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(短編集)
女のいない男たち
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女のいない男たちの評価:
書評・レビュー点数毎のグラフです | 平均点3.76pt |
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Amazonサイトに投稿されている書評・レビュー一覧です
※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
未読の方はご注意ください
全328件 301~320 16/17ページ
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外側の形だけは不思議な登場人物とセックスと死と音楽が主題で、過去のこの人の長編小説でも焼き回されて来たようなパターンというか、いかにもな小説には見えたのですが、 読んで面白いかどうかといえば、何か実感や鋭さみたいなものは読後感としてそこまで感じられず、 そこまでではないのかなあとモヤモヤがありました。 | ||||
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この短編集は、前書きによれば「いろんな事情で女性に去られてしまった男たち、あるいは去られようとしている男たち」の物語集である。 各物語の詳細については他のレビューを参照していただければ十分に思う。 全体的に文章が落ち着いていて、丸みを帯びているように思う。 私はどちらかというと村上春樹は長編が好きなので、短編にはあの期待感とか感動はそれほどまでには感じなかった。 しかし、この安定感も悪くないとは思った。 「独立器官」の中で村上春樹は「すべての女性には、嘘をつくための特別な独立器官のようなものが生まれつき具わっている」と書いている。 女性の私としては、最初は反撥をおぼえたが、読み終えてみて、そうかもしれないとも思わされた。 確かに大事なところで嘘をつくようなことがあったように思う。しかし悪気はないのだ。 宇多田ヒカルも「女はみんな女優」と唄っている。 そんな女たちに翻弄させられる物語集がこの短編集なのだろう。 この短編集の中で一番面白かったのは、「木野」である。 この話を広げれば、かなり楽しめる中編小説になっただろう。 「男のいない女たち」ならどんな短編集が出来上がるだろう。 案外、のびのびやってしまい、自由を謳歌してしまうかもしれない。 失恋の痛手は男のほうが持ち続けるのかもしれない。 | ||||
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世代が違うので、実感がわかないけれど、ビートルズの曲が聴きたくなったようです。 男女関係にもふれていて、おもしろく読めました。 | ||||
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村上作品は全て読んでます。最近の長編作品(海辺のカフカ以降)に辟易し、やはりどんな作家にも平等に衰えは訪れるんだなぁと諦めていたところにこの本作。東京奇譚集からさらに進化した美しい文体やその表現力、魅力的な登場人物は小説という媒体を超越し、神の領域にも達しているように思う。前作の薄っぺらすぎる多崎つくるのウンコみたいなお伽話がウソのように感じる。長編でも、再起をお願いします。 | ||||
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表紙の絵のようにあまりにも単調、退屈、な名文章の連続。どこへ読者をいざなうか、終点が見えない作品。 もはや村上文学の終焉さをも示す作品だ。ノーベル賞はおろか、洛外転落の様相。あの作家としての 試行錯誤を重ねていた時代の作品に懐かしさえ覚えるのは、当方だけであろうか。再度より深い空想上の世界へ 運んでいってもらいたいものだ。 | ||||
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相変わらずの春樹ワールドに浸れる短編集。ジャズをはじめとする音楽、お酒、、セックス、孤独、そして、いなくなる、あるいはいなくなった女。彼の言葉や言い回しから紡ぎ出される、イメージの世界に容易に酔える人とそうでない人がいるのだろう。感じ方は人それぞれだ。 一番のお気に入りは、「木野」である。ラスト、ドアのノックの音のイメージに、私の想像力が波打つほどに感応した。小説を読んで、このような気持ちにさせてくれる作家さんは、私にとって他にいないのである。 感動や涙とは、また違った心のひだに染み入る言葉の魅力がこの作家にはあるのだと思う。 作品内容とは関係ないが、こちらで予約注文(3/26)しておいたのに、第2刷とはどういうことか?当方、初版マニアではないが、それだけ予約が殺到したということなのでしょうかね?残念。 | ||||
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6篇からなる短編集である。 寄席にいって噺家のいろんな噺を聴いて、あれがよかった、これはいまいち、みたいな感想を抱くように述べてしまえば、私の中では「シェラザード 」がこの短編集のなかでの最高傑作で、「ドライブ・マイ・カー 」、「イエスタデイ」の順にそれに続いた。 さて「シェラザード」。文字を追ううちに情動が揺さぶられて、ハラハラして、何度も短い中断を余儀なくされた読書となった。ここで扱われていた精神病理とその描き方は秀逸であった。 その他の物語でも、別の精神病理が扱われていたりもしたが、そちらはやや陳腐に思えてしまった。 時間を忘れて読み耽ることができた。 佳い作品と出会えたと思っている。 蛇足)発売直後に読もうと思って、Amazonで予約したのが裏目にでて、店頭で買うよりも遅れて配達されてきた・・・ | ||||
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3時間ほどで読めた。 女を失った男たち6人の物語。 不思議な余韻を残して終わるのが、村上春樹の短篇なのだろう。 出会って数ヶ月で仲良くなった友達いることや恐怖で布団の中で丸め込み、 絶対外を見ないなんて恐怖したりしなくなった。 村上春樹の小説に出てくる美女は相対的にみて美女というより、 その男がこころから美しいと思っているから美女のように表現されているんじゃないだろうか。 あたかも本当の出来事のように男たちは物語るのでそう思わされる。 時代背景がいつなのか巧みに語られないからこそ、 いつ読んでも話に集中できるんだろうなあ。 | ||||
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村上春樹の連作短編集『女のいない男たち』を読みました。 収録作品は次の6編。 「ドライブ・マイ・カー」 「イエスタデイ」 「独立器官」 「シェエラザード」 「木野」 「女のいない男たち」 「ドライブ・マイ・カー」は、 妻を亡くした初老の俳優が、 臨時雇いの女運転手を相手に、 妻や妻の不倫相手について語るという設定。 タバコのポイ捨て描写で話題になった作品です。 「イエスタデイ」は、 生まれも育ちも東京なのに完璧な関西弁を話す男と、 その幼馴染で恋人だった女性の関係が描かれています。 イエスタディの替え歌で話題になった作品です。 「独立器官」は、 初老で独身の美容整形外科医が、 女性の嘘に打ちのめされる話。 「シェエラザード」は、 地方都市の「ハウス」で閉じ込められてる(潜居してる?)主人公が、 「連絡員」の女性から、いろんな変わった話を聞きます。 情事のあとに話をするので、 「千夜一夜物語」の王妃になぞらえて、 彼は彼女をシェエラザードと名付けます。 「木野」は、 妻と同僚の不倫現場に目の当たりにしてしまった男が、 離婚し、会社を辞め、バーを始める話。 バーには猫が住み着き、 謎の男が常連客になります。 この作品が『文藝春秋』に掲載された時の挿画が、 単行本の表紙に使われています。 「女のいない男たち」は、 元恋人が自殺したという知らせを、 彼女の夫から、深夜に受けた男の話。 この作品のみ書き下ろしです。 これら6編の中では、 「イエスタデイ」と「木野」が特におもしろかったです。 「イエスタデイ」は、読み終えた後、しばらく息苦しかったです。 また、6編の中で、「木野」がもっとも村上春樹的な作品という印象を受けました。 | ||||
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表題の 女のいない男たちを読み終えたところです。 男女の別れについて どうしようもなく本質的なことが書かれています。 短編というよりも むしろ随筆に近いんじゃないかと思いました。たぶん。 共感。 | ||||
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表題作「女のいない男たち」ではこんなふうに定義されている。 「女のいない男たちになるのはとても簡単なことだ。一人の女性を深く愛し、それから彼女がどこかに去ってしまえばいいのだ」 つまりぶっちゃけて言えば、本作は「恋人や妻から捨てられ裏切られた男たち」を描いた短編集であり、彼らのこころの傷をいろんな角度から照らした「失恋ソングブック」である。(けっして彼女いない歴=年齢の男たちを描いた作品ではないので、要注意) 「ドライブ・マイ・カー」は、浮気の理由を妻の生前に確かめられず悩む男の話。男は運転手として若い女性を雇っているのだが、口数少ない彼女がもらす一言一言が、少しずつ確実に男を救っていく過程がよかった。 「イエスタデイ」は、なんといっても関西弁でビートルズを歌う木樽が魅力的。陽気で誠実な木樽は、恋人に「僕」をあてがってまでして彼女を近くに引きとめようとするけれど、結局浮気されてしまう。志は高いが、行動様式は喜劇的、そして結末は悲劇的――というドン・キホーテ的(アメリカ文学的)筋立ての作品といえる。恋人に浮気された木樽より、第三者の「僕」の方が傷ついているように見えるのが面白い。 「独立器官」は、つかず離れずの気軽な関係でさんざん女遊びをしてきた整形外科医が、中年にして初めて真剣な恋に落ち、失恋し、そしてその痛手で餓死してしまうという話。人間の類型化を前置きにおいてストーリーに入っていく感じなど、フィッツジェラルドの「リッチ・ボーイ」を連想した。 「シェエラザード」は本作のなかで一番際立った設定をもつ作品だ。登場人物は「ハウス」と呼ばれる一室に送り込まれ、そこで外界との交渉を断って待機する男と、彼の世話(食事の世話と性欲処理の世話)を受け持つ「連絡係」の女性。彼女が男に話して聞かせる魅力的なピロートークを軸に、ストーリーが進んでいく。主人公は女性が去るととともに物語のつづきが聴けなくなることを恐れている。 作中で具体的に明かされるわけではないのだが細部を総合して考えるに、主人公はおそらく何らかの(宗教?)組織に属していて、何か恐ろしい任務を遂行するための指示が下るのを待っているところなのではないか。そう考えると、主人公の「物語」への渇望もふくめて、ちょっと背筋の冷たくなる話だった。 「木野」は、妻と同僚の浮気現場を目撃した男が離婚し、会社を辞めてバーをひらくが、あるときから奇妙な出来事が起こり始め、自分の退けてきた(見て見ぬふりをしてきた)傷や闇と向き合うという話。作者自身のまえがきによると、本編がいちばん苦労した作品らしいが、個人的にはこの作品がいちばん気に入った。主人公の木野が、地下室への階段を一歩一歩降りて行くように、自分の心の闇にすこしずつ踏み込んでいく過程が迫真的で、力強かった。ちなみに木野の経営するバーは「ドライブ・マイ・カー」でも言及されています。 「女のいない男たち」は、かつての恋人の夫から突然電話がかかってきて、妻(つまり元恋人)が自殺したと告げられた主人公が、恋人の喪失が本質的には何を意味するか自問する話。話の筋らしいものはあまりないが、比喩と比喩が緊密にむすびついていて、それが物語に「散文詩」のような魅力を添えている。好悪の分かれる作品かもしれない。 以上が、私の個人的な感想。いろんな「失恋」のかたちが示されているので、きっと心の通い合う短編がひとつは見つかるはず。作者は自身の短編について「長編を書くためのスプリングボード」でもあると、ある本で書いていたが、本作がどういった長編に結実するのかとても楽しみだ。 | ||||
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「まえがき」に著者は自作のタイトルについて説明している。読者はヘミングウエイの短編集“Men Without Women”を思い出すだろうが、あれは「女抜きの男たち」であって、自分のは「女のいない男たち」で、いろんな事情で女に去られた男たち、だと言う。そして、このモチーフでの連作がこの作品集なのだと彼は続けるのである。彼の言葉通り、この作品集には6作の「女のいない男」の物語が収められている。正確に言うなら「愛していた女に去られた男たち」の物語である。 ネタバレになるがあらましを紹介すると。 著者が「この本の出発点」と呼ぶ冒頭の「ドライブ・マイ・カー」の主人公は50代の俳優で最近妻を亡くした。彼は妻が男と浮気していることに気づきながら知らないふりをして円満な夫婦を装っていた。「彼女を失ってしまうかもしれない。そのことを想像すると、それだけで胸が痛んだ」ためである。 2作目の「イエスタディ」は、高校時代から付き合っていた女性とは手も握れなかった男が彼女の浮気を知って姿を消し、アメリカへ渡って寿司職人になる。その後10数年も彼は彼女のことを思い続けていて、時々思い出したようにアメリカから葉書を送っている。 3作目、「独立器官」は医師の渡会は独身のプレイボーイで数知れずの女性と遊んできたが、ある女性と出会って初めて真剣な恋に落ちた。「彼女にもうこのまま会えないんじゃないかと思うと、身体がまっ二つに引き裂かれるようです」しかし、彼女の裏切りに逢って精神を狂わせていく。 5作目の「木野」は、妻の浮気の現場を見てしまった木野は務めていた会社を辞め、離婚してバーの経営者として再出発する。しかし、彼は自分が思っている以上に深く傷ついてしまっていた。バーをやっていくうちに少しずつ神経を狂わせていく。 愛していた女に裏切られ、去られた男は、その悲しみの深さから精神を病み、自分を失ってついには自分であることを否定するに至るのである。ある男は「怒り」を感じてその解消に浮気男へ近づく。ある男は進学を断念し、アメリカへ渡る。別の男は拒食症になって死を選ぶ。そして、行方の知れない旅に出る男もいる。男はどうしようもなく弱い動物なのだ。それに引き換え女は男が理解できるようなものではない、と著者は示唆しているようだ。 この短編集は、従来の村上春樹の作品と同様に「喪失」がメインテーマとなっている。主人公は、彼の作品らしく自分の流儀や思考を頑なに守っている男性である。男女の接近と別離、セックス、死の影が色取りを添え、背景には洋楽が流れているのも馴染みのこと。しかし、人物設定、構成、プロット、会話、文章、すべてに技巧が凝らされていて、スリリングな話の展開を興味深く読み進めることができた。村上春樹は同じパターンを繰り返しながらも年齢とともに成熟度を増している。 | ||||
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この短編集は、簡単にいうと愛についての現代の寓話集だ。 ・死んだ妻の秘密(浮気)に悩まされる男 ・長年交際している幼馴染と上手く恋愛できない男 ・本気で女を好きになったがため、崩壊していく独身主義者の男 ・情事の後の女の(内面世界的な)話に魅了され、そうした関係が無くなるのを恐れる男 ・妻の浮気問題に正面から向き合わなかったがため、精神を破滅させていく男 ・昔の彼女の自殺を期に、彼女の存在の大きさに思いを巡らす男。 私が思い出したのは、ビートルズの「NOWHERE MAN」だ。訳詞の掲載許可が下りなかったがため、「村上ソングス」(という洋楽の訳詞とその曲にまつわるエッセイ集)に載せられなかった曲だ。エッセイ部分は後に「雑文集」に収録された。村上はこの曲の題名を「どこにも行けない人」としている。 男は胎内の記憶のかけらを、女性のどこかしらに見出し、関係をつづけようとする。しかし現実は胎内のように満ち足りてはいないので、男は壁にぶつかり、途方にくれるばかり。 Isn’t he a bit like you and me?(そういう人ってちょっとあなたや僕に似ていません?) ジョンは歌う。 私はそれぞれのストーリーに身につまされながら、村上にも同じように言われているようで、ちょっとほっとするのだ。 | ||||
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本屋さんが近所にないため、初めて発売日にAmazonで注文しました。 その道20年の「ハルキスト」ですが(そんな言葉があるというのも最近知りましたが)『1Q74』は、あまりにも騒がれていてなかなか手に取る気になれず、ずいぶん経ってからブックオフで買いました。 ですが、これはなぜか発売を聞いてから読みたくてたまらなくなり、待つことができませんでした。 昔から村上さんの短編に関しての「引き出し」の多様さは長編の底力とはまったく違っていて大好きでした。 『夜のくもざる』のような徹底的にナンセンスで力技的な短編(?)も好きだし、この作品集のように真剣な短編・中編もまた魅力的なのです。 ニュースで騒がれたタバコやビートルズに関する改変は、致し方ないとはいえ残念でなりません。 ご本人は作品に影響のない部分だったので解決できて良かった、というようなことを書かれているけれど、愛読者としては影響がないように見えるだけで、やはり自分の作品を自分の意志でなく他人の影響で書き換えるというのは作家として辛いだろうし、それが作品にも分からない程度にうっすらと影を落としているように思えてなりません。 ただ、もし自分の住む町の名前が悪く書かれていたら…愛読者はほくそ笑むでしょうが、関係ない人は気分を害するかもしれませんね。 ところで、私は個人的に村上作品について、他人と語り合うことに全く興味がありません(同じ読書家の長女は別ですが)。 中には集まって作品に登場する場所を訪れたりする方もいるそうですが、私はなぜか他者と意見を交換したいと思えないんです。 なので村上作品のレビューもほとんど読んだことがありません。 村上作品について書かれた「春樹本」などなおさらです。数冊読みましたが的外れなひどいものばかりでした。 矛盾するようですが、好きな作家のレビューは読まないことをお勧めします(;^ω^) | ||||
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久しぶりに出版された短編集と言うことで喜んで手に取ったのだが、期待を裏切らない作品ばかりだった。長編小説については『ねじまき鳥クロニクル』以降の作品は、明らかに質が低下してきているにもかかわらず、短編集は相変わらず読ませて、楽しませてくれる。村上氏の場合、最初の短編集である『中国行きのスローボート』以来、長編よりも短編の方が期待を裏切られることが少ないような気がする。 今回の短編集は、アーネスト・ヘミングウェイの『Men without Women』から名前を借りたらしい、と言うことをあちこちを検索して知った。どうやら村上氏は自分の作品を命名するのが苦手なようだ。『1Q84』しかり、『色彩を持たない……』しかり。題名はともかく、作品の内容はひとつの例外を除いてどれも素晴らしい。題名から察せられるように男女関係の話がたっぷりと出てくる。この点で、人々の好みは分かれるかもしれない。 しかし村上氏と言う作家は本当に金のなる木なのだろう。あちらこちらの人々が、氏の作品を取り上げている。彼を評価する者はもちろん、けなす者たちも……。そして今年2014年のノーベル文学賞の最大の有力候補は、やはり村上氏であるようだ。個人的な感想を言えば、海外にはもっと適切な受賞者がいると思うし、更に言ってしまえば、日本生まれの英国人作家Kazuo Ishiguroの方が、よほどノーベル賞に相応しいと思うのだが、いかがだろうか。 | ||||
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村上節が抑えられていて意外と読みやすい。 淡々と進む物語。 いつものあの、「女性が堂々とカフェで読めるよう、過剰なおしゃれ感で演出・偽装した、実は品性が最もお下劣な官能小説」な風味はそれほどありません。 ただし、表現はあっさりしているものの、物語の中心は<いつでもどこでもSEXオンリー>、<人間はSEXのことしか考えていない>、<起承転結の全てがSEX>です。 全般的な感想としては、 淡々と、女性とSEXに振り回される男達の苦悩っぷり、転落する様が短編ゆえにスピーディに描かれていて、リズム良くすんなりと読めました。 (「女のいない」となっていますが、誰も孤独ではありません。あんなのは孤独のうちに入りません。) しかし最後の描きおろしの短編「女のいない男と達」。 これは余計でした。蛇足。余分。ぶち壊し。 それまでの物語とは関係なく、いきなりアクセル全開の村上節炸裂。 この短編集の総括になっていません。 もうわけがわかりません。 今まで村上氏が実際に数々の女性を落としてきたであろう、意味不明だけどおしゃれでミステリアスに感じさせる文章。 女性を煙に巻くべく小粋なグッズもふんだんに散りばめられています。 「木野」で終わらせておくべきでした。 (番外) 「携帯電話がなんてものがまだ影もかたちもなかった時代」には、 友達同士の日常会話で「モチベーション」なんて言葉は出てきませんでしたよ。村上さん。 あれは1990年代頃からですよ。 | ||||
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2013年12月号から2014年2月号まで連載されていた村上春樹の小説が、「女のいない男たち」という短編小説集として文芸春秋から出版されました。この本の中には、文芸春秋以外の雑誌に発表された短編「シェエラザ-ド」と、この本のために書き下ろした「女のいない男たち」が収録されています。文芸春秋の12月号に発表された「ドライブ・マイ・カ-」をもって、村上春樹は、「恋しくて」の翻訳を通して、前作「色彩のない・・・」の衰弱から完全に復帰した、と書きました。この短編集で新たに読むことができる二作もそれを裏切っていない。 この本では「女のいない男」という、得体の知れない題名のたねあかしもしています。「女のいない男になるのはとても簡単なことだ。一人の女性を深く愛し、それから彼女がどこかに去ってしまえばいいのだ。・・・その孤独の色はあなたの体に深くしみこみ、・・・あなたは淡い色のペルシャ絨毯であり、孤独とは落ちることのないボルド-・ワインの染みなのだ。そのような孤独はフランスから運ばれ、傷の痛みは中東からもたらされる。女のいない男たちにとって、世界は広大で痛切な混合であり、そっくりそのまま月の裏側なのだ。」 もちろん、男のいない女たち、も地球の影にかくれた月の表側であって、鈍く赤い輪郭が見えるだけで、やはり光が差し込むことはない。人知れずに暗くオレンジに染まる孤独を抱きしめているのでしょう。きっと。 この短編集の白眉は「木野」だと思う。 村上春樹は最新の翻訳を通してリャード・フォ-ドが見つけた秘密に近づく。「私たちの心の鈍感さが家族と世界の不条理を呼び寄せる」。その秘密に村上は、「木野」を書くことで挑んでいます。心の鈍感さとはなにか。 「おれは傷つくべきときに十分傷つかなかったんだ、と木野は認めた。・・・肝心の感覚を押し殺してしまった。痛切なものを引き受けたくなかったから」。そうした心の鈍感さが心の空白を生み、そこに蛇を思い出させる火傷を持つ女の長い舌と本物の蛇を引き寄せる。そうして木野を守っていた守護神を遠ざける。主人公の木野は店をたたみ日本中をさまようばかりだ。心の空白をうめる「誰かの暖かい手」を求めるために、あたりが明るくなり鳥たちが活動をはじめ翼で飛び立つのを待つために。 | ||||
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村上春樹は小説家でありマラソンランナーだ。 専業作家となった1982年より今日まで30年以上ほぼ毎日10km程度をジョギングしておられるらしい。 村上春樹の安定した創作活動は、日頃のワークアウトに培われた強靭な精神と肉体によって成し遂げられるという事実はご本人も度々言及されるところである。 ワークアウトとは物質界に存在する自身の肉体のルーチンワークであり、反復であり、リズムであり、パターンを定着するための地道な作業だ。 僕は村上作品を読む際、いつもどこかしら、ワークアウトに勤しみ、マラソンを完走し、「継続は力なり」を強靭に具現する人による作品というイメージを受ける。 村上春樹の作品は長編でも短編でも素晴らしいのだけれど、僕が好きなのはこのような短編集だ。 気軽に村上世界に突入して、すっと抜けられる。また別の作品に入り込む。そういうことを繰り返し堪能しているうちに全編あっという間に読了してしまう。 これは別に村上作品に限らないと思うのだが、短篇集というのは、良質なワイン(あるいは日本酒、スコッチでもなんでもいいのだけれど)を安価で気軽にカポカポ飲んでいろんな銘柄を試すことができるみたいな贅沢さとお得感があると思う。 作品毎に、村上春樹は読者を突拍子もない異世界へ誘う。しかしあくまで起点は我々の多くが共有するだろう日々の生活や日常の光景だ。日常に静かに侵食し現世界とクロスオーバーしてくる異世界とのコントラストが美しいと感じる。それぞれの短編に彼が醸し出すアスリートとしての強靭な精神や軸足を感じ取れる機会がある。 村上作品に登場する主要なキャラクターの多くはそれぞれ確固たる特有の精神世界を維持しており、その事実に極めて自覚的だ。 そして精神世界の独立性を担保するが如く、物質世界でも固有の生活のリズム、パターン、スタイルも意識的に維持しているように見受けられる。 先立つ短篇集に『回転木馬のデッド・ヒート』があるが、その中でも『プールサイド』が好きだ。ネットで検索してみても僕と同じような部分に強いひっかかりを感じる方々は多いようで、 「35歳になった春、彼は自分が人生の折りかえし点を曲ってしまったことを確認した。いや、これは正確な表現ではない。正確に言うなら、35歳の春にして彼は人生の折りかえし点を曲がろうと決心した、ということになるだろう。」というパラグラフの引用をよく見る。 ラップスイミングに勤しむ人生の成功者。自身の人生についても規則正しいラップスイミング同様に「折り返し点」を定めようとする。規則性、パターンを維持しようとする。しかしながら、言うまでもなく人生は規則性、パターンのみで構成されているわけもなく、いくら彼らがそれを堅持したくとも、ひょんな拍子にバランスが崩れたり、異世界が進入する隙が生じる。 本作品では『独立器官』の渡会医師が自分のスタイル、パターンが崩れて異世界に飲み込まれた人だな、と『プールサイド』を思い出した。 語り手は『プールサイド』のときと同じように渡会医師とジムで知り合い親しくなる。彼もラップスイマーのようにすべてが自分の予定調和に生きているようなプレイボーイだ。しかし心底愛する女性の出現により自身の生活はもとよりアイデンティティまでが揺るがされ結局命を落としてしまう。 日常に侵食する異世界を描写するためには、軸足がしっかりとしたオブザーバーでないと勤まらない。ルーチンワークの崩壊の様はルーチンワーカーだからこそ描写できる。僕が村上世界をある種安心して信頼して疑似体験できるのは、村上春樹が強靭なアスリートで軸足がしっかりしているからなのだろうな、と思うのである。 PS.「青空文庫を読む」という無料アプリをリリースしています。 | ||||
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前作の長編でガッカリして「もういい・・」みたいな気になっていましたが、結局また読んでます(笑) 今回の連作短編(中編?)は良かったです。 「前書き」において「前書きはあまり好きではない」というアンチテーゼをかませておかれて、 いくつかの本文にも「最初に説明しとくけど・・」みたいな、見ようによっては本文中前書きともとれるような部分には苦笑させられました。 「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。」のような潔さはありません。 ご自身も以前、ロンメル将軍とウインナ・シュニッツエルの文章に関して、説明的な部分を排除し、簡潔で淡々とした筆致のなかでどれだけ情景を想起させる事が出来るか、そういった想像力を発芽させる力を持った文章を「開かれた文章」とおっしゃっていたではないですか〜(涙) 連作のプロットとしては、前書き一切ナシ(前書き的本文中導入部を含む)か、あるいは全てに前書き的な導入部をつけるか(おまけに「あとがき」もつけられては如何でしょう?)統一したほうがバラバラ感がなくて良かったと思います。 つまり、連作ではないのに連作とする為に、言い訳のための前書きが必要だったと(笑) 作品は素晴らしかったのですが、そこだけマイナス★一つとさせて頂きました。 | ||||
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彼がこれまで描き続けてきた謎の種明かしが最もうまくなされています。かつてはあいまいに描かれていたことが、今ははっきりと表現されている。ある作品は「ノルウェイの森」パート2だし、あるものは「ねじまき鳥クロニクル」のもう一つの可能性。近年顕著になってきたテーマ、我々を絡めとり破壊しようとする意思も首をもたげる。その意思は我々自身の内にもある。大切な人を傷つけたのは、実は我々自身かもしれない。 個々の作品について、精神疾患と音楽(レコード)に例えて書いてみます。「ドライブ・マイ・カー」ではカウンセリングの基本が語られているように思います。本作の総論でしょうか。「イエスタディ」では、主人公がいう「夢は必要に応じて貸し借りできる」が印象に残りました。「ノルウェイの森」の2014年最新リマスター? 私はこちらのほうが好きです。何より人が死なない。「独立器官」では中年以降の拒食症がしばしば神経症の末期として出現することを描いています。具体的描写が多く異色作に思えます。こちらは人が死にます。「シェエラザード」はフェティシズム、性的倒錯について。望遠鏡で窃視する初期の短編「野球場」の変奏曲でしょうか。「木野」では、家庭内暴力の主題が出現します。「ねじまき鳥クロニクル」の12インチ・シングル・カットで、「海辺のカフカ」や「アフターダーク」を意識したリミックスも収められている、そんな印象。最後に書き下ろしの表題作は、なんというか…良くも悪くも素の村上さんが最も表れた小品。作品としての完成度は低いかもしれませんが、個人的にはとても好きです。 短編一つ一つに意味を求めるより、全体で相互補完し合っていると考えた方がいいのではないでしょうか。そんな理屈はともかくあっという間に読んでしまいました。面白かった! 私が氏に惹かれるのは、彼の作品が持つ誠実さのためだと、改めて感じました。作品によっては差別思想と誤解される箇所もあるかもしれませんが、主人公を導く巫女としての他者、異性ではなく、主人公と別個の人格を持った他者をはっきりと描き出した。そこから生じる軋轢ではないかと私は考えました。本作を契機に村上春樹が真の総合小説を描くことを期待しています。 | ||||
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