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隠された帝 天智天皇暗殺事件
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隠された帝 天智天皇暗殺事件の評価:
書評・レビュー点数毎のグラフです | 平均点3.78pt |
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Amazonサイトに投稿されている書評・レビュー一覧です
※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
未読の方はご注意ください
全3件 1~3 1/1ページ
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本書は、有名なジャーナリストがテロリストに襲われ、若いスタッフは死亡、自身もけがで入院、そこで天智天皇暗殺説に挑むというストーリーだ。並行して、死亡した若いスタッフの遺族の依頼でテロリストへの報復をもくろむ探偵のストーリーが展開するが、これは原稿枚数稼ぎ?のお添えものという感じで、必要か?とつっこみたくなる代物である。 本書の主張は、天智天皇(672年1月7日近江大津宮で崩御)は暗殺された、犯人は天武天皇であるというものだ。 そしてその根拠は 1.扶桑略記の記述「(天智)天皇は山科郷へ馬で行幸されたが戻られることがなかった・・・・・・・・沓(くつ)が落ちていたのでそこに陵(墓)を建てた」という記述。(原文は漢文です。) 2.天皇の菩提寺、泉涌寺には天智天皇以後歴代の天皇の位牌が祀られているが天武系の天皇は一人も祀られてない。 この二つである。それしかない。 扶桑略記は平安時代に比叡山の皇円(法然のお師匠さん)によって編纂された日本仏教史・・・みたいな本である。(なお皇円ではないという説もある)壬申の乱から400年以上経っている。 作者は、400年以上経っているから真実が書ける。私的に編纂された書物なので逆に信用できると、絶賛である。逆に『日本書紀』は天武天皇が自分の政権を正当化するために編纂した官製の史料なので信用できないとする(天武が命じ、持統のとき完成) しかも、『日本書紀』では天武の年齢は何故か不明である。 ここから天武天皇は天智天皇の弟ではない。皇統を伝える一人ではあるが朝廷との関わりはうすく、桓武5世の子孫、平将門のような人物である。だから壬申の乱(672年)は革命であり、天武朝は別王朝である。 ・・・・と主張するのだ。 そして、その証拠として、天皇家の菩提寺、泉涌寺には天智天皇以後歴代の天皇の位牌が祀られているが天武系の天皇は一人も祀られてないことを挙げる。 実はここで、本書の論理は破たんするのだ。 作者は決定的証拠を掴んだつもりだろうが、これは、何の争乱もなく天智天皇の血統が皇位を取り戻していることも示している。こうして「壬申の乱」革命説はいとも簡単に破たんする。 そもそも泉涌寺と天皇家の関わりは後堀川天皇と四条天皇に始まる。 後堀川天皇が泉涌寺を天皇家の祈願寺としたのは貞応3年(1224年)である。 これ以後、孝徳天皇までの天皇陵の管理は泉涌寺が行っている。 しかし、明治の神仏分離によって天皇陵の管理権が奪われた。 同時に京都の寺にある天皇家の位牌は泉涌寺に集められることになった。 位牌というのは鎌倉時代に伝来したもので、一般化したのは江戸時代だ。 したがって多くの天皇の位牌は後から作られたもの、ということになる。 そもそも天武系の位牌はあるわけがなく、京都のどの寺も天武系の位牌をわざわざ作ろうとしなかったということに過ぎない。 その理由を知りたいというかもしれないが。それについては天武系最後の天皇、称徳(孝謙)天皇が道鏡事件を引き起こした天皇だからという説明が出来る。天武系が称徳(孝謙)天皇を最後に皇位につけてないのは、道鏡事件のためとする人が多い。個人的には、この頃には天武系の血を継ぐ皇族がいなくなっていたからではないかと考えている。 『日本書紀』で天武の年が分からないのは別に不思議ではない。 天皇の年齢をきちんと記録する習慣が出来たのが鎌倉時代の『一代要記』あたりからだからだ。 天智天皇だって、『日本書紀』の他の天皇の記事から計算が可能であるというにすぎない。 天武天皇が天智天皇より年上だった説は”史料操作”という歴史学者が忌み嫌うものだ。 史料操作というのは、 例えば、『日本書紀』で推定される天智天皇の生年は626年であるが『一代要記』で天武天皇の生年は622年になっている。これで、天武天皇年長説が証明された、というのが史料操作である。何故なら『一代要記』で天智天皇の生年は619年になっているからだ。 たしか『逆説の日本史』でも主張されていたと思うが、『日本書紀』の天武が天文遁甲を得意としていたという記述を以って天武は忍者だと断言していたくだりはいただけない。ここで天文というのは占星術と未分化な状態の天文学(この時代季節の移り変わりに関する正確な知識ですら魔術である)であり、遁甲とは占いの技術及び儀式に関する知識のことである。あまり初歩的なミスをされると読んでいて醒める。 歴史ミステリーというのは推理の過程を楽しむもので結論を信じてはいけない。 そもそも、歴史ミステリーで主張している”結論”が本当の意味で証明できているのなら学術論文で画期的な新説として発表出来るはずだ。 この本は推論の過程がなかなか面白いので一読の価値はあると申し上げておく。 結論を鵜呑みにしなければ良いのだ。 | ||||
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天武天皇は天智天皇の弟ではない。 桓武天皇の5世の孫である平将門のような人物であり、壬申の乱(672年)は、単なる皇位継承の争いではなく革命であり、クーデターだった。そして天智天皇は、病死ではなく天武によって暗殺された。天武によって編纂を命じられた日本書記は、その事実を隠ぺいし、天武に皇位継承権があったかのように改竄した。 これが本書の主張である。特に天智天皇暗殺説の根拠として扶桑略記(12世紀前半の作品)を取り上げ、この本が、壬申の乱から400年以上後の著書であることに関しては、王朝が変わらない日本では、このぐらいの年月が立たないと真実が語れなかったのだとしている。 しかし、天武系の天皇は、称徳で絶えている。光仁(770年即位)は天智系の天皇であり、そのまま桓武へと受け継がれ以降天智系が続く。天武系から天智系に皇統が移るにあたり多少の陰謀はあったが、何の戦争も起きていない。日本書記に対しても、何の改変も行われてない。何よりも扶桑略記は天智系の復活から計算しても400年近く後の書物なのだ。 これで、本書の主張にかなりの無理があることが分かるだろう。 ただ、推論の過程は面白い。 しかし四方拝に関連して藤原順子稜を弘文天皇稜とするくだりはいかにもやっつけという感じでいただけない。 藤原順子は文徳天皇の母で、文徳天皇は藤原良房との権力争いの真っただ中で急死しており暗殺説があるから(通説は病死)何かそのからみがあるかもしれないが、藤原順子稜が、何故四方拝の対象となっているかは、現時点では分からない、とすべきである。天智天皇が対象になっているのは皇統の始祖的存在だからである。 後、少し細かいことだが、筆者は、王朝が変わっている中国では客観的な歴史記述が可能であるようなことを書いているが、とんでもない話である。この場合、前王朝の最後の君主が必ず悪者にされる。殷の紂王のエピソードが典型である。 また、江上波夫氏の騎馬民族征服説に共感し、学会の史料至上主義を批判しているが、騎馬民族征服説は、本書でも触れている問題点以外に、崇神王朝は明らかに農耕民族の王朝である、江上波夫が崇神に比定した”王”は、朝鮮の史書で「外来の王」とされているが、「外来の王であったため自分の思うように(政治が)出来なかった」とあり、とても征服民族の王とは思えない。しかも、この王が日本に来たという証拠は何もない、ある時期に朝鮮の史書から記述が無くなっているというだけのことだ(理由は不明)・・・・等、問題点が非常に多い説なのだ。 | ||||
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サブタイトルにもあるようにこの小説の中では「天智天皇暗殺」説を検証しています。 日本書紀によると天智天皇は病没したことになっているのですが…のちの「扶桑略記」という本の中には驚くべき記述が…それは「天智天皇は馬で遠乗りをしたのち、行方がわからなくなった」というもの。これを現代の権威ある歴史学者達は「四百年も後に書かれた本の記述は信頼するに当たらない」とばっさりと切って捨ててしまうのですね。 しかし、彼らの言う「信頼に価する資料」であるはずの日本書紀における数々の矛盾…天武天皇の生没年、及び年齢の記述が一切無いこと、天武天皇が歴史上名前を表わす時期が異様に遅いこと…なども、この本で紹介される異説を用いれば、実にスッキリと説明できるのです。この事実を彼らはどう説明するつもりなのでしょう? 天智天皇暗殺説、そしてその犯人と動機の究明、更には天智天皇と天武天皇が兄弟ではない!ということの論証…続々と解けてゆく謎はなかなか痛快ですよ。 ただ…この方の歴史ミステリーってのは…作品中で展開される「現実」のミステリーの方はあんまり面白くないんですよね~。っていうか、解明される歴史の謎とはあまり関係ないと言うか…むりやりこじつけてあるというか…。「京極」のように、本文中で語られる雑談や雑学がミステリーそのものを説く鍵にはなっていない…ので。 ま、「逆説の日本史 2」と併せてお読みください。 | ||||
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