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氷の涯
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氷の涯の評価:
書評・レビュー点数毎のグラフです | 平均点4.53pt |
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Amazonサイトに投稿されている書評・レビュー一覧です
※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
未読の方はご注意ください
全17件 1~17 1/1ページ
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ドグラ・マグラ書いたかったので買ったのですが、面白かったです。ドグラ・マグラは何回か改訂されてるそうですが、これは初版をそのまま出したらしいので、読み比べてみると面白いかもです。 | ||||
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ドグラマグラと言えば、角川文庫の上下巻を読むパターンが多いと思いますが、私は出来れば一冊にまとめてほしい!のと、角川文庫の表紙は個人的に安直なエログロナンセンス的表現であまり好きじゃない、ということで、この夢野久作集を選びます。 約800ページ、非常に分厚く読みづらいですが、クラクラ眩暈がしそうなキチガイ地獄を心ゆくまで堪能できます。 宇宙について考え出すと、途方もないスケールに頭がおかしくなってしまいそうになりますが、ドグラマグラについて考えても同じことが起こりますね。 それとこれは余談ですが、ドグラマグラの作品構成は、ロックバンドThis Heatの1stアルバムと通ずるところがありますね。最初と最後のことですが。 他の2作品も非常に楽しく読めました。 おすすめ。 | ||||
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「瓶詰の地獄」3部構成が巧い短篇。極限状況下の男女を描いて鮮烈。 「氷の涯」公金横領を巡る活劇スリラー風の作品ですが、この著者故の奇想に満ちた中篇。 「ドグラ・マグラ」説明不要、というか誰も説明できそうもない奇想小説の極北。 3篇とも凄いですが、やはり「ドグラ・マグラ」は断トツで凄い。この小説については色々な人が色々書いているので、私も勝手に好きな事を書かせてもらいます。 実を言えば私も今、所謂「狂人」という状態というか、統合失調症に認定されていて、毎日薬を飲まないとまずい、或いはおかしくなるという状況で日々日常の営み(働いたり、食事したり、トイレにいったり、ジムでトレーニングをしたり、小説を読んだり、音楽を聴いたり等)をしておるのですが、では薬を飲み忘れたりするとどういう状態になるかと言えば、テンションが高くなって一睡もできなくなったり、ジムのトレーニングが全く疲れなくなったりという状況で暮らしております。 まぁ精神の病気といってもピンからキリまであるので、一般的に危険という事で病院で一生暮らさないといけないという人もいたり、私の様にあまり危険性がないという事で日々社会生活が許されている人もいるので、あまりこういう病名がついたからといって、危険に思われると心外ではありますが、実際に危険な人もいるので、あまりデカい態度は出来ないのも真実だったりします。 この小説でも主人公が無意識の内に人を殺した疑いを晴らさないとならないという、こういう病気だと思われ易い、危険なタイプのキャラクター設定になっておりますが、こういう人だけではないという事も一応言っておきたいです。危険な人もいますが。 この作品に関して言えば、アイデンティティの揺らぎはジャプリゾ「シンデレラの罠」の先駆、推理小説の枠組みを借りた奇想小説としてはオブライエン「第三の警官」の先駆的作品だと思いました。1935年の時点の日本でこういう作品が書かれていたという事実に驚きます。大西巨人氏の「神聖喜劇」と共に世界文学史の中で議論すべき小説だとも思いました。 「ドグラ・マグラ」は読んだ人100人が100人とも違う解釈をしたり、感想を持ちそうな作品。他の二篇とともに必読、としか言えない小説でした。是非ご一読を。 | ||||
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作風の幻想的・猟奇的な趣で知られる小説家夢野久作(1889-1936)の作品集、「瓶詰の地獄」(1928年)「氷の涯」(1933年)「ドグラ・マグラ」(1935年)を所収。彼は人間存在そのものに地獄を視る、ぽっかり空いた穴として。なお「ドグラ・マグラ」は、小栗虫太郎『黒死館殺人事件』、中井英夫『虚無への供物』と並び、探偵小説三大奇書と称される。 「氷の涯」 疾走というのは、いつも desperate であって、行く宛先の無いものだ。男女二人の終末の後ろ姿には、そうした何処か乾いた美しさがある。 「ドグラ・マグラ」 暗い闇でしか在り得ない人間の生命の在りようをみごとに抉り出して、背筋を冷たくさせる「巻頭歌」。「脳髄は物を考える処に非ず」と主張して、脳髄を思考の主体と見做す唯物的科学を繰返し批判し、全ての細胞に平等に存する意識・欲望・記憶の媒介であるとする「脳髄論」。そこから導出される本作品中最重要の概念である「心理遺伝」。それを更に敷衍してヘッケルの反復説(所謂「個体発生は系統発生を繰り返す」)を下敷きにした作中論文「胎児の夢」曰く、胎児は胎内に於いて、原始生物から天変地異や自然淘汰を経て人類に進化するまで、そして胎児の先祖が両親に到り着くまで生存競争を生き延びる為に犯してきた無数の罪業を夢として反復するという。こうした、明らかに冗長過剰と云っていいほどの疑似科学的・超心理学的な(殆ど神秘学的な)学説の閑文字の奔流に長時間付き合わされ眩惑させられる。これも本作の仕掛けの一つと云えるだろう。 人間存在とは、自己同一性(I=X or I≠X、理性/狂気、現/夢・・・)すら決定不可能な、無間=夢幻地獄そのものであるところの縁の無い空虚であることを、長大なこの作品の機制自体が【示して(≠語って)】いる。物語は、つまり人間の自己意識とは、無限階層の一部でしか在り得ないことを【示して】、宙吊りのまま断ち切られる。 "・・・・・何もかもが胎児の夢なんだ・・・・・・。・・・・・・俺はまだ母親の胎内にいるのだ。こんな恐ろしい「胎児の夢」を見てもがき苦しんでいるのだ・・・・・・。" 作品内で展開されている「脳髄論」は、自然主義的な「脳による自己知」の論理的矛盾を繰り返し指摘しているのだが、自己知という機制そのものに孕まれている不可能性にまで議論が及んでいないのは何とも残念だ。本作品がそれを主題にしたものとなっていれば、論理学の根本問題を文学的虚構で以て再構成させた傑作となったであろう。メタ・フィクションとは、そうしたロゴス(論理・言語・理性・自己意識)に典型的に現れる自己関係的機制に本質的に胚胎している不可能性を剔抉することにこそ、その表現方法としての存在意義があると私は考える。 "・・・・・・「物を考える脳髄」はにんげんの最大の敵である。・・・・・・天地開闢の始め、イーブの知恵の果を喰わせたサタンの蛇が、さらに、そのアダム、イーブの子孫を呪うべく、人間の頭蓋骨の空洞に忍び込んで、トグロを巻いて潜み隠れた・・・・・・それが「物を考える脳髄」の前身である・・・・・・" ここで「物を考える脳髄」という箇所を、「自己知に於ける自己関係的機制」と置き換えれば、私の原罪に対する解釈と近いものになる。 | ||||
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本書所収の「ドグラ・マグラ」は凄い。おそらく10数回は通読しているはずだが、その度に新しい発見・新しい解釈がある。ここまで読者を虜にする探偵小説は珍しいだろう。 同時に収録されている「瓶詰の地獄」と「氷の涯」も素晴らしい。 とにかく読んで見て欲しい一冊。 | ||||
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私はすでにドグラマグラの文庫本を持っている。 しかし、私は文庫本は嫌いではないけど、 ひとつの文学作品が「分冊化」されて出版されることを極度に嫌う性分である。 私はただひたすらに、一冊の分冊化されない書物としての「ドグラマグラ」が欲しくて本書を購入した次第である。 夢野久作氏の作品について言えば、もし、彼が十年かけて「これを書くために生きてきた」 と言わしめた程の大作、ドグラマグラを発表していなかったならば、おそらく歴史に名を残す作家にはなれなかったであろうと思う。 それほどまでにドグラマグラという作品はあまりに衝撃的で、世界の推理小説中の屈指の傑作である。 おそらく昭和十年当時の人々にはこの作品は理解し難かったに違いない。 それゆえ、現代というポストモダン以降の人間にはかえって理解しやすい作品ではあるまいか? 読むと精神に異常をきたすという、いわく付きの奇書ではあるが、 それは根拠の無い都市伝説に過ぎないので、推理小説が好きな方はぜひ読むべきであります。 これを読まずして死ねるか! というほどの傑作である 補記 もうひとつの解釈。 角川文庫版のドグラマグラのレビューにひと通りの解釈を並べてみたのだが、しかしこの作品には、それとはまったく別の解釈もありうると述べておきたい。 角川文庫版においた私は、この一連の殺人事件の犯人は正木博士だと断言してしまった。 確かに「あの巻物」が呉一郎の心理遺伝の直接の原因ならば、その正木犯人説は成り立つのだが、 では、第一回発作の時点で母親を殺害した根本的動機がそれだと曖昧になってしまう。 この第一回発作時においてはまだ呉一郎は巻物の存在を知っていない。 事情が混み入ってくるが、その場合、正木博士犯人説は成立しなくなる可能性が出てくる。 解釈次第では正木博士が呉一郎に巻物を渡したのは、呉一郎の心理遺伝を確証するために過ぎなかったかも知れない。 正木と呉一郎が親子の関係であることは間違いない。 正木博士は本気で本当の意味で呉一郎を救おうとしたのかも知れない。 その場合、犯人はやはり呉一郎という解釈も成り立つのだ。 「解放治療場」における惨劇を食い止めることが出来なかった正木博士が良心の呵責に耐えられずに投身自殺した可能性だってあり得ない話ではない。 上記のように解釈すると、今迄信じていたはずのストーリーがまるで違ってレールが狂ってくるのだ。 つまり少なくともこの物語には少なくとも二種類の解釈可能性があるということだ。 あたかもマルチエンディング制のゲームの様に、、、である。 | ||||
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すごくおもしろかったです。 優れた文学だと思いました。 いままで知りませんでした。 | ||||
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2015.2.23.Tue 晴れ 夢野久作を読むのは初めてのくせに、いきなり大著の『ドグラ・マグラ』から読み始めた私。 知る人ぞ知る名著。 オノマトペを多用した独特の文体と、奇怪なキャラクターたちが演じる脳内地獄。 何よりその圧倒的な世界観。 胎児の夢、電話交換所としての脳、狂人解放場としてのこの世界、そして自己喪失。 もはやこれは一個の宇宙論、壮大な哲学の伽藍だろう。 本書には『瓶詰の地獄』、『氷の涯』も収録されているのでこれで1200円というのはお得感がある。 (貧乏な私にはその辺の功利がけっこう重要だったりする;泣) 本書を読んで、夢野久作のほかの作品も読んでみたくなった。 | ||||
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作風の幻想的・猟奇的な趣で知られる小説家夢野久作(1889-1936)の作品集、「瓶詰の地獄」(1928年)「氷の涯」(1933年)「ドグラ・マグラ」(1935年)を所収。彼は人間存在そのものに地獄を視る、ぽっかり空いた穴として。なお「ドグラ・マグラ」は、小栗虫太郎『黒死館殺人事件』、中井英夫『虚無への供物』と並び、探偵小説三大奇書と称される。 「氷の涯」 疾走というのは、いつも desperate であって、行く宛先の無いものだ。男女二人の終末の後ろ姿には、そうした何処か乾いた美しさがある。 「ドグラ・マグラ」 暗い闇でしか在り得ない人間の生命の在りようをみごとに抉り出して、背筋を冷たくさせる「巻頭歌」。「脳髄は物を考える処に非ず」と主張して、脳髄を思考の主体と見做す唯物的科学を繰返し批判し、全ての細胞に平等に存する意識・欲望・記憶の媒介であるとする「脳髄論」。そこから導出される本作品中最重要の概念である「心理遺伝」。それを更に敷衍してヘッケルの反復説(所謂「個体発生は系統発生を繰り返す」)を下敷きにした作中論文「胎児の夢」曰く、胎児は胎内に於いて、原始生物から天変地異や自然淘汰を経て人類に進化するまで、そして胎児の先祖が両親に到り着くまで生存競争を生き延びる為に犯してきた無数の罪業を夢として反復するという。こうした、明らかに冗長過剰と云っていいほどの疑似科学的・超心理学的な(殆ど神秘学的な)学説の閑文字の奔流に長時間付き合わされ眩惑させられる。これも本作の仕掛けの一つと云えるだろう。 人間存在とは、自己同一性(I=X or I≠X、理性/狂気、現/夢・・・)すら決定不可能な、無間=夢幻地獄そのものであるところの縁の無い空虚であることを、長大なこの作品の機制自体が【示して(≠語って)】いる。物語は、つまり人間の自己意識とは、無限階層の一部でしか在り得ないことを【示して】、宙吊りのまま断ち切られる。 "・・・・・何もかもが胎児の夢なんだ・・・・・・。・・・・・・俺はまだ母親の胎内にいるのだ。こんな恐ろしい「胎児の夢」を見てもがき苦しんでいるのだ・・・・・・。" 作品内で展開されている「脳髄論」は、自然主義的な「脳による自己知」の論理的矛盾を繰り返し指摘しているのだが、自己知という機制そのものに孕まれている不可能性にまで議論が及んでいないのは何とも残念だ。本作品がそれを主題にしたものとなっていれば、論理学の根本問題を文学的虚構で以て再構成させた傑作となったであろう。メタ・フィクションとは、そうしたロゴス(論理・言語・理性・自己意識)に典型的に現れる自己関係的機制に本質的に胚胎している不可能性を剔抉することにこそ、その表現方法としての存在意義があると私は考える。 "・・・・・・「物を考える脳髄」はにんげんの最大の敵である。・・・・・・天地開闢の始め、イーブの知恵の果を喰わせたサタンの蛇が、さらに、そのアダム、イーブの子孫を呪うべく、人間の頭蓋骨の空洞に忍び込んで、トグロを巻いて潜み隠れた・・・・・・それが「物を考える脳髄」の前身である・・・・・・" ここで「物を考える脳髄」という箇所を、「自己知に於ける自己関係的機制」と置き換えれば、私の原罪に対する解釈と近いものになる。 | ||||
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作風の幻想的・猟奇的な趣で知られる小説家夢野久作(1889-1936)の作品集、「瓶詰の地獄」(1928年)「氷の涯」(1933年)「ドグラ・マグラ」(1935年)を所収。彼は人間存在そのものに地獄を視る、ぽっかり空いた穴として。なお「ドグラ・マグラ」は、小栗虫太郎『黒死館殺人事件』、中井英夫『虚無への供物』と並び、探偵小説三大奇書と称される。 「氷の涯」 疾走というのは、いつも desperate であって、行く宛先の無いものだ。男女二人の終末の後ろ姿には、そうした何処か乾いた美しさがある。 「ドグラ・マグラ」 暗い闇でしか在り得ない人間の生命の在りようをみごとに抉り出して、背筋を冷たくさせる「巻頭歌」。「脳髄は物を考える処に非ず」と主張して、脳髄を思考の主体と見做す唯物的科学を繰返し批判し、全ての細胞に平等に存する意識・欲望・記憶の媒介であるとする「脳髄論」。そこから導出される本作品中最重要の概念である「心理遺伝」。それを更に敷衍してヘッケルの反復説(所謂「個体発生は系統発生を繰り返す」)を下敷きにした作中論文「胎児の夢」曰く、胎児は胎内に於いて、原始生物から天変地異や自然淘汰を経て人類に進化するまで、そして胎児の先祖が両親に到り着くまで生存競争を生き延びる為に犯してきた無数の罪業を夢として反復するという。こうした、明らかに冗長過剰と云っていいほどの疑似科学的・超心理学的な(殆ど神秘学的な)学説の閑文字の奔流に長時間付き合わされ眩惑させられる。これも本作の仕掛けの一つと云えるだろう。 人間存在とは、自己同一性(I=X or I≠X、理性/狂気、現/夢・・・)すら決定不可能な、無間=夢幻地獄そのものであるところの縁の無い空虚であることを、長大なこの作品の機制自体が【示して(≠語って)】いる。物語は、つまり人間の自己意識とは、無限階層の一部でしか在り得ないことを【示して】、宙吊りのまま断ち切られる。 "・・・・・何もかもが胎児の夢なんだ・・・・・・。・・・・・・俺はまだ母親の胎内にいるのだ。こんな恐ろしい「胎児の夢」を見てもがき苦しんでいるのだ・・・・・・。" 作品内で展開されている「脳髄論」は、自然主義的な「脳による自己知」の論理的矛盾を繰り返し指摘しているのだが、自己知という機制そのものに孕まれている不可能性にまで議論が及んでいないのは何とも残念だ。本作品がそれを主題にしたものとなっていれば、論理学の根本問題を文学的虚構で以て再構成させた傑作となったであろう。メタ・フィクションとは、そうしたロゴス(論理・言語・理性・自己意識)に典型的に現れる自己関係的機制に本質的に胚胎している不可能性を剔抉することにこそ、その表現方法としての存在意義があると私は考える。 "・・・・・・「物を考える脳髄」はにんげんの最大の敵である。・・・・・・天地開闢の始め、イーブの知恵の果を喰わせたサタンの蛇が、さらに、そのアダム、イーブの子孫を呪うべく、人間の頭蓋骨の空洞に忍び込んで、トグロを巻いて潜み隠れた・・・・・・それが「物を考える脳髄」の前身である・・・・・・" ここで「物を考える脳髄」という箇所を、「自己知に於ける自己関係的機制」と置き換えれば、私の原罪に対する解釈と近いものになる。 | ||||
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Jブンガクの2010年4月号に紹介記事がありました。これまで夢野久作は読んだ事がなかったので新鮮でした。全集なども出ていることを知りました。 | ||||
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夢野久作といえば「ドグラ・マグラ」が余りにも有名です。 しかし、初めて読む夢野文学がいきなりドグラ・マグラだと、余りにも重く閉鎖的な狂気の世界に、読破出来ぬまま諦めてしまった人も多いのではないでしょうか。 そこでこの「ちくま日本文学031夢野久作」がおススメです。 傑作選みたいな一冊で、短編も一つ一つ実に味わい深くて面白い。 収録作品は以下↓ ・いなか、の、じけん 抄 ・瓶詰地獄 ・押絵の奇蹟 ・氷の涯 ・人間腸詰 ・猟奇歌 ・謡曲黒白談 より ・杉山茂丸 「いなか、の、じけん」と「猟奇歌」は全編ではなく一部抜粋なのが、ちょっと残念です。 江戸川乱歩の闇の世界が好きならば、ぜひ一度夢野久作に触れてみて下さい。 | ||||
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夢野久作の代表作「ドグラマグラ」と「瓶詰の地獄」と「氷の涯」を収録した本書。「ドグラマグラ」単体を買うよりお得かもしれません。私がこれを買ったのは某文庫の奴の表紙が最悪だったからですけど。でも何故「キチガイ地獄」を収録しなかったんだろう?今、「ドグラマグラ」をリメイク映画にしようっていう命知らずな人、いるんでしょうかねぇ?監督や脚本家は所謂Jホラーの名手とかじゃない人の方がいいですけど。主演は誰でしょうね?松山ケンイチがいいな。「ドグラマグラ」は話自体は難解ですが、文体が変わっていて面白いです。チャカポコ節はリズム感があります。ラストで明かされる真相はとても衝撃的です。そして「これを読んだら発狂する」は誇大広告ではありません。 | ||||
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夢野久作といったら『ドグラ・マグラ』。確かに凄い小説です、『ドグラ・マグラ』は。探偵小説というジャンルを超え、その怪奇さ幻想さで読む者を驚かせ、呆然とさせ、クラクラと目眩にも似た陶酔感に酔わせる。著者畢生の代表作です。本書にはこの長編と、掌編『瓶詰の地獄』、中篇『氷の涯』の三篇が収録されています。 代表作ではありますが、できれば本書の五分の四を占める『ドグラ・マグラ』、あえてこの大長編をはずして他の作品を多く入れてほしかった。『少女地獄』、『女坑主』、『あやかしの鼓』、『死後の恋』などなど、その題名を聞いただけでゾクゾクしてくるような、そして読んでみると本当にゾクゾクする優れた作品が数多くあるのだから。評判の高い『ドグラ・マグラ』は読んだことがあるが、他の夢野作品を読んだことがないという人もいるでしょうから。『ドグラ・マグラ』に挑戦してはみたものの、その長さと内容のため途中で挫折、他の夢野作品を読んでみるのをためらっている人もいることでしょうから。 トリッキーな掌編、サスペンスあふれる中篇、そして代表作の大長編。文句のつけようのないラインナップですが、ムリして注文をつけてみました。 | ||||
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少ない登場人物で構成された大作である「ドグラ・マグラ」は、読中は息苦しく窒息感を感じ、読後はやっと開放はされたが自分がメビウスの輪に嵌ってしまった様に感じてしまった。どうしてもミステリー界での取り上げられが多い作品では在るが、文学としてももっと再評価されてしかるべきでは?夢野作品を「ドグラマグラ」から読みたいという人は、コンパクトに名中・短編をまとめた現代教養文庫の方がお勧めです。(この1冊では偏った形で著者を理解してしまうのでは?) | ||||
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本書は夢野久作集と銘打ってありますが、夢野久作の作品を全く知らない方にとっては少なからずとっつきにくい内容になっていると思います。その理由としては、収録作品が「瓶詰の地獄」「氷の涯」「ドグラ・マグラ」の三作しかないうえに、代表作である「ドグラ・マグラ」が全804P中631Pを占める大長編であることがあげられます。このことから本書は、夢野久作集というよりは、集大作である「ドグラ・マグラ」を読むための一冊といってよいと思います。そういった意味で、「ドグラ・マグラ」として薦めるのなら、三大奇書の一つとして読みたい方や夢野久作作品の終着地点として読みたい方など、「ドグラ・マグラ」に集中して興味がある方が最適だと思います。夢野久作の短篇や中篇がたくさん読みたいという方には、収録作品数が少ないのであまりお薦めしません。付録として収録されている「夢野久作の作品について」は夢野久作の息子さんである杉山龍丸氏が書かれたものです。本書を最後まで読み終えた後のステキなお楽しみです。 | ||||
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ドグラマグラを読むだけでも他の文庫で買うよりも値段が安くすむ。その上、「氷の涯」という名作まで読めて満足度大。「氷の涯」は、とにかくラストシーンのためだけにも読む価値がある。 | ||||
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