■スポンサードリンク
(短編集)
女のいない男たち
新規レビューを書く⇒みなさんの感想をお待ちしております!!
女のいない男たちの評価:
書評・レビュー点数毎のグラフです | 平均点3.76pt |
■スポンサードリンク
Amazonサイトに投稿されている書評・レビュー一覧です
※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
未読の方はご注意ください
全328件 281~300 15/17ページ
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
これまでの村上作品のエッセンスはあっても新しいものは感じられないという意見があり、自分もそこは賛成です。ただ文章の味わいや、書いてある通りに思い浮かべるととてもしっくりくる魅力的な比喩が健在で、それだけでも単行本を買って読む価値はあるなと思いました。 それでもやはり、おそらく村上春樹に対するハードルがかなりあがっているのでしょうが、「東京奇譚集」や「回転木馬のデッドヒート」を読んでいるときの恐れをはらむ没頭感、ワクワク感は今回感じられなかったのは少し残念です。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
毎年のノーベル文学賞受賞するであろうといわれ続けて何年たっているのでしょうか? 大作家先生の最新作です。 「1Q84」あたりからずっと読んでいますね!なぜだか? 今回ものすごく比喩表現が多いわけではないのですが…でもところどころ面白い喩が出てきますね! 村上氏の場合、普通の終わり方をしないのに…なぜだかコインを真っ直ぐ湖に落としたような余韻がゆっくりじわじわと広がっていく、そんな感覚が楽しいのかな? でも大人の話が多いので子供には不向きかな? でも今回も楽しめました! | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
懐かしい音楽が満載でした 六話は私には難しかった。もう一度、じっくりと読み返そうと思う | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
最初の2編は、大衆小説感覚で読めてしまいますが、3編目くらいから作者らしさが徐々に顔を出し始め、後の方に行くにしたがって、よりディープに作者の世界が展開されているように感じました。自分の力ではどうしようもない理不尽な出来事、理不尽な感情に人間はどう向き合うのか。作者の小説で幾度となく繰り返されてきたテーマが、女の喪失を軸に縦横に物語られています。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
過去から現在まで、脈々と流れる「村上文学」の本流から外れない作品。 前作同様、 現代の日本では一般的ではない名前の人物が登場する村上ブランドが無ければ、単なる昭和時代の(ちょっとエロティックな)青春小説としか感じられない。 もし、この作品を別の作家名で、某新人賞に応募しても(何故、こんな名前の登場人物なの?とか言われて)大賞どころか、入選さえ難しいのでは? | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
短編集だがいかにも村上春樹。ハズレのない内容に満足。次回作に期待! | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
書店で発見即購入しました 長さが絶妙で何回も読んでいます 変性意識を与えてくれる作品を本当にありがとう。同時代に生まれた幸運に感謝します これからもずっと作品を出してください | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
「女のいない男たち」は短編集ですが、ひとつひとつのページ数が多めで内容も重みがあります。 女を失ったことを消化できずに長い間苦しむ男、50歳を過ぎて初めて真剣に人を好きになり、失うことの苦しさに耐え られず、命を落としてしまう男、自分の人生はこんなものだとやり過ごそうとしたために、人生が狂っていく男・・・ 人は苦しい時は自分がどれだけ苦しんでいるのかを自分自身でしっかりと受け止め、その対処法を考え、無理をせず、 そして時間をかけて乗り越えていくことがいかに重要かということが、すべての作品から感じとれます。 「女を失った男」という設定でありながら、必ずしもそういう状況のことだけを言っているのではないのでは?と考えさせら れます。ムラカミさんと河合隼雄先生の対談が思い出されます。 主人公がすべて日本人で、舞台もすべて日本国内であるので、より身近にものがたりを感じ取ることができます。 本書は何度も読み返したい、ムラカミさんの作品のひとつになると思います。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
女と別れた中年男たちを巡る村上春樹の短編集。 一つ一つが適切な分量で読み応えがあり、楽しめた。 読んでいて、その端々に著者のこれまでの著作の細部と似たような(あるいは韻を踏むような)モチーフなり表現なりが挿入されていて、村上さんはいよいよご自身の文学的な資産の棚卸しを始められたのかと感じながら、興味深く読んだ。 この間ガルシア=マルケスも死んだし、死と残された人たちの思いを描くのに優れた小説家が、いつ自身の死から逃れられなくなるのか。 そんな日がくる前に、もっと多く著者の作品に触れたいと思う読書となった。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
村上春樹が大好きです。 だけど正直、世の中で評価されている「パラレル・ワールド」ものには、今ひとつ入って行ききれません。 個人的には「中国行きのスロウ・ボート」(最高!)や「東京奇譚集」のような、比較的リアリティのある作風が好みです。 そんな方にはきっと、この作品はぴったりくるのではないかと思います。 とりわけ個人的に楽しめたのは「イエスタデイ」。 作者得意の「若き日の回想録」ですが、行きつく先のない喪失感は「中国行きの〜」を彷彿とさせ、胸が締め付けられます。 「したこと」よりも「しなかったこと」や「できなかったこと」の方が大きな意味を持つことがある。 そんなことを物語っているようです。 こういう感覚を味わいたくて、僕は小説を読むのです。 そしてそれは、「村上春樹」でしか味わうことができないのです。 いわゆる「ハルキスト」は、長編こそ真骨頂と主張されるのかもしれません。 でも僕は、短編にこそ、著者の真髄を感じます。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
題名の通り、初期作品によく見られた村上作品懐かしの 「喪失感」が全短編に通奏低音のように流れる短編集。 以前はしかしその喪失感がどちらかというと外部から 来たもののような書きぶりであったが、本短編集では その喪失の痛みが「(主人公/語り手の)内部」から 来ているかのような表現が散見されるのが興味深い。 物語世界の深化というか、円熟ということなのだろう。 あからさまな不思議世界という設定は鳴りを潜めているが 私たちの日常の一歩隣に、もう一つの不条理な、しかし 手触りのある世界が現存ずるリアリティは相変わらず凄い。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
今回は、けっこうおもしろかったというか、端正な短編集というところがありました。 めずらしく、まえがきがあって、つまり女性を失うということが全体のテーマになっているということなのですが。 でも、それって、何をいまさら、という気がします。「ノルウェーの森」も「国境の東、太陽の南」も「ねじまき鳥クロニクル」もみんなそうでした。「1Q84」のように取り戻す話や、「スプートニクの恋人」とか「多崎つくると彼の巡礼の年」みたいにラストに暗示があるというのもあるけれども。 とは思ったのですが、それでもあえてテーマというだけあって、女性を失うことの意味が、もう一つ掘り下げられていたとも思います。 どういうことか。特定の女性を失うということは、男性にとって、大きな欠落をもたらし、あるいは裸にしてしまうことなのではないか、ということです。女性がいることによって、相対的に自分が規定され、保たれていたアイデンティティが、衣服のようにあったものが、失われる、それは何なのか。無力で裸の男性に戻ってしまう、それが等身大の自分かもしれないのだけれども。 そして、この世界は一歩間違えば、すぐに地獄というか強制収容所のような世界に落ちるような構造になっており、何かのきっかけで女性を失った男性は、裸にされ、強制収容所のガス室にむかって並ばされる。そんなことではないでしょうか。 では、女性は衣服のようなものなのでしょうか。「ノルウェーの森」以降の、男性の主人公の自己中心的な感性においては、無意識的にそうなるのでしょう。そうしたことが、「ノルウェーの森」以降、とりわけフェミニズム的感性を持った女性から非難されてきたことだったのかもしれません。 女性をメタファと考えると、残酷な世界というものがわかる気がします。結局のところ、村上の小説においては女性は他者でしかないので、それはそうなのかもしれません。それは、女性を永遠のミステリーにしてしまう、他の作家の感性と変わらないとも思います。 けれども、現実には女性はメタファではなく、実際に存在している人間です。そこが、問題なのかもしれません。あるいは、村上の限界というか欠点というか。 村上の作品の中で、「国境の東、太陽の南」はあまり評価が高くないのだけれども、ぼくはけっこう好きです。というか、女性が主人公に対して、自分をもっと頼って欲しいと訴えるのは、この小説だけだと思います。そこに、男性が自分が中心ではなく、他者とかかわれる存在だということが示されます。けれども、「ねじまき鳥クロニクル」ではこのことが後退しています。 とまあそんなわけで、「女のいない男たち」では、村上の小説世界において、女性を失うことの意味を、より深く掘り下げた、というのはそういうことです。その結果として、コンパクトで端正な作品になった、と。それに、短編集としては、こうしたテーマでまとめられたことはなかったし。 コンセプトやテーマには同意したわけではないけれど、でもそうしたこととは別に、作品としては悪くないので、星4つ。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
女性に去られた男たちの話というくくりではあるけれど、私にはいくつかの恋愛の形が描かれているように感じられました。 本当の愛(恋愛)というものはこういうものではないか、と。 「ドライブ・マイ・カー」では誰かと結婚というかたちの愛を育んでいるはずの時でも、心のない相手と不倫をしてしまい、「イエスタデイ」では、 時に、生涯、最愛の相手と思われる相手の前からは、まわり道の為に旅立たずにいられなくなる。 「独立器官」では、真実の愛情の為にプレイボーイは死に至らしめられる。 後半、「シェエラザード」「木野」では、恋愛にとって最も大切なことは、時間の共有であること、また、恋愛の傷口は、傷つくべきときに十分に 傷つかねばならないことを語り、最後の締めの「女のいない男たち」では14歳で消しゴムの半分を割ってくれた女性(比喩ですが)を 永遠に失ってしまった悲しみ、そして二度と14歳には戻れない(比喩です)ということが描かれているような気がしました。 という意味では、作品中「イエスタデイ」は最も切ない愛が描かれているのかと私は思いました。 「昨日」には戻れませんから。 「女のいない男たち」という表題の、「たち」にはおちゃらけた笑いをさそう語感がありますが、実はすごく重たい哀しみが描かれていたように 思います。 村上氏の翻訳した短編集「恋しくて」も読んでみたくなりました。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
まわりくどい表現が多い作家という印象の作者。 でも私自身が不惑を目前に控えるような年齢になったせいか、はやりのわかり易く一読で十分な小説よりはずっといい、そう感じるようになった。 村上春樹は短編がいいとのレビューが多いが、今回の短編限ってはもう少し長くてもいいのではと思った。 「木樽」は私のような"村上ビギナー"用に噛み砕いて欲しい、もう少し枚数が多くてもいいと思う。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
やはり長編のほうがいいようです。今回の短編のどれも、登場するキャラクターに、今一つ魅力が感じられない。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
新しいものを見いだすことができなかった。 わくわくも、どきどきも。 比喩が多い。説明的。独りよがりの自慰的表現。意味不明。 そして物語がすべて過去の作品の焼き増しに感じられた。 作者にそういう意図がないにしても、そうであった。 そこで気になったのが、序文。 あぁ、そうか。言い訳だったんだなと思った(枯渇しはじめていることに対する不安)。たとえ作者が意図していないとしても。 大好きで尊敬している作家なので、大変だと思うけれど、これからも素敵で前衛的な世界をみせてほしいです。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
人の痛みが判るか判らぬかは、その人の人生の意味の重さと深さを決めてしまうと言ってもいいのではないだろうか。 それと同じに、この物語のテーマである「喪失の痛み」をくみ取るだけの感性を持ち合わせているか否かが、本作を含む村上作品のなかのある作品群の重さと深さを受け止める為に不可欠な素養である。 最初にお断りするが、私は村上春樹の研究者ではないし熱心な読者でもない。まだ『1Q84』も『海辺のカフカ』も『羊をめぐる冒険』も読んではいない。だから、村上春樹の全作品をアルプスのような大山脈にたとえるならば、私は万能な山岳ガイドではない。けれどもあるひとつのルートからひとつの峰に至る道筋だけは踏破したことがあって、人にもその道筋だけなら示すことができる。いうなればワンルートガイドにすぎない。そういうつもりで以下をお読みいただきたい。 短編『蛍』→長編『ノルウェイの森』→短編集『女のいない男たち』 私が案内できるのはこのワンルートだ。 村上山脈には遭難者や迷子が多い。この当代随一の流行作家を嫌悪する人たちの批判口や、膨大な愛読者たちの大半はワンルートガイドたる私の眼から見ると皆誤って樹海に迷い込んだり谷底に落ちる一歩手前の誤りに陥いっているように見えてならない。 毒舌が売り物で一応知性派と思われているお笑いタレントが、 「村上春樹には人間が書けていないだよな」 と、テレビで発言しているのを見て目が点になったことがある。 また、若い愛読者が二三行のレビューで「またあのおっさんがキモいエッチの描写してて」 とか、ツイートに毛が生えた程度の短いコメントを書き込んでいるのをみて私はやはり辟易する。 彼らには、なぜ自分たちが春樹作品を読まずにいられなかったか、作品について何か発言せずにいられないのか、自分でも判っていない。 人間の内奥の深いところに潜んでいる「痛み」を感得する感性がなければ、この書き手が村上ワールドなどと称される筆致の底に密かに忍ばせた物語の真の意味を捉えることはできない。それを捉えることができなければ、物語は「浅さくて軽い」ものでしかない。 私がお示しするルートは、必ずしも山脈の最高峰を極めるものではない。最も安全なルートでもないかもしれない。その可能性は最初にお断りしした。しかし、ひとつだけはっきり言えるのは、『女のいない男たち』で描かれているのは軽くもなければ浅くもないテーマだ。真摯な文学者が正面から取り組むべき真っ当な主題であって、受け止める素養のない人たちに揶揄されたり軽く扱われたりされるべきものでは断じてない。 冒頭の『ドライブマイカー』では、妻を失った夫と不倫相手を失った男が、同じ一人の女性を失ったという「喪失の痛み」故になぜだか通じ合ってしまう。そうして夫は、妻が死ぬ、つまり妻を失う遙か以前から自分は妻を失ってしまっていたことに気づく。そうしてそれは、妻もまた抱えていた「喪失の痛み」をともに抱えるこができなかった過去につながってゆく。 ひとつの例外を除き、六編すべての「男たち」は、その痛みとともに生き、あるいはそれに気づかずにいて思いがけず気づいたときには手遅れで命を落とし、やはり気づかずにいて遠い遠い回り道をしたあげくにその痛みと出会って初めてしずかに泣く、そうして初めて物語の中の「男」は救われ、ともに涙する読んでいる男(あるいは女)も救われる。 そんなそれぞれの「痛み」の深さと重さをしずかに丁寧に村上春樹は描いている。いきなり『ノルウェイの森』を読んだのでは見過ごしてしまう危険のあるその道を、その代表的長編作の予告編でありエッセンスが漏れなく凝縮された『蛍』をあらかじめ読んでおくことでくっきりと見えてくるひとつの道がたしかにある。 ワンルートだけを辿ってみてもその高いところには到達できる。 そこから見渡すとまだもっと高いところがありそうでもある。もしかしたら世界の最高峰である可能性もある。 くれぐれも冬山ならぬ『女のいない男たち』を舐めてかかってはならない。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
カバー表紙は,本書五番目の短編「木野」の主人公木野が経営するバー。 青山の路地裏にひっそりと佇むように存在するバーには灰色の野良猫が住み着いている。 店の前には柳の木。 ジャズのアナログレコードを静かにかけ,物好きな客が入ってくるのをただじっと待っている。 でもある種の人にとっては非常に居心地がいい。 いつも同じ席に座ってハードカバーの本を読んでいる男もその一人。 そんなバーを舞台にした物語「木野」が,最も村上春樹らしさを感じる奇妙な物語(個人的には「海辺のカフカ」や「眠り」に近い雰囲気を感じます。)で,本書の中では一番印象に残った作品となりました。 他の短編は,どちらかと言えばストレートな作品で,この「木野」だけは特別な存在感があります。 それもそのはずで,著者のまえがきによれば,「ほかのものはだいたいすらすらと書けたのだけど」,「木野」は「何度も何度も細かく書き直した」「仕上げるのがとてもむずかしい小説だった」とのこと。 いつかこの物語をベースに長編を書いてくれないかと思ったりもします(短編「ねじまき鳥と火曜日の女たち」をベースに「ねじ巻き鳥クロニクル」へと発展したように)。 「木野」とは対極にある感の「イエスタデイ」もとても好きな作品になりました。 東京生まれの東京育ちのくせに完璧な関西弁を話す友人木樽と大学生の僕との会話がとても楽しい。 僕は言葉について「僕らの語る言葉が僕らという人間を形成していくのだ」と考えている。 木樽は「普通の人とは違う彼自身のやり方で,とても純粋にまっすぐに」何かを真剣に求めている。「でも自分が何を求めているのか自分でもまだよく掴めていない」。 そんな木樽には幼なじみの彼女がいるが・・・,という物語で「木野」とは違った後味の良さを感じさせます。 上記二編が本書の中ではとくにお気に入りですが,男と女が関わり合うことの曖昧さ,身勝手さ,切なさを語る「ドライブ・マイ・カー」,本人の意思ではどうすることもできない他律的な作用によって恋に落ちた男を描く「独立器官」,前世がヤツメウナギだったと言う女性が千夜一夜物語の王妃のように不思議なお話を語る「シェエラザード」なども,ストレートな印象ですが,再読するとまた違った味わいがあるかもしれません。 ラストの書き下ろし「女のいない男たち」は,他の短編とは文体に変化を加えた作品で,同じコンセプトを持つ短編集全体を締めくくるおまけ的な印象の作品です。物語を楽しむというよりは文体を楽しむといったデザート的作品でしょう。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
村上春樹はやっぱり短編のほうがいいんじゃないかとなんとなくと思っていたがこれを読んではっきりそう思うようになった。話が面白いというよりも、読んでいて心地よい。読後何度も反芻して楽しむよりも、読んでいるそのときがいちばんなのだ。思わず音読みしたくなるくらい文章が練られていて、彼の小説の特徴だけれども、人数は少ないがそれぞれに興味をそそる登場人物が、登場し、振り返ってみたらその場では100%そう言うべきだったと思えるような完璧なセリフを喋るか、印象的な何かを残して退場していく。構成、演出に無駄がない。「ドライブ・マイ・カー」「独立器官」「木野」がとくによかった。なかでも「木野」。愛人から買ってもらった家を木野に貸している伯母は本書の全編を通じてももっとも謎めいていて印象に残る脇役だ。木野はそこでバーを始める。どの話にも不倫か三角関係の話が出てくるが、相変わらず中学生のときにケシゴムを半分くれた子とか、大学生のときの親友の幼馴染だとかの話がやけに具体的なわりに、大人の女性が残念なほど奥行きがない。もうそれは村上小説の場合しょうがないのかもしれない。村上小説において結局女性は記号であり、長編小説であれ短編小説であれ、主題は恋愛でもセックスでもなく、なにか別のところにあるのだ、きっと。この人はおそらく人間観察によってものを書く人ではない。あくまでも深い井戸に降りて行って見つけた自分自身の断片から物語を綴る、それが持ち味なんだろう。ちょうどいまNHKで『ロング・グッドバイ』のドラマをやっている。村上春樹訳もあるチャンドラーの作品。そのハードボイルドでちょっと古風な感じが「木野」にもあったなと思いながら見ている。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
村上春樹の短編集「女のいない男たち」を読了。 ここ数カ月、忙しかったり気持ち的に落ち着かなかったりして 小説を読むことから離れていたのですが、 先週末に買ったこの本を月曜から木曜までの電車の行き帰りの中で一気に読み上げました。 しばらく小説を読んでいなかったこともあって、 小説「胃」のようなものがすっかり空っぽになっていたようです。 分量的にも濃さ的にも、腹八分目に気持ちよく収まりました。 短編集といこともあって物語の中にすっぽりとはまり込むこともなく、 合間合間に昔の自身の体験や、本や映画で見た場面を思い出したり。 その後に何の予定も入っていない休日の昼に、 一人で落ち着けるカフェで、ゆったりとランチを楽しんだ、 そんな気分です。 作者が滅多に書かない「まえがき」を、読了した後で読み直しました。 この本を作るにあたってビートルズの「サージェントペパーズ」のような 「コンセプトアルバム」を意識した、というくだりがあるのですが、 読了して、何となくその意味がわかったような気がします。 でも、テーマ曲のリプライズがあるわけでもなく、 最後の曲の最後の部分にとてつもなく印象的なコードが刻まれるわけでもなく、 どちらかというと、「アビーロード」のB面中盤からのメドレーのような 小品の小気味の良いつながりを感じました。 小説に、あるいは村上春樹に求めるものは一人ひとり違うと思いますので、 敢えて「お勧め」とは言いません。 ただ私にとっては、また捨てられない本が一冊増えてしまいました・・・(^_^;) | ||||
| ||||
|
■スポンサードリンク
|
|
新規レビューを書く⇒みなさんの感想をお待ちしております!!