隠された帝 天智天皇暗殺事件
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サイトに投稿されている書評・レビュー一覧です
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作者の自己満足 | ||||
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現在の事件と歴史の真実を並行して進めながら解決に導く構成はいつもながら。 | ||||
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※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
未読の方はご注意ください
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テレビ局の人気キャスターがテロリストを非難、そのために撃たれたのかと思ったら……入院中のベッドディティクティブ。キャスターの親の大記者の旧悪が背景になっていたりする。 | ||||
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この様な形式の小説とは思ってもいなかったので、つまらない、というか小説であっても、もっと天智天皇暗殺と疑うに足る背景事情等について詳しく記述したものを望んでいたのであり、期待はずれでした。 | ||||
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本書は、有名なジャーナリストがテロリストに襲われ、若いスタッフは死亡、自身もけがで入院、そこで天智天皇暗殺説に挑むというストーリーだ。並行して、死亡した若いスタッフの遺族の依頼でテロリストへの報復をもくろむ探偵のストーリーが展開するが、これは原稿枚数稼ぎ?のお添えものという感じで、必要か?とつっこみたくなる代物である。 本書の主張は、天智天皇(672年1月7日近江大津宮で崩御)は暗殺された、犯人は天武天皇であるというものだ。 そしてその根拠は 1.扶桑略記の記述「(天智)天皇は山科郷へ馬で行幸されたが戻られることがなかった・・・・・・・・沓(くつ)が落ちていたのでそこに陵(墓)を建てた」という記述。(原文は漢文です。) 2.天皇の菩提寺、泉涌寺には天智天皇以後歴代の天皇の位牌が祀られているが天武系の天皇は一人も祀られてない。 この二つである。それしかない。 扶桑略記は平安時代に比叡山の皇円(法然のお師匠さん)によって編纂された日本仏教史・・・みたいな本である。(なお皇円ではないという説もある)壬申の乱から400年以上経っている。 作者は、400年以上経っているから真実が書ける。私的に編纂された書物なので逆に信用できると、絶賛である。逆に『日本書紀』は天武天皇が自分の政権を正当化するために編纂した官製の史料なので信用できないとする(天武が命じ、持統のとき完成) しかも、『日本書紀』では天武の年齢は何故か不明である。 ここから天武天皇は天智天皇の弟ではない。皇統を伝える一人ではあるが朝廷との関わりはうすく、桓武5世の子孫、平将門のような人物である。だから壬申の乱(672年)は革命であり、天武朝は別王朝である。 ・・・・と主張するのだ。 そして、その証拠として、天皇家の菩提寺、泉涌寺には天智天皇以後歴代の天皇の位牌が祀られているが天武系の天皇は一人も祀られてないことを挙げる。 実はここで、本書の論理は破たんするのだ。 作者は決定的証拠を掴んだつもりだろうが、これは、何の争乱もなく天智天皇の血統が皇位を取り戻していることも示している。こうして「壬申の乱」革命説はいとも簡単に破たんする。 そもそも泉涌寺と天皇家の関わりは後堀川天皇と四条天皇に始まる。 後堀川天皇が泉涌寺を天皇家の祈願寺としたのは貞応3年(1224年)である。 これ以後、孝徳天皇までの天皇陵の管理は泉涌寺が行っている。 しかし、明治の神仏分離によって天皇陵の管理権が奪われた。 同時に京都の寺にある天皇家の位牌は泉涌寺に集められることになった。 位牌というのは鎌倉時代に伝来したもので、一般化したのは江戸時代だ。 したがって多くの天皇の位牌は後から作られたもの、ということになる。 そもそも天武系の位牌はあるわけがなく、京都のどの寺も天武系の位牌をわざわざ作ろうとしなかったということに過ぎない。 その理由を知りたいというかもしれないが。それについては天武系最後の天皇、称徳(孝謙)天皇が道鏡事件を引き起こした天皇だからという説明が出来る。天武系が称徳(孝謙)天皇を最後に皇位につけてないのは、道鏡事件のためとする人が多い。個人的には、この頃には天武系の血を継ぐ皇族がいなくなっていたからではないかと考えている。 『日本書紀』で天武の年が分からないのは別に不思議ではない。 天皇の年齢をきちんと記録する習慣が出来たのが鎌倉時代の『一代要記』あたりからだからだ。 天智天皇だって、『日本書紀』の他の天皇の記事から計算が可能であるというにすぎない。 天武天皇が天智天皇より年上だった説は”史料操作”という歴史学者が忌み嫌うものだ。 史料操作というのは、 例えば、『日本書紀』で推定される天智天皇の生年は626年であるが『一代要記』で天武天皇の生年は622年になっている。これで、天武天皇年長説が証明された、というのが史料操作である。何故なら『一代要記』で天智天皇の生年は619年になっているからだ。 たしか『逆説の日本史』でも主張されていたと思うが、『日本書紀』の天武が天文遁甲を得意としていたという記述を以って天武は忍者だと断言していたくだりはいただけない。ここで天文というのは占星術と未分化な状態の天文学(この時代季節の移り変わりに関する正確な知識ですら魔術である)であり、遁甲とは占いの技術及び儀式に関する知識のことである。あまり初歩的なミスをされると読んでいて醒める。 歴史ミステリーというのは推理の過程を楽しむもので結論を信じてはいけない。 そもそも、歴史ミステリーで主張している”結論”が本当の意味で証明できているのなら学術論文で画期的な新説として発表出来るはずだ。 この本は推論の過程がなかなか面白いので一読の価値はあると申し上げておく。 結論を鵜呑みにしなければ良いのだ。 | ||||
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レビューを送信しないとこの画面から抜けられない悲惨な状況である。 犯人の動機の意味が不明 親を恥じる必要がない。 | ||||
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著者の本はとても面白く、よく読んでおります。最近は個人的に古代に興味があり、本書を読みました。 天武は天智の弟ではなく、暗殺されたのではないか等、とても面白く読ませていただきました。 | ||||
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