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Tetchy さんのレビュー一覧

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書評・レビュー点数毎のグラフです平均点6.76pt

レビュー数1418

全1418件 1~20 1/71ページ

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No.1418:

ZOKUDAM (光文社文庫)

ZOKUDAM

森博嗣

No.1418: 1人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(7pt)

巨大ロボットを巡る日常

あのお騒がせ集団ZOKUが還ってきた。しかしどうも時制は前作よりも遡るらしい。なぜなら前作のメンバー、ロミ・品川とケン・十河、そしてバーブ・斉藤が初対面であるからだ。

そして組織の名前はZOKUではなく今回はZOKUDAM。そう、あの国民的巨大ロボットアニメを彷彿させるように本書では巨大ロボットが登場する。

ロミ・品川とケン・十河、バーブ・斉藤と黒古葉博士が一堂に会するのが第1話「For fair against despair 絶望にあっても美のために」で、これはイントロダクション的な話だ。
舞台設定的なお話であり、まだZOKUDAMとTAIGONの直接的な対峙はないが、いわゆるキャラ設定がこの話で充分確立している。

続く第2話「Hardship incident to justice 苦難は正義のために」はタイトルは非常に立派だが、何のことはない、大雨で地下にあるZOKUDAMの基地が雨漏りにより水浸しになっていくのをロミ・品川とケン・十河が悪戦苦闘とするお話である。
しかし本作で判明するのは正義を行う側がZOKUDAMであり、木曽川大安博士が率いるTAIGON側が世界征服を建前に彼らのできる範囲で社会混乱を巻き起こそうと企む悪側の組織であることだ。つまり前作『ZOKU』とは設定が180°変わっているのだ。
また本作は雨漏りに対処するエピソードの中に様々な巨大ロボット物やヒーロー物の話を現実レベルに落とした場合に生じる不都合や疑問などが数々挙がって興味深い。これらについてはまた後ほど触れることにしよう。

第3話「Running into trouble expected 想定される困難のために」はさらに輪をかけて何も起きないのだから驚きだ。
しかしこの退屈を脱力的に1つの短編に仕上げる森氏の筆力には逆に感心してしまう。

第4話「Shaking off the temptation 誘惑に打ち勝つために」ではとうとうZOKUDAMの2人とTAIGONの2人が直接対峙する。
いやはやようやくライバル同士の巨大ロボット対決かと思いきや、なんとロボコンでの対決へと縮小される。しかもロミの冴えない玩具屋の倅の同級生宇多川まで組織に加入してロボコン優勝を目指すという、何か別の物語の展開へと発展していく。
そして初めて本書でロミ・品川とケン・十河のZOKUDAMコンビと永良野乃と揖斐純弥のTAIGONコンビが相まみえる。ロボコンの前夜祭のパーティ会場で女同士の戦いが繰り広げられるのだ。
ZOKUDAMの2人のチームワークを乱すためにロリータファッションでケン・十河の気を惹く永良野乃は作戦が的中し、ロミ・品川の嫉妬心を駆り立てるが、なんとその後は女の欲望が再燃したロミ・品川がケン・十河に必死にモーションを掛けるのだ。
理系男子に惚れた女性の切なさが沁みる話である。

そして最終話「Consciousness is half the battle 自覚があれば勝ったも同然」ではいよいよZOKUDAMとTAIGONの巨大ロボットの直接対決に至る。
このZOKUDAMとTAIGONの対決が幼馴染で有力者の2人、黒古葉博士と木曽川博士の巨額を掛けた壮大なお遊びであるのは1作目の『ZOKU』と同様。
しかしその終止符を打つためにお互いのロボットを完成させ、そして操縦士も訓練させ、最終決戦をしてから畳むことにしたのは潔い。
そしてそれまで決戦の時が来たと何度も云われ、そのたびに訓練とロボットの修正を繰り返す日々にうんざりしていたロミ・品川とケン・十河―彼はロミほどではないが―が目的が明確になったことでそれまでの煩悩から解き放たれ、巨大ロボット操縦士、いわば戦士としての意識に目覚め、感覚と風貌が研ぎ澄まされていく。その姿は実に尊く美しいのだ。
ケン・十河は巨大ロボットの訓練とその都度生じる不具合の修正について行われる技術者たちとのコンファレンスでそれまで単純に巨大ロボットの操縦に憧れていたマニアから戦闘そのものが人間たちにとって究極のアミューズメントであり、それを現実的に行うとすれば周辺住民への危害を最小限度に抑えるために飛び道具や火器の使用は控えるべきだ、そして行き着くところは大きな図体して二足歩行というバランスの悪い人間型ロボットよりも戦闘機や戦車のように武器をそのまま取り込んだものが最もバランスがいいのだとそれまでの考えを覆すような境地に至る。
一方ロミ・品川もそれまでマニュアルばかり読まされ、実機訓練でも事あるごとに不具合が生じて修正作業ばかりを繰り返してた日常にうんざりしていたのが屋外での実戦練習で感覚が研ぎ澄まされ、自分が求められて巨大ロボットの操縦士になり、そして澄み渡った空気と自然と満天の星空の下、仲間たちと一つの目標に向かって進んでいくことに充実感を覚え、戦士としての自覚が生まれるのだ。
そんな2人が悟りの境地に至って迎える最終決戦は、実に森氏らしい結末だ、とだけここでは評しておこう。


『ZOKU』の続編(実にややこしい表現だが)である本書は上にも書いたように前作の前日譚に当たる作品のようだ。

いやしかしどうも読み進めると同じ設定と人物を使った別の世界の作品のようにも思えてくる。なぜなら前作が森博嗣版『ヤッターマン』的な風合いをした善と悪の対決物であったが、ZOKUがいわゆるドロンボーサイドでTAIがヤッターマンサイドであったのに対し、本作ではTAIGONの方が悪で、ZOKUDAMの方が善と設定が入れ替わっているからだ。これは即ち3人組の悪党たちと2人組の男女の正義の味方という設定だけを踏襲したタツノコプロアニメと同様、人物設定だけを同一にした全く別の話だと思うのが正しいようだ。

そして今回巨大ロボット戦闘物の本書は物語が進むにつれて次第に設定がぶれていく。

例えば当初は怪獣を倒すためにZOKUDAMは2機の巨大ロボットを開発したことになっており、そしてその怪獣の1匹がTAIGONが敵情偵察のために送り込んだ捨て犬のブラッキーだと第1話では仄めかしているのだが、結局この犬は途中退場し、TAIGONのロボットとの対決という図式に切り替わるのだ。

しかしその後巨大ロボットと怪獣が戦う設定のロボット物と思わせながら、実は怪獣との戦闘シーンはおろか、TAIGONとZOKUDAMそれぞれの巨大ロボット同士の戦いも出てこない。描かれるのは巨大ロボットに乗って操縦することを任命された2人のサラリーマンが出くわす不満と日常風景である。つまり本書は巨大ロボット物の設定の下で描かれる日常小説なのだ。

そしてそんな特殊状況下にある2人が直面する問題や日常風景が妙にリアルで面白い。

例えば巨大ロボットアニメでは普通主人公がいきなりロボットを操縦して敵を次々と他倒していくが、実際12メートルもの巨大なロボットはその機構自体が複雑であるため、マニュアルが存在するのは想像に難くない。そして本書ではまず操縦士の2人はその膨大なマニュアルを読んで理解することから強いられるのだ。
まず1000ページ弱の初級マニュアルから始まり、次に2冊のインストール編、そして4冊のカスタマイズ編に3冊のメインテナンス編、2冊のトラブル編と次から次へと読むべきマニュアルが渡されるのだ。まあ、多少(?)の悪ふざけが入っているだろうが、これが現実と云えよう。

また秘密基地で雨漏りが起きてもその場所が秘密であるために容易に修理屋を呼べないというのも妙にリアルだ。

そしてロボットが安定して二足歩行するためのバランス装置についても詳細に述べられていたり、電極を身体中に貼って操縦士の身体の動きを感知してロボットが動くと云うシステムも頭を掻いたり、目にゴミが入って思わず掻いたりすると自身で損傷してしまわないかとか、ロボットが自分で自分のことを殴ってしまわないように自己接触防止機能があるのなら、2体の仲間がそれぞれの機体を殴ろうとしているのも止められるようにするとどうなるのかを真剣に検討したりと変に細かなところでリアルなのだ。

あと特撮ヒーロー物に対する考察も面白い。
例えば世界征服を謳いながらも辺鄙な場所にしか現れず、しかも外国だと同時多発的に攻撃を仕掛けるのに対し、日本では一気に敵を多数送りださず、いつも1体のみであるのはやはり武士道的一騎打ちの精神が残っているからだとか、今まで考えもしなかったことを真面目に考察していて興味深い。

またTAIGONの2人、永良野乃と揖斐純弥は典型的な森作品の男女キャラと云えよう。理系男子に少し心惹かれる女子という設定はデビュー作のS&Mシリーズと全く変わっていない。少女漫画を自作していた作者にとってこの男子のツンデレ設定は王道なのだろう。

そしてZOKUDAM側が操縦者が搭乗して巨大ロボットを操るのに対し、TAIGON側は遠隔操作で操るタイプである。

また揖斐純弥は敵のロミ・品川とケン・十河の結束にヒビを入れるため、永良野乃にケン・十河の興味を引き付ける作戦に出るが、それがロリータ的メイド服のようなものを着せて思いっきり趣味に走る。

そして最終話に至っていよいよ決戦の火蓋が落とされる。それまで状況に翻弄され、何が悲しくてOLをしていた自分が巨大ロボットに乗って敵と戦わなければならないのかと環境の犠牲者とばかりに嘆いていたロミ・品川も決戦の日が近づくにつれ、訓練の充実度が増し、そしてケン・十河に抱いていた悶々とした欲望やバーブ・斉藤たちに抱いていた嫌悪感などが次第に雲散霧消していき、敵と戦うちいう1つの目標に心身が純化していくところは実に清々しい。

もはや悟りの境地にまで達した2人にとって戦いの結果などはもうどうでもいいのだろう。したがって 最後の連載打ち切り感的な結末も敢えて狙ったものだろう。私はこの結末に対して残念感や嫌悪感を抱かなかった。寧ろこれでよかったと純粋に納得してしまった。

最後まで読むと本書は結婚適齢期を逃し、会社の人事に翻弄されたロミ・品川という女性の物語だったことに気付く。だからこそ彼女がそれまで抱え込んでいた人生の鬱屈や煩悩が消え去り、純化されたことでこの物語は終わりなのだ。

我々ヤッターマン世代はヤッターマン2号のアイちゃんよりもドロンジョ様の方が好きなのだ。従って実はロミ・品川の方を応援したくなるのは必定だろう。

案外私は森作品の中でもこのシリーズが一番好きなのかもしれない。次の『ZOKURANGER』も愉しみだ。
もうタイトルからして今度はアレのパロディなのだろうから、またもや世代ど真ん中なのである。

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ZOKUDAM (光文社文庫)
森博嗣ZOKUDAM についてのレビュー
No.1417:
(4pt)

リアルタイムに事件に進行する本書の結末がモヤモヤなのはある意味リアル。

Gシリーズ4作目の本書ではそれまでの事件と違い、リアルタイムで進行する。なんと加部谷と山吹2人のメインキャラクターが那古野市への帰りのバスでバスジャックに遭ってしまうのだ。

本書はまさにそれだけの話と云っていいだろう。加部谷と山吹が巻き込まれたバスジャックを中心に外側では西之園萌絵と愛知県警の面々と国枝桃子を加えたグループ、探偵の赤柳と海月のコンビ、そしてたまたま東京に出張に行っていた犀川に警視庁の沓掛が接触し、このバスジャック事件の背景が語られる。

赤柳はGシリーズ2作目の『θは遊んでくれたよ』から一連のギリシャ文字に纏わる事件がネット上で若者向けに繰り広げられている布教活動のようなものを行っている集団が今回は「イプシロンに誓って」という奇妙な集団名の下、集められた人たちによってバスジャック事件が起こされたとの情報は得ていたようだ。

一方バスジャックの車中で山吹といる加部谷もなぜ自分たちがこうも事件に巻き込まれるのかを疑問に思い始める。
『φは壊れたね』というタイトルのついたビデオテープに纏わる殺人事件から始まり、「シータは遊んでくれたよ」というメールが関係する連続殺人事件、そして「τになるまで待って」というラジオドラマの聴者が殺される事件に出くわすこともあった。こうした一連の、1大学生たちがあまりに高すぎる頻度で殺人事件に遭遇することに疑問を持ち始める。
この件は正直面白いと思った。なぜならミステリのシリーズキャラクターというのは得てして他の一般人と比べても事件に遭遇する頻度は高くなるし、そうでないとシリーズとして成り立たないからだ。この不自然さについてシリーズキャラクターに疑問を持たせることが素直に面白い。

一方で犀川創平は警視庁の国家公安委員会に勤める沓掛という警部から協力を依頼される。それは今回のバスジャックと都内各所に仕掛けられた爆弾テロに真賀田四季が関わっている可能性があり、彼女のことをよく知っている犀川が適任だと判断したからだった。

ところでこのシリーズの中心人物の1人である海月及介はいつもは自身の推理を開陳するとき以外は無口かつ反応が薄いのが特徴なのだが、本書では赤柳と一緒にいる最中、やたらと雄弁と自身の考えを語るシーンがある。

彼の世間一般の人とは一歩引いた視座から見た意見にはなかなか興味深いものがある。

例えば犯罪についてどうして動機を知る必要があるのかと彼は尋ね、それを聞くことで被害者の家族は憎しみを増すだけだろうし、また未成年だからとか心神喪失状態だったという理由で酌量がなされれば猶更だろうと話す。
動機を知ればそれを改善すれば犯罪も減っていくのではと述べる赤柳に対して海月は単に大衆が動機を知って理解したい、納得したいだけで収まりを付けたいだけだと述べる。そしてそんな海月に対して冷めているねと赤柳は云うがそれもまた赤柳が納得したいだけでしょうと述べる。何ともクールな性格だ。

そして今回もまた数々の謎を残して物語が終える。

あと興味深かったのは真賀田四季と犀川との会話で彼女が生と死の狭間が美しいと述べていることだ。

恐らくこのGシリーズはシリーズ全体を通してようやくそれぞれの事件の真相、裏側に隠された意図や出来事が判明するのだろう。
つまりそれぞれのシリーズ作品はそれら1つの大きな事件を構成する断片にしか過ぎないのではないか。従ってこれら解明されなかった謎の真相がどこかで一気に説明がなされるのではないだろうか。

しかしそれは非常に読者にストレスを感じさせる。
通常の大河小説ならば前作に残された謎は継承され、そして新たな謎が生まれるような、読者の好奇心を牽引していくようなスタイルであるのに対し、このGシリーズはその作品で残された謎は放置されたままだからだ。本書でも赤柳が読者の思いを代弁するかのようにそのことについて言及しているが、だからと云って本書で保留された謎のうちの1つが解明されるわけではない。

謎はどんどん深まるばかりである。
この事件そのものが全体像の中でいったいどんな意味合いを持つのだろうか?

そういえば今回は物語の性質だからか、εというギリシャ文字の用途や意味についての考察が全く成されなかった。それほど本書はシリーズ中でも異色作だろう。

この辺は《εに誓って》の団体の中で生き残った柴田久美と榛沢通雄、そして倉持晴香が生き残ったことからこの3人を糸口に判明していくのだろうか。

エピローグで加部谷が呟くように問題は先送りにされるのだろう。それが生きるということだと述べる。これはまさに森氏の実に現実的なスタンスだ。

しかし謎が解決されてこそミステリなんだけどなぁ。やっぱり今回もモヤモヤが残ってしまった。


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εに誓って SWEARING ON SOLEMN ε (講談社文庫)
森博嗣εに誓って についてのレビュー
No.1416: 1人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(4pt)

もはや文化的偉業

東京創元社が編んだ日本オリジナル短編集。本書に収録されている「高慢の樹」と「裏切りの塔」はそれぞれ「驕りの樹」と「背信の塔」という題名で『奇商クラブ』に収録されていたため、既読済みなので今回の感想から省くとして残りの2編「煙の庭」と「剣の五」と戯曲「魔術―幻想的喜劇」について述べる。

「煙の庭」はロンドンの外れにある医者と詩人夫婦の庭で起きた事件の話だ。
チェスタトンにしては実にオーソドックスな本格ミステリだ。
ロンドンの外れの屋敷に生真面目な医者と結婚して移り住む著名な女性詩人を悲劇が襲う。薔薇好きの彼女は阿片の常習犯でもあった。てっきり薬物の過剰摂取による事故死かと思われたが、検視の結果、短剣のような鋭い切っ先で刺されて毒殺されたことが判明する。そして短剣を持っていたのは知り合いの船長だったことから容疑が一気に掛けられる。

「剣の五」はフランス人とイギリス人のコンビが登場する短編だ。
その時に話題になっていることが目の前で本当に起こるというのは案外あることで、主人公のフランス人とイギリス人の友人同士が決闘のことを話しているとちょうど決闘で命を落としたイギリス人が倒れている現場に出くわす。
状況からみて遊び好きのイギリス人がトランプ遊びでイカサマだと罵った末の決闘であったとほとんど傾き始めたところに意外な真相が明らかになる。
本作では価値観の逆転を謳った作品だが、逆説王チェスタトンにしては実にオーソドックスな展開だ。

最後に収録された戯曲「魔術―幻想的喜劇」はミステリでもない、喜劇というべき作品だろう。
とある町の公爵家の娘が出くわした奇妙な男の正体を巡る話とで云ったいいだろうか。元々夢見がちなその娘が連れてきた男は彼女の前では妖精だと名乗ったが、彼女の知己の連中の前に現れると自身を奇術師だと名乗る。1人の男の正体を巡って色んな階級の、医者や牧師や公爵や実業家が右往左往する様を描いた戯曲である。
最後に夢見がちな娘が見知らぬ男の正体が判明したときに御伽噺が終わって現実になったと話すのは彼女の大人の女性への成長を示唆しているのだろうか。なぜなら彼女はその彼に求愛されたのだから。


日本で、いや東京創元社独自で編まれたチェスタトンの短編集は他の短編集である『奇商クラブ』に収録されていた2編と論創社の単行本版の『知りすぎた男』に収録されていた2編と本邦初訳の戯曲1編からなっている。その内容はまさにコレクターズアイテムとも云うべきディープである。

先の述べたように既読の『高慢の樹』と『裏切りの塔』についての感想は控えるが、それでも初読時のインパクトからは結構落ちたことは正直に告白しよう。

特に表題作である後者の真相には本来それら宝石を護るべき者が行っている狂気を肌寒く感じたが、本書はそれがなかったことに驚いた。真相を知っていたからかとも思ったが、それは未読の3作についても同様だった。

まず『煙の庭』は実にオーソドックスなミステリだと感じた。雰囲気はあるものの、幻想味や逆説の妙を感じさせなかったからだ。

ただ本作の犯人である博士の心情は私も理解できる。きっちりと生活をしている人ほど秩序を重んじ、そしてそれが適正に保たれていることを好む。しかしそれが叶わない時は心的疲労を抱えて尾を引くのだ。

そしてこの作品のミソは粗野な船長と知的階級の博士2人と並べているところだろう。本書のパラドックスを挙げるとすれば、この2者のイメージギャップということになるだろうか。

そして「剣の五」もチェスタトンにしてはいささかパンチが弱いと感じた。
価値観の逆転として昨今ミステリ小説のみならず子供向けのファンタジーやドラマでもよく使われているため、今となってはインパクトが弱く感じた。

そして本邦初訳の戯曲だが、これはミステリではなく、サブタイトルにあるように幻想的喜劇だ。上に書いたように妖精や魔法を信じていた若き女性が森の中で出くわした男性が自らを妖精と名乗り、そして奇術師であると告白し、実は魔術師だったと正体を二転三転させていく。
最後、その娘に自分が恋をしたことを告白するが、娘は逆に彼の正体を知り、それまで彼女の中で育んできた御伽噺の終焉を悟る。これは即ち彼の求愛を受け入れて、もう箱入り娘のような生活ではなく、伴侶として生きていくことを選択し、そして決意したと云う意味ではないか。つまり彼女はようやく大人になったのだ。つまりこれは幻想的喜劇と見せかけて幻想的ロマンスが正確だろう。

しかし今回も痛感したのは古典作品の読みにくさ。いや自分の理解のしにくさと云った方が正解か。
とにかく改行がなく、古い云い回しが続く古典作品は本書のように新訳での刊行となってもその内容をきちんと把握するためには1回きりの読書では十分理解できないだろう。

またチェスタトンは各課題に対するヒントを実に上手く物語に散りばめているが、最初に読んだだけではそれが煙に巻かれたかのように頭に入らないのだが、『知りすぎた男』の時にも感じたように、物語を要約するために読み返すことで手掛かりが判り、本来の物語が見えてくるのだ。つまりはチェスタトン作品を十二分に堪能するには二度読み必須であることを再度感じた。

しかしこの21世紀も20年以上過ぎてチェスタトンやカーの諸作や古典ミステリを新訳で刊行する東京創元社の出版スピリットには頭が下がる思いがする。それは恐らくは20世紀に埋没させずに21世紀に引き継いで読まれることを期待しての出版だろう。

出版業は文化事業だとよく云われるが東京創元社はまさにそれ。

今回あまり相性は合わなかったが、チェスタトン作品は21世紀でも末永く読み継がれるべき作品だと思うので、今だからこそブラウン神父シリーズ以外の作品を新規出版して遺していってほしい。
そんなことが出来るのは東京創元社くらいだろうから、大いに期待したい。

▼以下、ネタバレ感想
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裏切りの塔 (創元推理文庫 M チ)
G・K・チェスタトン裏切りの塔 についてのレビュー
No.1415:
(7pt)

日本中を巡る羽原円華による再生の物語

『ラプラスの魔女』に登場した羽原円華の前日譚とも云える本書は連作短編集とも云うべき構成で彼女のその驚異的な能力を活かした物語と『ラプラスの魔女』で彼女と関わり合いを持つ泰鵬大学准教授青江修介の名刺代わりの事件が繰り広げられる。また『ラプラスの魔女』で雇われるボディガード役の武尾徹とお目付け役の桐宮玲も登場する。

今回羽原円華の不思議な能力の一端に直面するのは鍼灸師の工藤ナユタ。彼は80歳を迎える師匠が抱える顧客の依頼を受けると日本全国出張して鍼を打っているのだが、その行く先々で羽原円華と出くわす。

工藤ナユタが体験する羽原円華とのエピソードは以下の通りだ。

ピークを過ぎ、引退を控えたスキージャンプ選手の見事な復活劇。

現代の魔球ナックルボールを投げる投手の球を受ける後継者候補の捕手が抱えるイップスを治す方法。

高校の恩師が川での遭難事故で植物人間になった息子に向き合うために行う事故の検証。

パートナーを喪った原因が自分がカミングアウトしたことだと自責の念に囚われるゲイの作曲家の再起を促すために探るパートナーが亡くなった登山中の事故の真相。

そして工藤ナユタが中学生の時に出演した映画で抱えたトラウマの克服。

それら4つのエピソードに加えて最後は『ラプラスの魔女』へと繋がっていく。

これら上に書いたエピソードを読んで思い出してほしいのはこれらはかつて東野氏自身が初期の作品でテーマとして扱った題材であるということだ。

スキージャンプは『鳥人計画』、ナックルボールを投げる投手と捕手の物語は『魔球』、植物人間となった息子に対する両親の思いを描いたのは『人魚の眠る家』、性同一性障害を描いた作曲家のエピソードは『片思い』をそれぞれ想起させる。

ただそれらが二番煎じになっていないところに東野氏のストーリーテラーとして卓越ぶりを感じさせる。

例えば扱っている題材の専門的な知識やアプローチが真に迫っていることだ。

1章の往年のスキージャンパーの不調ぶりを映像解析するシーンでは好調期と不調期のジャンプを映像で見比べて円華がほんのわずかな差異に気付いて「上体の突っ込みが早い」と指摘して、右足を怪我して全体的にバランスが悪くなっていると語れば、2章のナックルボールについては回転していないボールが不規則に揺れて落ちていくメカニズムを詳細に語る。

またそのナックルボールの取り方についても仔細に語られる。ナックルボールは急いで捕りに行こうとせずにじっくり球筋を見て捕球する必要があるが、一方で捕球まで時間がかかるので盗塁しやすくなる。そして捕手は盗塁を抑えようと早くナックルボールを捕りに行こうとして落球してしまい、それがためにミスがかさんでいつしか普通の球も捕れなくなる、捕手イップスに陥る。

特にナックルボールについては私もこれまでその仕組みに興味を持っていたことから、今回非常に専門的な内容を東野氏が実に素人にも解りやすい平易な文章で語ってくれているので深く理解することが出来た。
回転していないボールがわずかに盛り上がっているボールの縫い目に風の抵抗を受けることで回転し、それによって再び他の方向から風の抵抗を受けてボールが不規則に揺れて、予測不能の方向へと落ちていく。さらに揺れずに回転しないまま進むナックルボールもあるらしく、それは初めて聞いた。

また面白いのは流体の流れを正確に把握する羽原円華がそれぞれのエピソードでスーパーコンピュータ並みに計算して解き明かす一方で、最終的にそれぞれの登場人物の問題を解決するのはそんな数式やロジックではなく、各々の心に発破をかけて思いの力で克服させる、いわば論理よりも感情に働きかけていることだ。

スキージャンパーに妻と息子へ自身の最高のジャンプを見せるために円華はジャンパーの妻にジャンプの合図をさせれば、最盛期のようなジャンプができるだろうと確信してその役割を託す。

引退を控えた捕手の後継者がナックルボールを捕ることが出来ないことからイップスになってしまったのを、若い娘である自分でも青痣作るほど猛練習すれば捕れるようになるのに逃げてばかりで情けないと叱咤する。

川に落ちて溺れて一命を取り留めるも植物人間になってしまった息子をすぐさま泳ぎの得意な妻が飛び込めばもしかしたら助かったかもしれないと悔恨の日々を送る父親をくよくよ考えても仕方がないと諫める。

自分の決断の遅さで植物人間となった息子が妻と同様に自分を恨んでいるだろうと思い込む父親に息子と自分が遊んでいた時の音声を流すと脳が反応することを示して薄子が会いたがっていると教える。

大学の非常勤講師をしていたパートナーが登山の事故で亡くなったことが自殺であると悲嘆に暮れていたゲイの音楽家にそれが彼が受けた依頼のドキュメント番組のテーマソングを作るための素材収集としてその山特有の地形によって生み出される大地の息吹のような風音を録音するために訪れたことであることを証明する。

それらは結局物事と云うのは論理や計算などでなく、困難を克服しようとする人の心の持ちようなのだと、いや人の心の力は論理や計算を凌駕する力を持っているというのが円華からのメッセージなのだ。

円華は自分が他の人にはない能力を持っているからこそ、それぞれのエピソードに登場する人物のタレントを状況のせいにして容易に諦めることが我慢ならないのだと思う。

最盛期を過ぎたベテランスキージャンパーが小さい息子が往年の活躍を知らないため、ピザの宅配が仕事だと思われており、このまま怪我のせいにして本領を発揮できないまま、その勘違いを抱かせたまま、選手生命を終えることに腹を立てる。

今まで誰もなしえなかったナックルボーラーを自分の球が捕れるキャッチャーがいないからという理由で引退しようとするピッチャーにキャッチャーの後継者候補を一緒に育てようと鼓舞する。

聴く人が胸を打つ音楽を次々と生み出す作曲家が自分のせいでパートナーガ自殺したと思い込んで創作意欲を無くすことを勿体ないと思い、真相を明らかにする。

このように連作短編集のような構成になっている本書だが、一応全体を貫く縦軸の物語はある。それは羽原円華が自身の母親を巨大竜巻の事故で亡くした苦い過去から竜巻のみならず、ダウンバーストなどの異常気象のメカニズムを解き明かすために乱流の謎を解き明かすため、北稜大学の流体工学の准教授筒井利之の許を訪れていることと、『ラプラスの魔女』へのつなぎ役となっていることが判明する工藤ナユタの再生だ。

そして青江修介登場のエピソードとも云える最終章「魔力の胎動」は温泉地で硫化水素中毒死した家族の死の真相を彼が解き明かす話だ。

硫化水素濃度が濃いため、立入禁止区域となっていたエリアになぜ温泉旅行に来ていた家族はわざわざ立入り、そして中毒死したのか?

そして調査に来た青江達に何かと絡んでくる会社経営者の初老の夫婦は事件のせいでキャンセルが多いこの温泉街にわざわざ来たのか?

上記の2つの謎のうち、1つ目は子供想いの家族たちがボタンの掛け違いで起きてしまった哀しい事件だったことが判明する。家族旅行した親子が子供のために仕組んだ宝探しの地図に描かれた宝の在処を示した×印があろうことか立入禁止を示した簡素な×印とを勘違いしてしまったために起きた何とも云いようのない真相だった。

また会社経営者の男は以前からこの温泉街を訪れており、火山ガスが有害であることを知っていた。そして彼の経営する会社の業績が悪化しており、自分に掛けた生命保険金を家族や周囲の人間たちのために残そうと事故と見せかけて自殺しようとしたのだった。
しかし直前になってその温泉で一家心中のような事故が起きたため、今度は知り合いのホステスに頼んで自殺志願者を演じてもらい、彼女を助けるために誤って死んでしまったように見せかけようとしたのだった。

連作短編集のような本書を読んだ感想はこの羽原円華の特殊能力を活かした物語をシリーズ化するのは五分五分と云ったところだろうか。彼女の自然現象を論理的に解析して予測する能力を活かしたエピソードが本書では5つのエピソードのうち2編のみであることを考えると、ヴァリエーションはいくつか出来るものの、シリーズ化となると流石に厳しいのではと思ってしまった。

しかしもっと成立条件に制約のあるマスカレードシリーズについては東野氏は光明が見えたと述べているから、もしかしたらこの羽原円華の物語もシリーズ化するかもしれない。

万物の理を見切る特殊能力者を主人公に据えた東野作品としては珍しい設定であり、彼女に関わる人間の心を動かす、情理の両輪を両立させた物語だけに新たな作品がどんなものになるのか、大いに期待したい。

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魔力の胎動 (角川文庫)
東野圭吾魔力の胎動 についてのレビュー
No.1414:
(7pt)

鉱山会社に勤める身には響くものがあるのだが・・・。

今度のスティーヴン・キングが舞台にしたのはネヴァダ州の砂漠にある小さな鉱山町デスペレーション。チャイナ・ピットと呼ばれるアメリカ最大の露天掘りの銅鉱山の町だ。
そこにいる狂える警官によって狩られる旅行者たちの物語だ。

そう、本書はキングのもはや一ジャンルとなったサイキック・バッテリー物である。但し『シャイニング』や『ペット・セマタリー』のようなホテルや家ではなく、町そのものである。

物語はしかし最初は田舎の町を独裁する警察官の横暴の数々が描かれるため、悪徳警官小説だと思われた。

よく田舎の町ほど恐ろしいところはないという。なぜなら田舎には町を牛耳る権力者がいれば、その者こそがその町の秩序であり、法となり全てを思いのままに支配することが出来るからだ。つまりいわゆる世間一般の常識が通用しなくなる。

そしてこのデスペレーションでは警官コリー・エントラジアンこそが法である。彼は自分の好きなように旅行者に絡んで職務質問をしたかと思うと有罪となる証拠を見つけ―もしくはでっち上げ―ると痛めつけた後、自身が統治するデスペレーション警察に連れて行き、牢屋に監禁する。彼は決して彼ら彼女らを殺さず、じわじわと嬲って愉しむ。

しかし物語が進むにつれてこの巨漢の悪徳警官が次第にこの世ならざる者、即ち異形の者であることが判明していく。

その予兆はまずその警官が放つ意味不明な言葉から始まる。彼は旅行者を尋問する際に時折「タック!」という言葉を放つ。尋問された旅行者はその意味不明な言葉に戸惑い、被害者の1人マリンヴェルは思わず意味を問うが、コリーはそれは自分が云ったのではなく、貴方が云ったのだとまともな返答をしない。

やがてそれは「タック・オー・ラ!」や「タック・オー・ウォン!」、「ミ・ヒム」、「エン・タウ!」などの理解不能な言葉が出てくるにつれ、コヨーテやハゲタカ、隠者蜘蛛やガラガラ蛇、クーガーなどを使役する呪文の類だと思わされる。

物語の半ばで判明するのは鉱山町デスペレーションのある黒歴史だ。銅鉱だけでなく、金や銀も取れていた時代にさらに深く坑道を掘り進めるために緩い岩盤の中を掘っていくのを恐れた白人の鉱夫たちの代わりに雇った中国人労働者たちが落盤事故のために生き埋めになってしまったのだった。その数は白人の現場監督と工程主任を入れた57人。そして鉱山技術者とオーナーたちは救出のために落盤事故を誘発するのを恐れ、結局発破をかけて坑道を閉じてしまったのだった。そう、チャイナ・ピットの名は数多くの中国人の犠牲者が出たことに由来しているのだ。

その後2人の中国人たちが酒場に乱入して7人を撃ち殺すという事件が起きた。犠牲者の1人は坑道を塞ぐことを決めた鉱山技師だった。そしてその中国人たちは捕まった時に中国語で喚いていたが、なぜか周囲の人たちには生き埋めにされた中国人たちが復讐しに戻ってくると云っているのが判ったという。

しかしそれは後ほど捻じ曲げられた言い伝えであることが判明する。呪われた坑道から命からがら逃げ延びたチャンとシンのルーシャン兄弟がキャン・タによって狂ってお互いに殺し合う中国人たち―その中には兄弟の婚約者もいた!―を自身でツルハシを使って落盤を起こさせ、事故として報告したのだった。しかし結局彼らもキャン・タに取り憑かれてしまい、悲惨な末路を辿ることになる。

そしてこの得体のしれない悪と戦う囚われの旅行者たちの中で切り札となるのがデヴィッド・カーヴァーという少年だ。彼は家族旅行でラスヴェガスとタホー湖を訪れた道中でコリー・エントラジアンが仕掛けたハイウェイ・カーペットによって車のタイヤを全てパンクさせられてパトカーに乗せられてデスペレーションまで連れられたカーヴァー家の長男だ。

彼は前年の11月に親友が登校中に車に轢かれて重体に陥るという災禍に見舞われた。デヴィッドはその日たまたまウィルス性疾患に罹って休んでおり、友ブライアン・ロスのみが悲劇に見舞われたのだった。ブライアンは頭が変形するほどの重傷で意識不明の状態でもはや助かる可能性はゼロに近いと思われたが、デヴィッドは神に祈ることでブライアンが奇跡的に意識を取り戻して一命を取り留め、普通の生活を取り戻すまでになる。

それ以来彼はカトリックのマーティン師の許に通って信仰を深め、神に祈りを捧げることを日課とする。やがてそれは神との対話を実現することになる。そして彼が神と繋がった人物であることを示すように囚われの身となった仲間たちを救う導き手となる。

つまり本書は善なる神と邪悪な神との戦いへと変貌していくのだが、それはキング作品ではこれまで見られなかったほど、伝奇的色合いが濃くなっていく。鉱山という特殊な舞台ゆえか田舎町に残る言い伝えや呪いの類が本書の恐怖の根源となっている。恐らくは世界各地にある鉱山に纏わる逸話なども盛り込まれているのだろう。

昔の鉱業は死と隣り合わせの危険な仕事だった。いつ崩れるか判らない岩盤をツルハシやハンマーとノミなどで砕きながら掘進し、少しでも多くの鉱石を昼夜問わず、まとも立つこともできないような坑道の中で長時間、熱気と不自由な姿勢を強いられながら掘っていく鉱夫たち。やがて坑道の大きさが小さくなるにつれて体格の大きいアメリカ人たちにはもはや掘り進める作業には耐え切れず、呼び寄せた大量の中国人労働者が変わってどんどん休みなく掘り続ける。そして彼らは知らずに脆い岩盤の下に達し、落盤事故に遭ってある者は死に、またある者は生き埋め状態になってしまう。しかし経営者たちにとって当時は変わりはいくらでもおり、寧ろ救出しに行って二次災害とこの鉱山がもはや危険であるとの判断から救出せずに無駄死にすることを望む。

そんな忌まわしい歴史が今再び花開くことになったのは採掘再開をして忌まわしい石像たちが並んだ空洞を発見してしまったことだった。これこそが全ての元凶である。

この呪いの象徴として登場する小さな石像は様々な形状があり、奇妙にねじれた頭部と飛び出た目を持つ狼像や舌が蛇になっている狼像、その他蛇に片方の翼が欠けたハゲワシ、後ろ足で立ち上がったネズミなど、そんな醜悪な形をしている。そんな石像がチャイナ・ピットと呼ばれる露天掘りの坑道から出てきたことで人々は狂い始める。

そして今回の悲劇の発端が廃鉱になったと思われていたチャイナ・ピットの採鉱再開を計画し、そしてそれに見合う利益をもたらす鉱石を発見した鉱山会社に全てが集約されるだろう。

パンドラの箱を開けてしまった鉱山会社の愚行の産物。しかし同じ鉱山会社に勤める身としてはこの鉱山会社には同情を禁じ得ない。
世界各国の有望な鉱山がどんどん採掘権を取られ、寡占化している事に危機感を覚えるからだ。そして資金力のない鉱山会社にとって新たな鉱山開発は想定よりも鉱石が出なかった場合は、莫大な借金を抱えることになり、倒産の憂き目に遭ってしまう。私の勤める会社もそれまでは採算性の悪さから処分していた低品位の鉱石からメタルを取り出していることを考えると、他人事とは思えなくなってくる。

さて本書のテーマとして合言葉のように交わされるのは「神は残酷だ」のセリフ。
祈ることで奇跡を起こしたデイヴィッドは一方で神が全てを叶える訳ではないことを悟る。彼は神と繋がることで逆に神の意志を知り、神が誰かを助けるために犠牲を強いることを知る。全ての救いは等価交換であることを知るのだ。

彼は生き残りの仲間の最年少だが、神と繋がる能力のためにリーダーシップを発揮する。しかしその代償として最も犠牲を強いられた者でもある。

デイヴィッドはその都度神に問いかける。なぜそんなことを自分に強いるのかと。

そして小説家マリンヴェルは自身がデイヴィッドと同様に特別な存在であると悟りながらもその運命に逆らおうとする。それは自身にとってハッピーエンドにならないことが朧気に見えているからだ。

全ては神が仕組んだものだったのか。それは正直判らない。
ただ最後デスペレーションを去るデイヴィッドが手にした早退許可証の紙片は彼がオハイオの学校で去年の秋に木に打ち込んだ釘に突き刺したものだ。なぜそれがマリンヴェルの手に渡ったのかは判らない。
しかしそこにはマリンヴェルの、〈神は愛なり〉という聖書の言葉を信じて生きていけという激励のメッセージが添えられていた。
残酷な神の仕打ちによってその人生の幕を閉じた小説家がどうやってこの少年に紙片を渡したのかは判らないが、最後に彼が手向けたのは神を信じろという言葉だったのは深い。

実は鉱山業と神は縁が深い。
山には山の神がいると信じられ、今なお山の神に家族と事業の無事を祈る儀式が行われている。それは採掘作業が死と隣り合わせであり、一度崩れた岩盤から閉じ込められた人々を救い出すのが実に困難であるからだ。
そういう意味で云えばタックは邪な山の神なのではないか。鉱石という自然の物を山の身を削って掘り出そうとする人間たちに呪いをかける邪神、それがキャン・タックであったのではないだろうか。そんな不遜な人間から山を護るために彼はコヨーテやハゲタカ、隠者蜘蛛やガラガラ蛇、クーガーを操り、締め出そうと威嚇し、また時に殺戮を行ったのではないだろうか。つまり人間が踏み込んではいけなかった領域こそがキャン・タックの住処だったように思える。そこが〈絶望〉という名の町なのは皮肉というよりも必然であったように思える。

今思えば色んな暗喩に満ちた作品だったように思える。
環境破壊の元凶とも云われる鉱山業の人々に鉄槌を下すキャン・タックは山の神の怒りであるように思える。

しかし正直この最後の結末を含めて私は本書を十分理解できなかったように思える。さて次は本書の姉妹編であるリチャード・バックマン名義の『レギュレイターズ』を読んで本書で腑に落ちなかった部分を補完してみよう。


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デスペレーション〈上〉 (新潮文庫)
スティーヴン・キングデスペレーション についてのレビュー
No.1413:
(7pt)

名作は名作のままであってほしかった・・・

クーンツ自身が大の犬好きであるためか、彼の作品ではしばしば犬が登場し、重要な役目を果たす物が多くあるが、その中でも最も評価が高いのは高いIQを持つ犬アインシュタインとアウトサイダーの戦いを描いた『ウォッチャーズ』だろう。

そしてそのアインシュタインを彷彿とさせる人語を解する知能の高い犬が再び登場するのが本書である。しかもそれは1匹だけでなく、何頭も登場する。ごく僅かな人間しか知られていない高度な頭脳を有する犬たち、すなわちミステリアムが存在する世界を描いている。

作中、ミステリアムの1匹キップを飼っていたドロシーがこの犬たちについて遺伝子工学の産物ではないかと話すシーンがある。彼女は画期的な実験で生み出された犬が研究所から逃げ出したのではないかと述べる。
『ウォッチャーズ』は知性ある犬アインシュタインの子供たちが生まれ、主人公がそれら遠くへ巣立っていき、そしてアインシュタインの子孫が広がっていくと述べて閉じられることから、このミステリアム達の存在はアインシュタインの子孫たちと思って間違いないだろう。従って本書は『ウォッチャーズ』から33年を経て書かれた続編と捉えることが出来よう。
クーンツはもしかしたらキングが『シャイニング』の続編『ドクター・スリープ』が36年後に書かれたことに触発されて本書を著したのかもしれない。クーンツはいつもキングを意識しているように思えるので。

さて本書は高度自閉症の少年ウッディことウッドロウ・ブックマンとその母メーガン、そしてミステリアムのキップと成り行きでこの犬をブックマン家に連れて行くことになった元海軍特殊部隊隊員ベン・ホーキンスと、以前の飼い主で資産家のドロシー・ハメルから彼女の全財産と共にキップの飼い主の座を譲り受けた住み込みの看護師ローザ・レオンらが導かれるようにブックマン家で一堂に会して、一種のチームとなる。そんな彼女たちを、自身の会社の研究所で培養していた古細菌を体内に取り込んで人獣化しつつある元CEOでメーガン・ブックマンの元恋人のリー・シャケットと、父親のヘリコプター墜落事故死が彼の上司で巨大コングロマリット、パラブル社のCEOドリアン・パーセルによる陰謀だったのではないかと彼のアカウントをハッキングしていたウッディを見つけて抹殺しようとする殺し屋集団〈アトロポス&カンパニー〉が抹殺しようと襲撃する。
この善と悪の戦いの物語なのだ。

善の側の登場人物の中心はなんといってもウッドロウ・ブックマンことウッディだろう。自閉症で生れ、11年間生きてきてこれまで一度も言葉を発したことがない。生まれて2,3年は泣き声を挙げていたがそれ以降はそれさえも無くなったと母メーガンの独白にはある。そして彼はIQ186を持つ天才少年で4歳で本を読み始め、7歳の時にはもう大学レベルの本を読んでいた。そして彼は天才ハッカーでもあり、自分の父親ジェイソンの死を上司による策略と疑って、2年近くに亘って書き溜めた『息子による復讐―忠実に編纂された怪物的巨悪の検証』を書きあげる。

そして彼こそはミステリアムと人間を結び付ける鍵となる。キップ達ミステリアムは〈ワイアー〉と呼ぶ独自の遠隔通信能力で会話をし、仲間たちと連絡を取ることが出来る。幕間に彼らの情報発信の中心犬であるベラが全米で発見されたミステリアムの仲間たちについて常に発信している〈M通信〉が挿入される。そしてウッディはこの〈ワイヤー〉を使ってミステリアムと通信できる能力を持った人物なのだ。
これによってミステリアムのキップは引き寄せられ、途中で知り合った元海軍特殊部隊隊員のベン・ホーキンズを連れてウッディ達ブックマン親子と合流することになるのだ。

また彼の母親メーガンも自立した強い女性として描かれる。
3年前に巨大IT会社パラブル社に勤めていた夫を事故で亡くした後は大学後からも続けていた絵描きの才能を磨いて、絵を売って生計を立てている。しかも彼女の絵は評価が高く、ニューヨーク、ボストン、シアトル、ロサンゼルスに支店を持つ大手画廊と契約を結んでいるのだ。
また彼女は言葉を発しないウッディにこの上ない愛情を注ぐ。母親として何か声を掛けてもらいたい気持ちを抑え、100パーセント気持ちを分かち合えないことに胸を痛めながらも、息子が時折見せる笑顔を癒しとして生きる女性だ。そのため、ウッディが初めて言葉を発したときの彼女の感動が目に浮かぶようだ。
ただその言葉が「ちがうよ、キップっていう名前なんだ」と突如現れた犬に関する説明だったことは少しばかり母親としては残念だったのではないだろうか。しかしその後ウッディは母親にずっと感謝していたこと、愛していたことを矢継ぎ早に告白するのだ。その時の万感の思いが推し量られるというものだ。

ちなみに本書の原題は“Devoted”つまり「献身」だ。つまりこのメーガンの献身こそが本書のメインテーマなのだろう。

さらに彼女は悪玉のリー・シャケットが寄りを戻したくなるほど、また捜査を担当する保安官ヘイデン・エックマンが顔を思い浮かべて部下でもある自分の恋人のリタ・キャリックトンとセックスに興じるほど、そしてキップを連れてきたベン・ホーキンスが惹かれるほどの美貌を持った女性でもある。
一方でその美貌ゆえに同性からあらぬ憎しみを受けることもあるようで、リタ・キャリックトンはメーガンが男を手玉に取る女だと決めつけたりもする。

一方敵方リー・シャケットはクーンツ作品ではおなじみのいつもエゴと自尊心が肥大した登場人物で、困ったほどに俺リスペクトの性格が増長している。メーガンと過去に付き合って、ちょっと気に入らないことがあったので気を惹くために他の女性と付き合っている最中に有人のジェイソン・ブックマンに取られたことを根に持ちながら、今でもメーガンが自分のことを好きであると信じて疑わない男だ。それはジェイソンとメーガンとの間に生まれた子が自閉症の少年であったことで彼は彼女がジェイソンとの結婚を後悔していると決めつけているからだった。

彼は自分の会社リファイン社のスプリングヴィルの研究所が親会社のCEOドリアン・パーセルの命令によって行っていた古細菌を適用する不老不死の研究によって起きた火災事故から一人逃亡した人物だ。92人の社員を犠牲にして一人逃げ出した彼はその際に古細菌を吸い込み、逃亡資金として1億ドルを持ってメーガンと共にコスタリカに高跳びしようと彼女の許に向かう。それは夫を喪った彼女ならかつて自分と付き合っていた自分と一緒になりたいと思うだろうし、またコスタリカに自分が行きたいから彼女も従うだろうと何とも身勝手な理由ばかりを並べて行動なのだ。

また彼の上司ドリアン・パーセルもIT界の寵児で世界を制する者と称されながら社交的な活動は一切せずに冷凍ピザや冷凍ワッフルにアイスクリームなどを好み、数多くのゲーム機器を備え持ち、1000枚近いハードコアポルノのDVDを所有するという思春期真っただ中の大人になり切れない大人である。

クーンツは昨今のIT業界のトップは子供のまま大きくなった大人ばかりだと揶揄しているようだ。

しかし何とも呆気ない幕切れである。

またもやクーンツの悪い癖が出てしまったように感じる。

しかし今後クーンツはこのミステリアムの連中が活躍する物語は書かないのだろうか?
例えばキップが述べている最高に賢いソロモンとブランディという犬のカップルも登場せぬままである。『ウォッチャーズ』の世界観を再起動させた本書によってクーンツはもしかしたら続編を書くかもしれない。

しかしやっぱりクーンツはとことんハッピーエンドの作家であると再認識した。
以前熱心な読者だった私はスティーヴン・キング作品を一つも読んでいなかったのでクーンツ作品を存分に楽しめたが、キング作品を読んでいる今ではクーンツ作品の粗さがどうしても目立ってしまう。
上に書いた纏め方もそうだ。ハッピーエンドに拘りすぎて、あまりに拙速、あまりに強引すぎるのだ。深みや余韻を感じられないのだ。

例えばメーガンがリー・シャケットに魅かれず、ベン・ホーキンスに興味を持ち、結婚するに至るが、これもリーが頭もよく、気も効くが感受性に乏しく、彼女の自閉症の息子が足枷になっているとしか思えなく、また彼女の描く絵も理解できないのに対し、ベン・ホーキンスが彼女の絵を見て感動し、そして彼女の美しさよりもこのような美しい絵が描ける内面の美しさに惚れる違いが描写されるが、これに準えるならばリー・シャケットがクーンツ作品であり、ベン・ホーキンスがキング作品とでも云おうか。

この差が今のキングとクーンツの訳出作品の数の差になっていると思うし、キングが何を書くか、どう描くかを熟考しているのに対し、クーンツはテーマやモチーフを変えて単に読者を愉しませるためだけの技巧とフォーマットに当てはめているだけのように感じてしまう。
それはこの前に読んだ田中氏の『髑髏城の花嫁』に登場する当時の人気作家ディケンズとサッカレーのエピソードと同じだ。そしてキングはディケンズに倣って分冊形式で『グリーン・マイル』を刊行したことを考えるとやはりこの2人は現代のディケンズとサッカレーの関係のように思える。
ただ2人が彼らほど仲が悪いかは不明だが。つまりキングが後に残る作家だとしたら恐らくクーンツ作品は後に残らないだろう。それはクーンツの既刊作のほとんどが絶版になっていることからも明らかである。

しかしこの作家は今後もこの道を進むのであろう。改めてクーンツ作品の読み方を認識させてくれた作品だ。
しかし今回は題材が良かっただけに本当に勿体ない。


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ミステリアム (ハーパーBOOKS)
ディーン・R・クーンツミステリアム についてのレビュー
No.1412: 1人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(7pt)

ミステリ読者はどうしてもタイトルに先入観を抱いてしまう・・・

田中芳樹氏の新シリーズ、ヴィクトリア朝怪奇冒険譚シリーズ第2作が本書。
田中氏のシリーズ物はなかなか完結しないので有名だが、本書においては三部作と決まっており、しかも最終巻も珍しく既に刊行済み。1作目の『月蝕島の魔物』が2007年、本書が2011年で最終巻の『水晶宮の死神』が2017年に刊行と本当に田中氏のシリーズ作品としては実にスピーディに完結しているのは奇跡に近い。

今回エドモンド・ニーダムとメープル・コンウェイが訪れるのはイギリス北部のノーザンバーランドに聳える髑髏城が舞台。但し1作目もそうだったようにこのシリーズは田中氏オリジナルの味付けがなされた怪物が登場するのが特徴で、本書も同様。

まず物語の発端として十字軍の遠征がプロローグとして語られるが、それが7回に亘って行われた十字軍の遠征のうち、歴史上「キリスト教史上の不名誉」とか「十字軍の恥さらし」と呼ばれている第4回十字軍のエピソードである。
本来聖地エルサレムをイスラム教諸国から奪還することを目的に派遣されているのに資金難のため、ベニスの商人に多額の借金をすることになり、地中海の商業権を独占しようと企む彼らに唆され、同じキリスト教徒である東ローマ帝国の首都コンスタンティノープルに攻め入った無様な軍なのだ。そしてコンスタンティノープルを陥落させた後、その悪行三昧が問題になり、北方の辺境への遠征を命じられ、あえなく撃沈することになった十字軍のたった1人の生き残りユースタス・ド・サンポールを、ダニューヴ河畔に聳える髑髏城の主、永遠の命を持つ絶世の美女ドラグリラ・ヴォルスングルが見初めたことがニーダムたちの敵となる新フェアファックス伯爵ライオネル・クレアモントに繋がる。

さて髑髏城と聞いて私はすぐにディクスン・カーの『髑髏城』を想起した。カーの髑髏城は本書のダニューヴ河畔ではなくライン河畔、本書ではかつての東ローマ帝国が舞台なのでルーマニアになろうか。そしてカーはドイツで微妙に位置は異なるがほぼ似たような地方である。
そして本書の髑髏城の主ドラグリラはワラキアの貴族であり、ワラキア公国と云えば、吸血鬼ドラキュラのモデルとなった串刺し公ヴラド・ツェペシュである。つまり吸血鬼の系譜であるのだが、敢えて田中氏はそう安直な方向に進まないという田中氏なりの矜持なのか。

さて本書ではシリーズ1作目の後での出来事であり、直接的には関係ないのだが、1作目のアンデルセンとディケンズの旅のその後も語られる。
なんとアンデルセンがディケンズの家に泊まりに行き、親切にしてくれたことを吹聴したことで小説家志望の人間やファンの連中がアンデルセンに紹介状を書いてもらってディケンズの家まで押しかけ、自分の原稿を読むことを強要したり、出版社への紹介や家に泊めてくれと頼んだりとかなり迷惑したことが書かれている。アンデルセンがディケンズの家に泊まりに行ったことが史実だったことを考えるとこれもまた史実なのだろう。

また1作目に続いてウィルキー・コリンズが幕間でしばしば登場する。彼も直接物語には関わらなく、当時彼は人気作家だったらしいが、よほど田中氏はこの作家を気に入っているのだろうか。

そして田中作品には歴史上の蘊蓄が語られるのが常だが本書も例外ではない。例えば、ディケンズとサッカレーが当時仲が悪かったのは有名な話のようで、彼ら2人がインドカレー店でお互いに激辛カレーの我慢比べをするシーンでそれが強調される。
これは上の2大作家が犬猿の仲で会ったことに加え、インドから戻ってきたイギリス人によってインドカレーがイギリスで親しまれ、広く食べられるようになったことを示している。

またインドに赴任した総督は当時のイギリス大臣の5倍の年俸をもらっていたようだ。私の海外勤務中は1.8~2倍でそれでも多いと思っていたが、まさかこれほど差があるとは。
ただやはり向こうの気候や風土に合わなくて赴任中や帰任して死去する総督も多くいたらしい。
侵略者の彼らが行った功績の1つに「サティーの禁止」がある。当時インドでは夫が妻より早く死ぬと妻は一緒に夫と共に生きていても火葬にされなければならなかったらしい。常々インド人は家長の権力が強すぎて、それに逆らう者は家族であっても命を奪う思想が今でも残っているらしいが、非人道的な物凄い風習である。

またダニューヴ河口に全世界の7割のペリカンが繁殖のために集結し、ペリカンは大きな口で一気に魚を食べてしまうから当地の漁師たちに嫌われているいわば害鳥でもあるらしい。
しかしよくよく考えると基本的に鳥が空を飛べるのは自身の身体が軽く、尚且つ空を飛ぶほどの翼を動かす筋肉が発達しているからだが、水も含めてそれだけの魚を口に含んでも空を飛べるペリカンの筋力は物凄いのではないだろうか?
つまりペリカンは案外食べると美味いのでは?

またニーダムと戦友のマイケル・ラッドがライオネル・クレアモントを髑髏城に送る道中のダニューヴ河で大ナマズに襲われ、格闘するシーンが登場するが、この河には本当にヨーロッパ大ナマズという体長2mを超すナマズが今でも生息しているらしく、しかも人間を襲うこともあるらしい。単に冒険活劇のために設えた生物ではないようだ。

また本書ではスコットランド・ヤードの創設者の1人でイギリスで最初の刑事でもあるウィッチャー警部も登場するのだが、私がかねてより思っていたロンドン警視庁がなぜスコットランド・ヤードと呼ばれているのかが本書で語られる。スコットランドがまだイングランドと別の国だった頃にスコットランド王室の御用邸があり、両国が統合され、御用邸が無くなった広大な跡地に警視庁が建てられたことが由来のようだ。

こういった教科書では習わないエピソードが私にとっては非常に興味深く、面白い。

ただ本書に登場する岩塩の山をくり貫いて髑髏の形に仕立て上げた髑髏城はさすがに作者の創作のようだ。上に書いたように吸血鬼伝説の色濃いルーマニアを舞台にしているからこそさもありなんと思わされるが。

東欧の歴史は私が世界史を専攻していなかったせいかもしれないが、さほど日本人には知られていないように思われ、今回1907年の東欧を舞台であることから彼の地が歴史上いかに混沌としているかが解ってくる。19世紀には次々と正体不明の人物が国王を名乗っていたとのことで、更に本書の敵フェアファックス伯爵はそれらを統合するヴラヒア国王になるとの野心を抱いている。

上述のようにフェアファックス伯爵ことライオネル・クレアモントは髑髏城の主ドラグリラ・ヴォルスングルとユースタス・ド・サンポールとの間に生まれた子であり、髑髏城の最初の主はイエス・キリストや仏陀やモーゼさえも生まれていない昔からスカンジナビアに住んでいたナムピーテスというバイキングの有力な一党の一族で、その中の1人ハルヴダーン・ナムピーテスであった。このナムピーテスという名前はナウビトゥルというスカンジナビアの古い言葉に由来し、その意味は「死者をついばむ者」である。
そしてこのナムピーテス族は勇猛かつ残酷で他のバイキングからも一目置かれていた。そして彼らが東ローマ帝国の都コンスタンティノープルに渡り、そこで産出される琥珀を運ぶ商隊の警護をして目覚ましい活躍を見せたのでヴラヒア国王の称号を授かったのだった。

ただ本書の物語の展開は唐突感が否めない。なんせニーダムとメープルはライオネル・クレアモントの依頼でノーザンバーランドの荘園屋敷に図書室や書斎を作るために訪れたのにいきなりそこで集めた血族たちを殲滅して富と権力を独占しようという大量虐殺に巻き込まれる展開が理解し難かった。
目的の異なる人物たちをなぜ一堂に集める必要があるのか。つまり手段と目的の辻褄が合わないのだ。
そんなちぐはぐな印象の中で一気に物語は荘園屋敷で殲滅作戦が行われ、それに巻き込まれたニーダムとメープルの2人が自身の生き残りを賭けて、ライオネルと対決するようになり、物語が一気に結末へと向かう。ここら辺はどうもやっつけ仕事のように感じてしまった。

あと今回登場するクリミア戦争時の戦友マイケル・ラッドの存在がほとんど生きてない。口が達者なお調子者のラッドはクリミア戦争が終わった後もスクタリ野戦病院でナイチンゲールの手伝いで戦傷者たちの世話をしていたが、衰弱したライオネルをダニューヴ河畔にある髑髏城に現地除隊証明書を渡すという条件で共に連れて行った仲である。ライオネルは無事髑髏城へ送ってくれた謝礼にそれぞれに2500ポンドを渡したが、ラッドはニーダムに金貨50枚を渡しただけで自身の分も含めて5000ポンドせしめた、何ともしたたかな男である。

またイギリス最初の刑事ウィッチャー警部も、ラッド同様にさしたる活躍も見せないままである。

とまあ、様々な役者が登場しながらも結末はいささか肩透かしを食らった感は否めない。
というよりも主人公のエドモンド・ニーダムはクリミア戦争のバラクラーヴァの激戦を生き残った銃の名手というキャラ付けがなされているものの、書中の挿画に描かれた穏やかな風貌の英国紳士というイメージが怪物たちと渡り合うタフなヒーローへ結びつかないのだ。そして好奇心旺盛なこよなく書物を愛する姪のメープル・コンウェイもまたその書物愛とジャーナリスト志望という芯の強さだけが特色で、苦境を乗り越える線の太さを感じない。

つまり一般人に少しばかり特徴づけられた主人公2人に対して、相対する出来事が怪物や人外の者との遭遇と戦いというスケールの大きさと釣り合わない違和感をどうしても覚えてしまう。

とはいえ、本書ではその辺のバランスの悪さにこだわるよりもやはり田中氏の博識に裏付けられた裏歴史のエピソードや次々と登場する歴史上の人物、しかもこれまたイギリス文壇の著名人やウィッチャー警部ら学校では習わない有名人たちとの織り成す物語に素直に浸る方がいいのだろう。

さて最終巻の2人の関係にも何か進展があるのだろうか。
しかし彼ら2人は小父と姪の関係であり、近親過ぎて結婚はできないはずだ。なので2人の間での色恋沙汰は期待できないだろう。

果たして田中氏はどんな結末を持ってくるのか。ただ単に後日談が語られるだけの味気ないものにならないよう祈りたい。


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髑髏城の花嫁 (Victorian Horror Adventures 2)
田中芳樹髑髏城の花嫁 についてのレビュー
No.1411: 1人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(10pt)

キングが物語に仕掛けたワンダーが横溢した傑作!

スランプ状態から抜け出したスティーヴン・キング復活の作品と云えば先の『ドロレス・クレイボーン』でもなく、私は本書を挙げる。当時6分冊で刊行された本書は日本でも好評を以て迎えられ、更に映画化もされて大ヒットを記録した。

キングがこの作品を6分冊で刊行したのは海外著作権を扱う人物からの提案で昔チャールズ・ディケンズが採用していた分冊形式の話題がきっかけだったとのこと。特にキングがこの趣向を魅力的だと思ったのは、“読者が結末を読めない”ことだった。昔キングは自分の母親がクリスティーのミステリを結末部分を覗き見しながら読んでいるのを目の当たりにしてショックと怒りを覚えたとのこと。
従ってこの分冊方式はそういった輩に対して絶好の対抗策であるのと同時に、この『グリーン・マイル』の題材自体がまだキングの中ではイメージと設定があるだけで物語として固まっていなかったことから作者自身も結末が解らないままに書き出すことが当時のキングの心理状態とマッチングしたらしかった。いわば連載小説や連載漫画の手法を本書は取り入れたわけである。

ただ私が読んだのは6分冊で刊行された新潮文庫版ではなく、合本版を上下巻で刊行した小学館文庫版である。但し私は上にキングが嘆いたような、結末を最初に見て物語を読む性分ではないので通常通り結末までどうなるか考えながら楽しむことが出来た。

作者自身の前書きにも触れているが、本書はキングにとって刑務所を舞台にした2作目の小説である。1作目は映画『ショーシャンクの空に』の原作中編「刑務所のリタ・ヘイワース」で、長編としては2作目になる。そのいずれもが傑作であり、しかも映画も大ヒットしている共通点がある。
実は刑務所小説はキングにとっても相性がいいのではないだろうか。

ところでこの刑務所小説はアメリカでは一定数あるようで一ジャンルを築いているようだが、翻って日本を顧みれば私の経験上、ほとんど読んだことがない。キングを信奉し、数多の傑作を書いてきた宮部みゆき氏やベストセラー作家の東野圭吾氏、大沢在昌氏と書店を賑わすビッグネームの多作家でさえ書いていないのだ。

これはただ単純に文化の違いだろうか?
日本では服役囚のプライバシーを重要視するあまり、取材が困難なのだろうか。

そして「刑務所のリタ・ヘイワース」がそうであるように本書もまた傑作である。いや、もしかしたらキング作品の中で一番好きな作品が本書なのかもしれない。それまでは『ペット・セマタリー』、中編集の『スタンド・バイ・ミー』だったが、本書はそれを超える。
キングは時々魔法を掛ける。それもワンダーとしか呼べないほどの。

前書きに描かれているが、本書は難産だったらしい。
しかしその苦労が報われるほどの素晴らしいお話が降りてきていた。

この物語は語り手のポール・エッジコムの回想録の体裁で書かれている。物語の舞台は1932年で当時のことをジョージア・パインズ老人ホームにいるエッジコムが思い出しながら書いているという内容で、時折現代のエッジコム自身の物語も挿入される。このことについては後に触れよう。

とにもかくにも登場人物のキャラクターが立ちまくっている。
語り手の刑務所看守主任ポール・エッジコムはじめ、看守ディーン・スタントン、ハリー・ターウィルガー、ブルータス・ハウエル、そしてパーシー・ウェットモア。

この看守たちは一人を除いて皆本当の意味のプロである。彼らは自分たちが勤務するEブロックの囚人たちが死刑を迎えた者であることを踏まえ、決してぞんざいに扱わない。

しかしただ1人パーシー・ウェットモアだけが別である。この看守は州知事と義理の血縁関係であることを盾にして自分に不利益なことや周囲が馬鹿にすると周りの看守たちに州知事に云いつけて失職させてやると息巻く、まさに憎き虎の威を借る狐なのだ。電気椅子〈オールド・スパーキー〉で処刑された死刑囚に平手打ちを食らわして罵り、自分より弱いとみれば理不尽な因縁をつけて警棒で叩く一方で、敵わない相手だとみると恐怖に慄き、仲間の前で何もできずに立ち竦むだけ。中身のない、虚勢だけの青二才だ。
この男の非道ぶりと浅はかさが際立つのはドラクロア処刑のシーンだ。

さて一方で囚人たちもまた粒揃いのキャラクターが揃っている。

エデュアール・ドラクレアはフランス系の犯罪者で少女を強姦して殺し、石油を撒いて着火し、その火がアパートメントに燃え移ってさらに6人が死に至った事件の犯人だ。彼は悪たれ看守パーシーに目を付けられ、事あるごとに虐められるが、ネズミのミスター・ジングルズとの出会いが彼の囚人生活を変える。
この不思議に賢いネズミはいつも彼のところにおり、彼が用意した葉巻箱のベッドに眠り、そして糸巻きの芯で遊ぶのとペパーミントキャンディを好み、一躍Eブロックのアイドルとなる。

このミスター・ジングルズによってドラクロアも笑顔が増え、純粋な笑みを見せるようになる。そのギャップがまた世界の皮肉さを助長させる。
なぜ死刑が決まっている人間がこれほどまでに幸せそうに微笑むのかと。

〈荒くれビル〉ことウィリアム・ウォートンは真のワル、生まれながらの悪人だ。19歳にして複数の州を転々としてあらゆる犯罪に手を染め、自分をビリー・ザ・キッドと称する。とにかく行動の読めない男で、刑務所に運ばれたときは心神喪失状態のような様子であったが、いきなり手錠の鎖を看守の1人ディーンの首に巻き付け、絞殺しようとする。また檻に近づきすぎたパーシーを捕らえて下卑た微笑みで卑猥な言葉をかけ、恐怖に陥れる。パーシーはそれでラストネームのウェットモアに相応しい尿の染みをズボンに着けてしまう。

そして何よりも物語の中心となる囚人ジョン・コーフィの造形が素晴らしい。見上げるほどの巨漢で肩幅が広く、胸板がものすごく厚く、合う囚人服がない黒人。もし暴れたら看守5人が束になっても抑えきれるかどうか解らない畏怖すべき存在ながら、最初にお願いしたのは暗いところがちょっと怖いから寝る時間になっても明かりをつけておいてほしいと少女めいた要望を出すギャップにまず引き込まれた。

更に彼は週が変われば前の週の記憶を失い、いつも涙を流している。

また本書における死刑囚が収監されるEブロックの描写は実にリアルだ。
例えばそのコールド・マウンテン刑務所の処刑方法として鎮座するのは“オールド・スパーキー”と呼ばれる電気椅子だが、看守たちは処刑の前日にはそれぞれが与えられた役割に則ってリハーサルをするのだ。

例えば椅子に足を固定する時が最も無防備になるから死刑囚が暴れだした際に片膝を立てて股間を守る姿勢を取ったり、喉を蹴られないよう顎はグッと引いておくそうだ。また電気が流れる側のふくらはぎの毛はすっかり剃っておく必要がある。恐らく電気で焼き焦げて火が着くからだろう。

また電気椅子のスイッチは2段階になっており、第1スイッチが入ると通電され、刑務所内の照明が少し明るくなる。そのことで他の囚人たちは処刑がなされたことを知る。ただこの段階ではまだ電気椅子には電気が流れておらず、チャージされただけで、次の第2スイッチを入れた時に死刑囚に電気が流されることになっている。

また看守は通路の真ん中を歩くよう気を付けなければならない。どちらか一方に近いと隙を見た囚人が檻から手を伸ばして看守を掴んで最悪の場合、鍵を盗まれて殺されるからだ。

そしてこれら刑務所のディテールが最高潮に活きるのが賢いネズミ、ミスター・ジングルズをペットに持つフランス系囚人エデュアール・ドラクロアの処刑シーンだ。
この時、陣頭指揮を採ったのがパーシー・ウェットモア。そう、ドラクロアを目の敵のように虐めていた男だ。そして彼は電気椅子のヘルメットの中には海綿が仕込まれているが、それが塩水に濡らされてないとならないらしい。そうすることで電流を海綿を介して直接脳に撃ち込まれるからだ。しかしパーシーは知らなかったと偽ってそれを敢えてしなかった。そしてドラクロアの処刑はどうなったか。

これはまさに地獄絵図のように陰惨なものとなった。一気に死ねないドラクロアは高圧電流に苦しみ、固定された椅子の上で断末魔の如く、逃れようと信じられないほどの力で藻掻いてその力で自らの骨を砕き、顔を覆うマスクは電気によって燃え尽き、肉は焼け、目玉が眼窩から零れ落ち、意識を保ったまま、自身が焼かれるのを耐えるだけになる。
自分の家族をドラクロアによって殺された遺族は彼の処刑に立ち会ったが、そんな憎しみの渦中にある彼らでさえ、もうたくさんだ、解放してやってほしいと懇願するほどにその有様は惨たらしい。
そしてもしそれでも絶命しなかったら最悪だが、ドラクロアはどうにか絶命する。しかし高圧電流で全身が焼けただれた彼の皮膚はあらゆる衣類に引っ付き、聴診器を当てて死亡を確認するのに胸をはだけるとずるっと爛れた皮膚まで持っていかれ、真っ赤な肉がむき出しになり、そこに当てるしかなくなる。

凄まじいまでのディテールと人間の愚かさが、いやパーシー・ウェットモアという人間が唾棄すべき人間であると再確認させられるシーンだ。

そして後半の結末に向けての展開が凄い。まさに怒涛の展開である。

ポール・エッジコムら他の看守にとって目の上のたん瘤であり、また悩みの種であったパーシー・ウェットモアとウィリアム・ウォートンがまさかこんな形で片付けられようとは。なんという始末の付け方だ。私はこのシーンを読んだときにキングに神を見た。

最後の最後まで驚きと感動が詰まった作品だった。前書きでキングは結末まで考えてなく、読者同様作者もどんな結末になるか解らないと書いてあるが、それが信じられないほど、全てが収まるべきところに収まり、そしてそれがこれまでにない素晴らしい物語となっていることに驚く。
やはりこれはジョン・コーフィにキングが書かされた物語ではないか、そんな風に思わされてしまう。

生みの苦しみの末に出来上がった本書は現時点で私の中でキング最高作品となった。

いやあ、これはぜひとも映画を観てみたい。トム・ハンクスが演じたポール・エッジコム、マイケル・クラーク・ダンカンが演じたジョン・コーフィをぜひとも観てみたい。

久々に読後ため息が漏れ、世界に浸れた物語だった。やはりキングはすごい。まだこんな物語を書くのだから。
そしてその後も傑作を生みだしていることを考えると、本書がまだ彼の創作の途上に過ぎないのだ。いやあ、もう言葉にならないね、凄すぎて。

グリーン・マイル。
それは電気椅子に至る廊下がライム・グリーンのリノリウムが貼られていたことで付けられた俗称だった。
しかしこの言葉は最後に語り手のポールが嘆き呟くように、人生の最期に至る道のりを示すのではないか。
私のグリーン・マイルはまだまだ遠くにある。そして老人のポールと異なるのは彼がそのことを絶望しているのに対し、私はまだそのことに安堵していることだ。

まだまだ読みたい本がたくさんあり、まだまだ人生を楽しみたい。

私がグリーン・マイルを歩むとき、全て成し終えたと笑顔であるように祈っている。


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グリーン・マイル〈1〉ふたりの少女の死 (新潮文庫)
スティーヴン・キンググリーン・マイル についてのレビュー
No.1410: 1人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(7pt)

「今思えば・・・」の発見が楽しめる逆行小説

ジェフリー・ディーヴァーの久々のノンシリーズ作品である本書は実に変わった構成の作品だ。なんと終章36章から始まるのだ。
そう、本書は物語を逆行して語られる。従ってなかなか物語の全容が見えにくい。

しかしこれがまたこれまでにない先入観をことごとく覆す展開になっていく。

いわば本書は時間を逆行することで物語の前提条件や人物設定が後から判明していき、先入観が覆される構成になっている。本書はそんな小技の効いたどんでん返しが数々散りばめられている。

しかしそれでもやはりこの作品は読みにくかった。時系列を逆行することで前章の結末から次章への繋がりがスムーズになされないからだ。
例えば30章が終わると次の29章の始まりはその30章へとつながる箇所の数分前とか1時間前に設定されているため、物語の展開が唐突すぎて頭に素直に入っていきにくいからだ。

このような最後の最後で計画の全容が判明する物語は数多あり、特にスパイ小説の類では複雑怪奇な構図が明かされるわけだが、その構成とほぼ同じである。
いわば本書は敢えて時系列を遡ることを想定して書かれた物語であると云えよう。

あと最後に付される目次に書かれた各章題を見ながら、各章の写真を見るとまた別の意味が立ち上ってくるのも憎らしい演出だ。特に第9章の馬の写真と章題「サラ」は1章を読んだ後だと笑えるし、第14章の骸骨が砂の中から出ている写真と章題「ダニエルの最初の仕事 一九九八年ごろ」を照らし合わせると228ページ3行目からのエピソードが別の意味を伴ってくる。

とこのように様々な仕掛けが読後に立ち上ってくる作品である。従って本書は読み終わった後に色んな読み方ができる作品だと云えよう。
例えば今度は1章から読むと感じ方も変わるだろうし、また同じように第36章から読み返すとさりげない伏線や描写の数々にほくそ笑むことだろう。
また目次の章題を照らし合わせながら読むとそれまで気付かなかった写真や文章の意味合いに気付かされることだろう。

ただやはり本書はアラフィフの自分には場面転換、時間軸の巻き戻しに頭を慣らすのが難しかった。機会があればもう一度読んでみると、上の評価もまた変わるのかもしれないが。

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オクトーバー・リスト (文春文庫 テ 11-43)
No.1409: 1人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(7pt)

まさに昭和の献身の事件史

本書は御手洗潔シリーズの1冊であり、京大時代の若かりし御手洗が解き明かした11年前、昭和39年に起きた密室殺人事件の謎を解き明かすミステリである。

さて最近の島田氏は実在する企業をモデルにしている作品が多く、例えば『ゴーグル男の怪』では臨界事故を起こしたジェー・シー・オーを、『屋上』ではお菓子会社のグリコをモデルにしているが、その会社が関係する場所は前者が東海村であるのに対し、福生市にしていたり、後者が大阪道頓堀でありながら川崎にしていたりと微妙に細工を加えているのが特徴だが、本書の舞台は鳥居が両脇の建物の壁を突き破って突き刺さっている京都の錦天満宮そのものを事件現場として、しかも鳥居が突き刺さっている両方の建物を密室殺人事件の舞台としている。
実在する場所をピンポイントで殺人現場にしているのだから、きちんと許可を取っているのか気になるところではあるが。
一方でもう1つ宝ヶ池駅近くにある振り子時計が多く飾られている喫茶店「猿時計」は作者の創作らしい。

さてそんなリアルな場所で起こる出来事は3つ。

1つは昭和39年のクリスマスイヴに起こる妻殺害事件。密室状態の中で家主の半井肇の妻澄子が絞殺された事件だ。

もう1つは同じ日の同じ家の2階で寝ていた娘楓に初めてクリスマス・プレゼントがサンタクロースから届けられる出来事。しかもそれは当時8歳だった楓がほしかったものだが、誰にも話してなかったという。

そしてもう1つは半井肇の姉美子が経営する喫茶店「猿時計」の壁一面に飾られている振り子時計は全て止められているのだが、そのうちの1つ、ヘルムレ社の高級振り子時計のみがいつの間にか動き出すという怪事。しかも両親を亡くして引き取られた楓は夜中に小さな猿が入って動かしているというのだった。

さてこの密室殺人は正直解ってしまった。

しかしなんとも身悶えしてしまう事件である。いわばこれは献身の物語でもある。島田版『容疑者xの献身』ともいうべきか。

しかし本書の舞台を御手洗潔の若き日にしたことで、昭和という時代性が色濃く出ている。

つい先日テレビの番組で昭和時代の常識について触れることがあった。
それは例えば信じられないほどの満員電車での通勤風景だったり、また分煙化が成されていない時代での駅のホームの煙だらけの風景やオフィスの机に灰皿が堂々と置かれている状況だったり、はたまたテレビ番組中に出演者自身が煙草を吸いながら進行している映像だったりと今の常識とでは眉を顰めるような違和感が横行していた。
しかしそんな時代だったのだ、昭和は。

本書においてもいわば男尊女卑の意識が根強い家父長制度が横行しているそれぞれの家庭のことが書かれている。
夫が怒るからクリスマスプレゼントは上げられないと云った夫の暴力を恐れて自己催眠を掛ける妻の意識だったり、親の選んだ道を行くことを子供は望まれ、本当に進みたい道を選べなかったり、夫の稼ぎよりも自分の自営の仕事の方が収入がいいことを認めると夫が機嫌を悪くするので敢えて黙っていたり、もしくはそれを夫があてにして乱費するのを黙って我慢したりと女性は常に男に従って生きてきた、そんな時代だ。

それらは確かにこの令和の時代にも残っている考え方や風習だろう。しかしそれらが古臭く感じるのもまた事実なのだ。

特に私が心を痛めたのは国丸信二の母親のエピソードだ。
男に騙され、結局肉体労働の土工をせざるを得なくなり、女手一つで息子を育てるために、街歩く女性が距離を置くほど汗まみれ、泥まみれで働き、そして工務店のつてで東京オリンピックの開会式のチケットをもらうが無理が祟ってその後半年で死亡する。
そしてその貰ったチケットで入場しようとした国丸はそれがその時各地で出回っていた偽物のチケットであることを知らされる。貧乏人はとことん報われないと思わされるエピソードだ。

ただ本書では解き明かされない謎も存在する。

まずプロローグで語られる夜中に集団で跋扈する落ち武者の霊の群れや楓が榊夫婦にヘルムレ社の振り子がひとりでに動き出す現象について夜中に小さな猿が忍び込んで動かしていると云った事の真意についても解らぬままだ。

今までの御手洗シリーズ、いや島田作品では全ての些細な謎まで合理的な解答がなされていただけに、不明なままで終わるこの2つの謎については違和感が残ってしまった。

とはいえ齢70にしてまだ密室殺人事件を扱う作品を書く島田氏の本格スピリットには畏敬の念を抱かざるを得ない。
私でさえ年を取れば読書の傾向は変化していき、昔はガチガチの本格が好きだったのが、ハードボイルドや警察小説などトリックよりも人の心の綾が生み出す物語の妙にその嗜好は変わっていきつつあるが、島田氏は一貫して本格ミステリへの愛情が尽きていない。
そして私が彼の作品を今なお読み続けるのは彼が物語を重視するからだ。物語の復興こそ今必要なのだと単にトリックやロジックを重視しがちな本格ミステリ作家ではない存在感を示しているところに魅了されるからだ。

本書の構成もドイルのシャーロック・ホームズの長編の構成を踏襲している。事件を探偵が解き明かすパートと犯人側の事件に至った背景の物語が描かれている。率直に云えば事件解決のパートだけならば中編のボリュームだろうが、犯人側のパートを描くことで物語に厚みを与えているのだ。
そう、島田氏は本格ミステリを書いているのではなく、本格ミステリ小説を書いているのだ。このドイルから連綿と続く文化を継承しているからこそ、私は彼の作品を読まずにいられないのだろう。

島田氏が綴る市井の昭和年代史ともいうべき作品だ。私も昭和生まれだが、いつの間にか平成時代の方が長く生きていることになった。
そして今は新たな元号令和の時代だ。昭和は既に遠くなりつつある。
本書で京大時代に御手洗が知り合った予備校生サトル君は京大を落ち、同志社大学に合格して入学した。大学入学後にサトル君と御手洗との交流が続いているかは不明であり、今後ヤング御手洗の事件簿が書き継がれるかは不明だが、昭和という時代に生きた日本人の価値観を今後に語り継ぐ意味でも本書のような作品は書かれ、そしていつまでも読み継がれてほしいものだ。


▼以下、ネタバレ感想
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鳥居の密室: 世界にただ一人のサンタクロース
No.1408: 1人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(8pt)

まさに最凶の夫

本書は長年夫に虐待を受けていた女性がある日突如思い立ち、夫のキャッシュカードを手に逃亡するお話だ。もちろん夫はそれまで支配していた妻の反抗を許すわけがなく、妻の行方を追ってくる。

今まで数多書かれた不幸な女性が困難に立ち向かう話だが、キングが秀逸なのは虐待夫を刑事にしたことだ。つまり本来ならば自身が受けたDVを通報する相手である警察が敵の仲間なのである。

どこまで信じたらいいか解らないが、本書の主人公ローズ・ダニエルズ改めロージー・マクレンドンはそれまで夫が連れてきた同僚たちを見て、彼らが夫と同類であることを信じてやまない。警察官同士の仲間意識が強く、たとえ通報したとしてもまず夫の勤務する警察に照会され、それが原因で自分の逃亡先が夫に知られることを恐れるのだ。そしてそんな警察官たちは夫同様、自分のことを仲間を売った裏切りのユダであり、逆に夫に力を貸すだろうと怯えるのだ。

しかし主人公の夫ノーマンがまたひどい人物なのだ。
まず物語は彼が癇癪を起して妊娠中の妻を襲って流産させると云うショッキングな出来事から幕を開ける。赤ん坊のいるお腹を妻がロマンス小説を読んでいたというだけで怒り―彼はそんなものはリアルではなく、従ってそんなものを読むこと自体を嫌悪しているのだ―、腹に3発の強烈なパンチを見舞うのだ―なお彼女がその時読んでいたロマンス小説は『ミザリーの旅』。そう、あの『ミザリー』その小説のファン、アニー・ウィルクスに監禁されたポール・シェリダンの小説である―。

更にはライターの炎でロージーの指先を焙ったり、鉛筆の尖った芯でひたすらロージーの皮膚を無言で突く。血が出ない程度に延々とそれを続けるのだ。

もっとひどいのはロージーの肛門にテニスのラケットを突き刺して悦んでさえいたのだ。

とにかく過剰なまでの女性蔑視者であり、服従していた妻が自分のキャッシュカードを盗んで逃亡したと云う事実に屈辱を覚え、代償を払ってもらうために彼は彼女の行方を執拗に追うのだ。

そして最大の特徴は彼が噛みつくことだ。彼は人の皮膚を、肉を噛みたくて仕方がない衝動に駆られる。
ただこれまでは歯形が着く程度に噛みついていたのだが、妻のロージーが逃げてからはこれが顕著になり、相手の皮膚を突き破って口から血を滴らせるまでになる。さらには人を噛み殺すまでに至る。
最初の餌食はロージーを<娘たち&姉妹たち>に案内した旅行者救護所のピーター・スロウィク。彼の自宅に押し入り、地下室で拘束した後、拷問して殺すのだ。噛み過ぎて顎が痛むほどに。さらには彼の元妻で〈娘たち&姉妹たち〉の運営者アンナ・スティーヴンスを噛むだけで殺害する。

また少しでも気に食わないことがあればすぐにその人物を完膚なきまでに叩きのめしたり、銃で撃ち殺したいといった破壊衝動に駆られるのだ。

まさにパラノイアである。

一方で玄関のドアに3つも鍵を取り付け庭には侵入者探知センターを取り付け、自分の車には盗難防止アラームを取り付ける用心深さを持つ。

更には警察としても実績を挙げており、クラックの全市密売網の一斉検挙で最功労者となり、出世し、周囲から一目置かれている存在なのだ。

物語が進むごとに彼のパラノイア度は次第にエスカレートしていく。ピーター・スロウィクを拷問中の時に彼は狂気のスイッチが入ってしまったかのようにその後、しばしば記憶喪失に陥るのだ。
そして次第に別の人格が現れてくる。あることがきっかけで手に入れた雄牛のファーディナンドの覆面を手に入れた後、それを被った時にはファーディナンドに、その覆面を手に持って腹話術の人形のように話すときは相棒のファーディナンドとして会話を始めるのだ。

一方被害者のロージーだがどうも周囲から見下されるオーラを纏っているようだ。逃亡先の街に到着してバスを降りるなり、飲んだくれの男に卑猥な言葉を向けられる。優しく道案内してくれる老人と話せば、少し道筋が知ってることを示せばムッとされる。

彼女にきつく当たるのは男性だけかと思えば手押し車の太った女に虐待された女性たちのセーフハウス〈娘たち&姉妹たち〉への道のりを尋ねると痛烈な罵声を浴びせられ、更に若い妊婦にもきつい言葉を掛けられた挙句に突き飛ばされる。
永らく夫に虐待されていたことに由来する自信の無さゆえに負のオーラが滲み出ているのだ。

なんせ結婚してから14年間も虐待されてきたのに加え、ほとんど外出することもなかったのだから無理もない。しかも彼女の家族、両親と弟は結婚して3年後に交通事故で亡くなっており、彼女には駆け込み寺となる場所が、人がいなかったのである。

また彼女が流産したことを悲しむ反面、安堵を覚えるのはもし子供が生まれたら、夫が子供にどんな虐待をするのか想像するだに恐ろしいからだ。自分の流産を、しかも夫の暴力によってなってしまった不幸ごとをそのようにして安堵する彼女が何とも不憫でならない。

その彼女が助けを求める〈娘たち&姉妹たち〉にはロージー同様に虐待された女性たちが集まっている。

ロージーと共にホテルのメイドの仕事をして、最初の親友になるパム・ヘイヴァフォードは夫にドアからガラスを突き破って外に投げ出され、両腕に200針を超える傷を負った。それでも彼女は男を求めてしまうのだ。

またそこの運営者アンナ・スティーヴンスはバスターミナルの旅行者救護所の事務員ピーター・スロウィクの元妻で彼の両親の遺産を元手にこのセーフハウスを運営している。彼女は虐待を受けたことはないが、そういう女性たちが世の中にいっぱいいることを知っており、義侠心に駆られて虐待された女性たちの自立のための救済活動を行っている。聖人君子のような人だが、それを自分の名声に繋げる野心を持っている、ちょっと自尊心の高い女性でもある。
ちなみに彼女は『不眠症』でデリーでの集会で突っ込んできた飛行機の餌食となった女性解放運動家のスーザン・デイと会い、一緒に写真を撮ったことがあるようだ。

さて〈娘たち&姉妹たち〉という安寧の場所を得たロージーは人間らしい生活を取り戻すことで次第に人並みに笑い、そして振舞うことが出来るようになってくるが、彼女を決定的に変えるのが≪リバティ・シティ質&金融店≫での丘の上に立つ女性の後姿を描いた絵との出遭いである。

そこに描かれている凛とした立ち姿の女性に魅かれた彼女は絵をノーマンとの結婚指輪と交換して手に入れ、風貌も彼女と似せるようになる。そしてそれを転機にその質屋の店主の息子ビル・スタイナーと付き合うようになり、そこの常連客のロブ・レファーズから朗読テープの朗読者の職を紹介されるのだ。

しかし彼女が、夫の暴力がエスカレートしないように苦痛に悲鳴を挙げずに息を殺して耐えていたことが朗読者として類稀なる素質になるとは何とも皮肉な話である。

彼女は絵の中の女性を絵の裏に書かれていた文字から赤紫色を意味するローズ・マダーと名付け、事あるごとに彼女の心の支えになる。

さて今回の敵ノーマン・ダニエルズこの刑事という捜査技術と知識を備え、更に巨躯と怪力と人を殺すこと、傷つけることを厭わない、いや寧ろその衝動が抑えきれない最凶のサイコキラーだが、絶望的に強いわけではなく、ロージーが所属する〈娘たち&姉妹たち〉が開催したイベント会場では護身術と空手を身に付けた巨漢の黒人女性ガート・キンショウに撃退されるのだ。しかも馬乗りになった彼女に小便を引っ掛けられ、ほうほうの体で逃げ出す始末。

つまり誰も彼もが抵抗できないほどの悪党ではないのだ。ここがクーンツとの違いだろう。
クーンツの描く悪党は周到な準備をして、どんどん主人公を追い詰めていき、更にはどんな抵抗も効かないほどの圧倒的な力を誇り、どうやっても勝てないと思わせる絶望感をもたらすのに物語の終盤では大したことのない方法や手法で簡単に撃退され、ものすごく肩透かしを食らうのだ。

またこのノーマン・ダニエルズ自身も幼い頃に父親から虐待を受けて育った被害者でもあり、更に女性蔑視の精神も父親に叩きこまれていた。従って彼は女性に抵抗される、自分より弱い者に抵抗されるとすぐに動揺と恐慌を覚える精神の弱さも持つ。

虐待をする者は虐待を受けた過去がある。

キングは常々家庭内暴力、家庭の中で圧倒的な支配力を持つ夫や父親を描いてきた。本書はそれまで物語の背景やエピソードとして書かれてきた設定をそのままテーマにした物語である。

この令和の今でも社会問題になっている虐待。確かにその中に取り込まれた者たちには虐待をする者だけでなくされた者も人生において終わりなき代償が必要なのだとキングは云いたかったのかもしれない。

▼以下、ネタバレ感想
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ローズ・マダー〈上〉 (新潮文庫)
スティーヴン・キングローズ・マダー についてのレビュー
No.1407: 1人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(7pt)

『アビス』×『マトリックス』×『ゴジラ』の超大作

寡作家で知られる梅原克文氏だが、発表される作品は実にスケールの大きな話で知られている。デビュー作の『二重螺旋の悪魔』はバイオテクノロジーによって生み出された生命体と超人間との戦いを描いた上下巻1,000ページを超えるSFエンタテインメント大作であった。

そのデビュー作はしかし巷間の話題にはさほど上らなかったが、一部の目利き読者に注目されることになり、その余波を受けて本書は96年版の『このミス』で8位にランクインした。

そして作風が実に派手派手しく、映像的、いやハリウッド的なのが特徴的である。デビュー作は改造手術を受けたいわゆるヒーロー物からサイバースペースに舞台を移す映画『マトリックス』を彷彿とさせたが、本書もまた同様である。そのことについては後に触れることにしよう。

さてデビュー作のタイトル「二重螺旋」の意味するところは即ちDNAのことでバイオハザードを扱ったものだが、本書の「ソリトン」とは海が舞台であるからギリシア神話に登場する海神トリトンのことを指しているかと私は思ったが、違っていた。
ソリトンとは粒子性を持つ孤立波のことである。減衰もせず、形も崩れない、そして粒子性であるがゆえにソリトン同士が衝突しても打ち消しあわずにそのまま通り抜ける、バランスの取れた半永久的に存在する波動である。そして今回主人公たちや東シナ海にある海洋建造物や油田採掘設備、潜水艦や軍用艦などと戦いを繰り広げる相手がこの波で出来たソリトン生命体なのだ。

作中にも書かれているが、地球の陸地面積は表面全体の29%に対し、海が71%を占める。また陸地の高さの平均は840メートルに対し、海の水深の平均値は3,800メートルと圧倒的に面積及び容積は海が勝っているのだ。

つまり海の全容はまだまだ謎が多く、未知の領域であることから考えると本書に登場するソリトン生命体のように地上の生物の尺度をはるかに超えた生物がいてもおかしくないのだ。
一応その成り立ちについても本書の中で述べているのはやはりこの作者が根っからのSF脳であるからだろう。

さて本書で主人公の倉瀬厚志らヘリオス石油に所属する海底油田基地の面々と海上自衛隊に所属する潜水艦〈はつしお〉の富岡艦長ら乗組員とそのチームから離脱した山田三佐と西たちが遭遇するソリトン生命体は全長約100メートルほどの巨大な平べったい蛇のような外形から通称〈蛇(サーペント)〉と呼ばれる物と直径200メートル、高さ100メートルもの冷水塊の表面を覆いつくすゲル状の生物タイタンボールが登場する。

そして今回の敵、即ちタイトルにもなっている「ソリトンの悪魔」となるのが〈蛇〉だ。
この敵はとにかく破壊によって生じる正弦波を食糧にして生きるため、海洋構造物である海底プラットフォームや潜水艦や潜水艇、軍用艦や海上支援船をマッハディスクという衝撃波を放って破壊しまくる。

さて先ほどから述べているが、本書の主要舞台となる石油採掘の海底プラットフォーム〈うみがめ200〉は2021年現在実現していない。本書でも述べられているが、石油採掘プラットフォームには海上型プラットフォームと浮遊型プラットフォーム、そして海底型プラットフォームの3種類に大きく分かれる。現在前記の2種類のみがあるが、それは海底型プラットフォームのコストが膨大であり、またリスクが高いことに起因するからだ。メリットとしては台風や嵐に全く左右されずに採掘できることだが、本書でも述べられているように非常にトラブルが多く、それを推奨した主人公の倉瀬厚志ですらその選択は誤りだったと認めるくらいだ。

また本書でもう1つ登場するのは海上に建造中の5km四方の規模を持つ海上都市〈オーシャンテクノポリス〉だ。
正直この構造物が多額の費用をかけてどれほどのメリットを日本にもたらすのか全く以て理解ができないが、当初この物語の主戦場となるだろうと思っていたこの巨大建造物が早々と〈蛇〉によって崩壊させられるのには度肝を抜かれた。昨今のハリウッド大作にはクライマックスに相当する派手派手しいシーンを冒頭に持ってきて観客の興味を鷲掴みする傾向にあるが、まさにこの〈オーシャンテクノポリス〉崩壊はその超大作的幕開けの供物として捧げられた感がある。

そして本書で欠かせないのは海上自衛隊の潜水艦〈はつしお〉が備える最新鋭のホロフォニクス・ソナー、略してホロソナーだ。ホロフォニクスとは立体的音響効果をもたらす音響技術―なお本書ではイタリアの神経生理学者ヒューゴ・ズッカレリ氏が発明したと書いてあるのに対し、Wikipediaによればアルゼンチンの技術者ウーゴ・スカレーリとあるが、彼がミラノ工科大在学中に発明したと書かれているから恐らく同一人物だろう。もしくは微妙に変えたのかもしれないが―だが、この技術を適用してコンピュータ処理した精密な立体音響像を人間の脳に送り込むハイテク機器とされている。本書ではヘルメット型でアイソナーと呼ばれるアイシールドを落とすことで海底内をまるで自分自身が泳いでいるかのように見ることが出来る代物となっている。
本書はこのソナー無くしては物語が成立しないほど重要な役割を果たす。

本書は海底を舞台にした作品であることからそれに関する知識や独特の常識がふんだんに盛り込まれているのが興味深い。

まずは水圧の違いだ。海底プラットフォームの〈うみがめ200〉は28気圧に保たれており、また潜水艦や潜水艇それぞれの気圧が異なることから単純に乗り移れないことが説明される。減圧して身体を慣らすのに1,2日単位の時間を要するなど、正直想像を絶する。

またHPNSという現象も面白い。ハイ・プレッシャー・ナーバス・シンドローム、即ち高圧神経症候群と呼ばれる超高気圧な場所に置かれた人間が被る幻覚症状だ。これがあるがために海底内で繰り広げられるソリトン生命体との遭遇やコンタクトなどを海上の人間に正直に話したとしても、彼らは先入観でHPNSに罹ったんだなと解釈して精神異常を起こしたとみなされてしまうことになる。従って〈うみがめ200〉のクルーは海上の助けを借りられずに自ら乗り越えることを余儀なくされるのだ。

それのみでなく海洋生物の生態についても詳しく述べられているのも実に興味深く読めた。

私が特に関心を持ったのがクジラの狩りの方法だ。
ザトウクジラは額から出す超音波ビームで餌となる魚の群れを探知して、複数のザトウクジラと連携し、ニシンの大群をクジラたちが描く円の中心へ追い込み、それをどんどん縮めてニシンの塊を作り、その塊の下に潜り込んで口をいっぱい開いてその群れに突っ込んで大量のニシンを食らうのだ。

一方マッコウクジラは強烈な超音波ビームを相手を気絶するために使ってダイオウイカといった大物を食糧とすると同じクジラでも狩りの仕方が全く異なるのだ。

さて本書の舞台は2016年の世界。そして本書が刊行されたのが1995年。そう、本書は近未来小説なのである。そして今更ながらに本書を読んだ私は既に2016年を5年も前に経験しており、哀しいかな、近未来小説にありがちな相違点に思わず苦笑せざるを得なかった。

まず台湾が地下鉄を作らずに光ケーブル・ネットワーク網を発展させ、国民のほとんどが在宅勤務を行っており、オフィスビルは空きがたくさんあり、朝の交通ラッシュもほとんど見られなくなっていると書かれている。これは日本人も同様らしいが、さすがにまだそこまで至っていないが、2020年のコロナ禍で日本の東京など大都市では在宅勤務が推奨され、実際に行われている事実があることを考えると実に先見的な話である。
そして日本では在宅勤務が定着して若い日本人がいわゆる3K仕事を選びたがらなくなっているとの記述はもしかしたらそう遠くない未来の日本の姿なのかもしれない。

また本書によれば2016年の時点では既に北朝鮮はとっくに無くなってしまっているらしい。

そして21世紀ではコンピュータの操作にはもはやマウスは使われず、多関節アームで固定された3Dペンを使って立体的映像の中で3次元的に操作しているとあるが、これもまだそこまでは行っていない。マウスはまだ健在である。

エイズ予防のCMが流れているのにも苦笑してしまった。

また台湾も反日派の中国から流れてきた国民党の台頭が21世紀になって世代交代によって勢力が衰えたとあるが、2021年の現在ではまだまだそんな平和は訪れていない。

但し、一方で作者の先見性や知識に驚くべき点はいくつかあり、例えば光ケーブルによるネットワーク網が発達していると書かれている点。
今では当たり前だが、1996年の時点ではまだADSLの前のIDSNが普及している時代である。ADSLが2000年に普及し、ブロードバンド元年と云われたそのまだ前にその次の光回線をこの時点で謳っていることがすごい。

更に軍用艦の内部のディスプレイにLEDが使われているとの記述だ。20世紀でLEDがディスプレイ照明の主流になっていると既に考えていることに驚嘆した。

また倉瀬厚志の娘美玲が8歳にしてオンラインでリカちゃん人形フルセットとデコレーションケーキを勝手に注文しているシーンが登場するが、これが今では、いや2016年の時点では全く以ておかしくない現代っ子あるあるであることに驚かされる。

さて私は梅原氏の作風が実にハリウッド映画的であると述べたが、このソリトン生命体のイメージをハリウッド映画『アビス』として想起した。
ポリウォーターと称される年度の高い水に変異するソリトン生命体は『アビス』に登場する不定形の未知の生命体のようだ。ちなみにこのポリウォーターは実際に旧ソ連の科学者ボリス・デルヤーギンが発表した新物質であるが、再現できなかったため現在では存在が否定されている。
つまりこの存在しないであろう物質を作品世界で再現した、当の科学者にとっては科学者冥利に尽きる設定である。

またこれら未知なる深海の生命体との戦いを描く海洋アクション小説である側面と、一方で未知なる生命体とのコンタクトに成功する映画『未知との遭遇』を彷彿とさせるようなハートウォーミングな側面を持っている。

また戦う敵は〈蛇〉で彼らが仲間に引き入れるのはタイタンボール。人類はタイタンボールを味方にして〈蛇〉と戦う。
そう、これはさながら『ゴジラ』シリーズを彷彿とさせる。
ただ変則的なのはタイタンボールには争うという概念がないため、実際に手を下すのは人間である。しかもコンピュータを介して精神をソリトン生命体に移送させた人間、主人公倉瀬厚志が戦うのである。これもまた映画『マトリックス』を彷彿とさせる。

そう、梅原氏は日本古来のエンタテインメントとハリウッドの大規模予算が投じられる超大作を結び付けるようなアイデアが得意なのだろう。

さてホロソナーはこの物語に重要な役割を果たしていると先述したが、このタイタンボールと人類がコンタクトするキーとなるのがホロソナーから発せられるリファレンス・トーンなのである。このソナーを介して最初はモールス信号でコミュニケーションを取り、やがて文字をディスプレイに映して文章で会話をするまでになる。

一方、今回の敵である〈蛇〉もまたホロソナーによって生み出されたことが判ってくる。実はこの敵は海上自衛隊の潜水艦〈はつしお〉が行ったホロソナーの高出力テストによって気が狂わされ、凶暴化したタイタンボールだったのだ。

ゴジラが人間の水爆実験で生み出された怪獣であるのと同様、〈蛇〉もまた人為的に生み出された怪物なのだ。

そして下巻になるとそれまで海底にいた〈蛇〉は海上へ浮上していく。ザトウクジラの群れを襲った〈蛇〉は海上へ逃げるザトウクジラによって崩された海の中に出来る水の層によって海上へ浮上するのだ。

そして今度は海上にいる軍用艦や支援船〈うみねこ130〉を襲い、その破壊行為によって生じる正弦波を餌にしだす。

一方それを成すすべなく、見ているしかない〈うみがめ200〉の人員はタイタンボールに自分たちの代わりに浮上して〈蛇〉を退治するよう提案するが、彼らはいわゆる争いという概念がないため、仲間同士で戦うことが出来ないといって拒否する。
この辺はゴジラとは異なり、単に味方につけた怪物同士が戦うといった構図にならないところがこの作品のアクセントだろう。

とまあ、次から次へと危機また危機を畳みかけながら、それに対してアイデアで難局を乗り越えていく、しかも何気ないエピソードが伏線となって機能するといった緻密な構成さえも感じさせるエンタメ要素満載の本書だが、登場人物それぞれにあまり好感が持てないのが難点だ。

まず海上自衛隊の潜水艦〈はつしお〉の富永艦長。彼は潜水艦に憧れて自衛隊に入った人物であり、通常海自では潜水艦乗りは早く卒業したいと思う部署だけに非常に珍しい人物である。そのため自分が愛する〈はつしお〉を降りること、即ち艦長の任を解かれることに恐れを抱き、そのためには任務遂行責任意識が高いとはいえ、自衛隊の最高機密であったホロフォニクス・ソナーと〈蛇〉の存在を知られることになった自分の部下の山田三佐や民間人の倉瀬達に対して演習と称して魚雷を放つ人非人である。

そして何よりも主人公倉瀬厚志とその別れた妻劉秋華の人物像はその最たるものだ。

倉瀬は直情型であり、また好奇心旺盛で自分が知らないでいることに耐え切れず、なんでも知りたがるタイプだ。

特に沈んだ潜水艇内にいる娘を助けるために海上自衛隊に援助してもらったにもかかわらず、彼らが禁じた事項に対して、納得がいかないためにガンガン扉を叩いて、ソリトン生命体の〈蛇〉をおびき寄せたり、軍の最高機密であるホロフォニクス・ソナーを無断で使用し、更にはそのことで〈蛇〉の存在を知ることで逆に海上自衛隊の潜水艦〈はつしお〉の富永艦長に情報漏洩防止として魚雷で命を狙われそうになれば、また最高機密を民間人に洩らしたことで援助のために派遣された副艦長の山田とその部下の西を辞職にまで追い込む。

いわばトラブルメイカーなのだ。
しかもそのトラブルは物語が進むにつれて単に個人の問題から他者の辞職問題まで発展させ、国家機密にまで及び、周囲の人々の命を脅かすだけでなく、甚大な自然破壊災害まで引き起こすという風にどんどんエスカレートしていく。
このような人物が企業の要職に就いている事が甚だ疑問だ。

更に元妻劉秋華も気の強い女性で事あるごとに別れた夫を罵倒し、余計な口を叩いては激昂させる。さらに思い通りにいかないと癇癪を起こし、自分に責任の一端があってもすぐに倉瀬のせいにしたりする。また倉瀬がソリトン生命体になる前も彼が娘を助けさせたくないという感情から自らソリトン生命体になろうとするが、精神が耐え切れずに挫折する。

つまりお互いが娘の親権を巡って常にマウンティングを取り合う、まさに夫婦としては最悪の2人なのである。

正直本書の評価はこの2人の主人公のパーソナリティに足を引っ張られたと云っていい。
彼と彼女が物語に没入し、そしてその活躍を応援したくなる好人物であったら本書は私にとって傑作となりえただろう。

作者梅原氏の科学に関する知識とそれを応用した未来像は魅力的であり、その想像力と創造力には素直に感心する。これで登場人物が魅力的であったらなぁとそればかりが残念でならない。

しかし本書はハリウッドのSF超大作に匹敵する、アイデアが豊富に溢れた一大エンタテイメント小説であるのに、今なお映像化の話が浮上しないのは残念でならない。現代技術で2016年ではなく、もっと未来の日本を舞台にしたこの作品の映像作品を見てみたいものだ。

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ソリトンの悪魔(上)ー日本推理作家協会賞受賞作全集(84) (双葉文庫) (双葉文庫―日本推理作家協会賞受賞作全集)
梅原克文ソリトンの悪魔 についてのレビュー
No.1406:
(7pt)

かつて日本ミステリが世界のクオリティに近づいた頃の短編集

日本人読者向けに編んだ『世界傑作推理12選&ONE』がよほど好調だったのか、続いて編まれたのが本書。但し前回の「&ONE」に当たる編者クイーン自身の短編は収録されておらず、代わりに日本人作家、当時日本を代表していた夏樹静子氏と松本清張氏からそれぞれ1編ずつ収録されているのが特徴的だ。

このアンソロジーの幕開けを担うのが執事ジーヴスシリーズが本書刊行20数年後に大ブレイクを果たしたP・G・ウッドハウスの「エクセルシオー荘の惨劇」だ。
イギリスの下宿屋で突然亡くなった船長の死因はコブラの毒によるものだった。21世紀の現代ならさほど珍しいとは思わないが本作が書かれた1914年はコブラのような毒蛇に噛まれると云う死因はあり得なかったのだろう。だからこそホームズの「まだらの紐」のトリックが当時は斬新であったがゆえに今なお語り継がれているのだろう。
被害者はその毒舌ぶりから決して周囲から好かれているわけではない船長だが、どうやってコブラの毒が彼に回ったのかは判らない。
正直事件の中身は小粒だが、事件を解き明かす意外な探偵役を立てた功績は大きい。

次は短編の名手エドワード・D・ホックの「三人レオポルド」。
流石短編の名手ホックである。上手い!そしてそつがない。
面白いのは通常ならば偽名を使った犯人を突き止めるというプロットになるのに、本作は逆に犯罪者が自分を逮捕しようとしている警官を突き止めようとする、しかもそれがシリーズキャラクターであるレオポルドであるところだ。しかしホックはミステリに求める水準をいつもクリアする安定した作家であると再認識した。

私は彼女は長編も書けるが短編もまた書ける作家だと思っていたが、それを証明してくれたのがルース・レンデルの「生まれついての犠牲者」だ。
いやあ、やはりレンデルは上手い!
いつもながら我々の周囲にいそうな「ちょっと困る人」をミステリのテーマに取り入れ、そして全てが犯罪に向かうように実に上手く物語を運ぶ。
本作では村に突如引っ越し来た発展的な都会派の女性ブレンダが実は自分の話とは異なり、それほど情事を重ねて訳でもなく、実は普通の女性だったことが発覚する。しかし妻に悪影響を与える前に最近起きた強盗殺人事件に見せかけて殺してしまおうと企む。
事件は上手く行くのだが、結末はいつものレンデルらしい皮肉を見せながら予想外の方向へ進む。
最後の運命の皮肉とも云うべきラストに読者が納得する形で結実するところがすごい。

やはりこの作家も選出されていた。EQMMの常連作家で短編の名手ヘンリー・スレッサーの「世界一親切な男」は本当に親切な男の話だ。
妻を過失とはいえ、死なせてしまった男たちに夫が仕組んだことは過剰なまでの恩返しだった。飲む・打つ・買うにそれぞれ執着する者たちに断酒をしようと決意すれば高級なお酒をしこたま送り付けて重度のアル中にし、女好きの男が自分にとって最高の女と結婚したかと思った矢先に、それをはるかに上回る美貌の女性を送り込んで、情事を起こさせ、妻を逆上させ、ギャンブル好きな男には定期的にギャンブル資金を送ってマフィアに借金までさせる。そう、それぞれが最も好む方法で人生を破綻させるのだ。

あまり知られていない作家だが、クイーンは別のアンソロジー『クイーンズ・コレクション』にも彼の作品を選出している。ハロルド・Q・マスアは当時現役の弁護士でもあった作家で「受難のメス」も裁判を扱ったミステリだ。
手術の失敗の訴訟から脱税容疑へと僅か30ページ足らずの作品なのに目まぐるしく展開が変わる本作は現役の弁護士の作品ともあって裁判や訴訟内容にリアルを感じさせ、実に読み応えがある。
本作で起きる殺人事件は半分以上も過ぎてであり、正直その犯人は見え見えのミスディレクションでミステリ読者なら容易に想像がつくだろうが、最後の一行は洒落ている。内容的にも小説としての面白みを感じる作品だ。

ジョイス・ポーターはシリーズキャラのドーヴァー警部が登場する「臭い名推理」が選出された。
正直云ってワンアイデア物である。確かにこの着眼点は面白いが、アンソロジーに選ぶほどの物かと云えば、ちょっと疑問だ。

パット・マガーことパトリシア・マガーはトリッキーな本格ミステリが特徴的だが、「完璧なアリバイ」はオーソドックスな題材のミステリだ。
上手い!起承転結がはっきりとし、しかも詰将棋の如く無駄なく妻殺しへと物語が収束していき、そしてツイストの利いた皮肉なラストへつながる。これぞミステリのお手本とも云うべき作品だ。

ビル・プロンジーニの「朝飯前の仕事」はシリーズ探偵“名無しのオプ”が登場する。
私は“名無しのオプ”シリーズの読者ではないので詳しいことは解らないが、てっきりハードボイルドもしくはサスペンス系の作風と思っていたら、本格ミステリで、しかも機械的トリックを使った非常に原理主義的など真ん中の内容であったことに驚いた。
しかし本書の読みどころは上流階級と下流階級の溝を扱っているところだろう。上流階級の者たちは下流階級を蔑み、また逆に下流階級は顎で使う上流階級を妬み、そんな2つの階級に横たわる断層を皮肉っている。

ドナルド・オルスンは初めて読む作家だが、その作品「汝の隣人の夫」は選ばれるだけの出来栄えだ。
これはウールリッチの有名作「裏窓」と編者クイーン自身の『中途の家』をうまくブレンドさせた佳作である。
月の半分も出張している夫エドワードとその間家を守る妻セシル。やがて隣に若夫婦が越してきて、しかも隣人の夫は若くてハンサムでいつも庭で筋トレをして逞しい身体を晒している。これが子供もいなくて不在がちな夫を持つ人妻の好奇心をそそらざるを得ない。
しかしそこで情事に至るのではなく、妻の妄想上の恋が日記に綴られていく。つまり実際に浮気は起きないのだが、いつも隣人夫との情事を想像しているがゆえにセシルは彼を意識して普通に接することができなくなる。
本作で書かれているのはミステリとしては実にありきたりなシチュエーションや動機なのだが、物語を一人家に籠りがちな妻の視点を中心に描き、彼女が書く妄想常時日記の内容に上手く読者を惹きつけることでサプライズを演出している。つまりそれほど奇抜な動機や登場人物の設定を案出しなくても書き方を工夫するだけで十分読み応えのあるミステリが書けるのだと証明した、良いお手本のような好編だ。

かつてはミステリランキングの常連作家だったピーター・ラヴゼイの「レドンホール街の怪」は捻りの効いた作品だ。
1979年に書かれた本作は前年に『マダム・タッソーがお待ちかね』でCWA賞を受賞し、まさに脂ののった時期に書かれた作品であり、たった20ページ強の作品なのにツイストを利かせた作品となっている。
素性の知らない紳士が間借人となっているが、彼を警察が訪ねて来て彼のことに疑惑が生じる。さらに追い打ちを掛けるように彼の借りている部屋は家具などが一切ないがらんどう状態。
家主は犯罪者に貸したのではないかと気を揉みながら警察が来たことを話すと、なんと1枚500ポンドから1,000ポンドほどの値がつく希少な切手ブラック・ペニイとブルー・タペンスを昔の間借人が壁紙代わりに一面に貼り付けたという逸話があり、彼はそれを手に入れるために部屋を借りたのだという。そしてそれは確かに存在し、自分はもう十分にお金を手に入れたので残りは全て家主に差し上げると述べる。
反転に次ぐ反転でしかも最後は詐欺なのか果たして真実なのかと疑問を投げかける抜群の結末を見せる。いやあ、まさに最上のミステリではないか。

クイーンの日本人推理作家のアンソロジーでは常連の1人である夏樹静子の「足の裏」は本当にありそうなお話である。
色々と考えさせられる話だ。人口3万5千人ほどの小さな市で起きた銀行強盗を端緒に由緒ある寺で昔から行われていたスキャンダルが暴かれることになる、まさに社会問題を扱ったミステリだ。
今でも行われているのか知らないが、本作ではお賽銭を寺の住職や僧や事務員たちも含めて山分けする慣習があるらしい。つまり新聞やニュースで報道されるお賽銭の金額は予め見積もられた金額であり、それよりオーバーした金額については関係者で山分けする習慣があるとのこと。タイトルはこの金銭を足の裏と呼ばれていることに由来する。
本作は昭和時代の作品だが、今にも通ずるテーマであり、令和の世でもあるのだろう。全く人間とは金銭に関しては成長していない動物なのだと思い知らされる。

さてアンソロジーの最後を飾るのはもはやクイーンにとってもお気に入りの作家となった感のある松本清張氏の「証言」だ。
愛人を囲うある会社の課長が逢瀬の時にたまたま家の近所の人間と出くわす。昭和のどこか淫靡な雰囲気漂うシチュエーションに、近所の人間が後日殺人事件の容疑者として逮捕され、自分の証言で無実になると究極の選択を迫られる。こんな時、あなたならどうすると読者自身の倫理観を問われるような作品だ。
今でも愛人報道は後を絶たず、ワイドショーの格好のネタとして大々的に報じられているが、昭和も平成も令和も男と女は変わらないことを思い知らされる。
そしてそんな窮地に陥っても主人公は逢っていないと自らの保身のために嘘をつきとおす。
本作の狙いは世の中嘘で凝り固まってできているという皮肉だ。それぞれが嘘で塗り固められた生活を送っていると警鐘を鳴らしているのだ。
これが冤罪の構図なのだろう。曖昧だった記憶が警察の執拗な事情聴取でやがて頭の中で事実にすり替わっていく。たとえそれが嘘であっても自分が信じたい方向へと脳が働きかけるからだ。
とにもかくにもついた嘘は自分に返ってくるという戒めの物語だ。


訪問すれば本格ミステリの巨匠として手厚くもてなされる日本人はクイーンにとっては実に愛すべき読者、ファンだったのだろう。日本人読者向けに『世界傑作推理12選&ONE』の続編として編まれたのが本書だ。
しかも収録作品はクイーンのアンソロジーに含まれた作品は―私の知る限りでは―ゼロであり、また前のアンソロジーとは異なって日本人作家の作品がたった12の席のうち2席をも占めるまでになったのは日本人読者に対するサーヴィス精神の表れだろう。

その中身は今回もまたヴァラエティに富んでいる。

殺人事件の犯人捜し、自分を逮捕する潜入捜査官探し、復讐譚に脱税、浮気相手との結婚を考えた妻殺し、窃盗、主婦の妄想恋愛、詐欺、そして冤罪。様々なヴァリエーションを駆使して質のいいミステリを提供している。

クイーンが日本人ミステリ読者のために向けて編んだアンソロジーだけあって実に粒揃いであるが、その中でベストを挙げるとすればルース・レンデルの「生まれついての犠牲者」とピーター・ラヴゼイの「レドンホール街の怪」、夏樹静子氏の「足の裏」になるか。

「生まれついての犠牲者」は名作『ロウフィールド家の惨劇』を彷彿とさせる、その事件の犯人が最初の一行目で解る導入部に始まり、登場人物全ての設定が最後の皮肉な結末へ結実する。
実に計算された作品だが、その人物設定が我々の周囲にいる誰かを彷彿とさせるため、じつにリアルに感じられるのだ。つまり情理のバランスが実に上手くとれている作品なのだ。

「レドンホール街の怪」が上手いのは最後のオチで真相の2パターンが想定されることだ。
しかもこの作品、たった24ページなのだ。う~ん、実に濃い内容だ。

「足の裏」は寺の住職たちの賽銭横領と云う社会問題を扱ったミステリ。とにかくこのスキャンダラスな真相が発覚するまでのプロセス、そしてそれを補強する物語の舞台設定が実に緻密なのである。
日本のどこかにありそうな全国で知られる有名な寺を観光資源として抱える小さな市という舞台設定とそこで起きた銀行強盗の事件という発端が最後の真相に寄与するきめの細かい物語運びに感嘆した。そして明かされる最後の真相については今でも行われているのではないかと考えさせられるものであった。

次点でドナルド・オルスンの「汝の隣人の夫」とを挙げる。前者の最後のオチはこの手の出張しがちな夫に対して最初に抱きやすい疑惑なのだが、それを妻の妄想を中心に描いたことで見事にミスディレクションに成功しているからだ。また本作はある意味、編者の『中途の家』の変奏曲な構成であるのも興味深い。

特に面白く感じたのはまだこの頃は機械的なトリックを扱った本格ミステリが書かれていたことだ。
また意外性を放つどんでん返しの作品、特に運命の皮肉めいた作品が多くあり、そしてそれらのアイデアは秀逸である。

クイーンは数多のアンソロジーを編んでいるが本書のようにEQMMに掲載した、自身が掲載検討した作品に基づくものが多々あったように思える。
しかし精選されたとはいえ、EQMMは月刊誌であり、現在も刊行が続いている雑誌である。従ってかなりの量の選から漏れた短編が蓄積されているはずだ。

隔月刊行されている早川書房のミステリマガジンでさえ、EQMMに掲載された短編は網羅されていないだろう。つまりかなりの数の埋もれた短編がEQMMにはあるはずなのだ。

エラリー・クイーン亡き後、それらが日の目を見ないのは悲しすぎる。やはりクイーンの衣鉢を継ぐアンソロジストの登場を望みたい。

本書収録作品は1976年から1980年と古典と呼ぶにはまだ早い時期の作品群が連ねているが、この頃はまだアイデアがそれぞれの作家で潤沢にあったのだろう。ほとんどの作家が鬼籍に入ったアンソロジーは、かつての名声を馳せた作家たちの最盛期の実力を知るにもってこいだった。

そして現代もまだこの流れは続いていると思いたい。短編集は売り上げが落ちると云われているが、これに懲りず、ミステリ好きな読者たちを唸らせる短編のアンソロジーを刊行する習慣は続けてほしいものだ。

しかしクイーンのアンソロジーに日本人作家の作品が2作も選ばれたことを考えると、日本のミステリも一旦は世界に認められ、世界に近づいたのだ。
しかし現代の日本人作家のミステリが劣るかと思えば、必ずしもそうではない。クイーンのような世界に発信する人物が欠如しているだけなのだ。

世界のどこかで本書のようなアンソロジーが編まれるとき、そこに日本人作家の作品が収録され、やがて日本人作家の作品ばかりで編まれたアンソロジーが世界で広まることを夢見て、本書の感想を終えよう。

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新 世界傑作推理12選 (光文社文庫)
エラリー・クイーン新 世界傑作推理12選 についてのレビュー
No.1405: 1人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(8pt)

子供の頃のワクワク感が想起させられる隠れた傑作

いやあ、なんとも気持ちの良い小説だ。久々に童心に帰り、ワクワクしながら読み進めることができた。

廃工場マニアの大学生コンビが訪れた鈴鳴という田舎町で絡繰りの天才が仕掛けた120年後に動き出すと云い伝えられている隠れ絡繰りの謎を追うミステリだ。

まず導入部が面白い。
大学の同じ講義で気になる美人学生の気を引くためにその子の素性を調べて出身地にある廃工場を特集した専門雑誌を2人で見ながらこれ見よがしに話して興味を引く。そして女子学生に話しかけられるよう仕向け、仲良くなろうという企みだったが、夏休みを利用して廃工場見学に行くのにその子の提案で一緒に行って、しかもその子の実家に泊まらせてくれると云う予想以上の収穫を得るのである。

美人学生の名は真知花梨。そして見事彼女の気を惹くことに成功した学生2人は郡司朋成と栗城洋輔という。

そして彼らが訪れる田舎村鈴鳴は昔は絡繰り職人の村として知られており、かつて磯貝機九朗という天才絡繰り師がいた。そして真知家と山添家というお互いに啀み合う2大地主によって二分されている村で真知家は林業で財を成し、鉱山と工場を、山添家は宿屋と川を使った運送業で財を成し、温泉旅館と観光業を営んでいたが、工場は既に閉鎖され、旅館も細々と経営している有様で、今は資産を売り払いながら生活している。しかし彼らが村の名士であることは変わりなく、皆彼ら一族には会釈をし、尊敬の念を抱く。そして真知花梨はその真知家のお嬢様なのだ。

そして彼女にはさらに女子高生の玲奈がおり、彼女は家ではおしとやかな名家のお嬢様ぶるが実は隠れてバイクに乗り、そして宿敵の山添家の息子太一といつも一緒にいる仲だ。

そして鈴鳴にはお戌様の祭りが行われ、この年は丙戌で60年に一度の本祭りの時期に該当した。そして村には機九朗が仕掛けた隠れ絡繰りがあり、それが120年後に動き出すと云い伝えられ、この年がそれに当たることからお戌様の本祭りに絡繰りが作動すると云われていた。

郡司と栗城に真知姉妹と山添太一、そしてもう1人、理科の高校教師で玲奈が所属する物象部の顧問であり、尚且つ機九朗の子孫である磯貝春雄が加わり、この隠れ絡繰りの謎に挑むというのが本書の大筋だ。

この鈴鳴と云う村が実に特徴的で絡繰り師の村であったからか、村の看板や標識にはやたらと凝った、いわゆる「判じ物」がところどころにあるのが特徴的だ。
「判じ物」で有名なのは「春夏冬 二升五合」と書いて「商い 益々繁盛(あきない ますますはんじょう)」と読ませる、とんち文のようなものだが、本書では道路の行先標識に「呼吸困難」と書いてあり、これを「行き止まり(いきどまり)」と読ませたり、「貴方ボトル」と書いて「郵便(You瓶)」と読んだりする。

そんな頭の体操めいた謎かけから物語はやがて天才絡繰り師磯貝機九朗の仕組んだ隠れ絡繰りの謎解きへと移り変わっていく。

やがて調べていくうちに機九朗が仕掛けた隠れ絡繰りが鈴鳴村全体を使った壮大な仕掛けであったことが判明していく。

しかし決してスリリングに、また陰湿に描かれるのではなく、どことなくのんびりとした感じで語られる。
これもお金持ちだからこその心の豊かさゆえだろうか、彼らと悲壮感は全くの無縁なのだ。

やがてそれらのエピソードを基に隠れ絡繰りの在処を突き止めるのは郡司朋成だ。

天才はあらゆることを想定しているからこそ天才なのだというのを我々読者は思い知る。

隠されたお宝を探し出すその過程でそれにまつわる人々の秘密もまた炙り出され、意外な真相へと辿り着く。
実はそれは本来ミステリとはこうあるべきだという理想形なのかもしれない。人が死なず、町に伝わる隠れ絡繰りの謎を探ると云うのは暗号で描かれた宝地図を読み解き、真相に一歩一歩近づいていく冒険小説の面白みがあり、胸が躍らされた。

本書は私にとって森作品のベストとなった。解りやすさもあるが、なにしろ登場人物全てに好感が持て、鈴鳴という架空の田舎村を舞台に広げられる物語の結末が実にほっこりとさせられたからだ。

確か本書はドラマ化されたが、私は観ていない。いや寧ろアニメ化、2時間枠のアニメ映画として観てみたい。細田守氏あたりがしてくれないだろうか。

森氏は常々人はたいてい人生にとって無駄なことに時間と労力を費やす非効率的な生き物だと述べる。しかし無駄なことが実は一番面白く、それが出来るのもまた人間だと説く。

天才絡繰り師磯貝機九朗が遺した120年後に作動する絡繰りは動いてしまえば何ともないことだが、それを動かす機構を観て感動を覚える。

しかし相変わらず森氏の描くキャラクタには魅力があるなあ。
本書に登場した郡司朋成、栗城洋輔、真知花梨と玲奈姉妹、磯貝春雄に山添太一はノンシリーズにしておくには実に勿体ない魅力を持っている。
そして実は最も存在感があったのは一度もその姿を見せない天才絡繰り師磯貝機九朗だ。彼は自分の仕事で天才性と先見性を示すことで誰よりも存在感を放った特異なキャラクタである。
森作品で天才と云えば真賀田四季を想起させるが、機九朗は彼女とは全く正反対の、無駄と思われることに全知全能を傾けて行う天才だ。それは彼の培った技術の粋を後世までに遺し、そして伝えたかったのかもしれない。
しかし一方で未来の日本人に対して「どうだ、これほどのことができるか」と自身の仕事を誇示するために作ったのかもしれない。彼が隠した真知家と山添家の秘密も含め、実に人間らしい天才ではないか。

本書は隠れた森氏の傑作としてぜひとも読んでほしい。そこにはこれまでのシリーズ作品には一切出てこない愛すべき隠れキャラの冒険が存分に盛り込まれているから。



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カクレカラクリ An Automaton in Long Sleep (講談社文庫)
No.1404:
(8pt)

サイコパスから街を守るのは不眠症の老人男女2人だった。

物語の舞台はキャッスルロックに並ぶキングの架空の町デリー。そう、あの大著『IT』の舞台となった町だ。

勿論その作品とのリンクもあり、“IT”に立ち向かった仲間の1人マイク・ハンロンは図書館々長となっている。

さて上下巻約1,280ページに亘って繰り広げられるこの物語はスーザン・デイという中絶容認派の女性活動家の講演を招致することでデリーの街が中絶容認派と中絶反対派に二分され、そして彼女がデリーの街に訪れるXデイに起こる惨事を主人公が食い止める話だ。

通常ならばまだ生まれぬ赤ん坊の命を絶つ中絶容認派の方が過激な思想集団のように思えるが、なんと本書では中絶反対派の方が容認派達を「赤ん坊殺し」と蔑んで、過激派の如く、容認派の中核団体である女性救援団体<ウーマンケア>を襲撃するのだ。

しかし途中で物語はスピリチュアルな展開を見せる。そして見えてくる物語の構造を端的に云えば、次のようになるだろう。

デリーの街に蔓延る異次元の存在。彼らが解き放ったサイコパスから街を守るのは不眠症の老人男女2人だった。

冗談ではなく、これが本書の骨子である。

本書の主人公70歳の老人ラルフと68歳のロイスが立ち向かうのは不眠症とエド・ディープノーという男、そして彼にも見えるチビでハゲの医者だ。

まずエドという男はいわば“隣のサイコパス”ともいうべき存在で、妻キャロリンがいた頃はエドとヘレンの間にできた娘ナタリーを連れてきて、恰も本当の孫のように見せており、そしてお互いの家に誘って食事をする仲でもあった。さらにエドはキャロリンが最期の入院をしていた時にも足繁く見舞いに行くほどの献身さを見せたものだ。

しかしスーザン・デイという妊娠中絶容認派の女性活動家の件になると彼は一変してサイコパスへと転身する。デリーの街に講演に来るよう誘致する嘆願書に妻のヘレンが署名したことを知ると彼は烈火の如く怒り、彼女に暴力を振るう。しかしそれは彼のDVが発覚することになった、いわば失敗であり、それまでにも妻のヘレンに暴力を振っていたことが明るみになる。

常に微笑みを絶やさない、好青年ぶりを発揮するエド・ディープノー。
しかし彼もまたオーラの世界と云う異次元を見る能力者であり、デリーの街が持つ特別な≪力(フォース)≫を知覚する人物でもあった。

さて本書で述べられる主人公ラルフの不眠症。実は私にも当てはまることがいくつかあり、背筋に寒気を覚えた。

通常の人が7分から20分のうちに眠りに就くが寝つきの悪い人は最長3時間はかかるらしく、そして浅い眠りが続き、一晩中起きていたかのような錯覚を覚える。

ラルフは妻が生きていた時は6時55分に目を覚ましていたが、それが6時になり、やがてそれが5時台、4時台、3時台と早まっていく。そして目が覚めた後はもうどうしてもそれから眠ることはできなかった。

更に寝不足のため、ごく単純な判断を下すのが困難に感じ、そして短期記憶が減退していく。

これは私にも大なり小なり当てはまることで、特にぐっすり朝まで寝たいのにいつも5時台に尿意を催して目が覚め、その後は寝付けなくなる。

寝つきが悪く、果たして睡眠を取ったのか判然としないことが1年に一回はある。

そしてケアレスミスが多くなり、しかも短期記憶の欠損をしばしば感じる。
他者が報告したと述べていることを思い出せないこともあるのだ。

従ってラルフの抱える苦悩は肌身に染み入るほど私事として捉えることができた。
本当に不眠症は辛いのである。

そしてラルフとロイスが不眠症が重くなるにつれて見えだすオーラの世界に住まう異次元の存在、3人のチビでハゲの医者たちと称される者たちはラルフが例えるギリシア神話の「運命の三女神」、クロートー、ラケシス、アトロポスと名乗る。

ギリシア神話ではこの三姉妹は寿命と死を司り、運命の糸をクロートーが紡ぎ、それをラケシスが割り当て、そしてアトロポスが断ち切る。つまりこの糸の長さが割り当てられた人の寿命を定める。

一方本書の彼らはクロートーが大きな鋏を持ち、ラケシスと共に行動する。彼ら二人は≪意図≫のエージェントで死すべき時が訪れた、即ちあらかじめ意図された死を与える。

一方残りの1人アトロポスは錆びたメスを持つ≪偶然≫のエージェントでいわば不意に訪れる死を与える。つまり災害によって亡くなったり、事故によって死んだり、もしくは何者かに殺されたりといった「不必要な死」だ。

彼らは生物に繋がっている風船紐を断ち切ることで死をもたらす。クロートーとラケシスはアトロポスが選んだ生物に死をもたらすことを止めることができない。そして彼は自分が死をもたらす人物の持ち物を持ち去る。それは大切にしている何かである。
時々我々もいつも使っているものが突然無くなり、どうしても見つからない時があるが、その時はこのアトロポスが持ち去っているのかもしれない。つまりその時は自分に死が訪れているのかも!?

しかしアトロポスが風船紐―医者たちの言葉を借りれば生命コード―を断ち切っても死ななかった存在、それがエド・ディープノーなのだ。
それはつまり彼こそがデリーの街を二分する騒動や不安をもたらしたマスターコード、災厄の種であるとクロートーとラケシスは述べる

ラルフとロイスは次第にオーラが見える力を安定させていく。

まず彼らは不眠症を重ねることでどんどん若々しくなっていき、その結果周囲の人たちから不眠症が治ったと勘違いされるが、これは彼らが周囲の人たちのオーラを頂戴する能力を備えているからだ。

しかし彼らが吸うオーラとはいわば生命エネルギーなのだが、それによって吸い取られた人たちがたちまち老いてしまうとか調子が悪くなるわけではない。
この力についてラルフとロイスに教えていたのはチビでハゲの医者たちだが、彼らによれば2人が飲み込むオーラの量は海の中からバケツで海水を救うほどのもので全く影響はない。
まあ、よく考え付くね、こんな理屈。

妊娠中絶容認派のスーザン・デイのデリー来訪による妊娠中絶反対派の原理主義者エド・ディープノーとオーラの世界で人の死を扱う3人の医者。この2つの世界を行き来する不眠症の老人ラルフとロイス。

なかなか構造が見えにくい物語だったが、ラルフとロイスにオーラの世界を知覚し、そしてオーラを自由に操る能力が授けられたのはある任務のためだった。

『IT』で登場したキングが創造したキャッスルロックに次ぐ架空の街デリー。この街には他の街にない特有の見えざる力が働くようだ。

忘却と災厄の街。
この呼び名がデリーには似合うようだ。

私の不眠症が解消されないのと同様に、またも誰かが不眠症にうなされそうだ。

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不眠症〈上〉 (文春文庫)
スティーヴン・キング不眠症 についてのレビュー
No.1403: 1人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(10pt)

狂おしいほどに切なく、そして悍ましいのに哀しい。

京極夏彦氏の百鬼夜行シリーズの中でもとりわけ評価が高く、2012年に週刊文春が行った『東西ミステリーベスト100』でのベストミステリー投票においても9位にランキングするなど、2作目にしてシリーズ代表作、いや京極氏の代表作となったのが本書『魍魎の匣』である。

そして読了の今、胸に迫りくるのは何ともすごいものを読んだという思いだ。
狂おしいほどに切なく、そして悍ましいのに哀しい。

1つ1つのエピソードが荒唐無稽でありつつも、決して踏み入ってはならない人の闇の深淵を感じさせ、見てはならないのに思わず見ずにいられないほど、つまり両手で目を塞いでもどうしようもなく指と指との隙間から見たくて仕方がない衝動に駆られる人外の姿に魅せられてしまう強烈な引力を放っている。

そんな話で構成される1000ページを超える本書で起こる事件は4つ。

柚木加菜子殺害未遂事件。

柚木加菜子誘拐未遂事件。

須崎太郎殺害及び柚木加菜子誘拐事件。

連続バラバラ死体遺棄事件。

この事件に加え、取り憑いた魍魎を箱に収めて封じ込める御筥様と云う怪しい新興宗教が関わってくる。

そして忘れてならないのは箱の存在だ。
この小説、実に箱尽くしである。箱、筥、匣の連続だ。

前作が関口巽を主体にした物語であれば今回は木場修太郎の物語であると云えるだろう。
職業軍人であった木場は終戦で敵を喪失したことで、新たな敵を違法者に見出し、刑事になった男だ。押しが強く、屈強な刑事の木場修太郎は幼い頃は絵を描くのが好きな神経質な子供で算盤の得意な几帳面な性格だった。そんな生立ちから正反対の現在の自身を鑑みて強面の鎧で装飾した中身の空っぽな箱のようだと称する。そしてその中身がどうやったら満たされるのかが解らないでいる。木場は自分の空っぽな箱の中身を見られるのが怖いため、女性との付き合いが苦手なままでいる。
しかしそんな彼が思わず自分の箱を開けようとする存在に出遭う。それは木場の憧れの存在、殺人未遂事件に見舞われた柚木加菜子の母でかつて銀幕スターだった元女優美波絹子こと柚木陽子である。彼の箱が柚木陽子で満たされ、彼は事件に本格的に関わるのである。

また幕間に挿入される久保竣公の小説「匣の中の娘」は乱歩の「押絵と旅する男」を彷彿とさせる。
久保竣公は処女作『蒐集者の庭』で幻想文学の新人賞を受賞した期待の新人で、「匣の中の娘」匣に収めた少女と旅する男を羨む主人公の男はぴったり匣に収まった少女を見て、自分も同じような少女を切望する。隙間なく過不足なく匣に収めることに執着する独白が延々と語られる。

そしてバラバラ死体の手足だけが収められているのが箱である。最初は相模湖に沈んでいた鉄の箱だったが、2回目からは桐箱。それがいくつも発見される。

更に御筥様として信者を集め、お祓いをしている寺田兵衛は以前はかなり腕のいい箱職人で<箱屋>と呼ばれていた男で、その突き詰める性格から箱に取り憑かれてしまう。

そして本書での最大の箱は美馬坂近代医学研究所である。この巨大な立方体のような建物もまた箱だった。

久保竣公が母親と流れ着いた九州の築上求菩提山に祀られている鬼神殿のご神体は箱であり、その中には壺が収められている。その壺の中にはその鬼神殿を開いた行者、猛角魔卜仙が退治した鬼が封じ込められており、その箱の名を<神秘の御筥>と呼んでいる。御筥様の由来がこの筥に由来するのは後に判明する。

では箱とは一体何なのだろうか?

ある者は部屋や家屋は箱であるといい、構えがしっかりしていても空では何の役に立たないといい、人もまた同じだと説く。

京極堂は箱には箱としての存在価値があり、中に何が入っているかは重要ではないと説く。

これら様々な意味合いを持った箱は最後に全ての謎が解かれると実に禍々しい存在へと転じる。結末まで読んでしまうと箱を開けたくなくなってくる。

ただ正直最初は実にまだるっこしく感じた。
2人の女子中学生、楠本頼子と柚木加菜子の2人が唐突に湖を観に行こうとしたところにいきなり加菜子が駅のフォームから落ちて列車に轢かれ、そこにたまたま出くわした木場修太郎が事件に関わるまでの顛末が延々80ページに亘って書かれるが、加菜子のすぐ傍に頼子が心神喪失状態で当時の状況をなかなか話さないままなのだ。

そして関口の非常に後ろ向きな自分の短編集出版の顛末に移り、カストリ雑誌編集者の鳥口守彦に最近起こっている連続バラバラ殺人事件の調査に相模湖に行ってそこで山中にある美馬坂近代医学研究所にいる木場と出くわす。

その後は楠本頼子の母親が入信している怪しい新興宗教の御筥様が現れて、本書の主題である魍魎がこの家に取り憑いているとのたまう。

やがて頼子は加菜子をプラットフォームから突き落としたのは黒い服を着た男だと木場に話して再び美馬坂近代医学研究所を訪れ、どうにか面会にこぎつけるがなんと入院していた加菜子は衆人環視の中、忽然と消え去る。
ここまでが230ページ強だ。

そんな長い下拵えを過ぎてようやく京極堂が登場するとそこからはもう無類の面白さを誇る。どんどん先を読みたくなってくるのである。

しかし何とも不思議な小説である。
通常であればこれだけの1,000ページを超える大著ならば長さ、いや冗長さを感じるのだが、それがない。確かに導入部はまどろっこしさを覚えたが、気付けば300ページ、400ページ、500ぺージが過ぎている。つまり既に通常の小説1冊分を読み終えているほどの分量なのだが、それでも物語はまだまだ暗中模索の状態。
では無駄なエピソードがいくつも書かれているのかと云えば、決してそうではない。全てが結末に向けて必要な要素であり、そしてそこに向かう登場人物たちの行動原理や動機が無駄なく描かれているのが判ってくる。

さてこのシリーズでは物語の序盤―とはいえ270ページを過ぎた辺りなので通常の長編であればだいたい中盤に当たるのだが、1000ページ超の本書ではそれでも十分に序盤なのだ―に開陳される京極堂の長々と続く説法が物語のキーとなっているのが特徴だが、本書で開陳されるのは宗教者、霊能者、占い師、超能力者についての話だ。これが実に興味深かった。

これらにどこか似て否なる者たちを京極堂は見事に解説する。

曰く宗教者は自らの信仰の布教を目的としており、そのための奇跡を起こす。信仰の姿勢や教義自体に問題なければ簡単に批判糾弾を加えるわけではない。

霊能者は信仰や布教を目的としておらず、信者を救済するのを目的としている。しかしこの霊能者自身を信仰の対象として布教を図る宗教者もいる。さらにバレない限りどんなペテンも許される。

占い師は営利目的の占術理論に基づいて吉凶を占う者だ。ある程度のペテンは容認できるが、祈祷や供養は畑違いなのでそれを売り物にしている占い師には注意が必要。

そして超能力者は特殊な能力を持った者で全く異質の存在。本書の登場人物の1人榎木津はこれに当たる。従ってペテンは一切許されない。

私が今回目から鱗だったのは過去のことを云い当てるのは情報収集によって可能であるため、本来未来予知ができることに存在価値があるのに過去のことをやたらと云い当てる占い師は信用できないという件だ。そして未来のことは解らなくて当然だから大概外れるのが道理だから別に占い師の云っている未来が当たらなくても苦情は出ないだろうし、逆に当たれば感謝されるだけなのだ、寧ろ外れるものなのだという解釈はなかなかに興味深い。

そして霊能者の祈祷お祓いの類は今後どんなことが起きると明確に云わずに、今お祓いしないと悪いことが起きる、壺を買わないと幸せになれないと云うだけで、もし祈祷や壺を買って、幸せになれなくても信仰心が足らない、供養が足らないと云ってさらに寄進を募る仕組みなのだ、云々。

人によってこれらの解釈には異存があるとは思うが、今までこれら4種類の存在について深く考えたことがなかったのでこのあたりの説明はついつい引き込まれてしまった。

ところで本書には奇妙なリンクが見られる。それは他の新本格作家の世界とのリンクだ。
登場人物の一人、小説家の関口巽が寄稿している出版社の名前を稀譚舎といい、京極堂こと中禅寺秋彦の妹敦子が勤めている会社でもある。

この稀譚舎、一部名前が異なるが綾辻行人氏の館シリーズに登場する出版社の名前なのだ。『迷路館の殺人』の作中作が稀譚社から出版されているのだ。
「舎」と「社」の違いはあるが、これも時代の違いだろう。本書は昭和27年の時代設定であり、一方の館シリーズは現代で『迷路館の殺人』当時は昭和63年なので、この間で社名が変更になった可能性はある。
いずれにせよ京極氏による先達のシリーズ作品へのオマージュだと云えるだろう。

そして忘れてはならないのは本書のモチーフとなっている妖怪、魍魎だ。

我々が日頃使う“魑魅魍魎”と魍魎は異なるらしい。魑魅魍魎とはそれ自体が成語であり、いわゆる妖怪全般を表した言葉だ。ちなみに魑魅は山のモノや山神とされ、魍魎は水のモノや水神と区別できるが、孔子が魍魎は木石の怪と云ったことからそちらの説も罷り通っており、いわば川のモノで水神でさらに木石の怪と様々な説が繰り広げられている。

しかし古代中国では帝の子供であるという神話があり、その姿は三歳児くらいの大きさで眼が赤く、耳が長く、体は赤みがかった黒、頭にはしっとりとした黒髪を湛え、人間の声を真似て人を惑わすとあり、これが現代まで妖怪を伝承する鳥山石燕が『画図百鬼夜行』に描いた魍魎の姿の基となっているようだ。従って本書で表紙になっている紙人形もこの姿を基に造形されている。
そして魍魎は死骸を食らう化け物である。

しかしどうもやはり魍魎とは呼称であり、様々な妖怪をひっくるめて指す総称と考えるのが一番だろう。
私が今回魍魎を示す内容で一番腑に落ちたのは箱詰めにされた久保竣公の姿を好奇心に駆られて見ようとする関口を思い留まらせようとした京極堂の言葉だ。

魍魎とは即ち境界である。

つまり人が人であるための領域と狂人の、人外の領域とを分け隔てる境界、それが魍魎なのだ。
やはりそういう意味では魍魎は妖怪の総称と云っていいのではないだろうか。

また本書では京極堂中禅寺秋彦、関口巽、木場修太郎、榎木津礼二郎、そして中禅寺の妹敦子に加えて新キャラが登場する。

カストリ誌『實錄犯罪』の編集者鳥口守彦はお惚けキャラと見せかけて実は京極堂の話を関口よりも理解し、彼の意を汲んで行動できる男だ。

里村絋市は外科医院の開業医だが解剖が好きなために監察医の仕事をしている風変わりな男だ。

伊佐間一成は京極堂と関口の共通の友人で町田で『いさま屋』という釣り堀を経営している。彼は物語の最後で重要な役割を果たす。

川島新造は木場の戦前からの友人で戦時中は甘粕正彦の腹心の一人として働いた男。小さな独立プロダクション『騎兵隊映画社』で映画製作をしている。
私は最初この男のモデルは実在した映画監督川島雄三だと思ったが、その風貌は雲を突くような大男で兵隊服を着ていて頭をつるつるに剃り上げており、普段はサングラスをかけていると筋萎縮性側索硬化症を患い、早逝した小男だった川島氏とは大きく異なる。どちらかというと攻殻機動隊に登場するバトーを彷彿させる。

また本書のオカルティックな作品世界を彩るのに昭和27年という時代設定がかなり活きている。

カストリ誌がまだ広く読まれ、そして昭和27年5月に起きた荒川バラバラ殺人事件が起き、更に私も学研の書籍で読んだ「千里眼鑑定」が行われていた時代である。そして本書でも箱を持った黒服の黒い手袋をした男が子供たちを攫って行くと云うデマが流れる。

そんな何か見えない物が潜んでいてもおかしくない時代の話であることが妖怪が存在してもおかしくないと人々に思わせるからこそ独特の雰囲気を備えているのだ。

なんと恐ろしき事件でありながらもなんとも素晴らしい構築美を備えた小説であることか。

それを特に感じさせるのがそれぞれの場面に書かれた心理描写が巧みなダブルミーニングであることに気付かされるからだ。物語の順を追って読んでいく時に感じる登場人物の心理と真相を知った後で同じ場面の心理描写を読むと全く意味が異なってくる。
そしてそれが実に的確にその時の本当の登場人物の心情が吐露されていることに気付くのである。

匣尽くしの本書と述べたが、本書の謎という匣が開いた時、我々が知らされるのは究極の愛の形、究極の幸福の姿だった。

我々は常に安心を求めて生きている。
誰しもが何の不自由もなく、トラブルもなく、その日その日を一日一日つつがなく過ごすことを求めて日々生きていく。そしてそれを人は幸せと呼ぶ。

しかし不思議なことにその幸せは永くは続かないことを我々は知っている。
不安や不幸がいつかは訪れることを知りつつもそれが来ないように願いながら、一日でも永くこの幸福が続くように目の前にある問題を解決して、もしくはそこから目を背けて生きている。

しかし不幸が決して訪れない幸せな生き方があることを本書は示してくれた。それは人であることを辞めることだと。

もういっその事、狂ってしまおうかしらと。

通り物が楠本頼子を唆し、火車によって亡骸を奪われ、そして魍魎によって死者は掘り起こされ、匣の中に入れられた。

怪奇と論理の親和性という本来相容れない2つを見事に結び付け、そして我々を途方もない人の道の最北へと連れて行った本書。
妖怪と医学という人外の物と人智の極致が正反対であるがゆえに実は背中合わせほどの近しい狂気の産物であることを見事に証明した神がかった作品である。

島田氏の提唱した本格ミステリの定義の理想形がここにある。確かに本書は今後読まれるべき作品であった。

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魍魎の匣―文庫版 (講談社文庫)
京極夏彦魍魎の匣 についてのレビュー
No.1402:
(7pt)

温故知新とはまさにこのこと!

クイーンはいくつものアンソロジーを編んでおり、その中に『黄金の12』というものがあるが、本書はなんと日本読者のために編まれた新たな12編に自身の短編1編を加えたものだ。これだけで生前のクイーンがいかに親日家だったかが推し量れる。

そして恐らくは来日したときに交流した日本ミステリ界の関係者たちとの歓談から日本人読者が古今東西のミステリを満遍なく楽しむ気質であることを察したのであろう、本書は古典から編まれた1977年当時の現代ミステリまで、更にアメリカのみならず西欧のミステリも対象に幅広く短編が選出されている。

まず開巻一番の作品はエドナ・セント・ヴィンセント・ミレーの「『魚捕り猫』亭の殺人」だが、これは『犯罪文学傑作選』に選出された「『シャ・キ・ペーシュ』亭の殺人」という短編で、既読済みなので敢えてここでは触れないでおく。

その題名はこの作家よりも別の作家の雄名作を想起するのではないか。「世にも危険なゲーム」はギャビン・ライアルの長編ではなくリチャード・コンルの短編だ。
マンハント物は今でも数多く書かれており、様々な趣向が凝らされてはいるものの、だいたい生き残りを賭けた鬼気迫る戦いであったり、強者どもが一堂に会してバトルを繰り広げるゼロサムゲームであったりと概ね構成は似ている。本作も全く以てその域を出ていないが、なんと本作が書かれたのは1925年なのだ。前掲のライアルの近似題名作が刊行されたのが1963年となんと40年弱も先んじている。つまり本作はこのサバイバルゲーム物の源流なのだ。
まさに命を懸けたチェスゲームが繰り広げられる。その内容は長編ネタといっていいほど濃いもので短い話の中に凝縮されており実に面白い。
最後の結末も洒落ており、今なお鑑賞に値する傑作だ。

アガサ・クリスティは英国ミステリの女王だが、本書収録の「うぐいす荘」は本格ミステリではなく、サスペンス物だ。
クリスティによる青ひげ譚。
奇妙な余韻が残る作品だ。

次の2編は題名のみかなり前から知っていた作品だ。

今なお現代作家がその真相を解き明かそうと数々の著作が出されている切り裂きジャック事件をモチーフにしたのがトマス・バークの「オッターモール氏の手」だ。
これは明らかに切り裂きジャック事件をモチーフにしているというよりも作者なりの切り裂きジャック事件の犯人の推理の披露ではないか。今に通ずるサイコパスの怖さを思い知らされる1編だ。

そしてヒュー・ウォールポールの「銀の仮面」は1933年に書かれた古典ではあるが、その内容は現代に通ずる怖さを持っている。
そう、これはアカデミー賞を受賞したある有名な作品そのものだ。このモチーフは荒木飛呂彦氏もマンガで扱っていた。本当の悪党は微笑みながらやってくる。そして善人はいつの時代も悪人たちの餌食にされるのだということをまざまざと描く。

ドロシー・L・セイヤーズといえばピーター卿シリーズだが、本書収録の「疑惑」はノンシリーズの1編だ。
イギリスの古典には毒殺物が多い。それはかつて毒殺魔と呼ばれる稀代の殺人鬼、しかも医師だったり、婦人だったりと、とても殺人を犯しそうにない人物が行っていたセンセーションなギャップがよほどミステリ作家陣にも受けたのではないだろうか。
本作もまたその毒殺魔、いや毒殺婦の系譜に連なる作品になる。少ない登場人物で繰り広げられる疑惑劇だが、今ならば特に意外な展開ではないオーソドックスな作品だ。

一方ベン・ヘクトの「情熱なき犯罪」は完全犯罪がほんの些細なことで崩れるという典型的な話だが、こちらは捻りが実に効いている。
いやあ、完全犯罪がもろくも崩れ去る小説をこれまでいくつも読んできたが、最後にそれが自分を容疑のど真ん中に陥るという反転の鮮やかさは技巧の冴えを感じる。

次のウィルバー・D・スティールの「人殺しの青」は曰く付きの馬を手に入れた牧場一家に訪れた悲劇を扱った作品だ。
人を殺して手に入れた馬は実は人を襲う荒くれ馬だという反転からさらに作者はもう1つ反転を仕掛ける。田舎の閉鎖された空間では何でもないことが狂気を生み出すということだろうか。

まさかこの作品が読めようとは思わなかった。世評高いスタンリー・エリンの「特別料理」はいわゆる乱歩が称した「奇妙な味」の代表作だ。
実に上手い短編である。正直題名からどんな結末か解るような内容だが、エリンはそれを状況を仄めかせ、そして敢えて書かないことで読者に行間を読ませ、「特別料理」の正体がなんであるかを悟らせる。エリンはこの作品でエラリー・クイーンズ・ミステリ・マガジンのコンテストで最優秀処女作特別賞を獲ったとのことだが、まさにそれに相応しい1編だ。

シャーロット・アームストロングの「敵」は『黄金の13/現代篇』で既読済みなので感想は割愛する。

どちらかというと私立探偵小説作家の色合いが強いジョー・ゴアーズだが、クイーンのお眼鏡に適ったのが「ダール アイ ラブ ユ」だ。
1962年の作品のため、パソコン通信やインターネットがない時代であるため、情報のやり取りの手段はごく一部の機関にあったテレタイプであるが、本作の内容は現代に通ずるものだ。
突然夜中に一通の入電があり、それは彼のことを慕う女性からの物。思わず浮き立つチャーリーは相手の気を引こうとなんと上司を失脚させる暴挙に出る。
それが原因で上司が散弾銃で自殺すると彼女の居場所を必死になって突き止めるが・・・。
ある意味当時の時代を考えれば本作は意外な結末を持ったSFだろう。
う~ん、この内容はSNSや出会い系サイトなどが発展した今こそ実に身に染みる作品ではないだろうか。

『サイコ』で有名なロバート・ブロックの「ごらん、あの走りっぷりを」はある脚本家の手記で語られる作品だ。彼は統合失調症なのか被害妄想の気がある。彼は精神科医のカウンセリングを受けているが自分が不当に虐げられていると思ってやまない。また彼は女優の妻を持っているが、彼女のことも疑っている。脚本家とは結び付きそうもない奇妙な題名は彼が思い出した童謡『三匹のめくらねずみ』の中の歌詞の一節である。
今となっては特に珍しくない狂える男の末路である。

最後のエラリイ・クイーン自身の短編「三人の未亡人」は『クイーン検察局』所収の「三人の寡婦」で既読済みなのでここでは感想は省くことにする。


エラリー・クイーンが―というよりも既に片割れのマンフレッド・リーは鬼籍に入っていたため、正しくはフレデリック・ダネイだが―来日して日本のミステリ作家と交流を持ち、親日家になったことは有名で、その後3冊もの日本のミステリ作家の作品で傑作選を刊行するまでになった。
幸いにして私はそれを読むことが叶ったが、更に日本の読者のために海外ミステリ作家の12選を編んだことは偶然古本屋で見かけるまで知らなかった。調べてみると日本のために組んだ独自のアンソロジーは『日本文芸推理12選&ONE』と『新世界傑作推理12選』があるようだ。

パズラー作家のイメージがあるクイーンだが、本書では本格ミステリに拘泥せず、スリラー、ホラー、奇妙な味系と多種多彩な作品が収録されており、クイーンのアンソロジストとしての腕前を存分に披露する形となっている。

更に年代も幅広く、古くは1923年の物から新しいもので1973年と50年に亘る作品群の中からセレクトされている。

但しここに収録されている作家はどちらかと云えばクイーンの数あるアンソロジーでは常連ともいうべき作家が多く、クリスティ、セイヤーズ、ベン・ヘクト、エリン、アームストロング、ゴアーズ、ロバート・ブロックがそれに当たる。また全てが初選出作ではなく、3作が私にとって既読の作品であった。

但し、本書はこれまでのアンソロジーの中でもかなりレベルの高さを誇った。従ってベスト選出には実に迷わされた。

例えばベン・ヘクトの「情熱なき犯罪」は殺人犯がある特性を活かして、偽装工作を細密にしていくのが面白いし、その工作が自分のミスで逆に自分の犯行動機を裏付ける証拠になってしまう反転が見事だ。

また世評高いスタンリー・エリンの「特別料理」も噂に違わぬ傑作だ。
今まで食べたこともない極上の「特別料理」の正体は、さすがに似たような作品が流布している現代では容易に想像できるが、エリンの優れたところは敢えて核心に触れず、周囲の状況を主人公2人の会話で仄めかせ、徐々に読者に悟らせていくところにある。まさに引き算が絶妙になされた作品なのだ。

そんな傑作ぞろいの中で選んだベストは2つ。リチャード・コンルの「世にも危険なゲーム」だ。もはや数多書かれたマンハント物だが、実は1925年に書かれた本作がそれらの源流なのだろう。そして原点である本作は今なお読むに値するほど趣向が凝らされている。

普通の狩りでは満足しなくなった狩猟狂の将軍が人間を狩ることに快感を覚え、わざと獲物が自分が所有する島に迷い込むように暗闇の灯火を照らして島の岸壁に激突させ、島に流れ着いた船員たちを捕えて、獲物にする。しかもその方法は3時間先に逃げさせ、将軍が彼らを追って狩るというもの。3日間逃げおおせたら自由を与えるが、将軍は切羽詰まると犬を放って探すなど、決して獲物を逃がそうとはしない。

そんな殺人ゲームに巻き込まれた冒険家の1対1の戦いはわずか40ページ足らずの作品で語るには読み応えのある内容で短編であるのが勿体ないくらいだ。
最後に対峙する二人の決闘シーンの結末の付け方も実に上手い省略の仕方で逆に勝負の行方が際立ち、カタルシスを感じる。作者のコンルは本作含め2作しかミステリーを書いていないというから驚きだ。

もう1作はヒュー・ウォールポールの「銀の仮面」だ。
まさにアカデミー賞を受賞した映画と同じような侵略譚が繰り広げられる。その入り込み方が実に巧みでマダムの人の良さに上手く付け入り、あれよあれよと取り入って監禁にまで至る様は実に恐ろしい。昨今問題になった洗脳事件を彷彿とさせる。

今なお脈々と続くマンハント物、ゼロサムゲーム物の原典を生み出した偉大なる先達と現代社会に今なお蔓延る侵食する一家の恐ろしさを生み出した先達に敬意を払ってこれら2作品をベストとする。

現在エラリー・クイーン作品の再評価が始まっており、これまでの作品の新訳が精力的に進んでいる。
角川文庫の国名シリーズの新訳版が表紙を美男子化されたクイーンを配することで購買層が広がり、そして今は早川書房がライツヴィルシリーズまでが新訳刊行されており、この私も長らく絶版で手に入らなかった作品を新訳で入手できる恩恵に預かっている。

一方アンソロジーも東京創元社が復刊フェアで折に触れ復刊しており、これまた恩恵に預かっている。
しかしこの光文社文庫で刊行されたクイーンのアンソロジーはそのような兆候は全く見えない。

本格ミステリ作家としてのクイーンの再評価が高まる今、アンソロジストとしてのクイーンにもスポットライトを当て、復刊してはどうだろうか?

クイーン自身の評価ではなく、彼が紹介した今でも読むに堪えうる傑作がこのまま埋もれていくことは何とも惜しいのだ。

ミステリの遺産を、文化を継承していくためにも節目節目で復刊活動はされなければならないだろう。

しばらくクイーンのアンソロジーからは離れていたが、本書を読むことでまた再燃してしまった。次はもう1つの『新世界傑作推理12選』にも可能であれば手を伸ばしたいと思う。

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世界傑作推理12選&ONE (光文社文庫)
No.1401: 1人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(7pt)

キングなのにホラー作品のないヴァラエティ豊かな短編集

4分冊で刊行された短編集“NIGHTMARES & DREAMSCAPES”も本書でとうとう4冊目を迎える。

最終巻の劈頭を飾るのは「第五の男」。
なんと開巻して始まるのはホラーでもファンタジーでもない、エルモア・レナードやドン・ウィンズロウを彷彿とさせるクライムノヴェルだ。
現金輸送車を襲い、大金を手に入れた強盗一味のうちの1人、友人を殺された男が彼らに復讐する物語だ。
実に真っ当なクライムノヴェル。これと云ってキングならではといった特色がないとも思えるが、主人公が服役していた刑務所がショーシャンクであったのが唯一のキングテイストか。

次の「ワトスン博士の事件」はその題名からも判るようにキングによるホームズ譚だ。
いやあ、まさかキングがホームズ物のパスティーシュを書いているとは思わなかった。本作はしかし作者がキングとは解らない、真っ当なパスティーシュである。
またホームズ譚であるだけでなく、これはキングによる本格ミステリでもある。しかも王道の密室殺人事件であるところも憎い。きちんと伏線とトリックが仕掛けられているところも堂に入っている。
家族の個性を活かしたトリックとホームズ物のアンソロジーに選出されても遜色ない出来栄えだ。
ホームズ譚の中にキング作品のメインモチーフである家庭内の支配的な存在として振舞う父親が盛り込まれており、さらに事件の真相はクリスティのある有名作品を彷彿とさせる。そういえば構造的には「メイプル・ストリートの家」と同じではないか。
しかし最も驚いたのは密室であることの必然性にも言及されていることだ。密室内で明らかに他殺と見える殺され方をした場合、実は関係者にとっては不利にしかならない。密室で死んだ場合、事故死もしくは自殺に見せかけることが自分たちを容疑の外へ置くことになるからだ。この密室が密室殺人に切り替えざるを得なかったというところもキングは本格ミステリの何たるかを理解していると云えよう。
このように本作は実に綿密に設定されたホームズ譚なのだ。やるなぁ、キング!

「アムニー最後の事件」はチャンドラー張りのハードボイルド物、と思いきや意外な展開を見せる。
今度はキング版フィリップ・マーロウの登場かと思いきや、やはり一筋縄ではいかない。
1939年頃のヒットラーの写真が新聞の一面を飾る時代、つまり第2次大戦時代を舞台設定にしたハードボイルド小説を10年間書いてきた作者サミュエル・D・ランドリは5冊のアムニーシリーズを著し、好評を得ていたが、5冊目を書いた後に現実世界では息子のダニーがブランコから落ちて頭を打って、大量の出血があったので輸血したところ、その血液の中にエイズウイルスが入っており、間もなく息子は亡くなってしまう。妻は息子の死で鬱病になり、1年後の息子の命日に自殺、作者自身は全身を侵す帯状疱疹に悩まされてしまう。
恐らくこの物語は長編ネタとして考えていたのではないか。物語は広がりを見せることも可能だったろう。しかしキングはこの物語にあっさりと決着をつけてしまう。
突飛な設定すぎて何とももやもやの残る作品となった。もっとうまく書きようがあっただろうに。

最後の「ヘッド・ダウン」はキングの息子オーウェンが所属するリトル・リーグの野球チーム、バンゴア・ウェストが18年ぶりに州選手権に出場し、勝ち上がってその年のメイン州のリトル・リーグ・チャンピオンになるまでを綴ったノンフィクションである。
これが何とも面白い。小さな町のまともなユニフォームさえもない一少年野球チームが個性を発揮し、3人のコーチの指導と采配の許で名うての強豪チームたちと立ち向かい、勝ち上がっていく展開はなんともドラマチックだ。
そして12歳の少年たちで構成されるリトル・リーグの少年たちのなんと瑞々しいことか。メンバー1人1人に個性があり、キングはそれを実に上手く描き分けている。
普段は普通の少年たちである彼らは時に四つ葉のクローバーを見つけてチームのムードを良くしたり、また週刊誌の乳癌検査の広告に出ている女性の乳房の写真に興奮するませたガキたちでもあるが、コーチの熱心な指導を従順に聞き、一心不乱に野球に打ち込む純粋さがある。
特にコーチの1人が話すエピソードが印象的だ。普通の学校生活を送っているだけならば知り合うこともなかった子供たちが裕福な家庭の者も、貧しい地区で育った者も隣り合って笑い合うことができる。それが同じチームで同じスポーツに励んで汗水流すことでそんな奇跡が起こるのだと。
丸いボールが丸いバットに当たることの奇跡とそれを実現することを許された者たちが起こす感動とその奇跡を現実のものにしようと子供たちに指導する熱心なコーチと抜きん出た才能と選手としての心を持つ少年たちがいることで成し得た勝利の数々。彼らは勝ちたいからこそ頑張っているだけだ。その姿と過程が親たちの、いや野球を愛する者たちの心を動かすのだ。
そして野球が、いやベースボールがアメリカ人にとってかけがえのないスポーツである様がバンゴア・ウェストが勝ち上がる顛末やそのチームに関わり、熱意を持って指導するコーチたちの姿から立ち上ってくる。
州のチャンピオンになった瞬間、少年たちの親たちが涙を流しながらフェンス越しにみな手を伸ばして、子供たちに触れて祝福してやりたくて仕方ない様は胸を打つ。
以前はベースボールがアメリカの国技だったが、今はアメフトとなっている。しかし私は本作を読んでベースボールはアメリカ人にとってソウル・スポーツ、即ち魂が求めてやまないスポーツではないかと感じた。

それは表題作「ブルックリンの八月」を読んでさらに強くなる。この作品はキングによる詩であり、内容は野球賛歌だ。56年6月のエベッツ・フィールドの1シーンを描いた詩である。

そして本書には最後にボーナストラックとともいうべき短編がキング自身による解説の後に収録されている。最後の短編「乞食とダイヤモンド」は童話だ。
さてこの話の教訓とは何なのだろうか。


冒頭でも述べたように本書は短編集“NIGHTMARES & DREAMSCAPES”の最終巻である。
モダンホラーの帝王と評されるキングだが、本書はそれまででもホラー以外の様々なジャンルの短編が収録されていたが、最終巻の本書でもそれは変わらない。

クライムノヴェルあり、ホームズ物のパスティーシュ(!)あり、ハードボイルドあり、そしてノンフィクションあり、そして詩に童話とこれまでで一番ヴァラエティに富んだ作品集となった。
何しろキングの十八番であるホラーが1編もないのだ。
そしてそれらはまさにその道の作家が憑依したかのような出来栄えである。いやはやキングの才能の豊かさに驚かされるばかりだ。

特に本書では偉大なる先達たちのオマージュの作品が複数あるのが特徴的だ。

「第五の男」はレナードを彷彿させるクライムノヴェルだし、世界一有名な探偵ホームズに「アムニー最後の事件」では作中の人物がレイモンド・チャンドラーのフィリップ・マーロウシリーズのキャラクターから引用していると述べている。

さて本書のベストは「ヘッド・ダウン」を挙げたい。ホラーでもなく、フィクションでもない、作者自らがエッセイと述べているノンフィクション作品は自分の息子が所属していたリトル・リーグ・チーム、バンゴア・ウェストが勝ち上って1989年度のメイン州リトル・リーグ・チャンピオンになるまでの足取りを描いた作品だ。

時にスポーツはフィクションを超える感動をもたらすが、本作もそうで、まともなユニフォームさえもない地方の一少年野球チームがコーチ3人の指導の許、勝ち上がっていく様子が実に楽しい。

そしてこんな劇的な出来事を目の当たりにしたキングはこのことを書かずにはいられなかったのだろう。記憶に留めるだけではなく、記録に留め、そして親バカと云われようが、作家と云う特権を活かして読者に触れ回りたかったに違いない。
まさに親バカ少年野球日誌。
しかしそれがまた実に面白いのだから憎めない。

次点として「ワトスン博士の事件」を挙げる。キングによるホームズ物のパスティーシュである―おまけに密室殺人事件を扱った本格ミステリ!―という珍しさもあるが、実によく出来た内容で驚かされた。
ホームズ物のパスティーシュでは正典で書かれなかった理由もまた1つの趣向であるが、本作はそれもまたきちんと設定されており―まあ、ありきたりではあるが―、内容もなかなかに読ませる。キングの文体は情報量が多いのが特徴だが、それが逆に改行の少ない古典ミステリにマッチして違和感を覚えさせなかった

なぜキングが売れないとされている短編集を4分冊にて刊行されるほどの分量までに著すのかが解った気がする。
それはキングという作家のネームバリューで求められる作品以外の物語を彼が書きたいからだ。長編にするには短い話が彼の中にはまだまだたくさん潜んでおり、それを出してしまいたいからだ。

今回これほどまでにヴァラエティに富んだ短編群を読んでキングのどうにも止まらない創作意欲の熱をますます感じてしまった。そしてホラーやファンタジーだけのキングよりも私は短編群で見せた様々なジャンルの彼の作品が好きである。

やっぱりキングは短編もいいよなぁと思わされた。この後も短編集は分冊形式で訳出されているが、願わくばこの流れは決して止めないでいただきたい。

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ブルックリンの八月 (文春文庫)
No.1400: 1人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(7pt)

ある意味、男が憧れる癒やしのシチュエーション

何とも不思議な小説である。
毎回行くたびに場所が変わる店名のない料亭。そこは女将だけが応対し、1人が切り盛りしているように思える。そしてそこで毎回異なる女性と主人公が食事をする。
たったこれだけのシチュエーションの話が繰り返される。水戸黄門の方がもっとヴァリエーションあると思ってしまうほど毎回同じ展開なのだ。

しかしこれがなぜか面白い。そして読んでいる私もこんな料亭があれば行ってみたいと思わされるのである。

この名もなき料亭には次のルールがある。

決して誰かを連れて行ってはいけない。1人で訪れなければならない。

一緒に食事をする女性の名前や個人情報を尋ねてはいけない。但し向こうから話すのは問題ない。

一緒に食事する女性と別の機会に会う約束をしてはいけないし、連絡先を交換してはいけない。

そして不思議なことに大学の教官である主人公の小山が突然店に行きたいと云っても必ず空いている。
そして行くたびに場所は異なり、どこかの家だったり、ビルの地下にあるかつて料亭だった店舗だったり、小規模な旅館だったり、街中によくある1階がレストランになっているアパートを改装した1室だったり、郊外の奥まった森の中にある亡くなった芸術家の家だったり、廃校になった郊外の小学校でも営業したりする。そして鉄塔の足元にある大きな屋敷だったりもする。

またそこで出される料理は全て女将にお任せである。主に和食だが、洋食の時もある。味はいいのだが、それがよくある美食小説で繰り広げられるような読んでいるこちらが思わず食べたくなるような描写は特にない。

そしてその奇妙な料亭を切り盛りする女将も実に整った顔立ちをしているがあまり特徴的ではなく、すぐに忘れてしまい、街中であってもそのまま通り過ぎてしまうような印象だ。

そんな料亭での一番のご馳走であり、読みどころであるのは小山が毎回一緒に食事をする女性たちなのだ。

それは大学生のような普段着の女性だったり、眼鏡をかけた知的な若い女性だったり、30を越えた女性だったり、地味な女性だったり、異国風の女性だったりと様々だ。そしてその誰もが接客を仕事にしているような女性ではないように見えるのが共通している。

最初のうち、小山は現れる女性たちの食事をする美しい所作に見とれてしまう。いやそれもまたご馳走の一部として味わうのだ。

私が本書の中で一番印象に残ったのは「ほんの少し変わった子あります」の「ほんの少し変わった子」である黒いセータに黒いジーンズを履いた短めの髪型の長身のボーイッシュな女性だ。
20代前半と思われる彼女は本書で唯一小山と会話をしない女性だった。しかし彼女の食事をする所作はそれまでに出会った女性の中で最も美しく、優雅で洗練された動作で食事をする。言葉は交わさずともその仕草が小山にとってはご馳走であり、ただ淡々に食事をする静けさと相まって奇跡とも云える安らぎの空間を提供するのだ。その沈黙と究極までに美しい所作で能弁に会話をしているかのような濃密な空間がそこにある。そして小山は女性と一緒に食事をすることに意味があると見出す。

そしてまた最後が素晴らしい。

私は思わずため息が出た。なんて素晴らしいのかと。
この究極なまでに研ぎ澄まされた無駄を一切排除した能弁な沈黙と空間の濃密性に羨ましさを感じられずにはいられなかった。

ただそこにいるだけ。
ただ一緒に食事をしているだけ。
しかし相手が洗練され、無駄がなく優雅であるならばもうそれだけで胸がいっぱいになり、心は、魂は充足されるのである。
幻のようなあのひと時。
しかしそれは彼にとって永遠なのだ。こんな思いを久々に抱かせてくれたこの女性のエピソードに乾杯。

またこの通り一辺倒の物語で描かれるのは女将の店と女性だけではない。上に書いたようにほとんど会話がないのはまれでなにがしかの話が出てくる。

そしてそれらを聞いて小山は自分の考えに耽る。
いや実は女将の店に行くきっかけはいつも自分の生活や仕事に対する思索に耽り、ふと思いついたように店に行きたくなるのだ。
それは小山が一人考えることでその孤独を紛らわしたいからだ。
つまり孤独を愛しながらも実は誰かを必要としているのだ。
しかし作中で小山はあの店は「孤独増幅器」だと述べる。孤独を紛らわすために女性に逢いに行くがその女性はその時限りなのだ。そしてふと気づけば一人の自分がいる。つまり誰かと過ごす時間が濃密なほど孤独は助長されることに小山は気付く。

そして再びその孤独を紛らわすために彼は女将の店に行くのだ。

その都度彼は何かを得て、また何かを失うような思いを抱く。
私が印象に残っているのは過去を振り返った時に何を成しえたかと考えるとき、思い付くのはその代償として失ったものばかりだと述べる件だ。

50も過ぎた私もまた同じ思いを抱く。小山は50代にもうすぐ届きそうな年だと述べているからまさに少し前の私と同じくらいの年齢だろう。

私は折に触れ自分のこれまでの人生のそれぞれの場面が唐突に頭に浮かぶことがよくある。
それは実は自分の失敗したエピソードだったり、なぜあの時もっとこうすればよかったと後悔するシーンばかりだ。そんな時私は何ともやるせない気持ちに苛まれ身悶えしてしまう。あの日あの時それは今の自分ではない自分になれるチャンスだったのではないかと。

本書は森氏の思弁小説だろう。
小山と磯部と云う2人の大学の教官の口を通じてその時々の考えが述べられる。
そしてその考えに呼応するように女将の店で女性に遭い、2人で過ごした時間や聞いた話を思い出し、思索に耽るのだ。時にはあまりに色んな話を聞き過ぎてあれは幻だったのかと思ったりもする。多すぎる話は逆に印象に残らないということだろう。

実は私は女性と食事するのが大好きなのである。かつて若かりし頃は合コンをいくつも経験し、個人的に食事にも行ったりもした。
実は男同士で食事に行くよりも女性と食事する方が実りがあると思っている。

従ってこの小説のシチュエーションが実に面白かったのはまさに私の趣向にマッチしていたからだ。
様々な女性の様々な性格、様々な生き様や様々な事情。
それらを共有する時間のなんと愉しいことか。そして時に心揺さぶられることのなんと愉しいことか。

しかし最後に本書では女性の得体の知れなさを感じさせる。

本書に登場する女性の共通するキーワードは題名にもなっている「少し変わった子」であることだ。
男は実はこの少し変わった子に弱い。

女性と食事をすることの愉しさと怖さを知らされる小説だ。
できれば怖さは知らぬままにいたい。
そう、夢は夢のままが一番いい。


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少し変わった子あります (文春文庫)
森博嗣少し変わった子あります についてのレビュー
No.1399:
(7pt)

通勤時間に読むにしては陰惨すぎる

芦辺拓氏の鮎川哲也賞受賞作『殺人喜劇の十三人』に登場した森江春策はその後シリーズキャラクターとなり、今なお書き継がれているが、本書はその2作目にあたる。
1作目では学生だった彼はその後新聞記者となったが脱サラし、司法試験を受けて弁護士資格を取り、刑事事件専門の弁護士となったが、有罪率99.9%の日本の裁判に勝つために自ら真犯人を突き止める探偵業も副業としているという設定だ。

この森江春策は芦辺作品のいわばメインキャラクターであり、現在では数々のシリーズ作品が書かれている。それは即ち数々の事件を解決してきた名探偵であるが、他の名探偵とは異なり、周囲からは頼りなく、また要領悪い弁護士のように見られ、元同僚の新聞記者来崎四郎の評によれば「冴えない学生だった森江春策はその後冴えない記者になり、そして今は冴えない弁護士となっている」とされている。私が抱いていた名探偵像からは乖離したキャラクターだ。

本書は1995年、つまり平成7年に刊行された作品だが、この題名『歴史街道殺人事件』とはなんとも古めかしく昭和のノベルス全盛期に刊行された推理小説群を彷彿させる。
本書も最初はトクマ・ノベルスの版型で刊行されたことから、恐らくはかつての島田荘司氏がそうであったように、当時新本格ブームで続々とデビューする新米作家たちに少しでも固定読者を付けようと敢えて俗っぽい『〇〇殺人事件』の名をつけ、そしてトラベルミステリ風に味付けしたものを版元が要求したように思われる。そしてあとがきではまさにそのことが書かれていた。このベタな題名が生んだ功罪についても。

本書は宝塚、天王山、奈良、伊勢でバラバラに切断された死体が発見されるショッキングな内容でこの殺人ルートを解明するミステリである。

それらを結ぶのが題名にもなっている歴史街道、本書では伊勢―飛鳥・斑鳩―奈良―京都―大阪―宝塚―神戸を結ぶルートでそれぞれ≪古代史ゾーン≫、≪奈良時代ゾーン≫、≪平安・宝町ゾーン≫、≪戦国・江戸時代ゾーン≫、≪近代ゾーン≫と区分けされており、このルートを辿ることで二千年の歴史を体感できるとされている。
この歴史街道は実際に歴史街道推進協議会によってPRされており、現在もホームページで情報が更新されている。関西に住んでいる身としては実に興味深い内容で個人的に巡ってみたいと思った次第である。

しかしこの歴史情緒溢れるルートを舞台に本書では死体がばら撒かれ、そして加えて2つの殺人事件が起こる。そしてその中心には森江の高校時代の友人、味原恭二がいて彼が最有力容疑者となる。

この味原恭二という男は本書では決して好感の持てる人物として書かれていない。主人公の森江をして「自分の興味あるものに他人を巻き込んで散々利用した後にすぐに他の物に興味が移って顧みもしない」男と評されている。森江自身も高校時代に彼に誘われて演劇グループに所属し、最後の公演に向けて準備に明け暮れていた矢先に既に演劇に興味を失った味原は受験生へと転身し、逆に森江達にまだそんなことをやっているのかと歯牙にもかけない仕打ちを受けていた。

それは大人になってからも続き、劇団≪ストゥーパ・コメッツ≫に所属するといつの間にか牛耳るようになり、そして有名した後は興味が尽きたのかデザイン企画会社に転身し、現在に至っている。そしてその資金は彼の恋人でバラバラ殺人事件の被害者である川越理奈の父親から出資してもらっているのだ。まさに他人の土俵で相撲を取っては後を濁してばかりいる男だ。

従って彼の周りにいた人物も次第に去っていき、その肉親や知り合いは味原に対して嫌悪もしくは憎悪に似た感情を抱いている。
共同事業者の稲荷克利と新規コンピューターソフトを一緒に作ろうと巻き込んだ新進気鋭のゲームクリエイター白崎潤が森江の捜査の過程で殺人事件の犠牲者となっていく。

本書にはいくつか物理的なトリックが登場するが令和の今では懐かしさを感じさせる。

しかしこの犯行の内容が意外にも凄惨だったことに驚いた。

いやはや読んでててこの件は何とも背筋が寒くなる思いがした。上に書いたように本書はサラリーマンが通勤中に読むようなノベルスで刊行された推理小説だが、この犯行内容は通勤中に読むにはショッキングすぎるではないか。

しかし事件の真相から立ち上るのは味原恭二、白崎潤、稲荷克利、本庄静夫という4人の男の中心にこの事件の最初の被害者川越理奈という女性がいたことだ。そして彼女は非の打ちどころのない、知り合えば魅了されてしまうほどの魅力を備えた女性だったということだ。

歴史街道を軸に1人の女性に魅せられた男たちと1人の男性の才能に魅せられた1人の女性の物語であったのだ。

しかしその周囲の男性を翻弄する女性の心を射止め、なおかつ1人の女性が心酔する才能を持つ男を引き込んだのが全く好感の持てない味原と云う男なのは人間関係の綾というか人の心の不可解さを感じさせる。そしてそういう人が実際に自分たちの周りにいるのだからまいってしまう。

ところで本書では事件解決の直前にあの阪神淡路大震災が発生する。しかしこの震災が事件に何か影響を及ぼすわけでもなく、単純にその時期にこの事件が起きたということだけのことで描写されるのだ。正直この件は必要だったのかと首を傾げざるを得ない。

本書には他にも死体をより集めて作られた絶世の美女を贈られた貴族、紀長谷雄のエピソードなども盛り込まれ、歴史街道で起きた殺人事件を彩る。その他にも様々な伏線が散りばめられ、それらが確実に事件の真相に結びつき、実に細やかな作りになっている。

多分刊行直後に読めば当時まだ20代だった私には単なる通勤時の時間つぶしに読むキヨスクミステリとして片付けていたであろうが年齢を重ね、史跡や歴史遺産に興味を抱いた今ならば歴史街道と云う魅力的なコンテンツがあることを知っただけでも本書を読んだ価値を感じてしまう。
日本の二千年の歴史を感じるこの街道にいつか必ず足を運んでみることにしよう。
ただその時は本書の陰惨な事件を忘れた状態で、だが。

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歴史街道殺人事件 (徳間文庫)
芦辺拓歴史街道殺人事件 についてのレビュー