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象牙色の嘲笑
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象牙色の嘲笑の評価:
書評・レビュー点数毎のグラフです | 平均点3.57pt |
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Amazonサイトに投稿されている書評・レビュー一覧です
※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
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私立探偵はある日、素性を隠した女から怪しげな依頼を受ける。それは女から宝石を盗んで逃げた黒人少女の居場所を探り出すというものだった。アーチャーはすぐに少女を見つけ出すことができたが…。 アメリカのハードボイルド小説作家ロス・マクドナルド(1915 - 1983)による、私立探偵アーチャー・シリーズ第4作 “The Ivory Grin”(1952)の邦訳である。 著者がまだ円熟期に入っておらず、スタイルが確立しきってはいない時期の作品である。したがって本作はミステリの出来としてはアーチャー・シリーズのなかでは “ふつう” の部類に入る作品だろう。 しかしながら本書の翻訳がうまくない。ロス・マクドナルドは作中に詩的な比喩や簡潔な箴言を取り入れるのを好むが、それが日本語として伝わってこない。たとえば 「アメリカ人は決して老人にはならない ー 老死するだけだ」 “Americans never grew old: they died”(原文) とあるが、“died” を「老死」と訳している意図がわからない。「老死」は「年老いて死ぬ」ことを意味するのであって、「老人にはならない」と矛盾する。素直に「アメリカ人は決して老いることはない。死ぬだけだ」で十分だろう。 くわえて確証はないが、この言葉はおそらく、本書出版の前年である1951年にダグラス・マッカーサーが退任演説で引用した歌の一節 “Old soldiers never die; they just fade away” 「老兵は死なず、ただ消え去るのみ」 のもじりだと思われる。仮にそうだとすれば、「アメリカ人は老いず、ただ死するのみ」と訳すべきだったのもかしれない。 ほかにも一人称の訳について疑問がある。本シリーズはアーチャーの一人称で語られるのを特徴とするが、本書の訳では、地の文では「おれ」、会話文では「ぼく」と使い分けているからだ。 地の文の一人称を「おれ」と訳した理由について、訳者は「日本語の〈おれ〉は対人関係をまったく無視した ー つまり、敬語や尊譲語(原文ママ)などの意識のない ー ある意味では孤独な男の一人称代名詞だから」と述べている。 しかし日本語の「おれ」は基本的に、話し手と聞き手の関係がある程度近いときに使われる一人称であり、オフィシャルな場では使わないという意味で “プライベート” な一人称である。地の文で「おれ」と使うと、語り手と読み手の距離が近く感じられてしまう。作中の人物だろうが、読み手であろうが、誰に対しても距離を置いた一匹狼、というアーチャーのキャラクターにふさわしい一人称は、やはり一番ニュートラルな一人称である「わたし」だろう。 会話文での一人称が「ぼく」なのもアーチャーに合っていない。それは「おれ」と同じ理由からである。しかも二つの人称を使い分けているからか、アーチャーの口調に統一性が欠けている。たとえば 「しがねえひら巡査あがりさ。ぼくはサービスを公開市場で売っているのだ。しかし、だれにでも売らなきゃならない筋合いのもんじゃないんだ」 とあるが、一人称を「ぼく」と言う人物が「しがねえ」というべらんめえ口調を使うのも、「〜さ」「〜じゃないんだ」という語尾と「〜のだ」という語尾を同一人物が同一文脈において使うのにも違和感を覚える。 そもそも地の文と会話文で一人称を変えている理由について訳者は説明していない。そうした訳者としての姿勢にも問題があるように感じられた。 | ||||
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