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Tetchy さんのレビュー一覧

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レビュー数1426

全1426件 881~900 45/72ページ

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No.546:
(7pt)

新生本格推理はまずは天晴な出来栄え

鮎川哲也氏が編集していた一般公募の『本格推理』シリーズを編者を二階堂黎人氏に交代してリニューアルしたのがこの『新・本格推理』シリーズ。前シリーズは鮎川氏が全て読み、その時の気分で作品を選んでいたような玉石混交のアンソロジーの様相を呈したが、今回は他の新人賞のように予め複数の審査員が下読みをし、その1次予選を突破したものを二階堂氏が読んで選考するというスタイルに変わった。また、制限枚数が50枚から100枚へと倍になった。
結論から云えば、このことはかなり大きく作品の質を向上させた。選考スタイルの変更は作品の出来のバラツキが少なくなり、かなりレベルが高くなっているし、枚数の倍増は物語がパズルゲーム一辺倒になりがちだった作品群が中心となるトリック・ロジックを肉付けする物語性を高め、推理「小説」として立派に成り立っている。

そんな様変わりを経た中で選ばれた8編の中でも特に印象に残ったのは「水曜日の子供」、「暗号名『マトリョーシュカ』」、次点で「風変わりな料理店」とであった。

特に「水曜日の子供」はこれが本格ミステリなのかと思わせるほどの文章力に圧倒された。キャリアウーマンである妻との無味乾燥な生活に嫌気をさしたしがない推理小説家の妻殺しの一部始終を倒叙形式で語った作品。
何しろ文体が非常に格調高く、凡百のプロを凌駕する出来。訥々と男が犯罪を如何に成したかを一種の諦観と力の抜いたユーモアを交え、ゆったりと語っていく手法は気持ちよく物語世界に没入できたし、それが故に最後の怒涛の謎解きから物語のスピードが一気に加速するので脳内速度がシフトチェンジするのに戸惑ったが、至極簡単に解き明かしてくれるので理解も出来た。ジャズのエピソードなど物語にセピア調の彩りを備える辺り、只者ではない。

そして「暗号名『マトリョーシュカ』」。これは恐らく現在本格ミステリ作家として活動する加賀美雅之氏の公募時代の作品だろう。前回の『わが師アンリ』もカーのアンリ・バンコランを扱ったものだし、オマージュとした海外作品・作家は無いものの今回も外国を舞台にし、非常に濃密な作品世界を繰り広げている。
日露戦争の真っ只中、ロシアではウリャーノフ率いるレジスタンスの動向が気になっていた。数年前からスパイとして送り込んでいた「マトリョーシュカ」にウリャーノフの暗殺命令が下る。ウリャーノフを取り囲むメンバーの中にそのスパイがいるとの情報が伝わってきており、つい最近仲間入りしたアバズレスという男がその正体ではないかと云われていた。そんな折、窓から焼死体が飛び降りるという怪事が起きた。果たしてこれはマトリョーシュカの仕業なのか?
日露戦争時代を舞台に、ロシア革命を織り込んだ物語の創り方が「水曜日の子供」同様、本当にプロも真っ青な凝ったストーリーで、時代背景を実によく調べ上げている。カーばりの本格ミステリが好きな人らしく、大掛かりなトリックには苦笑いするところもあったが(はっきり云ってこのトリックを看破する人はいないだろう)、実在人物をストーリーに絡め、前回入選作も取り込むという懲りよう。常々素人作品のシリーズ探偵物には辟易していたがこれはその嫌味がない。正にプロ級の力作。

次点の「風変わりな料理店」も前半は格調高い物語世界、落ち着いた文体など非常に酔わせる書き手だと思った。鳥取の片田舎の温泉宿に逗留に来た推理作家が元刑事の老人から小説のネタにと、過去のある事件の顛末を聞き、その真相を暴くという安楽椅子探偵物。
フランス料理店のシェフが一万人目サービスとして肉料理を振舞う偶然に遭遇した刑事二人はその店が他の客にも一万人目サービスとして無料で料理を振舞っていることに気付いた。しかしその料理には女性の髪の毛や爪の一部が混入されていたり、不審な点があった。同僚の刑事である久瀬からは実はあのシェフがたびたび妻に暴力を振り、警察に助けを求められているという情報もあった。果たしてこの料理に供されている肉の正体とは・・・といった奇妙な味を思わせる作風。
ミスディレクションなど本格ミステリの醍醐味を十二分に味わさせてくれる、と思ったのだが、真相解明の説明にご都合主義が見られるのが非常に残念だった。
あと唐突に探偵小説に関するマニアックな知識が挿入されるのに違和感を覚えた。恐らく作者自身の本格ミステリ愛をアピールしたいが故の行動なのだろうが。

その他の5編も悪くない。というよりも以前のシリーズの中では1,2位を争うものばかりだろう。
二・二六事件を上手く推理の因子として扱った「竹と死体と」は竹を曲げて首を吊る事の必然性が判らないし、途中で挿入される自己紹介、安楽椅子探偵物に対する作者の考えを述べるのはリズムが悪く、同人誌を読まされている感じがした。
「ガリアの地を遠く離れて」は第一次大戦中のフランスを舞台にしたアイリッシュの『幻の女』を想起させる物語。耽美な文体・物語世界は上手いと感じはしたが、全編に作者の陶酔感が漂っているようであいにく私の好みには合わなかった。

その他カーの「B13号船室」をモチーフにした、題名の意味が未だに判らない「白虎の径」、同じく島田荘司の『眩暈』を大いに意識したと思われる「東京不思議DAY」は若干不満が残るものの、やはり面白くは読めた。
一番異色な「時刻表のロンド」はこんな作品がこの硬派にリニューアルしたシリーズに選ばれたこと自体が嬉しい。友達から送られた時刻表トリックを題材にした作品を解き明かす趣向のこの作品。奇想というに相応しい発想を買う。あまりに奇抜すぎて他の作品と同列に評価するのを憚られるが、私個人的には許容範囲。この稚気もまたミステリの醍醐味だと思った。

このシリーズに至り、ようやく最近新勢力の本格ミステリ作家の作風、趣向、原点が見えてきた。光文社は二階堂黎人氏を編者にしたことで幸せな結婚をしたと思う。


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新・本格推理〈01〉モルグ街の住人たち (光文社文庫―文庫の雑誌)
No.545: 1人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(5pt)

私はどうやらガチガチの本格マニアではないようで

編者は鮎川氏が監修となっているが実質芦辺氏が95%は掲載作品を決定しているであろうアンソロジー。兎にも角にもマニア垂涎という形容がぴったりの濃厚な内容で、逆に自分が本格ミステリマニアでないのを知った次第。

収録された作品は5作。まずペダントリー趣味溢れる「ミデアンの井戸の七人の娘」から幕を開ける。このフリーメーソンをモチーフにした館物の連続殺人事件は小栗虫太郎の『黒死館殺人事件』を意識しているところかなり大で作者が小栗氏に負けじとばかりに衒学趣味を十二分に発揮して健筆を振るっているが、これが私を含め、平成の読者にはかなり重く、正直、目くるめく物語世界に文字通り目くるめいて混乱する始末。
名探偵の名が秋水魚太郎、あまりに古めかしいゴシック調本格ミステリ、全編に散りばめられたユダヤ教の意匠、そして怪人物アイヘンドルフのアナグラム、これら全てが専門的過ぎ、読者を選ぶ作品となっていた。しかしおかしなものでシャム双生児の真相はそれでも驚きに値するものであったのは素直に作者の技量の高さを認めるべきだろう。

次に続く宮原龍雄氏、須田刀太郎氏、山沢晴雄氏三者による合作「むかで横丁」。これはかなり無理を感じた。それぞれのパートで明らかに文体・構成が変わり、戸惑いを禁じえないし、なぜか最後に出てくる星影龍三も単なる狂言回しとしか扱われない粗雑さが読後感として残った。

「ニッポン・海鷹(シーホーク)」もやはり、倭寇の時代から江戸時代まで活躍していた日本の海賊をモチーフにペダントリー趣味を横溢させている。どうも私はこのペダントリー趣味が合わないらしく、作品から立ち上る作者の熱気に反比例するかの如く、興味は薄らいでいった。

そんな中、ベストと準ベストを上げるとやはり「二つの遺書」と最後の「風魔」となる。
「二つの遺書」は失明した戦争から帰還兵、本條時丸が妻を心臓麻痺で亡くし、人生に絶望し、自殺する旨を記した遺書めいた手記から物語が始まる。しかし実際に密室状態で発見された死体は異母弟の柳原康秀で、手記の筆者である本條は行方不明となっていたというもの。冒頭の遺書の裏側のストーリーを語る二番目の遺書という趣向が良く、プロットがしっかりしていた。あまりにストレートすぎる題名も他の作品に比べシンプルで好感が持てた。
しかし密室の機械的トリックは字面での説明のみであまり理解できなかったのは事実。この辺がやはり読者を選ぶことになると思う。

「風魔」は雰囲気を買う。他の4作品は先にも述べたように重苦しい雰囲気で、読書の楽しみよりも混乱を目的としていると邪推できるほど、読者を突き放したものだったが、本作は推理作家毛馬久里と相棒のストリッパー美鈴、それに加え、したたかな刑事、菅野の3者の掛け合いがユーモラスで物語に彩りを添えており、娯楽読み物としてきちんと性質を備えている。
内容は台風の夜、池の真ん中にある小島で起きる殺人事件を扱っており、この島が動くトリックには正直奇想天外すぎて呆然とした。小島に建物が建っていること、四面にドアのある一軒家など専門的見地から見るとご都合主義を押し着せられるような感じがして素人考えの浅はかさを感じずにはいられないのだが、前にも述べたように登場人物のキャラクター性といい、娯楽読み物という性質を鑑みてギリギリ許容範囲とした。

しかし、これら昭和初期の本格推理(探偵)小説を読んで意外だったのは、真相が名探偵によって暴露されるのではなく、犯人の独白や手記によって暴かれる事。名探偵はある人物が犯人であることの外堀を固めていきはするが、犯行の動機・トリックなどの事件の核心は犯人に語らせている。
これは欧米の名探偵ホームズ、ポアロ、ブラウン神父などがあまりに神がかり的に事件を看破することに対する彼らなりの問い掛けなのか、それともそれら有名な名探偵たちに対する遠慮なのだろうか?その辺の言及が編者から一言も無かったのが悔やまれる。

絢爛たる殺人―本格推理マガジン 特集・知られざる探偵たち (光文社文庫)
鮎川哲也絢爛たる殺人 本格推理マガジン についてのレビュー
No.544:
(7pt)

傑作と凡作の境目

これほど続けてサスペンスを読むとやはり設定にヴァラエティを凝らしているとはいえ、展開が読めてくるのが悲しい現実。
恐らく現在続々と出てくる小説で語られる話というものは実は既に世の中で語られた物語の焼き直しに過ぎない。今まで観たことのない、読んだことのない物語は果たして生まれないのではないかとも云われている。で、そんな中、傑作と呼ばれる作品は他の類似作品と何が違うのか、今回はその答えの1つを見つけたような気がする。

今回収められた作品9編のうち、最も印象に残ったのは「秘密」。都会の片隅に住むケンとフランシス夫婦の物語。
熱烈な恋愛を経て結婚した二人。ケンはプロポーズのときにフランシスに自分は過去、人を殺したことがある、それも意図的にと告げる。しかしそんなことは2人にとってなんら障害ではなかった。2人の生活は順調だったが、ある日ケンの上司が変わったことから生活が一変する。新しい上司パーカーとそりが合わないケンは給料を減額されたりと冷たい仕打ちを受けていたがついに不満が爆発して上司を殴り、解雇される。折りしも世間は不況。仕事を探すが見つからない。しかし元上司の伝手で新しい仕事を紹介され、勢い込んで面接に行ったがパーカーからの紹介状により不採用となる。絶望したケンは突発的にその夜、出かける。翌朝の新聞にはパーカー殺害の記事が。果たして夫の仕業なのか?というのが大まかなストーリー。
この作品の良さは都会の片隅に静かに暮らす若い夫婦に訪れる不幸や不遇が、夫ケンがそりの合わない上司殺人の動機と有機的に絡み合う色づけになっている。凡作と傑作の違いはこういった味付けがしっかりしているか否かにあるとつくづく感じた。
その味付けの最も濃い部分は夫ケンが失業して得たバイトが半身裸になって商品の宣伝をドラッグストアのショーウィンドウで実演するもの。技術者の彼が二束三文を得るためにプライドを捨ててまで仕事に打ち込む姿を見て涙する妻。こういった情に訴えるエピソードが物語の厚みを増す。あまりにも皮肉なラストはケンが過去に殺人を犯したという最初の告白が伏線となって不幸な夫婦をさらに不幸にする。物語のエッセンスが凝縮されている。全てが有機的に働いた、いい作品だ。

準ベストは「生ける者の墓」だ。これも独特の設定で読むものを恐怖へ追い込むがオリジナリティがあるとは全面的には云えない。
かつて自分の父親が生きたまま棺桶に入れられ、苦悶の表情で死ぬのを見てから葬式に出くわすと棺桶の死体が生きていると思ってしまうというトラウマがあり、それを克服しようとしていたところ、生きながら埋葬され、そこでわずかばかりの酸素で死を克服する団体に行き当たり、強制的に入会させられ、埋葬させられることが決まった。逃げようとするがその団体の包囲網は細かく、四六時中見張られていた。結婚を決意した彼女とニューヨークかイギリスへ逃亡することを決意したが、捕まってしまう。しかしなぜか釈放され、彼女は来ない。どうも彼女は私の身代りに埋葬されたらしいのだ。早く助けなければならない。彼女が死ぬまでに果たして間に合うのか?警察の必死の捜索が始まった。
これはチェスタトンの『木曜の男』を想起させる。乱歩はこの最初のエピソードから材を得て『お勢登場』を書いたのではないかとも思え、作家たちの物語のアイデアが連鎖的に繋がっているように感じる作品。
この作品はその構成の上手さにある。冒頭に墓を掘り起こす男を持ってきて、どういう理由でそんな行為をやっているのかを徐々に明らかにさせ、しまいには予想もつかない奇妙な犯行団体の話に着陸する。時系列に語っても物語の牽引力はあるのにこれを変えることでさらに読者を先へ先へと引っ張らせる。これも傑作と凡作の大きな違いだ。

他に良かった水準作を簡単に述べていくと、まず「毒食わば皿」。気弱な男がのっぴきならない状況に追い詰められ、殺人を重ねていくノワール調のストーリー。詩的な文体で語るアイリッシュの手に掛かると不思議と男が殺人を重ねるのに必然性が生まれてくる。最後の妻の一言もツイストが利いている。
「死の治療椅子」もいい。殺人の疑いをかけられた友人の歯科医の無実を晴らす刑事の捜査物語。本格ミステリ並みのトリックも入っているが、これは一読瞭然。しかし主眼はこれにあらず、自らにこの罠を仕込ませて証拠を確保する刑事の心境をサスペンス豊かに語るのがやはりアイリッシュ。チープな本格にせず、サスペンスとして処理したアイデアがよい。なかなかこうは行かない。

他の「青ひげの七人目の妻」、「殺しのにおいがする」、「シルエット」は数あるアイリッシュサスペンスの1つとしてのみ記憶が残る程度か。アイリッシュが用意する手持ちのカードのうち、今回はこの結末を選んだ、それくらいの範疇で終わっている。
戦争による精神障害の男の話「窓の明り」、パリに訪れた悪漢二人の誘拐解決劇「パリの一夜」も詩的な文体が横溢しているがちょっと合わなかった。

前述にあるように続けてアイリッシュサスペンスを読んでいるものでいささか食傷気味になっているのは否めないが、それでもなお、読ませる作品を提供するこの作者の底力を思い知らされた短編集。限りなく8ツ星に近い7ツ星。

シルエット―アイリッシュ短編集 (4) (創元推理文庫 (120-6))
No.543:
(7pt)

有名な表題作が実は…

ヒッチコック映画であまりにも有名な「裏窓」をタイトルに冠して編まれた短編集。今回秀逸なのはやはり表題作と「いつかきた道」、「じっと見ている目」、「ただならぬ部屋」の4編を挙げる。

表題作については贅言をつくす必要はないだろう。裏窓から人間観察をすることで毎日を過ごす男がある日、病弱の妻が住む一角に妻が現れないことが気になって犯罪の発生を疑うというもの。
ヒッチコック作品をじっくり観たことはないが、何かで植えつけられた先入観のせいか、覗き見をする男ハルは貧弱で一握りの勇気しかない男だと思っていた。しかしこの作品では元刑事の不屈の男だった。覗かれている男が覗いている男に気付いて追い詰めていくというストーリーも実は全くの逆であったことも今回判った。アパートの窓の数だけ生活があるという書き方は群像劇が得意のアイリッシュらしい書き方だ。でも今のご時世ではこのハルの行為は全くの犯罪だなぁ。

「いつかきた道」は異色の作品。ある先祖を尊敬する少年がやがてその先祖そっくりに成長し、旅に出たときに初めて来る地にもかかわらず、細かなことまで判ってしまう。それはあたかも先祖が乗り移ったかのようだったというもの。
つまりは先祖が乗り移り、かつて先祖が愛した女性を迎えに行くという話なのだが、時世は現代で恋人は待ち人というのがちょっと理解できない。でも決闘シーンなどメタ歴史物とでもいう設定も手伝い、ロマン溢れる一篇になっている。

「じっと見ている目」は全身麻痺で息子夫婦の世話になりながら暮らす老女が妻の企てる殺人計画を聞き、どうにか息子に伝えようとする。しかし、犯罪は成就し、妻は愛人と再婚するがそこに現れた無一文の青年が老女の世話をしだすことで犯罪が露見し始める。
典型的なアイリッシュ作品。全身麻痺で口も聞けない老女がどうにか息子に殺人計画を伝える辺りは文章の力を強く感じた。刑事が手掛かりを掴むのが早いような気がするが、短編だから仕方ないか。

「ただならぬ部屋」はホテル探偵ストライカー物の一篇。これがシリーズ物なのかは現時点では知らないが、アイリッシュには珍しく密室殺人を扱った本格ミステリとなっている。
セント・アンセルム・ホテルでは913号室に宿泊する客が相次いで自殺するという怪事が続いていた。ホテルの保安係を務めるストライカーは警察の雑な捜査に業を煮やし、自らの身を以って真相を明かそうと宿泊客に変装して913号室で一夜を明かそうとするのだが。
他の短編と違い、飛び降り自殺に見せかけた殺人が都合4件起きるのだが、これをかなりのタイムスパンで100ページもの分量を費やして語る。これはストライカーの人と成りを示すために必要だったのだろうか?でもストライカーの執念とか物語の怪奇性とかは読ませるし、次作が愉しみな好編だ。

しかし以上の4編以外がつまらないというわけではない。「死体をかつぐ若者」は余命いくばくもない父親が浮気性の妻を殺害した事件を息子がアリバイ工作にて上手くごまかそうとするもの。アイリッシュの「遺贈」という作品では死体が車に乗っていたがために逮捕される窃盗犯の話を書いたがこれはその別パターン。

世評でよく聞く「踊り子探偵」は親友のダンサーの殺人犯人をダンサーが突き止めようとする話。アイリッシュの台詞の上手さが光る一品。世間では認知度高いが内容はさほどではなかった。

「殺しの翌朝」も最後の幕切れがアイリッシュの上手さを現している。不眠症の刑事が気付かないうちに殺人を起こしていたという話。アイリッシュ・サスペンスの、どう考えても窮地に陥った主人公の犯行としか思えない状況に追い詰めていき、アクロバットなトリックで実は・・・という常道をあえてそのままストレートに落ち着かせた。

「帽子」は帽子の取り違いから起きた殺人事件の話。殺害される男が帽子を店員に預けるのを断るのに「外は風が強く、帽子がないと風邪を引いてしまうからだめだ」というのには笑った。この辺の無理が最後までのめり込めなかった一因だった。

「だれかが電話をかけている」は 10ページにも満たないショートショートといってもいいくらいの作品。単純なストーリーであるがゆえに最後のオチが効いている。

前作が読み捨て小説の書き殴り感を強く感じたのに対し、今回は物語に起伏があり、読み応えがあった。昔の作品だという感覚は拭えないのは仕方はないにせよ、もう1つ心に残る作品があれば傑作になっていたと思う。


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裏窓―アイリッシュ短編集 (3) (創元推理文庫 (120-5))
No.542:
(7pt)

映像化狙いすぎ!?

あの『ゲット・ショーティ』の続編である本書は、やはりあのクールな元高利貸しチリ・パーマーが活躍するエンタテインメント作品。
前回高利貸しから見事映画プロデューサーに転身し、映画を製作してヒットさせたチリが今回扱うのはロックのインディーズレーベル。前回同様、芸能業界を題材にクールなチリが度胸を武器に常識を破っていく。

チリ・パーマーは個人的に数あるレナード作品に登場する主人公の中では最も好きな人物である。タフを地で行く彼にはどんなギャングが脅しにかかろうと動じない。持ち前の度胸と悪知恵で修羅場を乗り越えていく。あの「おれの目を見ろ」の台詞も健在だった。
そしてチリを彩る登場人物たちは今回も当然魅力的だった。ギャングの出身でリンダ・ムーンのマネージャーを務めていたラジの小物さ、そのラジのボディガード兼相棒のホモのエリオット・ウィルヘルム―この名前でサモア人の血が混じっている事自体、レナードのセンスが光る―、今回のヒロイン、リンダ・ムーンももちろん魅力的だった。
しかしなんといってもロシアマフィアのボス、ロマン・バルキンが出色の出来。初登場シーンの彼に対するチリの印象は今まで読んだどの小説よりも面白い。明らかにカツラとわかる男が車から降りてきた、何故あれほど頭よりもデカいカツラをヤツはつけているのだ?これには笑った。しかも似合わないカツラを被っているちゃんとした理由があるのがすごい。レナードの筆致は老いてなお、冴えわたる。

さらに今回は御齢75歳のレナードが随所に現代アメリカン・ポップス(原書が出版された1999年当時の)を縦横無尽に語るのがすごい。なんとスパイス・ガールズを語り、しかも彼女らの歌の好みについても語るのだ。俺の周りにはこんな75歳いないぞ!!
今回、興味深いのはチリの言葉を借りて、自らの創作姿勢を語っている点である。
「最初にプロットを描かず、まず登場人物たちを描き、彼らが動き出すのをそのままなぞる」
正に先の読めないレナード作品の真髄がこの創作作法にある。

しかし、今回はいささかやり過ぎた点があるのも否めない。あまりに映画化を意識した作りになっていること。
エアロスミスを作中に出させたのもその1つ。正に映画における特別出演メンバーではないか!
またストーリーがリンダのデビューをテーマに映画を作ることから、映画化された時のフィクションとノンフィクションとの境の錯覚、つまりメタ化を図っていることこそ映画化画策を露呈させている。
アメリカエンターテインメント界を題材として扱うチリ・パーマーシリーズは面白いことは面白いのだが、今回はちょっとあざとかった。


ビー・クール (小学館文庫)
エルモア・レナードビー・クール についてのレビュー
No.541:
(7pt)

設定の妙味を愉しめる

アイリッシュの独特の設定、シチュエーションは短編でも遺憾なく発揮されており、ドラマや映画のネタに困ればアイリッシュを読めば、そこに斬新なアイデアが詰まっているとでも云いたいくらいだ。
特に表題作はボクシング試合中の射殺事件を扱ったもので、映画『スネーク・アイズ』を想起させる。

今回収められた7編は全て水準作であり、可もなく不可もないといったところ。これは前半のサスペンスが一級品であるのに対し、後半の結末、特に真相解明になるといやに陳腐な印象を受ける。
まず最初の「消えた花嫁」はよくある失踪物だが、名作『幻の女』を髣髴させるほどのサスペンスで関係した誰もが花嫁など見なかったというあたりはホラーに近い。また主人公のジェームズの恋の盲目ぶりもあまりに間抜けすぎた。
またよく理解できなかったのが「殺人物語」。主人公の作家タッカーは何故自らの犯行声明を表した作品取っておいたのか?皮肉は結末はアイリッシュならではなのだが、ここら辺の登場人物の心理の掘り下げがもう少し欲しかった。

「チャーリーは今夜もいない」は街で連続して起こる煙草屋強盗事件の犯人が実は捜査する刑事の息子ではないかというサスペンス物。これは途中で作者の意図が見えた。

本格ミステリ色強いのは「検視」と「街では殺人という」の2編か。
「検視」は馬券宝くじから始まる夫の殺人計画発覚ものだが、再婚した夫の犯行の証拠がいささか貧弱か。作者の隠れた意図が見え見えであるのは痛い。
「街では殺人という」はアイリッシュの得意中の得意とでも云うべき、男と女の愛の友情物。弁護士がかつて惚れた女性の無罪を晴らすために立ち上がるというもの。この設定でかなり惹かれたが最後の列車の走行を利用した大トリックにはびっくりした。

今回最もアイリッシュュ色が濃いのは「墓とダイヤモンド」だろう。孤独な老女の遺品であるダイヤモンドを街の悪党チックとエンジェル・フェースが盗もうと画策するクライムノヴェル物。これはまず冒頭の老女の孤独さがそれ1つで短編となっており、そこから悪漢たちのクライムノヴェル、そしてアイリッシュ特有のアイロニー溢れる結末。仕掛けは凝ってはいないもののその分シンプルで愉しめた。

今回の作品は物語の構成はいいものの、最後のアイデアがいただけない。パルプ作家時代の早書きの特徴みたいなものが見受けられた。しかし、冒頭でも述べたように、設定は素晴らしい。現代作家も見習うべきだと強く思った。


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死の第三ラウンド―アイリッシュ短編集 (2) (創元推理文庫 (120-4))
No.540:
(7pt)

色々盛り込み過ぎて半ば迷走気味

本作品ほど、クーンツは傑作を物するのに仕損じたと大いに感じたことはない。

物語の構造は単純だ。幼き頃に虐待を受けたアグネスが授かった子供バーソロミュー。彼は量子力学を理解し、体現する神童であり、奇跡の理を知っていた。10代にしてレイプされたセラフィムはその子供エンジェルを産む。この子もまたバーソロミュー同様、奇跡の理を知る子供であった。
一方彼らが産まれた同じ頃、自分をこよなく愛する妻を衝動的に崖から突き落とし、事故に偽装して死なせた男ジュニア。彼はこの後、狂気の論理で殺人を重ねて行く。
そしてその彼を殺人鬼とみなし、付き纏う刑事ヴァナディアム。ジュニアは自分を潜在的に脅かすバーソロミューを探し、また死してなお、脅かすヴァナディアムから逃れながら殺戮の旅を続ける。そしてこの4者が数奇な運命を重ね、ブライトビーチで邂逅するとき、ある奇跡が起きる。

クーンツの長所として

①ページを繰る手を休ませない物語の展開の早さ
②読者を退屈させない斬新なアイデアの数々
③どんなに窮地に陥ってもハッピーエンドに終わる

という3点が挙げられるが、今回はこのうち③を特化して物語を閉じればかなりの傑作になったのではないだろうか?なぜテーマを1本に絞れなかったのか?

物語の終盤で形成されるアグネス・ランピオンを中心にしたファミリーの歴々のそれぞれが重ねた人生の悲哀、喜びなどを描くことに専念した方が、ミステリ性・エンタテインメント性は落ちるものの物語の深みはかなり上がっただろう。
今回最も印象に残ったのはアグネスの再婚相手となるポール・ダマスカスのエピソードで、ポリオで全身麻痺に侵された妻との死別するシーンはかなり胸を打った。またジュニアがいなくなってから語られるアグネス・ファミリーのその後がこの小説で一番醍醐味を感じた。最後の最後で数々の奇跡がバーソロミューに対し、実を結ぶ巧さもクーンツならではだと思う。だからこそジュニア・パートが宙に浮くような印象を強く受けるのだ。

余談だが物語中でジュニアの独白で語られるアクション映画・小説の鉄則が面白かった。暴走列車が尼僧を乗せたバスと激突したときにカメラないしペンが追うのは尼僧の生死ではなく、あくまでも暴走する列車の行方であるということ。これがエンタテインメントの鉄則であり、小説作法なのだと改めて認識した次第。
やはり西洋人の作家だなあと感じたのはジュニアが寝言で知りもしないバーソロミューの名を連呼することに対する答えを論理的に用意していたというところ。恐らく日本のホラー作家ならば説明のつかない超常現象めいたことを種にするだろうが、クーンツはしっかりとその理由についても論理的に用意していたのが興味深かった。

正直な話、今回は物語がどのような展開を見せるのかが全然検討がつかなく、これがページを繰る手を止まらせないといったようないい方向に向かえば文句なしなのだが、迷走する様を見せつけられているようにしか受け取れなく、何度も本を置こうと思った。1965年から2000年にかけてのバーソロミューの半生を描くサーガという趣向なのは解るけれども1,200ページ以上をかけて語るべき話でもなかったというのは確か。最後の最後でじわっとさせられるものがあったけれども終わりよければ全て良しとはいかず、やはりそれまでが非常にまどろこしかった。クーンツ特有の勿体振った小説作法がマイナスに出てしまった。

最後に重箱の隅を1つ。ジュニアが看護される看護婦相手に連想を起こす映画『ナイン・ハーフ』は1986年の作品であり、連想をする1965年には上映もされていない。実はこの矛盾のために今回は結構白けてしまった。


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サイレント・アイズ〈下〉 (講談社文庫)
No.539:
(4pt)

最後になっても懲りない面々がいます

『本格推理』シリーズも今回が最終巻。とはいえ、このあと編者が二階堂黎人氏に代わり、『新・本格推理』シリーズが始まるのだからあまり感慨は無い。
15冊も巻を重ねて、その中には目を見張るもの、プロ顔負けの巧さが光るもの、素人の手遊び、独りよがりのものと玉石混交という四字熟語が相応しいシリーズだった。

で、今回はといえば、はっきり云って小説として読めたのは石持浅海氏の「利口な地雷」のみだったという印象が強い。もうこれはこの時点においてプロの筆致である。題材も対人地雷禁止条約をプロットに絡ませるなど、他とはオリジナリティが群を抜いており、読み物として非常にコクがあり別格の出来映えだ。

その他には読み物として「六人の乗客」が読み応えがあった。バスの横転事故の際に耳を切られそうになるという奇事に見舞われ、それが悪夢となって夜毎うなされる1人の女性。顔は知りつつも名前も知らないいつも乗り合わせる乗客たちがなぜ事故の時に憎悪に満ちた顔で彼女の耳を取ろうとしたのかというのがこの物語の焦点。正直、六人の乗客の造形、書き分け方が見事であり、ホラー仕立ての先の読めないストーリーにわくわくしたが、耳を切ることの必然性が全然無くてがっかりした。さんざん耳の切断の謎で引っ張っておいてあの真相はないだろう。

その他、やや感心したものの全面的に納得できなかったものを挙げていく。

「情炎」は二重三重に真相が明かされるのはなかなかなのだが、溶剤を隠したいという理由がよく判らなかった。具体的にどんな溶剤を使っていてなぜそれが犯人究明の手掛かりになるのか、明確にしてほしかった。あとこの作者は文章が上手いと自負しているようだが、自分に酔っており、それが鼻についた。
「丑の刻参り殺人事件」は犯行時刻に容疑者がTV局の隠し撮りに遭っていたというシチュエーションは最高だったが、大掛かりな機械トリックにがっかり。

特筆するのは実は13編中これだけなのだ。
以前から感想で述べているように未だに素人なのにシリーズを作り、しかも名探偵を設定するマスターベーションが続いている。これが実に不愉快。金出して読む者に対し、無神経さを感じる。
辛辣すぎるかもしれないが、シリーズ最後で有終の美を飾れなかったというのが正直な感想である。


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本格推理〈15〉さらなる挑戦者たち (光文社文庫―文庫の雑誌)
鮎川哲也本格推理15 さらなる挑戦者たち についてのレビュー
No.538:
(7pt)

宮部テイストありつつも小粒

東京の隅田川と荒川に挟まれた場所にある下町を舞台に描かれる殺人事件の顛末を描いた作品。主人公は父子家庭の親子でベテラン刑事と中学生の息子。宮部みゆき氏の最も得意とする設定だろう。
移ってきたばかりの下町で女性のバラバラ死体の一部が川で見つかるのが発端。それに輪をかけるかのように近所にある身元不明の屋敷では女性が訪れては殺されているという噂が流れていた。その館の主は有名な画家だという。主人公の順は友人の慎吾と一緒にその館に調査に乗り込むが、作品などを見せてもらううちに画家篠田東吾と親しくなってしまう。そんなある日、順の家に篠田が人殺しだと告発する文書が投函される。そして第2のバラバラ死体の存在を示唆する文書が警察に届く。

この作家が上手いと思うのは普通に暮らしている人々に何らかの犯罪が関わったときに日常生活にどのような変化が訪れるのかを丹念に描いているところ。今回は画家の篠田の家の軒先に女性の手首が落ちていたことから警察が介入し、家宅捜索が行われるシーンが最も印象的だった。
個人が築き上げてきた何かが第3者によって蹂躙される不快感、世間が向ける視線の痛烈さ、犯罪というレッテルを貼られることの悲壮感が非常によく描かれている。こういう庶民の生活レベルでの視座での描写がこの作家は本当に上手い。
あと宮部作品の特徴といえば登場人物が魅力的なことだろう。今回も主人公の八木沢親子、その家政婦のハツ、画家の篠田など印象的な人物が出てくるが、いささか他の作品と比べるとやや弱いか。

本作は当時の少年法―20歳以下の未成年は刑罰に処されない―に対する作者なりのアンチテーゼといった意味合いも含んでいる。昨今の世情を鑑みれば、特異なものでもないが、作者はそれにもう一捻り加えて、なぜバラバラ殺人を起こしたのか、犯行声明がなぜ警察に断続的に送られてくるのかといった謎を散りばめている。
真相についてはちょっとある人物の行動に自己矛盾が感じることもあり、私自身は全面的に受け入れることが出来なかった。

今回は女性のバラバラ殺人と宮部作品では珍しく陰惨なモチーフを扱っている。『パーフェクト・ブルー』の焼死体以来ではなかろうか。
宮部作品としては『魔術はささやく』、『レベル7』と比べると小品とか佳作といった言葉がどうしても浮かんでしまう。それでも水準は軽くクリアしているのは云うまでも無いが、この作者ならではのテイストがもう少し欲しかったというのが正直な感想だ。


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東京下町殺人暮色 (光文社文庫)
宮部みゆき東京下町殺人暮色 についてのレビュー
No.537:
(10pt)

セイヤーズが英ミステリの大御所になった証拠がここにはある

前作『学寮祭の夜』でついに結ばれることとなったハリエットとピーター卿。
彼ら2人がハネムーンに選んだ先はハリエットの生まれ故郷パグルハムだった。そこでピーター卿はハネムーンに先駆けて「トールボーイズ」という名の屋敷を購入していたが、訪れてみると主であるウィリアム・ノークスが見当たらない。近所に住む家政婦のミセス・ラドルの話ではブロクスフォードへ行って不在だとの事だったが、彼女以外の世話人たちは誰もその予定を知らない。
ピーター卿も当初の取り決めと違う段取りに疑問を持ちながらも新しい生活をハリエットと始めて、ノークスの帰りを待つこととした。しかしいつまで経っても帰ってこないかつての主は地下室で死体となって発見される。甘いハネムーンが一転して、2人は事件解決に借り出されることになってしまった。

原題は“Busman’s Honeymoon”。直訳すれば『バス運転手のハネムーン』。この意味は作中に出てくる「バス運転手の休日」という成語をもじったもので、意味は「バスの運転手が休日もドライブして出かけるようないつもの仕事と同じような休日を過ごすこと」転じて「ピーター卿がハネムーン先でも事件に巻き込まれいつもと同じように捜査し、解決すること」となり、文豪セイヤーズの洒落っ気あふれた題名となっている。

さて今回の物語はピーター卿シリーズ後期物の例に漏れず、長大となっており、総ページ数は文庫で約630ページにも上る。実際、死体が発見され事件が事件として姿を現すのは185ページでそれまではハリエットとピーター卿の初々しいハネムーン―というよりも新婚生活―の顛末が面白おかしく語られる。
相変わらず一つの単純な事件でこれだけのページの話を引っ張るわけだが、今回はピーター卿自身が事件よりもハリエットとの夫婦生活について思考を向けたり、トールボーイズ屋敷を取り巻く人間たちの関係を描いたりでなかなか話が進まない部分があり、正直、中だるみする部分があるのは否めない(それでも今まで鉄面皮でピーター卿の忠実なる執事として振る舞い、どの人にも慇懃かつ紳士的に接していたバンターがピーター卿のヴィンテージ・ワインをミセス・ラドルが台無しにする一幕で物凄い剣幕で罵るシーンはかなり驚いたし、今までシリーズを一貫して読んだ身にとってはかなり笑えた)。
しかし、それを補って注目すべき点がある。今回セイヤーズはかなりの試みをこの作品で行っている。それは本格ミステリにおいて語られることのなかった「人が人を裁く」という意味についてかなり掘り下げて書いてあるのだ。

確かに誰かがかつて云ったように、本格ミステリとは読者と作者との知的ゲームであろう。事件が起き、それがどのように、誰が、どうして、何をして、いつ、どこで成されたのかを調べ、解き明かすことそのものを単純に愉しむだけであった。
ここでセイヤーズはその行為によって周囲の人間たちにどのような影響を与えるのかをハリエットとピーター卿の2人に考えさせる。これはミステリを書き続けるにあたり、セイヤーズがミステリを文学たらしめたいがために至ったどうしても避けられない必要事項だったのだろう。
前作『学寮祭の夜』では上流階級の物としてのミステリを市井の人々の抱く憤懣を描いたが本作においてもその傾向は継続されている。貸した40ポンドの金に執着する庭師が洩らすピーター卿への羨望、40ポンドのお金に自分の将来の自動車工場の夢を託す者もいれば、ワイン1ダースに10ポンドを費やす貴族もいるという現実を描く。

『学寮祭の夜』では2人が結婚するに至り、この上ない倖せな結末を提供してくれた。では本作でもこのハネムーンが同じく至福を与えてくれるのかといえば実はそうではない。
シリーズの掉尾を飾る本作がこのような重い結末となるとは露にも思わなかった。
今までは犯人が誰かを当てれば物語は閉じられた。しかし本作はそうではない。あえて犯人が処刑される日までを描いている。
貴族探偵として無邪気なまでに物語を縦横無尽に駆けずり回っていたピーター卿が最後に直面する苦痛。そこにヒーローたる探偵の姿はなかった。エピローグとでもいうべき最後の章「祝婚歌」の冒頭で語られる探偵作家ハリエット・ヴェインはそのままセイヤーズその人である。
つまり本作においてハリエット、ピーター卿は創造上の人物ではなく、現実レベルまでに引き上げられた生身の人間なのだ。

本作はシリーズの総決算であり、そのため色々なエピソードが語られる。読み応えある内容が満載である。
本作でシリーズは幕を閉じる。それは大団円というにはあまりに暗い余韻を残す。しかし文豪セイヤーズが本当に書きたかったテーマがここに来て結実したのは明らかだ。セイヤーズがなぜ21世紀の現代においても評価が高いのか、その証拠がこの作品に確かにある。


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忙しい蜜月旅行 (ハヤカワ文庫 HM (305-1))
No.536:
(7pt)

田中作品史上最強キャラ

田中芳樹氏のシリーズで現在最も筆が乗っているのは、『創竜伝』とこれ。会話の掛け合いの巧さ、作者独特のアイロニー、毒は健在。
今回の事件は日本に亡命した南米の元大統領―日系人と偽った日本人―の香港への航海の警護を薬師寺涼子とその部下泉田、それに2人の部下を加え、さらにライバル室町由紀子も加わった形で行うというもので、その豪華客船の中で残忍な殺人事件が起こるというもの。

怪奇事件簿だから例によって不可能興味を誘う趣向があるわけではなく、今まで登場してきた有翼人ら、怪物が犯人という装いはそのままである。
もうこれは単純にこの物語世界に浸るしかない。薬師寺涼子の無敵ぶりを純粋に楽しめた。

田中芳樹氏の作品で権力・財力を振りかざして悪に向かう主人公というのは非常に珍しく、悪が権力を私利私欲のために振りかざすのをそういう道理が通用しない主人公が腕力で打ちのめす図式が多いのだが、この薬師寺涼子は自身が世界をまたにかけるセキュリティ会社の大株主だということ、若きキャリア警視であること、またそれに輪をかけて格闘技にも精通していることということで、よく考えたら今までの田中作品のキャラクターでは最強ではないだろうか?

田中氏のページターナーぶりが健在だったことは素直に喜びたい。他のシリーズの刊行が待ち遠しい。

クレオパトラの葬送 薬師寺涼子の怪奇事件簿 (講談社文庫)
No.535:
(7pt)

私、解っちゃいました!

相変わらず玉石混交の短編集。こうも並べると文体のレベルの違いが如実に判り、苦痛を強いられる読書もあった。
今回は純粋に推理してみた。そのため、真相ないし犯人が判ったものが13編中4編あった。

「ドルリー・レーンからのメール」はハンドルネーム「ドルリー・レーン」の正体が、「最終バスの乗客」も乗客が語る事件の犯人が(この作品は女性の通り魔殺人での状況説明がそのまま犯人を名指ししている風にしか読めないのが欠点。文体はかなりしっかりしているだけに勿体無い)、「我が友アンリ」は犯人、ダイイング・メッセージの意味、そして作者が作品全体に仕掛けた思惑が(そういう意味では鮎川氏の冒頭の解説は全く以って蛇足だなぁ)、「教授の色紙」は真相そのものがそれぞれ判った。

逆にアンフェアではないかと思わされた作品もあった。「壊れた時計」は救急車の出動に関するアリバイ工作についてはまだしも納得できたが、ヒントで何度も繰り返される「壊れた時計」についての真相はあまりにひどすぎる。これは真相を明かされても悪い意味で呆然としてしまった。
「見えない時間」もそうだ。この作者山沢晴雄氏は今までこのアンソロジーで発表された作品同様、アリバイトリックが複雑すぎるのが難で、しかも今回は首の無い死体の必然性については何の言及もされていない。この人はアリバイ物しか興味が無いのだろうと思わされた。

今回秀逸作は「問う男」、「あるピアニストの憂鬱」の2作。両方とも私が求めるトリック・ロジック+αを備えており、読後感が良い。
「問う男」は提出された事実に対し、ニュースキャスターとサンタの扮装をした人物が全く逆のストーリーを作るという趣向が○。この作者も今ではミステリ作家で構成・アイデアとも一歩抜きん出ている感じがした。
「あるピアニストの憂鬱」は作品全体に流れる諦観めいた雰囲気が読後に余韻を残した。

そのほか、いい意味でも悪い意味でも印象に残った作品は、まず「溺れた人魚」。こちらはいい意味で真相にやられたと思わせられた。
次に「氷上の歩行者」。こちらは悪い意味で。池の離れ小島で行われる短編ミステリの競作という趣向はもとより、この大トリックは可能だろうかと大いに疑問だ。島田荘司氏が喜びそうなアイデアだがどうも現実味に欠ける。

以前はこのアンソロジーに採用されていた作品といえば、密室物、クローズド・サークル物とどれもこれも似たような内容で、しかも素人のくせにシリーズ探偵が出てくるというどこか履き違えた作品が多かったが、ここに至ると事件の趣向もヴァラエティに富み、本格の裾野の広がりを感じた。
応募作品の集合体という性質上、水準以上という評価が出来るようなインパクトは得られないが、以前に比べ、格段に質は上がっていると正直思う。
次回も謎解きをする構えで読もうとするか。


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本格推理〈14〉密室の数学者たち (光文社文庫―文庫の雑誌)
鮎川哲也本格推理14 密室の数学者たち についてのレビュー
No.534:
(7pt)

アイリッシュの本質が垣間見れる

アイリッシュの経歴によれば、当初は普通小説の作家から短編作家へ転身しており、彼の本質は短編にあるとの見方もある。実際、諸々の長編の中には短編で扱った題材を焼き直ししたものも多くないという。そんな前知識を与えられていた上で臨んだ初の短編集は、とりあえず水準をクリアしているとの印象を得た。

アイリッシュと云えば叙情溢れる文体と読んだことのないようなシチュエーションというイメージが強いが、本作品集においてもそれは発揮されている。8作品のうち平凡な設定であるのは「盛装した死体」と「ヨシワラ殺人事件」の2作品のみ。
前者はアイリッシュには珍しい本格ミステリで借金の返済に困った男が仕掛ける完全犯罪を扱っている。倒叙物で刑事が執拗に犯人を追い詰めるさまはアイリッシュの長編にも通ずるものがある。
後者は日本に停泊中に吉原を訪れた水兵が巻き込まれる殺人事件。恐らく作者が日本を訪れたときに強く印象が残ったのであろう、なかなかに細かく日本が描写されている。しかしところどころ勘違いしている内容もある(番犬の代わりにコオロギを買っているなんていうのは聞いたことが無いし、結末の切腹も西洋人にとってやっぱり日本といえばこれになるのかとがっかりした)。

その他6編ではやはりアイリッシュならではの魅力的な導入部を用意してくれている。
表題作「晩餐後の物語」は7人の男が乗り合わせたエレベーターが事故で地下まで墜落し、その中で起きた殺人事件についての復讐譚という内容。最後のどんでん返しもなかなかなのだが、エレベーターが落ちるときはバウンドするというのと乗客は即死しないという点が引っかかった。
次の「遺贈」は夜、疾走するスポーツカーのカージャックという内容。展開が読めたが、死体が何者かを明らかにしないのが逆に新鮮。

「階下で待ってて」はいつも階下で待っている男という設定が都会の一シーンを切り取る彼らしい作品。次の「金髪ごろし」の地下鉄の入り口にある新聞売り場を中心に繰り広げられる形もその例に漏れない。
「射撃の名手」の詐欺師が陥る犯罪事件も短編にしては濃厚な内容である。アイリッシュらしい強引な設定ながらも最後の一行にも気を配るあたり、余裕が感じられた。
「三文作家」は原稿を落とした作家の代わりに作品を仕上げることになった作家の話。これははっきり云って最後のオチからしてミステリではない。恐らく作者自身の経験から生まれた作品だろう。

今回の中でのベストは「金髪ごろし」に尽きる。それぞれの客に金髪美女殺されるという見出しの新聞に対するそれぞれの事情。最後に出てくる実業家が洩らす一言は果たして真実なのか?都会派小説というか、群衆小説というか都会の一角で新聞売り場を中心に描いた小説はアイリッシュの洒落た感覚で物語を紡ぎだす。新聞を買うそれぞれの客のドラマが描かれる。題名の金髪ごろしはこれらの人間たちを描写する1つの因子に過ぎないところがいい。だからこそ逆に最後の言葉が余韻を残す。事件は解決されないながらも最も印象の残る作品となった。

次点では「階下で待ってて」か。純な日常の出来事がやがて国際的スパイ組織の陰謀と繋がっていくというのは派手派手しいが、短編でここまで読ませることに賛辞を送りたい。題名もなかなかである。

長編では復讐譚がほとんどだが、短編ではヴァリエーション豊かな物語があり、愉しませてくれた。一気に読むのが勿体ない、そんな気にさせてくれる。昔の作品なのに訳も違和感なく、むしろ風格さえ漂っている。
評価は7ツ星だが限りなく8ツ星に近い。それは単純にアイリッシュに対する要求が高いゆえなのだ。


晩餐後の物語―アイリッシュ短編集 (1) (創元推理文庫)
No.533:
(7pt)

デミルの若書き

デミル1981年の作品。デミルの未訳作品がこうして講談社から発表される意義を高く買う。
しかしそれと書評とは別で、やはり約四半世紀前のデミルは若書きがどうしても目立ってしまい、ページ数の割には物語が雑だったという印象が残る。

まず一介の警部補であるバーク。彼に設定を盛り込みすぎだ。
最後の最後で実は○○のエージェントだった、なんていう隠しネタが披露されるのかと思っていたが、結局はただの、いや頭が切れる優秀な警部補に過ぎなかった。しかもこれがデミル作品の主人公とは思えぬほど、キャラクター像がはっきりしない。
事件全てを見据える冷静沈着な人物と設定したのが逆に仇になったようで、救出作戦の委員会メンバーそれぞれが私欲と自らの保身に腐心している様子を描写されているがゆえに人間くさく、バークよりもキャラクターが立っていた。特に突撃隊の隊長を務めるベリーニがこの中でも白眉だろう。
そして敵役のフリン。冒頭の神の啓示が降りてきたかのような不思議なエピソード、そして仲間うちから語られる伝説的なIRAのリーダーという触れ込みで登場した割にはラストの銃撃戦での活躍が全くと云っていいほどなく、むしろ突然の攻撃に右往左往する体たらくだ。結局彼の唯一の仕事は装甲車をバズーカで吹き飛ばしただけだった。
他のメンバーもあまりにも呆気なく、作者はむしろそれまであえて詳しく描写しなかったリアリーをここに至って縦横無尽に操り、フラストレーションを爆発させたかのようだった。

実際、ニューヨーク大聖堂籠城事件をテーマとして扱った本書は上下巻合わせて約1,070ページもあり、下巻の350ページ目でようやく銃撃戦の幕が開く。それまでは発端と犯人とネゴシエイター及びバークとの頭脳線を中心として物語が流れる。
これはアクション巨編としては読者にストイックさを要求する構成で、確かに途中、人質となったモーリーンとバクスターの数度の脱出劇が挟まれるものの、物語の持続性を保つのにはいささかエネルギーが欠けている。そういった意味でもエンターテインメント作家デミルとしての青さが目立つ。

そして最後のハッピーエンド。いや、ハッピーエンド自体は嫌いではない。ただ、何となく色々なことがうやむやにされた終わり方が非常に座り心地が悪い気持ちにさせられるのだ。
マーティンの結末の呆気なさ、そして冒頭で囚われの身となったシーラの行く末。これらが実に消化不良で幕を閉じる。これは最近の『王者のゲーム』でも見られた喉越しの悪さと全く一緒である。

確かに過程は読ませる。しかし小説とは結末よければ全て良し、つまり裏返せば結末が脆弱ならば過程が良くても全てが台無しになる、面白さは半減するのだ。7デミルだからこそ、期待値も高くなるわけで、最終的にはやはりデミルの若さ故の荒削りさが目立ったというのが正直な感想である。


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ニューヨーク大聖堂(下) (講談社文庫)
ネルソン・デミルニューヨーク大聖堂 についてのレビュー
No.532:
(7pt)

平均してこの点数

ミステリのアンソロジーとしては記念すべき13巻目ということで末尾には鮎川氏の未収録ショートショートミステリが5編収められている。殺し屋の依頼料が20万円だの、制服を着ていた大学生だのといった時代錯誤の表現があるのは否めないし、ショートコントのような結末もあえて収録しない方がよかったのではと思われたが、まあ、おまけ(マニアにとって見ればお宝だろうけど)ということで。

今回は特にラストの村瀬氏による「暖かな密室」が何といっても群を抜いていた。末期の癌で余命いくばくも無い妻のために昔彼女に学資の支援をした足長おじさん「Aさん」を夫が探し回るという設定で、日常の謎系でしかも導入部から結構泣かせる。結末は宮部みゆきの「サボテンの花」を髣髴させる人間味溢れるもので私が常々求めるトリックやロジックのみならずドラマ性のあるミステリの条件を完璧に満たしていた。

あと小説として読ませてくれたのは「黄昏の落とし物」と「紫陽花物語」ぐらいか。
前者は冒頭の社長が真夜中に川に何かが飛び込む音を聞いた話からてっきり出演者はこの社長だろうと思っていたのに、雑居ビルの管理人を中心に話が展開する辺りの演出も心憎い。冒頭のエピソードが最後の最後に結実するのも上手いし、主人公である刑事の無邪気に語る恐ろしい真相も良い。
後者はまず冒頭の和服の女性が乳母車に一輪の紫陽花を添えるという情景が非常に絵的でここでまず引き込まれた。アジサイ団地と呼ばれるその周辺で起きた神隠しの話だが、これを上手くスパイスにして怪奇譚を拵えている。ロジックの愉しみに浸れる好編だ。

純粋にミステリとして感心したのは「プロ達の夜会」。楽屋に人を入れてはいけない女優の謎を改行の多い文章でテンポよく読ませる。最初はこれがティーンズノベルのような軽薄さを感じさせられたが、結末を知るに至り、最後の仕掛けで納得。この鮮やかさゆえにシナリオのように読ませる効果を狙ったと穿った考えを持つに至った。

真相が解ったものの「遺体崩壊」はテンポのいい文章で途中不適切な表現があるが、小気味よかった。

その他は水準以下のように感じる。
それぞれ気づいた瑕疵を述べていくと、「死霊の手招き」は真相は見事だが、犯人だという証拠が無いのに勝手に犯人は自供するのが×。
「猫の手就職事件」は文字・内容ともに詰め込みすぎ。作者自身は正に科学的・心理的・物理的の多方面からロジックを畳み掛ける手並みに酔いしれているのだろうが作者の独り舞台に付き合わされたような徒労感だけが残った。
「水の記憶」は島田荘司氏の影響をもろに受けている。やたらに独り言の多い一人称は鼻につくだけ。結末は読ませるが総合的に私に向かなかった。
「クリスマスの密室」は「水の記憶」もそうだったが素人作家のシリーズ探偵に付き合わされているのが嫌。プロになってからやってほしい。押し付け気味のハート・ウォーム・ストーリーも気になる。
「ある山荘の殺人」も二人称叙述は臨場感出すために採用しているだろうが技量が伴っていなかった。

玉石混交という言葉があるが、今回も総括するとその一言に落ち着いてしまうようだ。選者の選択眼の眼力に衰えを感じてしまった。残念。


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本格推理〈13〉幻影の設計者たち (光文社文庫―文庫の雑誌)
鮎川哲也本格推理13 幻影の設計者たち についてのレビュー
No.531:
(4pt)

意外性を狙い過ぎて変になってませんか?

久々のカー作品。しかも昔『毒殺魔』という題名で創元推理文庫から出ており長らく絶版となっていた幻の作品の改訳版である。1996年に国書刊行会から出版された物の文庫版である。
幻の作品ということでイコール傑作という発想が浮かぶが果たしてそうではない。

物語はシンプルで、婚約者がある病理学者により稀代の毒殺魔であることを知らされる男が主人公である。毒殺魔であると告げられた直後に学者は銃で撃たれ、しかもそれは婚約者が誤射した弾だった。この偶然が主人公に、もしかしたら本当に毒殺魔ではないだろうか?という疑惑を持たせる。

ここら辺のストーリー展開は見事で、しかも彼自身が毒殺される恐れがあるという設定も面白い。
その後、誤射された弾は単なるかすり傷に過ぎなかったことが判るのだが、なんと学者は青酸カリを注射して(されて)死んでしまう。ここに至り作者はさらに婚約者が毒殺魔ではないかと畳み掛ける。

ここら辺は実にカーらしい展開なのだが、なんとももって回った文章が多く、読みにくいことこの上なかった。
文庫として手に入りやすくなった今はもとより、絶版本である本作を古本屋巡りの末に手に入れ、読み終えたとき、その人はどのような感想を得たのだろうか?
私ならば果てしない徒労感がずっしりとのしかかって来るに違いない。


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死が二人をわかつまで (ハヤカワミステリ文庫)
No.530:
(4pt)

題名が詩的なだけに勿体ない

アイリッシュ=ウールリッチの詩的で叙情的な文体はタイムリミット物のサスペンスに緊迫感だけではなく、美酒を片手に飲みながら物語を読んでいるような陶酔感を与え、豊穣な気分をもたらしてくれるのだが、それが曖昧模糊とした雰囲気を纏っているせいもあり、時には物語の進行を妨げるファクターにも成り得る。
本作はそれを実証したかのような作品だ。

今回アイリッシュが用意した設定はこのようなものだ。
仕事の帰り道で偶然出くわした自殺間際の女性を刑事ショーンは間一髪で助ける。事情を聴くと、父が死に直面しているのだという。父はひょんなことからある予言者と出逢い、彼の信望者となっていた。その預言者トムキンズは人智では説明できないような力を持っており、彼の予言は全て当たった。ある日、トムキンズは女性の父親ハーラン・リードに3週間後に獅子に喰われて死ぬという予言をする。その娘ジーンは夜が来るたびに死に近づく父に絶望し、川に身を投げようとしたというのだった。ショーンは上司マクマナスと共にハーラン・リードを予言から守ることを決意する。予言を阻止すべく必死の捜査、護衛が始まった。

どうだろう?
通常であればアイリッシュならではの独創的なプロットだと感嘆するのだが、今回は物語を構成するそれぞれの材料に無理を感じてしまうのだ。
まずジーンが川に身投げする動機があまりにも浅薄で頼りない。この自殺未遂がきっかけで警察に助けてもらうようになるのだから、結構重要な因子であるのだが、純文学的といおうか、何とも摑みどころのない動機ではないか。
次に“予言を阻止すべく警察が捜査・護衛に当たる”。実はここで私はかなり引いてしまった。
通常、警察とは事件が起きてから捜査に乗り出すものである。事件を未然に防ぐための予備捜査・予備護衛は警備会社とか小説では私立探偵の仕事になるだろう。ここのリアリティの無さでこの小説の内容には没頭する興味を80%は失ってしまった。

これ以降、物語は退屈を極めてしまった。アイリッシュのいつもの文体が事件の確信を直接に触れず、婉曲的に周囲を撫でつけているように感じ、もどかしくなり、また予言が現実となるその時までの主人公と親子3人の重圧感ある心理的駆け引きの模様は単純に暑苦しいだけである。

恐らく今まで読んだアイリッシュ=ウールリッチ作品の中にもこのように設定それ自体にリアリティが欠如していたものがあったかもしれない。しかし今までの作品にはその瑕疵を感じさせない「説得力」があったように思う。
今回はそれが無かった。詩的な題名も読後の今はもはや虚しく響くだけである。


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夜は千の目を持つ (創元推理文庫 M ア 1-4)
No.529:
(8pt)

美女と歩む心の旅路

ポール・ブレナー心の旅路、この小説を一言で称するならばこれに尽きるだろう。
帯に書かれている『将軍の娘』続編という謳い文句は全く正しくない。今回現れるポール・ブレナーは『将軍の娘』で登場した彼は別人のように精彩を欠く。作者自身がポールの人と為りを忘れているかのようだ。ブレナーがブレナーらしくなるのはマン大佐とのやり取りと最後の最後で権力に屈しない一人の捜査官として不撓不屈の戦いを繰り広げるあたり。これこそ『将軍の娘』で見せた凄腕ブレナーの面目躍如たる活躍なのだ。

上下巻合わせて1550ページを費やして書かれるこの物語の概要はこのようなものだ。
アメリカ陸軍基地で起きたキャンベル大尉“将軍の娘”殺害事件を解決したポール・ブレナーはその事件が基で退役し、年金生活を送っていた。そんな彼の元に元上司カール・ヘルマン大佐からある事件の調査の依頼が舞い込む。ヴェトナム戦争中に起きた軍隊内の殺人事件の真相を探ってほしいというのだ。当時殺害の一部始終を見ていたと証言するヴェトナム兵士の手紙が見つかったという知らせがCID―陸軍犯罪捜査部―の元へ入ったというのだった。ブレナーは渋々ながらもこの依頼を受け、かつてヴェトナム戦争で兵士として二度訪れた彼の地へ三度訪れるのだった。

つまりヴェトナムに訪れ、手紙の主を見つけ出し、真相を暴く、これだけの話に1550ページが費やされる。物語の骨子はこの事件だが、実は内容としてはヴェトナム戦争時代の兵士の回想、それもアメリカ側とヴェトナム側双方の苦い思い出がメインなのだ。
『誓約』でヴェトナム戦争の過ちを大胆に描いたデミルはこの作品を以ってヴェトナム戦争に対して総決算をつけたのだ。だからミステリというよりも冒頭で述べたような回想録というのがこの小説を評するに当たり最適だろう。もちろん冒頭のブレナーをそのままデミルに置き換えれるのは云わずもがなだ。

今更ながら気づかされた事だが、デミルの小説では物語の進行に凄腕の主人公+美人の助手が常に設定されていること。今回は特にそれが目立った。
というのもブレナーが元上司カール・ヘルマンの要請でヴェトナムに旅立ち、彼の地へ降り立つまでの顛末はなかなか物語に乗れず、実際作者の筆致も硬いような印象を受ける。これが上巻9章の233ページのスーザン・ウェバーとの邂逅からガラリと印象が変わる。会話にリズムが生まれ、デミル節ともいうべきウィットに溢れたセンテンスが怒濤のごとく現れるのだ。
このスーザンを最後の最後まで出演させることを作者が当初考えていたのか、判らないが恐らくは違うと思う。デミル自身、何か筆が乗らないと感じ、ここいらでブレナーに女でもあてがうか、おっ、調子が出てきたぞ、このスーザンを単にこれだけのために捨てるのは勿体無いな、よしスーザンをヴェトナムでの案内役に決めよう、さてそろそろヴェトナムの奥地へブレナーを送り込むか、しかし今からスーザンを排除してストーリーが進むだろうか、よし、決めたスーザンを政府機関のエージェントにしちゃおう、とこのような心の動きが行間から読み取れるのだ。
作者自身、ヴェトナムの奥地での戦争の傷跡を記していくのには心的負担を伴うのに違いない。この狂気の事実を語るためには一服の清涼剤、精神安定剤が必要だったのだろうし、そしてスーザンの役割は正にそれを担っている。スーザンはブレナーの、というよりデミルのセラピストだったのだろう。

今までミステリというよりもヴェトナム回想録だと述べてきたが、とはいえ、事件の真相は驚くに値する。
最後にかなりの修羅場が用意されている。複数の政府機関がそれぞれの定義における正義の名の下に丁々発止の駆け引きを繰り広げるあたりは息が詰まるほどだ。

旅は目的そのものよりも過程が大事、最後にデミルはブレナーの口からそう述べさせる。まさにこの小説の内容そのものを云い表している。


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アップ・カントリー〈下〉―兵士の帰還 (講談社文庫)
ネルソン・デミルアップ・カントリー についてのレビュー
No.528: 1人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(9pt)

吉敷、男泣き

吉敷竹史シリーズの第一部完結編とでも云える本書、その中でもとりわけずっと謎めいた存在で登場していた元妻、加納通子との関係への総決算的作品となっている。

加納通子の生い立ちから述べられる本書は今までの『北の夕鶴2/3の殺人』、『羽衣伝説の記憶』、『飛鳥のガラスの靴』、そして『龍臥亭事件』全てを一貫して補完する形で、これらの作品の間に隠されたサイドストーリーを余すところなく、描いている。摑み処のない悪女といった感じの加納通子という女性が、今回ではじっくりと描かれる。
その描写は、「業」と表現されるある種呪われた血が流れている途轍もない生い立ちを以って語られるが故に匂い立つほどの存在感を醸し出している。この通子の物語は島田作品らしからぬあまりに世俗的な表現を多用しており、駅の売店やコンビニなどで売られている三流官能小説のテイストを備えており、正直辟易はした。

一方、吉敷側のストーリーは反りの合わない上司がある女性と食堂で話していることを偶然見かけたことをきっかけに、40年前の冤罪事件を自分の性に従い、解明しようとする物語である。
これは当時島田氏が手がけていた『秋好事件』の経験を活かしたもので、吉敷が冤罪事件の捜査で出くわす関係者の反応、やり取りは多分に自らが行った秋好事件の再調査での体験がそのまま反映されているのだろう。現実の世界での秋好事件が再審にならなかった無念をこの小説内で語られる恩田事件で晴らしているかのように感じた。

加納通子がこの恩田事件に冤罪であることを証明する決定的な証人であるという設定は結構盛り込みすぎだという印象が拭えなかった。というのも今まで島田氏が語った吉敷シリーズ3作と御手洗シリーズ1作に関わっている通子がさらに40年前の冤罪事件にも関わっているというのがいかにも作り物めいていて一人の人物に設定を詰め込みすぎだろうという印象が強くなってしまった。
恐らく作者もその辺を理解していたのだろう、通子の生い立ちに費やした筆はかなりのもので今まで日本各所に点在していた通子についてそれらを結ぶ線を無理なく仕上げようと腐心しているのが解った。最後に通子が鶏肉が苦手である理由がこの恩田事件によることだというエピソードはかなり秀逸で、これを持ってきたがために、通子が語られた当初から作者はこのストーリーを想定していたのではないかと思わされた。

そして吉敷。この男はシリーズを重ねるたびに存在感を増しており、しかも言葉遣いも心なしか変わってきているようだ。登場当初は単なる刑事に似つかわしいダンディという設定以外、何の特徴もなかったが通子の登場、上司との軋轢、殺人課での孤立という状況変化を経て、その人と成りがヴィヴィッドに浮き上がってきている。

今回、この600ページ前後の上下巻では島田氏の語りたいテーマがかなり網羅されているように思う。
冤罪事件、組織改革、記憶もしくは脳に対する研究。これらをモチーフに通子と吉敷のストーリーを仕上げる手腕は相変わらず凄まじさを感じる。
人物を語ることに重きを置いたこともあり、不可能犯罪的要素は薄められてはいるものの、やはり最後で切断された首の問題、殺人現場の不具合を論理的に解明するあたりは島田本格面目躍如といった感じだ。

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涙流れるままに〈上〉―吉敷竹史シリーズ〈15〉 (光文社文庫)
島田荘司涙流れるままに についてのレビュー
No.527:
(7pt)

タイトルはなぜ“アリバイ”?

やり手の興行マネージャー、マニングが売り出し中の女優キキ・ウォーカーの出演劇への入場演出として持ち出した黒豹が突如として逃げ出し、街の只中へ消えてしまった。その日が街の暗黒の日々の始まりだった。街の各所で女性の惨殺死体が発見される。死体の様子は明らかに獣が執拗に牙で噛み、爪で切り裂いた見るも無残な状態だった。しかしただ一人マニングだけは獣の仕業と見せかけた殺人事件だと頑なに信じるのだった。

今回もアイリッシュは上のような魅力的なシチュエーションを用意してくれた。1942年の作品だが、今を以ってもこのような設定の物語は出逢った事が無い。そしてアイリッシュが語る黒豹は詩的で美しく、そして強靭だ。
1章ごとに語られる女性の殺害譚は今までのアイリッシュ=ウールリッチの手法どおり、それ自体が一つの短編のように語られる。被殺人者の人となりを家族構成、今おかれている経済的な立場をしっかり描き、殺人に至る、なぜ殺人現場に行くことになったのか、居る事になったのかを入念に描くのだ。それは日常であり得る私・貴方の生活風景であり、またどこかにいる上流階級・下層階級の日常なのだ。これが抜群に上手い。

ここまで褒めていて何故星7つなのか。それは真相の呆気なさ故である。
各章で語られる殺人劇には第2被害者のコンチータまで死の直前まで豹が迫ってきたところまで描かれており、殺人後の現場調査も豹のいた形跡をはっきりと示している。これをどうにか上手く処理するために非常に突飛な結末を用意している。これが非常に戯画的でアイリッシュの設けた空間にそぐわない。
また今回は登場人物表に欠点があった。ミステリにおいて犯人というのは登場人物表に挙げられる人物でなくてはならない。今回の表は極限までに登場人物が絞られていた。途中疑いを掛けられる人物さえその名が無いほどだ。これはかなり痛い。

そしてとどめはタイトルの無意味さ。何故このタイトルなのかが最後になっても解らない。同じ「黒」シリーズとするならばやはり本作で最も相応しいのは『黒豹』・『黒い豹』・『黒い獣』とかだろう。
本作が他のアイリッシュ作品と比べてミステリファンの話題に上らないその訳を垣間見てしまった。


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黒いアリバイ (創元推理文庫 120-10)
ウィリアム・アイリッシュ黒いアリバイ についてのレビュー