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1Q84
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1Q84の評価:
書評・レビュー点数毎のグラフです | 平均点3.66pt |
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Amazonサイトに投稿されている書評・レビュー一覧です
※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
未読の方はご注意ください
全219件 1~20 1/11ページ
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文体に深みがなく、実に長々とワンシーンを貧相な文章で、、テンポが悪い、挙句ストーリー性もなければ程度の低い性描写。 何故こんな評価されているのか理解できない。 読んでいて深いなったが、村上春樹の作品を一つはしっかり読んでみようと思いましたが、好き嫌いの相性の問題という枠を超えています。 酷すぎる。 | ||||
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AudibleでBOOK1、2を聴き結末が気になったので3は図書館で借りて読んだ。BOOK2で「空気さなぎ」が読みやすい本であることの説明で読みづらい本の特徴が自嘲的に書かれていたが、まさにそれ。ただでさえ共感できない、あるいは興味を持てない登場人物の心情の描写を読むのは修行レベルなのに、これだけの長編となると千日回峰かよといいたくなる。魅力的な人物となった牛河のパートは読むことが多かったが、天吾は斜め読み、青豆にいたっては章まるごと飛ばした。 | ||||
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ハルキストの方々に不快感を与えることを理解した上で、そして他の何作かの村上作品を読んだ上でのレビューです。 はっきりいって「二番煎じ作家」ですね。 この作家に「ノーベル文学賞」の受賞を求める方には「????」しか感じません。 とてもじゃないですけど「日本語の詩的表現」が全くといっていいほど感じ取れません。 例えば「川端康成」の「雪国」がなぜ「日本語的に詩的」なのかと考えると、多くの方がご存知の冒頭部分が「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった」止まりなのですが、それに「夜の底が白くなった」と続くところに「詩的表現」が現れているのです。少なくとも村上作品のどこを探してもそれに迫るほどの「詩的表現」は見つけられません。 そして殆どの作品における「構成」は古くは「夢野久作」や「小林多喜二」から始まって近代では「小松左京」そして海外では「チェーホフ」や「ドストエフスキー」などの作品の「焼き直し」にしか過ぎないと感じるのは私だけでしょうか。 何作読んでも「新しさ」も「感動」も「人生論」も見いだせません。 まぁ、読書を「学問」として行うのではなく「レジャー」として行うには好ましい作家であるとは思いますね。 批判的なレビューを書くのは本意ではありませんが、言いたいことははっきり言うのが私の信条なのでお許しください。 最後に付け加えておきますが、この「1Q84」は「ジョージウォーエル」の「1984」の「パロディー」と捉えると面白いのかも知れません。例えて言えば有名な「太宰治」の「御伽草子」とか「駈込み訴え」そして「芥川龍之介」のパロディシリーズとかと同様にですかね。 | ||||
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1Q84の1,2,3を注文いたします。2巻のカバーの下は1Q84の3巻でした。返金を希望します。ひどいことをしないでください。つらく泣きます。 | ||||
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村上春樹に慣れてないからなのか、性描写が不快に感じました。 身体は細身なのに巨乳で柔らかく、形が良い、乳首は小さい。そして陰毛は生えておらず、できたばかりのような性器の17歳って。ロリコン妄想がひどすぎる。 | ||||
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1600ページもあるのに、頭の中に多くのはてなマークを浮かべながらも、あっという間に読んでしまった。だけどほとんど何も心に残らない。本書の購読を勧めない。 以下はネタばれ。 天吾と青豆の10歳の時の淡い恋心、あの時もっと話かけておけばよかったと思う心は読者の多くに共感を呼び起こすだろう。しかしそれは本書のように生死を掛けるほどのことにはなり得ないと思う。大げさだ。本書が読者を惹きつけるもう一つの理由が、リトル・ピープルが率いる悪党と天吾・青豆の正義党との闘いというストーリーであろう。冒険物語だ。リトル・ピープルが率いる宗教団体「さきがけ」は明らかに「オウム真理教」がモデルである。あの25年前に大量虐殺をやったあの連中だ。読者は期待する、村上春樹は「オウム真理教」にどう対処すべきだったのか、彼らが生み出されないためには何が必要だったのか、ということに示唆を与えてくれるだろうと。しかし天吾・青豆は宗教団体「さきがけ」のリーダーをぶち殺し(しかも必殺仕事人のようにだ、情けない)、さっさと「1Q84年の世界」を逃げ出して「別の世界」に行ってしまう。読者は「1Q84年の世界」に残されて、彼らの逃亡を唖然とみているしかないのだ。おいおい、リトル・ピープルはどうするんだ? 父子相姦、肛門性交、麻薬吸引、殺人、これらにアレルギーのある人は買ってはいけない。また本書を哲学的だ(ユング?)、深い意味があるなどと評する人がいるが、私にはちっとも理解できない。ただ単に著者の好き嫌いが小ネタとして散りばめられているだけだとしか思えない。最後に繰り返し本書に出てくる以下の文を吟味していただきたい。 「説明されないとわからないのであれば、説明されてもわからないのだ」 星ひとつだと思う。 | ||||
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有名な本だから1回は読んでみようと思って、読んでみたが面白い内容ではなかった。 全く想像力がかきたてられない。 読んでいて、続きも読みたいと思わなかった。ちょっと残念。 | ||||
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他の方のレビューにもあるように、読後感が非常に悪い。最後の方なんかは、女主人公と男主人公が2人だけで盛り上がってセックスして、置いてけぼりになってしまい、読んでいるのが正直苦痛でした。幻想小説(一応分類としてはそうですよね?)に対して野暮かもしれませんが、妊娠中のセックスは止めましょう。ましてや女主人公は「小さなものを守る」と何度も心に決めているのに……とんだご都合主義だなと呆れました。 まず、好感を持てたり共感できたりするようなキャラクターが1人も出てこなかったのが残念。特に“麻布の老婦人”。これが鼻につく。 娘を死に追いやった暴力男への復讐だけでは満足できず、自分とはまったく無関係の男をも間接的に殺していく。自身の手は汚さず、他者(女主人公である青豆)を使って、そして善意と正義のベールを被って同じ人間を殺しているところが不快。何様なのか、と。感情をコントロールできないという意味では、DV男と大した差は無いように思える。 そして、この物語における一番の、いや唯一の被害者は牛河だろう。 ほんと牛河が何をしたって言うんだ?牛河を殺したのはタマルだが、間接的な要因も含めれば“麻布の老婦人”も青豆も、何ら罪の無い一般人を殺したことになるだろう。そこも彼女たちの掲げる正義に懐疑的にならざるを得ない。 女主人公の青豆にも、男主人公の天吾にも、最後まで1ミリも魅力が感じられなかった。 それでもbook1では村上春樹らしさが随所に散りばめられており、読んでいて「これこれ」という感じだった。 しかしbook2、book3と読み進めるにつれ、物語が破綻し始める。物語の破綻というのは、今までの村上春樹の著書で見られるような不可思議で、それでいて心地よい破綻ではなく、村上春樹自身にも手が負えていなさそうな破綻だ。 ただただ惰性で物語が続いているような感じ。長ければ長いほど良いってもんじゃない。book3で青豆が「性交してないけどこれは天吾くんの子ども。私にはわかる」なんて言い出した時は「地雷女甚だしいな!」と本を投げつけたくなった。これが勘違い女の想像妊娠にならないところが幻想小説の良いところなのか、悪いところなのか……。 作中にハシッシという麻薬が出てくるのだが、途中「村上春樹がこれを吸って見た幻覚をそのまま読まされているのか?」と少し疑ってしまったほど。それぐらい破綻してます。 村上春樹の「まるで〜のように」が好きだったけれど、その直喩表現も劣化の一途を辿っている気がする。初期の作品の方が断然いい。完全に個人の主観だが、村上春樹の作品はマイナスイオンを感じるような、読んでいて不思議と癒される本ばかりだったのに、どうして1Q84ではこんな風になってしまったのか残念。マイナスイオンどころか不快感ばかり覚えてしまう作品でした。ブック×フで沢山叩き売りされているのを見かけましたが、肯けます。幻想小説というジャンルはご都合主義展開の免罪符にはなりません。 | ||||
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世間で評判な作者なので三巻通して読んでみたが残念ながら読む価値なしだった。まず、タイトルの1Q84はオーウエルの1984を土台にしたらしいが、ビッグブラザーをリトルピープルに置き換える単純さ、オウムに似せた新興宗教、綿谷りさのような17歳の作家、他の文学作品や映画などからの意味のない流用、ものの言い回しにしても「コーヒーをつくる」はありえない「コーヒーは入れる」ものだろう。また自分の書いた文章の後にカッコ書きで本当はこうだったとか説明を入れるのも本気で推敲している作家とは到底思えない。シナリオの展開も無理無駄だらけでページ数が嵩んでいるだけ。ハリーポッターのような独自のな世界観を作りたかったのかも知れないがそれをするなら全編ファンタジーにするべきだろう。 | ||||
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「1Q84」を全巻読了。そのこと自体は充実感がないでもない。平易な文章、読み進めさせる話の展開があったから最後まで読めた。この点はストーリーテラーとしての作者の実力は認める。 しかし物語が何となくご都合主義で安直ではないかと思えた。最初に広げた大風呂敷が回収されずに尻すぼみになっている。アマゾンのレビューにもあったが、ひつこいほど見た目の醜さを強調され描写された牛河が残忍な殺され方をするのは不快感を感じた。見た目が良くないものは不幸な死に方をしないといけないのか?「福助頭」と揶揄したような表現が頻出するが、同じような容貌の人を傷つけるもののように思える。 対照的に青豆や天吾、ふかえり、老婦人など見た目の良い登場人物には一貫して贔屓的な描写をしている。この点も不自然に作者の恣意が感じられて不快だ。リーダーやタマルなど超人的な登場人物にも中二病的な不自然さを感じる。 そして話が長すぎる。結局はカルト宗教の理不尽さを指摘するというよりは天吾と青豆のラブストーリーという感じなのにあまりにも長過ぎる。作者の偏った妄想に付き合わされたという徒労感もある。 この本は勧めらないが、どうしても読むのなら、中古の文庫本で読んだり、図書館で借りて読むべきで、ハードカバーの新作を読むような小説ではないと思った。冗長すぎるせいもあり、先に読んだ「色彩を持たない~」の方が話としてはよくまとまっているように感じた。 | ||||
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一応全編読んだが何か好きになれなかった。 作品全体に決して表(文章上)には出さないが、決めつけのような価値観の暗示を感じ、読後感が悪い。 こういうのが好きな人にはたまらない世界なんだろうけど、わからなかった。 読んでいて、ファンタジーなのか、推理ものなのか、近過去懐古ものなのかわけがわからないまま終わった。読後感が悪い。 | ||||
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一読の帯がついているという商品でしたが、帯がなく、記載通りの商品ではありませんでした。 | ||||
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騎士団長殺しの販売キャンペーンで1Q84の紹介もあって、BOOK3があることを知りました。安く買えましたが、汚れが少し気になりました。すぐに読んで、少しすっきりしました。 | ||||
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初めて読んだ村上氏の作品。 皆さんの言う通り、不必要な性描写と気取った言葉ばかりで、本当に時間とお金の無駄だった。 何故こんな作品にあれほど騒いでいたのか…只々つまらない作品。これを面白いっていう人は周りに流されやすい性格の人だと思う。 今後、この方の作品はとても読む気になれない。 | ||||
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前半、中盤と話に引き込まれていたので、最終的にスッキリしたかったのですが、 いろんなものが謎のままで、腑に落ちない、というのが正直な感想です。 4が出て欲しいと願ってしまいました。 | ||||
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発売から8年以上経過して、つまり最近初めて読んだ。そしてAmazonのカスタマーレビューのいくつかもみた。酷評しているものや、絶賛しているもの、これだけ評価が分散しているのにある意味では納得した。この小説はもちろんリアリティはないし、ファンタジー性も感じられない。話題性はあるかもしれないが、内容は感心しない。登場人物の設定や使われているエピソードはまるでB級映画か時代劇からパクったのかと思われるものが多い。例を挙げれば、スパイダーマン、必殺仕事人。性的なエピソードも倫理や戒律にこだわらない開放的で安直なものーーこれはこの作者が好かれる一つのファクターだと私は以前から感じているのだけれどーーが変節して、登場人物の心的背景を描こうとしたにもかかわらず、安直な薄っぺらい、人によっては醜悪と感じさせる表現になっている。ということではっきり言ってエンターテーメントとでもない。ただ感じることは、作者が描いたのはイドラの世界で、さらに「市場のイドラ、劇場のイドラ」にとらわれて評価している読者が少なからずいるのではないか、そしてそれが開き直った村上春樹の狙いだったのではないかということだ。 | ||||
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BOOK2で終わりにしたら良かったのに…。 3はどうしても無理やりな感じが否めませんでした。 | ||||
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とにかくやたら長く感じます。 前に読み進めて行きたい気持ちにはなりますが、面白さと時間を秤にかけると自分の時間を優先してしまうぐらいだから、結局はつまらないんだと感じました。 細部にこだわった修飾的な語句の連続は実生活での豆知識的な意味で役に立ちそうな気がしますが。。。 | ||||
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タイトルの通り。 主人公は自分の仕事を終えると、禿げたオッサンを逆ナンパしてHに没頭します。 主人公が好きになれないんじゃ物語としては話になりません。 何で売れたのか謎です。 | ||||
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・・・というか、細部しか面白いところがなかったかな。 物語全体のモティーフは、はっきりいってまったく下らないとおもいましたので、いまさら何もいいません。 それでも文学的なよさが現れるていると思われた数少ない場面はあって、 それは天吾が房総の田舎の療養所で過ごすところです。 昏睡している父との無言の対話、田舎の看護婦達との交流、そして死んだ父をNHKの制服を着せて葬送することろ。 たぶんハルキ自身は天吾と一体化して、 父をあくまで邪悪な存在として位置づけており(昏睡中に霊はさまよってNHKの集金にまわることになる)、 さらには天吾の再出発の開放感を描くための必要から、 いい頃合いに都合よくストーリーから抹殺したつもりかもしれないが、 しかし死んでいくものが必然的にもってしまった超越性が、 作者の意図をこえて、これらの場面の美しさをつくりだしている。 あと勝手な憶測ですが、 天吾が父に内田百閒の『東京日記』を朗読するところ、なぜその作品なのかなと考えたのですが、 三島由紀夫が最後の評論で取り上げていたことをハルキは意識したのかなと。 天吾と言う名にも「天人五衰」が隠れている・・・というのは穿ち過ぎか。 しかし母親の不倫の記憶とか、父のわびしい葬式の場面は、「金閣寺」を思わせる描写があるし、 房総の場末の居酒屋での看護婦たちのの交流は、「獣の戯れ」の伊豆半島の小さい漁村での一場面を思い起こさせました。 実は三島にあってそれらの細部の描写は、超越性への悲劇的な期待をはらんだ場面として効果的に使われますが、 ハルキはそうした超越性を避けて、あえてそれをファンタジー(二つの月だのリトル・ピープルだのふかえりだの)に解消していこうとする。 それがポスト・モダンで今風な小説の書き方なのかもしれないが、私にはそこがまったくおもしろくなかったのでした。 | ||||
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