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虚無への供物
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虚無への供物の評価:
| 書評・レビュー点数毎のグラフです | 平均点3.92pt | ||||||||
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Amazonサイトに投稿されている書評・レビュー一覧です
※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
未読の方はご注意ください
全110件 1~20 1/6ページ
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| 虚無とは何かを考えさせられるお話でした | ||||
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| 私たちが住んでいると信じているこの世界は、私たちの幻想が作り上げたもので、その背後でははさまざまな異世界がさまざまな姿を見せているに違いない。ときにはその異世界が真実を語ることもある。本作はある意味で中井さんの自伝であり、また別の意味で私たちひとりひとりの自伝でもある。自伝を書く仕事と読む仕事は責任の痛みを伴う。だが、その仕事は希望で終わる。 | ||||
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| 期待以上でした ありがとうございました。 | ||||
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| 50年代の日本で連続殺人が起こり・・・というお話。 この小説の場合、要諦に触れないと語れない部分が多いので、以下はネタバレ・レビューなので、読んでいない方は読まないでください。 奇書と言われている通り、通常の推理小説を期待すると、肩透かしやカタルシスがない感じですが、人間の原罪を問う、とかそういう神学問答みたいに読むと面白いかも。 ウンベルト・エーコ氏の名高い「薔薇の名前」もイタリアの作品で、イタリアがキリスト教の総本山という事で、キリスト教に詳しくないと、難しいかもとか思いましたが、本書もなんとなく(キリスト教とは関係ないですが)そういう感じがしました。 「東西ミステリーベスト100」(2013年版)で、評者の対談で、この作品と他の奇書について、「そもそも普通じゃないから奇書と言われるので(笑)」という大森さんの言葉がありますが、確かにそういう作品で、あまり通常の推理小説のカタルシスを期待しない方がいいかも。 その「東西ミステリー」のうんちくで、編集者の宇山日出巨さんがこの小説を文庫にしたくて、版元に入社したそうですが、そういう人が出るくらいの影響力はあるかと思います(因みに、私も30~40年前に読んだ文庫のエディションは、宇山さんが編集したエディションの可能性があります)。宇山さんはこの後、学生で本格推理小説を書いている方々に「新本格」のネーミングで売り出し、成功したという事で、この作品の後にも、日本の推理小説への影響が大きかったとも思います。 日本の推理小説の歴史の中でも、異彩を放つ大作。是非ご一読を。 以下、作品で気になった部分を掻い摘んでおきます(読まないでいいです)。 「この当時、ーだが、一九五四年という昔の出来事を正確に記憶されている向きも、いまは少ないであろう。日本流にいって昭和二十九年というこの年には、すこぶる陰惨な事件が多く、警視庁の調べによると、年間の殺人件数は、未遂を含めて三千八十一件、一日あたりはほぼ八件という未曽有の新記録を樹立している。ーつまり、このとし、この日本では、それだけの人たちが本気で誰かを殺そうと考え、企み、実際に試みたのである。そればかりではない、この年が特に意味深いのは、たとえば新年早々に二重橋圧死事件、春には第五福竜丸の死の灰、夏には黄変米、秋には台風十五号のさなかを出航した洞爺丸の転覆といった具合に、新形式の殺人が次から次と案出された年だからでもある」 「もっとも、この当時で東京に三十余軒、それから十年と経たぬうち、浅草と新宿だけでそれぞれ三百軒あまりに殖えたほど、戦後の新しい享楽として日常化したこの世界は、格別、珍しい眺めでもない。ゲイたちは文字どおり花やいだようすで街に繰り出し、反対に亜利夫のような平凡なサラリーマンが、本物の女性同伴で彼らの城に乗りこんでも、黙殺するのがせいぜいで、毛嫌いされることもなかった」 「蛇神ーもとよりアイヌ伝説の一つで、熊や狼や梟など、何によらず神として崇めるかれらには、ごく自然な動物神だが、蝮の群が重なり合って、臭うほどにうごめく岩山や、蛇の入りにくる温泉さえある胆振・日高地方のアイヌにとって、それは内地の山陰地方に見られる白蛇信仰のように、愛敬半分のものではなく、現実的な恐怖から生まれたものであった。たとえば、観光案内にはないことだが、アイヌ語でシャック・ショモ・アエップー”夏、口に出してはいけない”という言葉が、そのまま”恐い蛇の神様”の意味で通用するくらい、この地方で蛇を怖れることは大変なもので、蛇の出てくるユーカラは、夏場だけは頼んでも決して歌ってくれないほどである」 「ことに”北海道土人は容貌言語陋醜にして・・・”という、当時の優越感を背景にした誠太郎のやりくちは、異端審問さながらで、火の神を祀る者は火中へ、水の神を祀れば水中へという仮借のないものであった」 「あの事件以来、おれたちの生甲斐は、何かしらこの世ならぬ、異常な世界を追いかけることで、やっと息をつくというふうに変わった。現実に堪えられないから、非現実へ潜ろうとする、それは当然の話だが、ひとり、おれだけは潜り損ねたということに、気がついてはくれなかったのか」 「・・・考えてもみろ、台風がくることが判っていながら、正確な気象を必死に知らせようともしなかった奴ら。そんな暴風雨の中へ、いい加減な見込をつけて船を出した奴ら。そんな愚昧や怠慢を、どうして許せるだろう。それよりも、どうしてそんなことが人間同士の間で出来得たんだ。さっきの藍公のいった、人間との約束という言葉でいうなら、絶対に破ってはいけないものを彼らは破った。人間の間ではあり得ない、不可能なことの筈じゃないか。考えただけでも反吐が出そうな、きちがいどもの仕業としかいまでもおれには思えない」 「パパはただ、兄弟の憎しみという、人間の原罪のひとつを負って、それを清算するために暴風の夜を選んだにすぎない。そのために死んでいったに違いないんだ」 「あの海の殺人現場風景が人間界の出来事で、苦しみぬいたあげくの橙二郎殺しは気違い沙汰なのか、おれはききたい。おれのいうことは、すべて狂人論理にすぎず、おれはやっぱり凶悪なケダモノで、蒼兄さんと呼ぶには値しないか。考えてくれ、いまの時代で、気違い病院の鉄格子のどちらが内か外か。何が悪で、何が人間らしい善といえるのか」 「物見高い御見物衆。君たちは、われわれが洞爺丸の遺族だといっても、せいぜい気の毒にぐらいしか、考えちゃいなかったろうな。どれほどのショックだったか判るわなんぞといいながら、ザ・ヒヌマ・マーダーを待ち受けてゾクゾクしていたくらいだから」 「無責任な好奇心の創り出すお楽しみだけは君たちのものさ。何か面白いことはないかなあとキョロキョロしていれば、それにふさわしい突飛で残酷な事件が、いくらでも現実にうまれてくる、いまはそんな時代だが、その中で自分さえ安全地帯にいて、見物の側に廻ることが出来たら、どんな痛ましい光景でも喜んで眺めようという、それがお化けの正体なんだ。おれには、何という凄まじい虚無だろうとしか思えない。おの薔薇の名に因んだ詩は、何か優雅な意味らしいが、あれをもじっていえば、そんな虚無への供物のために、おれは一滴の血を流したんじゃあない。おれは橙二郎を殺したのは、人間の誇りのためにしたことだが、どっちにしろ海は、もうそんな区別をしやしない。おれのしたことも、別な意味で”虚無への供物”といえるだろうな」 「いまの時代では、とにかく、ぼくたちは何かに変わりつつあるのかも知れないね。人間じゃない何ものかに。一部分ずつ犯罪者の要素を持った生物というか・・・」 「ぼくの考えていたのは、一枚の壮大な壁画を仕上げるということだった。そこには、生きて血肉の通った人間をそのまま嵌めこみ、無知からの愚かしい悲劇ではなく、純正な悲劇のもつ性格を残りなく具えた典型といえるものを作りあげたかった。それが仮にあらわれて、氷沼家殺人事件と呼ばれるなら、その時はぼくも名乗り出て、いまの日本にはこの殺人が必要なのだと、純粋な悪、悲劇らしい悲劇が、逆にこの時代に人間の秩序を取り戻すのだというつもりだった」 「作中人物の、誰でもいいけど、一人がいきなり、くるりとふり返って、ページの外の”読者”に向かって”読者”って指す、そんな小説にしたいの。ええ、さっきもいったように、真犯人はあたしたち御見物衆には違いないけど、それは”読者”も同じでしょう。この一九五四年から五五年にかけて、責任ある大人だった日本人なら全部犯人の資格がある筈だから」 | ||||
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| 買ってみたはいいが、あまり読む気がしなくて途中で読むのやめました。 | ||||
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| 自分の好みの作風じゃなかった。 | ||||
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| 本作は、三大奇書の他の2作に比べると30年ほど新しく、 ライトで砕けた文体で非常に読みやすいです。 登場キャラクターも 一人称が「ミー」のおっさん、 安楽椅子探偵を決め込むシャンソン歌手のお嬢、 すぐにおネムになる高校生美少年などなど、 マンガチックで親しみやすいです。 一家を襲う連続殺人事件が進む中、 これらのキャラクターたちが推理合戦を行うなど、 どこか不謹慎で、ふざけたノリで進んでいくところが、 面白いのだけれど、どこか真に迫ってこない。 絵に描いたフィクション感が漂っています。 そのリアリティの欠如を埋めるかのように、当時実際に起きた事件の詳細や、作品内に登場するリアルな場所のリアルなディテールや、関係者しか知らないような歴史的事実などを緻密に埋め込むことにより、軽薄さと凄味が融合していて、ちょっと面白いバランスになっていると思います。 | ||||
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| おふざけモードも含めて、 すべて計算ずくで緻密に設計されているのが感じられて、 作者の手のひらで遊ばされてる感が大きく、 バカにされてるような不快感がなくもないのですが、 入魂の作品であることも同時に伝わってきて、 凄味で押し切られたような感じです。作中人物が事件解決の目的で、作中登場人物を配したフィクションを書き始めるのですが、こちらの方が派手でインパクトがあるので、真相の方が、あまり心に刻まれないところが難ですかね。 | ||||
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| オチがちょっと無理やりだったかも…? でも面白かったです。 | ||||
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| 普通に面白かったです。 「三大奇書」と言われているけど、他の「ドグラマグラ」「黒死館殺人事件」より全然読みやすいし、 話としても面白かったです。 | ||||
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| 他人に貸したら返って来なかったから | ||||
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| 最近読んだミステリーの中では一番面白かった。 | ||||
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| 最近読んだミステリーの中では一番面白かった。 | ||||
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| 序詩のP・ヴァレリーの詩句に因んだタイトルに惹かれて一読してみたら、なんだか気障で斜に構え、コ利に凝った探偵小説で、なにが虚無で、なにが供物なんかも不分明で、ちっとも面白くないインテリゲンチャンごっこの本だった。 探偵小説には犯人が出てきて、最後には捉まったり、自殺したりするのだが、この小説で叔父を殺した蒼司選手がピンピンしていて巴里に逃亡するという結末になっているので、そこが斬新というのだろうか? 書くも書いたりと驚嘆はしても、それがなになるのだ?と、あほらしい限りである。 これは探偵小説という時代遅れのジャンルそのものを茶化したつもりの、希代の博学の知(痴)的、かつ衒学的戯れではないだろうか? | ||||
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| 初めて読んだのは大学図書館から借りた単行本で、版は覚えていないのですが、今回講談社文庫新装版を読んでおや?ちょっと違っている‥と思ったところが何箇所があったのですが、版を重ねる毎に改稿しているようですね。少し印象が変わってしまいましたが、後書きから、氷沼家の設定はほぼ著者自身の実家がモデルと初めて知りました。後書きを読むと物語の背景が理解できて、より楽しめます。先日ようやく25年前のドラマ化映像も見ることができ、久々に中井英夫ワールドに浸っています。 | ||||
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| 日本三大奇書の1つだけあって、奇妙な感覚のする推理小説。登場人物も推理オタクばかりで、呪われた家系の家に集まっていると、颯爽、事件が起こり… 続きが読みたいです。 | ||||
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| 読み終わって本を閉じたあともしばらく、熱に浮かされて、目眩さえ伴うような放心状態に陥った。 洞爺丸事件など、本格ミステリーの小説になぜ現実の事件や、実在の事件をこうも関わらせるのか、それはエンターテイメント小説として興を削ぎ、足枷になりはしないだろうかと危惧して読み進めていた。 しかし、最終章の告発ですべてはひっくり返される。『カラマーゾフの兄弟』の『大審問官の章』のに匹敵すると言っても言い過ぎではないほどの衝撃だった。 犯人にとって洞爺丸事件など、現実の引き起こした事件はそうであるべき約束を破ったために引き起こされた人間の気狂いじみた怠慢による饗宴場に過ぎないとある。つまり現実の事件=非人間となる。 ここから犯人の倒錯が始まる。現実に耐えられない犯人は、事件を非現実の世界へと引き込み、人間が人間であることを証明する悲劇に昇華することをこころみる。非現実の事件=人間である。 しかし、犯人が非現実な、人間的悲劇を求めた意味ある高尚な事件を起こそうとも、狂った現実のありうべからぬ偶然が非現実にことごとく追いついて陳腐なものへと格下げしてしまう。非現実な事件は現実に取り込まれ、事件を起こして人間になったはずの犯人もいつのまにか非人間の烙印を押されてしまっているのだ。 そして現実の事件とはどれほど悲惨なものでも外部のものにとってはただのお楽しみの材料に過ぎない。これが虚無の正体である。 その虚無から脱しようとして起こした事件も、本人の意図には関係なく、外部から見れば単なる格好の虚無への供物のひとつ、つまるところ現実のお楽しみの亜種のひとつにすぎない。 探偵という装置はその最たるものではないか。非現実の悲劇、偶然を、味気ない現実に引っ張り込んで、辻褄を合わせ、鑑賞物に変容させることにより、喜劇へと引き下ろすことがその役割であるのだから。 そして、さらにその探偵たちに輪をかけて、陰惨な事件を楽しんでいるのはまさにわれわれ読者に他ならないことを突きつけられ、普段、現実に起こる陰惨な事件をエンターテイメントとして少なからずも享受してしまっている、われわれこそが虚無を作り出している真犯人であるのだと、茫然、愕然とし、目眩を覚える。 | ||||
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| 犯人は前半でわかった。トリックはとくにスゴイとも思えないが、文章力があるので最後まで読めてしまう。 | ||||
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| 日本三大奇書と呼ばれる作品の一冊です。 なんというか、登場人物全員一人残らず好きになれませんでした。 | ||||
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| 中井さんのこの本は、奇書と言われます。欲張り過ぎたんですね。教養的でもあり、人生論的でもあり、かつ、科学論的でもあり、フランス文化論的でもあり、まあ、ありとあらゆる知性を、本来娯楽でしかない推理小説に組み入れようとして、10年もかかった、労作ですが、登山と同じで、長い時間がかかると、登る人は疲れるし、また見守る人も同様。そんな訳で、トリックの面白さはありますが、全体としての統一感がないのが残念な作品であります。なお、青いバラに関しては、ウイスキーの竹鶴の関連で、たしかどこかの会社が青いバラを作ったように記憶しております。また、題名はフランスの詩から引用しているようですが、推理小説では、フランスの作家が日本の作家に影響を与えたようにも思えませんが、筆者がフランスにあこがれていたことだけは読み取れました。そういう本です。 | ||||
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