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むらさきのスカートの女
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むらさきのスカートの女の評価:
書評・レビュー点数毎のグラフです | 平均点3.46pt |
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Amazonサイトに投稿されている書評・レビュー一覧です
※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
未読の方はご注意ください
全201件 181~200 10/11ページ
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本当に近年の芥川賞はどうなってしまったんでしょうか。 本作然り、コンビニ人間然り、わざとらしく気味の悪い女の話をねっとりと描けば、日本文学の頂点になるのでしょうか?それがウケると思っているんでしょうか? 美しいものや、希望に満ちた名著を書け・選べと言っているわけではありません。 ただ、震災以降の表現の在り方を、今一度見直して下さい。 現代の人々が文学に求めているのは、このような安っぽいストーカー小説ではありません。 | ||||
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平易な文体で書かれた、ある意味、スリラー作品です。むらさきのスカートの女が気になって、仕方がない主人公が、その女と同じ職場に勤めるようになり、次第に精神のバランスを崩していき、最後には、ある事件が起きてしまい、その事件と共に、むらさきのスカートの女の行方も不明になる、というのが、筋書きです。 今の時代、小説や映画を製作する人にとっては受難の時代なのかもしれません。この作品にしたところで、1960年代に製作された映画「コレクター」(監督はウィリアム・ワイラー)と基本的には同様のものです。即ち、「物語」が払底しているのです。もう、筋書きに関しては書き尽くされている感があります。最近のどの作品(小説にしろ映画にしろ)も既視感は拭えません。退屈な作品があまりに多過ぎます。 最近、新しい芥川賞受賞作を読むのが、苦痛でなりません。 | ||||
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「むらさきのスカートの女」の幻想を抱く主人公(黄色いカーディガンの女)は、同じ街に住むある女性を、ストーカーのように追いかけ始めます。黄色とむらさきの境界はしばしば曖昧となり、街中から奇異な目で見られ子供たちの好奇心の的となっているのは、案外、黄色いカーディガンの女の方かもしれません。 「むらさきのスカートの女」を追う主人公の異常とも言える執着心が、やわらかな筆致で書かれていて、読み手は不思議な世界に迷い込むことになります。 主人公は <バザーで小遣い稼ぎをして>います。 むらさきのスカートの女とおぼしき人物は、主人公の目を通してはじめはとてもミステリアスに映るのですが、物語の展開につれて、だんだん普通の女としての姿があらわれて来ます。 結局、むらさきのスカートの女と見えた女性は去ってしまうのですが、 主人公は次なるむらさきの出現を待つかのように、公園のベンチに座り続けることを決意します。 苦い読後感を残す物語でした。 【追記】 この小説を表層的で深みに欠けると評価しているレビューを見かけましたのでひと言… 信頼できない語り手が、物語の終盤で本当の姿を現すという点において、アガサ・クリスティとの類似点はあるが及ばない、という指摘をされているのですが、この小説が技巧的に優れているだけとは私は思いません。 実は問題を抱えている語り手の病める心理と悲しい思いが、読みながらひしひしと伝わってくる心動かされる物語だと感じました。 実在するのは「まゆ子」さんであり、「むらさきのスカートの女」は語り手の自己投影であるように思います。 「黄色いカーディガンの女」の哀しみが見えて来るような気がします。〔8月7日〕 | ||||
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むらさきのスカートの女と黄色いカーディガンの女。さて、この作品の主人公はどちらなのだろう。黄色いカーディガンの女の視点で、むらさきのスカートの女の話が進行する。変な展開ではない。でも、読み進めるうちに、ストーカーのような行動をとる黄色いカーディガンの女の異常性が滲み出てくる。作品はいつのまにか変質者から見た普通の女の物語となる。真実は読者しか分からないが、登場人物を客観的に見ると、誰もが普通の生活を送っているだけだ。つまり、普通の生活の中に異常があり、異常に見える生活の中に普通があるのかもしれない。 | ||||
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著者の力量に感心した。読めば読むほど謎は深まる。この着想が見事である。年齢不詳、容姿端麗か否かも不明。仕事探しをしているらしい。ホテル清掃の仕事に就くが、色々なことが起きる。 読者は「むらさきのスカートの女」の行方ばかりに注目するが、本当は語り手である「私」の方に注目しなければならないのだ。なぜ、語り手である「私」はこれほどまでに「むらさきのスカートの女」を付け回すのか? 実は作者が描きたかったのは、この「私」の方ではないかということに気づかされる。単なる興味本意ではない、何かがあるはずだ。 それはこの小説を読む密かな楽しみである。今後の展開が楽しみだ。こういう小説を「キャラクター小説」というのだ。 次回作品にも期待したい。面白い小説を書く作家の誕生を喜びたい。 | ||||
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近所にむらさきのスカートの女と呼ばれ、この界隈では有名な中年?女性が住んでいる。彼女は見た目は若く見えるのだが、よく見るとある程度年齢がいっているのがわかり、ひとたび商店街を歩こうものなら周りの人たちは各人各様さまざまな表情を見せる。 子供たちの間で、むらさきのスカートの女にジャンケンで負けた子がポンと肩にタッチするという、少しばかり勇気のいる遊びが流行っているらしい。 主人公は実のところ、むらさきのスカートの女と友達になりたいと真剣に思っているのだ。そのために涙ぐましいほどいろいろな方法を考え実行に移そうとしている。 昔、私の近所にも「ラジオ」と呼ばれるおじさんが住んでいて、夕方になると家の前に立ってはプロ野球や大相撲、時には天気予報なんかをラジオで聴いたそのままを口にしているのだが、今考えてみると、その人の記憶力はとんでもなく凄いものだったことがわかるのだ。 時々、その人の前を通り過ぎるのだが、一度としてまともに話したことはなく、どんな人だったのか謎のままだった。 昔は近所でも名物人間はよく見かけたものだが、今はどうなんだろうか?それにしてもこの二人、話の進行とともに立場が微妙に逆転していきそうな気配を感じさせるミステリータッチな展開に面白さは倍増していきます。 | ||||
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レビュータイトル<「むらさき」の補色は、もちろん「黄色」である>で、書きたいことは書き尽くした。「こちらあみ子」と並ぶ傑作だと思う。 付け加えて書くとすれば、「所長」と「むらさきのスカートの女」との逢瀬を執念深くストーキングする場面、まるでスマホで動画撮影していくような映像的な記述の顛末に大爆笑した。 | ||||
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「むらさきの女」と取り巻くホテルの人たちのやりとりがリアル。場面の展開、ストーリーのつなぎ方、構成、間違いなく上手いです。セリフもコンパクトでリアリティがある。けれど全体的には少し物足りなく感じました。 だんだんと「むらさきの女」が何をしようかどう行動しようか、そこまで興味、関心が持てなくなってきました。感情移入できないというか、所詮は他人事、というか、、、 | ||||
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「むらさきのスカートの女」が、社会からドロップアウトしたような生活をしているうちは それなりにアトラクティブでミステリアスなのに、 だんだんと社会化するにしたがって、 その辺にいるあまり質の良くないねんちゃん、に変化していくところが面白い。 むらさきさんを自分と同じ職場で働くように仕向けたのも、 ホテルのタオルを盗んでバザーに出品し子供たちに店番させたのも、 死んでない男を死んだと偽ってむらさきさんをにっちもさっちもいかなくなった現実から逃がしたのも 「黄色いカーディガンの女」(語り手)です。 人から全く注目されないこの女、なかなかの策士なのです。 語り手はむらさきさんの社会化に見事に失敗しました。 次はどんな色のスカートをはかせて、再挑戦するのでしょう? 成功することをお祈りしています。 | ||||
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芥川賞を受賞したんだし、紹介文も魅力的だったので結構期待したのだが、最初から最後まで面白くなかった。単に趣味の違いなら仕方がありませんが私の感性が時代からズレているのかと寂しい気持ちになりました。 | ||||
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その衣服から「むらさきのスカートの女」と呼ばれる人物がうちの近所にはいる。商店街のクリームパンを公園のベンチでぱくつく姿がよく見かけられ、アルバイトで職を渡り歩いているようだ。「わたし」はこの女が気になり、自分の働くホテル清掃の仕事につけるように誘導する…。 ------------------------ 『こちらあみ子』、『あひる』、『父と私の桜尾通り商店街』と、読むと常に心がざわつく物語を紡いでくれる今村夏子の最新中編小説です。現在(2019年7月13日)、第161回芥川賞の候補に挙げられていて、来週17日の午後には受賞するか否かが発表されるタイミングにあります。 今回の主要登場人物は、変人の部類にくくれそうな「むらさきのスカートの女」です。彼女は昼日中から公園のベンチでひとり腰かけ、いつもクリームパンをかじっています。ご近所衆からは少し距離を置かれそうな存在です。「わたし」の策略とも知らずにアルバイト情報誌に導かれて清掃の仕事につき、高度なコミュニケーション能力を求められるわけでもない職場で働き始めますが、それでも「女」はほどなくして、その職場仲間たちにするりと受け入れられていきます。一方で「わたし」は下戸で同僚に夜の集まりにも呼ばれることもなく、存在感も希薄な人間でしたから、異質な存在だからこその親近感を覚える対象だったはずの「女」が社会の<一員>へとうらやましくなるほど素直に変貌を遂げていく姿に焦慮の念を懐くのです。 今村夏子の小説は思い切った深読みを許す寓話だと私は考えます。今回でいえば、「女」はいつも身に着けている色と、社会と広く接点を結べずにいる点を見ると、例えば昨今話題の訪日外国人労働者を想起させなくもありません。異質である彼らがやがて日本社会に受容されていくと、社会からはじかれてきたと強く感じていた日本人は彼らを怨嗟の対象にすることもあります。「女」と同じだと思っていた「わたし」は物語の後半で、職場の上司――これはある種の社会的権威や既成のエシュタブリシュメントの謂いに見えてきます――との関係性の変化を契機に職場の中でその所在地を不安定にしていきます。外部からやってきて異質なままでい続けるだろうと思い込んでいた存在が、集団のメインストリームへと合流していくときに生まれる感情の軋轢が巧みに描出されていると私は感じたのです。 一通りの顛末の末に「わたし」が「黄色いカーディガンの女」へと変わることに読者の心は大きく揺さぶられることでしょう。 私とはいったい誰なのか。誰かとの関係が生まれ、それをきっかけに心揺すぶられ、そして従来の安定性が壊れていく過程の中で、自分という人間の定義は変わるのか変わらないのか。また定義が変異する一方で、人の本質は変わるのか変わらないのか。 巧みな物語を読み終えて、そんなことを思いふけりました。 ------------------------ *4頁:私が読んだ<2019年6月30日 第一刷発行>の版では「食べのも」という表記がされていますが、正しくは「食べもの」でしょう。「の」と「も」がひっくり返っています。朝日新聞出版にしては珍しい校閲漏れです。 ------------------------ 「深読みを許す寓話」と私が考える物語を以下に紹介しておきます。 ◆イバン・レピラ『深い穴に落ちてしまった』(東京創元社) :スペイン北部ビルバオ出身の作家が2013年に発表した、邦訳にしてわずか100頁強の掌編小説です。兄弟がなぜ穴の底にいるのか、明確な説明は提示されません。<穴>、<兄弟>、<脱出>、<母>――多くが何かの寓意として用いられていることは確かですが、読者それぞれが自由に解釈することを許された作品といえるでしょう。 ◆ジョージ・ソーンダーズ『短くて恐ろしいフィルの時代』(角川書店) :内ホーナー国は国土があまりに狭く、国民は一度に一人しか身を置くことができない。それを取り囲む外ホーナー国の人々は内ホーナーを侮蔑的に眺めていたが、特に野心家の外ホーナー人フィルは、内ホーナー国に苛烈な税金を課すことを提案し、あげくの果てに税金を払わない内ホーナー人を解体しようとする…。 二つの国の国民たちは機械と植物とが接合した奇怪な姿かたちをしています。そして外ホーナーが内ホーナーを不当に差別し、やがてジェノサイドへと発展していく様は、人類が何千年もの間反復してきた、偏狭で頑迷な民族間闘争の寓意の物語として読むべきなのかもしれません。 . | ||||
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「こちらあみ子」も一直線の少女だったが、こちらの「黄色いカーディガンの女」の思い込みもすごかった。逸脱を逸脱と思わない主人公(「私」)が全編にわたって説明しがたいおもしろさを醸し出して、布団の中で寝返りも忘れるほど熱中して読んでしまった。読む人を選ぶかもしれないが、はまるとたまらない一冊です。 | ||||
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芥川賞候補になったということで、今村さんの作品を初めて読みました。とても面白かったのですが、他のかたも書いていたと思いますが面白さを説明することが難しく、また自分なりの「こういうことか」といった落とし所みたいものが見つけられず、気がつくと、この作品のことを考え続けています。つまりはそういう面白さがあるということなのかな。プロの方の書評とか感想とか、もっと色々読んで他の方の解釈を知りたいなと思わせる作品。 | ||||
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これまでの作品とは異なり、勧める相手を選ばなければならない要素が薄く、良い意味でも悪い意味でも作者の、展開であったり手際であったりの巧みさが際立った作品であると思います。 ただ、とても瑣末なことではありますが、4ページの終わりから2行目に、「食べもの」が「食べのも」になっている誤植があって、愛読者を自認する者としては胸が痛みました。 | ||||
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前回の短編集は中盤以降ファンタジーめいてしまって残念だったが、今作はへんな女のへんな思考と行動を ひたすらに追うという感じでじつに面白かった。最初はむらさきのスカートの女のこまごまとしたことをずぅっと 書いていて退屈に感じられたが、わたしの職場に彼女が紛れ込んでからはがぜん面白くなる。 それにしても、この人はきわめて単純で平素な文章でなんともいえない物語をつくる能力に長けている。 メッセージ性があるわけでもなく、とくべつ表現が美しいわけでもないが、どうにも気になる。 読者にイメージを喚起させるためにか、あまり余計な手をくわえていないのもいいのだと思う。 こういう作家は実は少ないので今後も期待したい。 | ||||
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160ページほどの短めの作品で、購入後すぐに完読しました。むらさきのスカートの女が社会不適応?の変わり者のようで、実際にはそうでなかった事がわかり、不思議な読後感がありました。テレビ番組の「世にも奇妙な物語」に通じるものがあるように思いました。 | ||||
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履歴を見れば輝かしい作者。今期の芥川賞最有力候補であるようだ。今回の候補作のような俗悪な低調子で、過去受賞した作家がいないわけではない。いわば、75点で芥川賞受賞した作家であるが、今村夏子も、その系列に属するのだろうか。受賞後の展開に期待すること大であるとすれば、審査員の見識に期待するほかはない。 | ||||
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デビュー作「こちらあみ子」からの読者です。完全にオリジナルな作風で最初から凄かったですが描かれる世界が狭いので長いお話だと。。。と思ってました(短編だけでも十分な才能ですが)。今回は短めの中編でしょうか。一作ごとに物語性が増してるのが頼もしいいです。いつか今村夏子さんの上下2巻ものを読む夢を描いてしまいます。まあそれは個人的な望み。長い小説が好きなので笑。 | ||||
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私は今村さんの作品を他の媒体では読まないので毎回、単行本が初読みになります。 今村さんの作品が大好きで単行本になったものは全て読んでいるのですが、 この作品は他の作品ほど心がザワザワしません。 あみ子のようにガツンと来ることもないですし、 あひるなどのようなザワザワ感もそれほどなく、心軽く最後まで読めます。 ですが、上手く言えないのですが、あれ?あれっ?ってな感じでドキドキはします(笑) ネタバレになるので詳しくは書けませんが、 黄色いカーディガンの女はむらさきのスカートの女に一種の憧れのようなものを抱いていたのかなぁと。 こーゆー人、なんか好きです、黄色いカーディガンの女。 個人的にはくすぐられる感じに近いかも。 | ||||
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続きが気になり一時間通しで読みました。ページ数も比較的少なく,文字数も少ないので、とても読みやすい本でした。 最後の文章と表紙の絵の意味が繋がりました。 | ||||
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