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Tetchy さんのレビュー一覧

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レビュー数1426

全1426件 821~840 42/72ページ

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No.606: 3人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(7pt)

意外と骨太

それぞれの人にそれぞれの事情。
約340ページに纏められた本書はその題名から駅の売店で売られている読み捨て感覚のノベルスの1つに過ぎないと高を括っていたが、いやはや色んな謎が重層的に織り込まれたなかなか味わい深い作品だった。

密室殺人の謎、「マザー・グース」の暗号の謎、遠隔殺人トリック、2年前の事故死の謎に加え、ペンション「まざあ・ぐうす」の前の所有者である英国未亡人の自殺の謎と盛り沢山である。
またそれぞれの謎についても1つの真相に留まらず、そのまた隠れた真相と二重構造になっているのもかなり贅沢だ。デビューした作家が必ず通るカッパ・ノベルスでの、所謂『量産物』的作品と位置づけるには勿体無いくらいの満腹感がある。

東野氏は本作で当初叙述トリックを試みようとした節がある。よくあるパターンのトリックなのだが、しかしそれは早々に種明しされる(なんと始まって30ページ弱のところで)。通常ならばこの手法を用いるのにそんなに早い段階で明かさないのだが、恐らく書いている途中(もしくは一旦書きあがった途中)にこのトリックが作品のバランスを欠くものだと判断したようだ。
私は逆にこの判断を尊重する。本作を読むに別に最後の方で明かすことは困難ではなかっただろう。ちょっとしたサプライズとして取っておくことは可能だっただろうが、やはり最後のエピローグまで読むと、この段階で明かすことが賢明だったように思える。この辺の思い切りのよさが単なる「推理」作家に満足していないとの認識を得た。

しかしとは云いつつ、本作のメインの2つの謎―密室殺人と暗号―は結構複雑。
まず密室殺人。過去2作の密室殺人から判断できるように、東野氏の密室殺人は密室が何段階にも分けられて構成されていることに特徴を感じる。最初は開いていた扉が次には閉まっていた、ここが逆に読者を更なる難問へと導くのである。
だからその解明も結構複雑だ。詰め将棋が解かれる様を見ているようである。
しかし、逆にこれが所謂“ファイナル・ストライクー最後の一撃”効果を大いに減じているのは確か。読者はロジックを理解するのに腐心して、カタルシスを感じないのである。
それは「マザー・グース」の暗号にしてもそうである。いやいや、かなり難しい。英文と訳文2つを駆使して、しかもそれぞれの詩の構成を参考にして分解・再構成をしなければならないとくれば、いやもうこれは一種、数学の難問と取り組むのと変わらない趣きがある。

先ほど述べたように、カッパ・ノベルスと云えば出張や旅行の車内で暇つぶしに読むといった感じの蔵書であるから、この作品だと暇つぶしどころか、かなりの頭脳労働を強いられる事だろう。おっとこれは本作の出来には関係のない余計な詮索だった。本筋に戻ろう。

東野氏の作品は物語にコクがあるのも事実で、本作もそれぞれの宿泊客は元よりペンションのオーナーにシェフ、従業員の男女にも深みのあるバックストーリーが用意されている。これが今回のプロットを重層的に構成させるのに大いに貢献しているのだが、このストーリー性とロジックに偏ったトリックとがいささか上手く溶け合っていないように感じる。前2作はまだ良かったが、3作目の今回は特に強く感じた。宿泊客がそんな複雑な仕掛けをするかなぁというのが私の感想である。確かにそれを裏打ちするエピソードも用意されてはいたのだが、1年に一度訪れる現場では準備に苦労するという気持ちは否めない。
しかし、まだ東野ワールド創世記である。現時点このクオリティだから、今後更に大いに期待できるのは間違いない。ああ、次はどんな話を用意してくれるのだろうか。

最後にちょっと蛇足めいた感想を。他の人の書評にもあったが東野氏の過去の作品には昔の時代を感じさせる表現が時々出てくる。今回もあるにはあったが、1つだけ。
数千万円相当の宝石を評して、プロ野球のトップ選手の年棒とあるが、今の数億円プレーヤー頻出の世の中では失笑を免れない表現である。これは次回重版時に削除したらよいかと思うが、どうだろうか?

白馬山荘殺人事件 新装版 (光文社文庫)
東野圭吾白馬山荘殺人事件 についてのレビュー
No.605: 2人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(7pt)

実は事件は爬虫類館で起きているのではない!

本作の密室トリック―窓も扉も目張りされ、鍵が掛けられた部屋からいかに犯人は脱出したのか―の真相は解ってしまった。最初は解らなかったものの、トリックを特定するある物が出て来た時点で、閃いた。というよりも多分小さい頃に読んでいた藤原宰太郎氏の推理トリッククイズに問題の1つとして挙げられていた可能性が高い(ホント、この本の犯した罪は重いと思う)。
本格推理小説は手品・奇術と相通ずる物がある、というのは泡坂妻夫氏の持論だが、カーもこの作品で奇術におけるミスリードを一つの要素として扱っており、カー自身もその思いを強くしていたように思える(良きライバルであるクレイトン・ロースンその人が奇術師であり、競作を行っていたから、これは今更ながら述べる事でもないのだが)。

本作はこのトリックがメインであり、その他については物語を形成する装飾品に過ぎない。特にそれが顕著に見られるのは最後の犯人告発シーン。密室の解明に力が入っている割には、犯人を特定すべき証拠が挙がらず、脅迫じみた形で自白を迫るといった滑稽さである。まあ、そのシーンも犯人が憎らしいがために、読者の溜飲を下げる効果もあるのだが、幾分泥臭い。
しかし真相の解明のヒントとなる戸棚とマッチの燃え滓の2つはどうも読者へのヒントになっていないように思える。私自身、トリックの真相に確信を持っていたのだが、違うのかなと思ってしまった。その説明も本作では十分になされていない。
しかし、犯人は予想とは違った。いやあ、やっぱりカー作品は犯人を当てるのは難しいわ。あまりに情報が少なすぎる。

さて今回の原題だが“He Wouldn’t Kill Patience”であり、作中の台詞を借りると「彼がペイシェンスを殺すはずがない」となる。これは事件が自殺でなく他殺である根拠として娘のルイズが述べる台詞で、ペイシェンスはお気に入りの蛇の名前である。手元の辞書では何か別の意味があるのか解らなかったが、私は邦題よりもこちらの方が魅力を感じる。
事件は園長の家で起きており、爬虫類館ではないので邦題の『爬虫類館の殺人』は実は正確さを欠いている。しかも原題には未読の人にはその意味について興味をそそられ、本を読んでこそ解る意味になっているからだ。この題名は改訳の折には変更してもらいたいと強く思った。


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爬虫類館の殺人 (創元推理文庫)
カーター・ディクスン爬虫類館の殺人 についてのレビュー
No.604:
(7pt)

未完の作品?

今まで四国、奈良と古き因習の残る小村、または町を舞台に伝奇ホラーを展開してきた坂東氏が今回選んだ舞台はなんと東京。しかも本作はホラーではなく、戦前の画家の探索行と昭和初期の情念溢れる女と男の業を描いた恋愛物。
しかし、舞台は東京といっても年寄りの街、そして仏閣の街、巣鴨。やはり死がテーマの一部である。

物語は混乱の昭和初期を生き抜いた二人の女性の物語を軸に、戦前の画家西游を巡る現代の物語が展開する。
当初本作の主人公とされた額田彩子のストーリーよりも五木田早夜と小野美紗江という対照的な二人の物語の方が比重が大きくなり、またその情念の凄さから物語自体、かなり濃密である。

この二つの物語についてはそれぞれの人生観が特徴的に表れていると思う。
雪深い新潟の地を出るように上京し、画家を目指すが、人生に翻弄されるがままに生きていき、西游という狂乱の画家と出逢う事で愛憎に苦しみながら生きてきた早夜は「人生は食べてしまった饅頭のように何も残らないものだ」と述懐する。
一方、同棲相手から逃げるように飛び出し、未練を残しながらも新しい生活に向かおうとする彩子は「散った桜が消えないように、人生も過去に思いを馳せつつ残り続けていく」と考える。
何もかも失ってしまった早夜―最後に命さえも失った事が解るのだが―と三浦英夫との同棲に失敗した思い出が色濃く残る彩子。この二人を象徴するのに最適なエピソードだと思った。

そして早夜と美紗江の過去の物語の登場人物全てが不幸であるというのもまた坂東氏の特徴がよく表れている。
早夜は元より、その類い稀なる美貌と絵の才能を持っていた美紗江もまた西游に人生狂わされ、緑内障により、画家の道を閉ざされ、生涯独身を余儀なくされる。
そして榊原西游も周囲の人生を狂わせる事で絵の才能の糧にし、女の内面を写実的に描き出す。しかし空襲でその作品のほとんどは焼き尽くされ、現在では最早忘れ去られた存在に(実在の人物なのかどうかは解らないが)。
そして早夜の上京時からの良きパートナーであった有馬雄吉もまた、新進の俳優の道が開ける正にその時、戦争に徴収され、顔に火傷を負い、俳優の道を閉ざされ、家業の桶屋を継ぐことになる。しかも妻と子供は空襲で爆死するといった有様だ。その死に様は身寄りの無い年寄りの孤独な死である。
この救いの無さは一体何なのだろう?

しかし、前述したように過去と現在との物語では断然過去の物語の方が面白い。
これから判断するに、人の不幸こそ面白い、というのが坂東氏の物語作法なのだろうか?
しかし、私はこの物語は失敗作だと思う。
いや、失敗作というのは適切ではない。未完の作品だと思う。
過去と現在の物語の濃度に差がある故にバランスを欠いているように感じるのだ。
主人公の予定だった彩子がなんともぼやけた存在になってしまっている。
行きつけのパブ「リンダム」の常連達である弥生と大磯夫婦など個性あるキャラクターもいるのに物語があまり膨らんでいない。
しかし何といっても物語の結末の仕方がすべて曖昧なのだ。
はっきりした答えなど必要ない、感じたことを信じればそれでいいのだ。
確かにこれも一種の結末の付け方だろう。しかし、なんとも据わりが悪い。

今回、死の象徴とされた蝙蝠傘を持ち、「都市は冥界である」と唱える男の正体、絵の作者、西游の行方、美紗江の真意。
これら全てが未解決であるから余韻を残す結末ではなく、どうにも消化不足のような気がしてならない。
ミステリではないからと云われればそれまでだが、あと少し書き込めばなかなかの傑作になったのではないかと思うのだが。

桜雨 (集英社文庫)
坂東眞砂子桜雨 についてのレビュー
No.603:
(7pt)

展開は予想もつかないのだが…

題名の『バンディッツ』は“盗賊”の意味で、本作では主人公ジャックと元修道尼のルーシー、そしてかつて刑務所仲間だった元銀行強盗のカレンと元警官のロイたち一行を差す。
最初読んだ時はレナードにしてはストレートな設定だなぁと思った。ジャックが強盗団を結成すべく、ムショ仲間を仲間に引き入れ、大佐の金を強奪するという方向性が早くも見えたからだ。この前に読んだ『スティック』は思いつくままストーリーは流れ、なんとも掴みようがなかっただけに、この明解さには正直驚いた。

しかしやはりレナードはレナードである。一筋縄では参りません。この強奪計画が判明した106ページから誰が423ページの結末を予想できるでしょう?
本作ではレナードは熱心に南米で行われている虐殺についてルーシーの言葉、そしてCIAのウォリー・スケイルズの口を借りて述べている。また登場人物の1人に「ベトナム戦争に行った事ない奴が口出すんじゃねぇ」と云わせ、ベトナム戦争がアメリカに落とした影についてもそれとなく仄めかしている。レナードの南国の太陽を思わせる雰囲気の中に戦争の悲惨さという暗いテーマが眠っているのもこの作品の特徴だ。

しかし、この作品、レナードの先の読めない展開が悪い側に出たという印象は拭えない。本作のプロットが判明する100ページ辺りまでの面白さから、「これは!」と期待するところがあったのだが、それ以降の展開が実にのらりくらりとしており、なかなか強奪計画の全容が見えてこない。実際最後の380ページ当たりになって始めてシミュレーションが行われるくらいだから、レナードはそこに重きを置いていないのだろう。
でも逆にこれが私には不満で、まるで皮が美味しいのに中身がスカスカの饅頭を食べているかのような印象が残った。
タイトルのバンディッツも結局ほとんど機能しなかったし、やはりちょっと物足りないと思うのである。


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バンディッツ
エルモア・レナードバンディッツ についてのレビュー
No.602: 2人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(10pt)

青春は斯くもほろ苦く

T大学生の加賀恭一郎、相原沙都子、金井波香、藤堂正彦、若生勇、伊沢華江、牧村祥子は高校からの仲の良いグループであり、大学に入ってからも交流が続いていた。
卒業を前に控えた9月、加賀と金井は学生剣道選手権大会の県予選に出場し、ともども優勝候補の筆頭になっていた。しかし順当に優勝した加賀とは対照的に金井は優勢だと思われていた試合でまさかの敗北を喫してしまう。
その一ヵ月後、波香の住んでいるアパートを訪ねた沙都子は、同じアパートに住む祥子が手首を切って死んでいる姿を発見する。残された日記から、夏に講座旅行に行った際に、犯した一夜の過ちから、恋人である藤堂へ罪悪感が生じた故の自殺だと思われていた。部屋は窓も扉も鍵が掛かっており、密室状態でその事実を一層裏付けたが、死亡推定時刻前後で部屋が開いていたという新たな証言を得て、俄然他殺の線が濃くなった。事件に不審を抱いていた沙都子と加賀は独自に捜査をし始める。
そんな中、高校時代の恩師、南沢雅子の誕生日を祝う「雪月花之式」の日が今年も訪れた。事件以来、疎遠になりかけていた6人が加賀を除いて一同に会し、例年通り「雪月花之式」を実施する。しかし和やかだったその茶会の席で、金井波香が苦悶の表情で絶命するという事件が起こる。死因は青酸カリによる中毒死で、飲んだお茶に含まれていたらしい。
一体誰が、どのようにして波香を殺したのか?状況的には無作為に殺されたとしか思えないのだが・・・。

東野圭吾作品のシリーズキャラクターとなる加賀恭一郎刑事が、まだ学生の頃に起きた事件を扱ったもので、最初に加賀刑事ありきで始まったのではないところに非常に好感を抱いた。恐らく東野氏は1作限りの主人公にするつもりだったのだろうが、加賀の、剣道を軸に鍛えられた律とした姿勢とまっすぐな生き方が気に入り、シリーズキャラクターに起用したように思われるふしがあり、非常に楽しく読めた(もちろん私も加賀のキャラクターにはかなり好感を抱いた)。

さて事件は1作目同様、密室殺人&衆人環視の中での毒殺と本格ミステリの王道である不可能状況が用意されており、なかなかに、いやかなり難しい問題だ(よく考えると1作目の『放課後』も第1の殺人が密室殺人、第2の殺人が衆人環視の中の毒殺である。よほどこの手の謎が好きなのか、それともアイデアを豊富に持っていたのか)。
最初の殺人は管理人が厳しく入場者を見張る女人禁制のアパートで起きる、一見リストカット自殺とも思える事件。死亡推定時刻にすでに被害者は部屋にいて手首を切っていたという状況だったのだが、その前の時間にたまたま隣人の女子大生が、扉が開いて明かりが点いていたとの証言を得て、密室殺人の疑いが強まる。

第2の殺人はもっと複雑で茶道の一種のゲームである「雪月花之式」という独特のルールの中で起こる事件で、本作のサブタイトルにもなっている。これがそれほど難しくは無いのだが、一口に説明できないルールで、混乱する事しばしばだった。
しかし一見無作為に殺されたとしか思えないこの殺人が意図的に特定の人を絞り込むように操作されていたのは素晴らしい。ある意味、ロジックを突き詰めた一つの形を見せられたわけで、手品師の泡坂氏の手際の鮮やかさを髣髴とさせる。

こういったトリック、ロジックもさることながら本書の魅力はそれだけに留まらず、やはりなんといっても加賀と沙都子を中心にした学生グループ全員が織成す青春群像劇にある。東野氏特有の青臭さ、ペシミズム、シニシズムが絶妙に溶け合っており、とても心に響くのである。熱くも無く、かといってクールすぎず、一人前を気取りながらも、あくまで大人ではない、大人には適わないと知りながらも斜に構えていたあの頃を思い出させてくれた。
特に本作では彼らの青臭さ、未成熟さを際立たせるキャラクターとして、刑事である加賀の父親、そして彼らの恩師である南沢雅子の2人は特筆に価するものがある。
あくまで前面に出ることは無く、置き手紙での参加でしかないのだが、加賀の父親が息子をサポートする場面は加賀にとって助けではありながら、しかし越えるべき壁である事を示唆している。
また南沢雅子の含蓄溢れる台詞の数々はどうだろうか!大人だからこそ云える人生訓であり、生きていく上で勝ち得た知恵である。
このキャラクターを当時28の青年である東野氏が想像したことを驚異だと考える。どこかにモデルがいるにしてもああいった台詞は人生を重ねないと書けない。東野氏が28までにどのような人生を送ったのか、気になるところだ。

東野氏に上手さを感じるのはその独特の台詞回しだ。常に核心に触れず、一歩手前ではぐらかすような台詞はそのまま学生が云っているようだし、活きている言語だと思う。また祥子が自殺に及んだ真相についても、あえて婉曲的に表現するに留めている点も、読者に想像の余地を残したという点で好感を持った。
実際、人生において真実を知ることは多くない。むしろ謎のままでいることの方が多いのだ。東野氏の作品を読むとその当たり前の事に気付かせてくれるように感じる。
本作は彼のベスト作品の1つではないだろうが、胸に残る率直な思いに嘘は付けない。私にとってはベスト作品の1つであると断言しよう。


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卒業 (講談社文庫)
東野圭吾卒業―雪月花殺人ゲーム についてのレビュー
No.601: 1人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(7pt)

犯人が異様に逞しい

女優フレイヴィア・ヴェナーの邸宅だった<仮面荘>に住むドワイト・スタナップはスコットランド・ヤードの警部ニコラス・ウッドを自宅に招待した。実はドワイトが警察へある相談を持ちかけた事がきっかけで仮面荘へ赴くことになったのだが、表向きは新年のお祝いに招待されたという体裁を整えていた。
ドワイトには活発なエリナーに可憐なベティという美しい異母姉妹がいた。また邸には他にも実業家のブラー・ネズビー、ニコラスの旧友ヴィンス・ジェームズが招待されており、エリナーの婚約者ロイ・ドースン海軍少佐も訪れる予定だった。
ニコラスが訪れたその夜、屋敷の1階に絵画泥棒が押し入り、果物ナイフで刺されるという事件が発生した。泥棒の正体はしかし、当主のドワイトその人であった。なぜ彼は自分の家の絵画を盗もうとしたのか?そしてなぜ泥棒を捕まえた者は捕縛せずに一思いに刺したのか?
瀕死の状態ながらもドワイトは一命をとりとめ、意識が戻るまで自宅で養生する事にした。
そこへ登場するのが我らがヘンリー・メリヴェール卿。しかしHM卿の登場空しく、次なる悲劇が発生する。

本作の真相は見破れないながらも、この頃の作品に多く見られるアクロバティックな真相で、カタルシスを感じるには首肯せざるを得なかった。
泥棒の正体が館の主である事からすぐに盗難による保険詐欺という趣向が想起され、それが確かにミスリードとなっているのは、さすがはカー!といったところか。

しかし、前述のように真犯人の正体に関してはいささか際どすぎる。
真相や趣向は非常にいいと思うのだが、事件の意匠の部分で過剰に演出しすぎ、現実味に欠けていて、いや非常識に感じられて、失望を禁じえない。
あと犯人の絞込みの重要なキーとなる背格好について。これについてもそれぞれの登場人物の描写を事細かにメモしていないと解らない。確かに作者が云うようにヒントは冒頭に隠されていたが、しかし、これだけだとは・・・(まあ、これは半分負け惜しみが入っているが)。

とはいえ、本作においてもカーは読書サービスを怠らない。
今回は特にHM卿が大カフーザラムなる魔術師に扮して子供達に奇術を披露するシーン。しかも仮面荘の当主の妻の悪友ともいうべきミス・クラタバックなる嫌味な人物に弄られながら、魔術と称してやっつけるといった内容。HM卿が実は奇術が得意であるという隠れた特技が本作で解るという点で、本作は見逃せない作品だろう。

また本作では犯人の悪意についても語られている。全てにおいて万能であった犯人が見事に罠に嵌り、プライドを傷つけられた憤りを重傷を負った人物に更に追い討ちをかけるように痛めつける。しかもそれについて悪びれもしないという人間の醜さを今回は見せつける。今手元にないので年代が解らないが、これはセイヤーズが晩年描いたテーマ―犯人が何も個人の事情や経済状態、止むに止まれない事情で犯行を犯すのではなく、単に意に沿わないという理由でも犯行を犯すのだ―に似ている。

カー作品の中でもあまり話題に上らない本作。それはこの素っ気無い題名によるところも大きいと思う。
本格物によくありがちな題名だが、原題は“The Gilded Man”で『金箔の男』という意味。これは盗難の対象となったエル・グレコの絵画に描かれたアンデス山中にある湖に沈んだ金塊を引き上げようとする男達を指している。
なかなか印象深い原題だが直接的には事件とは大きく関係しないため、どっこいどっこいといったところか。


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仮面荘の怪事件 (創元推理文庫)
カーター・ディクスン仮面荘の怪事件 についてのレビュー
No.600: 1人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(7pt)

どこかにあった物語を掘り起こしたよう

刑務所から出所したスティックはムショ仲間のレイニーから届け物をするだけで5,000ドルもらえる仕事があるから手伝えと持ちかけられる。気の乗らないまま、レイニーに同行するスティックは、それが麻薬密売人たちの取引で、自分たちが故売人のチャッキーに仲間を売られた報復として麻薬卸元であるネスターへ差し出された生贄だと知る。レイニーはネスターの手下に撃ち殺されてしまうが、スティックは命からがら逃げ延びる。
しかしスティックはチャッキーのいる街を離れず、くたびれた風采を整え、あえてこの街に残る事にする。ムショ暮らしで失ったかつての鋭さを取り戻すためと、自分が何者かを知るために。
ひょんなことからバリー・スタムという投資家のお抱え運転手を任される事になったスティックはバリーとチャッキーが友人同士だということを知り、チャッキーへの復讐を企む。

・・・と、あらすじを書いてみたものの、本作はレナード作品の中でも特に先の読めない作品だった。作者が行き当たりばったりで書いているとしか思えないほど、主人公のスティックが縦横無尽に動き回る。
一応、本作は『スワッグ』で銀行強盗として登場したスティックのその後を描いた続編。1983年に発表された本書は油が乗り切った時期に書かれたこともあって、レナード特有の流れるような文章、一緒に会話をしているかのような生きた台詞がページのすみずみまでに行き渡っている。いつしかスティックを始め、投資家のバリー、暗黒街のボス、チャッキー、不遜な殺し屋エディ・モーク、投資アドヴァイザーで美人のカイル、はたまた登場人物表に載っていない端役のバーテン、ボビー―このキャラクターがなぜ一覧表に無いのか不思議。かなり魅力を感じる美人バーテンダーである―までもがイメージを伴って、眼の前に迫ってくる。

しかし、前にも書いたように本作の特徴はスティックの行動そのものにあるといっていい。読者はスティックが何を考えているのかに興味を持ちながら読み進むしかないのだ。
最初はムショ上がりの冴えない男だったのが、死地から逃げ延びた事で逆に己自身を見つめなおし、自動車泥棒を行おうとしたところで、バリーと知り合い、運転手に落ち着き、そこで株投資の世界に興味を持ち始めたかと思うと、バリーの付き合う愛人、妻、そして投資アドヴァイザーのカイルの3人と寝てしまうのだ。更にはバリーと主従の関係が逆転し、そしてバリーが企画した新作映画への融資をだしにチャッキーを獲物にして一大詐欺を起こそうとするのだ。

こんな物語に最後きちんとオチがつくのだからものすごい。こういう話を読むとレナードが作ったのではなく、あたかもそういう話が実際にあってそれをレナードが小説にしたとしか思えない、それほど「作っていない」感じがするのだ。

しかし、あえて苦言を呈するならば、やはり行き当たりばったりで書いているなあという気持ちは払拭できない。以前とは違い、さすがに色々読んできている現在では終わりよければ全て良しという手には乗らないぞという捻くれた思いが強く残るのだ。
こういう小説もいいだろ?という声も聞こえるが、他にレナードの素晴らしい作品を知っているだけに、ここは苦言を呈して星7ツに留めよう。

スティック (文春文庫)
エルモア・レナードスティック についてのレビュー
No.599:
(7pt)

ジョナサン・ヘムロック、精彩を欠く

アイガーでの制裁(サンクション)の後、スパイ稼業に嫌気が差したジョナサン・ヘムロックはCIIを辞め、一度見た物を細部まで記憶するという自らの天賦の才能を活かして美術鑑定家として生計を建てていた。
旧友のヴァンからパーティに出席するよう頼まれたジョナサンはパーティ会場の一室でギリシャ彫刻を具現化したような完璧な美貌を持つ男に逢わされ、マリーニの『ダラスの馬』を見せられる。男はこれを500万ポンドで裁いて欲しいと依頼するのだが、ジョナサンは危険な匂いを感じ取り、断った。
旧友の美術品泥棒マックテイントに逢いに行った帰り、ジョナサンは一文無しのアイルランド娘マギーと知り合い、自分のアパートメントで一夜を共にする。
翌朝目覚めてみるとバスルームに腹を裂かれた死にそうな男が横たわっており、ジョナサンは何かに巻き込まれようとしているのを察知し、逃亡するが、約束の講演に出演した折に捕まってしまう。
捕まえた組織はルー―便所という意味―というイギリス版CIIともいうべき組織だった。そこを束ねる“司祭”は闇の一大売春組織『修道院』が所有するイギリスを根底から揺るがすスキャンダルが収められたフィルムの奪還をジョナサンに頼む。断れば死体の犯人にさせられるという状況下、ジョナサンは悪の巣窟『修道院』へ乗り込む。

長年探し求めていた『アイガー・サンクション』の続編の本書がまさか彼の地フィリピンで邂逅しようとは思わなかった。こんな硬質な作品をよく読んだものだ。一体誰だろう?他にもレナードの『スティック』と『バンディッツ』も収穫できたし、また出発前には絶版となっていたクーンツの『トワイライト・アイズ』もGETできたし、最近の立て続けに起こる過去の積み残し大清算めいた流れはどうしたことか?
いきなり本題から外れてしまったので元に戻ろう。

『アイガー・サンクション』ではスパイ物でありつつ、本格的な山岳小説でもあったが、本作は純粋なスパイ小説に徹している。主人公のジョナサン・ヘムロックが一流の登山家であることを匂わす箇所はクライマックスで敵のアジトから脱走しようとするシーンで麻薬中毒の中、マントルピースをよじ登るシーンと屋根上に隠れるシーンでしかない。
冒険小説を期待する読者にとっては物足りなさを感じるのだろう、『アイガー~』が時折巷間の話題に上るのに対して、本作については全くと云っていいほど語られない。しかし、個人的には傑作とまではいかないにしても一級のスパイ小説であると思う。

プロローグのあるスパイが聖堂の鐘楼で串刺しにされているというショッキングなシーンから幕開けするが、このたった6ページのシーンの緊迫感からして濃厚だ。最初、何が男に起こっているのか、読者には検討がつかない。もはや助からないのだろうなという事は解るのだが、どういった状況が判明しない。最後のページの新聞記事の抜粋を読むに至って、串刺し刑という拷問にあった事がわかり、それを基に読み直すと、今まで読んでいた意味が明らかになる。この辺からもう心臓鷲掴みである。
しかし、なかなか物語は進まない。本題に入るのは100ページを超えた辺りからだ。それまでは延々とスパイ稼業を引退したジョナサンと彼を取り巻く人たちとのやり取り、そしてアイルランド娘マギーとの新たな出逢いが語られる。

本作は何といってもマギーに尽きるだろう。このアイルランド娘の存在はスパイを辞めたジョナサンにとって普通の生活へ繋ぎ止める存在であり、守らなければならない物、そして彼にとって心のダイヤモンドである。特にジョナサンとマギーが最初に出逢い、レストランで食事をするシーンは本作の中で最も私が好きなシーン。道すがら出逢った男と女が交わす他愛も無い会話を断片的に語る、これだけで二人の親密さが心の中にしんしんと積もっていく。男と女の始まりを空気まで沸き立たせており、トレヴェニアンの技巧の冴えに唸ってしまった。
そしてだからこそマギーの喪失感がジョナサンと同様、読者の胸を打つ。やっぱりこの手の手法に私は弱い。

図らずもスパイ稼業に復帰せざるを得なくなったジョナサン。しかし読者の予想を裏切って百戦錬磨の活躍を見せるわけではなく、ブランクによる違和感と若さの喪失を悔やむジョナサンと読者は対面する事になる。動きにかつての精彩さを欠きながら、それでもジョナサンはまんまと周囲を出し抜くのだが、非常に危なっかしい。特に強敵とされたレオナードとは直接格闘で倒すのではなく、麻薬で苦しむジョナサンが銃で撃ち殺す結末となり、個人的には物足りなかった。
しかし、相変わらずトレヴェニアンの描く登場人物は個性的で際立っている。先に述べたマギーを筆頭に、完璧な美を誇る売春婦アメージング・グレース(素晴らしい名前だ!)、同じく永遠の若さを理想とする悪役マクシミリアン・ストレンジ、そして一癖も二癖もある美術品泥棒マックテイントなどなど、全て印象的である。この作家が亡くなってしまったのは本当に惜しい。

今考えてみると、本作は残酷なシーンと哀しみが表裏一体となっている。拷問の上に殺されるというケースがほとんどであり、また悪役もダムダム弾という一発で手足が吹き飛ぶ強烈な弾で撃たれ、無残に殺されている。
残酷さと哀しみ。どちらも負の感情だ。だからこの作品の読後感に爽快感はない。大きな喪失感が残る。

元大学教授とトレヴェニアンの略歴にはある。心理学なのか文学の教授だったのかわからないが、一連の作品に通底するペシミズムは彼のこの経歴から来るものなのかもしれない。つまり小説創作を通じて実験を行っている、それはあまりに穿ち過ぎか。


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ルー・サクション (河出文庫)
トレヴェニアンルー・サンクション についてのレビュー
No.598: 2人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(8pt)
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今をときめく人気作家の瑞々しいデビュー作

私立清華女子高等学校の数学教師を務める前島は以前から何者かに命を狙われていた。電車のホームから突き落とされそうになったり、プールのシャワーで感電しそうになったり、そして更には外を歩いていると鉢植えが落ちてきたりと、その度合いはますますエスカレートする一方だった。
そんなある日、放課後に顧問であるアーチェリー部の部活が終わった際に教師の更衣室に戻ったところ、内側から突っかえ棒がしてあり、中に入れない状況になっていた。しかしそこには同僚の数学教師、村橋の死体があった。密室の中で村橋は青酸カリ中毒で死んでいた。
刑事が介入し、事件の捜査が進められるが、なかなか犯人が突き止められなかった。そんな中、ついに第2の殺人が起こる。体育祭という衆人環視の中で起きたそれは明らかに前島の身代りで殺されたとしか思えない状況だった。

東野圭吾氏のデビュー作にして乱歩賞受賞作品。私にとっても東野作品初体験である。
第1作にはその作者の全てが盛り込まれているというが、この瑞々しさや感傷的な文体は単に女子高を舞台にしただけに留まらず、この作者の特色と云えるだろう。

一読しての印象は、非常にバランスの取れた作品だという事。実に無駄がなく、力みすぎず、落ち着いており、淡々としているのだが、色々なエピソードが散りばめられていて飽きさせない。
事前に知っている作者の経歴から、この前島の人物像は作者の人と成りが色濃く反映されているのは間違いない。この作品を読むだけで東野氏に作家としての何かがあるのは十分に感じられ、今の活躍も納得の出来映えだ。

物語は女子高を舞台に2つ(3つ?)の殺人事件が語られる。そのうち最初の1つは密室殺人で、しかも2つの真相を用意しているという凝りよう。2番目の殺人は体育祭という衆人環視の状況下での殺人。特にこの殺人シーンへの持って行き方は読み進むに連れて不安が沸々と募り、淡々とした文体が却って凄みを増す。
この文体はその後の事件解明シーンにも十分な効果をもたらしており、ページを繰る手を止まらせなかった。

そして主人公を取り巻く登場人物も非常に印象的だ。教師仲間の村橋や藤本、キーパーソンとなる麻生恭子、そして生徒の高原陽子やケイこと杉田恵子、剣道部主将の北条雅美などキャラクターの描き分けが非常に上手く、混同する事が無かった。前にも述べたが、彼らと主人公前島とのエピソードが非常に効果を上げている。
これらが学校という特殊な閉鎖空間で繰り広げられるその独特の雰囲気を実によく醸し出していると感心した。体育祭の準備風景、体育祭の生徒たちの躍動感、放課後の部活の雰囲気など、教師でない私がもはや二度と体験できない空気を十二分に堪能させてくれた。そして、主人公の口から語られる学生にとって憎悪の対象となるきっかけについての説明は、正に的を射ており、郷愁をそそられた。

とまあ、賞賛の言葉ばかりだが、やはり今の時代ではちょっと古めかしさを感じずにはいられない。これは仕方の無い事なのだが、殺人の動機となったエピソードを含め、それぞれの真相―詳しくはネタバレにて―は全てが多様化した今(正確には“乱れた”今)、珍しい物ではなく、衝撃の度合いは低くなっている。
この前に読んだクーンツの言葉を借りるならば、狂乱の90年代を経た現在では当たり前のようになっているのだ。これを減点の対象にするのはアンフェアかもしれないが、読後のカタルシスという点で見ればどうしても落ちてしまう。

あと、やはり主人公前島が妻に堕胎を促すシーン。かなりの時代錯誤感覚を覚えた。低収入が理由とは云え、教師がああいうことを云うだろうか?
これは最後に繋がる重要なエピソードなのだが、どうも腑に落ちない。ラストシーンは納得できる。しかしそこへ繋がるキーパーツに粗雑さを感じてしまった。

色々書いてきたが、本作が水準以上の作品であるのは間違いない。
2005年に直木賞を獲って以来、ますます勢いに乗る東野圭吾の作品をこれからどんどん読んでいくのが非常に楽しみだ。


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放課後 (講談社文庫)
東野圭吾放課後 についてのレビュー
No.597:
(8pt)

90年代の狂気は今なお続いている

カリフォルニアの法執行機関共同特別プロジェクトに勤める警官ハリー・ライオンとコニー・ガリヴァーの二人は巡回中に立ち寄ったハンバーガー・ショップで銃を乱射する無差別殺人犯と遭遇し、混戦の末、射殺する。
サミー・シャムローはかつてロサンジェルスの広告代理店に勤務していたが、今は無一文の浮浪者に身を落としていた。サミーは夜毎訪れる怪物“ラットマン”に怯えていた。巨躯の浮浪者の身なりをしたそいつは人智を超えた力でサミーをいたぶり、またそれに喜びを覚えていたのだ。
ジャネット・マーコは暴力を振るう夫を殺害し、アリゾナの砂漠へ葬った後、ラグナ・ビーチで息子のダニーと野良犬ウーファーの2人と1匹で1台のダッジを塒にしたその日暮らしの浮浪生活を送っていた。そしてその家族も巨躯の警官に夜毎悩まされていた。その警官はいつも親しげに近づくが、いつもジャネットたちをいたぶろうと怪物に変形するのだった。
一方、養護施設で暮らすジェニファーには、恐れる存在があった。それは彼女の息子だった。周りの看護婦は立派な人物だと褒め称えるが、彼女にはおぞましい存在でしかなかった。ジェニファーが両目を無くしたのも彼が原因だった。
そしてハリーの前に1人の浮浪者が現れる。「夜明けまでにお前は死ぬ」と云い残し、爆発を起こして消えてしまう。そしてそれはハリー、そしてコニーにとって悪夢の始まりだった。

なんともまあ、クーンツはとんでもない恐怖を考え出したものだ。
最初は身長2メートルを超える巨大な浮浪者。そいつが忽然と現れ、抗いようの無い膂力で獲物を嬲り殺す。もちろん銃も効かない。
その後は無数の蛇の大群。どさどさっと部屋中を埋め尽くすその有様は、想像するだに恐ろしい。
そして手に汗握る<一時停止>のゲーム。時間の流れをものすごく緩慢にし、ハリーとコニーだけを獲物に命を賭けた鬼ごっこが始まるのである。

今回のクーンツは怖かった。時間も停められるとあってはもうどうしようもないでしょう!!こういったアイデアはホントよく思いつくなあと感心する。
そして90年代以降のクーンツの作品に特徴的に見られるのがこの“時間”を使った能力者が出てくること。それは今回のように実際に時間を停めるだけでなく、催眠術を使って、時間を忘れさせる恐怖、次元の歪みに入り込んで、実世界の時間軸とは違う世界を出入りする能力など、ヴァリエーションは様々だ。クーンツは時間を操る事こそが一番の恐怖であるという結論に行き着いたのかもしれない。
あと演出の上手さも光る。いろいろあるが、今回は特に冒頭の無差別殺人鬼を捕らえるシーンでのエルヴィス・プレスリーの題名で犯人との交渉を行うシーンが面白かった。こういう遊び心が小説を彩る事をよく解っているなぁ。

題名の“ドラゴン・ティアーズ”は中国の格言から来ている。
「ときに人生はドラゴンの涙のように苦きもの。しかしドラゴンの涙が苦いか甘いか、それはその人の舌しだい」
本当にこういう格言があるのかどうか寡聞にして知らないが、“ドラゴンの涙”=“人生の試練”という暗喩である。しかし“人生の試練”にしては今回はとてつもなくばかでかい試練だし、意味合いとしては苦難か。ちょっと内容とマッチしていないような気がするが。

そして本作の影の主役が犬のウーファー。犬好きのクーンツがまさに犬の気持ちになって第一人称で語るそれは、なかなか面白い。一種、着地不可能と思われた本作がどうにか無事に着陸できたのも、このウーファーの御蔭だ。物語の設定としてはギリギリOKとしよう。

今回の作品の底流を流れるのが“狂気の90年代”というテーマ。それはかつて悪とされていた事が今では正義ともなってしまう理不尽さのことである。恐らく訴訟大国アメリカの、「裁判は正しい者が勝つのではなく、勝った者が正しいのだ」という風潮、そして価値観が多様化した現在、誰もが自分を可愛く思い、妻、恋人、我が子や両親も自分の幸せのためには犠牲するという考えに警鐘を鳴らしている。
本作にはコニーの口を通して信じられない犯罪―ベビーシッターの不都合で自分の誕生日パーティに行けなくなりそうな主婦が自らの子供を殺して嬉々として出かける、船乗りの妻が夫の出航を遅らせるためにわざと娘に怪我をさせる、etc―が語られるが、巻末の筆者の言葉によると全て実話だそうである。2006年の今、“狂気の90年代”はもう彼方にあるが、その狂気はまだ続いている。


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ドラゴン・ティアーズ〈上〉 (新潮文庫)
No.596: 1人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(7pt)

私は欺かれた読者です

病理学者サーンダーズ博士は友人の弁護士チェイスからある招待を受ける。それは彼の友人であるコンスタブル夫妻が読心術師を発見し、家に招いて読心術を披露してもらうという内容だった。興味を持ったサーンダーズ博士はコンスタブル夫妻の住まいであるフォーウェイズ荘へ赴き、そこで読心術師ペニイクと出会う。
初対面であるのに、自らの心中をズバズバと当てるペニイクに戸惑いを隠せない出席者全員。そんな中、ペニイクは思念の力で殺人も出来ると云い、しかも家の主人であるコンスタブル氏に、今夜貴方は死ぬだろうと告げる。
そしてその夜、悲劇は起こった。2階の寝室から覚束ない足取りで出てきたコンスタブル氏は、そのまま心臓麻痺で絶命してしまう。
サーンダーズ博士はマスターズ警部とHM卿に助けを求める中、一人泰然自若とするペニイクは第2の殺人を予告し、見事成し遂げてしまう。
果たしてペニイクの読心術は本物なのか?彼は思念で人を殺せるのか?

思念で人を殺せると自称する男を登場させ、遠隔殺人を扱った本書。この作品はカーの最たる特徴であるオカルティズムが十分に堪能できる作品である。
とにかく読心術が出来、思念で人を殺せると主張するペニイクなる人物が縦横無尽に物語を駆け巡り、あのHM卿でさえも翻弄され、思念で人を殺していると半ば信じるほどだ。

物語、事象が裏返る手法はカー作品の特徴でもあるが、今回もそれが十分に発揮できている。とにかくこの作家はダブル・ミーニングの投げ方が巧い。最初読む話では全く自然の流れであった表現が真相を与えられるに当たって全く意味の違う意味に変わってしまう切れ味は健在である。
そしてこの読者への挑戦状ともいうべき題名。原題は“The Reader Is Warned”つまり文中の訳文を引用するのなら『読者に一度警告する次第である』となるが、この表現が随所に出てきて、挑戦意欲を駆り立てる。

とはいえ、この真相は、解らんでしょう!が、個人的にはこういうサプライズは大歓迎。セイヤーズ作品を読んでいるみたいだった。
しかし第1の殺人の真相が非常に面白いのに対し、第2の殺人の真相がその亜流でしかもちょっと無理があるだろうと思わされるものだったのが残念。ちょっと綱渡りしすぎた。


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読者よ欺かるるなかれ (ハヤカワ・ミステリ文庫)
No.595:
(7pt)

御手洗の超人ぶりと石岡の情けなさにちょっとついていけない感が

本作は「上高地の切り裂きジャック」と「山手の幽霊」の2つの中編で構成された作品集。

まず「上高地の切り裂きジャック」は2000年の頃に石岡が解き明かした事件の話。大学を卒業し、みなとみらいにある法律事務所に就職した犬坊里美は石岡の許を訪れる。「最後のディナー」事件で知り合った磯子署の蓮見刑事が御手洗に相談したい事件があるというのだ。
それは上高地の山中で美人女優細川みどりが変死体で発見されたというものだった。死体の状況は死因は絞殺だが、腹が一文字にぱっくり裂かれ、腎臓や膀胱、子宮が持ち去られ、代わりに石が詰められていたという陰惨なものだった。しかも死亡推定時刻は細川が上高地へ帰った次の日の午後だというなんとも奇怪な状況だった。
犯人が子宮を持ち帰った目的は?なぜ細川は上高地へとんぼ返りしたのか?
真相を探る石岡はしかし、迷走のまま、スウェーデンに留学中の御手洗に助けを求める。

次の「山手の幽霊」はまだ御手洗が日本にいた1990年の頃の話。
頭を抱え込む丹下刑事が御手洗の許を訪れてきた。山手のトンネルの上にある家は呪われた家と云われており、最初の家主は急性の癌で病死し、その後、購入した家主大岡修平は娘が難病で病死して、そのあおりで妻が自殺し、大岡も自失のまま、仕事を辞め、飲んでくれて街を徘徊する廃人同様の生活を送っていた。三番目の家主正木が住み始めた時、地下のシェルターに餓死した大岡の死体が見つかったのだ。
さらに御手洗は電車の運転手を夫に持つ老婦人から、山手のトンネルで起きた奇怪な出来事の解明を依頼される。それはトンネルを通った時にいきなり前面の窓に女性の死体が貼りついたというのだ。電車を停めて探したが遺体らしきものは見当たらなく、しかもそれはその夫婦が亡くした幼児の成長した姿だという。

この二つの怪奇譚に御手洗の推理が冴える。
「上高地の~」はスピンオフ作品「ハリウッド~」の創作中に生まれた副産物のような感じだ(あれほどグロテスクではないが)。題名の「切り裂きジャック」から連想される残酷なイメージとは違って事件は単発、しかもどちらかといえば死亡推定時刻に関する話が多く、陰惨さの味わいは薄れている。
またこの頃、島田氏が力を入れていた冤罪事件への取り組みの色合いもあり、ここでは容疑者とされていた牧原信吾の無罪をどうにか証明しようという方向でストーリーは進む。これは金川一事件というのがモチーフになっているらしい。
しかし『最後のディナー』や『Pの密室』の頃に比べるとだいぶん石岡も以前のペースを取り戻しているようだが、犬坊里美の携帯電話の留守電組の話を聞いてショックを受ける件は50を間近に控えた男の台詞か?と思った。蓮見刑事に嫉妬するところもちょっとなぁと思うのだが。

翻って「山手の幽霊」は、『~挨拶』や『~ダンス』の頃を髣髴とさせる御手洗の活躍ぶりが堪能できた。関係のないと思われた二つの事件がまたも大胆な設定で結びつく。これこそ御手洗ファンが読みたかった作品だろう。
しかし両作とも共通するのは御手洗潔の超人的な推理力。いきなり真相が見えているように動き回る様、人に命令を下す様は確かに面白いが、超人的すぎて、少々辟易した。これと比べるとやはり私は吉敷シリーズの方が地味ながらも堅実で面白いのである。

オレも歳を取ったかなぁ。

上高地の切り裂きジャック (文春文庫)
島田荘司上高地の切り裂きジャック についてのレビュー
No.594: 1人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(7pt)

御手洗シリーズのモチーフ溢れている作品なのだが

スウェーデンのウプサラ大学で脳の研究を続ける御手洗の許にエゴン・マーカットという患者が訪れる。彼は記憶障害を患っており、記憶を一定時間保つ事が出来ないのだ。
そんな記憶障害を持つ彼が書いた1つの童話『タンジール蜜柑共和国の帰還』。
それは天を突くほどの巨大な蜜柑の木をネジ式の関節を持った妖精たちがマーマレードを作って暮らしている国にエッギーという少年が紛れ込み、その世界を逍遥するといった内容だった。
このお伽噺でしかない物語を御手洗は事実に基づいて書かれた物だといい、さらにエゴン・マーカットの記憶障害の原因となった事件と失われた記憶を取り戻す手掛かりになると云うのだった。童話に隠された事件に御手洗潔が挑む。

久々の御手洗物らしい小説を読んだという感じだ。『タンジール蜜柑共和国の帰還』という奇妙な内容の童話について解析をする趣向は過去の作品『眩暈』を想起させ、この作品が好きな私にとってなんともたまらないワクワク感があった。
特にビートルズの歌が絡んでいるという件には驚かされた。これはビートルズ・フリークである島田氏にとって積年の願望をようやく果たしたのではないだろうか。
他にも旧作を想起させる箇所があり、人の五体を解体してネジ式の関節をもつ義手・義足をつけ、ゴウレムを作り上げるというのが今回の作品世界を彩るもう1つのモチーフなのだが、これなんかはデビュー作『占星術殺人事件』のアゾートがすぐに浮かんだ。

とまあ、ある種、永い眠りから覚めた御手洗シリーズの復活を宣言するような内容である本書。特に前半の『タンジール~』の解析の辺りはどんどん判明していく驚愕の事実にページを捲る手がもどかしいほどの面白さを感じたのだが、肝心の殺人事件の解明のあたりになるとどうも食指が鈍った。
疲れから来る睡魔もあったのは事実だが、なんだか事件が複雑すぎるのだ。明かされた真相もものすごく作られた感じがして、心の底から同意できなかった。殺された遺体の首がネジのように回り、外れ、転がっていく、なんとも唖然とする事件ではないか。しかし、それを論理的に解明しようとするために、無理を生じているような感じがした。
そして、やはり語り手が石岡以外では違和感があるのは否めない。御手洗がなんだか別人のように思えるのだ。エキセントリックさに欠け、すごく常識的な人物として立ち振る舞うその姿は消化不良感がどうしても残ってしまう。

▼以下、ネタバレ感想
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ネジ式ザゼツキー (講談社文庫)
島田荘司ネジ式ザゼツキー についてのレビュー
No.593:
(1pt)

よくもまあ出版したもんだわ(今は絶版だけど)

カール・スタンフェウスことスリム・マッケンジーは「薄明眼(トワイライト・アイズ)」という不思議な眼を持っていた。彼は人間に化けたゴブリンの正体を見破る事が出来るのだ。
彼は14歳の時に村で次々と村人を殺していた伯父に化けたゴブリンを殺害し、それ以来ゴブリンを退治する旅を続けていた。やがて彼は旅の途中で見つけたカーニバルに潜り込み、そこの従業員となる。カーニバルの見世物のオーナーの一人である美少女ライアの許で働く事になった彼だが、カーニバルはやがて移動のときを迎える。
次なる街はヨンツダウン。そこはゴブリンが市長、警察本部長を勤めるゴブリンの巣窟だった。ゴブリンどもがカーニバル一行の殺戮をたくらむのを肌身に感じたスリムはゴブリンを一匹、また一匹と殺し、カーニバルを守ろうとするのだが。

4年前に上巻のみ手に入れて、ずっと本棚に眠っていた本作品。このたびようやく絶版となっていた下巻を手に入れて喜び勇んで読んだのだが、4年も待った甲斐が全く無い駄作だった。
物語はゴブリンを見分ける特殊な眼を持つ主人公スリムの一人称で語られるのだが、これが17歳の言葉とは思えないほど、格式張っており、しかも回りくどい表現が多くて、かなり疲れた。作者としてはイメージ喚起を促したつもりだろうが、読み手の方としては感情移入を許さない文体だなと思うことしばしばで、なかなかのめりこめなかった。

ゴブリンが人間に化けて人間を殺していくエピソードの数々はなかなか面白いのだが、これがやはり文体のせいでなかなかのめり込めない。
ゴブリンが戦争時代の生物兵器であるという設定はファンタジーだと思っていた矢先のSFへ転換でおっと思ったが、しかしそれまで。
カーニバルの三つ目の巨人ジョエル・タックを始めとしたフリークスたち、カーニバルの総支配人ジェリイ・ジョーダン、ヨンツダウンに住む老人ホートン・ブルイットなど魅力的な人物が出てくるのだが、物語にどうも活かしきれていない。

しかしこのような結末を迎えるのなら、あえて2部構成にする必要はないのではないか。1部のみで十二分にゴブリンとスリム含めたカーニバル一行との全面戦争を語ることに専念すれば、中途半端な物語にならなかったように思うのだが。
しかし、この内容を是として出版したクーンツもすごいと思うが、版元もすごいと思うわ。


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トワイライト・アイズ〈上〉 (角川文庫)
No.592: 4人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(8pt)

「ユダの窓」の正体は?

メアリー・ヒュームと婚約したジェイムズ・アンズウェルは彼女の父親に逢いにグロヴナ街の家を訪れた。メアリーの話から、自分に好意を抱いている感触を得ていたジェイムズは、しかしなぜか父親のエイヴォリーから素っ気無い態度で応対されていた。エイヴォリーから出されたグラスに注がれたウィスキー・ソーダを飲んだすぐ後、強烈な眠気に襲われ昏倒してしまう。
約20分後、眼が覚めたジェイムズはそこで矢を突き立てられ、絶命したエイヴォリーを発見する。しかもその部屋には彼ら二人しかいず、窓にはシャッターが下ろされ、扉には戸締りのボールトが掛けられていた。
身に覚えの無い殺人の罪で逮捕された彼を弁護に乗り出すのは、われらがヘンリー・メリヴェール卿。しかし死体発見の状況は彼が犯人である事を示していたが、HM卿は唯一「ユダの窓」が開いていたと云うのだ。果たしてユダの窓とは何か?HM卿は彼の無罪を証明できるのだろうか?

まず、今回は物語の展開が非常に面白い。
冒頭の、非常にシンプルな密室殺人について、今までの事件現場に名探偵が登場して、関係者の証言、周囲の状況から推理して犯人を解き明かすのではなく、今回は既に容疑者は逮捕され、起訴されている状況で、裁判で無罪であるのを証明するというスタイルを取っている。しかも被告人側弁護人がHM卿というのが面白いではないか!
そして各章の末尾で明らかになっていく新事実。単純に思えた事件が裏では実に複雑に絡み合っていたのを1枚1枚薄衣を剥ぎ取るかのごとく、読者の眼前に示していくストーリー展開は胸躍らされながら読まされた。

その中でも特に印象的なのは10章以降からの展開だ。10章の最後で、被害者のエイヴォリーが娘の婚約者のアンズウェルだけでなく、彼のいとこのレジナルドとも知り合いであり、呼び名の聞き間違いであったという箇所から物語が一気呵成に明らかになっていく。まるで長くだらだらと続いていたトランプゲームの神経衰弱が一気に終末に近づいていくような感覚を覚えた。

ただ不満もある。この物語のテーマである「ユダの窓」の正体がなんともチープだったことだ。本来、刑務所の留置所の看守が覗くシャッター付き窓の事を示すこの言葉だが、期待していただけに肩透かしを食らった感が正直ある。
犯人も今回は意外だった。しかも物語上、この犯人である必然性もかっちりしており、十分納得がいった(今回、話中で登場人物の一人に「どうせ今回も犯人は予想も付かない人物で解るはずのない人なんでしょ」みたいな台詞を吐かせているのがセルフパロディで面白かった)。

『白い僧院の殺人』では読みにくい事件経過にいきなりズドンと打ち込まれた真相にびっくりして、9ツ星だったが、今回は逆にワクワクする事件経過に唸らされ、ユダの窓の正体に失望したために8ツ星という評価だ。
まあ、これがカーらしいといえばカーらしいんだけど。


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ユダの窓 (創元推理文庫)
カーター・ディクスンユダの窓 についてのレビュー
No.591:
(7pt)

あの事件を結末に持ってきた剛腕ぶりはどうよ?

1996年7月17日、ニューヨークのロングアイランド沖でTWA800便の旅客機が空中爆発を起こして墜落する陰惨な事故が発生する。当初発表された事故の原因は燃料タンクの給油ゲージの電線から火花が走り、燃料に引火したというものだった。
2001年、ジョン・コーリーは妻のケイトと共にTWA800便墜落事故の5年目の追悼式に出席していた。ケイトは事故当時、調査に当たったFBI捜査官の1人であり、それゆえにこの事故に対する思い入れが深かった。
その席でケイトは200人以上の目撃者の証言の多くが海面から飛行機に向かって走るミサイルのような光の筋を見たと云っていると告げる。それは公の場でCIAの手によって燃料タンクからの爆発による物だと説明はされていたが、目撃者や捜査に当たったケイトを含むFBI捜査官でも腑に落ちない点だった。そして当時、その模様をビデオカメラに撮っていたカップルが存在するとの噂があった。
追悼式の後、ケイトに事件の関係者たちに逢わされたジョンは、ビデオテープを持つカップルの捜索に極秘裏に乗り出す。

題名の意味は『黄昏』。物語の結末にあの事件を持ってきたこの作品にはそれがよく似合う。
今回は1996年に起きたTWA800便の旅客機が墜落した事故の一部始終を収めたと云われるビデオテープの在り処とそれを撮った不倫カップルを捜し当てるのがメイン・テーマとなっている。確かにジョン・コーリーのへらず口は健在で、ページの捲る手がクイクイ進むのだが、物語の牽引力としては設定がいささかパワー不足。

今回もデミルは冒頭の第一部で不倫カップルが存在する事、そしてその撮影にいたる顛末を事細かく描いており、ジョンがそのカップルになかなか行き着かないのに非常にやきもきさせられた。
『王者のゲーム』の時にも書いたが、やはりこの辺のデミルの物語の創作作法に疑問が残るのである。不倫カップルのエピソードは、ジョンがジルに行き着いた時に語れば、効果が高いと思う。ジョンがジルに逢った時はジルの解説付きで、セックスシーンからビデオを見せられるという形で第一部の内容が再度語られるのだが、これが同じ話を二度も読まされているという感じが拭えなかった。
これはやっぱりデミルの失敗だと思う(担当編集者、注意しろよ!というよりも、巨匠過ぎて出来ないのか?)。

物語はこの後の展開を予告するような形で終わるため、非常に興味深い。どうも今作はその次回作のための長大なプロローグのような気がしてならない。でないと、あまりに単調すぎる。
次回作こそ、ベトナム戦争に区切りをつけたデミルが21世紀にして新たに出会った驚異に立ち向かう渾身の作品になるに違いない。


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ナイトフォール(上) (講談社文庫)
ネルソン・デミルナイトフォール についてのレビュー
No.590:
(7pt)

御手洗シリーズとの違いが色濃く出た短編集

本作は2002年に当初『吉敷竹史の肖像』として刊行された短編集からエッセイや対談などを取り除き、純粋に吉敷シリーズの短編集として編み直した物で、文庫化に際して新作の「電車最中」という短編が書き加えられている。

まず冒頭の「光る鶴」はかつて島田氏が物したノンフィクション大作『秋好事件』をモチーフにした吉敷シリーズの中編だ。
吉敷はかつて逮捕した元やくざの藤波の葬儀に出席するため、福岡の久留米市に赴いた。その告別式で昭島悟と名乗る藤波の生前に親しくしていた若者と出逢う。
26年前に久留米市に近い稲塚という街で一家3人を惨殺した「昭島事件」という殺人事件が起き、彼はその犯人の息子だという。実は父、昭島義明は義父であり、世話になった藤波の頼みで養子縁組を組んでいた。今まで昭島義明は自らが犯人だと認めており、死刑も確定していたが、藤波の強い説得の末、再審請求をしているという。そこで彼は吉敷に父の冤罪を証明して欲しいと頼む。
26年も前の事件の再捜査に難色を示していた吉敷だったが、亡き藤波の熱意に押されるが如く、再捜査に乗り出す。
秋好事件が同じく福岡の飯塚での事件、そして一家惨殺事件である事からかなり類似性が高い。題名の「光る鶴」とは事件当時、駅のホームに捨てられていた赤子の悟の胸に置かれていた銀の折鶴に由来する。これが冤罪の証拠となるのは自明の理だが、相変わらずの吉敷の粘りの捜査が描かれている。
事件の真相は物語中盤で早くも吉敷と昭島との面接から明らかになるが、この作品の意図は昭島義明の冤罪をいかに証明するかに主眼が置かれているので当然だろう。この事件解明は島田の秋好事件に対する願望に外ならない。

続いて「吉敷竹史、十八歳の肖像」は吉敷がいかに警察官になるに至ったかを描いた物語だ。
広島は尾道市の町工場の息子である吉敷竹史は昔から権力を嵩に威張り散らす人間が嫌いだった。C大に合格し、東京に出てきた18歳の吉敷だったが、時は折りしも大学紛争たけなわの時代で吉敷の通う大学も例外ではなかった。
吉敷は学内闘争には加わらなかったが、闘争学生の中の1人、桧枝という学生と親しくなる。桧枝は同い年とは思えぬほどの博識でしかも社会の仕組みを裏側まで知り尽くしているような感じだった。その桧枝がある日、学校のロッカーでリンチ死体となって発見される。学生紛争の混乱から単なる一犠牲者としか扱わない警察に愛想を尽かし、吉敷は単独で犯人の捜索に当たる。
執拗な聞き込みの末、事件前日に犬猿の仲の佐々木という学生に会っていたとの情報を得る。吉敷は佐々木の住所を調べ、実家に赴くのだが・・・。
幼稚園児が快刀乱麻の名探偵振りを発揮する御手洗シリーズを書いた同じ作者とは思えぬほど、この物語は対極にある。つまりここに作者の二つのシリーズの創作姿勢が現れているように思う。吉敷シリーズが極力現実の警察の捜査に即して描く事を主眼にしたリアルなシリーズにあるのに対し、御手洗シリーズは幻想味と奇想をテーマに掲げた一種のファンタジーだという事だ。
あとラストに出てくる最後の宮沢賢治の詩、『雨にも負けず』は、確かに吉敷の人と成りを語るにこれほど雄弁な物はないと感心した。

そしてラストの「電車最中」。
鹿児島県の天文館通りのマンションで市役所の建設企画課長が射殺されるという事件が起きた。鹿児島県警刑事課の留井は捜査を進めるにつれ、一人の容疑者が浮上する。地元の暴力団K山会の幹部、福士健三だった。
彼の犯行である証拠として、死体のズボンの折り返しの裾に入っていた食いかけの電車の形をした最中を福士が買ったことを立証すれば、逮捕は目前だった。しかし、九州中の市電のある県を当たってみたが、そんな物はないという知らせ。捜査を中国・四国地方に拡大したが、同じ結果だった。
焦った留井は捜査を東京を除く市電のある全国各地の都市に広げたが、すべて空振りに終わった。途方にくれた留井はふと数年前の捜査で東京から鹿児島に訪れていた吉敷という刑事の事を思い出す。
まさにこれこそシリーズを読み通した者が得る醍醐味というものだろう。留井が語る数年前の事件とは私の好きな『灰の迷宮』である。電車型をした最中を探す、これだけ単純な捜査にこれほどまでに物語性を持たせる島田氏の手腕に改めて脱帽。いやはやどこからこんな話を拾ってくるのだろうか?
そしてこの作品でも御手洗シリーズとの相違がはっきりと書き分けられている。御手洗シリーズのスピンオフ作品では御手洗が電話や手紙での出演だけなのに、あっさりと事件の真相に迫るヒントなんかをアドバイスする超人ぶりを描いているのに対し、本作では吉敷は留井の捜査のお手伝いをするのみで助手に徹している。あくまで事件を解くのは留井である。この辺の身のわきまえ方が私をして御手洗よりも吉敷の方を好きにさせているところなのだ。
そして最後の蛇足ともいえる留井の若かりし頃の東京での恋愛話もまた昭和を語る一つの因子となっている。

今後の島田氏はこういった情の部分を積極的に取り入れるらしい。なんとも嬉しい話ではないか!

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光る鶴 吉敷竹史シリーズ16 (光文社文庫)
島田荘司光る鶴 についてのレビュー
No.589:
(10pt)

ホラーでありつつ人生劇場

時は大正時代。まだ西洋文化が日本に入りだして間もない頃、高知市の高等学校で学んでいた健士郎はある決意を胸に夏休みを利用して故郷の櫻が浦に帰省した。
そんな中、1隻の真っ白な異人船が舞い込んできた。それは村の中では災い事の兆候だと云われていた。村で海女をしているりんはいつもの漁の最中に異人船の船長イタリア人エンゾと知り合う。彼は桃色珊瑚を求めて櫻が浦までやってきたと告げ、実際に彼女の眼の前で一財産作れるほどの大きな桃色珊瑚を捕獲する。
一方、櫻が浦の外れにある古びた寺、月夜見寺では流浪の僧侶、映俊が住みついていた。彼はかつて流れ着いた紀州熊野の補陀落山寺で聞いた南にある楽園、補陀落浄土に辿りつくと言い伝えられている補陀落渡海を決行しようと日夜修行に励んでいた。
ある日、りんはいつものように海に潜っていると、海中に漂う白骨を発見する。それは彼女が幼い頃に溺死した母の亡き骸だった。長い間探し求めていた母の骨を引き上げようとしたが、その先にある珊瑚に宿る亡霊の姿を見て、溺れそうになる。
間一髪でりんを助けたのはエンゾだった。しかし、それこそが珊瑚を取り巻く人間の欲望と愛憎が織り成す悲劇の始まりだった。

物語の海原に呑み込まれる、そんなダイナミズムを感じた作品だった。今までの作品が文庫本にして約300ページ強だったのに対し、本作は600ページ弱と約2倍の長さを費やされているが、全く無駄が無い。全てが物語に寄与されている。
全ての登場人物、エピソードが濃厚なため、上の梗概を書くのにどれを語らずにいればよいのかものすごく迷い、かなり時間が掛かった。

物語の主軸となるのはやはり健士郎とりん、イタリアから来た海の男エンゾ、そして櫻が浦の若い漁師連中を束ねる多久馬の4人か。
鰹節工場で一財を成した父親の庇護の下で学問に勤しみながら、父の望む代議士ではなく世界を見ることを望む健士郎。
村で唯一の海女をしながらもやがては誰かの妻となり家を守る将来に違和感を感じつつ、村を捨てる決心がつかないりん。
イタリアの商人に雇われ、世界の港を転々とする人生に嫌気がさし、終の棲家を南の島に求めるために珊瑚を探すエンゾ。
村の若者漁師連中の長としてりんと櫻が浦の海を牛耳ろうと野心を燃やす多久馬。
これらのキャラクターの生命力が行間から溢れ、躍動している。

本作の主人公とされる健士郎は、聖人君子ではなく、己の主張とわがままの境が曖昧な青さの残る若者であり、今回の物語のメインとなる悲劇の原因を起こすのもまた彼だ。決して読者の共感を得られるような人物ではない。
この小説は一種、彼の成長小説だとも云えるが、あくまで若さゆえのエゴ―親の金を使って学問に励み、海外へ出ることの夢を実現しようとしたり、憧れの君であるりんをどうにかして自分の方へ目を向けさせようとする―に任せて突っ走る。特にりんが慕う燻製となったエンゾの死骸を打ち砕くところは、己の愛情の深さとはいえ、決して許される、他人の共感を得られるものではない。しかし、だからこそ、ここにリアルがある。

そして死もまた運命と云うエンゾ―かなりの確率でこのキャラクターは映画『グラン・ブルー』の主役2人をミックスさせてるに違いない―は、個人的にはもっと物語で動いて欲しかったキャラクターだ。しかし、作者はこの人物を後の悲劇のファクターとして使い、再三再四に渡り、かなり酷い使い方をする。
溺れた女性を助けたのを、強姦したと勘違いされ、それがきっかけとなって自身の船を襲われ、仲間を全て殺され、瀕死の重傷を負い、傷が癒えそうになったら、介抱されていた健士郎の嫉妬で逆上した攻撃を受け、傷が再発し、坊主の代わりに海に生贄に出され、終いには死体すら燻製にされ、その死体も健士郎にバラバラにされるのである。ここまで物語の“道具”として使うのかと終始驚いた。

二人の関係の中心となるりんもまた強い女性である。男に負けないほどの気性を持ちながらも男の魅力に負けるりんが、エンゾに対してあれほど深い愛を持つのも頷ける。強い女ほど、惚れた男に尽くすのだ。

そしてこの物語の悪の首領ともされる多久馬。漁師として自然の弱肉強食の摂理を自らの信条として行動する多久馬。他人の物であろうが手に入れれば自分のものであると欲望のままに動く彼もまた印象強い。彼がいたからこそ、この物語がこれほどまでに濃厚となったのだろう。

しかし、忘れてはならないのは本作の陰の主役とも云うべき破戒僧、映俊である。補陀落渡海にかこつけて村人から施しを受け、いざとなったら生贄を差し出し、まんまと逃げ出すしたたかさを持つ。
このキャラクターを最後まで生き残らせたのは作者としてもどこか憎めない性格を気に入っていたのではないだろうか。皆の周りに必ずいる誰かであるとも云うべき存在。そしてこの物語のテーマである浄土の鍵を握る人物である。彼が最後に本当に改悛したのかは怪しいが、またそれも彼の魅力である。

他にも健士郎の父、喜佐衛門や映俊との情事に耽るさえ、りんの父親で船大工の寅蔵など脇を固めるキャラクターも魅力的で、本作はキャラクターに尽きるといってもいい。
もちろん坂東得意のドラマ作りの技量はますます冴え渡っている(特に嵐の中を映俊が多久馬から逃げまどう最中に多久馬の家に迷い込み、妹の八重に見つかるシーン、そして嵐の中で遭難しかかった多久馬が健士郎に打ち砕かれたエンゾの燻製の生首に遭遇するシーンなどはその構成の見事さに唸らされた)。
しかしこれらも全てこのキャラクター達が縦横無尽に動き出したからこの物語が出来たのだと思わずにいられない。題名ともなっている補陀落渡海の方法など、もちろん作者の取材の賜物なのだろうが、まるで物語があり、それを坂東氏が掘り当てたのだとさえ思わずにはいられない。それほど全てが有機的に結びついている。

今まで坂東氏がテーマとして掲げていた伝奇色は確かにある。海で不慮の事故、または虐殺され、無念の思いで死んだ遺体たちが亡霊となって珊瑚にしがみつき、漁師達へ復讐を狙っているという話だ。
しかし今回はそれはあくまで物語の終焉へと向かうべきメインテーマではなく、登場人物たちの行動原理の一因になっているに過ぎない。だから怪奇小説という色合いは薄い。今回は珊瑚が織り成す人生劇場、そういう風に呼びたい。

桃色浄土 (角川文庫)
坂東眞砂子桃色浄土 についてのレビュー
No.588:
(8pt)

まるで心の中を覗かれているかのよう

姉の七回忌で婚約者とともに故郷の奈良は田原本町に帰省した玲は、実家の蔵の中から銅鏡を見つける。それには裏に尻尾を咥え、花びら形にくねらせた蛇が浮き彫りにされていた。
ある日、父親の史郎がその鏡を見て、憤った。七年前、姉が蔵で自殺した時に傍らにその鏡が落ちており、それ以来、禍物(まがもの)として忌み嫌っていたのだった。史郎は古物商をしている玲の婚約者広樹に売り払うよう頼む。しかし玲はなぜかその鏡を手放せなかった。
一方、大学で考古学の助教授をしている田辺一成は田原本町のある斗根遺跡の発掘に従事していた。昔のお堀の痕跡を掘り当てた一成だったが、その花びらが開いたような形のお堀の形からただの集落の跡ではないと直感する。
調査しているうちに田原本町にある鏡作羽葉神社に行き着いた一成はそこで玲と再会する。かつて二人はお互いに恋を抱きながらも恋愛に結びつかずに別れた仲だった。
さらに鏡作羽葉神社では神主の東辻高遠は境内の鏡池から沸き立つような波が発生しているのを発見する。それは過去に2回発生した凶事であり、言い伝えでは蛇神が復活する凶兆とされていた。そんな中、町では蛇神を奉る地方祭が近づいていた。

この人の小説は一筋縄ではいかない。予定調和で決して幕を閉じないのだ。人間の業はまだ終わらないというメッセージが共通して感じられる。
そして、『死国』、『狗神』、この作品と3作品通して共通しているテーマが、死者の再生。失われた者たちが生者の心の隙間を利用して甦ってくるという設定が一貫して、ある。
生を営む者たちが心の奥底に潜ませている愛という名の傲慢さを発揮した時に、再生を虎視眈々と狙っている死せる者達が牙を剥く。そして坂東眞砂子氏はこの生者たちが己の感情の赴くままに犯す過ちを描くのが非常に巧い。

私を含め、すぐ隣にいる誰かが心に孕んでいる感情、それは凡人であるがゆえに説明できない気持ちや想いをこの人は実に的確に表現する。その心理描写は読中、ページを捲る手、文字を追う眼をはたっと止めるほどストレートに心に飛び込んでくる。恰もページから手が出てきて心臓を鷲掴みにされる、そんな感じだ。
今回も読中、思い惑う表現がいくつかあった。いくつかピックアップしてみよう。

①主人公、玲が自身の性格について語るシーン。
「多弁なのは、(人と喋るのが好きなのではなく)沈黙に耐え切れないからだ」
②同じく玲が婚約者広樹の性格について語るシーン。
「この人は私を見ようとしていないのだ。(中略)それぞれ、相手への自らの愛情の深さをいとおしんでいるだけ」
③そして玲が親類の美佳伯母さんの性格を語るシーン。
「気はいいのだが、自分の言動がどんなに他人を傷つけるのかがわからない女だった」

これらを読むとドキッとする。そうそう、こういう人たちっているんだよなぁと思う反面、これは私のことを客観的に表現しているのではないかと。
特に①は私にかなり当てはまる。こういう文章に遭遇するとき、この作者の人間観察の眼の確かさに感心するとともに戦慄が奔る。出来れば逢いたくない、とまで思ってしまう。

またこの作者は実にドラマ作りが巧い。玲が一成と契りを交わした直後に、なかなか電話を掛けてこない婚約者広樹から電話が掛かってくる。そしてその台詞「ひどいな、玲ちゃん」の巧さ!そして首を吊った玲を助けに入るのが一成ではなく、想いが離れつつある広樹である所なんかも巧いなぁと思ってしまった。人物配置と小道具の使い方が非常に巧く、何一つ不自然さが無い。
そして玲と一成の鏡池でのキスシーンの官能的な事!泥にまみれた二人の指が絡まるところは二人の止まらない愛情の激しさが行間から匂い立つようだった。

これほどまでに構成がしっかりしているのに、結末をああいう形で終わらす事に実は私自身、戸惑いを感じているのだ。これこそこの作者の資質なんだろうが、個人的には余計な味付けだと思った。レストランに食事に行き、おいしい料理を堪能した後で、最後に出てきたデザートが陳腐だった、そんな感じがするのである。やはりここはあるべきところに収まって欲しかったなぁ。残念。
あと最後に1つ。人が首吊り自殺した縄を腰に巻くと陣痛が軽くなるというエピソードが作中出てくるのだが、これは本当なのだろうか?もし嘘だとしたら、死と生を弄ぶがごときこの作者の想像力は恐ろしい。

蛇鏡 (文春文庫)
坂東眞砂子蛇鏡 についてのレビュー
No.587:
(9pt)

人もまた獣

高知の山村、尾峰で和紙職人として暮らす坊之宮美希は41歳にもなるのに、独身だった。彼女にはかつて高校の時に妊娠し、産んだ赤子を死なす辛い経験をしており、それ以来、恋愛や結婚とは無縁の生活を送っていた。
そんな中、隣村の中学校に教師として赴任してきた奴田村晃という青年が美希の前に姿を現す。10以上も歳の離れた二人だったが、似たような孤独感を抱いており、やがて激しい恋の炎が燃え上がる。
しかし、それは「狗神筋」と呼ばれる坊之宮一族が今まで保ってきた村の平穏を打ち破る悪夢の始まりでもあった。

なんとも業の深い物語である。前作『死国』と同じく作者の故郷、高知の山村、尾峰という閉じられた空間を舞台に、昔ながらの風習が息づき、「狗神」を守る坊之宮家とそれらに畏怖の念を抱く村の人々の微妙な関係をしっかりした文体で描いている。
前作『死国』でも感じた日本の田舎の土の匂いまでも感じさせる文章力はさらに磨きがかかっていると感じた。後に『山妣』で直木賞を獲るその片鱗は十分に感じられた。
そして今回は物語の語り方が『死国』よりも数段に上達したように感じた。

まず主人公の美希の人物造形である。この41歳の薄幸の美人の境遇に同情せざるを得ないような形で物語は進んでいくのだが、次第に明かされていく美希の過去のすさまじさには読者の道徳観念を揺さぶられる事、間違いないだろう。
結婚を諦めざるを得ない原因となった高校時代での妊娠。しかしその相手が従兄である隆直だという事実。そしてその隆直が実の兄だったという三段構えで、この美希の業の深さをつまびらかにしていく。

その他にも、物語の前半で美希の人と成りを彩る色んな小道具が、実は美希の業の深さを知らしめるガジェットであることを知らされる。特に美希が毎日手を合わせる地蔵の真相には胸の深い所を抉られる思いがした。この坂東眞砂子という作家は、人間が正視したくない心の奥底に潜む悪意というものを眼前に突き出すのが非常に上手い。「これが人間なのだ」と決して声高にではなく、静かに読者に語りかける。云うなれば、そう、人間が獣の一種なのだという事実、獣が持つ残忍さを秘めている事を改めて思い知らされる、そんな感じがした。

そして坂東眞砂子氏の文学的素養というのも今回確認できた。
まず美希が晃と山中での雨宿りの最中に初めて交わるシーン。これは歴代の日本純文学から継承される恋愛シーンの王道だろう。三島由紀夫氏の『潮騒』を思い出してしまった。

私自身が一番好きなのは晃が美希と結婚することを決意した際に、不審な目で二人を見つめる村人の視線に真っ向から対峙したときに美希が晃を頼もしく思うシーンだ。これは私が結婚を決意する時の心情に似ていたからだ。
「もし世界中の人が俺の敵になっても、こいつだけが俺の味方だったら、それで十分だ」
この思いと等価だからだ。これはストレートに我が胸に響いた。
他にも美希に対しては住みよいとは云い難い尾峰を、美希が好きだというところの台詞、
「ここにおったら・・・、空に飛びだせそうな気がするき」
なんていうのも胸に響いた。

前作『死国』では物語のメインテーマ「逆打ち」を中心に色んな人々が状況に取り込まれていく様を描く、いわゆるモジュラー型の構成を取っているのに対し、今回は美希からの視点のみでしかも尾峰で起こることのみを語っている。このような構成上、前作よりも単調になりがちだと思うのだが、全く物語がだれることなく、終末へ収束していく。全く退屈する事が無かった。
それは前にも書いたように、手品師が一枚一枚、布を捲りながら種明しをするように、徐々に事実を明かしていくその手法によるところが大きい。この構成からも坂東眞砂子氏が格段に進歩したのが如実に解る。
構成といい、文章といい、もっと評価されてもいいのだが、子猫を殺すなんていうスキャンダルのせいで変なところで話題になった作家である。実に勿体無い話だ。


▼以下、ネタバレ感想
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狗神 (角川文庫)
坂東眞砂子狗神 についてのレビュー