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虚無への供物
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虚無への供物の評価:
書評・レビュー点数毎のグラフです | 平均点3.89pt |
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Amazonサイトに投稿されている書評・レビュー一覧です
※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
未読の方はご注意ください
全106件 41~60 3/6ページ
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ミステリーが好きで、古今東西の名作と言われているものはほとんど読了していますが、 前評判の高いミステリーは、さすがにどれもこれも面白く、なるほどと納得のいくもの ばかりですが、唯一の例外がこの「虚無への供物」です。 本当に面白いミステリーが書けないから、それを逆手にとってアンチ・ミステリーの傑作 と豪語し、やたら小難しい純文学的な犯行の動機を持ってきて読者の深読みを誘い・・ 「読者こそ犯人だ」って意味がわかりません。 これ虚無への供物というタイトルが秀逸なんですね。例えば氷沼家殺人事件ってタイトルなら ベスト10には絶対にはいらないでしょうね。 プロットは破たんしているし、トリックは平凡だし、人物はみんな非人間的でパロディばかり だし・・本当にこれってどこがいいのですか? | ||||
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人それぞれ評価は異なるだろうけど、あえて僕なりに順位をつけるとしたら 第1位「ドグラマグラ」 第2位「虚無への供物」 第3位「黒死館殺人事件」 となる。 上記のような序列が正しいかどうかわからないが、三大奇書に順位をつけると僕にとってはそうなる。 で、実際にこの虚無への供物を読んでみたが、 余計な背景描写が多く、また、著者独自の世界観にもとずく「ウンチク」がやたらと鼻につく。 登場人物に名前もわざわざ読みにくい名前が多くて、「この人物ははたして男だったか?それとも女だったけか?」 と最初のうちは、戸惑い面食らうことが多い。 ただ、面倒くさいのははじめだけなので、安心して読むことが出来る | ||||
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なぜ、探偵小説には必ずと言ってよいほど 「殺人事件」 が起こるのでしょう? 虚無への供物という作品もやはり殺人事件が起こりますが、 作中人物は殺人事件が起こった後になって探偵が登場することに懐疑的な意見をもつ者もいて、 なるほど、確かに殺人が起こりそうな場所や状況を事前に調べて、殺人を未遂に終わらせるべき、 それが名探偵の使命という考え方は非常に新しい発想だと思います。 とにかく、既存の探偵小説を超越しようという著者の熱意が伝わってくる作品であり、 この虚無への供物という作品は、あらためて 「古い探偵小説への挽歌」 とも言えるような深刻なテーマを読者に突きつけているような気がしてなりません。 三大奇書のうちの一作として、推理小説の好きなかたにぜひお薦めします | ||||
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『虚無への供物』『ドグラ・マグラ』『黒死館殺人事件』 日本推理小説(ミステリ)界の3大巨頭であることは、最早史実。 刊行年代を鑑みると古典と呼ばれて然るべきところであるが、 未だに色褪せることなき世界構成・修飾。 まァ、推理小説が好きって言いたいなら、 取り敢えず読んでみたら?という一冊。 | ||||
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『虚無への供物』『ドグラ・マグラ』『黒死館殺人事件』 日本推理小説(ミステリ)界の3大巨頭であることは、最早史実。 刊行年代を鑑みると古典と呼ばれて然るべきところであるが、 未だに色褪せることなき世界構成・修飾。 まァ、推理小説が好きって言いたいなら、 取り敢えず読んでみたら?という一冊。 | ||||
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三大奇書読了。昭和10年頃出版された他の二書とは全く違う趣きの作品 だと思いました。推理小説がミステリー小説と云われるようになるさきがけ の作品のように感じられました。途中で四次元やゴーレムの話が登場して、 推理小説が幻想小説になってしまわないかと危惧しながら読み進めましたが、 どうやら踏み留まった感じ。現実の出来事と推理過程の想像上の出来事が 混在してきて混乱しますが、不思議な読後感を持ちました。 | ||||
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3大奇書の一冊ということで、やはり読んでおくべきと考えて購入した。 ドグラマグラや黒死館に比べて時代が後の作品だけに前時代的な暗さ、 オドロオドロしさはなく、文体も読みやすい。 舞台は昭和30年の東京。昭和29年生まれで東京に住んでいる私としては 親しみも持てる。三軒茶屋、太子堂、三宿や昭和女子大や目青不動が 登場するのも楽しい。 密室殺人か事故か判別しがたい事件が連続して発生し、物語は進行するが 読者の興味を繋ぎ止めるのに成功していると思う。下巻に期待したい。 | ||||
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この古めかしい表紙のものが欲しくて、今回購入させて頂きました。事前情報に偽りなく、安心しました♪ | ||||
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かなり根気よく読まないと意味が分かりませんが、根気よく読んでもわかりませんでした! | ||||
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オールタイム第2位とのことでようやく手を出しました。 なるほど刊行当時ヴァン・ダインの「僧正殺人事件」などでぺダントリー 溢れる古典ミステリに嵌った読者や、新本格で鍛えた現代のコアなミステリ マニアには、独特な文体も相まって、受け容れやすいかもしれません。 然しながら、芝居がかった登場人物は一般的読者層にはちょっと取っつき難く、 また、頓珍漢な推理合戦を重ねながらも肝心なところを出し惜しみした挙句、 最後に得られるカタルシスが乏しいので、万人にお勧めできる作品ではない との感想です。 | ||||
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読みたい本でしたが近くに販売店がなく。 購入してもとても良かったです。 | ||||
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新装版が上下で出ていますが、こちらのカバーが欲しかったので満足しております。何冊か実物を見たのですが読めれば良いというような状態だったので、かなり嬉しかったです。どうもありがとうございました。保存版です♪ | ||||
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よく練り上げてある小説です。奇書と言われて、期待半分でしたが、奇書ではないと思います。文体も読みやすく、普通に読めます。登場人物の関係が複雑で分からなくなる時もありました。一読して損はないと思います。 | ||||
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推理小説として、わくわくしながら読み進められます。奇書というより、よく練られた推理小説です。 | ||||
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推理小説といってもいろいろなジャンルがあるけれど、この作品は「密室殺人の謎解き」を徹底的に追及したもので、1950年代において一つの完成形をつくりあげたという点で帯にあるように「全てのミステリーで第2位!」というコピーがつくのは納得できます。 ですから、いわゆる「本格推理」と呼ばれる作品が好きな方には大変おもしろい作品なのではないかと思います。文章も非常にこなれていて、当時の社会や時事問題にも触れるだけではなく、宗教や生物学など幅広い知識欲を刺激してくれるところも特筆できるところです。 しかしながら...この作品には決定的に、心をわしずかみするような人間くさい犯罪の動機、愛情、憎しみ、執着などが一切なく、ホロリとさせる人情の機微もありません。ですので、そういった分厚いストーリーを期待する方にはとても上下2巻の800ページに時間を捧げることはお勧めできません。 数多くのオカマや謎の爺さんたちがでてきますが、まるでゲームのキャラのように誰が犯人でもよく、事件の真相はああだ、という人がいれば、いやそれは違うという理屈、理屈の繰り返しでストーリーがないぶん、「もうどうでもいいや」と完全に心が離れてしまいました。 | ||||
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言葉遣いも現代っぽくて、読みやすい。 もっとお耽美路線まっしぐらなのかと、恐る恐るページをくったが、その辺助かった(笑)。 でも当時の年代の人々には、”異様な日本語”に映った気もするので、 それをもって”奇書”の異名がついたのかと思ったほど。 それから・・・ ルールタビーユを更に劣化させたような、奈々村久生という探偵気取りの阿呆推理には、だいぶ辟易させられます。 「これは、本邦バカミステリーの元祖でもあるのではなかろうか?」と何度思ったことか。 (私は「黄色い部屋の秘密」が嫌いです) 上巻は、一冊まるまる使って、”結局何もわかってない”ということなので 「それに耐えられた人だけが、下巻を手にする事が出来ます」という感じ。 なんかdisってるみたいですが、そういった事でもないのです。 凄い勢いで読めたので、それはたぶん「面白かった」ということなのでしょう。 でも何というか、雲を掴むような手応えしかないのです。 その辺が”アンチミステリ”と言われる所以なのかも知れません。 | ||||
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作中に出てくるあるモノの名前として登場し、「あぁこっから来たのか」で片づけそうになってたのですが、 犯人が、供物としてこしらえた死体こそ、”虚無への供物”に過ぎなかったのか・・・みたいなくだりがあって 「なるほどねぇ」と妙に納得いたしました。 書きようによっては、横溝正史的な重厚骨太な作品になるプロットにも思えましたが、 あの阿呆探偵のせいで、こうも色が変わるものか・・・という感じです。 しかし、それもこれも「犯人は読者です」となるように仕向けるための、巧妙な構成なのでしょう。 現世が、精神病院の内側なのか外側なのかよくわからない傾向は、物語の時代よりも確実に進み 「どんな気持ち」も何もなく、陰惨な現場に反射的にカメラを向ける人々は、信じられない程増えました。 考えてみたら、”化け物”である読者に告発すべく書かれたものなのに、未来は逆を行ってしまった。 文字通り、”虚無への供物”たる作品になっているじゃないですか・・・。 ともあれ、熱狂的な読者を作る作品ということはよくわかりました。 それから「匣の中の失楽」のタネ本ということも(こんなに影響強いとはね)。 しかしながら、この作品の中にさえ出てくる”黒死舘”、”ドグラマグラ”・・・ いったいどんな本なんや・・・・・・。 | ||||
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理解しにくい文章、とにかくわかりにくい、そして古いです。時間とお金の無駄でした。小難しくひねくり回してるだけという印象で面白さのかけらもありませんでした。評判だけで買うのはやめようと思います。 | ||||
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物語は、1954年12月10日、竜泉寺のゲイバア「アラビク」から幕を開けます。 作者「中井英夫」の命日が1993年12月10日で、共に金曜日であるという驚くべき符合に、この作品の底に流れる因縁のようなものを感じてしまいます。 かつて、出版社の担当が、作者から受け取った原稿を、駅のホームでチェックしているうちに、その内容に惹きこまれ、ついには終電を乗り過ごしてしまった、という逸話があるそうで、かの三島由紀夫も、二晩を費やして読破し、中井の出先まで押しかけて感想を述べたとか。 この「虚無への供物」の舞台となった1954年は、1月2日、皇居での二重橋事件からスタートし、3月1日には、第五福竜丸の死の灰事件、そして、9月26日には、世界を震撼させた洞爺丸事故、と不穏な1年であったようです。 小説の底流にある洞爺丸事故とは、台風15号の中をついて出航した青函連絡船「洞爺丸」が沈没し、千人以上もの犠牲者をもたらしたという歴史上の大惨事。 小説では、氷沼家の主「紫司郎」が乗り合わせ、海の藻屑と消えたという設定。これが、本作の重要なモチーフとなっています。 作者は、歴史的事実をうまく利用し、フィクションとないまぜにして、今で言う、バーチャルリアリティ的世界を見事に構築しています。 (中井自身は、1955年1月に、いきなり全編の結末までひらめき、その後の現実が、物語通りに進行するのに唖然とした、と述懐していますが・・) また、ホモセクシャルも、冒頭から結末までを貫く重要なキーワード。 密室殺人事件が発生。登場人物たちの推理合戦により、容疑者らしき人物が浮かび上がるわけですが、その容疑者も次の密室殺人事件の被害者になるという、ややこしい展開。 下巻の冒頭では、一度は犯人と目されながらも、その存在を否定されもした人物が、これまた密室内で死亡。 面白くもあり、じれったくもありの筋書きで、特に、フランス帰りの牟礼田が画策を張り巡らせるに及んで、劇中劇のような重層的構造(どこまでが本編か、目眩ましをくわされることも)は複雑さを増し、映画で言えば、スクリーンの俳優が、観客に向かって「犯人はお前だ」と叫ぶが如くの「楽屋落ち」まで登場するのは、作者自身も、執筆しながら、もうこんな禍々しい世界から逃れたいという、無意識の欲求から発せられたようにも思えます。 下巻267ページあたりで、マーティン・スコセッシ監督の「シャッター アイランド」を思い出させるような展開も凄い。 物語の終盤で、純文学的な様相を呈すると共に、これまでのあらすじを相対化し、客観的に論じていくところも、この小説が賞賛を浴びる要因か? たしかに、古今東西の推理小説のみならず、ルイス・キャロルやシェイクスピアまでも小説内のトリックに引用するあたりは、中井がかなりの読書家であったことを示していますし、ラストで、序章の長さを自嘲的に振り返る様も、読書マニアならでは。 また、東京の五色不動(目黒不動、目白不動、目赤不動、目青不動、目黄不動)を地理的な要素のみならず、登場人物の名前、更に殺人事件の舞台である屋敷の部屋の色にまで反映させるペダンチスムも大したものだと思います。 その上で、シャンソンや、ゲイバアなど、当時の最先端の文化・風俗を作品に散りばめ、ファショナブルに装いを凝らして、ともすれば、陰惨になりがちな物語に、若干の明るさをもたらしているのも、今日まで熱烈な読者を生み出す要因となっているようです。 この重々しい展開の中で、唯一の救いは、登場ごとに凝った衣装を身にまとい、どこか見当外れな物言いをつける久生(小説家、久生十蘭から取られたに違いありません)の存在か? そして、アリョーシャ(亜利夫)は、作者の分身と思われます。 さて、読者を騙すのが推理小説だとしたら、この小説は充分、騙され甲斐のある作品といえましょう。 ラストは、ある意味、肩透かしと言いますか、どこか空漠感が漂いますが、卓越した舞台装置(カーテンのそよぎだの、その奥にかくまわれた犯人?だの)に眩惑され、虚しい心持ちになることはありません。むしろ、小説の冒頭から、もう一度読み直したいという欲望すら、湧いてきます。 読書よりも、インターネット検索に明け暮れる方が多い昨今、この「虚無への供物」は、忘れかけていた読書欲を刺激する、すさまじい面白さに満ちた傑作と言えましょう。 | ||||
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物語は、1954年12月10日、竜泉寺のゲイバア「アラビク」から幕を開けます。 作者「中井英夫」の命日が1993年12月10日で、共に金曜日であるという驚くべき符合に、この作品の底に流れる因縁のようなものを感じてしまいます。 かつて、出版社の担当が、作者から受け取った原稿を、駅のホームでチェックしているうちに、その内容に惹きこまれ、ついには終電を乗り過ごしてしまった、という逸話があるそうで、かの三島由紀夫も、二晩を費やして読破し、中井の出先まで押しかけて感想を述べたとか。 この「虚無への供物」の舞台となった1954年は、1月2日、皇居での二重橋事件からスタートし、3月1日には、第五福竜丸の死の灰事件、そして、9月26日には、世界を震撼させた洞爺丸事故、と不穏な1年であったようです。 小説の底流にある洞爺丸事故とは、台風15号の中をついて出航した青函連絡船「洞爺丸」が沈没し、千人以上もの犠牲者をもたらしたという歴史上の大惨事。 小説では、氷沼家の主「紫司郎」が乗り合わせ、海の藻屑と消えたという設定。これが、本作の重要なモチーフとなっています。 作者は、歴史的事実をうまく利用し、フィクションとないまぜにして、今で言う、バーチャルリアリティ的世界を見事に構築しています。 (中井自身は、1955年1月に、いきなり全編の結末までひらめき、その後の現実が、物語通りに進行するのに唖然とした、と述懐していますが・・) また、ホモセクシャルも、冒頭から結末までを貫く重要なキーワード。 密室殺人事件が発生。登場人物たちの推理合戦により、容疑者らしき人物が浮かび上がるわけですが、その容疑者も次の密室殺人事件の被害者になるという、ややこしい展開。 下巻の冒頭では、一度は犯人と目されながらも、その存在を否定されもした人物が、これまた密室内で死亡。 面白くもあり、じれったくもありの筋書きで、特に、フランス帰りの牟礼田が画策を張り巡らせるに及んで、劇中劇のような重層的構造(どこまでが本編か、目眩ましをくわされることも)は複雑さを増し、映画で言えば、スクリーンの俳優が、観客に向かって「犯人はお前だ」と叫ぶが如くの「楽屋落ち」まで登場するのは、作者自身も、執筆しながら、もうこんな禍々しい世界から逃れたいという、無意識の欲求から発せられたようにも思えます。 下巻267ページあたりで、マーティン・スコセッシ監督の「シャッター アイランド」を思い出させるような展開も凄い。 物語の終盤で、純文学的な様相を呈すると共に、これまでのあらすじを相対化し、客観的に論じていくところも、この小説が賞賛を浴びる要因か? たしかに、古今東西の推理小説のみならず、ルイス・キャロルやシェイクスピアまでも小説内のトリックに引用するあたりは、中井がかなりの読書家であったことを示していますし、ラストで、序章の長さを自嘲的に振り返る様も、読書マニアならでは。 また、東京の五色不動(目黒不動、目白不動、目赤不動、目青不動、目黄不動)を地理的な要素のみならず、登場人物の名前、更に殺人事件の舞台である屋敷の部屋の色にまで反映させるペダンチスムも大したものだと思います。 その上で、シャンソンや、ゲイバアなど、当時の最先端の文化・風俗を作品に散りばめ、ファショナブルに装いを凝らして、ともすれば、陰惨になりがちな物語に、若干の明るさをもたらしているのも、今日まで熱烈な読者を生み出す要因となっているようです。 この重々しい展開の中で、唯一の救いは、登場ごとに凝った衣装を身にまとい、どこか見当外れな物言いをつける久生(小説家、久生十蘭から取られたに違いありません)の存在か? そして、アリョーシャ(亜利夫)は、作者の分身と思われます。 さて、読者を騙すのが推理小説だとしたら、この小説は充分、騙され甲斐のある作品といえましょう。 ラストは、ある意味、肩透かしと言いますか、どこか空漠感が漂いますが、卓越した舞台装置(カーテンのそよぎだの、その奥にかくまわれた犯人?だの)に眩惑され、虚しい心持ちになることはありません。むしろ、小説の冒頭から、もう一度読み直したいという欲望すら、湧いてきます。 読書よりも、インターネット検索に明け暮れる方が多い昨今、この「虚無への供物」は、忘れかけていた読書欲を刺激する、すさまじい面白さに満ちた傑作と言えましょう。 | ||||
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