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無実はさいなむ
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無実はさいなむの評価:
書評・レビュー点数毎のグラフです | 平均点4.08pt |
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Amazonサイトに投稿されている書評・レビュー一覧です
※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
未読の方はご注意ください
全19件 1~19 1/1ページ
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予想してたよりかなり面白く、読みごたえがありました。巻末解説に《愛すべき失敗作》とタイトルがついてるけど、失敗作だとは思わなかったけどなあ。濱中利信氏の解説文にある《本書の最大の難点は、事件に対する視点が一定していないことにあるのでは》p.427 にしても、私は違和感を感じなかったし。作者が上から俯瞰(ふかん)して物事を眺めている視線、登場人物たちにその眼差しを照射して語らせている味わいがあって、これはこれでありなんじゃないのと思ったんだけど。 本作品でまず印象に残ったのは、二年前に殺されたレイチェル・アージルという人物のキャラクターでした。この人、クリスティーの『春にして君を離れ』の主人公・ジョーンの系譜に連なる人かなあと。 自分では自覚せずに他者を抑圧し、彼らの自由を奪っている人。一見、大人物の立派な人とも見えますが、その実、自己満足の塊と言ってもいい独裁者。殺されたこのレイチェルって婆さんの養子として引き取られた某人物の次の台詞など、ぞっとしちゃいましたよ。 《「わたしが憎んだのは、お母様がいつも正しいことばかりしていたからよ」(中略)「いつも正しい人間なんて、こわくない? 見ていると、こっちが無能力者みたいな気持ちになってくるわ。(後略)」》p.308 もう一つ、本書の肝(きも)としてスリリングで面白かったのは、過去の事件が蒸し返されたことによって起こる家族間の疑心暗鬼、そのぞくぞくする恐怖でした。それは、次の文章に要約されるものです。 《「あの一家に嫌疑がかかるとすれば、その嫌疑は永いあいだ──たぶん永久に晴れないかもしれません。そして真犯人が家族の一員だとすれば、それが誰なのかということは、かれら自身にも分からないのです。アージル家の人びとは、お互いに顔を見合って、疑心暗鬼で‥‥‥そう、それが一番おそろしいことではありませんか。誰かが犯人なのに、それが一つの家のなかですら分からないという‥‥‥」》p.84 小笠原豊樹の訳文。初出は1960年なので、今から六十年以上前の訳文です。ですが、ほとんど違和感なく読んでいくことができました。古びていない、しっかりとした訳文だなあと感じました。 それと、文庫の表紙カバーの写真が、なかなかに意味深なものではないですか。大きな環(わ)に、いくつもの環がからまって付いている鎖(くさり)の写真。これあたかも、作中のアージル家を暗示しているみたい。ふと、ショスタコーヴィチの『交響曲第5番』の音楽が脳裏をよぎりました。妙なさむけを覚えました。 | ||||
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本書『無実はさいなむ』は、ノン・シリーズものです。 シリーズものの集大成でもあり、その原型でもあるように感じます。 本書『無実はさいなむ』のタイトルは、奇妙で、絶妙です。 「無実」という言葉と「さいなむ」という言葉は、反対語のようです。 「無実」はポジティヴでよろこばしい。 一方、「さいなむ」はネガティヴで悩ましい。 原書のタイトルは、 ”Ordeal by Innocence” 直訳すれば、無実によって生ずる試練。 試練? 「この試練に耐えることこそ義務なのだと思いました」(43頁) 「いわば神の試練です」(348頁) 現実の事件でも冤罪が後を絶ちません。 犯罪捜査が犯人を特定できないとき、 誰かを犯人と推定し、解決させることがあるからでしょう。 しかし、これは、正しい「解決」ではありません。 「何事も解決されない。それが正しく解決されるまでは」(27頁) 「正しく」とは? どのような価値観で、どのような法体制で正しいのか? キップリングの言葉のようですが、出典を知りたくて、 キップリングの本を何冊か読んで探してみましたが、まだ見つけられません。 しかし、読者にとって、この探すこと自体が楽しいから不思議です。 普段、素行の悪い者は、確たる証拠がないのに、 状況証拠だけで犯人にされてしまいがちです。 自らアリバイを証明できなければ、有罪にされてしまいます。 無実のアリバイが証明されたら、 今度は、では真犯人は誰か、ということになります。 動機のある人間は実にたくさんいます。 動機だけでは有罪を断定できません。 容疑者がたくさんいる場合、真犯人は誰か、 決め手が無く、悩ましい状況になります。 警察は再捜査しなければなりません。 疑わしい人たちは互いに疑心暗鬼となり、愛する人まで疑ってしまいます。 愛どころではなくなってしまうのです。 真犯人にとっては、口の軽い人間がうっかり真相をしゃべることが恐ろしい。 口封じのために第二の殺人が計画されてしまうこともあります。 本書では、メアリの夫のフィリップ(フィル)・デュラントみたいな人間があぶない。 ゲーム感覚で首を突っ込みの探偵好きの人間も、第二の殺人事件に巻き込まれやすい。 本書には登場しませんが、ミス・マープルのような好奇心の強い人間も危険です。 真犯人による口封じの犠牲となるリスクが大きいからです。 マープルは、どうしても推理の筋がつながらない場合、 ちょっとした罠を使ってまで真犯人に自供させるところがあります。 これがアガサのフィクションを面白くさせているところです。 最後に、「帆柱の鳩」の謎について。 「ふねが行くとき帆柱の鳩は、ひたすら嘆き悲しんで」(424頁) 「カーステンがよく歌ってくれた唄」(424頁) 「恋人はわたしの右手に立って」(424頁)歌います。 「おお乙女、いとしい乙女、わたしはここにおりませぬ。どこにもいない、海にも、岸にも。いとしいあなたの胸にいる」(424頁) この唄の出典が知りたくなりました。 インターネットで調べてみましたが、依然不明。 アガサの創作なのかも。 長年、アージル家の忠実な家政婦を務めてきたカーステン。 彼女にも若き乙女だった頃があったはず。 本書の殺人事件の動機の一部を示すために、 アガサが創作した唄だったのかも知れませんが・・・ | ||||
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どの作品にも共通していることだが、人間の心理描写につい引き込まれてしまう。 本作品に登場する多彩な人物像もしっかり描写されており、飽きさせない。 作者自身の思いが作品に投射されているのだろうことを、強く意識させられる。 | ||||
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勇気を持って、良かれと思ってしたことでも、受け手によってはとんでもない迷惑になることもある。それでも、想像力の欠如によって自分が起こしたことに対する責任を果たし、そして人を信じることができる勇気をもった主人公キャルガリに拍手を送りたい。 真相が明らかになるまで、罪は疑いを持たれた全ての人を害する。見て見ぬふりをすることが一番良いのかと感じてしまうこともある。でも、偽の真実ではなく、真実を前提にしなくては平安は訪れない。ことなかれ主義ではなく、こんな風に勇気をもっていられたらと思う。 | ||||
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最高に面白い。 本(紙)とドラマ(映像)ではラストが違うが、どちらもそれぞれで個人的には、良いと思う。 ドラマの方は全3回なので、もしどこかで放送されていたら是非。 | ||||
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ポアロやミスマーブルが出てこないが、登場人物それぞれに疑惑が持たれ、果たして誰が真犯人かじっくり読みながら考えさせる。最後の急展開は意外な結末を告げる、正にクリステイーらしいと言えばその通りの展開である。 | ||||
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クリスティの中でも傑作の一つでしょう。冒頭からの謎めいた雰囲気が、だんだんと具体化し、謎が解き明かされる過程は、飽きません。 | ||||
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ポワロも出てこないし、マープルもいない。決着のついた事件に新たな目撃者が出てきて、刑務所で死んだ男は真犯人ではなかったというところから始まる。 物語は、行方の知れぬミステリーを読むように、登場人物の疑心暗鬼で満たされている。怪しい人物を配しながら、犯人像は揺らぎ、アンチミステリーの様相さえ呈してくる。終盤、ドラマと全く違ったあらすじが展開し始め、世界がガラリと変わる。そして、動機についての複数の伏線、生き残った被害者の証言から、想像もしていなかった結末に誘われ、終わる。 原作は1958年に出版されてるが、刻むように描かれた人間の有様は、現代人のそれと何も変わらないことを伝えてくれる。媒体が異なるものを直接比較するのは躊躇われるが、ドラマが成功したのは、クリスティが描いた舞台を映像としてみせたことだろうか。その他は、小説に軍配を挙げたい。小笠原氏の精緻で抑えたトーンの訳文も、それに役立っていると思う。 | ||||
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クリスティー自身が最も気に入っていた自作は、確か『無実はさいなむ』と『ねじれた家』だったと思う。『ねじれた家』は2017年に映画化され(日本公開は19年)、『無実はさいなむ』は18年にドラマ化されてBSで放映された。なかなか面白く観た『ねじれた家』に対して、『無実はさいなむ』は原作から離れ過ぎで鼻白んだが…。 『無実はさいなむ』を読んだのは中学生のころだ。映画化された作品『ドーバー海峡殺人事件』(1984年)の公開に合わせて読んだ記憶がある。そこで、久しぶりに文字組みの大きなクリスティー文庫で再読することにした。訳は新訳ではなく昔のまま、小笠原豊樹氏によるもの。60年ぐらい前の翻訳なのに、あまり古臭くはなっていない。 当たり前だけど、犯人を知った上で読むと、なるほどここが伏線か、ははあこれはヒントか、という部分がよく分かる。“発見”だったのは、冤罪のジャッコが獄中で肺炎により死んでいること。映画では絞首刑になっていたし、最新のドラマではリンチに遭うみたいな死に方だったが、こうしてみると原作の病死が一番しっくりくる。 真犯人の悲劇性は一種のクリスティー文学ともいうべき味わいである。この辺にも作者が気に入っていた理由があるのではと考えるが、ドラマでは犯人が変更されていて、ひたすら黒々とした世界観が展開する。片や映画では人間の哀しみを描く努力の跡は見られるが、海外版のDVDで見直すと、断崖絶壁から人が落ちるシーンが人形バレバレで失笑ものだ。やはり『無実はさいなむ』は活字で読むのが一番だと思う。 | ||||
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1984年の映画でフェイ・ダナウェイが出演してる。 DVDも出てるが、日本語字幕なし!だ。 アージル夫人のレイチェルが5人の養子の一人ジャッコに殺された。ジャッコは逮捕され刑務所で病死。 複数の登場人物たちの回想と説明が出てくるが、どんどん読んでいくと、誰が誰だかわからなくなる。 真犯人は誰? 後半新たな事件が起こる。解決部分はとってつけたようですっきりしない。 | ||||
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これまでさんざん読んできたクリステイ。。ああまたこのパターンか、犯人はどうせ、と食傷気味になっていたところで、この作品に出会えた。 霧の中、真実を告げに来た主人公だが、この真相が悲劇を引き起こす。。 犯人と目された人物『ヤッコ』を含めて、養子ばかりの一家が集う。 ヤッコでなければ誰だ、いつまでも漂う霧のように、猜疑心ばかりで息も詰まりそうだ。。クリステイは読者にそんな重々しい空気を体感させる。 ポアロの『転調』も良いが、最後の一行まで緊張のラインで描ききる、この作風はいい。 まだまだクリステイを読み続けたい、と改めさせられた。 | ||||
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出だしから独特の雰囲気がある作品です。地理学者のアーサー・キャルガリが、二年前の事件で獄中死したジャッコの無実を家族に伝えるところから物語は始まります。 喜ばれるかとおもいきや家族からは冷たい反応。慈善家で強大な権限で家族を統制していた母親と邪悪なジャッコ。その他の面々も癖のある人たち。 この家にはなぞがある。 地味だけど人の心理をついた秀作です。 | ||||
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なんという事なかれ主義な家族なんでしょう。 そのうち3人は後半に考えの変化をみせますが 時は遅すぎました。 それに一人に関しては残念ながら まだ自分の置かれた仕打ちを 人のせいにしたいようで。 上のとおりにこの作品には 終始陰鬱な雰囲気が漂います。 それは時折あるロマンスすらかき消してしまう強烈なもの。 間違えても雨の日、ブルーな日には読まないこと。 人間描写はよいのですが。 暗いので☆ひとつマイナス。 | ||||
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ある人物が、無罪であるということは、 別の人物が、有罪である可能性があるかもしれないということだ。 ある人物が、無罪であるということは、 よい知らせだと思い込んでいることがある。 利害関係者にとっては、利は害と背中合わせである。 利があるところには、かならず害もあるのだということが、本書から理解できた。 世の中は、うまくいかないものだ。 ps.解説には、本書がある意味で失敗作だと書かれている。 小説としては、いろいろな複線が有効に働いているので、成功作だと思う。 | ||||
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養子たちとその家族や取り巻きを中心に過去に遡って展開する「犯人探し」の典型的な作品。 最後の最後まで登場人物の誰でもが犯人になりそうで、ならなさそうで、読みながら推理して楽しむことが出来る醍醐味十分。 プロットがたくみなのか見事に誤った推理にはまってしまった。 読み返してみて、なるほどこのところはそういう意味だったのか、と純粋に推理小説として楽しめた。 一点だけ、唐突な印象をあたえる人物が登場し、やや興ざめした点があったが、まあ推理小説として仕方が無い。 よって星4つ。 | ||||
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必ずこの作品と「オリエント急行〜」が入ります、個人的に。 後は気分で「検察側の証人」とか「ゼロ時間へ」とかその他入れ替わりますが、上の作品は外しません。 「オリエント急行〜」はともかくこちらは評価分かれるんですけど。 初見が小学生の時、人間関係のドロドロなんて存在も知らない頃でしたから、この作品の終局へむかっての勢いには 読んでいて背筋になにか得体の知れないモノがはしった事を覚えてます。 お勧めですよ。 | ||||
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今までは、無実の者に罪をかぶせていればよかった。 しかし!キャルガリの情報が事態を一変! ウソに塗り固められた生活は終わりを告げ、それぞれの「本性」というものが、垣間見られることとなるのです。 今まで皆がどれだけのことを隠し、そしてどれだけの人たちを欺いてきたのか?? その事実に直面した者のなかには、絶望に立たされ自殺まで考える者まで・・・・・・ 犯行のトリックは、個人的には無理があるかと思ってしまいますが、何より、この話の設定と、人間の本質に迫る展開が気に入りました! その、人間描写の点からは、☆6つ挙げてもいいんですが、あくまでミステリですので、ミステリとしての評価☆3つ半。 四捨五入して4つ!ということで☆★ ラストは、感動とはいきませんが、私の望んだ形にはなりました。 私の好きな人物が、ハッピーになれたのでネ。 | ||||
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アガサは、主人公が、無実の罪で獄中死する作品を二つ書いている。「五匹の子豚」と、この「無実はさいなむ」であり、いずれも傑作である。特に、この「無実はさいなむ」は、アガサが、あまたの傑作群の中から、自作の探偵小説の中で、もっとも満足しているニ作品のうちの一つに挙げているくらいなのだが、どういうわけか、そんな作者の深い思い入れをよそに、必ずしも、一般受けしているとはいい難い。同じテーマの作品なら、読者の共感は、おそらく、「五匹の子豚」の方に集中するだろう。作者がその作品に寄せる深い思い入れと、読者がその作品に寄せる評価のズレは、しばしば見られることだが、この作品などは、その典型的な例といえるのかもしれない。 その原因は、獄中死するこの作品の主人公、ジャッコのキャラクターに負うところが大きい。生来の救いようのない問題児で、一家の鼻つまみ者のジャッコが無罪となり、かりそめの平和に浸っていた善良なる一家の中に犯人がいるというこの作品の展開とその結末が、読者の共感を得にくいということは、容易に想像できるのだ。 それでは、アガサが、この作品に、それほどまでに深い思い入れを寄せる理由は、一体、何だったのだろうか?アガサ自身は何も語っていないが、思うに、おそらく、この作品には、アガサが伝えたかったメッセージがたっぷりと込められているからなのだろう。それは、「まことの愛とは」である。養子として迎えた子供たちに溢れるほどの愛情を注ぎながらも、彼らからの愛情は得られなかった被害者。愛し合いながらも、お互いに、相手が犯人ではないかと疑心暗鬼に陥る容疑者たち。この作品には、そんな彼らの描写を通して、「愛とミステリの作家」アガサの本領が、確かに、存分に発揮されているのだ。 ちなみに、この作品には、本編のどんでん返しとともに、「まことの愛」にもどんでん返しが用意されている。 | ||||
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母親殺しの罪で獄死した犯人は実は無罪だった!?そんな事実が物語の冒頭で明らかになり、話は始まります。もし獄死した犯人が無実だったなら、真犯人は別にいることになる・・。状況から考えて真犯人は家族の中の誰か、としか考えられません。お互いに疑心暗鬼になった家族はどうなるのか?とミステリーの謎解き以外の部分でも楽しめます。翻訳も秀逸です。 | ||||
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