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乳と卵
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乳と卵の評価:
書評・レビュー点数毎のグラフです | 平均点3.31pt |
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Amazonサイトに投稿されている書評・レビュー一覧です
※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
未読の方はご注意ください
全143件 81~100 5/8ページ
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第138回芥川賞受賞作品。 ひとつひとつの文が異常に長い。文法的に見ればなんだかおかしな文の羅列。 しかし、それがまったりねっとりとした空気を作り出しているように感じる。 この手の文章は生理的に受け付けないはずなのだが、意外に読みやすかった。 頭の中に、ぬるっと入り込んでくる感じ。 ところどころ、少しだけスプラッタな表現がある。 私はそういうのは非常に苦手なので、読んでいて少し気持ち悪くなった。 読後感としては、「なんか生臭い感じ」。それが率直な感想。 面白く、さくっと読めたけれど。 | ||||
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本書は川上未映子氏による芥川賞受賞作。 女と姉とその娘の、たった三日間のできごとを描いた作品。 主人公の女が住む東京に、40手前の姉・巻子と、その娘・緑子がやってくる。 豊胸手術を切望する巻子。 頑に言葉を発しようとしない緑子。 かつて一緒に住んでいたこともあったからか、それを自然と受け入れる女。 そんな三人の取り合わせという奇妙な設定の中、物語は進行する。 合間合間に挟まれた緑子の日記というか独白が、なんというか、切実だった。 ポジティブな友達とのやりとりを、自らのネガティブな思いに重ねて書かれてあり、 そのなんともいえない青臭さと切実さは痛々しかった。 まるで鬱屈した思いがどんどん溜め込まれ、破裂する時を待っているかのようだった。 そこまでコテコテではないので、関西弁の文章には違和感はなかった。 テーマがテーマだけに、男性である私は、本作を読むにあたって少し損をしているのかな、と思えばいいのだろうか。 そして本書に収録されたもう一編は、私には、意味不明。 | ||||
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帯に「一夜にして現代日本文学の風景をかえってしまった」と、いかにも読者に訴える言葉。 読んでみてつまんない小説でした。生理と豊胸手術、、途中で東京に行ったのは、実は豊胸ではなく、甚大な病気を隠す為に前の旦那に子供を託す為に東京に行ったのかな?と思ったんですけど、それも違うし、、オイラには分からない小説でした。ガッカリでした。 | ||||
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いつだったか、吉本隆明が現代日本の詩人たちについて、「彼らはもう書くべきことがない」という意味のコメントをし、その理由として「日本から自然が失われたから」と語っていた。残念ながら同感である。 そのような時代にあって、川上さんは貴重である。彼女にあっては自然が失われていないから。自然とは美しい山や川を指すのではない。いや、そのような認識ではもう我々は生きていけない。究極の自然は自身の肉体である。川上さんはそのことをよくわかっている。自然が感じられる限りは、つくりものではない感情もそこに宿る。 この芥川賞作品は、コンクリートの中で、生きものとして、ひからびてしまわないセンスを湛えている。 | ||||
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女であることを、こんなふうに、きちんとえぐりきって表現できる作家はとても少ないと思う。だって女は隠す生き物なのだから。救われるような感じといってもいいほど、書かれていることに共感できる。ただ、私には大阪弁であることが、はぐらかしのように思えたので、星ひとつマイナス。 | ||||
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この文体には賛否両論があると思いますが、読みにくいと思うのは最初の10ページくらいで、あとは逆にリズムで読む感をつかめばいとも易しく読めます。情景描写や形容表現、オノマトペは非常に独特かつ想像に易く、一方の描写によって、他方の情景を連想させる力があると思います。おもしろいと感じるかどうかは小説に何を求めるかによって個々違うと思いますが、この文体や作者の哲学には刺激を受けました。 | ||||
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テンポよく進むお話で、楽しい。 大人の女友達と話をしているような感覚で、メリハリある内容であり尚且つ心地良く読める一冊でした。 私は「先端で・・・」を先に読んで、それは関西弁がきつくて読みきれなかったけれど、こちらは適度に標準語が入っているのでまだ大丈夫でした〜。 | ||||
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この作品は、ペダンチックではないものの哲学的な内容でなかなか面白く読める、と友人から云われて、期待して読んでみたんですが、はっきり云って、意に満たない作品でした。よって、声を大にして云いたい。「読む必要性に欠ける!!」と。 この作品中には豊胸手術という言葉が、際立って目立つのですが、恐らくは《豊胸手術》とは《女(の体)》のレトリックであると思われますが、非常にお粗末であるように感じてなりません。しかも、関西弁が、この作品の良さである、と友人からは云われましたが、その良さが全くもって伝わってきませんでした。最早、関西弁を使うことの必然性がわかりません。 主題は『女体』についでしょうが、それ以上に著者は結局は何を云いたかったのか、さっぱり理解し得ないですし、しかもカタルシスがないので、読んでいて何の面白みもありませんでした。 やはり、駄作でしょう。 読む時間が無駄になります。 | ||||
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自分は美容外科に興味があるのでこの小説を読んでみたけど、結局最後まで豊胸手術をしたのかどうか出てこない。母親は咳止めシロップを飲み続けてガリガリに痩せながらも胸だけを大きくしたいと望み、娘はそれに反対する。思考も、途切れない文体も、病的である。 | ||||
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川上未映子の芥川賞受賞作「乳と卵」は、豊胸手術をしたいと切望する母と初潮を迎える時期にきて言葉を失い筆談しかしなくなった娘が、東京の語り手(母の妹)のもとを訪ねたときの模様を大阪弁を基調にしたしゃべくりで書いた物語。前作「わたくし率 イン 歯ー」でもそうだったが、文体に独特の躍動感というか運動性があり、読んでいて快い。ただ、「わたくし率」の方が、統御しきれない言葉のきらめきがあったが、今回は評価を意識してか、意図的にまとめていったという感じは否めない。その意味では、多少不満がある。もっと書きたいように書いて、それがおのずと評価に――人々に届くということに――つながるのが理想なはずである。 豊胸手術に取りつかれたホステスである母巻子の姿は悲喜こもごもの姿といってよいが、そうした妄想から離れたところで生きられないのは多かれ少なかれどんな人間にも当てはまる。それはたんに「若く」ありたいというような簡単なことではない。どうにもついて離れぬ、自己の身体への妄想。乳首の大きさと黒ずみに悩みながら、それをどうにかしようともがく巻子は、生活が苦しいにもかかわらず豊胸手術の費用も、またその痛みをも気にするところがない。そんな言葉にならない人の思いの切なさと動かし難さを川上未映子は的確に表現している。 娘の緑子の方は、友達たちが初潮を迎え、自分の体が成長していくことを体感しながら、そうした「大人になること」をうまくいけ入れることができず、人間など生まれてこなければいいと考える。彼女は、母にもやさしい思いを持っているが、それを話し言葉で表現する手段を失い、ただ筆談というかたちで他者とコミュニケーションをとることができるだけである。自分のなかで卵子が成熟し、生理として排出されることを、その生と死のありようを、人はどのようにして自然かつ自明なこととして受け入ることができるようになるのか。少女の思いはここでもうまく言葉にできない。緑子はそのことを母の豊胸手術への違和感として感じてもいる。クライマックスで、酔った巻子に「お母さんは、ほんまのことゆうてよ」と叫んで、玉子を自分の体に叩きつけて割るシーン、母も一緒になって自分の体に玉子を叩きつけ、そこらじゅうが玉子だらけになるシーンは、まさに成長できない卵の死んで行く姿を象徴しているが、それが同時にこの二人の新しい人生へのステップでもあるという意味で、生を象徴していもいる。そんな言葉にならない生と死のあわいで生きるしかない人間のありようが「乳と卵」の描く世界なのである。 川上未映子は独特の感性をもった作家である。今回の大阪弁のしゃべくりでは、詳細に描写するあまり、ときに文体が弛緩している箇所があるが(たとえば生理用ナプキンを着ける場面)、つぎのような個所は全編の白眉といってもいい。 今日まだ一言も口をきかない緑子の唇のなかには、真っ赤な血がぎゅっとつまっていてうねっていて集められ、薄い粘膜一枚でそこにたっぷりと留められてある、針の本当の先端で刺したぐらいの微小な穴から、スープの中に血が一滴、二滴と落ちて、しかし緑子はそれには気づかず、白いスープのゆるい底に丸い血は溶けることなくそのまま滑り沈んでいくのに、やっぱりそれに気がつかずにその陶器の中身の全部を自分ですべて飲み干してしまう。濡れた、その薄い唇が合わさるすきまに赤い丸の輪郭がちゅるっと消えて、消えて、消えて、とやってると[……] この表現はするどい。作者はそれを意識的に使う技量をもっているが、全体の構成のなかでその場所を的確に定めるところまでは行っていないようだ。それができたとき、川上未映子の「長編」というものを私たちは読むことができることになるだろう。 | ||||
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本書に登場する、“わたし”の姪、緑子は 初潮や生理、卵子など、思春期ならではの疑問を抱く女の子。 ただし、彼女と話すには、筆談。緑子は自ら、言葉を捨てたのだ。 一方、その母親の巻子は豊胸手術しか頭にない。 巻子には見えていない。なぜ、緑子が言葉を捨てたのか。 そのズレが、緑子の日記と、巻子の豊胸に対する執着心に見て取れて 物語を興味深いものへと変容させている。 文章は、川上未映子氏独特の大阪弁の口語体。 まるで、頭に浮かんだ言葉をそのまま書き留めてあるかのようで、 違和感を感じるかもしれないけれど、それが、単なる文字の羅列ではなくて、 要らない部分をちゃんとそぎ落とした洗練された文章であることを読み進めていくと認識できるのである。そして、長い文章だからこそ、リアリティがあって、物語の世界を身近に感じてしまうのだ。 川上氏にしか生み出せない文体。彼女の魅力を感じた作品でした。 | ||||
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話題性が無くなった1年後の現在、あえて読んでみました。客観的に受け止められるかなー、と。読む前から作者にはちょっと反感を持っていたし、オビに顔写真なんて売り方にもひるんじまいますけど。 読んでみると、なかなかいい作品でした。関西弁の饒舌体は、それなりに必然性が感じられたし、女性の肉体性について、エロスとは別な次元でこだわった面白さを感じました。豊胸手術とか小学生のかん黙とか、現代的な事象も盛り込まれ、母子の断絶と和解を適度な湿り気で描いていました。 作者は頭もセンスもいい人なんだなーと感じました。ついでに顔とスタイルまでいいところに、やっぱり少しむっとしますが。 | ||||
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登場人物は、わずか3人。短い小説である。 主人公と、その姉と、姉の娘。主人公から見た母と娘は、言葉が足りない。「ありがとう」と「ごめんなさい」が言えないばかりに傷つけあう。でも、そこに気持ちがないわけではない。 母娘の断裂の契機は、生殖と性行為とが微妙にニュアンスの違いを持つ事態に近しい。母親は乳房の復興を願っており、娘は生理の開始を恐れている。 しんどかったのは、この乳と卵が備わった女の体を持つ、ということ。その女の体に自覚的に、意識的に、違和感すら伴って対峙してしまうときの、体に閉じ込められているモノのつらさ。そのつらさを感じずにはいられず、無視することもできない、感性を持ってしまったしんどさ。 この小説はしんどいなぁ、と思うことは、そこで、この小説を書かざるを得ない人もしんどいなぁ、という思いに転化して、この小説家と同じく女の体を持つものはしんどいなぁ、と普遍化する。 それにしても、「私」にとっていつから身体はこんなにも他者になってしまったのだろう。 | ||||
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性にまつわる赤裸々な語り、最後の奇妙な盛り上がりは読んでいて飽きること無く、 それなりのカタルシスもあったが、これが後年、自分や世界へ、多くの影響を与えるとは思えなかった。 母・巻子の豊胸手術、娘・緑子の出生への悩み、そこにがんじがらめになる余り、二人は意思疎通を滞らせる。 迷走の果てに目が覚め、互いに今までの間違いを悔いるシーンで話は終わる。 しかし、私はその後の、親子を見たかった。 巻子は本当に貧乳へのコンプレックスを昇華できたのか、 ノートでしか親と向き合えない緑子はきちんと話せるようになったのか。 終始関西弁で捲し立てられる話は、読んでいて小気味良いリズムであったが、 同時に、人情話のベールを無理に被らせた居心地の悪さも感じた。 後ろの短編「あなたたちの恋愛は瀕死」の系統でしつこく筆を進める作品が、 作者には合っているのではないかと思う。この作品以外も読んでみたいと思う。 | ||||
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おもろい。才女やわぁ。文体が独特、読みにくい、という感想を持つ人は、昔の小説読んでないのかも。これってまさに樋口一葉。意味が掴みにくい人は黙読ではなく、音読してみるといい。よーくわかる。無駄な描写もなく、よく考えられた文章。しかも今どき人情噺。いいじゃない! 筆者は若い女の子じゃない。30歳の、哲学の好きな大人の女性。 こういう読み方ははやらないけれど、私が抱いた感じでは、この母はきっとあまりの生き難さに、子供を父親の手にゆだねたいのだろう。そういう自分の正直な感情に向き合うのが怖くて、許しがたくて、別のことに異様に関心を向ける。そういうの、長く生きてるとよーくわかる。娘は敏感にそれを感じ取り、早く大人になって母を助けたい、でも成熟した女になるのはいや、という感情に引き裂かれている。おかあさん、本当のこと言って、という叫びは、だから切実。大阪人情噺。新鮮! | ||||
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他の作家に使われているような文体なので、特に読みづらいとは感じませんでしたが、いかんせん読後に何も得るものがありません。途中まで感じられたリアリティも最後になるにつれ破綻していき、小説というよりマンガのような結末です。個人的には、視点となっている“巻子の妹”の人物像が全く見えてこないのが一番気になりました。 賞をとるため意図的にえげつない表現をした部分もあるのだろうとは思いますが、こういうのを「文学」としてしまう日本の文学賞は大概どうしようもないな・・・と思いました。若い人の活字離れには、こういう日本の出版の在り方にも原因があるのでは? | ||||
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関西弁がネイティブなら、問題なく読めるはず。筒井康隆さんの唯野教授思い出すなぁ。町田康より、だんぜん読みやすいし、理性的すぎないでいいんじゃないかな。ところどころで入るエピソードや回想なんかも変にまとめすぎたりせずに投げだされてる感じが◎。前作から頻出する「〜部」って表現、使いたくなりません? 男性の僕にはテーマをちゃんと理解するのは難しいけど、言葉を追いかけること自体の快楽はたっぷり味わわせてくれます。 ユーモアやバランス感覚のある素敵な作家さんだと思いますよ。 挿入される緑子の日記部が秀逸。「ちゃんと話の時をつくらな、あかん。なんでそんなことするのかってあたしちゃんときけるかな、胸の話とかはしやんと、全部、ちゃんと、したいねん」 | ||||
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表現の仕方が古文的現代文と言ったイメージで、文章と言うより、そらんじているような軽快さはあるけれど、内容を把握しづらく多少憤懣してしまう事。 だけども、あえて簡潔過ぎない表現が、すごくリアルで現実との違和感がなくスラッと読めました。作者のキメの細かい思春期の女の子の心情の表現や女同士で論駁しあう様は滑稽であり、愁嘆でありました。 | ||||
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饒舌の関西弁はときにリズムを生み出し、心地よい。(私は関西在住なのですらすら読めました。) ただこのリズムに頼りすぎたと思う。本質を見ればこの小説の持つ意味というのは本当に範囲の狭いものだ。特に私を含む男性が読むには向いていない。 後半は皆さんが仰るように特に減速した。それこそ卵とぐちゃぐちゃになるというのはそれは視覚的には強烈なのだけれど、そこからすんなり収まってしまう。そういう狙いなのか。身体と言葉はすごく魅力的なのに、勿体無い。 現在執筆中という川上さんは「リーダブルな」小説を目指したいと言う。彼女の可能性には本当に羨ましいものがあるし、"これから"を期待していいと思う。 | ||||
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芥川賞をとった作品なので、読んでみようかと思い、借りてみた。タイトルが何を意味するのか、わからなかったのだが、読んでみて理解できた。ちょっと、奇抜な発想なので、目をふせたくなるようなシーンもあるのだが、物語の結末は、心に迫るものがあったし、それなりに、面白かったと思う。ただ、ちょっと、文体が読みにくいところが難点か。 | ||||
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