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1Q84
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1Q84の評価:
書評・レビュー点数毎のグラフです | 平均点3.66pt |
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Amazonサイトに投稿されている書評・レビュー一覧です
※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
未読の方はご注意ください
全986件 621~640 32/50ページ
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作家としてはすごい人なのだろうと思うけど、読み終わってすぐ感じた事はこの人はこれだけのものを書いて読者に何を伝えたかったのだろという疑問だった。 社会的に問題になった事件をこんな形で創作してしまうところに現実離れした摩訶不思議なものを感じた。サリン事件の背景に何があったのかが問題ではない。そういう風に陥ってしまうことに人間の弱さみたいなものがあるのだろう。集団心理と言えば言えなくもない。 でもこの本は、そんなことも論じていない。ただ自分勝手な摩訶不思議な世界を描いて見せているだけだ。 ただ言えることは、この本を手に取り1ページをめくった途端にもうとりこになってしまう不思議さだ。物語の中に引きずり込まれ後ずさりできなくなり、あとはもうひと思いに最後まで一気に読み進むしかなくなってしまう。そして、月は本当は2つあっても不思議ではないと思い始める。 だから、最初に戻ってこの人の作家としての偉大さを感じずにはいられない。読者を村上ワールドに引き込む力はすごい。 | ||||
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これだけ話題となり、何度もノーベル賞候補と目されている作家の本なので、遅まきながら、日本人の常識の一つとして読みました。村上春樹の本を読破したのは「ノルウェーの森」以来となります。海辺のカフカなどいくつかの本は、チャレンジしましたが読みきれませんでした。 販売直後にNHKの朝のニュースでも取り上げていました。大学の先生が評論していましたが、アナウンサーはきっとこんな性的描写のある本とは知らなかったのでしょう。かつて入社直後にノルウェーの森を読んだことを回りに話をして、後に数年先輩の女性社員から、こんなに性的描写があるとは思っていなかった、と言われたことを思い出しました。 物語としては、面白かったです。次の章を読むのが楽しみでページがどんどん進みました。文章表現も巧みな感じがしました。一方で、現実感がない部分がありました。 首都高の地理感、オーム真理教を想像させる状況など、日本人としてはわかるけれども、これらが外国人に普遍的に伝わるのか、という疑問もありました。 そして、仮にノーベル賞をとったとき、大人が子供にこの本を真面目な顔をして紹介するところ想像すると、これまた少しおもしろおかしくかんじます。 | ||||
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スポーツジムでマーシャルアーツのインストラクターをしている青豆という奇妙な名前の女性と、予備校で数学を教えながら小説家を目指す天吾――この二人の視点で物語が交互に四八章にわたって語られる。 著者は練達のストーリーテラー、次から次へと仕掛けが設けられ伏線が張られ、どこまでも飽きさせない。 天吾は小さいときから数学の神童と見なされていた。父親とはうまくいっていない、というか憎んでいた。父子家庭なので息をつく場所はない。唯一、数式の世界が天吾を自由にした。だが、そこから離れて現実に戻ってくると惨めな檻の中。状況は何ひとつ改善されていない。《だとすれば、数学がいったい何の役に立つのだろう》。「物語の森」が天吾の心を強く惹きつけるようになっていった。 《物語の森では、どれだけのものごとの関連性が明らかになったところで、明快な解答が与えられることはまずない。そこが数学との違いだ。物語の役目は、おおまかな言い方をすれば、ひとつの問題をべつのかたちに置き換えることである。そしてその移動の質や方向性によって、解答のあり方が物語的に示唆される》 今、世の中のある物事の在り様を、新聞・雑誌、新書、ネットなどに求めれば、眼からウロコが落ちるように、解答を見つけることができる。だがそれは、視野を広げることに、教養を深めることに役立つかもしれないが、今ここにある魂に安らぎを与えるものではない、今ここにある不安を鎮めるものではない。 村上春樹の新作を求めた多くの人々は《解答のあり方が物語的に示唆される》ほうを望んでいるのではなかろうか。《それは理解できない呪文が書かれた紙片のようなものだ。時として整合性を欠いており、すぐに実際的な役には立たない。しかしそれは可能性を含んでいる。いつか自分はその呪文を解くことができるかもしれない》。 四年前に出した『意味がなければスイングはない』で、シューベルトのピアノ・ソナタを愛好する理由をこうなふうに言っている。 あらゆる芸術的の領域において、時代的には「ソフトな混沌を求め」、年齢的には「より緩く、シンプルな意味で難解なテキストを求め」る傾向にあるかもしれい、と。本書は、ソフトな混沌に満ちた時代を、シンプルに描く難解な物語といえようか。それが読者の無意識を激しく揺さぶる。 | ||||
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月が2つだろうが、リトルピープルがなんであろうが、 登場人物たちの生い立ちがそれぞれとてもかなしくて、 そしてリアルだった。 人間っていうのはだれも、ソウイウモノなんだな、 と思った。 あたまはものすごい勢いで物語を追いかけているのに、 ふと振り返ると その足跡にはところどころ光る小石が残されていた。 青豆と天吾のエピソードは、何年も前、遊びで受けた 催眠療法を思い出させた。 「今までで、一番楽しかったことを思い出して下さい。 そしてこれから先、辛いことや悲しいことがあったときは、 その光景を思い出して下さい」 と言われのだ。 そのセッションを内心馬鹿にしていた私がそのとき 無理矢理思い出したのは、 奇しくも小学3年生の休み時間の、とるに足らない遊びの光景だった。 麻布の上品な老婦人がアサハラであることに気づいた時は衝撃だった。 見かけにだまされてはいけない。 結局この世の中には善も無ければ悪も無い。 正しいこと、正しくないこと、ウソもマコトも存在しない。 さらにはありえないことなどありえない。 意識は現実を創るのだし、意識が現実を創るのだ。 ここのレビューを見る限り、村上春樹文学をまるで SFや推理小説のように読んでいる人が多いと思った。 どんなに崇高なものを与えられても、 人は皆それぞれのレベルでしか理解することはできない。 もちろんそれは悪くない。 しかし「説明しなくてはわからないことは、説明してもわからない」のだ。 | ||||
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なぜこの本がこんなに売れたのか? ただの性描写がパネェ本だった。 読んでげんなり。 時間を返せ、金も返せ | ||||
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幸いBook3が出る事を知った上で読み始めたので、唐突な終わり方にも違和感はなかった。 青豆と天吾の章を交代に読む事すらまどろっこしく、待てなくて、途中から片側の物語だけを読んだ。そしてもう一方を。そしてまた全部を流れの通りに。2日間で何度読み通したか分からない。 村上春樹作品には好きなものも嫌いなものもあるが、まだ完結していないので判断は差し控える。 それにしても、ここまで強く読み手を引き込む力はさすがだと思う。十分評価出来る。 他の作品でもそうだが、村上作品の女性は主人公に対して「優しい性欲処理担当者」として現れる。いいのよ、気にしなくて、というデジャヴュのように繰り返される台詞。その事にはいつも違和感を感じるが、一方で今回はマダム、青豆、あゆみの目線から「女性の怒り」がそれなりの深みを持って描かれており、これは村上作品には新しい。この二つの極をどのように収めてゆくのか興味が引かれる。 小松がどうなってしまったのか、気にかかる。家でさなぎにくるまれているのだろうか。続刊に期待。 | ||||
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ヒロインは、長いアイスピックをエモノとして人を殺すわ、つばを吐くわ、「ちんちん見せろ」というわで、キャラクター小説かと思わせる側面が強い気がするのは気のせい? そして、そのヒロインはスタイルがよく、ルックスはいいか悪いかで言えばいい方、経験人数は少なくないが、あそこが新品同様と言えるぐらい(26歳まで処女で現在30歳)SEX回数は相当少なめで、ちょっと禿げた男性が好きっていうのは、作者の趣味か? どの作品だったか忘れたけれど、「人は長く生きれば生きるほど磨耗していく、禿げはその磨耗の証で悪くない」みたいなことを書いていた作品があった。 他には、日米安保に直接言及した作品はなかったけれど、今回は言及している(作者の年齢から言って、当事者ではないにしろ、言及しておかしくなかったけれど) 性表現の多さ(過去作品と比較して) と色々と気になる部分が多い。 最近自分が読んだ小説(『アンダーワールド』、『堕ちてゆく男』、『楽園への道』etc)と比べると相当軽い。何か物足りない。でも、それなりに面白く、すいすい読み進んでしまう。 完結を待たずに評価を下すのは速いと思われるので、とりあえずBOOK2以降を読んでみようと思う。 | ||||
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人の一生は四季たとえられる。それはライフサイクルといわれる。(河合隼雄著『生と死の接点』参照)春から夏は自我の形成期であり、秋から冬にかけては人生の全体性を把握し自分なりの世界観を完成させるときである。昔話により、内的な成熟過程のある段階を理解することができる。河合隼雄『昔話の深層』では西洋の昔話から西洋人の自我の確立過程を描き出している。西洋の昔話の多くのパターンは、「英雄が怪物を退治してお姫様と結婚して幸福になる」である。これは英雄(自我・意識)が怪物(太母・グレートマザー・無意識)から自立して自我を確立して、結婚により心の全体性を獲得すると解釈される。また、同じ河合の『昔話と日本人の心』では日本昔話から、日本人の心の世界を読み取っている。日本昔話では、「普通の男に突然あちらの世界から美しい娘が現われて男に求婚して結ばれるが、男が禁止事項を破り、女は去っていく」、という形で結婚は女性が申し込むということで、男は受身の立場である。ここでは、西洋の昔話と同様の理解は成り立たない。そこで河合は結婚を申し込む女性の方に注目して、分析を試みたのである。つまり、東西の自我の成熟過程には違いがあり、西洋人の自我は男女の区別なくともに男性像であるのに対して、日本人の自我は男女の違いにかかわらず女性像であらわされる。さて、昔話は共同体に語り継がれた物語である。物語の役割とは何であるか。人間は経験したことを心の中に収めるために、その経験を自分に納得のゆく物語にして生きている。神経症に悩んでいる人は、何らかの経験を自分の生きている物語にうまく組み込めていない。(『物語を生きる』参照)さて、村上の小説『1Q84』は、現代人のライフサイクルの表現として読めるのではないか。河合隼雄が『昔話と日本人の心』で見いだした「意志する女性像」(前段で述べた日本人の自我をあらわす女性像)と『1Q84』の「天吾」と「青豆」の男性、女性像の関係は何を意味するだろうか。『1Q84』を現代の昔あ るいは神話として再読したいと考えている。 | ||||
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村上春樹の本は初めて読みました。半分くらい読んだところで一瞬飽きてきそうになりましたが、後半になってから2人の主人公の接点がみえてきたので、一気に読み終えました。なんていうか、もう少しスパっと物語を展開したらいいのに!と思う部分もありますが、今後の展開が気になるので引き続き book2 を読もうと思います。 | ||||
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海辺のカフカと同様の文章形態を伝承し、過去から未来への展開を(カフカ)、未来から過去への展開に置き換えて、話が進んでいくのであるが、あまりにも奇想天蓋すぎて(カフカも同様)、61歳(村上氏と1つ違い)の小生には、難解である。20〜30代の多感で、脳が柔軟な世代でないと、のめりこむのは、難しいのか?まだBOOK3,BOOK4と出そうなので、取りあえず最後まで読んでみようと思うが、、、。(販売戦略でベストセラーになったとの話があるが、邪道だろう。) | ||||
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↑タイトル通り この売上に便乗して「村上春樹」を読みたいというのなら 「羊をめぐる冒険」「海辺のカフカ」あたりをお勧めする(読みやすい!) その後に「世界の終りとハードボイルド」「ねじまき鳥クロニクル」 「1Q84」や「ノルウェイの森」はその後で良いです けど村上春樹はね、Bzとかサザン見たいなもんでね、 ファンからすれば「また本出してくれた!ありがてえありがてえ」ってなもんなんですよ〜 過去に散々名作中の名作を山ほど出してるんだから 「それ以上」を求めるのは野暮ってもんでしょう? だから過去の作品と比べるのは愚かなことです と言うことでふかえりちゃんが可愛かったしそこそこ楽しめたので★4 正直話はドス暗い部分もあるし、宗教施設だの赤軍派ちっくなアレだのが出てきたり村上初心者向けの話とはとても言えない (ネタばれになるから多くは書けない。) (急いで読みたいって人以外は文庫になるのを待っても良いと思う。book3には期待。) | ||||
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読み始めてまず思ったのは、描写が非常に細かいということです。 登場人物がどんなものを食べ、どんな服を着ているのかまでが、とにかくこと細かに記載されています。 しかし特にこのBOOK1では、青豆にせよ、天吾にせよ、ストーリー展開が「同じ所でとどまっている」ようにも感じるため、この描写の細かさはそれだけで「お腹いっぱい状態」になります。 そのためか、文体は平易で読みやすいのですが、読み終わるのにかなり時間がかかります。 ただ、この作品のストーリーが本格的に動き出すのは、BOOK2の前半で、青豆が最後の大仕事にとりかかる直前あたりからだと私は感じました。 また、恋愛小説の部分が見え始めるのも、BOOK2に入ってから。 実際、BOOK2はBOOK1の半分の時間で読み終わりました(とはいえ、全体としてかなり時間がかかったのですが)。 複数冊の構成で読ませるのであれば、せめてこのストーリーの動きだしをBOOK1の最後に持ってこないと、このBOOK1の内容では、読み終わった時に「もういいや」と思ってしまう読者がいてもおかしくないと思われます。 | ||||
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文体は、素晴らしいです・・ 細部まで、リアルに想像することができました。 でも、構成がアニメチックで、時間つぶしに読む少女漫画?のような スカスカの恋愛小説、そんな薄っぺらな深みのないイメージでした。 心に響くものがなく、共感できる部分もありませんでした。 期待が大きすぎた感があります。 (2冊目読み終えた時点での感想です。) 2冊で完結しているものだときいていましたが、 最後あまりにもブチッと切れているので 続きがあるように感じます。 しっくり来ないけど、終わりなんだよね… という終わり方ではなく、 あまりにも尻切れトンボな終わり方なので、 「これで完結。」で納得できちゃう人は、 村上春樹の作品が好きなのではなく、 村上春樹ブランドが好きなのでしょう…多分。 | ||||
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引用された全てを読んでいますが、果たしてそれの一つも読んだ日本人はいかほどですかね(笑)バランタインの魔法の七柱を知らなくともバランタインは旨いのだよ。 | ||||
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村上春樹さんの著書は、8割読んでいます。 ただ、文学には詳しくなく、書評等も読むことは少ないので、 本を分析して読むタイプではないです。 また、以前、読んだのは5年位前で、学生でした。 社会人になり、初めて読んだ作品です。 感じたことが三つありました。 ・文体は読みやすく、いかにも村上さんらしい! ・村上さんの小説の手法が感じられてしまった。 ・キャラクターが薄いし、物語自体も浅い印象だけど、つい読みふけってしまう。 BOOK1、2を読んだとはいっても、 まだ、作品の途中の段階なので、結論付けるのは早急すぎるかもしれません。 村上さんが好きな方だと、物足りなさを感じる部分もあるかもしれませんが、 話題作であり、まだ続編も出るので、今なら読む価値はあると思います! | ||||
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この作品が2009年のベストセラーだそうである。読者というのは宣伝に弱いのか、評判に弱いのかわからないが、ベストセラーということは大衆文学だということだろう。洋の東西を問わず、ダヴィンチ・コードのようにベストセラー文学には凡庸な作品が多いようで、この村上春樹の作品もその域を出ていない。悪いところを挙げろと言われればあまりに沢山あってどこから始めたらいいのかわからない。悪いレヴューを書いている方々に大方賛成しているので、それを読んでいただきたい。この作者が文章が上手いと評している方々がいるが、上手いのではなくて平易な文体で書かれているの間違いだろう。要は漫画世代には読みやすいということだ。上手い文章を読みたければ、三島や谷崎、漱石をおすすめする。また、この作者が深いと評している方々も多いが、分かりにくい、理解できないというのと深いとは意味が違う。この作者の書いていることは、老人のマスターベーションのように気味が悪いだけだ。Book3を執筆中と聞いたが、こんな作家に金儲けさせるのはいい加減やめたらどうか。 | ||||
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私は青豆のいたカルト宗教「エホバの証人」の元2世です。青豆の気持ち結構わかります。でもあんなにかっこよくストイックになんてなれないし、人を殺そうとか死んでもこわくないとか思いません。やっぱり小説はおもしろいです。村上春樹さんの神がかりかと思うほど巧みな表現力にぐいぐいと引き込まれて読みました。村上春樹さんの作品はノルウェイの森くらいしかちゃんと読んでいないし、文学を語るほど知識があるわけでもありませんが、なぜ村上さんが今この小説を書いたのかそこに興味があって、できたらご本人にそこを聞きたいと思っています。春樹さんは世界を見ている人ですし、日本も客観的に見ている人だと思います。今、この時代にこの小説を書いたことには多くの意味があるような気がします。カルトって目には見えないけど、多くの人たちの身近に潜んでいるし、精神的に多くの若者〜大人の精神をはばみ、そんなことから「引きこもり」や「精神障害」「自殺」はては「犯罪」を生み出しているのが現実だと思います。 | ||||
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前置き:この評論は元来140文字限度のミニブログ「ついったー」にて行なったものであって、その段落のひとまとまりが、一ついーと分に相当している。 1Q84読了。オーウェルの1984は「大きな物語」としての歴史、国家、政府、社会が、ビッグブラザーという語り部に支配され、個人の魂が窒息させられる。ムラカミの1Q84は「小さな物語」としての小共同体が、リトルピープルという語り部に支配され、個人の魂が窒息させられる。 1984の世界と1Q84の世界と、その違いを象徴するのが月だ。月が2つある世界では、月が1つだけの世界とは微妙に違う歴史が進行する。月が諸物の運命を支配している、ということだろうか。ここで小生は、ハインリッヒ・シュリーアがストイケイアを「星の神々」と意訳したことを想起させられる。 1984のストイケイア、ビッグブラザーは、全体主義国家という「単一の物語」を用いて人類を分散管理している。それに従う者は、魂の窒息と引き換えに、平凡な日常の生活を保障される。だが、ひとたびそれに背けば、過酷な運命がふりかかる。ストイケイアは禍福の神なのだ。 1Q84のストイケイア、リトルピープルは、ポップカルチャーという「多数の物語」を用いて、それとは知られることなく人類を分散管理している。ところが、ある小共同体の少女が、その世界の成り立ちに関わるカラクリを、小説という媒体を通して暴露してしまうのだ。 リトルピープルという禍福の神は、ヨリシロとなる人間の緩慢な死と交換にして「空気さなぎ」を作り出している。空気さなぎから生まれ出て来るのは、理解不可能な死か、理解不可能な他者か、どちらかだ。他者の他者性は自己の死と表裏一体、ということであろう。 この「空気さなぎ」から生まれ出て来る他者アルイハ死は、それなくしては世界が成り立ち得ない、根源にあるところのカラクリである。人は他者なくしては、生きることができないから。人は、他者から生まれて、他者の死を看取りつつ、自己の死へと連れて行かれる存在だからである。 人の始源が「他者アルイハ死」にあるならば、テンゴの始源である父親が生物学的父かどうかは、もはや重要でない。他者である父を看取るテンゴは、看取りの行為において、人生のベクトルを取得する。自己の彼岸にある他者から始められた自己が、他者の死を経て、自己の死に向う、というベクトルである。 テンゴが「自己の死」へ向うベクトルを取得したとき、テンゴのための空気さなぎが静かに殻を開き始める。そこにはテンゴにとっての永遠の憧憬としての他者たるアオマメが眠っている。自己の死へ向うベクトルは、他者アオマメへ向かうベクトルと完全に同一である。他者と自己の死は同一なんだから。 テンゴが他者アオマメに向かって生きるという実存的決断をする終章で、そのアオマメが生物学的に生きてるかどうかは、もはや重要ではない。他者イクオール死、であることのゆえに、死者アオマメは「真の他者」として、他者の他者性のうちにお隠れになっている女神的存在になっているのだ。 準絶対他者アオマメに向かって生きるベクトルが、自己の死に向かうベクトルと同一化したことによって、死のベクトルを得たテンゴは、また、ほんとうに生きることのできるベクトルをも得たことになる。このベクトル上で、その命尽きるまで、テンゴの平凡な日常が展開され、彼は生きることができるのだ。 「他者アルイハ死」から始まり、他者の死を経て、「自己の死アルイハ他者アルイハお隠れになった神としての準絶対他者」へ向かうベクトル。このカラクリを基本構造に使って、リトルピープルは「多数の物語」を語り、多数の小共同体を生み出して、人類を囲っているのである。これが1Q84の世界像だ。 1Q84のベクトルはキリスト教のパロディーだろう。後者は、絶対他者たる神を始源とする人間が、絶対他者たる神の十字架の死を経て、お隠れになった神ソシテ再び来たりたもう神へと向かって行くベクトルである。このベクトルに生きることを自己の死へと向かうベクトルに選んだ者がキリスト者である。 キリスト教のベクトルもまたリトルピープルのカラクリに過ぎないのか? テンゴとアオマメが1984の世界で属していた小共同体「証人会」はキリスト教の暗喩であろう。この証人会は1Q84の世界には存在しないのだ! つまりキリスト教のベクトルはリトルピープルの手の外にあるということになる。 リトルピープルのベクトルは、キリスト教のベクトルに似ている。しかし、キリスト教のベクトルは1Q84の世界には存在しない(証人会の不在)それが1Q84の世界における終末論の希薄さの原因であろう。このことは、キリスト教のベクトルがリトルピープルのカラクリでは「ない」ことを示唆する。 キリスト教のベクトルはだれが作ったカラクリなのか? 無神論全体主義のビッグブラザーではない。すると、どのストイケイアが作ったんでもない「ほんとうの物語」がキリスト教のベクトルかもしれないということになる。こういう読み方をするならムラカミの1Q84は高度な護教小説ということになる。 結論:「大きな物語」でもなく「小さな物語」でもない、しかし「大きな物語」をも「小さな物語」をもその根底から規定しているような「ほんとうの物語」が、1984の世界と1Q84の世界の差異分として、お隠れになってあるのである。この差異分こそが「Q」だ。 追考 1Q84の「Q」が、1984と1Q84との差分としてのキリスト教のベクトルだとして。しかも、ストイケイア(ビッグブラザーorリトルピープル)の手によらざる「ほんとうの物語」としてのキリスト教のベクトルだとして。では、なぜそれが「証人会」という暗喩で示されているのか? 最後の問い。 1984のストイケイア「ビッグブラザー」が語る大きな物語が提示するのは、国家、政府、社会が一体化した全体主義国家、バビロンである。メインストリームのキリスト教は、残念ながらこれに迎合して来たふしがある。古代の帝国教会、中世の教会国家、近世の国家教会、現代の体制翼賛的教会である。 国家主義的キリスト教だと「ビッグブラザーの掌中の道具としてのキリスト教」ということになってしまう。これを回避するには、アーミッシュなどの反国家主義的キリスト教を提示すれば良いのだが、いかんせん本邦では馴染みが無い。そこで、戦前戦中の「灯台社事件」がある某団体を選んだのではないか? 某団体が反国家主義的とは言え、現実にはその統治のシステムは擬似国家的である。また、戦中米国で行われた体制迎合方針を日本の「灯台社」の明石氏が批判して破門されているから、全くストイケイアの影無しとは言えない。そこで某団体に類似した、しかし、それそのものでない団体を描いたのであろう。 教会は、1984が批判する世界像と1Q84が批判する世界像との狭間にあって、あの1984と1Q84との差分の「Q」である「ほんとうの物語」としてのキリスト教のベクトルを追い求めていかなければならない。それゆえ「Q」はQEDのQではない。Quest(探求の旅)としてのQである。 キリスト教のベクトルが「ほんとうの物語」だとしても、ビッグブラザーorリトルピープルの誘惑に勝って「ほんとう」を守り続けるのは難しい。教会が暴力装置を使って住民を管理したり、精神操作を使ってメンバーを管理したり。1984と1Q84が描く「個人の魂の窒息」に加担することがあろう。 このQuestに生きること自体がベクトルである。ワタクシという存在は、絶対他者タル神を始源とする。神を見ることは自己の死を意味する。その神が死ニタモウタ(十字架)その神がフタタビキタリタモウタ(復活)その神がフタタビキタリタモウ(再臨)その神に身を投げ向けて生きるベクトルである。 | ||||
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正直に言うと今回の1Q84は過去の作品に比べて(海辺のカフカは読んでないのでそれ以外で)幾分質の落ちるものだった印象です。 たとえBOOK3、もしくはBOOK4で完結したとしても。 村上春樹は内面の混沌とした感情を表現したり、一人で思いをめぐらせ完結する流れを表現するのは非常に巧みですが、人との会話形式で感情を吐露させるような表現はそれに比べると数段質が落ちてしまうのか?羊をめぐる冒険でも似た様なパターンがありましたが今回はテーマが違っていたため雑になってたというか、そんなもんか?的な浅はかさみたいなものを感じました。 また著者が昔から拘っているものに対する描写と、そうでないものだけど登場人物の設定にしたものの描写にクオリティの差がありすぎて冷めてしまう部分もありました。 しかし上記のネガティブな条件をふっ飛ばしてしまうほどさらりとした文体と展開の鋭さは相変わらず冴えてます。 娯楽小説としてみれば十分寡作であると思います。 著者はこの作品で大きく方向転換をしたようです。 いままでは主人公「僕」が箱庭の中で物語を展開する「内に向いた」作品でしたが、今回のテーマは「愛」だったり親子関係だったり。モチーフにしたカルトやフェミニズムにも著者自身の問題提起があったのだと思います。テーマが内面から外に向かっていったようです。 そして書きたいことが沢山あるが故にどれも今ひとつ心に響かない。 フェミニズムからくる暴力やカルトの描き方には決して良い意味ではない驚きはありましたが。一つ一つの表現の質が今までの作品よりも雑に感じました。 親子関係に関しては深い部分が表現できていたと思いますが、自己愛と性愛の印象が強い村上春樹がそれ以外の愛を表現しようとしてもそれ以上に優れた表現が出来ていないというジレンマを感じました。 かなりネガティブに描いてきましたが、これだけの文字数ある小説を多くの人にさらりと読ませてしまう著者の文筆家としての力量は素晴らしいと思います。 村上春樹を絶賛する人も嫌悪する人もいますがレビューやブログの感想をみていると両方に的を得た意見があると思います。 一方盲目的に肯定したり、逆に全てを否定する人たちもいますが。 私はそんなに言うほど崇高な文学とは思えないし、毛嫌いするほど悪くない優れた娯楽小説家だと思います。 | ||||
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遅まきながら読んだ。いまBOOK3を執筆中かな。 ストーリーは1巻の最後ぐらいで盛り上がって、あとはまあ…、という感じだった。 ただ主人公の『空気さなぎ』の分析を『海辺のカフカ』と置き換えると、違う意味で面白く読めたり、物凄く文章が上手いので、どんな展開でもとりあえず面白く読めたりはした。 BOOK3を読んでみないとわからないけど、現状は過去の作品のほうがお勧めです。 | ||||
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