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Tetchy さんのレビュー一覧
Tetchyさんのページへレビュー数1418件
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東京の隅田川と荒川に挟まれた場所にある下町を舞台に描かれる殺人事件の顛末を描いた作品。主人公は父子家庭の親子でベテラン刑事と中学生の息子。宮部みゆき氏の最も得意とする設定だろう。
移ってきたばかりの下町で女性のバラバラ死体の一部が川で見つかるのが発端。それに輪をかけるかのように近所にある身元不明の屋敷では女性が訪れては殺されているという噂が流れていた。その館の主は有名な画家だという。主人公の順は友人の慎吾と一緒にその館に調査に乗り込むが、作品などを見せてもらううちに画家篠田東吾と親しくなってしまう。そんなある日、順の家に篠田が人殺しだと告発する文書が投函される。そして第2のバラバラ死体の存在を示唆する文書が警察に届く。 この作家が上手いと思うのは普通に暮らしている人々に何らかの犯罪が関わったときに日常生活にどのような変化が訪れるのかを丹念に描いているところ。今回は画家の篠田の家の軒先に女性の手首が落ちていたことから警察が介入し、家宅捜索が行われるシーンが最も印象的だった。 個人が築き上げてきた何かが第3者によって蹂躙される不快感、世間が向ける視線の痛烈さ、犯罪というレッテルを貼られることの悲壮感が非常によく描かれている。こういう庶民の生活レベルでの視座での描写がこの作家は本当に上手い。 あと宮部作品の特徴といえば登場人物が魅力的なことだろう。今回も主人公の八木沢親子、その家政婦のハツ、画家の篠田など印象的な人物が出てくるが、いささか他の作品と比べるとやや弱いか。 本作は当時の少年法―20歳以下の未成年は刑罰に処されない―に対する作者なりのアンチテーゼといった意味合いも含んでいる。昨今の世情を鑑みれば、特異なものでもないが、作者はそれにもう一捻り加えて、なぜバラバラ殺人を起こしたのか、犯行声明がなぜ警察に断続的に送られてくるのかといった謎を散りばめている。 真相についてはちょっとある人物の行動に自己矛盾が感じることもあり、私自身は全面的に受け入れることが出来なかった。 今回は女性のバラバラ殺人と宮部作品では珍しく陰惨なモチーフを扱っている。『パーフェクト・ブルー』の焼死体以来ではなかろうか。 宮部作品としては『魔術はささやく』、『レベル7』と比べると小品とか佳作といった言葉がどうしても浮かんでしまう。それでも水準は軽くクリアしているのは云うまでも無いが、この作者ならではのテイストがもう少し欲しかったというのが正直な感想だ。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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前作『学寮祭の夜』でついに結ばれることとなったハリエットとピーター卿。
彼ら2人がハネムーンに選んだ先はハリエットの生まれ故郷パグルハムだった。そこでピーター卿はハネムーンに先駆けて「トールボーイズ」という名の屋敷を購入していたが、訪れてみると主であるウィリアム・ノークスが見当たらない。近所に住む家政婦のミセス・ラドルの話ではブロクスフォードへ行って不在だとの事だったが、彼女以外の世話人たちは誰もその予定を知らない。 ピーター卿も当初の取り決めと違う段取りに疑問を持ちながらも新しい生活をハリエットと始めて、ノークスの帰りを待つこととした。しかしいつまで経っても帰ってこないかつての主は地下室で死体となって発見される。甘いハネムーンが一転して、2人は事件解決に借り出されることになってしまった。 原題は“Busman’s Honeymoon”。直訳すれば『バス運転手のハネムーン』。この意味は作中に出てくる「バス運転手の休日」という成語をもじったもので、意味は「バスの運転手が休日もドライブして出かけるようないつもの仕事と同じような休日を過ごすこと」転じて「ピーター卿がハネムーン先でも事件に巻き込まれいつもと同じように捜査し、解決すること」となり、文豪セイヤーズの洒落っ気あふれた題名となっている。 さて今回の物語はピーター卿シリーズ後期物の例に漏れず、長大となっており、総ページ数は文庫で約630ページにも上る。実際、死体が発見され事件が事件として姿を現すのは185ページでそれまではハリエットとピーター卿の初々しいハネムーン―というよりも新婚生活―の顛末が面白おかしく語られる。 相変わらず一つの単純な事件でこれだけのページの話を引っ張るわけだが、今回はピーター卿自身が事件よりもハリエットとの夫婦生活について思考を向けたり、トールボーイズ屋敷を取り巻く人間たちの関係を描いたりでなかなか話が進まない部分があり、正直、中だるみする部分があるのは否めない(それでも今まで鉄面皮でピーター卿の忠実なる執事として振る舞い、どの人にも慇懃かつ紳士的に接していたバンターがピーター卿のヴィンテージ・ワインをミセス・ラドルが台無しにする一幕で物凄い剣幕で罵るシーンはかなり驚いたし、今までシリーズを一貫して読んだ身にとってはかなり笑えた)。 しかし、それを補って注目すべき点がある。今回セイヤーズはかなりの試みをこの作品で行っている。それは本格ミステリにおいて語られることのなかった「人が人を裁く」という意味についてかなり掘り下げて書いてあるのだ。 確かに誰かがかつて云ったように、本格ミステリとは読者と作者との知的ゲームであろう。事件が起き、それがどのように、誰が、どうして、何をして、いつ、どこで成されたのかを調べ、解き明かすことそのものを単純に愉しむだけであった。 ここでセイヤーズはその行為によって周囲の人間たちにどのような影響を与えるのかをハリエットとピーター卿の2人に考えさせる。これはミステリを書き続けるにあたり、セイヤーズがミステリを文学たらしめたいがために至ったどうしても避けられない必要事項だったのだろう。 前作『学寮祭の夜』では上流階級の物としてのミステリを市井の人々の抱く憤懣を描いたが本作においてもその傾向は継続されている。貸した40ポンドの金に執着する庭師が洩らすピーター卿への羨望、40ポンドのお金に自分の将来の自動車工場の夢を託す者もいれば、ワイン1ダースに10ポンドを費やす貴族もいるという現実を描く。 『学寮祭の夜』では2人が結婚するに至り、この上ない倖せな結末を提供してくれた。では本作でもこのハネムーンが同じく至福を与えてくれるのかといえば実はそうではない。 シリーズの掉尾を飾る本作がこのような重い結末となるとは露にも思わなかった。 今までは犯人が誰かを当てれば物語は閉じられた。しかし本作はそうではない。あえて犯人が処刑される日までを描いている。 貴族探偵として無邪気なまでに物語を縦横無尽に駆けずり回っていたピーター卿が最後に直面する苦痛。そこにヒーローたる探偵の姿はなかった。エピローグとでもいうべき最後の章「祝婚歌」の冒頭で語られる探偵作家ハリエット・ヴェインはそのままセイヤーズその人である。 つまり本作においてハリエット、ピーター卿は創造上の人物ではなく、現実レベルまでに引き上げられた生身の人間なのだ。 本作はシリーズの総決算であり、そのため色々なエピソードが語られる。読み応えある内容が満載である。 本作でシリーズは幕を閉じる。それは大団円というにはあまりに暗い余韻を残す。しかし文豪セイヤーズが本当に書きたかったテーマがここに来て結実したのは明らかだ。セイヤーズがなぜ21世紀の現代においても評価が高いのか、その証拠がこの作品に確かにある。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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田中芳樹氏のシリーズで現在最も筆が乗っているのは、『創竜伝』とこれ。会話の掛け合いの巧さ、作者独特のアイロニー、毒は健在。
今回の事件は日本に亡命した南米の元大統領―日系人と偽った日本人―の香港への航海の警護を薬師寺涼子とその部下泉田、それに2人の部下を加え、さらにライバル室町由紀子も加わった形で行うというもので、その豪華客船の中で残忍な殺人事件が起こるというもの。 怪奇事件簿だから例によって不可能興味を誘う趣向があるわけではなく、今まで登場してきた有翼人ら、怪物が犯人という装いはそのままである。 もうこれは単純にこの物語世界に浸るしかない。薬師寺涼子の無敵ぶりを純粋に楽しめた。 田中芳樹氏の作品で権力・財力を振りかざして悪に向かう主人公というのは非常に珍しく、悪が権力を私利私欲のために振りかざすのをそういう道理が通用しない主人公が腕力で打ちのめす図式が多いのだが、この薬師寺涼子は自身が世界をまたにかけるセキュリティ会社の大株主だということ、若きキャリア警視であること、またそれに輪をかけて格闘技にも精通していることということで、よく考えたら今までの田中作品のキャラクターでは最強ではないだろうか? 田中氏のページターナーぶりが健在だったことは素直に喜びたい。他のシリーズの刊行が待ち遠しい。 |
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相変わらず玉石混交の短編集。こうも並べると文体のレベルの違いが如実に判り、苦痛を強いられる読書もあった。
今回は純粋に推理してみた。そのため、真相ないし犯人が判ったものが13編中4編あった。 「ドルリー・レーンからのメール」はハンドルネーム「ドルリー・レーン」の正体が、「最終バスの乗客」も乗客が語る事件の犯人が(この作品は女性の通り魔殺人での状況説明がそのまま犯人を名指ししている風にしか読めないのが欠点。文体はかなりしっかりしているだけに勿体無い)、「我が友アンリ」は犯人、ダイイング・メッセージの意味、そして作者が作品全体に仕掛けた思惑が(そういう意味では鮎川氏の冒頭の解説は全く以って蛇足だなぁ)、「教授の色紙」は真相そのものがそれぞれ判った。 逆にアンフェアではないかと思わされた作品もあった。「壊れた時計」は救急車の出動に関するアリバイ工作についてはまだしも納得できたが、ヒントで何度も繰り返される「壊れた時計」についての真相はあまりにひどすぎる。これは真相を明かされても悪い意味で呆然としてしまった。 「見えない時間」もそうだ。この作者山沢晴雄氏は今までこのアンソロジーで発表された作品同様、アリバイトリックが複雑すぎるのが難で、しかも今回は首の無い死体の必然性については何の言及もされていない。この人はアリバイ物しか興味が無いのだろうと思わされた。 今回秀逸作は「問う男」、「あるピアニストの憂鬱」の2作。両方とも私が求めるトリック・ロジック+αを備えており、読後感が良い。 「問う男」は提出された事実に対し、ニュースキャスターとサンタの扮装をした人物が全く逆のストーリーを作るという趣向が○。この作者も今ではミステリ作家で構成・アイデアとも一歩抜きん出ている感じがした。 「あるピアニストの憂鬱」は作品全体に流れる諦観めいた雰囲気が読後に余韻を残した。 そのほか、いい意味でも悪い意味でも印象に残った作品は、まず「溺れた人魚」。こちらはいい意味で真相にやられたと思わせられた。 次に「氷上の歩行者」。こちらは悪い意味で。池の離れ小島で行われる短編ミステリの競作という趣向はもとより、この大トリックは可能だろうかと大いに疑問だ。島田荘司氏が喜びそうなアイデアだがどうも現実味に欠ける。 以前はこのアンソロジーに採用されていた作品といえば、密室物、クローズド・サークル物とどれもこれも似たような内容で、しかも素人のくせにシリーズ探偵が出てくるというどこか履き違えた作品が多かったが、ここに至ると事件の趣向もヴァラエティに富み、本格の裾野の広がりを感じた。 応募作品の集合体という性質上、水準以上という評価が出来るようなインパクトは得られないが、以前に比べ、格段に質は上がっていると正直思う。 次回も謎解きをする構えで読もうとするか。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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アイリッシュの経歴によれば、当初は普通小説の作家から短編作家へ転身しており、彼の本質は短編にあるとの見方もある。実際、諸々の長編の中には短編で扱った題材を焼き直ししたものも多くないという。そんな前知識を与えられていた上で臨んだ初の短編集は、とりあえず水準をクリアしているとの印象を得た。
アイリッシュと云えば叙情溢れる文体と読んだことのないようなシチュエーションというイメージが強いが、本作品集においてもそれは発揮されている。8作品のうち平凡な設定であるのは「盛装した死体」と「ヨシワラ殺人事件」の2作品のみ。 前者はアイリッシュには珍しい本格ミステリで借金の返済に困った男が仕掛ける完全犯罪を扱っている。倒叙物で刑事が執拗に犯人を追い詰めるさまはアイリッシュの長編にも通ずるものがある。 後者は日本に停泊中に吉原を訪れた水兵が巻き込まれる殺人事件。恐らく作者が日本を訪れたときに強く印象が残ったのであろう、なかなかに細かく日本が描写されている。しかしところどころ勘違いしている内容もある(番犬の代わりにコオロギを買っているなんていうのは聞いたことが無いし、結末の切腹も西洋人にとってやっぱり日本といえばこれになるのかとがっかりした)。 その他6編ではやはりアイリッシュならではの魅力的な導入部を用意してくれている。 表題作「晩餐後の物語」は7人の男が乗り合わせたエレベーターが事故で地下まで墜落し、その中で起きた殺人事件についての復讐譚という内容。最後のどんでん返しもなかなかなのだが、エレベーターが落ちるときはバウンドするというのと乗客は即死しないという点が引っかかった。 次の「遺贈」は夜、疾走するスポーツカーのカージャックという内容。展開が読めたが、死体が何者かを明らかにしないのが逆に新鮮。 「階下で待ってて」はいつも階下で待っている男という設定が都会の一シーンを切り取る彼らしい作品。次の「金髪ごろし」の地下鉄の入り口にある新聞売り場を中心に繰り広げられる形もその例に漏れない。 「射撃の名手」の詐欺師が陥る犯罪事件も短編にしては濃厚な内容である。アイリッシュらしい強引な設定ながらも最後の一行にも気を配るあたり、余裕が感じられた。 「三文作家」は原稿を落とした作家の代わりに作品を仕上げることになった作家の話。これははっきり云って最後のオチからしてミステリではない。恐らく作者自身の経験から生まれた作品だろう。 今回の中でのベストは「金髪ごろし」に尽きる。それぞれの客に金髪美女殺されるという見出しの新聞に対するそれぞれの事情。最後に出てくる実業家が洩らす一言は果たして真実なのか?都会派小説というか、群衆小説というか都会の一角で新聞売り場を中心に描いた小説はアイリッシュの洒落た感覚で物語を紡ぎだす。新聞を買うそれぞれの客のドラマが描かれる。題名の金髪ごろしはこれらの人間たちを描写する1つの因子に過ぎないところがいい。だからこそ逆に最後の言葉が余韻を残す。事件は解決されないながらも最も印象の残る作品となった。 次点では「階下で待ってて」か。純な日常の出来事がやがて国際的スパイ組織の陰謀と繋がっていくというのは派手派手しいが、短編でここまで読ませることに賛辞を送りたい。題名もなかなかである。 長編では復讐譚がほとんどだが、短編ではヴァリエーション豊かな物語があり、愉しませてくれた。一気に読むのが勿体ない、そんな気にさせてくれる。昔の作品なのに訳も違和感なく、むしろ風格さえ漂っている。 評価は7ツ星だが限りなく8ツ星に近い。それは単純にアイリッシュに対する要求が高いゆえなのだ。 |
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デミル1981年の作品。デミルの未訳作品がこうして講談社から発表される意義を高く買う。
しかしそれと書評とは別で、やはり約四半世紀前のデミルは若書きがどうしても目立ってしまい、ページ数の割には物語が雑だったという印象が残る。 まず一介の警部補であるバーク。彼に設定を盛り込みすぎだ。 最後の最後で実は○○のエージェントだった、なんていう隠しネタが披露されるのかと思っていたが、結局はただの、いや頭が切れる優秀な警部補に過ぎなかった。しかもこれがデミル作品の主人公とは思えぬほど、キャラクター像がはっきりしない。 事件全てを見据える冷静沈着な人物と設定したのが逆に仇になったようで、救出作戦の委員会メンバーそれぞれが私欲と自らの保身に腐心している様子を描写されているがゆえに人間くさく、バークよりもキャラクターが立っていた。特に突撃隊の隊長を務めるベリーニがこの中でも白眉だろう。 そして敵役のフリン。冒頭の神の啓示が降りてきたかのような不思議なエピソード、そして仲間うちから語られる伝説的なIRAのリーダーという触れ込みで登場した割にはラストの銃撃戦での活躍が全くと云っていいほどなく、むしろ突然の攻撃に右往左往する体たらくだ。結局彼の唯一の仕事は装甲車をバズーカで吹き飛ばしただけだった。 他のメンバーもあまりにも呆気なく、作者はむしろそれまであえて詳しく描写しなかったリアリーをここに至って縦横無尽に操り、フラストレーションを爆発させたかのようだった。 実際、ニューヨーク大聖堂籠城事件をテーマとして扱った本書は上下巻合わせて約1,070ページもあり、下巻の350ページ目でようやく銃撃戦の幕が開く。それまでは発端と犯人とネゴシエイター及びバークとの頭脳線を中心として物語が流れる。 これはアクション巨編としては読者にストイックさを要求する構成で、確かに途中、人質となったモーリーンとバクスターの数度の脱出劇が挟まれるものの、物語の持続性を保つのにはいささかエネルギーが欠けている。そういった意味でもエンターテインメント作家デミルとしての青さが目立つ。 そして最後のハッピーエンド。いや、ハッピーエンド自体は嫌いではない。ただ、何となく色々なことがうやむやにされた終わり方が非常に座り心地が悪い気持ちにさせられるのだ。 マーティンの結末の呆気なさ、そして冒頭で囚われの身となったシーラの行く末。これらが実に消化不良で幕を閉じる。これは最近の『王者のゲーム』でも見られた喉越しの悪さと全く一緒である。 確かに過程は読ませる。しかし小説とは結末よければ全て良し、つまり裏返せば結末が脆弱ならば過程が良くても全てが台無しになる、面白さは半減するのだ。7デミルだからこそ、期待値も高くなるわけで、最終的にはやはりデミルの若さ故の荒削りさが目立ったというのが正直な感想である。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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ミステリのアンソロジーとしては記念すべき13巻目ということで末尾には鮎川氏の未収録ショートショートミステリが5編収められている。殺し屋の依頼料が20万円だの、制服を着ていた大学生だのといった時代錯誤の表現があるのは否めないし、ショートコントのような結末もあえて収録しない方がよかったのではと思われたが、まあ、おまけ(マニアにとって見ればお宝だろうけど)ということで。
今回は特にラストの村瀬氏による「暖かな密室」が何といっても群を抜いていた。末期の癌で余命いくばくも無い妻のために昔彼女に学資の支援をした足長おじさん「Aさん」を夫が探し回るという設定で、日常の謎系でしかも導入部から結構泣かせる。結末は宮部みゆきの「サボテンの花」を髣髴させる人間味溢れるもので私が常々求めるトリックやロジックのみならずドラマ性のあるミステリの条件を完璧に満たしていた。 あと小説として読ませてくれたのは「黄昏の落とし物」と「紫陽花物語」ぐらいか。 前者は冒頭の社長が真夜中に川に何かが飛び込む音を聞いた話からてっきり出演者はこの社長だろうと思っていたのに、雑居ビルの管理人を中心に話が展開する辺りの演出も心憎い。冒頭のエピソードが最後の最後に結実するのも上手いし、主人公である刑事の無邪気に語る恐ろしい真相も良い。 後者はまず冒頭の和服の女性が乳母車に一輪の紫陽花を添えるという情景が非常に絵的でここでまず引き込まれた。アジサイ団地と呼ばれるその周辺で起きた神隠しの話だが、これを上手くスパイスにして怪奇譚を拵えている。ロジックの愉しみに浸れる好編だ。 純粋にミステリとして感心したのは「プロ達の夜会」。楽屋に人を入れてはいけない女優の謎を改行の多い文章でテンポよく読ませる。最初はこれがティーンズノベルのような軽薄さを感じさせられたが、結末を知るに至り、最後の仕掛けで納得。この鮮やかさゆえにシナリオのように読ませる効果を狙ったと穿った考えを持つに至った。 真相が解ったものの「遺体崩壊」はテンポのいい文章で途中不適切な表現があるが、小気味よかった。 その他は水準以下のように感じる。 それぞれ気づいた瑕疵を述べていくと、「死霊の手招き」は真相は見事だが、犯人だという証拠が無いのに勝手に犯人は自供するのが×。 「猫の手就職事件」は文字・内容ともに詰め込みすぎ。作者自身は正に科学的・心理的・物理的の多方面からロジックを畳み掛ける手並みに酔いしれているのだろうが作者の独り舞台に付き合わされたような徒労感だけが残った。 「水の記憶」は島田荘司氏の影響をもろに受けている。やたらに独り言の多い一人称は鼻につくだけ。結末は読ませるが総合的に私に向かなかった。 「クリスマスの密室」は「水の記憶」もそうだったが素人作家のシリーズ探偵に付き合わされているのが嫌。プロになってからやってほしい。押し付け気味のハート・ウォーム・ストーリーも気になる。 「ある山荘の殺人」も二人称叙述は臨場感出すために採用しているだろうが技量が伴っていなかった。 玉石混交という言葉があるが、今回も総括するとその一言に落ち着いてしまうようだ。選者の選択眼の眼力に衰えを感じてしまった。残念。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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久々のカー作品。しかも昔『毒殺魔』という題名で創元推理文庫から出ており長らく絶版となっていた幻の作品の改訳版である。1996年に国書刊行会から出版された物の文庫版である。
幻の作品ということでイコール傑作という発想が浮かぶが果たしてそうではない。 物語はシンプルで、婚約者がある病理学者により稀代の毒殺魔であることを知らされる男が主人公である。毒殺魔であると告げられた直後に学者は銃で撃たれ、しかもそれは婚約者が誤射した弾だった。この偶然が主人公に、もしかしたら本当に毒殺魔ではないだろうか?という疑惑を持たせる。 ここら辺のストーリー展開は見事で、しかも彼自身が毒殺される恐れがあるという設定も面白い。 その後、誤射された弾は単なるかすり傷に過ぎなかったことが判るのだが、なんと学者は青酸カリを注射して(されて)死んでしまう。ここに至り作者はさらに婚約者が毒殺魔ではないかと畳み掛ける。 ここら辺は実にカーらしい展開なのだが、なんとももって回った文章が多く、読みにくいことこの上なかった。 文庫として手に入りやすくなった今はもとより、絶版本である本作を古本屋巡りの末に手に入れ、読み終えたとき、その人はどのような感想を得たのだろうか? 私ならば果てしない徒労感がずっしりとのしかかって来るに違いない。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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アイリッシュ=ウールリッチの詩的で叙情的な文体はタイムリミット物のサスペンスに緊迫感だけではなく、美酒を片手に飲みながら物語を読んでいるような陶酔感を与え、豊穣な気分をもたらしてくれるのだが、それが曖昧模糊とした雰囲気を纏っているせいもあり、時には物語の進行を妨げるファクターにも成り得る。
本作はそれを実証したかのような作品だ。 今回アイリッシュが用意した設定はこのようなものだ。 仕事の帰り道で偶然出くわした自殺間際の女性を刑事ショーンは間一髪で助ける。事情を聴くと、父が死に直面しているのだという。父はひょんなことからある予言者と出逢い、彼の信望者となっていた。その預言者トムキンズは人智では説明できないような力を持っており、彼の予言は全て当たった。ある日、トムキンズは女性の父親ハーラン・リードに3週間後に獅子に喰われて死ぬという予言をする。その娘ジーンは夜が来るたびに死に近づく父に絶望し、川に身を投げようとしたというのだった。ショーンは上司マクマナスと共にハーラン・リードを予言から守ることを決意する。予言を阻止すべく必死の捜査、護衛が始まった。 どうだろう? 通常であればアイリッシュならではの独創的なプロットだと感嘆するのだが、今回は物語を構成するそれぞれの材料に無理を感じてしまうのだ。 まずジーンが川に身投げする動機があまりにも浅薄で頼りない。この自殺未遂がきっかけで警察に助けてもらうようになるのだから、結構重要な因子であるのだが、純文学的といおうか、何とも摑みどころのない動機ではないか。 次に“予言を阻止すべく警察が捜査・護衛に当たる”。実はここで私はかなり引いてしまった。 通常、警察とは事件が起きてから捜査に乗り出すものである。事件を未然に防ぐための予備捜査・予備護衛は警備会社とか小説では私立探偵の仕事になるだろう。ここのリアリティの無さでこの小説の内容には没頭する興味を80%は失ってしまった。 これ以降、物語は退屈を極めてしまった。アイリッシュのいつもの文体が事件の確信を直接に触れず、婉曲的に周囲を撫でつけているように感じ、もどかしくなり、また予言が現実となるその時までの主人公と親子3人の重圧感ある心理的駆け引きの模様は単純に暑苦しいだけである。 恐らく今まで読んだアイリッシュ=ウールリッチ作品の中にもこのように設定それ自体にリアリティが欠如していたものがあったかもしれない。しかし今までの作品にはその瑕疵を感じさせない「説得力」があったように思う。 今回はそれが無かった。詩的な題名も読後の今はもはや虚しく響くだけである。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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ポール・ブレナー心の旅路、この小説を一言で称するならばこれに尽きるだろう。
帯に書かれている『将軍の娘』続編という謳い文句は全く正しくない。今回現れるポール・ブレナーは『将軍の娘』で登場した彼は別人のように精彩を欠く。作者自身がポールの人と為りを忘れているかのようだ。ブレナーがブレナーらしくなるのはマン大佐とのやり取りと最後の最後で権力に屈しない一人の捜査官として不撓不屈の戦いを繰り広げるあたり。これこそ『将軍の娘』で見せた凄腕ブレナーの面目躍如たる活躍なのだ。 上下巻合わせて1550ページを費やして書かれるこの物語の概要はこのようなものだ。 アメリカ陸軍基地で起きたキャンベル大尉“将軍の娘”殺害事件を解決したポール・ブレナーはその事件が基で退役し、年金生活を送っていた。そんな彼の元に元上司カール・ヘルマン大佐からある事件の調査の依頼が舞い込む。ヴェトナム戦争中に起きた軍隊内の殺人事件の真相を探ってほしいというのだ。当時殺害の一部始終を見ていたと証言するヴェトナム兵士の手紙が見つかったという知らせがCID―陸軍犯罪捜査部―の元へ入ったというのだった。ブレナーは渋々ながらもこの依頼を受け、かつてヴェトナム戦争で兵士として二度訪れた彼の地へ三度訪れるのだった。 つまりヴェトナムに訪れ、手紙の主を見つけ出し、真相を暴く、これだけの話に1550ページが費やされる。物語の骨子はこの事件だが、実は内容としてはヴェトナム戦争時代の兵士の回想、それもアメリカ側とヴェトナム側双方の苦い思い出がメインなのだ。 『誓約』でヴェトナム戦争の過ちを大胆に描いたデミルはこの作品を以ってヴェトナム戦争に対して総決算をつけたのだ。だからミステリというよりも冒頭で述べたような回想録というのがこの小説を評するに当たり最適だろう。もちろん冒頭のブレナーをそのままデミルに置き換えれるのは云わずもがなだ。 今更ながら気づかされた事だが、デミルの小説では物語の進行に凄腕の主人公+美人の助手が常に設定されていること。今回は特にそれが目立った。 というのもブレナーが元上司カール・ヘルマンの要請でヴェトナムに旅立ち、彼の地へ降り立つまでの顛末はなかなか物語に乗れず、実際作者の筆致も硬いような印象を受ける。これが上巻9章の233ページのスーザン・ウェバーとの邂逅からガラリと印象が変わる。会話にリズムが生まれ、デミル節ともいうべきウィットに溢れたセンテンスが怒濤のごとく現れるのだ。 このスーザンを最後の最後まで出演させることを作者が当初考えていたのか、判らないが恐らくは違うと思う。デミル自身、何か筆が乗らないと感じ、ここいらでブレナーに女でもあてがうか、おっ、調子が出てきたぞ、このスーザンを単にこれだけのために捨てるのは勿体無いな、よしスーザンをヴェトナムでの案内役に決めよう、さてそろそろヴェトナムの奥地へブレナーを送り込むか、しかし今からスーザンを排除してストーリーが進むだろうか、よし、決めたスーザンを政府機関のエージェントにしちゃおう、とこのような心の動きが行間から読み取れるのだ。 作者自身、ヴェトナムの奥地での戦争の傷跡を記していくのには心的負担を伴うのに違いない。この狂気の事実を語るためには一服の清涼剤、精神安定剤が必要だったのだろうし、そしてスーザンの役割は正にそれを担っている。スーザンはブレナーの、というよりデミルのセラピストだったのだろう。 今までミステリというよりもヴェトナム回想録だと述べてきたが、とはいえ、事件の真相は驚くに値する。 最後にかなりの修羅場が用意されている。複数の政府機関がそれぞれの定義における正義の名の下に丁々発止の駆け引きを繰り広げるあたりは息が詰まるほどだ。 旅は目的そのものよりも過程が大事、最後にデミルはブレナーの口からそう述べさせる。まさにこの小説の内容そのものを云い表している。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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吉敷竹史シリーズの第一部完結編とでも云える本書、その中でもとりわけずっと謎めいた存在で登場していた元妻、加納通子との関係への総決算的作品となっている。
加納通子の生い立ちから述べられる本書は今までの『北の夕鶴2/3の殺人』、『羽衣伝説の記憶』、『飛鳥のガラスの靴』、そして『龍臥亭事件』全てを一貫して補完する形で、これらの作品の間に隠されたサイドストーリーを余すところなく、描いている。摑み処のない悪女といった感じの加納通子という女性が、今回ではじっくりと描かれる。 その描写は、「業」と表現されるある種呪われた血が流れている途轍もない生い立ちを以って語られるが故に匂い立つほどの存在感を醸し出している。この通子の物語は島田作品らしからぬあまりに世俗的な表現を多用しており、駅の売店やコンビニなどで売られている三流官能小説のテイストを備えており、正直辟易はした。 一方、吉敷側のストーリーは反りの合わない上司がある女性と食堂で話していることを偶然見かけたことをきっかけに、40年前の冤罪事件を自分の性に従い、解明しようとする物語である。 これは当時島田氏が手がけていた『秋好事件』の経験を活かしたもので、吉敷が冤罪事件の捜査で出くわす関係者の反応、やり取りは多分に自らが行った秋好事件の再調査での体験がそのまま反映されているのだろう。現実の世界での秋好事件が再審にならなかった無念をこの小説内で語られる恩田事件で晴らしているかのように感じた。 加納通子がこの恩田事件に冤罪であることを証明する決定的な証人であるという設定は結構盛り込みすぎだという印象が拭えなかった。というのも今まで島田氏が語った吉敷シリーズ3作と御手洗シリーズ1作に関わっている通子がさらに40年前の冤罪事件にも関わっているというのがいかにも作り物めいていて一人の人物に設定を詰め込みすぎだろうという印象が強くなってしまった。 恐らく作者もその辺を理解していたのだろう、通子の生い立ちに費やした筆はかなりのもので今まで日本各所に点在していた通子についてそれらを結ぶ線を無理なく仕上げようと腐心しているのが解った。最後に通子が鶏肉が苦手である理由がこの恩田事件によることだというエピソードはかなり秀逸で、これを持ってきたがために、通子が語られた当初から作者はこのストーリーを想定していたのではないかと思わされた。 そして吉敷。この男はシリーズを重ねるたびに存在感を増しており、しかも言葉遣いも心なしか変わってきているようだ。登場当初は単なる刑事に似つかわしいダンディという設定以外、何の特徴もなかったが通子の登場、上司との軋轢、殺人課での孤立という状況変化を経て、その人と成りがヴィヴィッドに浮き上がってきている。 今回、この600ページ前後の上下巻では島田氏の語りたいテーマがかなり網羅されているように思う。 冤罪事件、組織改革、記憶もしくは脳に対する研究。これらをモチーフに通子と吉敷のストーリーを仕上げる手腕は相変わらず凄まじさを感じる。 人物を語ることに重きを置いたこともあり、不可能犯罪的要素は薄められてはいるものの、やはり最後で切断された首の問題、殺人現場の不具合を論理的に解明するあたりは島田本格面目躍如といった感じだ。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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やり手の興行マネージャー、マニングが売り出し中の女優キキ・ウォーカーの出演劇への入場演出として持ち出した黒豹が突如として逃げ出し、街の只中へ消えてしまった。その日が街の暗黒の日々の始まりだった。街の各所で女性の惨殺死体が発見される。死体の様子は明らかに獣が執拗に牙で噛み、爪で切り裂いた見るも無残な状態だった。しかしただ一人マニングだけは獣の仕業と見せかけた殺人事件だと頑なに信じるのだった。
今回もアイリッシュは上のような魅力的なシチュエーションを用意してくれた。1942年の作品だが、今を以ってもこのような設定の物語は出逢った事が無い。そしてアイリッシュが語る黒豹は詩的で美しく、そして強靭だ。 1章ごとに語られる女性の殺害譚は今までのアイリッシュ=ウールリッチの手法どおり、それ自体が一つの短編のように語られる。被殺人者の人となりを家族構成、今おかれている経済的な立場をしっかり描き、殺人に至る、なぜ殺人現場に行くことになったのか、居る事になったのかを入念に描くのだ。それは日常であり得る私・貴方の生活風景であり、またどこかにいる上流階級・下層階級の日常なのだ。これが抜群に上手い。 ここまで褒めていて何故星7つなのか。それは真相の呆気なさ故である。 各章で語られる殺人劇には第2被害者のコンチータまで死の直前まで豹が迫ってきたところまで描かれており、殺人後の現場調査も豹のいた形跡をはっきりと示している。これをどうにか上手く処理するために非常に突飛な結末を用意している。これが非常に戯画的でアイリッシュの設けた空間にそぐわない。 また今回は登場人物表に欠点があった。ミステリにおいて犯人というのは登場人物表に挙げられる人物でなくてはならない。今回の表は極限までに登場人物が絞られていた。途中疑いを掛けられる人物さえその名が無いほどだ。これはかなり痛い。 そしてとどめはタイトルの無意味さ。何故このタイトルなのかが最後になっても解らない。同じ「黒」シリーズとするならばやはり本作で最も相応しいのは『黒豹』・『黒い豹』・『黒い獣』とかだろう。 本作が他のアイリッシュ作品と比べてミステリファンの話題に上らないその訳を垣間見てしまった。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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ページを繰る手が止まらないとは正にこのこと。デミルの面目躍如たる本作は一級のエンタテインメント小説だ。上下巻ともに700ページを超える海外小説で1日に100ページ読める小説なんてほとんどなく、このことからもデミルの筆致の冴えが他の作家の追随を許さないものであることが証明される。
しかし、「一級」のエンタテインメントであるが「超一級」のミステリではないことに留意したい。 最初の理由はネタバレ参照。 次にやはりこのデミルという作家は生粋のエンタテインメント作家であり、ミステリ作家ではない、いやミステリ作家にはなれないのだろうなということ。はっきり云ってこの物語は転がし方次第では第1級のミステリに成りえたのだ。 物語の構成として、なぜ若き日のハリールが見舞われたリビア空爆という災禍を第2部という前段で早々と語ってしまったのだろうか? これはミステリ心ある作家ならば、このハリールというテロリストがアメリカで次々と起こす殺戮を淡々と述べていき、物語の起承転結の「転」の部分でリビア空爆の話を持っていくのではないか。そうすることでハリールの動機の不明さが引き立つし、下巻264ページで第1被害者となった軍人の妻が電話で語る被害者のミッシングリンクの真相、そしてハリールの訪米の目的が一段と戦慄を伴って読者の心中に突き刺さることは確実である。 ハリールの成す個々の殺人ごとにリビア空爆に対するハリールの内なる憤りを語るデミルの筆致を見るとどうしても冒頭に出す必要があったと判断したのかもしれないがこれは語り方の技法に過ぎなく、これを徐々に語ることで読者に徐々に動機を仄めかす事は出来たはずだ―クーンツならばこの手法も間違いなく取るだろう。そういった意味ではデミルはやはりエンタテインメント作家なんだなぁと強く思ってしまった。 しかし本作はデミル作品の中でも抜群の語り口の上手さが存分に発揮されている。読書中、これほど笑い声を上げて笑ったのも珍しい。 今回は特に『プラムアイランド』から引き続いての主役となる皮肉屋コーリーのキャラクタ性が前作よりもさらに磨きがかかったことが特に大きい。作者自身も彼を書くことに大いに愉しんでおり、大量殺戮テロ、暗い情念を抱えた暗殺者の連続殺人劇という重い題材にもかかわらず、コーリーの、ふざけながらも有能ぶりを発揮する仕事ぶり、休み無しでの業務の中でも何と新たな恋人を発掘し、業務中に婚約してしまうという逸脱ぶりに小説全体のムードはかなり陽気だ。 本作についてはデミルの作品をある程度読み通して―もちろん『プラムアイランド』も必ず―読了した上で読む方が魅力・愉悦は増す。それははっきり断言しよう。なぜなら私自身がそうだからだ。 一番最初に手にし、そのときはなかなか乗れず、やはり過去の作品から読もうと決めた当時の判断に間違いはなかった。特に作中に出てくる元KGBのボリスは『チャーム・スクール』の出身だし、コーリーがかつて通っていたイタリアンレストランで起きた発砲事件は『ゴールド・コースト』で語られているし、コーリーが気に入っているトラボルタ主演の映画はまさに『将軍の娘』のことだし、さらに穿った見方をすれば、冒頭の航空機の機内客大量虐殺を語る一連のストーリーは『超音速漂流』へのオマージュだろう。つまり本作はデミルにとっても作家活動の集大成的な意味合いがあるように思える。 だからこそ、先に述べた不満、特に最後の結末については消化不良だという思いが強くするのである。最近のデミル作品に感じるのはこの一歩カタルシスに届かない点。『スペンサーヴィル』の主人公が凄腕の情報員のわりに悪徳警察署長に騙される点、『プラムアイランド』の予想外の展開を見せる事が必ずしも読者の期待を良い意味で裏切っているとは云えない事、そして今回の結末。これらがどうも物語の設定とちぐはぐな印象を与えている。 勿体無い。非常に勿体無い。 でも面白かった。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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収録された全4作品中、純粋にミステリと云える物は「IgE」と「ボストン幽霊絵画事件」の2作で残りの「SIVAD SELIM」と「さらば遠い輝き」は心温まる御手洗サーガのエピソードと云った所か。
「IgE」は実に島田氏らしい作品で御手洗の下に持ち込まれた二つの事件が見事に痴呆症の暴力団会長の殺害計画に結実するといったもの。 声楽の先生が好意を持った女生徒の失踪事件と川崎のファミリーレストランで3回も小児用の便器が壊される事件。これにTVで報じられる目黒の公園の木を切り倒そうとする悪戯事件が加わり、いつもどおりどうやって一つの事件に収束していくのだろうと不安になるが、これもまたいつもどおり無事収束する。島田荘司氏の奇抜な発想がこの作品全てに横溢していてページを繰る手を止まらせなかった。125ページ一気読みだった。 それに比べて「ボストン幽霊絵画事件」はタイトルにある幽霊絵画が全128ページ中100ページあたりで出てくるものだからタイトルと内容に違和感がずっとあって内容にのめり込めなかった。また外国を舞台にしたことで島田氏やたらカタカナ名を使い、しかも通常日本語に訳せる単語までがカタカナときてるものだから外国のミステリ以上にカタカナが多くて読みにくかったのも大きな一因だった。 これは松崎レオナのエピソードを扱った「さらば遠い輝き」でも同じで、島田氏はどうも外国を扱うと必要以上に外国を意識するのか、カタカナ表記が多くなり、物語のスピード感を削ぐ傾向にある。かつての電報がカタカナ表記で読みにくかったことに対し、現在では漢字まじりのひらがなに改善されたことを知らないわけではあるまいに、なぜ島田氏は変な気を回すのだろうか? またこの作品については最後のオチに冒頭の看板狙撃事件の真相を持ってきたところにも不満がある。この真相は私のみならず、大方のミステリ読者には容易に予想できるものではないだろうか?これを物語のファイナル・ストライクに持ってくるのは、ちょっと自信過剰すぎないか? 残りの2作品について。 「SIVAD SELIM」は読書中、題名の意味が判ってしまったため、導入部の出来事から結末までが一気に解ってしまった。かといって物語の面白さが損なわれたわけではなく、私の好きな音楽を扱ったストーリーだったのでものすごく面白く読めた。御手洗が彼と友達だというのはあまりにも出来過ぎだなとは思うが、一種の夢物語と考えれば、それもまた一興。作者の夢が詰まった作品だ。 「さらば遠い輝き」は海外、今回はスウェーデンで活躍する御手洗の近況を交えたレオナの一夜の出来事を語ったもの。中で触れられる『異邦の騎士』のエピソードはかつて当作品を読んだ時の熱い思いを思い出させてくれたが、レオナの御手洗への未練を切なく描き、後味はなんともメランコリック。 総じて今回の作品は前半は無類に面白かったものの、後半は特にカタカナ表記の読みにくさが目に付き、ページを繰る手にブレーキがかかったのは事実。 しかし、御手洗の超人ぶりはちょっと理想を詰め込みすぎの感がする。 御手洗フリークの期待に応えるべく島田氏はちょっと道を踏み外してはいないだろうか。杞憂であればいいのだが。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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前2集に比べると質は落ちるか。
今振り返ると各短編集にはそれぞれテーマがあったように思う。 第1集は人肉趣味・エログロ趣味、第2集は皮肉な結末。 で、第3集はと云えば、双子物かとも思ったが、全体を通してみると双子物はさほど多くはなく、一貫してのテーマでは無かったように思う。 印象に残ったのは「生きている腸」と「墓地」と「壁の中の女」ぐらいか。 「生きている腸」はなんといっても死者から取り出したばかりの腸が生きているというアイデアがすごく、これがやがて一個の生物として動き出すという奇想を大いに評価したい。最後のオチに至る仕掛けは盆百だが、このアイデアだけで価値がある。 「墓地」はショートショートぐらいの小品だが、最後まで自分の死を信じない男の独白が結構シュールで好みである。 「壁の中の女」はネタバレ参照。 逆に不満が残ったものをあげていくと・・・。 まず「皺の手」。物語の軸が定まらず、失敗作だと思う。たぶん作者は青髭譚を書こうと思ったのだろうと思えるのだが、あの発端からなぜあのような手首を愛好するような奇妙な話に終わったのかが疑問。 「抱茗荷の説」も坂東真砂子氏を思わせる土俗的ホラーだが詰め込みすぎ。30ページで語るべき話ではないと思う。記憶の断絶が多すぎてちょっとわからなかった。 「嫋指」は乱歩の弟による作品。文章が読みにくく、独りよがりに過ぎる。 やっぱり第2集が一番面白かった。 怪奇小説というよりも残酷小説集の感が最後まで残った。鮎川氏の怪奇小説に対する考え方は前時代的だったと証明したに過ぎない選集だったのではないか。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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このシリーズが始まった当初は本格ミステリに耽溺していたのでトリックやロジックの方ばかりに興味は向いていたが、もうこの歳にもなると、トリック・ロジックはもとより推理「小説」としての物語の部分を重視するようになった。そしてそれら物語に熟成したワインのような味わいをもたらせるのはなんといっても文章の力である。
今回はその文章力が非常に際立ったものがあった。全13編中、もっとも優れていたのはやはり現在作家として活躍している光原百合氏と石持浅海氏の2名の作品だった。これら「消えた指輪(ミッシング・リング)」と「地雷原突破」は文章のみならず物語としてもしっかりとしており、本格ミステリが奇想天外なトリックのみに支えられているのではないことを見事に証明してみせた。 光原氏の作品は所謂「日常の謎系」の作品でこの同趣向の作品である「僕の友人」、「店内消失」の中でも最も印象に残った。トリックの奇抜さは「店内消失」がこの3作品の中で最も大掛かりだが、読書中の愉悦、読後の余韻も含めてやはりダントツである(「僕の友人」は素人の拙い筆運びがそのまま出ている感じで、読んでいる最中に真相が見え隠れし、謎を謎として保てていないし、「店内消失」は架空の電話ボックスを設えるのはナイスアイデアだが、いささか懲りすぎ。)。 今回のベストはやはり石持氏の作品である。何百個とある音響地雷の中のたった1つの本物の地雷をどうやって犯人は踏ませることが出来たのか?このように事件の状況も他作者と違い、大人の小説とでも云おうか、レベルが1つ抜きん出ている。淡々としたやり取りで繰り広げられる推理劇は渋かった。 その他特に印象に残ったのを列記するとまず「南の島の殺人」。 次に「閉じ込められた男」。これは本書の冒頭を飾る1編で真相解明のヒント―寒い日でしかも停電だったのになぜ閉じ込められた男は布団に包まなかったのか―はツイストが効いてていい。ただ34歳のキャリアウーマンが無類の大きなぬいぐるみ好きという設定はトリックのために設えた人物設定というのが見え見えでちょっとあざとい。 それと「ホームにて」。よくある駅のプラットホームでの轢殺事故を殺人だと見破るのに回送列車を使用したのがミソ。この3編くらいか。 今回はなんと云っても光原氏、石持氏の作品に尽きる。これを読んで改めて彼らの作品を読もうと思った。明日の本格はここにあるといっても過言ではないだろう。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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耕平&来夢シリーズの第3弾。
今回は最初から怪物が続々と出てきたり、魔術が繰り広げられたり、また耕平も目覚めた力、「物体引き寄せ」を連発したりとファンタジー色をかなり前面に押し出しているのでバランスが前2作よりもよかったように思う。なんせ前2作は耕平のまだ小学生の美少女、来夢にのめり込みすぎてロリコン色が強く感じたのにどうしても同調できなかったし、歪んだ権力を翳す連中が魔力を行使するというのも漫画じみていたし、また一見青春物のような色合いを見せるストーリー展開に不意に入ってくる魑魅魍魎の出現や異世界へのリープが非常に心地悪かった。まあ3作目にして当方が慣れたというのも大いにあるだろう。 田中氏の文体も『銀英伝』や『創竜伝』のそれとは程遠いものの、水準はクリアしている。が、しかし比喩に以前も使われたモチーフを持ち出すのはちょっと空想の引き出しの枯渇を思わせる(「纐纈城」の例えはもういいって!!)。 次作『春の魔術』でシリーズは最後らしいがこれほど待ち遠しくないシリーズも珍しい。 |
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落ちてきた漆喰壁を頭に受けたタウンゼントはその日、いつものように家に帰宅するが、管理人の驚きの表情が待っていた。管理人曰くは、もう3年も前に引越したのだという。不思議な気持ちで引越し先を訪れた彼を待ちうけていたのは妻の驚くべき言葉だった。実は彼は3年前に妻の下から失踪していたというのだ。半信半疑のうち、元の生活に戻り、勤務先に復帰したが、彼の帰りを付き纏う謎の影の存在を知る。あまつさえ銃口すら向ける謎の男はやがて彼の塒をつきとめ、襲撃する。執拗な追撃から辛くも逃げ切った彼は妻を実家に帰し、見知らぬ過去と対峙する決意を固めるのであった。
どうだろう、この導入部!アイリッシュならではのサスペンス溢れる設定ではなかろうか。 今回は叙情性よりもスピード感を重視した構成で、アイリッシュ特有の短編を連ねたような追撃劇、殺人劇は成りを潜め、謎の究明に着実に一歩一歩前進していく。だから200ページ足らずの長編にしては話の起伏は濃いのだ。冒頭に掲げた梗概は60ページ足らずの部分でしかない。現在の作家ならば、これだけで800ページ上下巻作品の上巻のラストまでに達するだろう。今回はこの展開の早さのおかげでページを繰る手がもどかしいほどだった。 裏に隠れた事件についてはアイリッシュらしからぬトリックの施されたもので、ちょっと驚いた。しかし縺れた糸を1本1本振り解いていくような筆致はサスペンスの王様の面目躍如といったところで緊張感が持続してよかった。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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ニューヨーク州の北東に浮かぶプラムアイランド。そこは動物疫病研究所の島、つまり細菌研究の島だった。折りしもそのプラムアイランドで働く研究所員夫婦がノーフォークの自宅で殺害される事件が発生する。細菌兵器の持ち出しが真っ先に疑われ、明日にも人類滅亡の危機が訪れるかもしれなかった。捜査で負った傷の療養でノーフォークに滞在していたニューヨーク市警殺人課の刑事ジョン・コーリーはこの夫婦と親しかったこともあり、地元警察署のマックスから捜査の協力を依頼されるのだった…。
デミルの筆致は今回も絶好調で、その勢いはいささかも衰えも見せない。皮肉屋ジョン・コーリーの斜に構えた態度も『将軍の娘』のブレナーを髣髴とさせる好漢である。 パートナーのベス・ペンローズは真面目を絵に描いたような刑事で女性的魅力に欠けていた。どうせジョンのペースに乗せられてラヴ・シーンの1つや2つ演じることになるのだろうと思っていたがこの予想は外れ、ラヴ・アフェアは無く、代わりに途中で登場する地元の歴史協会の会長を務めるエマがジョンの相手となる。 このエマの造詣が素晴らしい。歴史協会の会長がスレンダー美人でしかも恋多き女だったという設定は正に意表を突かれた。このエマの登場で物語に活力が与えられ、彩りが加えられたように思う。 さて、筆致は申し分なく、物語の展開もスピーディーかつ起伏に富んでおり、しかもハリケーンの最中のボート・チェイスシーンもあり、アクションシーンも迫力があり、正に云うところなし、と云いたい所だが実は自分の中ではどうも納得しきれないものがある。 細菌兵器を作り出しているのではないかと噂される研究所プラムアイランドというモチーフを設け、そこに勤める研究所員の殺害で大量殺害できる細菌の国外流出を示唆し、FBI、CIAの介入による妨害もありながら、それらが物語の前半で解決し、後半の早々で実はキャプテン・キッドの宝にあるのだという事件の真相を明かすあたり、デミルの小説作法に疑問がある。私ならば最後まで細菌の流出疑惑を持たせつつ、最後の犯人との対決で実は狙っていたのはキャプテン・キッドの宝なのだと明かすだろう。そっちの方が物語の緊張感も持続させ、最後のあっと驚く真相というインパクトも強いのだと思うのだ。しかしデミルはそうせず、隠れた真相を明かし、そこから犯人を追い詰める手法を取る。あくまでミステリ小説ではなくエンタテインメント小説の設定で物語を進めるのだ。これは好みの問題だといえばそれまでだが、やはり後者ではあの展開に不満が残る(ネタバレに詳述)。 とはいえ、読書中は至福の時間を過ごさせてくれた。上の不満はデミルだからこその高い要求をしてしまう結果なのだ。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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前作はエログロ趣味の作品が多かったような印象があり、正直、途中で辟易したが、今回はその傾向は減じられており、「皮肉な結末」ものとでも云おうか、ちょっとしたスパイスを加えたものが多かった。収められた作品について傾向別に以下に述べていこう。
第1集によく見られたエログロ趣味・フリーク趣味の作品は今作品集では乱歩の「踊る一寸法師」、「赤い首の絵」ぐらいしかなかった。 前者を読むのは2回目だが、乱歩はやはり乱歩であるという認識を強くした次第。後者は剥ぎ取った顔を使って整形した女の執念を描いた作品で、ちょっと趣味じゃなかった。 皮肉な結末とでも云うべき一捻り加えた結末を備えた作品は「悪戯」、「決闘」、「魔像」の3作。 ポーの「黒猫」のオマージュとも云うべき「悪戯」、最後に泥沼の略奪愛劇が一大詐欺事件に変わる「決闘」、最後はありきたりだが、個展に必要な最後の写真のおぞましさが怖くていい「魔像」。これらはどれも出来はよく、好感が持てた。「決闘」は怪奇小説ではないかも? 幻想味が強く、観念的な趣向の作品は「幻のメリーゴーランド」、「壁の中の男」、「喉」、「蛞蝓妄想譜」。 この中では「壁の中の男」が今になってみると怖く感じる。かつての自分の恋人と同棲した親友を祝福するために最後の命の灯火を全て投じ、自分でデザインした家をプレゼントするがそれが恋人の気持ちを引き戻すことになり、嫉妬に狂う親友は恋人を殺してしまうという話だが、この建築家の体育会系の爽やかな口調、竹を割ったような性格が後に及ぼす悲劇から考えると、それと感じさせない悪意が秘められているようであとでゾクッとした。このカテゴリーでは他に比べると一番レベルが低いように思い、他の3作品は語るに及ばざるといった感じ。 純然たる怪異譚は「底無沼」、「葦」、「逗子物語」。 この中では短編集の末尾を飾る「逗子物語」が秀逸。趣向で云えば使い古された幽霊譚であるが、文章が格段に素晴らしいため、描写に寒気を感じさせる力があり、読んでいる最中に背筋が寒くなった。しかし、もっとも優れているのは最後の最後で幽霊に救いの手が差し伸べられるところ。逃げるように逗子を発つ主人公に付き纏う子供の幽霊。それに対し、あんな優しい言葉をかけるとは。本当にいい意味で裏切られ、胸を熱くした。また淡々とした文体が雨中の出来事を語る「底無沼」もいい。「葦」は素人が書いたような敬体と常体が入り混じった文章に最初は嫌悪を示したが、ありきたりながらも最後では少し感動した。結構このカテゴリーはレベルが高かった。 最後は奇妙な味とでも云うべき作品。「恋人を喰べる話」、「父を失う話」、「霧の夜」、「眠り男羅次郎」の4編。 「恋人を喰べる話」はまた人喰ものかと思ったがさにあらず、殺した恋人を埋めた庭から生えた無花果の実を恋人の血肉として食する、観念的だがストレートではないところに好感が持てた。「霧の夜」は昔小さい頃に読んだ怖い話に似ている。「眠り男羅次郎」は羅次郎という男が常人とは違うスピードの世界で生きているという設定が特殊。このアイデアから誰にも見えない衆人環視の中での殺人事件を描いた。 そして本作品集でもっとも怖かったのが「父を失う話」。文字通り突然父がいなくなる話なのだが、わずか7ページで繰り広げられるある日の出来事。その内容はネタバレにて。 こう並べてみると第1集に比べ、格段にヴァラエティに富んでいるのが判る。しかもレベルも高いものがそろっており、粒ぞろいといってもいいだろう。 あと残るは第3集のみ。さてどんな物語を読ませてくれるのだろうか。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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