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(短編集)
女のいない男たち
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女のいない男たちの評価:
書評・レビュー点数毎のグラフです | 平均点3.76pt |
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Amazonサイトに投稿されている書評・レビュー一覧です
※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
未読の方はご注意ください
全49件 1~20 1/3ページ
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「ドライブ・マイ・カー」「イエスタデイ」「独立器官」「シェエラザード」「木野」「女のいない男たち」の6編と「まえがき」からなる短編集。 「まえがき」によると、書かれた順としては「ドライブ・マイ・カー」「木野」「イエスタデイ」「シェエラザード」「独立器官」「女のいない男たち」という「順番」であるらしいが、「まえがき」と「女のいない男たち」とのどちらが先に書かれたかはわからない。わざわざ順番を混み入ったように書いている点は示唆的である。また、書かれた順に読んでみるのも良いかもしれない(言葉やイメージの繋がりがあるようだ)。 「ドライブ・マイ・カー」「イエスタデイ」「独立器官」「木野」の四編は、全く同一のページ数であり、「シェエラザード」はそれらより10ページほど少なく、「女のいない男たち」は更に20ページほど少ない。 「まえがき」では、短編集というものは一つのテーマを様々な手法や視点から扱える、と述べ実際にそのように作られ編まれている。ほぼ成人男性が物語の中心にいるが、「シェエラザード」では女性が中心に据えられる場面が多い。また、不在の女性についての物語群だが、その解決あるいは救いは女性によってなされるようである(みさき、えりか、16歳下の女性、彼の母親、叔母、「僕」の妻?) 三人称による映像的な作品から(実際に映画化されている)、一人称によって若いカップル(こちらはコミカル)あるいは中年男(こちらは悲劇的)が観察され、また三人称による(二重の、あるいは枠物語を踏まえれば三重の)密室のサスペンス(宙吊り)風の描写から神話的・幻想的な作品へと続き、最後は再度一人称による独白の掌編で終わる。比較的読みやすいものから、幻想的、抽象的、実験的作風のものへと並べられているようだ(真ん中の「独立器官」では技巧という言葉が頻出する)。この辺りは太宰の作風とも通じ(『葉』など)、また最後の作品は太宰とともにドストエフスキーの作品も思い起こさせる。更に中年男女の別れというモチーフはカーヴァーも想起させるだろう(文体も取り入れられているだろう)。謎(空白とも呼ぶ)の探求から、空白の背景化、空白自体の曖昧化などと、その扱いも変化しており、具体的に言えば、前半の作品群では探求するものとして、妻の浮気理由、若いカップルの別れ、アイデンティティの喪失、後半の作品群では前提や神秘的にあるいは妄想のように示される、監禁状態や不穏な蛇や唐突な助言や過去の恋人が挙げられる。 短編集の題名から、恋愛や結婚にまつわる男女関係が示唆されるが、単なる恋愛ものなのだろうか(当然、恋愛小説としても読める)。ヒントは「まえがき」にあるかもしれない。 わざわざ書かれた「まえがき」は何を示しているだろうか。「業務報告」としては、最後に付け加えられた(ような)改変へのエクスキューズくらいだろう(初出時との差異を調べる研究者もいる)。全編を読んだ後に読み返すと「キャリア」「コンセプチュアル」「表現者」「テクニカルな処理」などの言葉に目が留まる。(日本の?)文章家は無用な繰り返しを避けるものだが、「まえがき」9ページのうちにタイトル「女のいない男たち」が9回も出てくるのも何か不自然なようにも作為的にも思える(9年ぶりだからか?)。この「まえがき」は、かなりトリッキーであり隠されたメッセージが込められている、と勘繰るのは深読み過ぎるだろうか。あるいは、キャリアや表現に関した別のコンセプトがテクニカルに隠されているのだろうか。 言及される文学作品としては、ヘミングウェイの短編集『男だけの世界』、チェーホフ『ヴァーニャ伯父』、夏目漱石『三四郎』『こころ』があり、「木野」の猫は「名前はない」らしく『吾輩は猫である』を想起させる。 「見ていても見えていない」「隙間を埋める」「ただの肉体にすぎない」「冷ややかな」などの言葉が全編を通して反復される。ワインも繰り返し現れる。また、比喩や夢などとして船や海や川あるいは雨や水(浄化のイメージか? 逆に火のイメージは避けられているようだ、キャンドルの描写はあるが※)、さらに言えばドライブも含めれば行き過ぎ去るもののイメージが繰り返し現れ、それは男女の別れを暗示しているかもしれない(比喩に用いられるイメージの連なりは、文学作品にとって重要なものの一つだろう)。「人格」やその変化といったものもキーワードかもしれない。一方で、一人称の語り手「僕」が『イエスタデイ』『独立器官』『女のいない男たち』で登場するが(恐らく村上を逆さまにした「谷村」と呼ばれる「僕」は同一人物だろうが、本作最後の短編は別の人物かもしれない。彼は40歳くらいだろうか)、20歳、36歳、50代と世代が別れ、それぞれに語り口を書き分け成熟度合いといったものが示されている(20歳の「僕」は鸚鵡返しが多い。羽原や木野も単純な返答が多い)。会話などからグルーピングすると、家福と50代の「僕」(批判的観察者)、みさきと渡会(合理的思考)、高槻と羽原と木野(比較的素朴)、シェエラザードと『女のいない男たち』の「僕」と木樽(幻想的な夢想者)の4群に分けられるように思う(えりかは複合的なようだ)。 ※キャンドルは、管理された小さな火であり、家庭や親密さを象徴するだろう。だが、管理を誤れば大火をもたらす。その点も家庭や親密さとも通じる。小さな火としては煙草も登場するが、友だちがいないみさきにとって運転と煙草が彼女を潤すものなのだろう。他方で「木野」では煙草は否定的に扱われており対比的である。 「ドライブ・マイ・カー」「イエスタデイ」はビートルズの曲名から採られたもので、前者はアルバム『ラバーソウル』(1965年12月)の14曲中の一曲目(次の曲は「ノルウェーの森」)でブラック・ミュージックをかなり意識した曲(「ドライブ・マイ・カー」という言葉には隠語として性的な意味があるようだ)、後者は『ヘルプ!』(1965年8月)での14曲中の13曲目でメランコリックなバラードであり、この二曲はともにポールがメイン・ボーカルをとっているが対照的な曲。「イエスタデイ」はビートルズの作った曲で最も有名な曲の一つだろう(弦楽四重奏の編曲はジョージ・マーティンによる)。『ラバーソウル』『リボルバー』でポールとジョージによる曲が増え、当初ジョンが主導的だったビートルズから(『ヘルプ!』まではその傾向が強いか、会社の意向か)多様なソングライティングのバンドへと変わってくる。作詞面ではポールが物語的(通時的)、ジョンがナンセンス的(共時的)と対比的になる。 音楽との関連で言えば「シェエラザード」はロシアの作曲家リムスキー=コルサロフによる4楽章からなる交響組曲でヴァイオリンがエキゾチックなテーマを奏でる。ミハイル・フォーキンによるバレエ作品も有名。 対照的な作品である「ドライブ・マイ・カー」と「女のいない男たち」を検討してみたい。 「ドライブ・マイ・カー」 三人称で叙述され(時制は基本的に過去形)、俳優である家福に焦点が当てられている。しかし、プロットを進めるのは口数のすくない運転手であるみさきであり、みさきを介して家福の回想が挿入される。みさきと同乗している家福は亡くなった妻を思い出し夫婦生活と妻の浮気と夫婦の別れが回想される。みさきの年齢が分かると嬰児で亡くなった家福の娘への回想となり、みさきとの会話で友だちの話題になり、友だち(らしきもの)であり妻の浮気相手である年下の俳優である高槻が回想される。この回想はみさきとの会話と重複しているのかもしれないが、明示されてはいない。 構成としては、内的思考、会話、省略された回想、それらのバランスに配慮しているようである。 妻との情事を知っている家福の高槻に対する視点は、物語に対する語り手(全てを知る作者)の視点とも重なり、メタ的な構造を暗示する。 冒頭の女性の運転技術に関して、ジェンダー観としてはステレオタイプに見える。すなわち、女性は機械に疎く(人間や動物に親しい)、男性は機械に詳しく(人間関係は苦手、あるいは功利的に利用する)というような。その前提もあって、みさきの運転はより際立つ。みさきは家福の妻の浮気に関し、心が惹かれなかったからこそたいしたものでない(と家福が言う)高槻と関係を持ったと述べ、女性にはそのような面があると一般論を言うが、高槻の一般論には反撥した家福はそれを受け入れたようだ。しかし、そのように言う女性の一人であるみさきもそういった行動をとるとは思えないが、それは幻想だろうか、あるいは作者の策略だろうか。女性ながらに寡黙で実直なみさきは(「シェエラザード」の女性と対照的)、勤勉な日本人(男性)を象徴しているかもしれず、ジェンダーのズレを見てとることができるかもしれない。また、家福の妻と高槻の情事の主導権は妻の方が握っていたようで、そこには女性の優位が認められるが、情事の一因が嬰児の死にあったという点では母という役割からの逃避とも捉えられる。 道徳的にみると、主人公である家福は亡き妻に浮気された被害者である一方、それ以外の夫婦生活は円満であり社会的にも認められている人物として示され(喜劇的人物として提示されてはいない)、また、高槻に対しても表面的であれ攻撃的な態度をとらず、やや冷淡なようだが同情に値する人物として造形されている。 うまいや上手や優れているという言葉ではなく、「技巧」という言葉が会話中に用いられているが、普段の会話ではあまり使われない言葉だろう。冒頭に述べられるように運転技術が一つのモチーフになっており、家福はみさきの技術を認めている。一方で演技という技術もモチーフであり、家福から見ると高槻の技術は拙く思われ、みさきと高槻とは対照的な扱いである(妻が示した愛情に関しても優劣は明確なようである)。また、多くの技術とは「すべてはあまりに滑らかで、秘密めいて」いるようなものなのかもしれない。その点、この作品はどうであろうか。 「過去に受けた心の傷」も登場人物四人(家福、妻、みさき、高槻)に共通するものであり、この短編集に一貫するものだろう。対立するものとして「怒り」(のようなもの)が提示されるが、直接の暴力的描写はない(家福はみさきに対し演技をして隠したのだろうか)。 作中で言及されるチェーホフ『ヴァーニャ伯父さん』(1897年)との関連について言えば、みさきが引用するソーニャのセリフは第二幕の後半、家福の引用は第四幕前半のヴァーニャのセリフである。管見では、ヴァーニャとソーニャがそれほど不幸とは思えないが、彼の裏切られたという気持ちには共感しなくもない(チェーホフのいわゆる四大劇では『ワーニャ伯父さん』が個人的には最も好みである。アーストロフやソーニャの理想主義的な言動と対比的にワーニャの望みは地所の運営とエレーナへの恋慕(これが報われないことは既に知っている)といったささやかなものだが、その絶望と狂乱が言動に反して生真面目な性格を示しており逆説的な説得力を持つ。ドストエフスキー『罪と罰』のマルメラードフに通じる悲劇性と道化と何らかの過剰さを併せ持つ人物だろう)。家福は「救いのない話」というが、ソーニャは(信仰に根ざした)働くことと生きていくことにヴァーニャとともに救いを求める(これは冒頭での乳母マリーナが言う医師アーストロフへの慰めの言葉を反復している)。チェーホフの戯曲は顕著な事件のない「静劇」と呼ばれるようで、それは『女のいない男たち』の短編群に通じる。また、ソーニャは「利口な疑りぶかい目」を持つ一方で慕うアーストロフからは「てんで見向きも」されない、勤勉だったワーニャ(ヴァーニャ)は無為な生活を送り亡き妹の夫セレブリャコーフを狙い「とぐろを巻いている」(セレブリャコーフのセリフ)し自分を「恥ずかしい」と言う、美しい後妻エレーナは月の比喩を口にしアーストロフとの別れ際には彼の「鉛筆」を貰っていく、医師アーストロフはソーニャとエレーナ両者の気を引く、居候の隠居テレーギンは「前世」を口にする。これらは『女のいない男たち』全編にわたってインスピレーションを与えているようだ。 「目に見えていても、実際にはそれが見えていなかったのかもしれない」という家福のセリフは芸術や真理といったものに関し示唆的である。一方、高槻のセリフとして「自分の心と上手に正直に折り合いをつけていく」と述べるが、心に傷を負った者にそのようなことができるのだろうか、自分の心を見つめることができるだろうか。みさきは言う「頭で考えても仕方ありません。こちらでやりくりして、呑み込んで、ただやっていくしかないんです」。結びのセンテンスでは、そのようなみさきに対し家福は「感謝」する。赦し、癒し、あるいは救いの物語とも読める。 「女のいない男たち」 その語り口は、一人称による独白という形式によって一貫しているが、時制は現在形と過去形との混在となっている。物語の時間はいわば現在進行形なのだろう、共時的時制というかストーリーは時間に沿って進む訳ではなく、停滞でありサスペンス(宙吊り)とは別の時間感覚「個人的な時間」である(サスペンスは読者を宙吊りにするが、この作品のような語り手による独白・回想・妄想は語り手の内的時間において進行するもので客観的・物理的時間の外部にあると思える)。また、単体の名詞で終わる一文の使用も、他の短編と著しく異なっている。倒置法も用いられており、言葉の強調と言うよりも、不安定感や曖昧模糊とした印象を読者に与えるだろう。 構成としては、冒頭に電話でのやりとりがあり、妻との会話があるが、その後は「僕」の回想・妄想・内的対話・独白のみとなる。そのことから物語としては比較的平坦であり、ある種の読者には退屈であるかもしれないが、意識的に多様な技巧的手法を凝らした短編集にあってこの独白という手法は象徴的だろう(村上春樹の作品では珍しい形態ではないだろうか)。 (小説あるいは文学の)問題は「何ひとつ説明を与えてくれなかったこと」であり、読者を「知と無知の中間地点に据えること」がどうやら意図らしく、それは「何かを考えさせるため」かもしれない。また、それは「死者の世界に深く結びついたもの」でもある。 エムは、memory, monument, moratorium あるいは memento mori のMだろうか。西風ゼフィロスに対する、花と豊穣と春の女神フローラか。オルペウスに対するエウリュディケーだろうか(イザナギとイザナミ?)。 出会いの切っ掛けである消しゴムは喪失のメタファーだろう。出会いの時点で別れが暗示されている。過去にあった喪失による心の傷と、未来における別れへの不安、その両者は現在のある種の緊張に満ちた動的関係における男女の相互信頼や相補性によって癒されるのではないだろうか。 エムを作品、その夫を文学、妻を日常のメタファーとして考えたらどうだろうか。 後半には散歩する「僕」が語られる。散歩は日常に属し、平穏に帰るべきところへ帰るものだ。であれば、独白から戻る先は妻の元であるように思える。 本文では「女のいない男たち」が13回繰り返される。反復がモチーフのひとつであり、ドライブとカセットテープと「冷ややかな」と海の底の「金庫」と知と無知は「ドライブ・マイ・カー」、船と月と孤独(と「微かな笑み」)は「イエスタデイ」、自死と観察とスペースとワインは「独立器官」、授業やバッジは「シェエラザード」で登場したものを反復している。(「ひとつの場所に落ち着ける女性ではない」は「木野」と結びつくだろうか。) 「ドライブ・マイ・カー」と「女のいない男たち」との二篇は、三人称と一人称や過去形と現在形といった語り口も異なり、物語の物理的時間経過といった点でも、前者は家福とみさきとの会話などによってそれが明示されるが、後者では独白という形式によりそれは曖昧である(「散歩」を日課とするようなので数日経過しているようだ)。一方、中間に回想を挿入している点は共通している。 その謎の解明といった点も、前者ではみさきの解釈とその存在あるいは家福との関係によって解決あるいは和らげられ、後者は過去の恋人の自死の理由や方法が恋人とその夫への祈りへと転化しており(「僕」一人で完結する)、対照的だ。また、家福は高槻に対し敵対と共感の両価値的態度を持つが、「僕」は元恋人の夫に対し親しみを抱いている、あるいは抱こうとしている、という点では微妙な対比をなしている。 写真は、最初に家福とみさきがドライブした経路を辿ったもの。四の橋交差点、明治通り天現寺方面、天現寺橋交差点、外苑西通り明治屋方面、明治屋、有栖川公園、公園脇の坂、フランス大使館方面、フランス大使館、大使館脇の青木坂(一方通行)、大使館正面方面、大使館正面、明治通り四の橋方面。また、青山の柳と猫。 | ||||
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現代の夫婦関係は、こんなかんじなのか? 1番近くにいる人の気持ちが良く分からない! | ||||
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こんなものだよね! | ||||
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女性に去られてしまった男たちをテーマにした短編集。長編小説の合間に一息つくのに良かったです。男女間の関わりですがドロドロしておらず、こざっぱりとしていて心地よい感じ。 『人と人とが関わり合うというのは、とくに男と女が関わり合うというのは、なんていうか、もっと全体的な問題なんだ。もっと 曖昧 で、もっと身勝手で、もっと切ないことだ。』 | ||||
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映画を観て、それほどの映画とは思えず ただただ長かったなぁ... と思ったけれど 小説は面白いかも知れないと思い 購入して読んだが、それほど... と言った 感。 | ||||
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村上春樹さんの文学は人間のアイデンティで悩む人や人の存在意義に苦悩する人の気持を良くする効果あるので支持されるように思います。 | ||||
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妻を失った男 パートナーが自分を残して姿を消す事を恐れる男 恋焦がれた女を手に入れることができない男 恋焦がれるあまりに彼女を手に入れることができない男 手に入れることができなかった女を忘れられない男 そのような男たちを主人公とする短編が6編、収録されています。 されど村上春樹。 どの物語も単純にストーリーを辿る恋物語ではあり得ません。 良く知っている道を歩いたはずが、どこをどう間違えてこんなところに入り込んでしまったのか。 直ぐ近くにいつもの日常が在るはずなのに、見知らぬ風景からどうしても抜け出せない… 読む程にそんな焦燥感にかられる小説です。 最近公開された映画が話題になった本ですが、この短編集をどうしたら映画化できるのか興味津々になりました。 そのうちに観てみようと思います。 映画を先にご覧になった方は本書からどのような印象を受けるのでしょうか。 それも興味津々です。 | ||||
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映画の脚本と監督が良かったのだと思いました。 | ||||
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友人から借りて読みましたが、ものすごく良かった!他のも読んでみたいと思える良い作品でした! | ||||
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映画が話題でようやく読む気になりました。 映画を見る前に原作を読もうと先送りにしていたら映画の上映期間は終わってしまい、流行からはかなり遅れて原作を読むことになりました。 村上春樹には官能的描写が多くあることを初めて知りました。 わたし自身「恋愛」を語る上で「SEX」を語らない作品に今ひとつ現実味を感じることができていない部分が多くありました。性的描写をしない作品に重厚さがないとは思わないですが、自分の経験と底から準ずる価値観に性的描写をしない恋物語にはどこか夢想的なものを感じ違和感を抱いておりました。 一見それは自身の性欲が起因しているかも分からないですが、それならば同人誌や官能小説に重厚さを感じ、自身の経験と価値観に沿った、または共感を得ることのできるものかというとそういうわけでもない。 村上春樹の物語、語り口には官能的な面と同時に文学的でどこかまだ人生経験の少ない自分にも親しみやすい距離感、親近感を得ることができた。 しかし、自分の理解が足りないことは分かった上でも、村上春樹の思想や哲学にはどこか空を切ったような感覚もあった。掴みどころの分からないもの、それは比喩的な表現であることは分かるが自分には理解することの出来いものがあった。 ブログ等で作品の解説を読んでも、納得のいくものが得られない。それは自分の中で咀嚼できていないのかもしれない。これまで多くの作品を読んできた方々には分からないかもしれない、大きな空白が自分の中にできてしまった。 この空虚さ、喪失感はもしかすると自分のものだけなのかもしれない。 村上春樹の魅力が分かった気がする、しかし分かった気になっている気もする。こんな幼稚な自分にはもっと村上春樹が必要であると思った。 | ||||
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この本は必要に迫られて読んだのだった。 「ドライブ・マイ・カー」の原作本である。 この短編種の中の3編が混合されて、映画になった・・・ と知り読んだ。 それは映画の題名になった、 「ドライブ・マイ・カー」 「シェエラザード」 「木野」の、3編だった。 映画を観た多くの方はご存じだろうが、 映画は・・・こう言ったらノーベル賞も狙える位置にいる大作家・村上春樹に失礼にあたるが、 3つの短編のテイスト、或いはあらすじの一部か全部、そして雰囲気を使用してはいる。 しかし半分は村上春樹だとしても、残りの半分以上を濱口竜介監督が、 大人の鑑賞に耐える「ミステリー的衝撃」、「ドラマ性」、「ラストの着地点」を、 付け加えた(又は創造して再構築をした)ものだ。 濱口竜介にとって村上作品はスタート地点と、マラソンなら20キロ地点までは同じだが、 折り返した物語は、羽をつけて羽ばたき急坂を登り急カーブをアクセルを踏まずに 走り切って、思いもよらぬ新しい景観を見せて着地する。 映画の半分は村上春樹。 映画の評価の8割の功績は濱口竜介にある・・・と言うのが私見です。 小説に触れるのが遅くなりましたが、 この小説のテーマはやはり「愛する人を失った喪失」 「喪失」はあるけれど「再生」は、明らかではない。 この短編集でもっともガッカリさせられたのは、最終話の、 「女のいない男たち」でした。 若い頃に2年間付き合った「素敵な女の子」がいた。 彼女はあまりに魅力的なので、船乗りにでもさらわれてしまって、 僕の前から姿を消す。 その彼女が亡くなった・・・と、彼女の夫から夜中の1時に電話が来た。 自殺だったと言う。 主人公の僕の心は波立ち、遂に僕は「女のいない男たち」の一人になった。 それは言いようもなく悲しいこと。 僕は喪失を抱えて、彼女が天国で幸福に心安らかに暮らすことを祈る。 まぁ、そう言った内容の小説だった。 何という生活感のない、 何という陳腐な、 何という大人になりきれない、 心底がっくり来た。 他の5編はとても良かった。大人だった。 それだけに、単行本用の書き下ろしである巻末の、 「女のいない男たち」の不出来が残念である。 村上春樹の若い頃の蒙古斑を今もしっかりと付けていた。 | ||||
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映画化された作品が高評価だから読んでみましたが、村上ワールドが楽しめるならばとても楽しめるはず。 キャラクターがいつもともしかしたら違うかもしれない。 | ||||
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話題の映画ドライブマイカーの原作という事で読んでみました。他の人が言うほど性的表現は気にならないです。そもそも村上春樹作品には比較的多く表現されてます。文学から逸脱する物では無いかと思います。ただ短編小説なので仕方がないのか、私には物語の結末に不満というか、余韻と言うべきか謎が多過ぎてフラストレーションになりました。 | ||||
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映画が観たくなりました。 | ||||
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ジェンダー的に問題があるなあというのが冒頭からの印象。 試し読みなので全く参考にならないと思いますが 僕が村上春樹に熱中してた時の作風とそう変わってないと思います。 ただ時代が変わった。 元ハルキスト(この言葉も気味が悪い)として、老害にだけは鳴らないでください。 いつかちゃんと読みます | ||||
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映画「ドライブマイカー」を、観たので、 買ってみました。「村上作品」は、以前 「1Q84」を、読んでみたことが、あったんですが、…今回も、…「メッセージ」を、受け取りきれません。…すみません。 | ||||
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「ドライブ・マイ・カー」を読んでいる間中、ベルンハルト・シュリンクの「逃げてゆく愛」の中の「もう一人の男」を思い出していました。 妻が癌でなくなり、夫が妻のかつての男に近づいていく、その設定があまりに似ているのです。 ただ、シュリンクの方はすべてをクリアに描いているのに比べ、 村上春樹の方は登場人物の輪郭も含め、なにもかもを曖昧なままに置いているのが大きな違いです。 面白い部分、サビを取ってムードだけにした変奏曲を聴いているような気がして、 これを上手いというのか、ずるいというのか……。 | ||||
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賛否両論のようですね。映画「ドライブ・マイ・カー」の高評価をきっかけに、今回じっくり再読しました。まえがきに書かれているように、本書所収の他の短編も同じようなテーマを扱った作品で、女性を失った喪失感の様々な形が描かれています。 ヒロイン達を描写する際、決して美人ではないということを念押しするような描写が幾つかの作品で目立ちますが、このような描写を強調されてることで、却って作家の抱えるルッキズムの一バリエーションが垣間見えているような気がしました。(意地悪な読み方なのですが。) というのも、どの作品も女盛りの年齢で、何かしらの謎を抱えているというヒロイン像が共通しているのですが、明らかにある種の女性像を想定して愛でるような感覚が作品に流れているからなのですね。そして、こういうヒロイン像というのは、他の作品も含めた春樹作品のパターンでもあります。そういう点で、この短編集は典型的な春樹ワールドを手軽に読める作品だと言えるでしょう。 この作家が古いジャズを偏愛することと、手の届かないある種の女性に対するノスタルジーが延々と持続している感覚は、本質的なところで同じような秘密に基づくのかもしれませんね。女性に対するこの憧れの感覚が少し甘えん坊っぽく感じたので、星は渋めに付けてます。ただ、特に若い頃に多くの男性が抱くこういう感覚を持ち続けていることが、この作家の人気の秘密でもあります。この感覚に共感するかどうかが、評価の分かれ目なのでしょう。 | ||||
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映画が話題になっていたので、原作を読んでみようと、買ってみました。 どの作品も、一番読みたい部分が書かれていなくて、良く言えば謎解きなのかもしれませんが、プロなら、最後まで書けよって思いました。 中高年女性向けの、エロ小説という感じがしました。 | ||||
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手に取って読み始めてしまうのだが、途中で読むことが義務になって、読み終わると「かたちが素敵なペニス」しか頭には残っていない。村上春樹の読者サービスが裏目に出た作品集。 | ||||
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