氷の涯
※タグの編集はログイン後行えます
【この小説が収録されている参考書籍】 |
■報告関係 ※気になる点がありましたらお知らせください。 |
書評・レビュー点数毎のグラフです | 平均点0.00pt |
氷の涯の総合評価:
■スポンサードリンク
サイトに投稿されている書評・レビュー一覧です
新規レビューを書く⇒みなさんの感想をお待ちしております!!
現在レビューがありません
※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
未読の方はご注意ください
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
ドグラ・マグラ書いたかったので買ったのですが、面白かったです。ドグラ・マグラは何回か改訂されてるそうですが、これは初版をそのまま出したらしいので、読み比べてみると面白いかもです。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
ドグラマグラと言えば、角川文庫の上下巻を読むパターンが多いと思いますが、私は出来れば一冊にまとめてほしい!のと、角川文庫の表紙は個人的に安直なエログロナンセンス的表現であまり好きじゃない、ということで、この夢野久作集を選びます。 約800ページ、非常に分厚く読みづらいですが、クラクラ眩暈がしそうなキチガイ地獄を心ゆくまで堪能できます。 宇宙について考え出すと、途方もないスケールに頭がおかしくなってしまいそうになりますが、ドグラマグラについて考えても同じことが起こりますね。 それとこれは余談ですが、ドグラマグラの作品構成は、ロックバンドThis Heatの1stアルバムと通ずるところがありますね。最初と最後のことですが。 他の2作品も非常に楽しく読めました。 おすすめ。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
「瓶詰の地獄」3部構成が巧い短篇。極限状況下の男女を描いて鮮烈。 「氷の涯」公金横領を巡る活劇スリラー風の作品ですが、この著者故の奇想に満ちた中篇。 「ドグラ・マグラ」説明不要、というか誰も説明できそうもない奇想小説の極北。 3篇とも凄いですが、やはり「ドグラ・マグラ」は断トツで凄い。この小説については色々な人が色々書いているので、私も勝手に好きな事を書かせてもらいます。 実を言えば私も今、所謂「狂人」という状態というか、統合失調症に認定されていて、毎日薬を飲まないとまずい、或いはおかしくなるという状況で日々日常の営み(働いたり、食事したり、トイレにいったり、ジムでトレーニングをしたり、小説を読んだり、音楽を聴いたり等)をしておるのですが、では薬を飲み忘れたりするとどういう状態になるかと言えば、テンションが高くなって一睡もできなくなったり、ジムのトレーニングが全く疲れなくなったりという状況で暮らしております。 まぁ精神の病気といってもピンからキリまであるので、一般的に危険という事で病院で一生暮らさないといけないという人もいたり、私の様にあまり危険性がないという事で日々社会生活が許されている人もいるので、あまりこういう病名がついたからといって、危険に思われると心外ではありますが、実際に危険な人もいるので、あまりデカい態度は出来ないのも真実だったりします。 この小説でも主人公が無意識の内に人を殺した疑いを晴らさないとならないという、こういう病気だと思われ易い、危険なタイプのキャラクター設定になっておりますが、こういう人だけではないという事も一応言っておきたいです。危険な人もいますが。 この作品に関して言えば、アイデンティティの揺らぎはジャプリゾ「シンデレラの罠」の先駆、推理小説の枠組みを借りた奇想小説としてはオブライエン「第三の警官」の先駆的作品だと思いました。1935年の時点の日本でこういう作品が書かれていたという事実に驚きます。大西巨人氏の「神聖喜劇」と共に世界文学史の中で議論すべき小説だとも思いました。 「ドグラ・マグラ」は読んだ人100人が100人とも違う解釈をしたり、感想を持ちそうな作品。他の二篇とともに必読、としか言えない小説でした。是非ご一読を。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
作風の幻想的・猟奇的な趣で知られる小説家夢野久作(1889-1936)の作品集、「瓶詰の地獄」(1928年)「氷の涯」(1933年)「ドグラ・マグラ」(1935年)を所収。彼は人間存在そのものに地獄を視る、ぽっかり空いた穴として。なお「ドグラ・マグラ」は、小栗虫太郎『黒死館殺人事件』、中井英夫『虚無への供物』と並び、探偵小説三大奇書と称される。 「氷の涯」 疾走というのは、いつも desperate であって、行く宛先の無いものだ。男女二人の終末の後ろ姿には、そうした何処か乾いた美しさがある。 「ドグラ・マグラ」 暗い闇でしか在り得ない人間の生命の在りようをみごとに抉り出して、背筋を冷たくさせる「巻頭歌」。「脳髄は物を考える処に非ず」と主張して、脳髄を思考の主体と見做す唯物的科学を繰返し批判し、全ての細胞に平等に存する意識・欲望・記憶の媒介であるとする「脳髄論」。そこから導出される本作品中最重要の概念である「心理遺伝」。それを更に敷衍してヘッケルの反復説(所謂「個体発生は系統発生を繰り返す」)を下敷きにした作中論文「胎児の夢」曰く、胎児は胎内に於いて、原始生物から天変地異や自然淘汰を経て人類に進化するまで、そして胎児の先祖が両親に到り着くまで生存競争を生き延びる為に犯してきた無数の罪業を夢として反復するという。こうした、明らかに冗長過剰と云っていいほどの疑似科学的・超心理学的な(殆ど神秘学的な)学説の閑文字の奔流に長時間付き合わされ眩惑させられる。これも本作の仕掛けの一つと云えるだろう。 人間存在とは、自己同一性(I=X or I≠X、理性/狂気、現/夢・・・)すら決定不可能な、無間=夢幻地獄そのものであるところの縁の無い空虚であることを、長大なこの作品の機制自体が【示して(≠語って)】いる。物語は、つまり人間の自己意識とは、無限階層の一部でしか在り得ないことを【示して】、宙吊りのまま断ち切られる。 "・・・・・何もかもが胎児の夢なんだ・・・・・・。・・・・・・俺はまだ母親の胎内にいるのだ。こんな恐ろしい「胎児の夢」を見てもがき苦しんでいるのだ・・・・・・。" 作品内で展開されている「脳髄論」は、自然主義的な「脳による自己知」の論理的矛盾を繰り返し指摘しているのだが、自己知という機制そのものに孕まれている不可能性にまで議論が及んでいないのは何とも残念だ。本作品がそれを主題にしたものとなっていれば、論理学の根本問題を文学的虚構で以て再構成させた傑作となったであろう。メタ・フィクションとは、そうしたロゴス(論理・言語・理性・自己意識)に典型的に現れる自己関係的機制に本質的に胚胎している不可能性を剔抉することにこそ、その表現方法としての存在意義があると私は考える。 "・・・・・・「物を考える脳髄」はにんげんの最大の敵である。・・・・・・天地開闢の始め、イーブの知恵の果を喰わせたサタンの蛇が、さらに、そのアダム、イーブの子孫を呪うべく、人間の頭蓋骨の空洞に忍び込んで、トグロを巻いて潜み隠れた・・・・・・それが「物を考える脳髄」の前身である・・・・・・" ここで「物を考える脳髄」という箇所を、「自己知に於ける自己関係的機制」と置き換えれば、私の原罪に対する解釈と近いものになる。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
本書所収の「ドグラ・マグラ」は凄い。おそらく10数回は通読しているはずだが、その度に新しい発見・新しい解釈がある。ここまで読者を虜にする探偵小説は珍しいだろう。 同時に収録されている「瓶詰の地獄」と「氷の涯」も素晴らしい。 とにかく読んで見て欲しい一冊。 | ||||
| ||||
|
その他、Amazon書評・レビューが 17件あります。
Amazon書評・レビューを見る
■スポンサードリンク
|
|