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乳と卵
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乳と卵の評価:
書評・レビュー点数毎のグラフです | 平均点3.31pt |
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Amazonサイトに投稿されている書評・レビュー一覧です
※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
未読の方はご注意ください
全143件 41~60 3/8ページ
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題名の通りおっぱいと卵子にまつわる話。最後は玉子も出てくるというか、もう玉子だらけ。 | ||||
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近所の書店で購入しました。 以前読んだ身体醜形障害(醜形恐怖症)に関する本の中にこの本のことが 書かれていて、身体醜形障害の人の心理をよく捉えていると評価されてい たので購入して読んでみました。関西弁が全く分からない人には理解しづら いところも多々あると思います。自分は関西弁は大丈夫でしたが、独特の文 体に慣れるのに少し時間がかかりました。 句点(。)が少ない文体なので内容を頭の中で咀嚼する間もなくどんどん物 語は展開していきます。作品を全部読み終えた後には漠然とした空虚感の ようなものが心の中に残りましたが、それ以外にどんなところが特に印象 的だったかと問われれば、これといって印象的なところは無かったというの が自分の率直な感想です。この本を読むことで身体醜形障害の人の心理 が以前よりも深く理解できるようになったかといえば、そういことも全くありま せん。 全部で130頁ほどの薄い文庫本です。「乳と卵」は100頁ほどの作品。「あ なたたちの恋愛は瀕死」という短編作品も収められていますが、こちらは 「乳と卵」よりも更に刹那的で虚無感溢れる作品でした。こういう作品が好 きな人もいると思います。自分も若い頃はこういう作品を好んで読んでい ました。しかし年を取ったせいもあるのでしょうね。この本は内容的に非常 に薄っぺらく感じました。 | ||||
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村上春樹と川上未映子の対談で本書が紹介されていたことで読む機会を得た。 村上は本作に関して「『乳と卵』は文体だけだ」と断言している。これは「内容が無い」ということを 言っているわけではない。ちょうど村上と川上が「文体こそいかに大切なのか」という文脈で議論している 中での村上の発言であり、むしろ高く評価した一言である。その村上の断言を読んですぐに本作を購入した 次第だ。 ではどうなのか。 本作で川上が展開する「女性の感覚と論理」というものを男性の僕が実感することは極めて難しい。 同じ人間でも男女によって、全く違う点があることに驚いた。 ボーボワールは「女性は女性として生まれるのではなく、生まれた後に女性になっていく」という ようなことをどこかで書いていたと聞いている。本作はある意味では、その言葉を乗り越えた地点での 「女性とは何か」を指し示しているような印象を受けた。その「乗り越え」る為の手段が川上の 本作における「文体」ではなかろうか。かつ、そこを村上は評価しているのではないか。僕は そんな風に読んだ。 川上の本を読むのは初めてだ。もう少し読んでみようと思った次第である。 | ||||
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どうしてこれが芥川賞なのか理解できなかった。 奇をてらった文章は、読みにくく、「女性」に関しての母と娘の葛藤と相違も、身近な問題であり、もっと共感できる題材と思うのだが 全く共感できなかった。 クライマックスの「卵」の「破壊」も、作者のしてやったり感が否めない・・・・なんて勘ぐってしまう程(笑)。 芥川龍之介も、ちょっとガッカリするんじゃないだろうか。 | ||||
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この作品のリズム、文体が私には合わず8ページ目(実際には2ページ)で断念しました。 | ||||
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川上ワールド炸裂でした。思春期の娘が豊胸手術をしたがる母とノートでしか意思表示をしない、不思議な関係。母からの愛情を欲しがっているが拒むということでしか表現できずに悩んでいる娘と卵によるぶつかり合いの表現には圧巻されました。 | ||||
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この本には、芥川賞受賞作の「乳と卵」と近い時期に発表された「あなたたちの恋愛は瀕死」の短編2編が収められている。文庫版で133ページなので、あっという間に読めてしまう。よく、文体が読みにくいという評があるが、私にはそんなことはなかった。関西弁と、読点で区切られて長く続く文章の形態は、慣れれば小気味よく読めるし、独特の味わいもある。「乳と卵」にはまともに男性が出てこない。もはや女性だけで世界が描かれている、そこが新しい文学だと言われている理由の一つかもしれない。いちおう姉の娘には父親がいるのだが、自分勝手な利己的な人間のように描かれている。この小説の主題は、母と娘の間の心の葛藤、いいようのない親子愛だと思うので、それをこの短い小説の中で浮き上がらせようとすると男性が出てくる余地はなかったのかもしれない。 「あなたたちの恋愛は瀕死」では、主人公の女性は、男性を恋愛の対象というより、1回限りの性交の相手としてのみ夢想する。そして、見つけた男性に声をかけたあと、衝撃の結末が訪れる。どうやら生物学的には、目の前に現れた異性に対しては、求愛するか攻撃するかという両極端な反応をするようであり、ショウジョウバエの研究では、ある1種類の脳細胞のスイッチがオンになるかオフになるかだけで、相手を求愛するか攻撃するかが決まるそうである。 2編とも男性は生物学的オスとして描かれており、それはそれでおもしろいのだが寒々とした世界観である。 | ||||
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某雑誌で著者のコラムを読み、気になってこちらの小説を読んでみました。 東京生まれ東京育ち、関西出身の親しい友人がいるわけでもありませんが、この本の文体(口調?)は全く気になりませんでした。 それどころか、声に出してみるとなんと気持ちの良いこと!私は、憧れの関西弁ってやつを手に入れた気がして楽しくなりました。 母であること、女であること、一生まとわりつく「女性であること」という事実に、登場人物それぞれが向き合っていたり、ぶつけていたり。 著者の本をもっと読んでみたくなりました。 | ||||
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関西弁で読みにくいかなと思ったけれど、ぐいぐい引き込まれていって、あっという間に読んでしまいました。 川上未映子さんの作品を初めて読みましたが、とっても感動しました。 | ||||
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温い体温を保ちながら進むこの物語は納得というものをさせない。結末も展開も気持ちもどこかちらちらと飛んでいく。それがまるで美しくて、その美しくさを楽しむことがこの本の主体だというならいいけれど、それを楽しむだけの作品ではなく、作者はもっと深いそれこそ人間の造られている部分や大人への1つ1つの変化の葛藤や、大人になり過ぎてしまった人の葛藤を感じさせたいのではないだろうか。だったらもっとほんとのことを書いて欲しかった。結末は飛んで光って綺麗ではいられないのだから。 | ||||
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到着、早々あっという間に読み終えてしまいました。 母と娘の心のあり方をのぞき見したような感じです。 ありがとうございました。 | ||||
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つまらない退屈な書き手でないことはすぐにわかる。 ただわざとらしすぎる。文体も、強いて露悪趣味的な暴きかたも大阪弁も、どれも。 何であれ独自の必然性とか価値とかが感じ取れるならいい。話の展開ぶりも殴り込みぶりも言葉回しも、そこらにゴロゴロの凡手ではなさそうだし。 だが、最後まで読んでみれば何かあるのかも知らんが、まずそこまで我慢して読む気になれない。 ダラダラ調文体自体は可でも不可でもない。 町田康の場合で言えば意識の流れをそのまま紙に移し置いたものだから違和感ないどころか、まさにあれでこその名品です。 だが本作はちがう。ただ無自覚無節操にダラダラだらしなくつなげてみました、えげつなく醜悪に書いてもみました、というだけだ。 蛇足ながら、今どきこの種の文体を“快諾する”くらいの下地なら読者にもじゅうぶんできている。つまり、またか、でしょう。 問題はその選択を必然とする作品かどうかだが、この点を問わず評価されていいのは最初にそれをやった人、1人に限るでしょう。三番煎じ四番煎じはそのぶんだけ自ら質を落とすことにしか作用しません。 ということで20頁までしか読んでおらず、その限りでの感想でしかないが、もっと品位のある筆運びでこの程度のものは表現できなければおかしい。それでもっと深みのある優れた物に仕上げるのも難しいことではないように思える。 一種ラップ崩れみたいな、頭を冷やしてよく見ればただ低俗なだけとわかるこの書き方を何のためにわざわざするのかと言えば、手っ取り早く芥川賞でも欲しかったか、それしか考えつきません。 大阪弁ときては、敢えてやっている割りには基準の定まらない中途半端な取り入れ方に爽やかさがなく、ますます魂胆を疑わせる。 結果として、ド素人読者がもう一人真似してみた当欄投稿例と区別のないことになってませんか。 安直なところで勝負を急がずもう少しじっくり構えれば、こんな芥川賞よりもっとましな賞が取れるかもしれない人のようなのに、今のところ、あるいはこの作品は、私には用がなi。 | ||||
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レビュアラーのどなたかがおっしゃっていたけれど、関西芸人のテレビ進出がなかったらこの本は読み進むのに難儀しただろう。彼らのおかげでこの本に対処するリテラシーが自然に培われていたのだった。わざわざ入門書や文法などを学習しなくても本書を楽しめたことに感謝。芸人たちもそうだけれど、著者の語りも物凄いものがあった。さすが芥川賞受賞作品だ。津軽弁も物凄い語り力があるのだが、残念ながら日本人の多くがそれを学習していない。大阪弁が第二標準語に迫りつつある現状で本文学は成立した。 表題を見たときどうして「ミルク&エッグ」とか、今風な言葉づかいをしなかったのかと思ったのだが、冒頭からそのわけが分かった。 胸のことを大阪では乳といい、卵(らん)は卵子と卵(たまご)が掛けてあったのだ。 レトリックというのだろうか、大阪弁のリズムでヴァイタリティックにまくしたてているなかで、斬新な比喩が次々と連発し、豊胸手術をする女の心理を掛け合い(弁証法)で分析し、大阪の下町を全国的に紹介し、姉妹、母娘らの心理を描写し、最後の大乱闘へ山場を持って行く構成・・・お見事です。 作品の出来とは関係ないけど、賞味期限が切れたばかりの卵を捨てようというのは違いますからね。全然、食べられますからね。うちの娘も捨てようとするけど、おとーさんは食べておなか壊してませんからね。もったいないことしないでね。 | ||||
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この本で、作者は明確でないものを表したいということだろうと思う。 改行のない文体、織り交ぜられる口語関西弁。うまく使って、 言葉にしにくいことを表現できているような気がする。 賛否両論あって、それだからこそ、この作品の良さだと思う。 | ||||
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表題作『乳と卵』 読みやすい関西弁が、素晴らしく効いています。 諸々の描写力に長けた著者の文章は、今時の文学にしても珠玉です。 舞台は東京三ノ輪。語り手のわたしを中において、胸の整形に拘る姉(巻子)と、 筆談しかしない彼女の娘(緑子)との数日が描かれています。 次々散りばめられる小説の設定が面白く、終盤まで期待しながら読み進めました。 巻子には胸、緑子のノートには卵子についての、そして母についてのコンプレックスが 語られてゆきながら、豊かな描写力にして主人公のわたしには、更なる背景がつらつらと 認められてゆきます。上記設定のあざとさはあるものの、巻子を見る私の視線は至極よく、 なにより鮮やかに彼女を描き出します。 冒頭、しばらく振りに見た巻子は、意外な位にやせて見えた。読みながら、当然その真相が 小説の芯になってゆくだろうと思いました。然しながら、結局それは仄めかしにまでも 到らなかった。その点にがっかりさせられました。これではこの話は報われない。 せめて語り手のわたしにだけは、巻子のその先の死が仄めかされて(半信半疑に)いてほしい。 すればそこに決定的な意味が生じ、クライマックスのタマゴ割りは至高のシーンになった筈です。 訳も分からぬ緑子にさんざをぶつけさせてもいい。そうしてドロドロになった巻子がボロボロの顔を して笑ってみせるならば、きっと心底に笑っているのでしょう。 それはもううんざりするほど書き連ねられた日常の漠たる不安やイロニーなどではなく、 なんとあれど生んだもんの勝ち、つないだもんの勝ち、オカンの大勝利な訳です。 なぜこの小説がバッチリとそう書かれなかったのか、今更に不思議でなりません。 なぜ、傑作の評価を回避したのか、否、させられたのか。 著者にはもっともっと素晴らしい小説が書ける筈です。 | ||||
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こんな言語能力、表現力で取れる芥川賞って何? 文体以上に内容も陳腐。 | ||||
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3人の女性たちには、いずれも著者自身が投影されているのだと思いました。行き先に迷った哀しみは、人をこんなにも滑稽で饒舌にさせるのでしょうか。口語体調の関西弁による闊達な文体は、慣れるとリズムよく心地よく、そしていつしか慈悲深く体に染み入ってきます。 | ||||
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関西に住む姉が娘を連れて豊胸手術をするために東京に住む妹の家に滞在する 妹の子供は口がきけるのに会話をせずに何故か筆談・・・・ 物語を構成するのに面白うそうな感じはするが・・・ そこに読者の心を揺さぶる何かがあるようにはとうてい思えなかった 文章も女性の作家にしては興味をそそらせるようなものでもなかった・・ | ||||
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普通に考えたり思ったりする(した)ことがそのまま文字化されているという印象で、どこで何を思っていいものか・・これはどういう人向けの読み物なんだろう。 | ||||
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文学好きならば、「文体がすごい」とは思わないのではなかろうか。ありていに言えば「ありきたり」である。実際に「ありきたり」かどうかは、検証してみないとわからないが、少なくとも「走るような文章を読点なしで、口語調に滑らせていく」ような文章に、真新しさは感じない。 そもそも文章の修辞法で文学にチャレンジするのは、なかなか難しい。それは、すでにそういう類の小説が出揃っているという意味以上に、文学が新しい「言葉づかい」をけん引して作り出していくという役割から一抜けしてしまっているからである。衰退しつつある文学に、風俗的に言葉づかいを変えていくエネルギーはもはやない。そういう時代に、一風変わった文体で小説を書くのは、ハンディだ。 文体を選ぶ際、そういう時代的な見地から、この作者が無意識だったとは考えがたい。感覚頼りに「この文体意外あり得ない」という発想だった可能性は、否定できなくはないが、一部「若書き」な箇所は残しつつも、綿密に配置されたであろうプロットを追う限り、文章の自由奔放さは仮の装いに他ならず、よくよく耳を澄ませば、本作の文体は、抑制のきいたプロットと不可分であり、文体自体も充分に「抑制」が効いている。 あるいは「抑圧」と言ってもいいかもしれない。 妹に一方的に語られる姉「巻子」と、その娘「緑子」は、完膚なきまでに社会に抑圧されている。それは彼女たちの「母子家庭」という状況に起因した「抑圧」ではない。ひとことで言えば母巻子の「器量の悪さ」からくる抑圧だ。「格差社会における貧困」とか「生活保護受給者」であるとか、私たちが、テレビや新聞でよく見るあの種の抑圧である。 巻子は、その抑圧からの解放の道筋として、「豊胸手術」に活路を見出す。読者はもちろん、その活路にこそ抑圧の本質を観ることになる。「うわぁ、豊胸手術とか悲劇ぃ・・・」と、もはや痛々しい。でも、これが笑えない。笑わせない。これには、本当に綿密な主題選びが見て取れる。まだ、伏線や素描に未熟さは残るし、ラストの収まりがキレイ過ぎるところには、疑義を挟まぬでもないが、将来が楽しみな作家である。佳作。 | ||||
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