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(短編集)

女のいない男たち



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【この小説が収録されている参考書籍】
女のいない男たち

女のいない男たちの評価: 3.76/5点 レビュー 328件。 Dランク
書評・レビュー点数毎のグラフです平均点3.76pt


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Amazonサイトに投稿されている書評・レビュー一覧です

※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
未読の方はご注意ください

全328件 1~20 1/17ページ
No.328:
(4pt)

気になる点もあるが良き

何編か面白く感覚に訴えてくる作品があった。『ドライブ・マイ・カー』や『木野』や『女のいない男たち』といったものにそう感じた。
 ちょっと性描写やセックスの話しがやたら出てくるのは気になるが、文体の良さで読みやすいし心も動かされる箇所はなかなかにある。それに村上春樹作品の十八番はセックスとかがやたら出てくるとこにあると個人的には思っている(いろいろな評論などからある程度一般的な認識ではあるが・・)。
 読む価値のある本であることは確かなようだ。
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No.327:
(5pt)

ドライブ・マイ・カーを読みたくて

村上春樹さんは簡単に映画化を許可しない。おそらく自分の作品とスクリーンの距離を測って決めているのだろう。今回は海外で高い評価を得て受賞。国内でもその影響が火をつけた形になってヒットを拡大させている。短編をあんなに長い作品にするなんて。妻の死と自分の距離を測りあぐねている作家と運転手が紡ぎ出す新しい希望。短編集ではあるが、著者の真骨頂だと思う。ぜひご一読を。
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No.326:
(4pt)

女の人には複数の男の人が繋がっているということなのか

5つの短編に共通している視点が タイトルを含めて こういうことなのだろうか
好きだった女の人が 他の男の人が夫となっているのが もちろんある訳で 女の人が多くの男の人に影響を与えているということなのか
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No.325:
(4pt)

面白い

短編で読みやすく面白かった
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No.324:
(1pt)

最悪

村上春樹氏の本は好きで、日本人作家の中で一番、今のところ、好きですがこれはないですね。芥川賞受賞作はつまらなすぎて私の時間を奪われた気分になりますが、これもそんなかんじ。というか、最後の章が究極につまらなくて筆者自身も投げやりにいったい何を書いているのかわからずに早く300ページに到達するために文字埋めしてるように伝わってきた。村上春樹氏の本を初めて読む人には絶対的にオススメできない。
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No.323:
(1pt)

駄作である

有名な作家さんで、毎年、ノーベル文学賞発表の季節になると、話題になる人なので、試しに読んでみた。外れである。この作品だけが唯一の駄作なのだろうか?短編の連作で、やたら男と女が寝る(性交する)話が多い。また、作中に様々な物の固有名詞が出てくるが、どれもマニアックな物ばかり。作者は自分の博識をひけらかしたいだけなのか?例えば、「ドライブ・マイ・カー」に出てくる主人公の車は、サーブの900コンバーティブルだが、よほどのクルマ好きでない限り、スウェーデン車と言えばボルボだろう。サーブである必要があるのか?例えば、「木野」に出てくるビリー・ホリデー、エロール・ガーナー、バデー・デフランコなどは、ジャズ好きなら解るだろうが、一般の日本人には誰?と言う感じになる。また、文章で気になるのは、頻回に( )内に説明が入り、それによって読者の読むリズムが途切れてしまうことである。この作家の作品をあまり多く読んでいないので、この作品だけなのか、この作者の作風なのかは解らない。さらに、登場する人物が極端すぎて、現実感がない。また、「木野」という作品は、ファンタジーのようであり、ファンタジーのようでない。いったい、猫や蛇は何の象徴なのか?主人公が見た幻影なのか?それとも、解釈は読者に委ねるのだろうか?読後のモヤモヤ感が気持ち悪い。今の時代、最も問題となるのは「イエスタデイ」に出てくる文章で「性格もあまり良くない。胸もほとんどない。・・・」という箇所である。主人公の同郷の女の子の説明だが、これでは胸が小さいことが女性としての欠陥のように読者に印象付けてしまう。大変な女性軽視であり、作者の女性観だとしたら、大きな問題である。全体的に不快感のする作品が多く、これが世界の”ハルキ”なのか?だとすれば、その世界観を理解できない私は文才がないのだろうか?いずれにしても、ノーベル文学賞を受賞するに値する小説家であるとは、とても思えなかった。まあ、この作品だけで判断するのは早計であるが・・・。
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No.322:
(4pt)

作品によって好き嫌いあるかも

これはテーマが「女のいない男たち」の短編集なんだよね。
 著者は男というのを改めて感じる。
「ドライブ・マイ・カー」
男性の複雑な心境とドライブというシチュエーションがよかった。
「イエスタデイ」
変わった嗜好の男性。その行く末。
「独立器官」
結構これは女性の本質を突いているのではないか。
「シェエラザード」
自分の好みじゃなかったなあ。変に生々しすぎて。
「木野」
不思議ワールド。最後いろいろ考えちゃった。
「女のいない男たち」
ちょっと譬喩が読みにくかった。
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No.321:
(3pt)

シンプルな物語なのだろうか。

「ドライブ・マイ・カー」「イエスタデイ」「独立器官」「シェエラザード」「木野」「女のいない男たち」の6編と「まえがき」からなる短編集。

「まえがき」によると、書かれた順としては「ドライブ・マイ・カー」「木野」「イエスタデイ」「シェエラザード」「独立器官」「女のいない男たち」という「順番」であるらしいが、「まえがき」と「女のいない男たち」とのどちらが先に書かれたかはわからない。わざわざ順番を混み入ったように書いている点は示唆的である。また、書かれた順に読んでみるのも良いかもしれない(言葉やイメージの繋がりがあるようだ)。

「ドライブ・マイ・カー」「イエスタデイ」「独立器官」「木野」の四編は、全く同一のページ数であり、「シェエラザード」はそれらより10ページほど少なく、「女のいない男たち」は更に20ページほど少ない。

「まえがき」では、短編集というものは一つのテーマを様々な手法や視点から扱える、と述べ実際にそのように作られ編まれている。ほぼ成人男性が物語の中心にいるが、「シェエラザード」では女性が中心に据えられる場面が多い。また、不在の女性についての物語群だが、その解決あるいは救いは女性によってなされるようである(みさき、えりか、16歳下の女性、彼の母親、叔母、「僕」の妻?)

三人称による映像的な作品から(実際に映画化されている)、一人称によって若いカップル(こちらはコミカル)あるいは中年男(こちらは悲劇的)が観察され、また三人称による(二重の、あるいは枠物語を踏まえれば三重の)密室のサスペンス(宙吊り)風の描写から神話的・幻想的な作品へと続き、最後は再度一人称による独白の掌編で終わる。比較的読みやすいものから、幻想的、抽象的、実験的作風のものへと並べられているようだ(真ん中の「独立器官」では技巧という言葉が頻出する)。この辺りは太宰の作風とも通じ(『葉』など)、また最後の作品は太宰とともにドストエフスキーの作品も思い起こさせる。更に中年男女の別れというモチーフはカーヴァーも想起させるだろう(文体も取り入れられているだろう)。謎(空白とも呼ぶ)の探求から、空白の背景化、空白自体の曖昧化などと、その扱いも変化しており、具体的に言えば、前半の作品群では探求するものとして、妻の浮気理由、若いカップルの別れ、アイデンティティの喪失、後半の作品群では前提や神秘的にあるいは妄想のように示される、監禁状態や不穏な蛇や唐突な助言や過去の恋人が挙げられる。

短編集の題名から、恋愛や結婚にまつわる男女関係が示唆されるが、単なる恋愛ものなのだろうか(当然、恋愛小説としても読める)。ヒントは「まえがき」にあるかもしれない。

わざわざ書かれた「まえがき」は何を示しているだろうか。「業務報告」としては、最後に付け加えられた(ような)改変へのエクスキューズくらいだろう(初出時との差異を調べる研究者もいる)。全編を読んだ後に読み返すと「キャリア」「コンセプチュアル」「表現者」「テクニカルな処理」などの言葉に目が留まる。(日本の?)文章家は無用な繰り返しを避けるものだが、「まえがき」9ページのうちにタイトル「女のいない男たち」が9回も出てくるのも何か不自然なようにも作為的にも思える(9年ぶりだからか?)。この「まえがき」は、かなりトリッキーであり隠されたメッセージが込められている、と勘繰るのは深読み過ぎるだろうか。あるいは、キャリアや表現に関した別のコンセプトがテクニカルに隠されているのだろうか。

言及される文学作品としては、ヘミングウェイの短編集『男だけの世界』、チェーホフ『ヴァーニャ伯父』、夏目漱石『三四郎』『こころ』があり、「木野」の猫は「名前はない」らしく『吾輩は猫である』を想起させる。

「見ていても見えていない」「隙間を埋める」「ただの肉体にすぎない」「冷ややかな」などの言葉が全編を通して反復される。ワインも繰り返し現れる。また、比喩や夢などとして船や海や川あるいは雨や水(浄化のイメージか? 逆に火のイメージは避けられているようだ、キャンドルの描写はあるが※)、さらに言えばドライブも含めれば行き過ぎ去るもののイメージが繰り返し現れ、それは男女の別れを暗示しているかもしれない(比喩に用いられるイメージの連なりは、文学作品にとって重要なものの一つだろう)。「人格」やその変化といったものもキーワードかもしれない。一方で、一人称の語り手「僕」が『イエスタデイ』『独立器官』『女のいない男たち』で登場するが(恐らく村上を逆さまにした「谷村」と呼ばれる「僕」は同一人物だろうが、本作最後の短編は別の人物かもしれない。彼は40歳くらいだろうか)、20歳、36歳、50代と世代が別れ、それぞれに語り口を書き分け成熟度合いといったものが示されている(20歳の「僕」は鸚鵡返しが多い。羽原や木野も単純な返答が多い)。会話などからグルーピングすると、家福と50代の「僕」(批判的観察者)、みさきと渡会(合理的思考)、高槻と羽原と木野(比較的素朴)、シェエラザードと『女のいない男たち』の「僕」と木樽(幻想的な夢想者)の4群に分けられるように思う(えりかは複合的なようだ)。
※キャンドルは、管理された小さな火であり、家庭や親密さを象徴するだろう。だが、管理を誤れば大火をもたらす。その点も家庭や親密さとも通じる。小さな火としては煙草も登場するが、友だちがいないみさきにとって運転と煙草が彼女を潤すものなのだろう。他方で「木野」では煙草は否定的に扱われており対比的である。

「ドライブ・マイ・カー」「イエスタデイ」はビートルズの曲名から採られたもので、前者はアルバム『ラバーソウル』(1965年12月)の14曲中の一曲目(次の曲は「ノルウェーの森」)でブラック・ミュージックをかなり意識した曲(「ドライブ・マイ・カー」という言葉には隠語として性的な意味があるようだ)、後者は『ヘルプ!』(1965年8月)での14曲中の13曲目でメランコリックなバラードであり、この二曲はともにポールがメイン・ボーカルをとっているが対照的な曲。「イエスタデイ」はビートルズの作った曲で最も有名な曲の一つだろう(弦楽四重奏の編曲はジョージ・マーティンによる)。『ラバーソウル』『リボルバー』でポールとジョージによる曲が増え、当初ジョンが主導的だったビートルズから(『ヘルプ!』まではその傾向が強いか、会社の意向か)多様なソングライティングのバンドへと変わってくる。作詞面ではポールが物語的(通時的)、ジョンがナンセンス的(共時的)と対比的になる。

音楽との関連で言えば「シェエラザード」はロシアの作曲家リムスキー=コルサロフによる4楽章からなる交響組曲でヴァイオリンがエキゾチックなテーマを奏でる。ミハイル・フォーキンによるバレエ作品も有名。

対照的な作品である「ドライブ・マイ・カー」と「女のいない男たち」を検討してみたい。

「ドライブ・マイ・カー」
三人称で叙述され(時制は基本的に過去形)、俳優である家福に焦点が当てられている。しかし、プロットを進めるのは口数のすくない運転手であるみさきであり、みさきを介して家福の回想が挿入される。みさきと同乗している家福は亡くなった妻を思い出し夫婦生活と妻の浮気と夫婦の別れが回想される。みさきの年齢が分かると嬰児で亡くなった家福の娘への回想となり、みさきとの会話で友だちの話題になり、友だち(らしきもの)であり妻の浮気相手である年下の俳優である高槻が回想される。この回想はみさきとの会話と重複しているのかもしれないが、明示されてはいない。
構成としては、内的思考、会話、省略された回想、それらのバランスに配慮しているようである。
妻との情事を知っている家福の高槻に対する視点は、物語に対する語り手(全てを知る作者)の視点とも重なり、メタ的な構造を暗示する。
冒頭の女性の運転技術に関して、ジェンダー観としてはステレオタイプに見える。すなわち、女性は機械に疎く(人間や動物に親しい)、男性は機械に詳しく(人間関係は苦手、あるいは功利的に利用する)というような。その前提もあって、みさきの運転はより際立つ。みさきは家福の妻の浮気に関し、心が惹かれなかったからこそたいしたものでない(と家福が言う)高槻と関係を持ったと述べ、女性にはそのような面があると一般論を言うが、高槻の一般論には反撥した家福はそれを受け入れたようだ。しかし、そのように言う女性の一人であるみさきもそういった行動をとるとは思えないが、それは幻想だろうか、あるいは作者の策略だろうか。女性ながらに寡黙で実直なみさきは(「シェエラザード」の女性と対照的)、勤勉な日本人(男性)を象徴しているかもしれず、ジェンダーのズレを見てとることができるかもしれない。また、家福の妻と高槻の情事の主導権は妻の方が握っていたようで、そこには女性の優位が認められるが、情事の一因が嬰児の死にあったという点では母という役割からの逃避とも捉えられる。
道徳的にみると、主人公である家福は亡き妻に浮気された被害者である一方、それ以外の夫婦生活は円満であり社会的にも認められている人物として示され(喜劇的人物として提示されてはいない)、また、高槻に対しても表面的であれ攻撃的な態度をとらず、やや冷淡なようだが同情に値する人物として造形されている。
うまいや上手や優れているという言葉ではなく、「技巧」という言葉が会話中に用いられているが、普段の会話ではあまり使われない言葉だろう。冒頭に述べられるように運転技術が一つのモチーフになっており、家福はみさきの技術を認めている。一方で演技という技術もモチーフであり、家福から見ると高槻の技術は拙く思われ、みさきと高槻とは対照的な扱いである(妻が示した愛情に関しても優劣は明確なようである)。また、多くの技術とは「すべてはあまりに滑らかで、秘密めいて」いるようなものなのかもしれない。その点、この作品はどうであろうか。
「過去に受けた心の傷」も登場人物四人(家福、妻、みさき、高槻)に共通するものであり、この短編集に一貫するものだろう。対立するものとして「怒り」(のようなもの)が提示されるが、直接の暴力的描写はない(家福はみさきに対し演技をして隠したのだろうか)。
作中で言及されるチェーホフ『ヴァーニャ伯父さん』(1897年)との関連について言えば、みさきが引用するソーニャのセリフは第二幕の後半、家福の引用は第四幕前半のヴァーニャのセリフである。管見では、ヴァーニャとソーニャがそれほど不幸とは思えないが、彼の裏切られたという気持ちには共感しなくもない(チェーホフのいわゆる四大劇では『ワーニャ伯父さん』が個人的には最も好みである。アーストロフやソーニャの理想主義的な言動と対比的にワーニャの望みは地所の運営とエレーナへの恋慕(これが報われないことは既に知っている)といったささやかなものだが、その絶望と狂乱が言動に反して生真面目な性格を示しており逆説的な説得力を持つ。ドストエフスキー『罪と罰』のマルメラードフに通じる悲劇性と道化と何らかの過剰さを併せ持つ人物だろう)。家福は「救いのない話」というが、ソーニャは(信仰に根ざした)働くことと生きていくことにヴァーニャとともに救いを求める(これは冒頭での乳母マリーナが言う医師アーストロフへの慰めの言葉を反復している)。チェーホフの戯曲は顕著な事件のない「静劇」と呼ばれるようで、それは『女のいない男たち』の短編群に通じる。また、ソーニャは「利口な疑りぶかい目」を持つ一方で慕うアーストロフからは「てんで見向きも」されない、勤勉だったワーニャ(ヴァーニャ)は無為な生活を送り亡き妹の夫セレブリャコーフを狙い「とぐろを巻いている」(セレブリャコーフのセリフ)し自分を「恥ずかしい」と言う、美しい後妻エレーナは月の比喩を口にしアーストロフとの別れ際には彼の「鉛筆」を貰っていく、医師アーストロフはソーニャとエレーナ両者の気を引く、居候の隠居テレーギンは「前世」を口にする。これらは『女のいない男たち』全編にわたってインスピレーションを与えているようだ。
「目に見えていても、実際にはそれが見えていなかったのかもしれない」という家福のセリフは芸術や真理といったものに関し示唆的である。一方、高槻のセリフとして「自分の心と上手に正直に折り合いをつけていく」と述べるが、心に傷を負った者にそのようなことができるのだろうか、自分の心を見つめることができるだろうか。みさきは言う「頭で考えても仕方ありません。こちらでやりくりして、呑み込んで、ただやっていくしかないんです」。結びのセンテンスでは、そのようなみさきに対し家福は「感謝」する。赦し、癒し、あるいは救いの物語とも読める。

「女のいない男たち」
その語り口は、一人称による独白という形式によって一貫しているが、時制は現在形と過去形との混在となっている。物語の時間はいわば現在進行形なのだろう、共時的時制というかストーリーは時間に沿って進む訳ではなく、停滞でありサスペンス(宙吊り)とは別の時間感覚「個人的な時間」である(サスペンスは読者を宙吊りにするが、この作品のような語り手による独白・回想・妄想は語り手の内的時間において進行するもので客観的・物理的時間の外部にあると思える)。また、単体の名詞で終わる一文の使用も、他の短編と著しく異なっている。倒置法も用いられており、言葉の強調と言うよりも、不安定感や曖昧模糊とした印象を読者に与えるだろう。
構成としては、冒頭に電話でのやりとりがあり、妻との会話があるが、その後は「僕」の回想・妄想・内的対話・独白のみとなる。そのことから物語としては比較的平坦であり、ある種の読者には退屈であるかもしれないが、意識的に多様な技巧的手法を凝らした短編集にあってこの独白という手法は象徴的だろう(村上春樹の作品では珍しい形態ではないだろうか)。
(小説あるいは文学の)問題は「何ひとつ説明を与えてくれなかったこと」であり、読者を「知と無知の中間地点に据えること」がどうやら意図らしく、それは「何かを考えさせるため」かもしれない。また、それは「死者の世界に深く結びついたもの」でもある。
エムは、memory, monument, moratorium あるいは memento mori のMだろうか。西風ゼフィロスに対する、花と豊穣と春の女神フローラか。オルペウスに対するエウリュディケーだろうか(イザナギとイザナミ?)。
出会いの切っ掛けである消しゴムは喪失のメタファーだろう。出会いの時点で別れが暗示されている。過去にあった喪失による心の傷と、未来における別れへの不安、その両者は現在のある種の緊張に満ちた動的関係における男女の相互信頼や相補性によって癒されるのではないだろうか。
エムを作品、その夫を文学、妻を日常のメタファーとして考えたらどうだろうか。
後半には散歩する「僕」が語られる。散歩は日常に属し、平穏に帰るべきところへ帰るものだ。であれば、独白から戻る先は妻の元であるように思える。
本文では「女のいない男たち」が13回繰り返される。反復がモチーフのひとつであり、ドライブとカセットテープと「冷ややかな」と海の底の「金庫」と知と無知は「ドライブ・マイ・カー」、船と月と孤独(と「微かな笑み」)は「イエスタデイ」、自死と観察とスペースとワインは「独立器官」、授業やバッジは「シェエラザード」で登場したものを反復している。(「ひとつの場所に落ち着ける女性ではない」は「木野」と結びつくだろうか。)

「ドライブ・マイ・カー」と「女のいない男たち」との二篇は、三人称と一人称や過去形と現在形といった語り口も異なり、物語の物理的時間経過といった点でも、前者は家福とみさきとの会話などによってそれが明示されるが、後者では独白という形式によりそれは曖昧である(「散歩」を日課とするようなので数日経過しているようだ)。一方、中間に回想を挿入している点は共通している。
その謎の解明といった点も、前者ではみさきの解釈とその存在あるいは家福との関係によって解決あるいは和らげられ、後者は過去の恋人の自死の理由や方法が恋人とその夫への祈りへと転化しており(「僕」一人で完結する)、対照的だ。また、家福は高槻に対し敵対と共感の両価値的態度を持つが、「僕」は元恋人の夫に対し親しみを抱いている、あるいは抱こうとしている、という点では微妙な対比をなしている。

写真は、最初に家福とみさきがドライブした経路を辿ったもの。四の橋交差点、明治通り天現寺方面、天現寺橋交差点、外苑西通り明治屋方面、明治屋、有栖川公園、公園脇の坂、フランス大使館方面、フランス大使館、大使館脇の青木坂(一方通行)、大使館正面方面、大使館正面、明治通り四の橋方面。また、青山の柳と猫。
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No.320:
(3pt)

村上ワールド

現代の夫婦関係は、こんなかんじなのか?
1番近くにいる人の気持ちが良く分からない!
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No.319:
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友人たちに紹介

こんなものだよね!
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No.318:
(4pt)

まだ読んでいなかった。

映画が先になった。まだ、まえがきとドライブマイカーしか読んでいないが映画と比較する気はないのでじっくり読んで行きます。
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No.317:
(4pt)

イエスタデイ

「イエスタデイ」
誰も死なない、幸せな「ノルウェイの森」。すごく良かった。

「シェエラザード」
意味不明な設定の不思議な話だが、良かった。説明し辛い・・・
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No.316:
(5pt)

村上春樹2冊目の読了です。

短編集ということで、短い時間に気軽に読めるような手軽さがあります。
各話、実に考察しがいのある暗示的な表現や現象が散りばめられており、読後の考察等も含めてとても楽しかったです!

世界的作家ということもあり、村上作品はどんな短い話であれ考察論文やサイトが多数アップされています。自分の考察と村上読者との考察がどれだけ離れているか、とてもワクワクしながら検索を進めていました。それはまさに感想を他人と語り合う会話のようでもあり、それらも含めて☆5の評価に値する楽しい本だと思います。
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No.315:
(3pt)

こざっぱりとした男女間の関わりが心地よい。

女性に去られてしまった男たちをテーマにした短編集。長編小説の合間に一息つくのに良かったです。男女間の関わりですがドロドロしておらず、こざっぱりとしていて心地よい感じ。

『人と人とが関わり合うというのは、とくに男と女が関わり合うというのは、なんていうか、もっと全体的な問題なんだ。もっと 曖昧 で、もっと身勝手で、もっと切ないことだ。』
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No.314:
(4pt)

良かった

良かった
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No.313:
(5pt)

原作の方が素晴らしい

原作は、映画のストーリーとはかなり異なります。そもそも原作は短編です。原作の方が素晴らしいと思います。
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No.312:
(1pt)

アップデートしないジェンダー観

冒頭から「女性はおおむね○○である」からはじまる。その偏見の説明が2ページほどグダグダ続いて読む気をなくす。2010年代の作品とは思えないジェンダー観。
こういうところがノーベル文学賞を獲れない理由のひとつではないだろうか?
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No.311:
(5pt)

村上春樹の恋愛観がよく分る

映画『ドライブ・マイ・カー』が素晴らしかったので原作を読んでみた。小説「ドライブ・マイ・カー」は地味な短編だが、まぁ悪くはない。しかし、文学作品として見た場合、それほど優れているともいえない。それに対して、残りの短編のうち「シェエラザード」は素晴らしい傑作だし、「イエスタディ」も20歳の若者の恋を描いて瑞々しい。「独立器官」と「木野」は味のある作品だ。いずれも、女を失った男の深い喪失感を描いているが、それぞれの喪失感の違いから、恋愛に求めているものも「人それぞれ」なのだ、ということが分る。これが恋愛を主題とした短編集である本書の功績だろう。映画『ドライブ・マイ・カー』があれほどの名作になったのも、原作の「ドライブ・マイ・カー」「シェエラザード」「木野」を組み合わせたからだ。男が女に、女が男に、それぞれ求めているものは、千差万別だが、その違いが生じる理由は、互いにどの程度の距離を取る関係をよしとするか、が異なるからだろう。「ドライブ・マイ・カー」では、主人公の家福は、妻との距離をゼロにできると信じていたが、それができなかった、一方、妻の浮気相手の高槻は、距離ゼロはたぶん無理だろうと考えている、そして家福の車のドライバーになった渡利みさきは、自分の出自からして、そもそも男女の愛の存在そのものを根っから信じていない。そのみさきと接することによって、家福は初めて、妻の浮気と死を受け容れることができた。

「シェエラザード」では、35歳の介護士の地味な女性は、主人公とセックスしたあとに毎回、『千夜一夜物語』の王妃シェエラザードのように、楽しい話を一つづつ彼に聞かせる。彼女が17歳のとき、同級生の男子を好きになったが、地味系の彼女は告白などできず、代りに彼の家に三回ほど空き巣で忍び込む。彼のベッドに横になり、激しいときめきを感じたので、彼の鉛筆を一本盗み、代わりに(新しい)タンポンを彼の机の引き出しの奥に置いてくる。彼はたぶん気づかないだろうが、自分がここに存在したという痕跡を残したいのだ。でも三回目の空き巣では、彼の下着のシャツを洗濯機から持ち去ったので、気づいた母親が玄関のカギを替え、空き巣は終了する。シェエラザードは、この自分の体験を、海底に張り付いて上を通る鱒を見つづける「やつめうなぎ」に喩える。そう、愛とは、どこまでも距離を取った関係であり、決して相手と一体化はできないのだ。主人公は、この話にいたく感動し、自分が彼女とセックスするのも、セックスが目的ではなく、「性行為そのものではなく、彼女と親密な時間を共有すること」が最高の喜びであることに気づく。「イエスタディ」も「独立器官」も似たようなところがあり、「ドライブ・マイ・カー」のみさきも、家福にこう言う、「(男優と寝た)奥さんは、その人に心なんて惹かれていなかったんじゃないですか、だから寝たんです」。おそらくこれが村上春樹自身の究極の恋愛観なのではないかと想像される。ギデンズの言う「純粋な関係性としての愛」こそが、究極の愛であり、愛とはけっして、暗黙のうちに生殖を動機づける性行為のうちにその本質があるのではないのだ。それをはっきり前景化したという点で、「シェエラザード」は名作だと思う。
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No.310:
(4pt)

エロスがある濃さと、それを感じない薄さとの、間の物語

村上春樹の性行描写はどれもやはらかくしっとりとしていて、エロスがある濃さと、それを感じない薄さとの、間でちょうど浮かんでいるような、気持ちにさせる。

6つの物語を通して女のいない男たちが描かれる一冊、

第一話目のドライブ•マイ•カーでは、物語の女性と肌を交わすことはないのだけれど、そのことが、その距離感が、反対に性的な高まりをまた感じさせた。
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No.309:
(4pt)

映画を見て原作を読みました。

映画を見て原作が読みたくなったので読みましたが、色々わかって面白かったです。
他の短編ももちろん面白かったです。
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