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Tetchy さんのレビュー一覧
Tetchyさんのページへレビュー数1418件
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早川書房におけるチャンドラーの本邦未発表の作品を含めた全短編を、時系列に纏め、全て新訳で編纂された短編集も本作で最終巻。
最終巻の本書は前3集に比べて、もっともバラエティに富んだものとなった。 通常のハードボイルド系ミステリがメインなのは違いないが、それに加え、エッセイ、そして奇妙な味の短編2編に最後は映画用のプロット1編となっている。 下品な云い方をすれば最後の巻なので、チャンドラーが書いた物を余すことなく寄せ集めた雑編集本とも云えるが、3集目において同じような話の繰り返しにいささか辟易としていたので、逆に新鮮だった。 さて通常のハードボイルド系ミステリは表題作、「待っている」、「山には犯罪なし」、「マーロウ最後の事件」、「イギリスの夏」の5編。 表題作「トラブル・イズ・マイ・ビジネス」はフィリップ・マーロウが主人公。 けっこう散文的な内容。しかし、依頼を受けて最初に訪れたところに死体があるっていうのはもはやチャンドラーの物語のセオリーのようになってきている。殺す対象が違うような感じもし、犯人の動機もちょっと説得力に欠ける。 ただ出てくる登場人物が全て特徴的。最初のアンナからジーター、アーボガスト、ハリエットにフリスキーとワックスノーズの悪党コンビ。そしてマーティー・エステルと、一癖も二癖もある人物が勢ぞろいだ。この作品からプロットよりも雰囲気を重視しだしたのかもしれない。 次の「待っている」はホテル探偵トニー・リセックが主人公でちょっと変わった雰囲気の作品だ。 一夜の出来事。それぞれの人物が何かを待っている物語。静かな夜に流れるラジオの音楽など、ムードは満点。限られた空間で起こる一夜の悲劇。それはトニーをこの上なくやるせない気持ちにさせる。その夜、トニーは兄を失ったが、代わりに何かを得たのか?それは解らない。 「山には犯罪なし」の主人公はLAの探偵ジョン・エヴァンズ。フレッド・レイシーなる男から送られた小切手同封の仕事の依頼の手紙から、ある山の保養地で秘密裏に行われている一大偽札事件に巻き込まれるという話。 もう典型的なチャンドラー・ハードボイルド・ストーリー。今まで読んできた短編と展開は同じく、探偵は右往左往と迷走しつつ、事件の本質に辿り着く。違いといえば、偽札に関する事件がナチスの隠し資金の生産という規模の大きな犯罪に至るところか。 とはいえ、最後の結末はなんなのだろうか?凡人の私には理解の出来ない結末だし、それゆえ、失望させられた。 一つ含蓄溢れた台詞があったので、ここに抜き出しておく。 「主人はあまりにも秘密を持ちすぎます。女性のまわりで秘密を持ちすぎるのは間違いです。」 実は今まで語られた短編で出てくるマーロウは初出時は別の主人公であり、純粋にレイモンド・チャンドラーがマーロウを最初から主人公にした短編はこの「マーロウ最後の事件」のみとの事。内容はまさしく満を持してマーロウを投入しただけのある作品となっている。 このシリーズでずっとチャンドラーの短編を読んできたが、ここに至って、ようやくマーロウ登場と思わせる短編に出会えた気がする。ここにいるマーロウこそ、チャンドラーが「むだのない殺しの美学」で最後に述べた理想の探偵象なのだ。女に優しく、惚れもするが、プライドを賭けて中途半端な真似はしない。気に入った依頼人の仕事は命に関わる事だろうが、やりぬく。 そして最後に明かされる真相もなかなかで、しかも今回マーロウの手助けをするアン・リアードンの造形は行間から色気が匂い立つようだ。実はこれ、以前アンソロジーで読んでいるのだが、恥ずかしながら設定のみは覚えていたものの、結末は失念していた。しかもその時感じた感想はほとんど上で述べたのとほとんど同じだ。 しかし、そのアンソロジーではアイキー・ローゼンシュタインはなんとイッキー・ロッセンとなっているのが、疑問。 そしてその時にも感じた不具合な邦題。原題の通り「The Pencil」に即した邦題の方がいいだろう。ちょっと過大広告すぎる。 今回初めて読む「イギリスの夏」は正確にはハードボイルド系ミステリとは呼べないかもしれない。イギリスの田舎町を訪れたアメリカ人が遭遇する愛憎の末のある頽廃的な悲劇を扱っている。 印象はハーレクインのような小説。イギリスの田舎の退屈で退廃した感じの雰囲気の中、全ての登場人物が没落していく。閉じられた社会に限られた人間同士。そこでは微妙な均衡で人間関係を保っているが、一度崩れるとそれは破局に向かう。そこに紛れた異邦人ジョン。彼のイギリスで出くわす一種悪夢めいたひと夏の出来事だ。 今回の短編集で異色なのはチャンドラーが次の2編のような「奇妙な味」とも云える幻想小説が収録されていた事だ。ともに再読なのだが、実は読んだのは学生の頃でもう十数年前。すっかり内容は忘れてしまっていた。 まず「青銅の扉」。 これは夫婦仲の悪いうだつの上がらない亭主が散歩中、出くわした馬車に連れられ、ある骨董商の競売に参加し、そこで青銅の扉を手に入れるところから物語は始まる。この重厚な扉は実は時空の狭間とも云うべき無の空間に繋がる扉で、主人公がこの扉で気に食わない人間を次々に消してしまうという話だ。 もう1篇「ビンゴ教授の嗅ぎ薬」はその題名から本格ミステリを想起させるが違う。 これもうだつの上がらない亭主が主人公で、彼がビンゴ教授と名乗る奇妙な紳士から、嗅ぐと透明になるという嗅ぎ薬を手に入れる話。その透明になる薬を利用して妻の浮気相手を殺すのだが、そこから通常の透明人間譚とは違った全く予想外の展開を成す。 つまりチャンドラーは警察というのは本格ミステリに描かれるようにおバカではなく、そう簡単に容疑者を信じたりするものではない、あくまで問い詰め、とことんまで追い詰めるのだ。そして自説が間違っている事に気づいても決してそれを認めないのだというアンチテーゼを示したのだとも考えられる。密室殺人とファンタジー風味の透明になれる薬をチャンドラーがブレンドするとこんな話になるのだ。 次はプロットを1編。最後に収められた「バックファイア」は本邦初紹介の作品だ。妻を殺された男が知らず知らずに妻を殺した犯人と友情を築く話。そして男が妻殺害の容疑者を知ると・・・。 こういう設定はなかなか面白いと思う。ちなみにこの作品は買い手がつかなかったらしいが、それはそれで疑問に思う。 さて最後はエッセイ「むだのない殺しの美学」と「序文」。 「序文」はまさにある短編集に収められた序文なので、ここではあえて触れない。というよりも何もここまで収録しなくても・・・というのが正直な感想。ここまで収録するならば、チャンドラーが諸々の作家の作品に書いた解説も収録すべきだろう。あるかどうかは知らないが。 さて元に戻って「むだのない殺しの美学」だが、これはチャンドラーが探偵小説に関する自らの考察を述べた一種の評論。論中で古典的名作を評されているA・A・ミルンの『赤い館の秘密』、ベントリーの『トレント最後の事件』、その他作家名のみ挙げた諸作についてリアリティに欠けるという痛烈な批判をかましている。 その前段に書かれている「厳しい言葉をならべるが、ぎくりとしないでほしい。たかが言葉なのだから。」という一文はあまりにも有名。 本論では探偵(推理)小説とよく比較される純文学・普通小説を本格小説と表現している。そしてこの時代においては探偵小説は出版社としてはあまり売れない商品だと述べられており、ミステリの諸作がベストセラーランキングに上がる昨今の状況を鑑みると隔世の感がある。 チャンドラーはこの論の中で、フォーマットも変わらぬ、毎度同じような内容でタイトルと探偵のキャラクターである一定の売り上げを出す凡作について嘆かわしいと語っている。しかし私にしてみれば、チャンドラーの作品もフォーマットは変わらず、探偵や設定、そして微妙に犯行内容が違うだけと感じるので、あまり人のことは云えないのでは?と思ってしまう。 またセイヤーズの意見に関して同意を示しているのが興味深い。その中でチャンドラーは傑作という物は決して奇を衒ったもの、人智を超えたアイデアであるとは限らず、同じような題材・設定をどのように書くかによると述べている。これは私も最近、しばしば感じることで、ミステリとはアイデアではなく、書き方なのだと考えが一致していることが興味深かった。 最後に締めくくられるのは魅力のある主人公を設定すれば、それは芸術足りえる物になるという主張だ。そこに書かれる魅力ある主人公の設定はフィリップ・マーロウその人を表している。その是非については異論があろうが、間違いなくチャンドラーはアメリカ文学において偉大なる功績を残し、彼の作品が聖典の1つとなっていることから、これも文学の高みを目指した1人の作家の主義だと受け入れられる。つまり本作は最終的にはチャンドラーの小説作法について述べられているというわけだ。 ようやくチャンドラー短編集もこれで終わり。去りがたいというよりもやっと終わったかという一種の徒労感がある。 2集目までは十数年ぶりのチャンドラー作品との再会を喜び、悦に浸っていたが、3集目まで来ると、なんだか同じような話を何度も読まされた感を払拭できず、辟易した。 で、この4集目は長編『大いなる眠り』以後ということで、若干ワンパターンが改善されたように感じた。以前は見られなかった「青銅の扉」、「ビンゴ教授の嗅ぎ薬」なる探偵に拘泥しない奇妙な短編も創作されているし、そしてやはり「マーロウ最後の事件」は全短編の中で随一の出来映えだ。 しかし、今までの全短編を含めて、総じてその難解なストーリー展開は結構苦痛を強いると思う。好きでないとなかなか浸れないだろう。そしてこの心境の変化に私自身、正直驚いてもいる。 文章は確かに素晴らしい。数ある文学者の中でもそれは至高の位置にあるだろう。しかしストーリーを語るのが上手いかと云われれば、イエスとは云い難い。もちろんクイクイ読めて、叙情豊か且つ爽快感をもたらす作品もいくつかある。しかし、展開はバリエーションに乏しい。これがチャンドラーの弱点だと思う。 あの頃の記憶は美しいままの方が良かったのかと思うが、今の年齢でチャンドラーを読みたかったという気持ちがあった。これがまた十数年後に読むと心持ちも変わるのだろうか? ▼以下、ネタバレ感想 |
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薬師寺涼子の怪奇事件簿シリーズ第5弾。第3作目の『巴里・妖都変』以来、もはや薬師寺涼子のパワーは日本では収まらないと見えて舞台を海外に設定する事になったが、本作ではカナダはバンクーバーが舞台となっている。
パリ、香港と来て、意外や意外、バンクーバーなのかというのが正直な感想。世界の主要都市といえば他にニューヨーク、ロンドン、シドニー、ベルリンなど他にもあるのに、なぜこの国?と思ってしまった。 ということで今回の敵は黒蜘蛛。もうハリウッドのB級ホラー映画なみの設定である。そしてそれは作者も自覚的で、グレゴリー・キャノン一世が往年のB級ホラー作プロデューサーでカルト的人気を誇る設定を用意し、なおかつ作中作で一本のホラー映画のシナリオを展開し、それが設定に大いに絡んでくるといった内容だ。 そして今回も薬師寺涼子の無敵ぶり、傍若無人ぶりは健在。というよりも以前にも増して拍車が掛かっている。ここまで来るともう涼子は単に運動神経抜群、才気に溢れ、更に超絶美人というありがちなキャラクターからさらに一歩抜きん出た存在となり、リアリティ云々を超越したキャラクターとなっている。 そして涼子の周囲を取り巻く連中も更にキャラクターに魅力を伴ってきた。涼子の天敵でメガネ美人の室町由紀子。その部下でオタクキャリアの岸本警部補。涼子の従者かつ戦闘員であるメイド、マリアンヌとリュシアンヌなど、オタクが萌える要素がどんどん投入され、ライトノベルの王道を闊歩していくようだ。実際、オタクたちにとってこのシリーズはどのような受け取られ方をしているのだろうか? 今回涼子が敵地に乗り込むのに扮したコスチュームはぴったりとした漆黒のボディスーツにマントとなんとアイマスク!これを読んで、私は『ヤッターマン』のドロンジョ様を思い浮かべてしまった。う~ん、どうしたんだろう、田中芳樹氏。 しかし、冒頭で話した今回の舞台バンクーバーならではという設定、ストーリーの妙味というのは無かった。今回ハリウッドの超大物プロデューサーを敵役に設定し、舞台を黒蜘蛛島という架空の島に設定した事から必然的に決まったような節がある。ここら辺が残念だ。 ともあれ、第5作もその破天荒ぶりは健在。ただシリーズも第5作を迎えると転機が欲しくなる。泉田がピンチになるとか、涼子のオーナー会社が乗っ取りに遭うとか、無敵のお涼の根幹を揺るがし、冷や汗をかかせるような話を用意してほしい。 でも田中氏はどうもこの作品でストレスを解消しているようなので、良くも悪くもマンネリできっとこのまま行くんだろうな。 |
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チャンドラー新訳短編集第3集。今回は長編『湖中の女』の原形となった短編の表題作が初読の作品。もっとも題名もそのままで、本作では原題そのまま。
まず最初はマーロウ登場の「赤い風」。本作ではマーロウはこの作品のみの登場だ。 後で述べる他の作品と違い、本作での特色はマーロウ自身が自ら事件に乗り出す趣向を取っている。発端はバーでいきなり殺人事件に巻き込まれるが、それ以降は自ら渦中の女を助け、その女に手を貸すといった具合だ。 マーロウの視点で語る本作も、プロットは複雑な様相で物語が流れる。物語の終盤、マーロウの口から語られる事件の顛末は実にシンプルな物であることが解り、チャンドラーのストーリーテリングの妙味がはっきりとわかる。 女のために金にもならない危険を冒すところに他の探偵とは一線を画す設定がある。 次の「黄色いキング」ではホテルで用心棒をやっているスティーヴ・グレイスが主人公。 スティーヴの設定はタフで、女にもてると典型的なハードボイルド・ヒーローといったところ。この一作ではまださしたる特徴があるようには思えなかった。 そしてレオパーディ殺害の真相は、ちょっとアンフェア。まあ、本格推理物ではないので良しとするか。もうちょっと何かがほしかった。レオパーディの造形は良かったが、ちょっと物足りない。 ただ1つ印象に残った文章があった。 「(スパニッシュ・バンドが低く奏でる蠱惑的なメロディは、)音楽というより、思い出に近い」 音楽に関して時折感じる感傷的なムードをこれほど的確に表した表現を私は知らない。どう逆立ちしても思いつかない文章だ。 さて続く2編は短編「スマートアレック・キル」と「翡翠」に登場した探偵ジョン・ダルマスが主人公。 「ベイシティ・ブルース」、「レディ・イン・ザ・レイク」共に、ロサンジェルスで探偵稼業を営むジョニー・ダルマスの許にロスの保安官ヴァイオレッツ・マッギーから依頼の電話が掛かる形で物語は始まる。 まず前者はマッギー知り合いの探偵マトスンを助ける依頼。 後者はハワード・メルトンという化粧品会社支社長の失踪した妻の捜索が依頼。 「ベイシティ・ブルース」は最後に明かされる意外な犯人、複雑ながらもすっきりとする事件の構成など、完成度がかなり高い作品だ。 逆に「レディ・イン・ザ・レイク」は定型を脱していない感じ。 前者と後者でのダルマスの印象はけっこう違う。以前はダルマスもマーロウの原形のように感じていたが、「ベイシティ・ブルース」では減らず口と窮地を脱するのに他人に成りすましてドジを踏むところ、腕っぷしもさほど強くないところなど、若さが目立ち、ちょっと別の探偵という感じがした。 翻って「レディ・イン・ザ・レイク」では、むしろマーロウに近いといった印象。唯一異なるのはあくまでマーロウが己の教義のために依頼を果たすのに対し、ダルマスは仕事の最中に依頼人に金を吊り上げるよう要求したりするように金に卑しいところか。 さて最後は「真珠は困りもの」。遊蕩探偵?ウォルター・ゲイジが主人公。 実は本短編集ではこれが一番面白かった。恐らく親の遺産で悠々自適に暮らしているウォルター・ゲイジが婚約者の依頼で探偵を務める話。 このウォルターが坊ちゃんで、自意識過剰、自信家なところが他のチャンドラーの主人公と大いに違い、逆に他の短編に比べて特色が出た。特にウォルターがいきなり盗難の犯人と目したヘンリーに真珠が模造である事を話すところなど素人丸出しで、チャンドラーが他の探偵とウォルターをきちんと書き分けていることがよく解る。 最後の清々しい幕切れといい、本作でのベスト。 本短編集で特徴的なのは主人公を務める探偵を食ってしまうようなバイプレイヤーがいることだろう。 まず「赤い風」は終盤に俄然存在感を増すイタリア系刑事のイバーラが非常にカッコイイ。この作品の影の主役と云えるだろう。全然動じないその物腰と肝の据わった態度はマーロウをまだ駆け出しの探偵のようにあしらう。そうこの作品のマーロウはまだ若きフィリップなのだ。このイバーラ、確か他の作品では見なかったように記憶しているが、たった一編の短編で終えるには実に惜しいキャラクターである。 また「ベイシティ・ブルース」では後半事件に関わってくるド・スペインのタフガイぶりが際立っており、ダルマスが食われた感じがした。特に上昇志向が強く、降格された恨みから犯罪まで犯すド・スペインのキャラクターの濃さは本短編集でも異彩を放つ。 そして「レディ・イン・ザ・レイク」では引退した保安官ティンチフィールドが物語に渋さをもたらす。事件の中を模索するダルマスに的確なアドヴァイスを与える老練な男だ。 そして「真珠は困りもの」では途中で仲間になるヘンリー・アイケルバーガーがまた素晴らしいキャラクター。強面で威丈夫の大男。腕に自信のあるウォルターを一蹴しながらも、協力を申し出る好漢だ。大鹿マロイといい、その原形であろう「キラー・イン・ザ・レイン」のドラヴェック、「トライ・ザ・ガール」のスティーヴ・スカラなどチャンドラーの描く大男キャラクターは総じて魅力的な輩ばかりである。チャンドラー自身、これらのモデルになった優しき大男との交流があったのかもしれない。 さて冒頭に述べたように短編集も3冊目。前短編集『トライ・ザ・ガール』の感想では、毎度同じような展開ながらも飽きずに読めると書いていたが、さすがにチャンドラーといえどもこれだけ似たような話を読まされると、疲れてきた。 曰く、事の発端→トラブル発生→死体と遭遇→関係者の間を渡り歩く→真相解明→乱闘シーンで死者が出る、とほとんどこのパターン。 細部の演出は異なるが、話の流れは全てこの流れで進められるため、読後の今振り返ってもどれがどんな話だったのか、ちょっと混在してしまう。 ここにいたって思うにチャンドラーはストーリーテラーとしてはあまりヴァリエーションを持っていなかったようだ。ストーリーの流れは常に定型を守り、そこに女や無頼漢、タフガイを絡め、物語に味付けを施すといった感じだ。そしてそれらキャラクターが途轍もない光彩を放つ時、傑作が生まれるのだろう。『さらば愛しき女よ』然り、『長いお別れ』然り、『大いなる眠り』然り。 最初の頃に見られた卑しき街をしたたかに生きる者どもの姿がここにいたって定型に落ち着いてきているのが、非常に辛いところ。今回の作品群には今までの短編に見られた叙情が薄まっているようだ。技巧で書いているような気がした。調べてみると本作までの短編が第1長編『大いなる眠り』以前に書かれた物らしい。このころおそらく短編に限界を感じたのかもしれない。次々と浮かぶプロットは複雑さを増すが枚数の限られた短編ではある程度妥協点を見出さなければならない。だからこそ長編へと創作姿勢が移行していったのではないだろうか。 今回はほとんどが典型的な話だったので、☆5つぐらいだなぁと思っていたが最後の「真珠は困りもの」が思わぬ拾い物だった。 よってかろうじて☆7つとしよう。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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レナードの手による歴史小説。スペイン支配下にある1900年直前のキューバを舞台となっている。
時代的にはアメリカがスペインからの支配から脱却しようとしている反政府軍を支援し、キューバの独立戦争勃発の前後を描いている。 まず気になったのはタイトル。キューバ・リブレとはカクテルの名前で、洒落た題名をつけるレナードが今回キューバを舞台にした小説を書いたので、単純にその名前をタイトルに関したのかと思ったら、さにあらず。その意味は「キューバ自由万歳」であり、テーマとなったキューバ独立戦争において反政府軍のスローガンともなった言葉だった。 しかしレナードが現代ではなく、古き時代を舞台に小説を書くとはなんて珍しいのだろう。知っている限りでは未訳の西部小説以外ではアメリカの禁酒法時代を舞台にした『ムーンシャイン・ウォー』ぐらいだ。 今回の主人公はベン・タイラー。昔ハバナで叔父が製糖工場を経営しており、それが街の有力者に搾取され、ニューオーリーンズに移り住んで、カウボーイをやっていた。過去に銀行強盗をして、刑務所暮らしをした経験がある度胸の据わった人物だ。 人も殺した事もないのに、早撃ちのガンマンである。物語は彼がキューバに自分の馬を売りに行くところから始まる。 このタイラーの後の恋人となるアメリア・ブラウン、そしてタイラーの取引相手ブドローの家僕フエンテス3人が一計を案じてブドローから大金をせしめようとするのが本書の大きな内容。 しかしそこに関わるのはグアルディア・シビルの大佐、ライオネル・タバレラと彼の手先で逃亡奴隷捕獲の名人オスマ。そしてハバナで幅を効かしているアメリカ人富豪ブドローだ。 さらにサブキャラクターとして爆沈したアメリカ軍戦艦“メイン”の生き残った乗組員でタバレラの策略で刑務所に入れられてしまうヴァージル・ウェブスター、キューバ独立派のリーダーでフエンテスの弟イスレロなども関わってくる。 レナードの物語の特徴として先の読めない展開と各登場人物たちの軽妙洒脱な会話。悪人なのにどこか憎めない奴らといった際立ったキャラクター造形が挙げられるが、今回はいつもの作品と違い、なんとも大人しい感じがした。特に軽妙洒脱な会話と、憎めない悪人どもといった部分が成りを潜め、どこか単調な感じがした。 先の読めない展開については健在。まさかフエンテスがあんな事をするなんて思わなかったし、タバレラの最期についても、ああいう形で終わるとは思わなかった。そしてそれらを許してしまう主人公二人の寛容さ。これはレナードの特有の明るさだろう。 今回は特にスペイン人将校を正当防衛で射殺してから入れられるタイラーのムショ生活についての内容が長く、その間ずっとアメリアとフエンテスのタイラー救出工作について延々と語られるあたりで物語のリズムが狂ったように思う。ここはもう少しすんなり行ってほしかった。 というのも目にも止まらぬ早撃ちで鮮やかに鼻持ちならぬスペイン人将校を撃ち殺してから、このベン・タイラーのキャラクター性が際立ってくるのだが、そこから一気に抑圧された刑務所生活、タバレラによる陰湿な尋問の描写が延々140ページに渡って繰り広げられるのだ。これはなかなか忍耐を強いられる読書だった。 確かにこの箇所において漠としたアメリアの、タイラーへの好意が確証されていくし、ヴァージルとタイラーとの友情も確立されていくのだから、重要なパートであるのは間違いないが、ちょっと冗長すぎるという感じがした。これも当時のキューバの不条理さを印象付けたかったのかもしれない。 そしてようやくタイラーは脱獄し、本書でのクライマックスシーンとも云える列車からの身代金強奪へと移っていく。4万ドルという大金を中心にそれぞれの人物がそれぞれの思惑を張り巡らす。金によって人が右往左往し、思いもかけない行動に出るというのはレナードの終始一貫としたテーマなのだろう。本書においてもそうである。特にこの4万ドルの行く末は本当に意外な人物の手中に収まるのだから。 しかし、そんな活劇シーンがあっても、今回のレナードはなんだか大人しいなぁという印象が拭えない。 そして物語後半になってようやく登場する奴隷狩りのプロ、オスマ。こいつこそタイラー最大のライバルと成りえるキャラクターだったのだが、2回も行われる対決シーンはなんとも呆気ないもの。これもちょっと残念。 思えばレナードの主人公の敵役といえば、だいたいボスを倒して成り上がろうとするマフィアの手先とか殺し屋、しかもちょっと変わった趣味や性癖を持つ者で憎めない奴ら。しかし今回は悪徳役人とはいうものの、国側の人間だった事もちょっといつもと違う。だから今回のタバレラはいつもにも増して陰湿な人物像になったのかもしれない。 若島正氏によればレナードの各作品は微妙にリンクしており、しかもそれぞれの登場人物にきちんと時間が流れており、また血縁関係までもが確立されているとのこと。ミステリマガジン誌上で詳細に分析が成されていたが、本書においてもそれは例に洩れていないだろう。 私が気付いたのはタイラーのかつて雇い主デイナ・ムーンという名前。おそらくこれは『ビー・クール』に出てくる歌姫リンダ・ムーンのご先祖様ではないだろうか(いや、待てよ。リンダ・ムーンも本名ではなく、誰かからムーンの姓を拝借したんだっけ?)?手元にないのでそれ以外の人物相関については不明だが、時間が出来た時に誌面を紐解いて調べてみるのもまた一興だろう。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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今度の題材は劇場型猟奇的連続殺人事件。ギリシア神話に出てくる怪物をモチーフにした見立て殺人事件。
そして主人公の刑事深町のアドバイザー役として、かつてハリウッドで活躍した日本人怪優、団精二という人物を設定している。 団精二。この作品では日本人のイメージを覆す怪演でアメリカ映画界の人々に記憶を残し、俳優業に留まらず、前衛的な映画や演劇の創作を精力的に行うが、その内容のあまりの過激さに日本ではタブー視され、黙殺され続けた男、そして同性愛者でもある彼が、“恋人”の殺人事件の容疑者として逮捕されて以後、第一線から退いたと描かれている。この設定を見ると、すぐに思い浮かぶのがトマス・ハリスの『羊たちの沈黙』のハンニバル・レクター博士だろう。 ストーリーは深町の捜査線上に次々と現れる斬られた頭部を内臓をほじくり出された胴体に埋め込んだ死体が各所に現れる有様と、深町と団との間に繰り広げられる推理、そして茅野美智子が招待されたパーティ、つまり殺人事件場面の3つの場面が並行して語られる。特に物語を彩るのが団と深町との間で交わされる推理談義における、ギリシア神話の数々。そして章題もまたギリシア神話をモチーフにしている。 そして明かされる事件の真相はなかなかなもの。今までの彼の作品では一番の物ではないか。しかし明かされる真相全てではなく、やはりこの猟奇殺人の動機だろう。特に“なぜ犯人は死体の首を斬り、胴体に嵌めて処理したのか?”の真相について、思わず「おおっ」と声を挙げてしまった。 この動機についてはもしかしたら鋭い人は気付くかもしれない。しかし私はこの作者の読みにくい文章に目眩ましを食らい、もろに嵌ってしまった。 なかなか戦慄を覚えた。一番恐れていたこういう猟奇的犯行の動機、死体細工の動機がこのように驚きを持って明かされて、ほっとしたというのが正直な感想。 とはいえ、疑問が残ることも結構ある。 犯人は時間をかけて死体をばら撒いているが、これは本当に必要だったのか? それから連想していくと、なぜ犯人は犯行現場から逃げ出さなかったのだろうかという疑問に行き当たる。 そんなことを考えたら、この物語は成り立たないよ、という人もいるかもしれないが、そこまで補完してこその本格ミステリだ。同じ劇場型猟奇的犯罪を扱った島田荘司氏の『占星術殺人事件』がその好例だ。 また前の作品の感想でも述べているが、この作者の云い回しは非常に理解がしにくく、突然の場面描写の変化に突っかかる事しきり。なぜこうも解りにくいのかと考えると、視点が急に変るからだ。例えば、相手と正面を向いて話している視点が、いきなり相手の背中から自分を見ている視点に変る、また主人公に起こった事をその主人公の主観に基づいて描くので、登場人物同様、読者にもいきなり何が起こったのかが解らなくなる。2番目については何がおかしいのか解らないと思うから例を挙げてみよう。 例えば、街をぶらついている男がいきなり開いたマンホールに落ちてしまうシーン。 タケシは少し時間があったので銀座をうろつくことにした。 特に目的はなく、ウィンドー・ショッピングで店を冷やかしていると、余所見をしていた彼は眼の前のマンホールの蓋が開いている事にも気づかず、そのまま落ちてしまった。 これをこの作者風に書くと、 タケシは少し時間があったので銀座をうろつくことにした。 特に目的はなく、ウィンドー・ショッピングで店を冷やかしていたが、次の刹那、気付いてみると、周囲は真っ暗だった。 周囲には饐えた臭いが立ち込み、臀部には鋭い痛みがあった。ふと顔を見上げるとそこには丸い形に空が刳り抜かれていた。 タケシは落ちたマンホールの底で恥ずかしげに周囲を見回した。誰もいるはずがないのに。 とこんな具合だ。これくらいだったらまだましだが、数行に渡って、いきなりの場面転換について叙述され、「な、何!?」と疑問符付で読み進むうち、ああ、こういうことだったのかとようやく解るのだ。別段、他の作家も使うのだろうが、普通ならそれはアクセントとして、読者の興味を一層惹きつけたい場面でのこと。この作者の場合は普通に読むべきところで方々あるのだから、突っかかって仕方がなかった。 そして最後の結末の呆気なさ。しかしなんとも読み甲斐のない結末だ。 これで奥田作品は最後。やはり消えゆく作家はそういう運命にあったのだと知らされた。“化ける”作家とそうでない作家の違いはほんの紙一重なんだろうけど、この作品で化けきれなかった奥田氏の浅さを見てしまった。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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現在も続くススキノ探偵シリーズの第1弾。そしてこれが作家東直己氏のデビュー作である。
一読後の率直な感想としては若書きの三文芝居のようだというのが本音。 まず主人公が28歳という設定に微妙なずれを感じた。私の28歳像はようやく社会の仕組という物が解り始めたばかりの青二才である。大学を中退し、早くから飲み屋街を根城に、色んなトラブルを片付ける便利屋稼業で糧を得ている俺が、いくら世間の風にすでに揉まれていたとしても、ヤクザにも一目置かれるような存在になるとは思えない。 確かに時代はまだソープランドがトルコ風呂という名前だった昭和50年代後半か昭和60年あたりだろうか。確かにその頃の若者は今の平成の世のそれと違い、精神年齢も高く、成熟していたかもしれないが、ちょっと想像つかない。 それは作中に語られる妙に時代がかった風俗描写も、私が作品世界から隔絶されているように感じたからかもしれない。 ヤクザの着る物について、ゴルフ・ウェア、白ベルト、ローファー、ファスナーで締める厚手のカーディガン。スケタン、ナハナハナハという笑い声。今ではもう想像できる人がいるか解らないファッションや、流行語・俗語が古き良き時代のハードボイルドというよりも、その時代でしか楽しめない風俗小説といった色合いを濃く感じさせ、古びた感じを抱かせる。 そして確かに主人公<俺>は若い。一人称描写で初めから終わりまで語られる文章に織り込まれる<俺>の皮肉や自嘲めいた台詞が、非常に青臭く感じた。時にマンガで行われるような表現を文章で行う事もあり(例えば頭の中でふざけた俺と冷静な俺、さらに熱血な俺が出てきて言い争いをするシーン)、なんか勘違いしていないか?と思うことが多々あった。 タイトル『探偵はバーにいる』がまずいけなかったのだと思う。このタイトルだと主人公は、酒を片手に周囲の友人や街の弱者のトラブルを片付ける、酸いも甘いも知った30代後半の男を想像してしまう。 しかし東氏が設定した主人公は最近大学を中退したアル中の男で、やっていることは単なるチンピラの小遣い稼ぎと変りはしないという物。おまけに常に斜に構える、減らず口を叩くのだけは一人前。夜の街を徘徊するから友達には事欠かない、といったちょっと相容れない人物なのだ。 単純に云って、私と<俺>は合わないのだ。 あと文体。ススキノの夜を一生懸命に生きる底辺層の人々を描きつつ、時折、<俺>の社会の落伍者に同情する感傷を挟むことで男のペシミズムを語りながら、なおかつ軽妙洒脱さを狙ったのだろう。 小説には極上の旨みを感じさせる美文、しっとりとした質感などの綺麗な文章も大事だが、やはり外連味も必要である。しかし、この小説は外連味しかない。だから非常に俗っぽくて情緒が感じられなかった。なんだか風俗ルポを読んでいるような気がした。これもハードボイルドを読むと期待しただけに一層居心地の悪さを感じた。 北海道最大の繁華街ススキノ。そこを舞台にし、その街とそこに住む人を描こうとした趣向は買うが、ちょっと変に力が入りすぎたようだ。 そして肝心の事件だが、大学の後輩の失踪した恋人捜しから、ラブホテルで起きた殺人事件の犯人捜し、そしてススキノの夜の天使の捜索へと移りいく。これらのプロットはそれぞれがきちんと関連しており、淀みは無い。ただもうちょっと何か欲しかった。サプライズもそうだが、心に響く何かが・・・。軽めの文章だっただけに印象も軽くなってしまった。 とまあ、第1作の印象は非常に悪く、正直このまま読むのを躊躇ってしまいそうだ。しかし現在も続くこのシリーズ、人気があるのだろうから、その後何かが変ったのかもしれない。ちょっと間を置いて、第2作も読んでみるか。 |
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国名シリーズ第2作。読了直後、正直戸惑っている。
今回、エラリー・クイーンがやりたかったのは最後の一行で犯人が判明する趣向だろう。したがって、50ページ強にも渡り、得られた手掛かりから推理した事件の経緯が延々と語られる。エラリーは「演繹に演繹を重ね」と述べているが、どちらかといえば「帰納法に帰納法を重ね」だろう。 というのも推理方法は散りばめられた数々の事実を基に、何が起こったのかを再現しているのであり、しかもそれが最後にクイーン警視が述べるように「法的証拠はな」く、「山勘があたった」だけなのだから。二つの関連する真実から新たな真実を生み出す演繹法とは全く違う方法だ。なぜなら演繹法によって得た真実には矛盾や例外が存在しないからだ。 つまりこれこそエラリーが演繹法で推理したわけでなく、帰納法及び消去法で推理した事の証左だ(ほとんど全ての本格推理小説は帰納法による真相解明になるのだと思うのだが)。 かてて加えて、捜査方法についても2,3つ疑問がある。 恐らくこれらは1930年当時アメリカの犯罪捜査において、まだそこまで科学が進歩していなかった、そんなに気にしていなかったことだろうと思う。 まず、現場に残された煙草の吸殻を見て、エラリーがその特徴的な銘柄から、所有者であるバーニスが現場にいたと示唆する点。 これは現在ならば、早計という物だろう。DNA鑑定はなかったにしろ、唾液から血液鑑定をして人物を特定するのがセオリーだ。この頃はまだ唾液からの血液鑑定方法は確立されていなかったのだろうか?そして推理は終始この銘柄と煙草の吸い方による違いについて語られ、決定的な証拠となる血液型については言及されない。 次に鑑識による指紋の調査において、現場にクイーン警視の指紋が残されていたというシーンだ。これは明らかにおかしいのでは? 指紋による人物の特定方法が確立されていたのならば、捜査官は自分の指紋を現場につけないよう手袋をするが常識である。これは犯罪を題材に扱いながら、クイーンが、実際の警察の捜査状況を全く知らなかったのではないだろうか?それともこれが当時は常識だった? 3番目は殺害場所の特定方法について。今回の被害者は致命傷である部位が、損傷したら多量の出血を伴うのに、現場には血痕がさほど残っていなかった事で、他の場所で殺されて、発見現場に遺棄されたことになっている。殺害現場として目星をつけたアパートに行くのだが、全くルミノール反応を使った捜査が行われないのだ。 この頃、まだルミノール液が発明されていなかったのか、それともクイーンが知らなかったのか、どちらなんだろう。結局エラリーは自らの推理で殺害現場を特定する事になる。 ほとんど苦言で終始した感想になってしまったがこれはエラリー・クイーンへの期待値が高い事によるためだ。特に1作目の鮮やかな推理に比べ、本作は殺人事件に加え、麻薬組織まで絡んでおり、風呂敷を広げすぎたような感じがする。 シンプルな感想といえば、最後の犯人に面食らい、いまだにクエスチョン・マークが拭えないということなんだけど。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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今回の謎は大きく分けて三つある。
まずは通常のミステリに倣い、楡井殺害に関する謎。どうやって楡井に毒を飲ませたのか?犯行の動機は? 二番目は峰岸を犯人だと告発する者の正体。これは犯人側峰岸が探る謎だ。どうして告発者は自分が犯人である事を見破ったのか? そして最後は題名にもあるように、本編のモチーフであるスキージャンプに関する謎。日星自動車の杉江翔は一体どのようなトレーニングをして飛躍的にジャンプ能力を伸ばしているのか? 東野氏のミステリの優れたところはこういったモチーフが非常に魅力的な謎を伴っているところにある。今まで色んなスポーツを物語に扱ってきた東野氏だが、本格的にそれをミステリに融合させたのは『魔球』だったように思う。須田武志が最後に放った魔球の正体とはなんだったのか?これが一連の殺人事件と平行して語られる。 『魔球』は今にして思えば、本作へ先鞭を付ける足がかり的な作品だったのかもしれない。今回はジャンプを高感度カメラによる連続飛形モデルの加速度経時変化の力学解析、それを基にした水平方向、鉛直方向の加速度推移グラフといった科学的データを実際に提示して謎の解明を行う。魔球は一種特異体質とも云うべきその人しか出来ない球の握り方という具体的ながらも科学的根拠不明瞭なところに留まっていたのに対し、今回はかなり実践的な領域まで踏み込んでいるのが大きい。だからといって『魔球』が決してその真相について肩透かしを食らうような物ではなく、本作を読んだあとではこちらの方がより具体的に謎解きを行っていると云っているだけだ。 今回読んだのは角川文庫版で、どうやら新潮文庫版から一部改訂されたらしい。どの部分が改訂されたのかは読み比べてみないと解らないが、恐らくこの科学的分析は原版でもあったのだろうと思われる。 また平成の世になり、スポーツ工学の進歩は目覚しい物がある。マンガ『Dream』でも変化球に対するメカニズム―シームと呼ばれる縫い目の握り方による回転のかけ方の違い、それによる空気抵抗の流れ、抵抗力により減速していく際に生じる球の不規則性、etc―が具体的に書かれるくらいだ。恐らく『魔球』発表当時はまだそこまで変化球に関する考察・分析が具体的に成されていなかった事は容易に推察できる(なんせ昭和63年の作品だ)。 おっと横道に逸れてしまった。本題に戻ろう。 日星自動車のチームが導入した方法というのは「サイバード・システム」と呼ばれるシミュレーション装置。これは擬似ジャンプ台で、5mの長さの板にローラーが付いてあり、これが角度を自在に変えられるようになっている。被験者はローラースキーを履いてクレーンで吊られた状態でこの上に乗り、そのまま滑空する。ジャンプ台はその速度・時間に合わせて角度を変え、あたかも本物のスキージャンプ台のようになり、踏み切りまでできるという物だ。 しかし、この装置の目玉はそんなところにない。理想形とされるジャンパーの飛形をインプットし、被験者に信号を送ることで矯正し、理想のジャンプを形成する事が出来るのだ。しかしその矯正方法に問題がある。理想飛形と異なる姿勢が発生すると被験者に不協和音が奏でられ、不快感をもたらす。被験者はこれを聞きたくないために矯正せざるを得ない。しかしその不協和音は人間の無意識の領域に記憶され、ラジオの音波の雑音で突発的行動を起こす副作用がある、とまあ、これが東野圭吾氏が考えた「鳥人計画」なのである。 電気系の大学を卒業し、電機メーカーに就職した東野氏の特色が非常に色濃く出た発想、テーマではないか。 そして本作発表から20年を経た21世紀の現代、このような訓練方法は採用されているのだろうか?このような大掛かりな装置が果たしてあるのだろうか? 私は意外に在ってもおかしくないと考える。 私はこれを読んだ時に映画『ロッキー4』を思い浮かべた。ソ連のサイボーグボクサー、イワン・ドラゴだ。彼もまた当時の科学の粋を結集して“作られた”ボクサーだ。東野氏の造語に倣って云えば、“サイボクサー”だ。育てる選手の身体に無数に付けられた電気コード、これはまさにこの映画で行われたドラゴのトレーニング風景そのものである。恐らく東野氏はこの映画をヒントにこのストーリーを考えたに違いない。『ロッキー4』の公開が85年、つまり昭和60年であるから、一応符合する。またこの映画では筋肉増強剤も併用されていた。 本作にて作者が云うように、一流のスポーツ選手というのは完璧無比なる強さを求める。それが故にドーピングなんかに手を出すのだが、彼ら・彼女らは確かに「バレなければやってもいい」、「みんなやっている事だ」といった割り切りがあるのだろう。競争心が歪んだ形で欲望に変異していくのだ。それはもはやスポーツが一個人の理想の追求や求道精神だけに納まらない莫大な利益を生む一大産業となっているからだ。 フローレンス・ジョイナーが早死にしたのも、当時“バレなかった”ドーピングの副作用によるものだろう。それでも人は強さを求める。そのために自分の身体がどうなろうが、構わないのだ。 世の中、要領のいい奴はいる。私などコツコツやるタイプだから、労力をかけずに上手くやる人間や、人の結果をそのまま転用して自分の成果とする人間に対して確かに悔しい思いがする。「何なんだ、あいつは」と確かに思う。 しかし殺意とこれとは別だ。それは私が犯人のようにある物事に人生を賭けていないかもしれないが、それでも他人は他人、俺は俺だと云い聞かせる自分がいるように思う。そこがどうしても共感できなかった。犯人が恐れたのは自分の人生の意味の喪失であり、片やこの私は普通、人生に意味などない、自分に迷いや悩みが生じたときこそ、人は人生に意味を求めるという観点に立っているから、これは当然の結果だろう。この共感の度合いこそが作品に抱く思いの強さに比例するから、本作はしたがって星7ツなのだ。 また唯一本作において推理に参加できる告発者の謎(実はこれも2つあるが前者の方)だが、これが解けなかったのが残念。うっかり読み通してしまい、最後の方で十分読み返すことが出来なかった。これは素直に悔しい。 最後に本作にて語られる楡井の人物像について。この不世出のジャンプの天才が天性の陽気さを放つ人物として語られる。周りにかけられるプレッシャーをそれとも気付かず笑い飛ばす、一種天然ともいえる陽気さ、そして常に話している内容は論理的でなく、イメージ先行型で、周囲の人は理解が出来ない。しかしここにこそ私は東野氏の上手さを感じた。 元巨人の長嶋茂雄氏が高橋由伸氏が入団したての頃、バッティングの指導をしたエピソードを思い出した。長嶋氏の指導は身振りを交えて次のようなコメントしたという。 「バッと来た球をバッと打つんだ」 そして高橋氏はそれが解ると云ったらしい。 天才には詳しい説明など要らないのだ。天性の感覚で感知するイメージを伝えるだけで天才同士は通じるのだ。そしてその感覚は私も解る。いや私が天才だといっているわけではない。あるレベルにいる物が体験するゾーンという物がどんなものにも存在する。それは決して説明のできる物ではない。感じるものなのだ。 そんな部分も含めてこの本はかなり色んな要素が込められている。 しかし惜しむらくはそれでもなお、こちらの意にそぐわなかった事。それはほんのちょっとの違いなんだけど。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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最高の頭脳ゲーム!高学歴、高水準のディベートゲームを堪能した!
国際的犯罪阻止の協力に対し、自国に今後の利益拡大をもたらすべく、いかに有利に展開すべきか、いかに恩を着せるかを高度な駆け引きで展開するこの上ないディベートの嵐である。 常に勝利の道を模索しつつ、そして自らの保身のために逃げ道も確保しながら、相手を雲に巻きつつ、出し抜くチャーリー。 ロシアという社会主義の風潮残る国で、自らの特権を出来うる限り長引かせるために、常に身の保身を第一義に考えながらいざという時に責任の擦り付け合いで勝利する事に腐心する周囲の中で、孤軍奮闘するナターリヤ。 下院議員の甥という立場で上司やFBI長官からも疎んじられている明朗活発かつ猪突猛進な若さ溢れるケスラー。 そしてチャーリーの恋敵で軍人気質で常に作戦の先頭に立ち、指揮する事を欲する、完璧を自負する男ポポフ。 これらがそれぞれの思惑と自説の正当性を主張しながら、核物質流出事件に当る。 そしてさらに後半魅力的な人物が物語を彩る。頭脳明晰でFBI随一の核の専門家でありながら、一流モデル張りのスタイルと美貌、さらに自分の欲望に素直な女性ヒラリー・ジェミソン。これが下巻からモスクワに渡ってチャーリーとパートナーを組む辺りからまた面白くなってくる。 そしてこれら複雑な頭脳ゲームを恐らくキーボード上を踊るが如く美麗なメロディを奏でるように読者の眼前に提供してくれるフリーマントルの知性と筆の冴え。毎回思うが本当、この人の話は面白い。 しかし、今回はイギリス、ロシア、アメリカの三国に加え、ドイツがさらに加わっての合同作戦というのはいささかキャラクターの過剰出演を招いたようだ。 当初物語の主眼と思われた再会した2人、チャーリーとナターリヤの成り行きが、後半のヒラリーの投入で影が薄くなってしまった。 特にこの2人は作戦会議の場で初めて再開したときに交わされる会話の時のお互いの心理状態のやり取り、ポポフとチャーリーとの微妙な関係や、その後の2人の逢瀬など結構読み処があっただけに残念な思いがした。 更に若きFBI捜査官ケスラーがその未熟さからチャーリーに師事することで次第に捜査官としてのスキルを挙げていく成長過程も物語のサブストーリーとしてよかったのだが、これもまたヒラリーの登場で影が薄くなってしまった。 恐らくヒラリーというキャラクターがフリーマントル自身、非常に気に入ってしまい、またこのキャラクターがフリーマントルの意に反してひとりでに動き出してしまったため、その流れに委ねることになったのではないだろうか。 しかし、だからといって物語の構成が破綻したわけでなく、最後にサプライズをきちんと準備して物語が閉じられるのだから、やはり大した物である。 とはいえ、今回のサプライズは解ってしまった。やはり続けて読むとフリーマントルの手法も見えてくるということだろうか? 最後にもう1つ。 この前に読んだ同じ作者のダニーロフ・カウリーシリーズの『猟鬼』では、マールボロの箱をかざす事でタクシーが容易に止まる事を書いているが、本作でチャーリーが同じことをしようとすると、いつの時代の話ですか?とケスラーに気色ばめられるシーンがある。 『猟鬼』の原書発表が92年。本作の原書発表が96年と4年もの差がある。これはこの4年の間にロシアがそれほどまでにアメリカにおもねることなく、自立していった事の証左か、はたまた『猟鬼』におけるこの描写に対する不適当性に関する批判がフリーマントルにあったのか、定かではないが、なかなか面白いシーンだと思った。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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奥田哲也作品3作目。意外にオーソドックスだったというのが正直な感想。1年前に起こった殺人事件と現代に起きた殺人事件の犯人探しが美術学院職員という狭い人間関係の中で300ページ強に渡って展開されていく。
奥田氏の提示する謎は不可能趣味ではなく、セイヤーズの作品のように、事件はシンプルだが、なんだかおかしい、その奇妙な違和感を解き明かす類いの、トリックよりもロジック志向型になるだろう。しかし、セイヤーズがシンプルな謎であるのにも関わらず、最後の解決に鮮烈なイメージを与えて物語を閉じるのに対し、奥田氏の謎は、ああそういうことだったのねと単純に納得するだけに終わっている。 それは真相を解明する“殺し文句”とでも云うべき衝撃の事実がないからだろう。 セイヤーズはシンプルな謎に隠されたバックグラウンドを物語の進行に合わせて一つずつ丁寧に解き明かし、最後どうしても残る違和感がたったの一言でばっと眼の前の霧が晴れていくように解決される心地よさがあるのだが、奥田氏の作品においては最後の最後においても複数の謎が残ったまま、しかし探偵役は全ての謎が解けているという趣向であり、終わりの方の章で延々と数学の証明問題を解くかのような長い解説が行われる。 これが私にとってはあまり面白くない。こういうのはメインの謎が解けた後、その他残る細かな謎を逐一説明するために行えばいいのであって、メインの謎解きに適用するべきではないだろう。 今回も最後の25章から28章にかけて刑事と探偵役の主人公との問答によって謎が解かれていく。三章に渡って解かれていくその謎は淡々としており、“最後の一撃”らしきものもなく、ようやく辻褄が合った程度の物であり、カタルシスも感じなかった。 あとこの作者、意外に言葉に対して意識的かつ無自覚である。 まず文章をなぜかスムーズに読み進む事が出来ない。読み進もうとすると袖口を引っ張られるような引っ掛かりを覚える。 では文章が特殊なのかといえば、全然そうではなく、むしろ平板。『三重殺』で見られた斜に構えたような文体はなく、普通の人々の会話と私生活がごく普通に語られるようなのだが、なぜかふと立ち止まる事が多い。 なぜこうなるか、ちょっと考えてみると、まず場面転換の唐突さが1つ特徴としてあるだろう。 主人公の内面をまず語る形で場面の転換がなされるのだが、作者の癖なのだろうか、前のストーリーの流れからは飛躍した内容で文章が始まり、5,6行進んだあたりで、主人公が今どこにいる、もしくは奇妙な夢を見た、そんな事実が語られるのである。 それは謎解き部分でのロジック展開でも出ており、戸惑ってしまった。 ネタバレにならない程度に書くが、今回の第1の殺人での謎の1つにタイムカードの紛失というのがある。これが第2の殺人の真相解明の問答において何の脈絡もなく出てきて面食らってしまった。思わず何ページも遡って読み直してみたが、やはりそれまでの論理展開にはタイムカードには触れてなく、しかも第2の被害者がタイムカードを所持しているなんて事も書いていない。その事は5ページ後に出てきて、ここに来てようやく事件の脈絡が繋がるわけだが、この5ページの間は何を登場人物は語っているのかさっぱりだった。 あと妙に凝った文章表現が文章のリズムを壊しているように感じた。恐らく作者の意図としては無味に流れていく文章にアクセントをつけるために選んだ言葉だろうが、ちょっと大袈裟すぎる。 それは各章題にも現れており、何となく鼻につくきらいが無いでもない。いきなり第1章の章題は「呑気な蜘蛛」である。これは何かというと、サブキャラの刑事の風体の比喩であり、この章における主題でもなんでもないのである。その他にも「魂を塗りこめた男」、「水槽のなか」といった章題なんかも単純にその章に用いた比喩をそのまま章題として使っており、何か居心地の悪さを感じた。素人がちょっと普通の人よりもヴォキャブラリーが多いということを見せつける、文章表現の引き出しが多いことを自慢しているかのようだ。 かなりきつい物言いになるが、作者が自らこの文章を一度読み直したのか、気になるところだ。 あといやに中身が淡白なのだ。タイトルの『絵の中の殺人』は、もう全く以って的外れである。本作の謎を象徴する印象的な絵が出てくるわけでもなく、また絵がトリックに活用されるわけでもない(絵ではなく額縁が活用されるがあれはかなり無理を感じる)。また絵画の世界、業界をモチーフにするならばもっとそれに関するエピソードがほしいところだ。登場人物の学院の職員達は絵を描くという設定で、その中には筆を折った者もいたが、絵画という芸術の世界に片足でも突っ込んでいる人物達にしてはごく普通であり、単純にどこかの会社、学校の事務員と変らない。物語を彩るガジェットに欠けているのだ。 それは人物設定もまた然り。主人公に元プロ野球選手を持ってきた割にはそれを活かした活躍シーンが何も無い。元プロ野球選手だからこそ出来ることがあるのに、ただの男になっている。 P.D.ジェイムズやレンデル、真保裕一など、作品ごとに色んな職種を題材に扱う作家は物語の餡子を包む皮も美味しいからこそ、読んで満足を得られる。この辺をもう少し意識してほしい。 本を読む側としては内容に入る前にタイトル、表紙を見て、どんな物語が展開されるのか想像を巡らすのだから。 |
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これが奥田氏の第1作目なのだが、先に読んだ『三重殺』で見られた軽妙洒脱な文体とは打って変わって寂れゆく街の中、陰鬱なムードで物語は流れる。
炭坑の閉山に伴い、すたれいく街で久寿里市の三分の一の産業を担う釧久グループ。しかし各々はこの街がもうかつての盛況を取り返すことの無いことを知っていた。しかしそれぞれの事情を抱えてこの街にしがみつくしかない彼らは残滓のように残る僅かばかりの繁栄に身を委ねて日々の鬱憤を晴らしている。 主人公を務めるのは署長からつまみ弾かれたはぐれ者の刑事4人。森村、川崎、喜多見、佐々木の面々はそれぞれの個性を発揮しながら事件を追っていく。しかしこれらの刑事像が実に刑事らしくない。大学の推研サークルの輩が殺人事件を前に推理ゲームを展開しているかのような、青っぽさを感じるのだ。この辺がやはりデビュー作における作者の若さだろう。 そして事件を取り巻く関係者それぞれの事情。陰鬱であり、上っ面の人間関係に隠れたそれぞれの思惑などじっくり書いているのだが、それに重きをおいたせいか肝心の事件の印象が非常に薄い物になってしまった。 本書は80年代後半に起きた新本格ブーム一連の流れでデビューした作家群の1冊として刊行されたはずである。だからジャンルで云えば本格推理小説となるのだが、おそらく綾辻氏、法月氏らがデビューした当初にさんざん叩かれた「人間が描けてない」の批判を受け、作者奥田氏は十分考慮した上で、本書のように登場人物それぞれのストーリーを描くに至ったのだろう。そのために本格推理小説としての味わいが薄れてしまったようだ。 実際、この小説で明かされる真相はアンフェアに近い。ストーリーを読むうちに推理できる材料がほとんど提示されないのである。読者に推理する余地を与えず、残りのページも少なくなっていきなり真相を告げられた感が否めない。 そして元の題名『霧の町の殺人』だが、これは全く以ってほとんど意味を成していない。当時の新本格作品の1冊ならば、街に漂う霧が、事件に一役買って霧が無ければ成立し得なかったトリックやロジックを期待してしまうはずだ。 しかし単に霧は舞台設定に終わってしまって何の関係も果たさない。霧は登場人物の心中に澱のように溜まっていく諦観を現しているだけのものになっている。だから題名を『霧枯れの街殺人事件』と変えたのだろうが、これもまた片手落ちのような感じがする。 しかし2作目の『三重殺』を読んだ限りでは、作者の力量はこの後、向上しているので、次に読む3作目が楽しみでもある。基本的には2作目のテイストが好きなので、これが活かされていることを望む。 |
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自転車旅行を題材にしたロードノベル。作者が行った東京~青森間自転車走破の実体験に基づいているらしい。つまり桐沢=作者というわけだ。
短文と体言止め、そして愚痴とも減らず口とも取れる独白を織り交ぜた一見ぶっきらぼうとも思える桐沢の一人称で語られる文体は主人公の人と為りを雄弁に語り、読者の心に美酒が五臓六腑に染み渡るように刻まれていく。この無粋な男桐沢が妙に人を惹きつける抗いがたい魅力を備えており、知らず知らずに青森への単独行を応援したくなる。 恐らくこういう男が会社の部下もしくは同僚にいると扱いにくいだろう。多分私の性格上、この桐沢みたいな男は上手く付き合えない人間なのだ。しかし、それでも彼は私を惹きつけて止まなかった。それは男ならば誰もがこういう生き方を一度は望むからだ。 しがないグラフィック・デザイナーながら気に入らない仕事は断る。金儲けよりも心の自由に重きを置く。宿酔いならぬ三六五日酔いと自分で認める重度のアル中で酒が切れると何も出来なくなる。人付き合いは上手い方ではないが困った奴を見捨てるほど冷酷ではない。 桐沢はいつかこうありたいと願う一人の男の姿だ。だからこそ惹きつけて止まないのだろう。 そして途中旅の道連れとなる高校中退の若者との出逢い、乞食のような風貌だが断固たる決意を胸に秘めた眼差しを持つ男、計画書奪還のため桐沢に接触する自衛隊の藤井三尉、そして同じく計画書奪還のために桐沢に接触し、次第に桐沢に魅了されていく尾崎、旅の先々で出逢う旅館の女将やトラックのドライバーなど、これらが読者をたちまち旅の愉悦に引き込んでいく。 また桐沢の旅の障壁となる自衛隊の計画書奪還作戦。その中核となる「三田北方作戦」の内容もなかなか凝っていて面白い。 狂人とも云われていた三田一等陸佐が立てたソ連侵攻に対する北海道封鎖作戦なるものに画された驚愕の真実。果たしてこれが本当に現実味があるのかどうかは眉唾だが、作者があらゆるデータを使ってその信憑性を固めていくプロセスは面白かった。ロードノヴェルに単純な味付けをしただけに留まっていないのが良い。 しかし何といっても本作の主眼は自転車旅行そのものにある。読んでいて非常に気持ちがいい。作者と同様に暑さに汗を滴らせ、坂道を苦行僧のように身体を苛めながら一心不乱に登り、体を切る風を感じるかのようだ。そして汗と共に桐沢の中から余分な物がどんどん流れ落ちていく。 当初、友人の青森行の話を聞いて負けてなるものかと奮起した旅だったが次第にその目的は単純に青森へ行きたい、その一念のみとなる。雑念やら妙な矜持やら余計な物がどんどん削られて洗練されていき、一種悟りの境地へと至る。 さらに自転車への想い。思い出の品など歯牙にもかけない桐沢が共に旅した自転車を見て妙な愛着を覚え、手放せないと思うこの気持ち、非常によく解る。私も25歳くらいまで自転車を足に使っていた。小学校の時から中学、高校、大学、そして社会人になってまでずっと自転車が交通手段だったからこそ解る。 思い出の品?いや全然そうじゃない。一緒に色んなところを駆け巡り、旅し、転び傷つき、その都度治療した、云わば“戦友”だ。 とにかく何度も涙が出そうになった。それは自分の力のみで成しうる旅への羨望もそうだろう。 日本を離れた今、桐沢が訪れる東北の街のエピソードが旅愁というよりも郷愁に近い感傷となって押し寄せてくる。やはり日本はいい。適わないことだが、私もいつかこのような旅をしたい。いや旅ではない、冒険なのだ。かつて子供の頃、眼前に広がっていた未知の世界へ乗り出す、あの面白さ、それがここにある。 自分の中にまだ“少年”がいるのならば是非とも読んでほしい小説だ。 |
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初エラリー・クイーンである。30も半ばを越えて(当時)ようやく着手である。当初古めかしく感じた訳も思いの外、クイクイ読めた。
実は最初は非常に不安だった。この齢までなるとかなりの本も読んできたすれっからしの読者であるから、世評高いクイーンの諸作を純粋な気持ちで楽しめるのか、心配していたのだ。ホームズシリーズやルパンシリーズで感じた失望、最適な時に読むべき本を逃した喪失感、そんな感慨をまた抱くのではないかと。 しかし、杞憂とは正にこのこと!十分愉しめた。大人が読むに耐える小説になっている。 そして私、犯人解っちゃいました!Ⅱ-11章で天啓の如く、閃きました。正にこれしかない!といった感じでした。 ・犯人はなぜシルクハットを持ち去らなければならなかったのか? ・シルクハットはどこに隠されたのか? ・シルクハットを持ち去っても不審がられない人物とは一体誰なのか? この3つの疑問について完璧に解答できた。う~ん、気持ちがいい!このカタルシスこそ正に本格推理小説の醍醐味だ。 そして犯人が判ってから読むとクイーンの作品は非常にフェアプレイである事が判る。最後の謎解きの辺りでは、センター試験の答え合せをする時のようにドキドキした。なるほど、極上の知的ゲームである。 しかし、惜しむらくは作中でも書かれているように事件の真相が推理のみであり、物的証拠が得られず、しかも最後は犯人に罠を掛けないと逮捕できなかった点だ。世紀の名探偵エラリー・クイーンのデビュー作は磐石の推理と証拠の提示による解決ではなかったとは意外だった。 しかし、それを於いても久々に毎日本を読むのが楽しみだという気持ちになれた。推理小説に夢中だった小さい頃の想いが甦るようだ。推理小説とはこんなにも楽しいものだったのかとこの年になってさえ思わせてくれる。クイーンの作品は本当に素晴らしい。未来永劫読み継がれてほしい作家だ。 一般的には佳作の部類に入るであろう本作だが、本格ミステリの愉悦を再燃させてくれたことから8ツ星評価としたい。 後に着手する更なる傑作に思いを馳せつつ、この感想を閉じたい。 |
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加賀刑事シリーズ第1作。そして加賀恭一郎シリーズ第2作。今まで作品ごとに主人公を変えていた作者が初めて採用したシリーズキャラクター、それは第2作で主人公を務めた加賀恭一郎だった。
そして、率直な感想、ビリビリ来た!もう心が震えた! 私にとって名作とは2種類ある。 それは万人が認める世評高い本当の名作と、全く期待していなかったのに、予想以上に自分の心に残ってしまう作品だ。そしてこの本は私にとって後者に当たる名作となった。 正に不意打ちだった。何のガードもしてなかった。だから非常に打ちのめされた。ああ、悔しい!東野氏にここまであからさまに翻弄された、そしてそれが正直心地よい。それが偽らざる感想だ。 冷静に考えると、本作は推理小説としては決して歴史に残る名作とは云い難い。本格ミステリとしては、普通の部類に入るだろう。東野氏お得意の密室殺人や見立て殺人といった意匠も無い。犯人も途中で解るだろう。私でさえ、途中で疑いを持ったくらいだ。明かされる真相は意外ではあるにしろ、衝撃の事実というほどの物ではないと思う。 しかし、この作品には小説としての熱がある。単なるパズルの解答を提示するだけに留まらない小説としてのドラマがある。確かにある意味、これほどの事で心打たれるのかという意見もあるかもしれない。でも嵌ってしまったのだ、東野氏の策略に。それはパズルを解き明かす計算を超えた熱情を行間から感じたのだ。 実は最後を読む前に書いていた感想がある。それは東野氏の小説家としての技能について賞賛を述べたものだった。 しかし、こんな物語を読んだ後では自分の心情にそぐわないと思い、削除した。この作品にはそんな小説作法を物ともしない小説家としての気概を感じたからだ。それは東野が初めてシリーズキャラクターを採用した事からも想像できる。東野氏は『卒業』で登場させた加賀というキャラクターを育てようと決心したのだと思う。あの作品を世に送り出したときに、彼の中で一度きりにするのは惜しいと感じたに違いない。そしてそれは成功していると思う。 本作を要約すると次のようになるだろう。 始まりは普通の物語。普通の正当防衛による事件のお話。しかしやがてそれは立派な大輪の花を咲かせるかのような素晴らしい話へと結実する。 そして心に残るこの1行。 “君だけのために、俺はいくらでも語りかけるだろう―。” この台詞の素晴らしさ!今まで抑えていた愛に似た感情が迸る瞬間だ。この素晴らしさは自分で本書を手に取って確かめてほしい。 加賀刑事に読者が惚れる理由が解った。そして加賀という男を知るためにシリーズを順を追っていきたいと思う。 |
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ダニーロフ&カウリーシリーズ第1作目。
アメリカの政治原理とロシアの政治原理が交錯するやり取りは正にフリーマントルの真骨頂なのだが、今回はそれだけでなく、全編に事件解決の手掛かりが周到に散りばめられている、一種本格ミステリの要素も含まれているのだ。ここにフリーマントルのこのシリーズに賭ける意気込み、並々ならぬ創作意欲の迸りをびしびし感じた。まさに記念すべき新シリーズの幕開けだと云える1作だ。 図らずも第2作『英雄』から本シリーズに入ってしまった私。その時の感想に、『英雄』には前作の犯人と真相が明からさまに書かれていると述べてあるのだが、本書ではその人物がどのような者かは朧気ながら覚えていたものの、誰かまではすっかり忘れていた。 しかし、この前知識が今回の真犯人を当てる一助になった事は間違いないだろう。しかし、それでも巻末で繰り広げられるカウリーの謎解きに謳われたある文中の違和感には気付いたのだから、よしとしよう。 まあ、そんなことはさておき、今回、作者フリーマントルがロシア民警の警官とFBIエージェントを組ませて捜査を行うこの設定を思いついたのは単純に犬猿の仲とも云える相反する両国のミスマッチの妙と、水と油の関係の二国のそれぞれに属する者同士が国の利害を超え、結ばれる友情を描きたかった、それだけではないだろう。 90年代後半に起きたソ連の民主化政策、グラスノスチとペレストロイカという二大ムーヴメントによってもたらされた欧米的生活様式と価値観。それはまた同時に犯罪の欧米化を促す事でもあったのだ。従って、今まで官吏が独裁的に行う犯罪捜査では解決しえない類いの犯罪も頻発する可能性があり、それを解決すべく東側もアメリカ式の犯罪捜査システムの導入が必要になる。こういった洞察からこの二国間のそれぞれの腕利きが協力し合うという構想が具体化していったに違いない。これこそ、フリーマントルの素晴らしき慧眼だといえる。 そして本書を彩るのが登場人物たちの複雑な人間関係だ。 かつての同僚であり、友人の妻と不倫関係にあるダニーロフ。同じくかつての同僚で親友に妻を奪われ、そしてモスクワの地でその2人に再開することになったカウリー。 ダニーロフは不倫相手の夫婦の家に招待され、危うく不倫がばれそうになるし、カウリーは再びパートナーとなった元妻の略奪者と仕事に私情を挟まないよう、終始注意を払う。そして同じくパートナーの夫婦に食事に招待され、元妻への思いが再燃する。 そしてこの2人の色恋の挿話に対して、特に印象に残った箇所がある。 まずダニーロフは妻に不倫を疑われ、不倫相手のラリサに別れを告げるシーン。彼は最初はほんの遊びのつもりだったのが、なぜこれほどまでに深入りしてしまったのかと自問する。そして得た答えというのが、それが安心の裏づけだというもの。その気になればまだ美しい女を物に出来るという自尊心の裏づけなのだという述懐だ。 ここで私ははたと立ち止まる。男はいつでも自分を若いと思い、そして若く見せようと努力する。 かくゆう私もそう。それは老け込みたくないという気持ちから来るものなのだが、潜在的にはこのダニーロフが云うようにいつまでも女性の目を惹きたい、いつでも俺は現役なのだという自負心を抱きたいからだ。そして不倫はそれを裏づける何よりも証拠、男としての現役の証明なのだ。不倫は文化だ、などと触れ回る男もいたが、そんな軽薄な言葉よりもこちらの方がもっと真実味がある。 そしてカウリーはパートナーのバリー夫妻に自宅に招待され、夕食をご馳走になった後、一人考え込むシーン。元妻ポーリーンに「あなたは奥さんがいなくちゃならないタイプだもの」と云われたことを振り返り、激しく動揺するシーンだ。彼はその言葉で1人で生きていく事は大したことではないと思っていた矢先に常に孤独を感じていたことに気付かされる。しかし、結婚はその孤独を癒すためにする物とは違うとも解っている。では何なのかという自問に対する答えをカウリーは得ていない。 そこで私は考える。それは単純に失望なのだと。カウリーは元妻にまた一緒になりたいという言葉をかけてほしかったのだが、返ってきた言葉が、再婚していないのが意外だという意味の言葉だったからだ。まだ続いていると思っていたお互いの想いが他方では既に決着が着いていたのだと知らされた言葉に激しく動揺したのだ。その事に気付かず―敢えて目を向けず?―、自分が孤独を感じていることに向き合ってしまったのは、カウリーの未練を表している。これは振られたことのある男にしか解らない気持ちなのかもしれませんね。 さらにダニーロフはかつてある地区の署長をやっていた際に得た密売組織との“密接な関係”によって得た特権を異動によって破棄し、家庭の電化製品はもとより、その日着ていくスーツやYシャツにも困るような逼迫した生活を強いられている。皺の寄れた衣服が、スクラップ寸前のくたびれた電化製品の数々がダニーロフの眼に妻をも使用済みのように映らせている、この辺のフリーマントルの筆致の上手さにも唸らされた。 『英雄』を読んだ時に思ったのは、カウリーよりもダニーロフに関する叙述が多かった事だが、今回モスクワを舞台にした本書でもその比重は変らないように思う。確かにカウリーはアメリカ人であり、異国の地で勝手違う捜査を強いられる存在ながらも、ロシア語も堪能で、FBIロシア課の課長という役柄、ロシアにも精通しており、そのギャップが少ないように感じた。むしろロシアという特異な文化の中でのダニーロフの生活や性格が興味深く語られ、作者自身、取材の成果を存分に揮って楽しんで書いているように思えた。やっぱりダニーロフの方が好きなのだろう。 しかし今回のこのタイトル、フリーマントルの作品とは思えないセンセーショナルな題である。一瞬大沢在昌の『新宿鮫』シリーズの1作かと思った。 訳者の松本剛史氏がこのシリーズのファンなのだろうか。それともこの後シリーズの邦題は『英雄』、『爆魔』と二文字で続くからディック・フランシスの諸作のファンなのかもしれない。まあ、どうでもいいことだが。 |
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奥田哲也氏の小説は初めて読んだ。ちょっと斜めに構えた主人公の刑事の減らず口を織り交ぜた文体に最初はちょっと辟易したが、慣れてくるとなかなか面白い。
チャンドラーのマーロウを気取っていながら、あくまで三枚目であるという点が買える。我孫子武丸氏とはまた違った面白さがあった。 300ページに満たない本書はこの刑事の語りでほとんど全編ロジックが展開される。事件の渦中にある3人の男、加害者と目される片島青次、被害者と目される矢萩利幸、そして矢萩のボディガードとして事件に巻き込まれた新発田護のうち、誰が被害者で加害者なのかを3つの殺人事件でひたすらロジックの俎上で試行錯誤が繰り返される。 この非常に少ない人間関係を用いて語られる謎というのが矢萩利幸という名の人物が三度も殺人事件の被害者として挙げられるという点にある。関係者は3人。被害者も3人。では最後の犯人は?と謎を畳み掛けてくる。正にアイデアの勝利といった感じだ。 そして今回の主人公、名も無き私が実によい。後輩に見くびられないよう精一杯肩肘張って生きている三十代独身の刑事。毎晩遅く帰る生活で唯一の安らぎが読書。時たま近所の友人と場末のスナックで酒を嗜む。 一般的な刑事物に出てくる刑事とは一線を画す、小市民の生活が物語に時折織り込まれる。刑事ずれしていない刑事像をユーモア交えて語っている。 それは命のやり取り、人の人生に入り込んでいくような仕事をする人間ではなく、私も含めたあるサラリーマンの人生の一シーンのようだ。人の生き死にを生業としながらも、その実体はあくまで普通の人間なのだというところに好感が持てた。 と肩肘張った読み取り方を上に書いたが、作者の本質はもっと別なところにあるだろう。こういう刑事もいいもんでしょ?と読者に片目をつぶって微笑みかける、そんな作者の顔が目に浮かぶようだ。 非常に寡作な作家、奥田哲也氏。新本格ブームで次々と作家が頻出した90年のデビュー以後、発表作品はたったの5作。恐らく兼業作家なのだろう。 そして98年以降新作は発表していないようだ。ブームの衰退と共に消えていった数多の作家の中の1人、現状を鑑みるとそう結論付けられてしまうのは否めない。 しかし、佳作ながらも一読忘れ難い印象を残すこの作品。消え去るには勿体無いと心底思った。 |
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二階堂作品初体験。古き良き探偵小説の香り漂う本格推理小説だ。
そして本作は本格探偵小説信望者である二階堂氏本人が読みたくて渇望していた小説なのだろう。誰も書かないならば俺が書くという気迫が行間から湧き出てくるようだ。 この本の献辞は鮎川哲也氏に捧げられているが、乱歩作品へのオマージュである事は想像するに難くはない。 「地獄の奇術師」という人智を超えた殺人鬼の設定とネーミング、逆さ吊りにした女性の顔の皮を剥ぎ取っていく残虐な処刑シーン、警察監視下の中で起こる麗しき女性への傷害事件、毒殺事件に、三重密室殺人、密室内での銃殺事件、屋根裏を徘徊する殺人鬼、などなど、『魔術師』、『緑衣の鬼』、『屋根裏の散歩者』といった乱歩の名作のモチーフのオンパレードである。 そしてそれらの云わば時代錯誤な作品世界に現実味をもたらせるために二階堂氏は時代設定を昭和42年という、まだ日本の街に暗闇が残る時代を選んだ。 また探偵役の女子高生二階堂蘭子と語り役の高校生二階堂黎人が刑事事件に関わることが出来る設定として父親を警視庁警視正であるところ、蘭子が過去の事件を新聞と雑誌を読んだだけで犯人を指摘したことから警察も一目置くことになったところも、現代ならば現実味がないが、この時代ならば許容範囲かと思わせるギリギリの設定かなと苦笑した。こういうご都合主義も古き良き探偵小説ならでは、ということで案外許せてしまう。 上に述べたように、本作は不可能状況、不可能犯罪の連続なのだが、案外と作者の意図と犯人は透けて見えたように思う。尤もトリックは想定していたものとは違い、それについては作者に軍配が上がったのだが。 しかし、終章に蘭子の口から語られる神学的推理、形而上学的推理ははっきり云って蛇足だと感じた。あまりに抽象的過ぎるし、観念的過ぎるからだ。 二階堂氏は敬愛するカーのオカルティズムをも本作に持ち込もうと腐心したのだろうが、これは逆に本格探偵推理小説の狂信者といった印象を私に与えさせ、なかば呆れてしまった。熱意は買うが、自分の趣味に走り過ぎると読者はついていけなくなるからだ。 しかし、デビュー作にしてこれだけ書けるとは素直に感心した。随所に挟まれる過去のミステリを中心にした薀蓄も―多少目障りな感じがしなくもないが―造詣の深さを感じさせてくれた。 ただ昭和42年(1967年)に刊行されていない作品もあるのではないかと重箱の隅を突きたくなるきらいもあるが、そこは触れないのが華だろう。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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早川書房のチャンドラー改訳短編集の第2弾。本作も前作同様、未読の短編があったため、購入した次第。
で、その未読短編というのが冒頭の「シラノの拳銃」と最後の「翡翠」。「シラノの拳銃」に出てくるテッド・カーマディが収録作7編のうち、4編において主人公を務める。 「シラノの拳銃」はボクシングの八百長試合の約束を破ったボクサーへのマフィアの報復から話から、ある上院議員の隠し子のスキャンダルまで発展し、それが狂言だったという結構奥が深い話。題名の<シラノ>はカーマディが自分の所有するホテルで出会ったボクサーの女が勤めるナイトクラブの名前。 本作は何と云っても最後のシーンが忘れがたい。ナイトクラブの女ジーンが笑みを浮かべながら眠りに就くシーンにしみじみと心打たれた。 「犬が好きだった男」は失踪した娘の捜索を頼まれたカーマディが唯一の手掛かりとしてその娘が連れていた犬を追って、獣医、強盗犯、精神病院へと次々と場面展開していく。題名の素朴さとは裏腹にカーマディの行くところ、死屍が累々と残されていき、激しい銃撃戦が二度も出てくるハードな内容だ。 しかもカーマディが麻薬を打たれて病院に監禁されてしまうシーンは確か長編でもあったように記憶しているがどの作品だったのか思い出せない。ロスマクのアーチャー物でも同様のシーンがあったように思うのだが。 「カーテン」ではカーマディは逃亡幇助を頼まれた友人のラリーが結局自分一人で逃げた矢先に殺されてしまった事から、ラリーの関わった友人の捜索に乗り出す。 物語の展開から予想だにしない結末に至る本作。真相はかなり意外。金持ちの依頼人と蘭の温室で対面するシーンは確かに『大いなる眠り』にも見られたシーン。しかし、真相がこじつけのように思えた。よくよく考えると、なんかおかしい。 カーマディ物最後は表題作「トライ・ザ・ガール」だ。ギリシア人の床屋の主人の捜索でセントラル・アベニューを訪れたカーマディが、たまたま出くわした大男スティーブ・スカラに否応無く彼のかつて愛した女ビューラの捜索に巻き込まれる話。 そう、これこそ正に名作『さらば愛しき女よ』の原形。 ここで現れる一人の女を追い掛ける大男は大鹿マロイではなく、スティーブ・スカラ。最後の幕引きも同じようなものだったか?凶暴かつ乱暴で野獣のように思われた大男。自分の目的のためには人を殺す事も躊躇わない大男。だのに女にはこの上ない優しさを見せる。自分を撃った女に対して「放っておいてやれ。やつを愛していたんだろう」と慈悲を与える不思議な魅力を持った男だ。こういう男は多分に母親の愛情に飢えていたのだと思われる。 そしてこの話の裏テーマというのは8年ぶりに出所した男が直面した、馴染みの店と好きだった街の雰囲気、そしてかつて愛した女、それら全てが変ってしまったことに対する戸惑いと哀しみなのだ。彼は居心地の悪さと居場所の無さを感じていたに違いない。そしてそうした彼の唯一の拠り所がかつて愛した女ビューラだったのだ。あまりに切ない物語。 この4編を通じて主人公を務めるカーマディという男の魅力も捨てがたい物がある。議員だった父親の遺産で悠々自適に暮らしている元探偵というチャンドラー作品には珍しい設定ながらも金持ちが故に抱える彼独自の哀しみ。親が汚職で残した汚い金を拒む事も出来ずに自嘲気味にその日を暮らす毎日。 しかしカーマディは2作目以降、「シラノの拳銃」の印象とはだいぶん違ってくる。むしろマーロウに近い感じだ。なぜチャンドラーがカーマディを主人公に長編を著さなかったのかが不思議なくらいだ(この感想を書いた後、解説で木村二郎氏が「シラノの拳銃」のテッド・カーマディとその他3編のカーマディは別人で、後の3編のカーマディはマーロウの原形だったと述べている。正に私の抱いた感想は正しかったわけだ)。 さて残りの3編について。 「ヌーン街で拾ったもの」は麻薬潜入捜査官ピート・アングリッチが主人公。ヌーン街で見かけた金髪の女性の代わりに、一台の高級車から落とされた荷物を拾ったことからハリウッドスターとマフィアとのある企みに巻き込まれる話。 ハリウッドスターの売名行為で裏街のボスの手を借りるというのがちょっといただけない。あとで強請られるのが解っているのに、安直では?タイトルはダブル・ミーニングだろう。ヴィドリーが落とした包みではなく、金髪の女トークン・ウェアこそ「ヌーン街で拾ったもの」だろう。 「金魚」は我らがヒーロー、マーロウ登場の物語。元婦警の友人キャシー・ホーンから行方知れずになっているレアンダー真珠の在り処について有力な情報を教えるから探してほしいと頼まれるマーロウ。報酬は保険会社から支払われる2万5千ドル、これを情報提供者であるピーラー・マードと3人で分け合うという取り決めだった。マードの許を訪れたマーロウはそこで拷問に遭い、ショック死したピーラーの死体に出くわす。ピーラーの家を後にしたマーロウは保険会社を訪れ、正式な代理人として雇ってもらう。事務所に帰ったマーロウに知らない女から電話が掛かり、悪徳弁護士のラッシュ・マダーの許へ訪れるよう脅迫される。 レアンダー真珠を巡る丁々発止のやり取り。ハメットの『マルタの鷹』を換骨奪胎したかのような物語。 とにかく悪役の女性キャロルがいい!ストーリーの運びは定型なんだが、彼女の存在が物語に色彩を与えている。最後のサイプの妻がマーロウに仕掛けるフェイクなど、最後まで楽しめる作品。最後のシーンでビリー・ジョエルの”Honesty”の歌詞が浮かんだ。 “誠実、なんて寂しい言葉だろう” 最後の「翡翠」は「スマートアレック・キル」で主人公を務めたジョン・ダルマス再登場作品。社交界の名士リンドリー・ポールから彼の女友達が盗まれた希少な翡翠のネックレスを探し出すよう頼まれるという話。相変わらず入り組んだストーリー展開だが、霊能者が登場したりといささか意匠に懲りすぎた感も否めない。そのため、なんだかバタバタした展開になっている。 本作では「シラノの拳銃」、「犬が好きだった男」、「トライ・ザ・ガール」そして「金魚」の4編が秀逸。1つに絞るならばやはり「トライ・ザ・ガール」か。 今まで2冊の短編集を通じて感じるのは、20~30年代後半のアメリカを覆った荒廃感が物語の雰囲気を覆っていることだ。それは禁酒法統治下もしくはその余波が澱のように残る20~30年代のアメリカを覆う鬱屈感に他ならない。そんな世の中で誰もが心に病を抱えている。善人は不器用であり、暮らしは楽にならなく、器用な奴は相手を出し抜く事にその器用さを発揮し、誰もが悪人だ。 そしてチャンドラーが描く探偵マーロウ、カマーディらはそんなすさんだ街の中で減らず口を叩きながらも、どこか人を信じることを止めきれない、自分に正しくあろうと自嘲気味に生き抜く男たちだ。彼らは探偵という仕事を自らの糧を得るためのみならず、仕事に関わった自分を納得させるために損得抜きで夜を走っている。それはこの街に失われたと思われた何かがまだ残っている事を信じたいがために真実を追っているかのように思える。 そしてそれを表現するチャンドラーの描写力、文章力の凄さ、改めて痛感した。危険と隣り合わせの人間が配る視線や仕草をとっても、それら人物や状況を語る視点が違うのだ。少なくとも私にはこういった“眼”は無い。 そしてその文章に加えて、質が上がったストーリーとプロット。全てがそうだとは云えないまでも、入り組んだストーリーも単純に捏ね繰り回されているだけでなく、計算づくの上での展開だというのがよく解る。 毎度同じような展開だと思いながらも、なぜだか飽きずに読めるのが不思議だ。 未読短編だけを読むために買ったこのシリーズだが、チャンドラーの凄さを再認識するのに格好の機会になった。残る2冊も買うつもりだ。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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東野圭吾はただでは転ばない、これが読後の率直な感想だった。
読者を楽しませるのにこれほど貪欲なのかと改めて感嘆した次第。あくの強い押しでぐいぐい迫るクーンツのエンタテインメント性とは違い、淡々と物語を綴りながらも最後に思いもかけない真相が作者の手元から次々と現れてくる。 正にこれはトランプの神経衰弱に似たカタルシスだ。数字の判らない同じマークのトランプを徐々に捲る事で、何がどこに隠されているかが次第に解り、ゲーム終盤、怒涛の如く、バタバタバタと裏返っていく、あの気持ちのよさに似ている。 題名が示すように物語の舞台は十字屋敷と呼ばれる奇妙な作りの館と悲劇を呼ぶピエロの人形が物語を彩る。正に本格ミステリの舞台設定ど真ん中である。 2ヶ月前の不可解な死、四十九日のために一同集まった中で起こる殺人事件。密室でもない殺人事件。しかもピエロの一人称描写の段落で語られる事件の顛末から正直今回の内容は小粒だと思っていた。 しかし、東野圭吾はやはり只者ではなかった。ページ数にして320ページの長さながらもかなりの満腹感を提供してくれた。 特にデビュー以来、何かと作中で登場するピエロの存在を今回は物語の中心に据えたことからも作者の企みに期待していたが、きちんと応えてくれている。ピエロの人形の一人称という奇抜な設定に面食らい、多少の不安は感じたが、雲散霧消してくれたし、この企みがきちんと成功していることを付記しておこう。 数ある東野作品の中において、ベストに挙げられる作品ではないものの、一読忘れがたい余韻が残る良作だ。 出版後、18年以上経って今なお重版されるにはやはりそれなりの訳があるのだ。 |
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タイトルが示すように、エスピオナージュ作家フリーマントルが紡いだ怪奇短編集。これが実にヴァラエティーに富んだ短編集となった。
冒頭の「森」はどちらか云えばオーソドックスな怪奇譚だろう。ルーマニアの小さな集落を舞台にした残虐な領主の圧政に苦しむ村人が復讐を遂げた後に訪れる怪事である。 次の「遊び友だち」もオーソドックスな部類の怪奇譚だ。名声高いブロードウェイの脚本家が買った古い屋敷で起こる怪奇現象。屋根裏の子供部屋に大人には見えない子供がいるという話。 「ウェディング・ゲーム」は英国屈指の名門の2つの財閥のある結婚式の時に訪れた悲劇を扱っている。嫉妬に駆られた花婿の弟の犯行、最後のオチなど、目新しさは無いものの、演出効果は抜群だろう。最後のシーンは映像が目に浮かぶよう。 そして本編で語られる花嫁の惨劇は江戸川乱歩の「お勢登場」を想起させる。死にゆく者の生への執着と死の恐怖を濃密に描いた乱歩に対し、事象を語りつつ、その後の展開に見事なオチをつけたフリーマントルという2人の特徴が出て面白い。 更に続く「村」は第二次大戦にドイツ軍に所属していた主人公が名を変えて身を潜めて余生を暮らした末に、公式記録上で自分が大量虐殺を行ったとされるチェコの村を訪れる物語。 投資家夫婦と降霊術という相反する物を結びつけたのが「インサイダー取引」だ。インサイダー取引で巧みに財を成してきた投資家夫婦のうち、妻の突然死で失意に暮れた夫が霊媒師の力を借りて、亡き妻との交流を果たし、妻の助言で、どんどん投資を成功させ、億万長者となっていくという話。 これと「ゴーストライター」が個人的にはベスト。こちらの方はコメディアン志望の男が死後コメディライターとして名声を成すという話。特にこの2編はタイトルが秀逸で、最後に抜群の切れ味を放つ。 そして株式をテーマにホラーを書くという発想も斬新だが、もっと驚いたのはフリーマントルが「お笑い」をテーマに短編、しかも幽霊譚を書いたこと。まさに脱帽だ。 それに加えてこんなのも書けるのか、フリーマントル!と唸ったのが「ゾンビ」と「洞窟」。前者はカトリック宣教師が布教のために派遣された神父を奪還するためにゾンビを生み出す呪術が支配するカメルーンの奥地の村に乗り込むといった話。 後者はフランスにある世界最大の洞窟でガイドする一族の話。自らの子供と妻が洞窟に入ったまま行方知れずになった男が友人の子供の捜索に乗り出す。 この2編で驚かされるのが宗教や呪術、そして洞窟ガイドという職業の特徴を詳述しているところだろう。この作家の懐はどこまで深いのかと驚嘆した作品だ。 一風変った幽霊譚なのが「魂を探せ」。何しろベルリンでの任務中に暗殺されたCIAとKGBの工作員2人の幽霊が、死後のユートピア<あの世>に行くために自らの魂を探すという物語。しかしこのオチはブラック・ジョーク以外何物でもないな。 「愛情深い妻」、「デッド・エンド」はそれぞれ殺人事件を扱った恐怖譚。前者は病院の院長が不倫相手と再婚すべく妻を不治の病と見せかけて毒殺するが・・・といった話。 後者は場末の宿で発見された女性の刺殺死体の犯人を捜す物語。現場に残された指紋、遺物などから状況的に夫の犯罪と思われたのだが、当の夫は自信満々に自分の犯罪ではないといいきり、逆に警察に犯人のヒントを与え・・・という話。 どちらも幽霊を扱っているのが共通。特に前者は妻の幽霊に苛まれる主人公の苦悶がちょっと理解できなかった。元妻は愛人との交際を認めているのに、なぜ主人公は愛人と愛を交わせないのか?私なら・・・とここで止めておこう。 最後12編目「死体泥棒」はいつの間にか人殺しに加担していた善なる医師の話。生真面目すぎるが故に陥った狂気の領域を皮肉とユーモアを交えて語っている。 ざっと概要を上に書いてみたが、冒頭述べたように題材が実にヴァリエーション豊かである事が解ると思う。自分の得意分野だけで勝負していないところなんかはフリーマントルのストーリーメーカーとしての矜持を感じさせる。もしフリーマントルにお題を提供してホラーを書けと頼むと、何でも書けるのではないだろうか。 そしてこのようなホラー・ストーリーはもはや出尽くした感があり、確かにここに語られる恐怖譚の中には目新しさは無い物もある。では何が読者の興趣を誘うかというとやはりそれは作者の語り口にあるだろう。 そしてフリーマントルが筆巧者であり、その定型化した恐怖譚をコクのある料理に変身させる腕前を備えていることを再認識させられた。 正直云ってこれほどの短編集を絶版のまま埋もれさせるのは勿体無い。どうにか復刊ならないだろうか。 |
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