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むらさきのスカートの女
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むらさきのスカートの女の評価:
書評・レビュー点数毎のグラフです | 平均点3.46pt |
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Amazonサイトに投稿されている書評・レビュー一覧です
※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
未読の方はご注意ください
全201件 161~180 9/11ページ
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作者が紫のすかーとの女性をすとうかーする。読者はこの女性についていきながら、いつのまにか今村さんの世界にはまっていく。とにかく読んでいただいて、あとはみなさんのごそぞうにおまかせします。是非今村さんのせかいにはいってもらいたい。 | ||||
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今村夏子「むらさきスカートの女」は第百六十一回芥川賞受賞作。その書き出し。 <blockquote> うちの近所に「むらさきのスカートの女」と呼ばれている人がいる。いつもむらさき色のスカートを穿いているのでそう呼ばれている。 </blockquote> 「呼ばれている」が二度繰り返されている。「受け身」である。では、だれが呼んでいるのか。「うちの近所」のひとということになるが、この小説の「うち」はかなり広く、そこに暮らす人(登場人物)もわりと幅広い。「あひる」と同様、「大人」と「こども」、その中間に「わたし」がいる感じだが。「うち」が「わたし」だけの主張であるために、「大人」「わたし」「こども」の交渉が明確にならず、「呼ばれている」が「浮いている」。 この「呼ばれている」は「受け身」というよりも、一種の「逃げ」である。 ほんとうは「わたし」が「呼んでいる」だけなのに、「呼ばれている」と書くことで「客観」のように書く。他者に「共有」されているように書く。「うち」という書き出しがそういうところへ読者をひっぱって行く。 これは非常に「ずるい」書き方である。 これから始まる小説は一風変わっているが、「主観(うち)」的なもの、あるいはファンタジーではなく「客観」的なものである、つまり「共有」されたものであると作者は主張するのだ。もし、このストーリーが「共有」されないとしたら、それは読者が悪いのだ、と先に言ってしまっている。あるいは、これから始まるのは「客観」なのだから、「共有して」と哀願から始まっているというべきか。「呼ばれている」の繰り返しの中に、私は、そういう「作者の地声(こころの声)」を聞く。 この書き出しで、私は読む気力をそがれたのだが、少しがんばって読んでみた。 すぐに「むらさきのスカートの女」とは別に「黄色いカーディガンの女」が登場する。彼女は「呼ばれていない」、つまり共有された呼称にはなっていない。「わたし」が勝手に呼んでいるだけだ。黄色いカーディガンの女は「そと」の人間であり、しかも「うち/そと」を決めたのは「わたし」なのである。 この「微妙なずれ」を作品のなかで深めていけばいいのだが。 これもあけすけな「手法(ずるさ)」にすぎない。 「呼ばれている」と「まだ呼ばれていない」(わたしが呼んでいるだけ)をすれ違わせることで、「わたし」が「むらさきのスカートの女」と「呼ばれている」人間であり、その「呼ばれている」から「呼んでいる」人間になるために「黄色いカーディガンの女」を登場させたことがわかる。 どっちにしろ、「わたし」ひとりなのだ。「共有されたわたし」が「むらさきのスカートの女」であり、「共有されていないわたし」が「黄色いカーディガンの女」なのだ。「わたし」は「わたし」を「分裂」させながら、ストーリーにしている。「客観」と「主観」を交錯させる。 これは「あひる」の、「このあひるは、いままでのあひる?」「それとも別のあひる?」という交錯のさせ方に似ている。「事実」を知っている人と、知らない人がいる。知らない人も、実は知っていて知らないふりをしているだけ、とか。もう、細部は忘れてしまったが、「新しいあひる」は「いままでのあひる」と「呼ばれていた」のだったか。呼んだのは両親であり、こどもは知っているのに知らないふりをしてだまされ、「わたし」は疑問に思いながら「共有」を受け入れたのだったか。 まあ、いいか。 こういう「交錯」は「あひる」のように短い作品か、もっと長い作品でないと「交錯」が「作為」としてしか見えてこない。この小説も五十枚くらいの長さなら楽しいかもしれないが、長すぎる。 舞台が「うちの近所」から「わたしの職場」(うちのホテル)に移ってからは、もう「呼ばれている」は消え。「うちの職場」なのに、ひとりひとりが固有名詞を持ち「うち」が「そと」になってしまう。むらさきのスカートの女は「日野」という名前がつけられ、「そと」の世界では「風貌」のかわりに「人間性」が「噂される」。「風貌」よりも「行為」そのものが「共有」される。「噂」は「呼ばれる」の別の言い方である。ストーリーがここからは別なものになってしまうのだ。 それをもとにもどすために、作者は「ファンタジー」を持ち込む。不倫の上司が会談から落ちて死んでしまう。ほんとうは気絶だった、と言いなおす。 「呼ばれる」「呼んでいる」を強引に「気絶を死んだと呼んだ(呼ばれた)」という形に転換できないこともない。「わたし」が「所長が死んだ」と「呼び」、それが「むらさきのスカートの女」には「所長が死んだと呼ばれた」と。 ばかばかしくて、やめようと思ったが、最後まで読んだ。 すると「予定調和」そのままに「わたし」が「むらさきのスカートの女」としてこどもたちに「共有」される。 最近おもしろかったのは「コンビニ人間」だけだなあ、と思う。あの小説には「音の発見」があり、それが小説の「文体」をつくっていた。 この小説では「呼ばれる(暗黙の、うちの世界)」が「飾り」で終わっている。「ホテル」からは通俗小説になってしまっている。 | ||||
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今村夏子は世の中からちょっと外れた人間を描くのが物凄く(物凄くという言葉では足りない。これは才能の域)上手い。「こちらあみ子」を読んだ時の「この作家は凄いのでは?」という予感は「あひる」「星の子」で確信に変わった。流石にそろそろネタ切れを起こすのでは……と思っていたけど、本作もまた違った「少し変わった人」の視点で描かれている。 今村夏子の本は……びっくりするくらい、リアリティがある。胸が痛くなるほどに。切なくなる。読み手である自分自身がマイノリティだから、「今村夏子は〈わかってる〉」と泣きたくなる。 一般に受ける本だなんて思わないけど、今村夏子の小説に救われるような気持ちになるマイノリティはきっとたくさんいる。自分だけじゃなかったんだ……って硬質化した孤独が溶け出す。 ゆっくりでいいから、この先も小説を書き続けて欲しい。 この小説にどんでん返しとか、ストーリーそのものの面白さを期待するのは個人の自由だけれど、今村夏子の小説の面白さはそんなところではないのだ。最初から最後まで、どの本も私には面白かった。 今村夏子の才能は……非常に貴重なものです。社会が定義する「ふつう」から外れた人を特別扱いせずに描くのが上手い。日本で今この感性を持っている作家はとても珍しい。正直、賞なんて取らなくても良かった。関係ない。受賞歴なんて関係なく優れた作家だと思う。 | ||||
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前の芥川賞候補作『星の子』でいいなと思ってたら今回受賞、楽しみに読み始めた。 読み始めて最初、色が印象的。タイトルのむらさきのスカートにはじまり、クリームパン、黄色いカーディガン、青い衣装。このむらさきのスカートの女が色々な人に似て見えるのは、後から考えれば自分の憧れの人物像の投影か。 その憧れが近づくにつれ普通の人に見えてきて、今度は自分が憧れの人物そのものになると捉えるのが妥当か?その過程もいいテンポで語られ、最初むらさきのスカートの女が異常な人と思っていたら、徐々に主人公こそが異常であることに気付かされる流れは静かな表現なのになんとも不思議な迫力があった。 むらさきのスカートの女が忽然と姿を消すことでその実在さえもが疑わしく感じさせ、最後のシーンにつながることで余韻を持たせたのかな?ちょっと不思議な終わり方。 最後は何故か安部公房『箱男』を思い出した。 | ||||
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新品を注文したはずなのに、本誌カバーの一部は破れてるし、カバー通り越して、本自体 一部 陥没したような深いキズがついてるし。おまけに 本の中には 長い髪の毛が挟まってるし。 なかなか忙しくて、本屋にもいってる時間ないし、少し定価より高くなるけど まーいっかと思ってAmazonで注文したのに。 何だか詐欺にあった気分。 面倒くさいから、返品も交換もしないけど、こんな事 2度と誰にも 起きてほしくないと思って レビューを書きました。 星1個つけるのも 勿体ないと思える気分です。 | ||||
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私にとって初読みとなる今が旬の人気作家・今村夏子さんの芥川賞受賞作です。良い悪いは別にして文学賞の受賞は作家の勢いと時の運が絶妙なバランスで微笑むのかなと思いましたね。スピン(栞紐)の色が紫で表紙イラストも奇妙な味わいでビジュアル的にも中々にインパクトがありますね。女主人公の「むらさきのスカートの女」に対するストーカー的な監視と献身は些か異常ですが理屈抜きでそれ程に運命の人だったのでしょうね。友達になる悲願の夢が消え去ったのは残念ですが、彼女の代役を務めて何時か帰って来る日を待つのが一生の仕事でしょうね。 「むらさきのスカートの女」日野まゆ子は惨めだった生活を脱して幸福な安定した人生を歩み始めたのに欲張り過ぎて道を踏み外してしまったのがとても惜しかったですね。彼女を静かに見守る「黄色いカーディガンの女」権藤チーフの行動を、滑稽を通り越して狂気と見る方もいるかも知れませんが私はそうは思いませんね。彼女の人生の好転を我が事の様に喜び身を削ってでも救いの手を差し伸べ例え裏切られても少しも恨まない、これはもう疑いなく真実の愛だと思いますし、とにかく貧しさに負けずに己を信じてしぶとく精一杯人生を全うして欲しいですね。 | ||||
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今度の芥川賞受賞作は、女性がむらさきのスカートの女に興味をもちつけ回す話、ときいてそれだけで面白そうだと購入。 そして期待通りとても面白いものでした。サスペンスのような要素もあり、どうなるのかドキドキして一気読み。時代設定は10年ぐらい前でしょうか。 今なら「なぜまだ若い女性がこんな生活してるの」と思いそうですが、10~20年前なら「誰でもありえる話」だった気がします。 若者が日雇いバイトで食いつなぐ。女性のホームレスも珍しくない。フルタイムのバイトは争奪戦。採用されやすい職場はろくでもないから離職率が高い。 高級ホテルの客室清掃の仕事は面白そうでした。登場するスタッフ達は関わりたくないような感じの人ばかり。 同じく清掃の仕事など点々として突然解雇されたりと不安定だったであろう作者は、時々作家の主婦みたいなので「なんだ。私の方が不安定で貧しそうなのに高い単行本買うんじゃなかった」と思わされました。 最近の芥川賞は昔より軽い作品が多いのでしょうか。「ちょっと面白い小話」とは思ったけど、純文学なのかは謎です。 | ||||
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「むらさきのスカートの女」は、常に紫のスカートをはいているわけではない。子どもたちと視点人物にだけはには有名だが、実はそれほど世の中に認知されているわけではない。どれが客観的事実でどれが主観的意見なのか、判然としない部分がある。 視点人物にとって「ともだちになりたい」とはどういう感情なのだろうか。友達になりたい人に対して、肉屋のショウケースに激突するほどの勢いで全身で体当たりしに行くか?名前を知っているのに心の中で迄「むらさきのスカートの女」と呼んでいるのはなぜなのか。 謎だ。視点人物の容姿が想像できない。続編「黄色いカーディガンの女」執筆希望。 | ||||
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この作品が芥川龍之介賞受賞後に読みましたが、大衆文学としては兎も角、純文学として選出されることはどうかなと感じました。近年の芥川賞の受賞作が純文学か否かは何年も前から議論されることですが、この作品は明確に純文学とは言えないと感想します。 その理由の第一が『伝えたいことが何なのか』さっぱり伝わらないこと。 むらさきのスカートの女や黄色いカーディガンの女の人生観や願望など、私にはまったく伝わりませんでした。 人生観も願望も何もない女を描いているのかもしれませんが、それならそれで退廃性や利己主義を表してほしかった。 伝えたいことがない作品ならば、読者との共感は生まれません。共感がないものが、学校の教科書に載っても構わないような純文学と言えるかどうか。 一方、共感がない作品もあります。ドキュメンタリーなどの作品も共感がない場合もあります。 金原ひとみさんの『蛇にピアス』、綿矢りささんの『蹴りたい背中』、田中慎弥さんの『共喰い』などなど、共感するかというとそうでもないタイプの読者もいたはずです。しかしそういう作品は、自分が知らなかった世界に驚くから感動するわけです。でも、むらさきのスカートの女や黄色いカーディガンの女のような変わり者は皆の近くにわんさかと居ます。今さら驚きません。 共感も感動も何もない作品が純文学と言えるのだろうか。 第二の理由が『進行の視点が変わること』です。 黄色いカーディガンの女という『私』の語り口で物語りは進行しますが、度々途中で『私』が見えないはずのところを描写します。 まるで劇画や脚本作品のようです。 漫画や映画も好んで観ますが、その手法を純文学に持ち込むと読んでいて疲れます。 * * * 作品としては面白いのかもしれません。僕は全く面白くなく、どこでどんでん返しが起こるのかと思っていましたがそれも起こらず消化不良でしたが、多くの人には興味ある作品なのでしょう。 でも、純文学作品の登竜門、芥川賞ということに関してはどうなのか。そういう気持ちで読み終えました。 芥川賞には、純文学であること、新人であることという条件がありますが、これが選考を苦しめているのではないでしょうか。純文学を書ける新人を年に二回も選出することが難しいのではないでしょうか。ならば、新人という条件を捨て、ベテラン作家が何度も芥川賞を受賞しても誰も不愉快にならないと思いますがいかがでしょうか。 | ||||
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序盤あまり面白くないと思いましたが、黄色いカーディガンの女が誰か分かったあたりから どんどん読めてしまいました。 語り手の黄色いカーディガンの女は、むらさきのスカートの女にシンパシーを感じて友達になりたいと思ったと 思うのですが、ある出来事から黄色いカーディガンの女は彼女に裏切られたと感じた瞬間があったと感じました。 殺人犯?になってしまったむらさきのスカートの女を逃亡させる黄色いカーディガンの女の行動の裏には、冷酷さが隠れている気がします。 黄色いカーディガンの女が欲しかったのは、むらさきのスカートの女という「友達」ではなく、誰からも相手にされず誰とも関わろうとしない、自分の鏡のような人間だったのではと思いました。 | ||||
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23年間生きてきて人生で初めて小説を読みました。本を読むのが苦手な私でも一週間も掛からずに読み終えることが出来ました。 美しい言い回しや回想シーンなどがないためか、とても読み進めていきやすい作品でした むらさきのスカートの女は現実世界の街中でもたまに見かける風変わりな女性です。 「あの人って普段どんな生活しているんだろう?」という地味に気になる存在を、主人公の「わたし」が代わりに探っていってくれる感覚です。 最初から話しがおかしいのに、途中からそのおかしさが普通になっていき いつの間にか、「主人公→むらさきのスカートの女」という形が 「読み手→主人公→むらさきのスカートの女」 という私達が主人公のストーカーへとなっていきました。結局のところ私達は主人公のような人物にになり得るし、むらさきのスカートの女のような存在にもなり得るんだと思いました。 それをめちゃくちゃ激しく書いたような感じです。 初めて読む本をこの本で本当に良かったと思いました。これから本を読もうと思わせてくれる作品に出会えて本当に良かったです。 | ||||
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すいすい興味深い展開に楽しく読めました。 でもむらさきのスカートの女っていう言葉の繰り返しが多いかなと。 黄色いカーディガンの女は何がしたかったのか・・・? 好き?だからストーカーのような感じになるのかなぁ こんな人に目をつけられたらコワイです。 ホテルの清掃という作者の経験が生きた作品でもあるんですね そういう点ではコンビニ人間も同じだなと思ったりします 続編があったら面白いですね☆ | ||||
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※ネタバレ 謎が謎のままでスッキリしない作品。 黄色のカーディガンの異常な女が、紫のスカートの普通の女をストーキングする話。 黄色のカーディガンの女はなかなかの策士で、紫のスカートの女を自分の職場に就職させたり、盗人の疑いを向けさせたり、所長が死んだことにしたり、させた。しかし、結局、1番の目的である紫のスカートの女と友達にはなれない。笑 コメディー? | ||||
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むらさきのスカートの女、というタイトルに惹かれて購入。その後読む前に、芥川賞を受賞したことを知って、期待して読み始めた。 実はここ何年か現代の日本人作家の小説を読んでがっかりさせられることが多いので読み始めるのを躊躇していたのだ。 中編程度の長さなので、三時間足らずで読了。 感想は… 黄色いカーディガンの女、という人(語り手)がいて、日頃から近所に住む紫のスカートの女が気になって仕方がない。 その人に近づく手段をあの手この手を使って考え出し、やっとのことでなんとか近づいたと思ったら、その人はするりと抜けだして何処かに消えてしまう、というようなストーリーである。 確かに、最初の導入部はワクワクさせる。 しかし、読み進むにつれ、おかしいのは紫のスカートの女では無く、語り手である黄色いカーディガンの女では?と気付き始め、そのあたりから急速につまらなくなってくる。 紫の方は職場でも普通に仕事をして、上司と不倫関係に陥ったりもする、どこにでもいそうな女であった。 そして、そのどこにでもいそうな女にそこまで執着して日常生活をすらまともに送れない黄色の方が遥かに異常である、ということが明らかになってくるのであるが、さてそうなると何故黄色が紫に執着するのか、というのが皆目わからない。 最後に思わぬドンデン返しでもあって、オチがつくのだろうと思いながら読み進めても結局何もわからず、そこには何も残らないのである。 元々ミステリーではないのだから、そんなオチを期待して読む方が悪いのだが、これではあんまりな気がする。 都会に生きる孤独な人間のストーカー的な狂気を描いているということなのだろうか。 そんな例を提示することによって、今の時代というものを描いているのか? この小説を読み終わって感じたのは、書きっぱなし、という感じである。 確かに紫、黄色という補色関係を名称に用い、こうだと思ったのが実はこうだった、というような反転を描いている面白さはあった。でもその後に得るものが何もないのである。読み終わって虚しさだけが残る。 芥川賞の選考委員がどのような点で評価したのだろうか。 レビューで、アガサ・クリスティの「春にして君を離れ」を引き合いに出しておられる方があったが、実にうまい対比だと思った。 まさにそれである。 この小説も、こうだと思ったのが、実はこうだった、というのだが、読み終わった時に、鳥肌が立つような感覚があった。 怖いのである。殺人も何もないが一人の人間が裏返すと全く違う面を持っていたと気づくことの恐ろしさ。読み終わった後思わず自分自身や、周りの親しい人たちを違った目で見てしまう、 人を見る見方がぐるりと反転する恐ろしさ。 ある意味で彼女の書いてきた数々の殺人事件より怖いと感じた。 小説を読む面白さとは、これではないだろうか。 読む前と読んだ後で、ほんの少しでもいい、世界が違って見えること。それこそが、小説を読むことの醍醐味であると、私自身は思っている。 その意味で、この「むらさきのスカートの女」にはそこまでの筆力を感じなかった。 | ||||
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「うちの近所に『むらさきのスカートの女』と呼ばれている人がいる」と書き出して、その女性がどれほど変わっているかが述べられる。若くはなく、髪はボサボサで、シミもある。いつもむらさき色のスカートをはいて公園の隅のベンチでクリームパンを食べている。むらさきのスカートの女の行動をつぶさに観察する「わたし」・自称「黄色いカーディガンの女」は彼女と友だちになりたいと願う。そして、「わたし」はベンチに求人誌を何度も置いて、とうとう彼女を「わたし」の職場に誘導することに成功する。ホテルの客室掃除の職場に入った「むらさきのスカートの女」はすぐに仕事を覚え有能ぶりを発揮する。やがて職場で事件が起こり、「むらさきのスカートの女」と「わたしは」は初めて向かい合って口をきくことになる。 読みながら疑念がしだいに膨れ上がってくる。なぜに「わたし」はこうも「むらさきのスカートの女」に執着し、つけまわすのか。普通なら知りえない会話の中身まで書かれている。これではまるでストーカーではないか。「わたし」のほうが「むらさきのスカートの女」よりもはるかに問題のあるヘンな人ではないか、と。平易な文章でさらさら書かれているが、その内容は不気味で、読み手の不安をじわりじわりとあおる。そして、意外な展開の末にラストに描かれる「わたし」の姿に唖然とすることになる。 平易な言葉よって不穏な雰囲気を醸し出す文章力はたいしたものである。会話が生きていて、どんどん引き込まれる。人物の造形やストーリーの展開も巧みである。このユニークな作風が新しさと評価され芥川賞につながったのだろう。しかし、「巧いな」「面白い」と感心はするけれど、感動には至らない。感性の鋭さや技巧は評価できるが、表層的で深みに欠ける。それが「面白い」と感じても心動かされるほどではない理由であろう。 本書を読んでアガサ・クリスティの小説「春にして君を離れ」を思いだした。本作品と同様に一人称で書かれており、幸せな生活を送る人格円満な婦人が、過去を回想するなかで実は自分は狭隘で冷酷な性格の女性だったことに気づく逆転のストーリーである。クリスティは婦人を覆っていたベールを1枚1枚はがし彼女の真の姿を見せるのだが、その衝撃は大きかった。結婚とは、愛情とは、豊かさとは何か?人生とは何か?という問題を読者に突き付けるからだ。つまり読者をして自らの人生を振り返らせる力をもった小説なのである。今村夏子さんの芥川賞受賞作をアガサ・クリスティと比べるのはふさわしくないかもしれないが、感性と文章の巧みさでは太刀打ちできない文学の世界があることを指摘しておきたい。 | ||||
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この著者の作品は初めて読みました。結論から言ってファンになってしまいました。 受賞を受けてあらすじが広く知らされることとなり、興味本意で読みました。あらすじに惹かれた方、読んで後悔はないんじゃないでしょうか。知らされたあらすじの通り、観察者の異常性、要は地の文の人物がどうかしてるという話なわけですが、その異常性がツボでした。滑稽劇と言っていいと思うんですが、ところどころ「お前どうしちゃったんだよ!」など心の中で突っ込み声を出して笑いながら一気に読んでしまいました。終わり方も好きですね。全く存在感なく生息しているかのようにおもえた地の文の人物ですが、終盤にさらっと所長が、彼女の異常性がごく一面だけではあるものの社会的にバレていることを伝えるところが特に好きです。 地の文の人物が徹底的に執着する「むらさきのスカートの女」に起こる顛末は、それだけ抜き出せば結構ありがちというか書き手によっては三文小説にでもなりそうな話です。また平易な文章も相まって、子供たちとのやりとりは絵本的ですらあります(リンゴのとことかね)。それでいて客室清掃業界モノっぽいところもあり。 なんとも不思議なバランスの作品だと思います。とりあえず芥川賞に、この作家を教えてくれたことに感謝します。他の作品も読んでみます。 | ||||
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TVでの内容紹介に惹かれて購入しました。 単調な文章なので1日で読めました。 むらさきのスカートの女の鼻をつまむシーン等、クスっとさせる箇所がいくつかあります。 ただ、読み進む度にオチをあれこれ想像し過ぎて、読後感はあまりよくありませんでした。 最初は話し手の描写が殆どないので、二重人格的なストーリーかな?とも思ったのですが、、、 星新一作品の様なオチかとも思いましたが、それにしてはオチが弱いですし、私には物足りない1冊でした。 | ||||
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他の方のレビューを拝見して、勝手にファンである乃南アサさんの様な雰囲気の作風を想像しておりました。 とても楽しみに本を開いたのですがあまり内容に奥深さが無く、かと言ってそれ程狂気でも無い… この作品を読む前に上記作家の「暗鬼」を拝読していて、そちらがあまりにも常軌を逸していたのでその影響もあるかもしれませんが… 物足りない この言葉に尽きる感じでした。 | ||||
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んー 読みやすいけど、 僕でも書けそうと思えば書けそう。 だけど、 こういう素朴な感じが受賞されるんですね。 | ||||
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頭が混乱している。それは私の読解力が弱いというのも関係しているだろうけど……。 一般的に、頭の混乱しやすいタイプの純文作品ってかんじだ、エンタメと純文の中間らへんだろうか? 物語的には、後半までは、どちらかといえば、退屈な話が、だらだらと続いているようにかんじた。 だがしかし、後半一気に物語が加速して、一気にひきこまれていくようだった。 ごちゃごちゃと話が絡まったまま、わからずじまいに終わったけれど、 なるほど、なかなか、名作っぽさの滲みでている作品だったような気がする。 | ||||
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