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(短編集)
女のいない男たち
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女のいない男たちの評価:
| 書評・レビュー点数毎のグラフです | 平均点3.77pt | ||||||||
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Amazonサイトに投稿されている書評・レビュー一覧です
※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
未読の方はご注意ください
全331件 301~320 16/17ページ
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| カバー表紙は,本書五番目の短編「木野」の主人公木野が経営するバー。 青山の路地裏にひっそりと佇むように存在するバーには灰色の野良猫が住み着いている。 店の前には柳の木。 ジャズのアナログレコードを静かにかけ,物好きな客が入ってくるのをただじっと待っている。 でもある種の人にとっては非常に居心地がいい。 いつも同じ席に座ってハードカバーの本を読んでいる男もその一人。 そんなバーを舞台にした物語「木野」が,最も村上春樹らしさを感じる奇妙な物語(個人的には「海辺のカフカ」や「眠り」に近い雰囲気を感じます。)で,本書の中では一番印象に残った作品となりました。 他の短編は,どちらかと言えばストレートな作品で,この「木野」だけは特別な存在感があります。 それもそのはずで,著者のまえがきによれば,「ほかのものはだいたいすらすらと書けたのだけど」,「木野」は「何度も何度も細かく書き直した」「仕上げるのがとてもむずかしい小説だった」とのこと。 いつかこの物語をベースに長編を書いてくれないかと思ったりもします(短編「ねじまき鳥と火曜日の女たち」をベースに「ねじ巻き鳥クロニクル」へと発展したように)。 「木野」とは対極にある感の「イエスタデイ」もとても好きな作品になりました。 東京生まれの東京育ちのくせに完璧な関西弁を話す友人木樽と大学生の僕との会話がとても楽しい。 僕は言葉について「僕らの語る言葉が僕らという人間を形成していくのだ」と考えている。 木樽は「普通の人とは違う彼自身のやり方で,とても純粋にまっすぐに」何かを真剣に求めている。「でも自分が何を求めているのか自分でもまだよく掴めていない」。 そんな木樽には幼なじみの彼女がいるが・・・,という物語で「木野」とは違った後味の良さを感じさせます。 上記二編が本書の中ではとくにお気に入りですが,男と女が関わり合うことの曖昧さ,身勝手さ,切なさを語る「ドライブ・マイ・カー」,本人の意思ではどうすることもできない他律的な作用によって恋に落ちた男を描く「独立器官」,前世がヤツメウナギだったと言う女性が千夜一夜物語の王妃のように不思議なお話を語る「シェエラザード」なども,ストレートな印象ですが,再読するとまた違った味わいがあるかもしれません。 ラストの書き下ろし「女のいない男たち」は,他の短編とは文体に変化を加えた作品で,同じコンセプトを持つ短編集全体を締めくくるおまけ的な印象の作品です。物語を楽しむというよりは文体を楽しむといったデザート的作品でしょう。 | ||||
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| 村上春樹はやっぱり短編のほうがいいんじゃないかとなんとなくと思っていたがこれを読んではっきりそう思うようになった。話が面白いというよりも、読んでいて心地よい。読後何度も反芻して楽しむよりも、読んでいるそのときがいちばんなのだ。思わず音読みしたくなるくらい文章が練られていて、彼の小説の特徴だけれども、人数は少ないがそれぞれに興味をそそる登場人物が、登場し、振り返ってみたらその場では100%そう言うべきだったと思えるような完璧なセリフを喋るか、印象的な何かを残して退場していく。構成、演出に無駄がない。「ドライブ・マイ・カー」「独立器官」「木野」がとくによかった。なかでも「木野」。愛人から買ってもらった家を木野に貸している伯母は本書の全編を通じてももっとも謎めいていて印象に残る脇役だ。木野はそこでバーを始める。どの話にも不倫か三角関係の話が出てくるが、相変わらず中学生のときにケシゴムを半分くれた子とか、大学生のときの親友の幼馴染だとかの話がやけに具体的なわりに、大人の女性が残念なほど奥行きがない。もうそれは村上小説の場合しょうがないのかもしれない。村上小説において結局女性は記号であり、長編小説であれ短編小説であれ、主題は恋愛でもセックスでもなく、なにか別のところにあるのだ、きっと。この人はおそらく人間観察によってものを書く人ではない。あくまでも深い井戸に降りて行って見つけた自分自身の断片から物語を綴る、要するに私小説。だから過去の焼き直しとか自己模倣とかいう批判はあてはまらないのだ。ちょうどいまNHKで『ロング・グッドバイ』のドラマをやっている。村上春樹訳もあるチャンドラーの作品。そのハードボイルドでちょっと古風な感じが「木野」にもあったなと思いながら見ている。 | ||||
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| 村上春樹の短編集「女のいない男たち」を読了。 ここ数カ月、忙しかったり気持ち的に落ち着かなかったりして 小説を読むことから離れていたのですが、 先週末に買ったこの本を月曜から木曜までの電車の行き帰りの中で一気に読み上げました。 しばらく小説を読んでいなかったこともあって、 小説「胃」のようなものがすっかり空っぽになっていたようです。 分量的にも濃さ的にも、腹八分目に気持ちよく収まりました。 短編集といこともあって物語の中にすっぽりとはまり込むこともなく、 合間合間に昔の自身の体験や、本や映画で見た場面を思い出したり。 その後に何の予定も入っていない休日の昼に、 一人で落ち着けるカフェで、ゆったりとランチを楽しんだ、 そんな気分です。 作者が滅多に書かない「まえがき」を、読了した後で読み直しました。 この本を作るにあたってビートルズの「サージェントペパーズ」のような 「コンセプトアルバム」を意識した、というくだりがあるのですが、 読了して、何となくその意味がわかったような気がします。 でも、テーマ曲のリプライズがあるわけでもなく、 最後の曲の最後の部分にとてつもなく印象的なコードが刻まれるわけでもなく、 どちらかというと、「アビーロード」のB面中盤からのメドレーのような 小品の小気味の良いつながりを感じました。 小説に、あるいは村上春樹に求めるものは一人ひとり違うと思いますので、 敢えて「お勧め」とは言いません。 ただ私にとっては、また捨てられない本が一冊増えてしまいました・・・(^_^;) | ||||
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| 外側の形だけは不思議な登場人物とセックスと死と音楽が主題で、過去のこの人の長編小説でも焼き回されて来たようなパターンというか、いかにもな小説には見えたのですが、 読んで面白いかどうかといえば、何か実感や鋭さみたいなものは読後感としてそこまで感じられず、 そこまでではないのかなあとモヤモヤがありました。 | ||||
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| この短編集は、前書きによれば「いろんな事情で女性に去られてしまった男たち、あるいは去られようとしている男たち」の物語集である。 各物語の詳細については他のレビューを参照していただければ十分に思う。 全体的に文章が落ち着いていて、丸みを帯びているように思う。 私はどちらかというと村上春樹は長編が好きなので、短編にはあの期待感とか感動はそれほどまでには感じなかった。 しかし、この安定感も悪くないとは思った。 「独立器官」の中で村上春樹は「すべての女性には、嘘をつくための特別な独立器官のようなものが生まれつき具わっている」と書いている。 女性の私としては、最初は反撥をおぼえたが、読み終えてみて、そうかもしれないとも思わされた。 確かに大事なところで嘘をつくようなことがあったように思う。しかし悪気はないのだ。 宇多田ヒカルも「女はみんな女優」と唄っている。 そんな女たちに翻弄させられる物語集がこの短編集なのだろう。 この短編集の中で一番面白かったのは、「木野」である。 この話を広げれば、かなり楽しめる中編小説になっただろう。 「男のいない女たち」ならどんな短編集が出来上がるだろう。 案外、のびのびやってしまい、自由を謳歌してしまうかもしれない。 失恋の痛手は男のほうが持ち続けるのかもしれない。 | ||||
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| 世代が違うので、実感がわかないけれど、ビートルズの曲が聴きたくなったようです。 男女関係にもふれていて、おもしろく読めました。 | ||||
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| 村上作品は全て読んでます。最近の長編作品(海辺のカフカ以降)に辟易し、やはりどんな作家にも平等に衰えは訪れるんだなぁと諦めていたところにこの本作。東京奇譚集からさらに進化した美しい文体やその表現力、魅力的な登場人物は小説という媒体を超越し、神の領域にも達しているように思う。前作の薄っぺらすぎる多崎つくるのウンコみたいなお伽話がウソのように感じる。長編でも、再起をお願いします。 | ||||
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| 表紙の絵のようにあまりにも単調、退屈、な名文章の連続。どこへ読者をいざなうか、終点が見えない作品。 もはや村上文学の終焉さをも示す作品だ。ノーベル賞はおろか、洛外転落の様相。あの作家としての 試行錯誤を重ねていた時代の作品に懐かしさえ覚えるのは、当方だけであろうか。再度より深い空想上の世界へ 運んでいってもらいたいものだ。 | ||||
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| 相変わらずの春樹ワールドに浸れる短編集。ジャズをはじめとする音楽、お酒、、セックス、孤独、そして、いなくなる、あるいはいなくなった女。彼の言葉や言い回しから紡ぎ出される、イメージの世界に容易に酔える人とそうでない人がいるのだろう。感じ方は人それぞれだ。 一番のお気に入りは、「木野」である。ラスト、ドアのノックの音のイメージに、私の想像力が波打つほどに感応した。小説を読んで、このような気持ちにさせてくれる作家さんは、私にとって他にいないのである。 感動や涙とは、また違った心のひだに染み入る言葉の魅力がこの作家にはあるのだと思う。 作品内容とは関係ないが、こちらで予約注文(3/26)しておいたのに、第2刷とはどういうことか?当方、初版マニアではないが、それだけ予約が殺到したということなのでしょうかね?残念。 | ||||
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| 6篇からなる短編集である。 寄席にいって噺家のいろんな噺を聴いて、あれがよかった、これはいまいち、みたいな感想を抱くように述べてしまえば、私の中では「シェラザード 」がこの短編集のなかでの最高傑作で、「ドライブ・マイ・カー 」、「イエスタデイ」の順にそれに続いた。 さて「シェラザード」。文字を追ううちに情動が揺さぶられて、ハラハラして、何度も短い中断を余儀なくされた読書となった。ここで扱われていた精神病理とその描き方は秀逸であった。 その他の物語でも、別の精神病理が扱われていたりもしたが、そちらはやや陳腐に思えてしまった。 時間を忘れて読み耽ることができた。 佳い作品と出会えたと思っている。 蛇足)発売直後に読もうと思って、Amazonで予約したのが裏目にでて、店頭で買うよりも遅れて配達されてきた・・・ | ||||
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| 3時間ほどで読めた。 女を失った男たち6人の物語。 不思議な余韻を残して終わるのが、村上春樹の短篇なのだろう。 出会って数ヶ月で仲良くなった友達いることや恐怖で布団の中で丸め込み、 絶対外を見ないなんて恐怖したりしなくなった。 村上春樹の小説に出てくる美女は相対的にみて美女というより、 その男がこころから美しいと思っているから美女のように表現されているんじゃないだろうか。 あたかも本当の出来事のように男たちは物語るのでそう思わされる。 時代背景がいつなのか巧みに語られないからこそ、 いつ読んでも話に集中できるんだろうなあ。 | ||||
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| 村上春樹の連作短編集『女のいない男たち』を読みました。 収録作品は次の6編。 「ドライブ・マイ・カー」 「イエスタデイ」 「独立器官」 「シェエラザード」 「木野」 「女のいない男たち」 「ドライブ・マイ・カー」は、 妻を亡くした初老の俳優が、 臨時雇いの女運転手を相手に、 妻や妻の不倫相手について語るという設定。 タバコのポイ捨て描写で話題になった作品です。 「イエスタデイ」は、 生まれも育ちも東京なのに完璧な関西弁を話す男と、 その幼馴染で恋人だった女性の関係が描かれています。 イエスタディの替え歌で話題になった作品です。 「独立器官」は、 初老で独身の美容整形外科医が、 女性の嘘に打ちのめされる話。 「シェエラザード」は、 地方都市の「ハウス」で閉じ込められてる(潜居してる?)主人公が、 「連絡員」の女性から、いろんな変わった話を聞きます。 情事のあとに話をするので、 「千夜一夜物語」の王妃になぞらえて、 彼は彼女をシェエラザードと名付けます。 「木野」は、 妻と同僚の不倫現場に目の当たりにしてしまった男が、 離婚し、会社を辞め、バーを始める話。 バーには猫が住み着き、 謎の男が常連客になります。 この作品が『文藝春秋』に掲載された時の挿画が、 単行本の表紙に使われています。 「女のいない男たち」は、 元恋人が自殺したという知らせを、 彼女の夫から、深夜に受けた男の話。 この作品のみ書き下ろしです。 これら6編の中では、 「イエスタデイ」と「木野」が特におもしろかったです。 「イエスタデイ」は、読み終えた後、しばらく息苦しかったです。 また、6編の中で、「木野」がもっとも村上春樹的な作品という印象を受けました。 | ||||
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| 表題の 女のいない男たちを読み終えたところです。 男女の別れについて どうしようもなく本質的なことが書かれています。 短編というよりも むしろ随筆に近いんじゃないかと思いました。たぶん。 共感。 | ||||
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| 「まえがき」に著者は自作のタイトルについて説明している。読者はヘミングウエイの短編集“Men Without Women”を思い出すだろうが、あれは「女抜きの男たち」であって、自分のは「女のいない男たち」で、いろんな事情で女に去られた男たち、だと言う。そして、このモチーフでの連作がこの作品集なのだと彼は続けるのである。彼の言葉通り、この作品集には6作の「女のいない男」の物語が収められている。正確に言うなら「愛していた女に去られた男たち」の物語である。 ネタバレになるがあらましを紹介すると。 著者が「この本の出発点」と呼ぶ冒頭の「ドライブ・マイ・カー」の主人公は50代の俳優で最近妻を亡くした。彼は妻が男と浮気していることに気づきながら知らないふりをして円満な夫婦を装っていた。「彼女を失ってしまうかもしれない。そのことを想像すると、それだけで胸が痛んだ」ためである。 2作目の「イエスタディ」は、高校時代から付き合っていた女性とは手も握れなかった男が彼女の浮気を知って姿を消し、アメリカへ渡って寿司職人になる。その後10数年も彼は彼女のことを思い続けていて、時々思い出したようにアメリカから葉書を送っている。 3作目、「独立器官」は医師の渡会は独身のプレイボーイで数知れずの女性と遊んできたが、ある女性と出会って初めて真剣な恋に落ちた。「彼女にもうこのまま会えないんじゃないかと思うと、身体がまっ二つに引き裂かれるようです」しかし、彼女の裏切りに逢って精神を狂わせていく。 5作目の「木野」は、妻の浮気の現場を見てしまった木野は務めていた会社を辞め、離婚してバーの経営者として再出発する。しかし、彼は自分が思っている以上に深く傷ついてしまっていた。バーをやっていくうちに少しずつ神経を狂わせていく。 愛していた女に裏切られ、去られた男は、その悲しみの深さから精神を病み、自分を失ってついには自分であることを否定するに至るのである。ある男は「怒り」を感じてその解消に浮気男へ近づく。ある男は進学を断念し、アメリカへ渡る。別の男は拒食症になって死を選ぶ。そして、行方の知れない旅に出る男もいる。男はどうしようもなく弱い動物なのだ。それに引き換え女は男が理解できるようなものではない、と著者は示唆しているようだ。 この短編集は、従来の村上春樹の作品と同様に「喪失」がメインテーマとなっている。主人公は、彼の作品らしく自分の流儀や思考を頑なに守っている男性である。男女の接近と別離、セックス、死の影が色取りを添え、背景には洋楽が流れているのも馴染みのこと。しかし、人物設定、構成、プロット、会話、文章、すべてに技巧が凝らされていて、スリリングな話の展開を興味深く読み進めることができた。村上春樹は同じパターンを繰り返しながらも年齢とともに成熟度を増している。 | ||||
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| 表題作「女のいない男たち」ではこんなふうに定義されている。 「女のいない男たちになるのはとても簡単なことだ。一人の女性を深く愛し、それから彼女がどこかに去ってしまえばいいのだ」 つまりぶっちゃけて言えば、本作は「恋人や妻から捨てられ裏切られた男たち」を描いた短編集であり、彼らのこころの傷をいろんな角度から照らした「失恋ソングブック」である。(けっして彼女いない歴=年齢の男たちを描いた作品ではないので、要注意) 「ドライブ・マイ・カー」は、浮気の理由を妻の生前に確かめられず悩む男の話。男は運転手として若い女性を雇っているのだが、口数少ない彼女がもらす一言一言が、少しずつ確実に男を救っていく過程がよかった。 「イエスタデイ」は、なんといっても関西弁でビートルズを歌う木樽が魅力的。陽気で誠実な木樽は、恋人に「僕」をあてがってまでして彼女を近くに引きとめようとするけれど、結局浮気されてしまう。志は高いが、行動様式は喜劇的、そして結末は悲劇的――というドン・キホーテ的(アメリカ文学的)筋立ての作品といえる。恋人に浮気された木樽より、第三者の「僕」の方が傷ついているように見えるのが面白い。 「独立器官」は、つかず離れずの気軽な関係でさんざん女遊びをしてきた整形外科医が、中年にして初めて真剣な恋に落ち、失恋し、そしてその痛手で餓死してしまうという話。人間の類型化を前置きにおいてストーリーに入っていく感じなど、フィッツジェラルドの「リッチ・ボーイ」を連想した。 「シェエラザード」は本作のなかで一番際立った設定をもつ作品だ。登場人物は「ハウス」と呼ばれる一室に送り込まれ、そこで外界との交渉を断って待機する男と、彼の世話(食事の世話と性欲処理の世話)を受け持つ「連絡係」の女性。彼女が男に話して聞かせる魅力的なピロートークを軸に、ストーリーが進んでいく。主人公は女性が去るととともに物語のつづきが聴けなくなることを恐れている。 作中で具体的に明かされるわけではないのだが細部を総合して考えるに、主人公はおそらく何らかの(宗教?)組織に属していて、何か恐ろしい任務を遂行するための指示が下るのを待っているところなのではないか。そう考えると、主人公の「物語」への渇望もふくめて、ちょっと背筋の冷たくなる話だった。 「木野」は、妻と同僚の浮気現場を目撃した男が離婚し、会社を辞めてバーをひらくが、あるときから奇妙な出来事が起こり始め、自分の退けてきた(見て見ぬふりをしてきた)傷や闇と向き合うという話。作者自身のまえがきによると、本編がいちばん苦労した作品らしいが、個人的にはこの作品がいちばん気に入った。主人公の木野が、地下室への階段を一歩一歩降りて行くように、自分の心の闇にすこしずつ踏み込んでいく過程が迫真的で、力強かった。ちなみに木野の経営するバーは「ドライブ・マイ・カー」でも言及されています。 「女のいない男たち」は、かつての恋人の夫から突然電話がかかってきて、妻(つまり元恋人)が自殺したと告げられた主人公が、恋人の喪失が本質的には何を意味するか自問する話。話の筋らしいものはあまりないが、比喩と比喩が緊密にむすびついていて、それが物語に「散文詩」のような魅力を添えている。好悪の分かれる作品かもしれない。 以上が、私の個人的な感想。いろんな「失恋」のかたちが示されているので、きっと心の通い合う短編がひとつは見つかるはず。作者は自身の短編について「長編を書くためのスプリングボード」でもあると、ある本で書いていたが、本作がどういった長編に結実するのかとても楽しみだ。 | ||||
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| この短編集は、簡単にいうと愛についての現代の寓話集だ。 ・死んだ妻の秘密(浮気)に悩まされる男 ・長年交際している幼馴染と上手く恋愛できない男 ・本気で女を好きになったがため、崩壊していく独身主義者の男 ・情事の後の女の(内面世界的な)話に魅了され、そうした関係が無くなるのを恐れる男 ・妻の浮気問題に正面から向き合わなかったがため、精神を破滅させていく男 ・昔の彼女の自殺を期に、彼女の存在の大きさに思いを巡らす男。 私が思い出したのは、ビートルズの「NOWHERE MAN」だ。訳詞の掲載許可が下りなかったがため、「村上ソングス」(という洋楽の訳詞とその曲にまつわるエッセイ集)に載せられなかった曲だ。エッセイ部分は後に「雑文集」に収録された。村上はこの曲の題名を「どこにも行けない人」としている。 男は胎内の記憶のかけらを、女性のどこかしらに見出し、関係をつづけようとする。しかし現実は胎内のように満ち足りてはいないので、男は壁にぶつかり、途方にくれるばかり。 Isn’t he a bit like you and me?(そういう人ってちょっとあなたや僕に似ていません?) ジョンは歌う。 私はそれぞれのストーリーに身につまされながら、村上にも同じように言われているようで、ちょっとほっとするのだ。 | ||||
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| 本屋さんが近所にないため、初めて発売日にAmazonで注文しました。 その道20年の「ハルキスト」ですが(そんな言葉があるというのも最近知りましたが)『1Q74』は、あまりにも騒がれていてなかなか手に取る気になれず、ずいぶん経ってからブックオフで買いました。 ですが、これはなぜか発売を聞いてから読みたくてたまらなくなり、待つことができませんでした。 昔から村上さんの短編に関しての「引き出し」の多様さは長編の底力とはまったく違っていて大好きでした。 『夜のくもざる』のような徹底的にナンセンスで力技的な短編(?)も好きだし、この作品集のように真剣な短編・中編もまた魅力的なのです。 ニュースで騒がれたタバコやビートルズに関する改変は、致し方ないとはいえ残念でなりません。 ご本人は作品に影響のない部分だったので解決できて良かった、というようなことを書かれているけれど、愛読者としては影響がないように見えるだけで、やはり自分の作品を自分の意志でなく他人の影響で書き換えるというのは作家として辛いだろうし、それが作品にも分からない程度にうっすらと影を落としているように思えてなりません。 ただ、もし自分の住む町の名前が悪く書かれていたら…愛読者はほくそ笑むでしょうが、関係ない人は気分を害するかもしれませんね。 ところで、私は個人的に村上作品について、他人と語り合うことに全く興味がありません(同じ読書家の長女は別ですが)。 中には集まって作品に登場する場所を訪れたりする方もいるそうですが、私はなぜか他者と意見を交換したいと思えないんです。 なので村上作品のレビューもほとんど読んだことがありません。 村上作品について書かれた「春樹本」などなおさらです。数冊読みましたが的外れなひどいものばかりでした。 矛盾するようですが、好きな作家のレビューは読まないことをお勧めします(;^ω^) | ||||
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| 久しぶりに出版された短編集と言うことで喜んで手に取ったのだが、期待を裏切らない作品ばかりだった。長編小説については『ねじまき鳥クロニクル』以降の作品は、明らかに質が低下してきているにもかかわらず、短編集は相変わらず読ませて、楽しませてくれる。村上氏の場合、最初の短編集である『中国行きのスローボート』以来、長編よりも短編の方が期待を裏切られることが少ないような気がする。 今回の短編集は、アーネスト・ヘミングウェイの『Men without Women』から名前を借りたらしい、と言うことをあちこちを検索して知った。どうやら村上氏は自分の作品を命名するのが苦手なようだ。『1Q84』しかり、『色彩を持たない……』しかり。題名はともかく、作品の内容はひとつの例外を除いてどれも素晴らしい。題名から察せられるように男女関係の話がたっぷりと出てくる。この点で、人々の好みは分かれるかもしれない。 しかし村上氏と言う作家は本当に金のなる木なのだろう。あちらこちらの人々が、氏の作品を取り上げている。彼を評価する者はもちろん、けなす者たちも……。そして今年2014年のノーベル文学賞の最大の有力候補は、やはり村上氏であるようだ。個人的な感想を言えば、海外にはもっと適切な受賞者がいると思うし、更に言ってしまえば、日本生まれの英国人作家Kazuo Ishiguroの方が、よほどノーベル賞に相応しいと思うのだが、いかがだろうか。 | ||||
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| 村上節が抑えられていて意外と読みやすい。 淡々と進む物語。 いつものあの、「女性が堂々とカフェで読めるよう、過剰なおしゃれ感で演出・偽装した、実は品性が最もお下劣な官能小説」な風味はそれほどありません。 ただし、表現はあっさりしているものの、物語の中心は<いつでもどこでもSEXオンリー>、<人間はSEXのことしか考えていない>、<起承転結の全てがSEX>です。 全般的な感想としては、 淡々と、女性とSEXに振り回される男達の苦悩っぷり、転落する様が短編ゆえにスピーディに描かれていて、リズム良くすんなりと読めました。 (「女のいない」となっていますが、誰も孤独ではありません。あんなのは孤独のうちに入りません。) しかし最後の描きおろしの短編「女のいない男と達」。 これは余計でした。蛇足。余分。ぶち壊し。 それまでの物語とは関係なく、いきなりアクセル全開の村上節炸裂。 この短編集の総括になっていません。 もうわけがわかりません。 今まで村上氏が実際に数々の女性を落としてきたであろう、意味不明だけどおしゃれでミステリアスに感じさせる文章。 女性を煙に巻くべく小粋なグッズもふんだんに散りばめられています。 「木野」で終わらせておくべきでした。 (番外) 「携帯電話がなんてものがまだ影もかたちもなかった時代」には、 友達同士の日常会話で「モチベーション」なんて言葉は出てきませんでしたよ。村上さん。 あれは1990年代頃からですよ。 | ||||
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| 2013年12月号から2014年2月号まで連載されていた村上春樹の小説が、「女のいない男たち」という短編小説集として文芸春秋から出版されました。この本の中には、文芸春秋以外の雑誌に発表された短編「シェエラザ-ド」と、この本のために書き下ろした「女のいない男たち」が収録されています。文芸春秋の12月号に発表された「ドライブ・マイ・カ-」をもって、村上春樹は、「恋しくて」の翻訳を通して、前作「色彩のない・・・」の衰弱から完全に復帰した、と書きました。この短編集で新たに読むことができる二作もそれを裏切っていない。 この本では「女のいない男」という、得体の知れない題名のたねあかしもしています。「女のいない男になるのはとても簡単なことだ。一人の女性を深く愛し、それから彼女がどこかに去ってしまえばいいのだ。・・・その孤独の色はあなたの体に深くしみこみ、・・・あなたは淡い色のペルシャ絨毯であり、孤独とは落ちることのないボルド-・ワインの染みなのだ。そのような孤独はフランスから運ばれ、傷の痛みは中東からもたらされる。女のいない男たちにとって、世界は広大で痛切な混合であり、そっくりそのまま月の裏側なのだ。」 もちろん、男のいない女たち、も地球の影にかくれた月の表側であって、鈍く赤い輪郭が見えるだけで、やはり光が差し込むことはない。人知れずに暗くオレンジに染まる孤独を抱きしめているのでしょう。きっと。 この短編集の白眉は「木野」だと思う。 村上春樹は最新の翻訳を通してリャード・フォ-ドが見つけた秘密に近づく。「私たちの心の鈍感さが家族と世界の不条理を呼び寄せる」。その秘密に村上は、「木野」を書くことで挑んでいます。心の鈍感さとはなにか。 「おれは傷つくべきときに十分傷つかなかったんだ、と木野は認めた。・・・肝心の感覚を押し殺してしまった。痛切なものを引き受けたくなかったから」。そうした心の鈍感さが心の空白を生み、そこに蛇を思い出させる火傷を持つ女の長い舌と本物の蛇を引き寄せる。そうして木野を守っていた守護神を遠ざける。主人公の木野は店をたたみ日本中をさまようばかりだ。心の空白をうめる「誰かの暖かい手」を求めるために、あたりが明るくなり鳥たちが活動をはじめ翼で飛び立つのを待つために。 | ||||
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