつこさが邪魔!作者の悪い癖となっていることを厳重に指摘しておきます。 | ||||
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| 【驚きの発端】 2002年に刊行された本作品を読み始めた私の眼に、まず飛び込んできたのは、「エボラ熱」という病名。 作品の舞台設定は1970年代なので、アフリカで発見されたばかりの疫病とされていましたが、そのすぐ後に、この病が文明社会にもたらされた場合の恐ろしさが言及されていました。 このレビュー執筆時点(2015年1月)、その想定は残念なことに、現実のものとなっています。 【疫病というテーマ】 哲学探偵とでも呼べる矢吹駆シリーズの第5弾の本作品は、上述のとおり、疫病の暗い影で幕を開けます。 「エボラ熱」自体は、作品のテーマではなく、同じ頃蔓延し始め、現代では世界中に感染者のいる、HIVがテーマ。 1970年代には、謎の病であったため、本作品では、「オイディプス症候群」と呼ばれていたという設定です。 この病に関連して、ギリシアのエーゲ海に浮かぶミノタウロス島に招待された人々が、大嵐で島が孤絶する中、宿泊先のダイダロス館で、一人、また一人と死亡していくという、クローズド・サークル型の本格ミステリとなっています。 【犯人はいない】 これは、ネタばらしではなく、巻末解説からの引用です。 このシリーズを読んでこられた方なら、分かると思うのですが、本作品では、ミステリとしての構成と並行して、作中で哲学的論争が繰り広げられます。 そうした形而学上、「犯人はいない」のであって、ミステリのストーリーとしては、矢吹駆が推理し、きちんと真犯人も指摘しますので、ご安心を。 【押さえおきたい、ユリシーズ】 本作品を読もうとするなら、アイルランドの作家、ジェイムズ・ジョイスの大長編「ユリシーズ」について、全編を読まないまでも、Wikipediaで概略を押さえておくことを、オススメします。 作品全体をギリシア神話が彩る中、この作品のことも知っていると、より楽しめることと思います。 【全体的な評価】 第5弾までの本シリーズ中、最も充実していたのは、前作の「哲学者の密室」だと思います。 しかし、本作品も十分に上質なミステリと言えるでしょう。 前作までの4作を読んできたなら、このシリーズ独特の世界に浸れる喜びは格別なものがあるのではないでしょうか。 | ||||
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| 本格ミステリ大賞受賞作だが、この本格ミステリ大賞受賞作は初心者には敷居の高い作品が多いが、本作も相当に敷居が高い。 ノベルス版にして700ページ超えというレンガのような厚さで、さらにページにはぎっしりと哲学的な蘊蓄や専門分野の引用、蘊蓄が詰め込まれている。 大長編をものともしないいったん読み始めたたらページを捲る手が止まらない・・・ということはなく、数回に分けて休憩入りで長期戦で挑まないと立ちうちできないような密度の作品である。 クローズドサークルの閉ざされた孤島での連続殺人という王道テーマを再構築しようとしたような作品。 正直、最後まで読むのはしんどいが、それだけの価値はある作品ではある。 | ||||
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| みなさんの評、拝見しました。 賛否両論ありますね。 駆ファンとしては、否(というより”非”)のほうがやや多かった、 ですか? 雑誌EQ、連載時はそれなりに興奮して読みました。 そんな記憶がいまだ、あります。 だって、通常の矢吹シリーズと違い、いつになっても 矢吹駆が登場しない!?! ナディアひとりの視点で世界が展開するところが 異常な興奮を生んだ記憶があります。 どこかの雑誌で読みましたが、笠井氏やはりこれではと、 大幅加筆に至ったようですね。 本作(単行本化された方)一度だけ舐め=読み、ましたが、 やはり当時の興奮は、なかった気がします。 あのまま出版するか、両方の版が、読みたいです。 | ||||
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| 病床の友人から、新種の奇病「オイディプス症候群」に関する資料と報告書を共同研究者に渡すよう頼まれた語り部役、ナディア・モガール。紆余曲折を経て、大企業の経営者が所有する孤島に滞在することになったナディアだったが、その晩、滞在客の一人が墜死した。唯一の交通手段である船は難破し、孤島に閉じ込められることになった滞在客の面々を次々に襲う、不可解な謎と殺人者の魔の手。 どこか「ちぐはぐ」で歪な連続殺人。死体の装飾の意味。滞在客が隠している秘密。そして、所々で見え隠れする狂気のテロリスト、ニコライ・イリイチ・モルチャノフの影――。 連続殺人を惹き起こした、【真の犯人】は誰なのか。哲学者・矢吹駆は、この事件を現象学的にどう読み解くのか。 推理小説なのでネタバレなしで感想を書きたいのですが、なかなか難しいです。ですが、矢吹駆が【真の犯人】を指摘した所が最も驚かされましたね。読んだ時は少し複雑な気持ちになりました。 推理小説として面白い上に、色々と考えさせられる哲学的・社会学的話題も含まれている『オイディプス症候群』。おすすめです。 | ||||
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| 賞をとったこともありその時点でハードカバーの小学生の辞書並みの物を購入しました。 矢吹駆シリーズはこの本から入ったことになります。 読み終わった後にどうにもすっきりせず、前小説ともいえるサマーアポカリプス、バイバイエンジェル等も読みましたが、どうも好きになれません。私は登場人物がどの立場であろうと、その人物の立ち位置で読むのですが、主人公の矢吹駆に全く魅力を感じないためか、ヒロインにも毎回おなじみの敵役にも感情移入できません。全てが小説の中の重要登場人物というよりも、役を振り当てられただけの仮面をつけた人物にしか思えないのです。 大好きとまではいえませんが、同じ薀蓄を語る主人公のほうならまだ京極堂の方がよい。 大体どの分野の小説として読めばいいのでしょう。推理小説?いやいや薀蓄本?はたまた批評本?それとも全てを統合したお話として読めばいいのか。 結局全てが中途半端な感がして、矢吹駆がごちゃごちゃと語っているところを除いて推理小説としたら犯人も動悸もトリックも?という感じです。 哲学のことを知りたいなら、哲学者が書いた本を私は選びたい。 中途半端な知識を推理小説の中に無理矢理入れ込んだ気がしてなりません。 無理に小説など書かずに、評論のほうに集中されればいいのにと思いました。それとも評論を推理小説の形で表した新しい試みととらえればいいのでしょうか。 | ||||
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| 本作が、笠井作品の中では必ずしも傑作であるとはいえない、という意見が多いようだ。 しかし私は本作を、著者が「孤島もの」という本格ミステリのガジェットのひとつにチャレンジし、実作として実証しようとした作品であると評価したい。 多分、著者が本作の構想や執筆をしたのは、いわゆる新本格が市民権を得たのち、自然崩壊し始めた頃だと思う。本作は、これに対する著者なりの防波堤だったのではないだろうか。ただし、その意図がほとんど効果がなかったことは、その後の本格ミステリシーンを見れば明らかである。本格ミステリは、すでに崩壊した。 山田「ミステリ・オペラ」が、笠井のそんな問いかけに応えようとした作品だったのかもしれない。しかし、あの作品の刊行も、むしろ崩壊を促進したようである。 しかし、何はともあれ本作である。 著者が考える本格ミステリのフォーマットのひとつが、まちがいなくここにある。だから、そのスタイルが好きなマニアにとっては、大変面白い。私はとても面白く読んだ。もちろん、あいかわらずの矢吹ロジックが垂れ流されるが、前4作まではかなり作品世界で乖離が目立った矢吹であったが、本作ではそれがかなり少なくなって、作品世界と随分となじんでいる。その分、前4作よりもかなり読みやすいのは確かである。 もちろん、他のレビュアーの意見のように、熟成度合いが足りない、という感じはある。それは、かなり多忙になった著者の、作品にかける時間の少なさによるものであるのだろう。しかし、今の著者にかつての「サマー・アポカリプス」や「バイバイ・エンジェル」執筆時のような時間をかけて作品を熟成しろ、というのは、多分物理的にも心理的にも無理なのだろう。笠井ファンとしては、それは残念なことであり、できることならばもう一度、若いときの気力と体力で、これは、という傑作を執筆してもらいたいものである。 従って、本作の評価は満点とはいいがたい。しかし、著者のチャレンジ精神は、十分に評価に値する。 | ||||
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| 本作が、笠井作品の中では必ずしも傑作であるとはいえない、という意見が多いようだ。 しかし私は本作を、著者が「孤島もの」という本格ミステリのガジェットのひとつにチャレンジし、実作として実証しようとした作品であると評価したい。 多分、著者が本作の構想や執筆をしたのは、いわゆる新本格が市民権を得たのち、自然崩壊し始めた頃だと思う。本作は、これに対する著者なりの防波堤だったのではないだろうか。ただし、その意図がほとんど効果がなかったことは、その後の本格ミステリシーンを見れば明らかである。本格ミステリは、すでに崩壊した。 山田「ミステリ・オペラ」が、笠井のそんな問いかけに応えようとした作品だったのかもしれない。しかし、あの作品の刊行も、むしろ崩壊を促進したようである。 しかし、何はともあれ本作である。 著者が考える本格ミステリのフォーマットのひとつが、まちがいなくここにある。だから、そのスタイルが好きなマニアにとっては、大変面白い。私はとても面白く読んだ。もちろん、あいかわらずの矢吹ロジックが垂れ流されるが、前4作まではかなり作品世界で乖離が目立った矢吹であったが、本作ではそれがかなり少なくなって、作品世界と随分となじんでいる。その分、前4作よりもかなり読みやすいのは確かである。 もちろん、他のレビュアーの意見のように、熟成度合いが足りない、という感じはある。それは、かなり多忙になった著者の、作品にかける時間の少なさによるものであるのだろう。しかし、今の著者にかつての「サマー・アポカリプス」や「バイバイ・エンジェル」執筆時のような時間をかけて作品を熟成しろ、というのは、多分物理的にも心理的にも無理なのだろう。笠井ファンとしては、それは残念なことであり、できることならばもう一度、若いときの気力と体力で、これは、という傑作を執筆してもらいたいものである。 従って、本作の評価は満点とはいいがたい。しかし、著者のチャレンジ精神は、十分に評価に値する。 | ||||
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| 免疫機能を低下させるウイルス性の奇病「オイディプス症候群」に 感染した友人の頼みで、クレタ島南岸に浮かぶ孤島「牛首島」に やって来たナディア・モガールと矢吹駆。 やがて島は嵐によって外部との連絡が断たれ、その状況下で、 ギリシア神話に見立てられたような連続殺人事件が起きる……。 前述の「オイディプス症候群」はHIVがモデル。 通常の病原体とは異なり、それ自体毒性を持たないのに免疫機構を狂わせていくこのウイルスに、 意図することなく、神託通りに父を殺して母を犯し、テバイの町に災いをもたらした、ギリシア悲劇の 主人公の名前が与えられているところに、本作のテーマが集約されているといえます。 また、本作では《孤島》という、ミステリにおいては定番の舞台が選ばれていますが、駆は その本質を「出るために作られた檻、第三項が生じるように引かれた線」と捉えています。 犯人は内と外を同時に鳥瞰しうる第三項に位置すべく、 内と外とを分割する《孤島》という舞台を選びます。 そうして特権的位置を占めた犯人は、内と外を自在に往還し、 関係者を支配しようとしますが、本作においてその目論みは、 内と外の境界を無効化し無差別に襲い掛かる「オイディプス 症候群」という疫病に含意されるものによって、頓挫すること が運命付けられているのです。 それは、十人もの死者を出す連続殺人事件の引き金となったのが、 悪意のない、ある人物のささいな不注意であったということからも 窺うことができます。 | ||||
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| 矢吹駆を主人公とした、笠井潔の重厚なミステリシリーズの文庫最新刊です。 十年余りのブランクの後に復活したこのシリーズの新作は、いかにも「本格」のミステリ小説らしく、絶海の孤島(ギリシァのミノタウロス島というミノタウロスの伝説で有名な島)に浮かぶダイダロス館という館で起こる連続殺人事件ものです。ダイダロスといえば、ミノス王の命でミノタウロスの迷宮をつくりあげた人物であり、息子のイカロスは翼をやかれて墜落死したという神話で有名な人物です。そのダイダロスの名をもつ館は、ギリシアのスアフォキンという島から船でいかなければならない、この館しか存在しない孤島に存在し、この島に集められた人物が一人また一人と殺されていきます。そもそも何のために、こんなギリシャの片田舎にアメリカやパリから種々さまざまな十名のゲストが集められたのか、彼らに共通するものは何なのか? 非常に限定された情報しか与えられないまま読者は、ミノタウロス島まで主人公たちと一緒に運ばれていきます。 ちなみに、主人公の駆はむろんのこと名前のとおりに日本人なんですが、このシリーズの舞台はずっとフランスのパリであり、今回も一作目から語り部を続けているナディア・モガールという女性をはじめ、登場人物は彼意外はすべて外国人です。 さて。 この矢吹駆のシリーズは主人公と物語の構成が非常に独特で、決して万人向けというわけではありません。というのも、主人公の駆は、哲学や思索、世界の成り立ちなどには非常に関心を持ち、文字通り全身全霊をかけてそれに臨みますが、その反面、食事、女性、娯楽などといったものには一切興味がありません。語り手のナディアがいじましいくらいの努力で自分に目を向けさせようとしますが、全くもってそれらは彼にとっては無価値のようで、彼にとっては思索や彼のいうところの「絶対的な悪」と戦うこと意外には何ものも意味をもちません。これほどにストイックで共感されにくい主人公も珍しいでしょう。 そして、もう一つ特徴的なのはこの作品の登場人物の多くは、それぞれが哲学を持ち、その哲学のためとあればとことん論戦することも辞さず、またその哲学や信念の実践を躊躇しない人物たちであるということも他のミステリ小説とは大きく違うところであろうかと思います。そんなわけで勢い、登場人物たちはいたるところでかなりの紙幅を使って哲学論議や論戦を繰り広げ、時にはその信念に基づいての犯罪が行われたりもします。京極夏彦の京極堂シリーズとそのあたりは似ているといえなくもないですが、あちらがところどころで笑いを入れたり、登場人物の多くは普通の感覚の日本人なのに対して、こちらはそれぞれのメンタリティがあきらかに違うので、異質な感じは拭えないと思います。 シリーズを通して読んでいると、テロや左翼の思想信条についの論議も多く、そうしたカラーが色濃く出てくるのでとくに日本人には馴染みがない感覚がずっとつきまとうと思います。 どうしてここまでくどくどと前提を書くのかといえば、そのあたりを諒解しないでこの本を読むと、あきらかに途中でだれた感じや眠たさを持ってしまうかと思うからです。よくミステリにおいて、作者の語りたいことはミステリではなく、自分の仮説や思想をミステリという衣で語っているだけだというような非難をされる本がありますが、この本はそういうレベルではありません。明らかに、そうした何某かの説を堂々と作中で開陳しています。であるにもかかわらず、ミステリとしてもしっかりと構築しよう、雰囲気もそれが無理がないようにしようとするあまりに、かなりとっつきが悪く、結果として、それを諒解しないで読めば評価はボロボロにならざるを得ない本だと思います。 かくいう自分自身も作中でのジェンダーについての考察や、自分と他者関係性についての議論などの一部では退屈してしまった(大変興味深い部分も多々あるんですが)口です。 が、このシリーズそれ自体は読み応えもあるし、内容も非常に濃いと思いますので、そのあたりを買って注釈や説明を多用しての紹介としました。同じ作者でも「ヴァンパイアー戦争」とかはわかりやすいタイプの超能力者もので、ライトノベル風味満載の物語なので、知らずに読めばきっと別人の作品だと思うくらいです。 | ||||
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| 謎の奇病「オイディプス症候群」の蔓延に端を発する、連続殺人事件。 それを背景に、世界的テロリズムと矢吹駆の暗闘は続く。 このシリーズにおける最大の魅力といえば、やはりなんといっても、現代思想家をモデルにした登場人物たちが、主人公と論戦をくりひろげる部分でしょう。 しかしながら、今回登場のミシェル・ダジール(フーコー)を相手に、主人公・矢吹駆が、あまり刺々した議論を戦わせることはありません。むしろダジールの助けを得て、自分探しをしているようにも見えます。 重要なのは、この『オイディプス症候群』に登場する思想家は、フーコーのほかにもう一人いる、という事です。それはひょっとすると、『テロルの現象学』の著者の、若き日の姿ではないだろうか?と、そのように僕はにらんでいるのだけどどうでしょう。 …なんかこう書くと、いろいろな誤解を生みそうな気もするのだが。 | ||||
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| 哲学的な論議や文献、ギリシャ神話への薀蓄など、すべてが分からないでも、何か高級な書物を読んだ気分になる。この作品はもう一度、読み直さなければならないと感じている。それだけの内容がある。 一方で、ミステリーとしての充実度はどうだろうか。伏線や理屈などきちんとつながってはいるが、ストーリーとして盛り上がりに欠ける感はないだろうか。読んでいて恐怖感もない。カケルvsイリイチの対決もいいが、作品ごとに、もっと輪郭をくっきりと描かなければならない。「知ってる人は知っている」ということでファンに頼っているのはいただけない。実際のところ、笠井潔氏の作品を相当程度まで理解している読者は少ないのだ。 | ||||
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| 哲学的な論議や文献、ギリシャ神話への薀蓄など、すべてが分からないでも、何か高級な書物を読んだ気分になる。この作品はもう一度、読み直さなければならないと感じている。それだけの内容がある。 一方で、ミステリーとしての充実度はどうだろうか。伏線や理屈などきちんとつながってはいるが、ストーリーとして盛り上がりに欠ける感はないだろうか。読んでいて恐怖感もない。カケルvsイリイチの対決もいいが、作品ごとに、もっと輪郭をくっきりと描かなければならない。「知ってる人は知っている」ということでファンに頼っているのはいただけない。実際のところ、笠井潔氏の作品を相当程度まで理解している読者は少ないのだ。 | ||||
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| 前半は面白かったです。凝りに凝った舞台設定に、様々な登場人物たちによって繰り返される議論や論戦。これらが最後にどうまとまるんだろう、とじりじり待ちながら読む楽しみがありましたね。 でも後半になると、執拗なまでに書き込まれている推理や薀蓄が少し邪魔でした。それらが物語のスピード感を邪魔してる印象です。 矢吹駆シリーズに独特の哲学的な文章も、内容的には『哲学者の密室』からそんなに大きく展開していない気がする。フーコーをモデルにした人物が登場して場を盛り上げてはいるけれど、ハイデガーが出てきた前作に比べるとその登場する必然性が薄い感じが。 ただ、これまでの駆シリーズとは全体的に色合いの違う作品なので、これまでの作品と比べても仕方ないのかも。ひょっとすると笠井先生は何か新しいことを試みたのだけれど僕に読み解けなかっただけということも考えられます。皆さんはいかがでしょうか? | ||||
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| テロやプレイグ等の様々な事件をメタファーとして織り込み、ギリシャ神話をモチーフにした物語を語って行く。孤島をテーマにした綾辻作品や、英国女流作家の複数の作品を彷彿させるモチーフを複合構築させて、俗にいう新本格推理小説は進んでいく。「外論」など、途中執拗に繰り返される哲学的な記述は、後半、密室トリックの文学的な位置付けに取り組んだ著者の姿勢が判るようになっているところも評価したい。探偵小説の評論も著す笠井独自の世界を堪能できる作品になっている。ずしりと感じる本の重さに背かない、重厚な作品といえよう。最後、犯人が**するところだけ、唯一不満を感じた。 | ||||
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| テロやプレイグ等の様々な事件をメタファーとして織り込み、ギリシャ神話 をモチーフにした物語を語って行く。孤島をテーマにした綾辻作品や、英国女 流作家の複数の作品を彷彿させるモチーフを複合構築させて、俗にいう新本格 推理小説は進んでいく。「外論」など、途中執拗に繰り返される哲学的な記述 は、後半、密室トリックの文学的な位置付けに取り組んだ著者の姿勢が判るよ うになっているところも評価したい。探偵小説の評論も著す笠井独自の世界を 堪能できる作品になっている。ずしりと感じる本の重さに背かない、重厚な作 品といえよう。最後、犯人が**するところだけ、唯一不満を感じた。 | ||||
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| 楽しく読まれた方も多くいらっしゃるようですし、その意見を否定する訳ではないのですが、私的な感想としてはカケルシリーズの中では最も完成度の低い作品になってしまった感が否めません。その理由は、この作品に否定的なレビューを書かれてる方々とほぼ一緒なのですが、豊富な材料が詰め込まれたものの煮込み切れなかった野菜スープという感じで、エピソード同士の絡み合いが不自然に終わってしまったと思えるのです。素材一つ一つは美味しく読めるだけに、それらが総合したひとつの話として上手く溶け合っていないのが残念です。ただ他のレビューを書かれた方々も同様だと思うのですが、この作品に対しての否定的な意見はむしろ「笠井氏の力量はこんなものではない」という信頼と期待の裏返しであるのでしょうし、10作品を目指すと宣言されているカケルシリーズに「バイバイ」や「哲学者」で与えてくれたあの興奮がもう一度甦る事を私も切に期待、そして信じています。 | ||||
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