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虚無への供物
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虚無への供物の評価:
| 書評・レビュー点数毎のグラフです | 平均点3.92pt | ||||||||
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Amazonサイトに投稿されている書評・レビュー一覧です
※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
未読の方はご注意ください
全110件 61~80 4/6ページ
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| 作中に出てくるあるモノの名前として登場し、「あぁこっから来たのか」で片づけそうになってたのですが、 犯人が、供物としてこしらえた死体こそ、”虚無への供物”に過ぎなかったのか・・・みたいなくだりがあって 「なるほどねぇ」と妙に納得いたしました。 書きようによっては、横溝正史的な重厚骨太な作品になるプロットにも思えましたが、 あの阿呆探偵のせいで、こうも色が変わるものか・・・という感じです。 しかし、それもこれも「犯人は読者です」となるように仕向けるための、巧妙な構成なのでしょう。 現世が、精神病院の内側なのか外側なのかよくわからない傾向は、物語の時代よりも確実に進み 「どんな気持ち」も何もなく、陰惨な現場に反射的にカメラを向ける人々は、信じられない程増えました。 考えてみたら、”化け物”である読者に告発すべく書かれたものなのに、未来は逆を行ってしまった。 文字通り、”虚無への供物”たる作品になっているじゃないですか・・・。 ともあれ、熱狂的な読者を作る作品ということはよくわかりました。 それから「匣の中の失楽」のタネ本ということも(こんなに影響強いとはね)。 しかしながら、この作品の中にさえ出てくる”黒死舘”、”ドグラマグラ”・・・ いったいどんな本なんや・・・・・・。 | ||||
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| 理解しにくい文章、とにかくわかりにくい、そして古いです。時間とお金の無駄でした。小難しくひねくり回してるだけという印象で面白さのかけらもありませんでした。評判だけで買うのはやめようと思います。 | ||||
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| 物語は、1954年12月10日、竜泉寺のゲイバア「アラビク」から幕を開けます。 作者「中井英夫」の命日が1993年12月10日で、共に金曜日であるという驚くべき符合に、この作品の底に流れる因縁のようなものを感じてしまいます。 かつて、出版社の担当が、作者から受け取った原稿を、駅のホームでチェックしているうちに、その内容に惹きこまれ、ついには終電を乗り過ごしてしまった、という逸話があるそうで、かの三島由紀夫も、二晩を費やして読破し、中井の出先まで押しかけて感想を述べたとか。 この「虚無への供物」の舞台となった1954年は、1月2日、皇居での二重橋事件からスタートし、3月1日には、第五福竜丸の死の灰事件、そして、9月26日には、世界を震撼させた洞爺丸事故、と不穏な1年であったようです。 小説の底流にある洞爺丸事故とは、台風15号の中をついて出航した青函連絡船「洞爺丸」が沈没し、千人以上もの犠牲者をもたらしたという歴史上の大惨事。 小説では、氷沼家の主「紫司郎」が乗り合わせ、海の藻屑と消えたという設定。これが、本作の重要なモチーフとなっています。 作者は、歴史的事実をうまく利用し、フィクションとないまぜにして、今で言う、バーチャルリアリティ的世界を見事に構築しています。 (中井自身は、1955年1月に、いきなり全編の結末までひらめき、その後の現実が、物語通りに進行するのに唖然とした、と述懐していますが・・) また、ホモセクシャルも、冒頭から結末までを貫く重要なキーワード。 密室殺人事件が発生。登場人物たちの推理合戦により、容疑者らしき人物が浮かび上がるわけですが、その容疑者も次の密室殺人事件の被害者になるという、ややこしい展開。 下巻の冒頭では、一度は犯人と目されながらも、その存在を否定されもした人物が、これまた密室内で死亡。 面白くもあり、じれったくもありの筋書きで、特に、フランス帰りの牟礼田が画策を張り巡らせるに及んで、劇中劇のような重層的構造(どこまでが本編か、目眩ましをくわされることも)は複雑さを増し、映画で言えば、スクリーンの俳優が、観客に向かって「犯人はお前だ」と叫ぶが如くの「楽屋落ち」まで登場するのは、作者自身も、執筆しながら、もうこんな禍々しい世界から逃れたいという、無意識の欲求から発せられたようにも思えます。 下巻267ページあたりで、マーティン・スコセッシ監督の「シャッター アイランド」を思い出させるような展開も凄い。 物語の終盤で、純文学的な様相を呈すると共に、これまでのあらすじを相対化し、客観的に論じていくところも、この小説が賞賛を浴びる要因か? たしかに、古今東西の推理小説のみならず、ルイス・キャロルやシェイクスピアまでも小説内のトリックに引用するあたりは、中井がかなりの読書家であったことを示していますし、ラストで、序章の長さを自嘲的に振り返る様も、読書マニアならでは。 また、東京の五色不動(目黒不動、目白不動、目赤不動、目青不動、目黄不動)を地理的な要素のみならず、登場人物の名前、更に殺人事件の舞台である屋敷の部屋の色にまで反映させるペダンチスムも大したものだと思います。 その上で、シャンソンや、ゲイバアなど、当時の最先端の文化・風俗を作品に散りばめ、ファショナブルに装いを凝らして、ともすれば、陰惨になりがちな物語に、若干の明るさをもたらしているのも、今日まで熱烈な読者を生み出す要因となっているようです。 この重々しい展開の中で、唯一の救いは、登場ごとに凝った衣装を身にまとい、どこか見当外れな物言いをつける久生(小説家、久生十蘭から取られたに違いありません)の存在か? そして、アリョーシャ(亜利夫)は、作者の分身と思われます。 さて、読者を騙すのが推理小説だとしたら、この小説は充分、騙され甲斐のある作品といえましょう。 ラストは、ある意味、肩透かしと言いますか、どこか空漠感が漂いますが、卓越した舞台装置(カーテンのそよぎだの、その奥にかくまわれた犯人?だの)に眩惑され、虚しい心持ちになることはありません。むしろ、小説の冒頭から、もう一度読み直したいという欲望すら、湧いてきます。 読書よりも、インターネット検索に明け暮れる方が多い昨今、この「虚無への供物」は、忘れかけていた読書欲を刺激する、すさまじい面白さに満ちた傑作と言えましょう。 | ||||
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| 物語は、1954年12月10日、竜泉寺のゲイバア「アラビク」から幕を開けます。 作者「中井英夫」の命日が1993年12月10日で、共に金曜日であるという驚くべき符合に、この作品の底に流れる因縁のようなものを感じてしまいます。 かつて、出版社の担当が、作者から受け取った原稿を、駅のホームでチェックしているうちに、その内容に惹きこまれ、ついには終電を乗り過ごしてしまった、という逸話があるそうで、かの三島由紀夫も、二晩を費やして読破し、中井の出先まで押しかけて感想を述べたとか。 この「虚無への供物」の舞台となった1954年は、1月2日、皇居での二重橋事件からスタートし、3月1日には、第五福竜丸の死の灰事件、そして、9月26日には、世界を震撼させた洞爺丸事故、と不穏な1年であったようです。 小説の底流にある洞爺丸事故とは、台風15号の中をついて出航した青函連絡船「洞爺丸」が沈没し、千人以上もの犠牲者をもたらしたという歴史上の大惨事。 小説では、氷沼家の主「紫司郎」が乗り合わせ、海の藻屑と消えたという設定。これが、本作の重要なモチーフとなっています。 作者は、歴史的事実をうまく利用し、フィクションとないまぜにして、今で言う、バーチャルリアリティ的世界を見事に構築しています。 (中井自身は、1955年1月に、いきなり全編の結末までひらめき、その後の現実が、物語通りに進行するのに唖然とした、と述懐していますが・・) また、ホモセクシャルも、冒頭から結末までを貫く重要なキーワード。 密室殺人事件が発生。登場人物たちの推理合戦により、容疑者らしき人物が浮かび上がるわけですが、その容疑者も次の密室殺人事件の被害者になるという、ややこしい展開。 下巻の冒頭では、一度は犯人と目されながらも、その存在を否定されもした人物が、これまた密室内で死亡。 面白くもあり、じれったくもありの筋書きで、特に、フランス帰りの牟礼田が画策を張り巡らせるに及んで、劇中劇のような重層的構造(どこまでが本編か、目眩ましをくわされることも)は複雑さを増し、映画で言えば、スクリーンの俳優が、観客に向かって「犯人はお前だ」と叫ぶが如くの「楽屋落ち」まで登場するのは、作者自身も、執筆しながら、もうこんな禍々しい世界から逃れたいという、無意識の欲求から発せられたようにも思えます。 下巻267ページあたりで、マーティン・スコセッシ監督の「シャッター アイランド」を思い出させるような展開も凄い。 物語の終盤で、純文学的な様相を呈すると共に、これまでのあらすじを相対化し、客観的に論じていくところも、この小説が賞賛を浴びる要因か? たしかに、古今東西の推理小説のみならず、ルイス・キャロルやシェイクスピアまでも小説内のトリックに引用するあたりは、中井がかなりの読書家であったことを示していますし、ラストで、序章の長さを自嘲的に振り返る様も、読書マニアならでは。 また、東京の五色不動(目黒不動、目白不動、目赤不動、目青不動、目黄不動)を地理的な要素のみならず、登場人物の名前、更に殺人事件の舞台である屋敷の部屋の色にまで反映させるペダンチスムも大したものだと思います。 その上で、シャンソンや、ゲイバアなど、当時の最先端の文化・風俗を作品に散りばめ、ファショナブルに装いを凝らして、ともすれば、陰惨になりがちな物語に、若干の明るさをもたらしているのも、今日まで熱烈な読者を生み出す要因となっているようです。 この重々しい展開の中で、唯一の救いは、登場ごとに凝った衣装を身にまとい、どこか見当外れな物言いをつける久生(小説家、久生十蘭から取られたに違いありません)の存在か? そして、アリョーシャ(亜利夫)は、作者の分身と思われます。 さて、読者を騙すのが推理小説だとしたら、この小説は充分、騙され甲斐のある作品といえましょう。 ラストは、ある意味、肩透かしと言いますか、どこか空漠感が漂いますが、卓越した舞台装置(カーテンのそよぎだの、その奥にかくまわれた犯人?だの)に眩惑され、虚しい心持ちになることはありません。むしろ、小説の冒頭から、もう一度読み直したいという欲望すら、湧いてきます。 読書よりも、インターネット検索に明け暮れる方が多い昨今、この「虚無への供物」は、忘れかけていた読書欲を刺激する、すさまじい面白さに満ちた傑作と言えましょう。 | ||||
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| 作品が古びるのが速すぎる。 世相も血統の終焉もゲイもアイヌも植物学も密教も探偵小説尽くしも、知識の箇条書き程度。 虚無も暗黒も、なかったな。 登場人物にも魅力がないが、文章・構成がすばらしく良く、物語が流れるようだった。 長い寄り道に付き合った末、つまらない時間つぶしだった・・・というのが読後感です。 残念だ。 | ||||
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| 推理小説三大奇書の一つに数えられる作品ですが 他2つに比べてたら、圧倒的に読みやすく それでいてミステリとしてもすごくよくできている 素直に「名作」と思える作品でした。 犯人にあたる人物が最後に登場人物たち(+α)にかける言葉は 心打たれるものがあり、考えさせられたりもしました。 ただ ここが奇書とされる由縁なのですが 『十戒』、『二十則』、『幻影城』などなど ミステリな用語が頻繁に出てきて 登場人物たちが(妙な)推理をするのに参照したりするので その辺りをある程度は知ってるくらいのミステリの知識はあったほうが より楽しめる作品ではあると思います。 いろいろなミステリをある程度読み込んでから辿り着くべき 至高のミステリといえる作品だと思います。 | ||||
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| この物語を何度読んだことだろう。 終戦の混乱も収まった昭和のある時期に、東京に確かに存在した迷宮へ誘い込まれてしまうのだ。 洞爺丸事件の暗い影を背負った兄弟に、高等遊民の探偵たち。退廃と活気が混濁しながら連続する悲劇は運命であるかのように避けられない。 そして犯人はいったい誰だったのか?すべての謎は解けたのか? 迷宮の中ではその質問自体が意味を持たない。 昭和の推理小説の最高傑作。 | ||||
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| 当時からアンチミステリの大作として大きく評価されたこの作品。 登場人物のキャラクター設定も舞台設定も、そして多く鏤められた作品内の舞台装置としてのメタテクスト。 ある意味でこれは現在におけるPCゲーム風な楽しみ方を内包していた作品だったととれます。 ノベルゲームが好きな方ならば若い方でも十分に楽しめることうけあいです。 美しい日本語とほんのりと耽美な世界観。そして魅力的なミステリ的味付け。 どこからとっても名作です。 | ||||
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| アンチミステリというより、アンチサスペンスと呼びたくなるほど ただ長いだけで、うんざりするほど冗漫で単調な「本格推理長編」。 ラスト100Pでわずかに盛り上がりを見せるものの、それも瞬く間に失速する。 『虚無への供物』とはよくいったもので、 あまり面白みのない四つの密室殺人事件と、饒舌なだけで空転する一方の推理くらべが、 何のメリハリもなく交互に続いたあげくあの結末だから、時間を無駄にした感が半端じゃない。 これほど遅々として捗らなかった読書体験もなかった。 この間読めたかもしれない別の何冊かのことを思うと腹立たしくさえなる。 アリスやカインや真言密教などの雑多なレファランスで潤色しながら、だまし絵にだまし絵を、どんでんがえしにどんでんがえしを重ねれば、 迷い込むものをことどとく幻惑する「ワンダランド」がおのずから立ち上がるわけでもない。 とどのつまり煩雑なだけでスケールの小さなお話を、ちまちまとして何の色艶もない文章で、 「到底現実のこととは思われない」「気違いじみた」「犯人は読者のあなただ」 みたいな安易な殺し文句とともに、いくら鼻息荒く語られても、ちっとも読者をその気にさせることはできないものです。 あざといばかりで不自然極まりないトリックと暗合の解読については自分にとっては鬱陶しいだけで早々と飽きが来てしまった。 そもそもすべてが読者をたぶらかすためのこじつけに過ぎない骨と皮ばかりのプロットを大真面目に評価するのは難しい 三大奇書? 夢野久作に近い異次元の脳内紀行を期待して本書を手に取るときっと騙されたような気分になるでしょう。 | ||||
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| オチはひどいが、推理小説の可能性を示唆した日本四大奇書の一つ。 事件に全く関係ない推理や話が多いが、個人的には、最近の推理小説のように病的なほど無駄を削った推理小説よりは好みではある。ただ、ドグラマグラには明らかに負ける。 | ||||
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| 推理小説史上、屈指の傑作とのことです。なかなか骨が折れますが一読の価値あり。 | ||||
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| 中井英夫(1922-1993)、1964年の作。 〈犯人〉は「不条理」の中に「意味」を渇望して殺人を為し(「人間らしい悲劇」「人間らしい死」「人間の誇り」「人間の秩序」・・・)、〈探偵〉は「事件」の中に「解釈」を求めて推理という名の駄弁を弄する。そしてそれはいずれも、【虚無への供物】でしか在りようがなかった。 〈犯人〉は世界の不条理(因果な事件事故、及びそれがもたらす苦悶)と社会の虚無(〈探偵〉たちの駄弁)とに対峙していた。そして〈探偵〉とは、この物語を読み進めている他あろう我々〈読者〉の姿である。 この物語の冗長さは、〈探偵〉の則ち〈御見物衆〉〈読者〉〈我々自身〉の駄弁の冗漫さを表しているのではないか。 "物見高い御見物衆。君たちは、われわれが***の遺族だといっても、せいぜい気の毒にぐらいしか、考えちゃいなかったろうな。どれほどのショックだったか判るわなんぞといいながら、******を待ち受けてゾクゾクしていたくらいだから、察しはつくよ。・・・。しかし君たち御見物衆が***や***という人形に魂を吹き込む役割を受け持ったことだけは、覚えておいてくれ。全部とはいわない、しかし、この一九五五年、そしてたぶん、これから先もだろうが、無責任な好奇心の創り出すお楽しみだけは君たちのものさ。何か面白いことはないかなあとキョロキョロしていれば、それにふさわしい突飛で残酷な事件が、いくらでも現実にうまれてくる、いまはそんな時代だが、その中で自分さえ安全地帯にいて、見物の側に廻ることができたら、どんな痛ましい光景でも喜んで眺めようという、それがお化けの正体なんだ。俺には、何という凄まじい虚無だろうとしか思えない。・・・、そんな虚無への供物のために、俺は一滴の血を流したんじゃあない。俺が***を殺したのは、人間の誇りのためにしたことだが、どっちにしろ海は、もうそんな区別をしやしない。俺のしたことも、別な意味で"虚無への供物"といえるだろうな" 社会は、私を匿名多数の眼差しに消してゆく。私の吐き出す言葉が、不可避的に社会そのものの一分子に堕し、私自身に疎遠な異物となり、ついには私自身を抹消する。私の実存は、社会という虚無に溶け消えていく。社会に在っては、私の言葉も、ここに出てくる〈探偵〉たちの駄弁と何ら変わらないのである。だからこそ、〈探偵〉は我々〈読者〉のことなのだ。現に、私は匿名多数の駄弁に取り囲まれているではないか。その中には、確かに私自身の声も混じっているのだ。「私は、それとは別の、何かなのだ」という叫び声が。匿名の誰かが発する虚しさとと同じ響きで。それはまさにこの文章のことであり、この文章の読者のことを云っているのだ。ここにははっきりと、自己関係的機制が表れている。 本書は、耽美のアイロニーに彩られた実存主義文学といえないだろうか。現代にまで響く告発の書である。そしてそれは不可避的に自己関係的機制をなすのである。ここにこそ、本書がメタ・フィクション、アンチ・ミステリとならねばならぬ理由があるのではないか。 "推理小説がもはや困難だという最大の理由は、現代にふさわしい、新しい悪の創造を、作家ではなく現実の事件のほうが片端からやってしまうせいだろう。"(中井英夫) "そしてそのジャンルについて、現代ではもはや成立不可能だという認識を持ってしまえば、打つ手は一つしかない。推理小説の形をとりながら、このジャンルの不可能性を――立証するとまではいわなくとも、強く暗示するような作品を書くことである。その「反推理小説」の中に、ゲームの純粋性からはみ出してしまうものを、推理小説としては不純な要素を、夾雑物を塗りこめることである。中井英夫の脳裏にはそうしたいわば敵中突破の戦法が閃いたのではないだろうか。"(出口裕弘) 「三大奇書」という括りで色物扱いしてしまうには、余りに勿体ない傑作。 | ||||
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| 作者自身が「アンチ・ミステリー」と位置付けただけのことはあり、その形式は推理小説の姿をかりつつも、実態は深遠な幻想への入り口だ。 どれだけ推理小説を読みなれた者でも、薔薇と不動とシャンソンに彩られ、同時に呪われたこの物語を読み進めるうちに、虚実の間に落下していくことを避けることはできないだろう。 序盤から中盤にかけて読み進めていくうち、我々の住む現実世界ではアリエナイことが、この作品の中では何もかもがアリエルことだと認識してしまっている自分に気づく。そして何度も繰り返される反転、反転・・・ そうなったなら、あなたはもうこの作品の虜となり、中井英夫=塔昌夫という人物によって捧げられた、一つの時代への大いなる供物を目にすることを避けられない。 そして読み終わった後にはぜひ、読む前にこの本自体に漂っていた雰囲気、ウワサから想像した性質、おどろおどろしい装丁に抱いた不安と恐怖がどのように変わったかに気づいてほしい。 その確かな読了感こそが、今度は我々読者に捧げられた供物なのではないだろうか。 | ||||
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| 三大奇書と呼ばている本書。興味本位で読み始めたら、上下巻一気に読んでしまいました。独特の世界観、登場人物達の推理合戦、話の展開、とにかくオススメです。ほかの二つも面白いのかしら? | ||||
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| 何回か読み返さないと作者の意図、物語の本当の真相は理解できないと思う。が読めば読むほど面白い本はそうザラには無いのでお勧めします。 | ||||
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| 「日本三大ミステリ奇書」とか、「日本三大アンチミステリ」とか言われるので、 敷居が高いと思われがちですが、 読んでみたら普通に面白い、良質なミステリでした。 これ、「奇書?」という感じで、そんなに奇妙な作品でも無いです。 内容は結構、登場人物のキャラクターもあって、 コミカルタッチにも思えます。 ちょっと島田荘司の「斜め屋敷の犯罪」を思い出しました。 特に奈々村久生嬢のキャラクターが良いですw 最初の方、4人で推理比べをする場面があるのですが、 その辺が長くてなかなか一気に読み進められませんでしたが、 後半(上巻の後半辺り)になると先が気になって一気に読んでしまいました。 新装版で、文字も大きく読みやすくなっていますが、 1ページにぎっしり文字が詰まっている(改行が少ない)ので、 例えば京極夏彦の「魍魎の匣」、「絡新婦の理」などより実質のボリュームがあるかも知れません。 本の厚みの見た目よりもボリュームがあります。 綾辻行人や有栖川有栖、法月綸太郎など、 新本格派などの本格ミステリ好きなら間違い無く楽しめる作品だと思います。 | ||||
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| 2004年の分冊版を見たことがないのでわからないが、 この文庫ではルビも少なく、意味のわからない熟語も多い。 文学部を卒業しているわけでもないので、絶賛している方々ほどには 内容を理解しているわけでもない。 しかし推理小説としては海外の古典的な作品に似ており、その辺りのファン にとっては満足のいくものとなるだろう。 江戸川乱歩や横溝正史ほどに耽美的ではなく、妖しさもそれほどないが、 文章は非常に巧い。マヤユタカの小説が、どうしても陳腐なラノベ風な 作りになってしまうのに比べると圧倒的な格の違いを感じずにはいられない。 残念なことに他にミステリは書いていないという。 怪奇小説を探すしかなさそうだ。 4つの密室殺人を考えるには、さぞ苦労のあったことだろう。 不満点としては、1.怪奇という印象はないこと、2.ゲイバーにはじまる薔薇に 関係する殺人と思わせて、その世界に関する暗い部分は出てこないこと、 3.よってつまり冒険がほとんどないこと、4.4人全員が安楽椅子探偵のようなもので、 女性ホームズは魅力のない女性であり、ムレタビンユウ氏の発言はイライラと させること請け合いだ。5.つまり色気がない。6.主人公のアリョーシャに存在感 がない。7.1955年という時代の雰囲気があまり出ていない。8.高尚過ぎる 殺人。9.字が細かくて読みづらい。 購入するときには両方を比べて、CPで選択するのがいいだろう。 安価でない限りは読みやすい方を選択した方が、後々のためになると思う。 ただ、この文庫にあるあとがきの三島由紀夫に関するエピソードはおもしろい。 モデルになった人物とはかのJ・Fだろうか。 | ||||
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| ネタばれ有り、未読の方は注意してください。 この作品の上巻のレビューでも記したのだが、これが三大奇書の一つとはとても思えない。アンチ・ミステリーと謳っているが、作品の内容からして推理小説的な手法をとっているのだから推理小説なのだろう。ただし、作者の意図するところは別に有り、「ただの謎解き小説ではありませんよ。」というのがアンチの意味と解釈している。 しかし、その内容たるや数々の謎、アイヌ装束の男、密室のゴム毬、鴻巣玄次、聖母の園、五色不動など、あれやこれやと並べたてておいて、結局それは何も関係ありませんでした、ではまるで詐欺にあった様なものである。 そもそも、洞爺丸の事故がきっかけで書かれたそうだが、終盤で紹介される紫雲丸の事故に関する投書の話と合わせて考えて見ても、何の罪も無い人々がちょっとした間違いや判断のミスにより、無情の死に至らしめられる悲運へのレクイエムとして書かれたと私は解釈している。 しかし、それにしてももう少し何とかならなかったのだろうか?何も推理的要素を持ち込む必要性はまったく感じないし、乱歩賞に応募したのも、嫌がらせの意味があった様な気がする。(上巻の部分)当時の審査員達も、これは冗談だろうとまともに受け取らなかったそうだ。 「黒死館やドグラ・マグラ」を読んだ高校生の頃にこの作品を読んでいたならば、また違った印象を持ったことだろう。しかし、人生の半分近くをすでに生きてしまった自分としては、そんなセンチメンタリズムなどに感動など出来ない。現実の非常さ、厳しさ等をイヤと言うほど見て、聞いて、体験しているからだ。作者からすれば50年も生きられてラッキー!とでも言ってもらえるのだろうか。(笑い) 「三大奇書の一つ」という謳い文句にだまされ、この無駄に長い駄作を読んだ感想は、やっぱり自分は「謎解き本格」が性にあっているという事でした。 | ||||
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| あっちは「幻想博物館」のみに、感銘しもうしたえ…その他は、そないには… なんで?て聞かれても あっちはそうおもいんしただけなんし… | ||||
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| 三大奇書の一つという事で期待して読んだ。しかし、これが「黒死館やドグラ・マグラ」と並んで、三大奇書と言えるのか? 話の展開も前半の推理合戦のあたりと後半の部分では明らかに調子がちがうし、四つの密室のトリックも真相を読んだらガックリだし、あーでもないこーでもないとやたらと読者を引っ張りまわしておいて、ただそれだけかって感じだ。 大体犯行の動機が弱すぎるし、その題材で小説を書くのであれば推理小説ではちょっと難しいと思う。あっ、だから「アンチ・ミステリー」なのか。でもこれって、乱歩賞に応募されたんだよね。(笑) とにかく「黒死館とドグラ・マグラ」と比べたら本書の奇書度なんて相当低いものだし、刊行された年代的に見ても出版社の作為が見え見えの気がしてならない。 | ||||
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