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ヘヴン



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【この小説が収録されている参考書籍】
ヘヴン
ヘヴン (講談社文庫)

ヘヴンの評価: 3.41/5点 レビュー 156件。 Bランク
書評・レビュー点数毎のグラフです平均点3.41pt


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Amazonサイトに投稿されている書評・レビュー一覧です

※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
未読の方はご注意ください

全156件 61~80 4/8ページ
No.96:
(3pt)

一人称の難しさ

作者にはいろんな意見を持つ人がいるのだから、テーマ設定はもちろん自由です。描き方が観念的でも、人物がリアルでなくても、話そのものがファンタジーであっても構わない。それは作り方しだいなので、一つの世界がそこにできていれば小説なんか作り物でいい。だけどその作り物の中では、作り方そのものは練っておくべきじゃないかな。
主人公の一人称で書かれているので、いじめを受けたときの辛さは生々しくリアルに感じる。しかしそれに比べて、主人公に関わる人々の内面描写が今ひとつ弱い。コジマや百瀬の主張も今ひとつ納得がいかないし、いじめる側の二ノ宮と百瀬の奇妙な関係は、まあ思うところあって出しているかもしれないが、その内容がわからない。
一人称だと主人公にわけがわからない事は説明できないから書かれていないのかもしれないが、それなら最初から三人称で書けば良かったのでは?いじめを受ける辛さを描きたかったから一人称を選んだのだとしても、別に三人称で書けない事はないでしょうに。そういう意味で、ちょっと作り方が中途半端な感じがしました。
ヘヴンAmazon書評・レビュー:ヘヴンより
4062157721
No.95:
(3pt)

期待はずれでした

中学生の胸が悪くなるようないじめの話です。
加害者の一人、百瀬が、主人公に対して、”人生はそれぞれの欲求だけに従って生きればよく、中学生は罪に問われないから、そうしたいなら殺人もかまわない。いじめることに良心の呵責など全くなく、君がいじめる側にならないのは、いじめたくないという君の欲求に従っているのだ。”と言い放ちます。たしかに、人をいじめたい人はそういう人であり、いじめることができない人はまたそういう人なのでしょう、濃淡の差はあっても。
つまり、社会を維持するのは、刑罰の抑止力だけということになりますが、それが一つの現実だとは思います。
しかし、それは、あえて小説の主題にするほどのことでしょうか?
本の帯に、”善悪の根源を問う小説”とありますが、小説の中身はそうなっていないと思います。
百歩譲って、もし、百瀬の話が、いじめがなぜ悪いことで、良心の呵責を覚えなくてはならないのか?という主旨だとすれば、それは、なぜ殺人が悪で処罰の対象になるのかとの問いと答えが同じになり、いささか古いテーマです。
ですが、あえて多用しているひらがなの効果もあり、描写はこまやかでしっとりしていて、さすが芥川賞作家だとは思いました。
ヘヴンAmazon書評・レビュー:ヘヴンより
4062157721
No.94:
(5pt)

考え深いな作品です

最初から最後まで止まらない。人間の矛盾を深い考えさせる作品です
ヘヴンAmazon書評・レビュー:ヘヴンより
4062157721
No.93:
(3pt)

とにかく

いまイジメを受けている学生たちは、親でも学校の先生でも教育委員会でも警察でも誰でもいいから、とにかく第三者に助けを求めてほしい。

問題があるのは一番にイジメる側だが、イジメられて外部に助けを求めないのも非常に問題だと、この小説を読んで思った。

加害者側の1人である百瀬って奴が小説のなかでアレコレ尤もらしいことを述べていたが、あんなのイジメる側の都合の良い屁理屈に過ぎない。騙されちゃいけない。

誰だってイジメに対する欲求や好奇心を多かれ少なかれ持ったことがあるだろうし、現在進行形で持っている人もいるだろう。だけど、欲求や好奇心を持っていることと実行することは別の話。たしかに、それが別ってことを弁えない人間もいることは、知っておくべきかもしれないが。

イジメる側の論理に真実なんて無い。それが真実なら、真実なんて最高にくだらない。

とにかく、イジメの加害者と被害者で世界をつくりあげるのは危険であり、全力で助けを呼ぶなり、逃げるなりしてほしい。オバサンは切に願う。
ヘヴンAmazon書評・レビュー:ヘヴンより
4062157721
No.92:
(4pt)

これもひとつの選択

初めての川上未映子作品体験は、「思っていたよりも読みやすい」です。
他の作品を読んだことがないので、たまたまこの本が読みやすかっただけかもしれませんが。

内容については、私はけっこう面白く読めました。
いじめにあっている主人公の「僕」と、同じくいじめにあっている「コジマ」との二人の関係が、いつ切れるともわからないような細い糸のようで切なかった。実際、主人公の斜視を治す手術のことで、二人の関係は切れてしまう。
手術することで美しい世界を手に入れた主人公だが、その斜視が好きだと言ってくれたコジマを失ってしまう。皮肉な話だ。

コジマは、弱さという強さを手に入れたかった。それを共に乗り越えてくれる主人公を必要としていた。
しかし、そのしるしである斜視を治してしまっては、意味がないのだと彼女は言う。
主人公は治すべきではなかったのだろうか。共にひたすらいじめに耐え抜くべきだったのだろうか。

私は、斜視を治す選択をした主人公が間違っているとは思えない。いじめられていた事を継母に告白し、学校をやめることにしたことも間違っているとは思わない。つらい環境に留まっているよりも、新しい世界を生きることが可能ならば、それは選択のひとつだ。
そのために温かな友情を失ってしまうのは辛いだろうが、それも一つのステップである。
喪失は、必ず誰にも訪れる通過儀礼だから。

しかし、いじめの描写がグロテスクで、本当にここまでするのだろうかと怖くなる。
事実は小説より奇なりだから、もっとすごいいじめもあるのだろう。
そしていじめは、おそらく人間社会でなくなることはないのだろう。
誰かをいじめることで、自分より弱い人間がいるという安心を得ようとするのも人間の性なのだろう。
ふりかえれば、自分はいじめられたこともあるし、いじめを傍観してしまったこともある。
いじめたことはないが、それを止めるだけの力はなかった。
ある程度の集団ができれば、必ずそこにいじめは生まれてしまう。
そのいじめにあってしまったのなら、戦う勇気も必要だろうし、他の集団に逃げ出す勇気も必要だろう。
そして、できればいじめがなくなるような世界にしたい。無理は承知で言うが。

ひとつの結論として、この小説の選択はありだと思う。
そして、コジマの選択もまたありなのだろう。
美しい世界とは、果たして自分にとってなんなのだろうか、そう考えさせられた。
ヘヴンAmazon書評・レビュー:ヘヴンより
4062157721
No.91:
(5pt)

殉教の物語?

クラスの数人のグループから日常酷いいじめを受けている中学生の少年、斜視であり、身体も小さい。物語はこの少年の「僕」という一人称の語りで進む。「僕」の具体的な名前は最後まで出てこない。それはもちろん意図的だろう。そしてもう一人の主人公、コジマ。コジマは同じクラスの女生徒で、痩せて汚れて臭い。それには理由があることであるが彼女も同じようにいじめを受けている。そのコジマから「僕」にある日、手紙がくる。学校の机のなかメモ紙が貼り付けてられるという形で。シャーペンで書かれたそれには<私たちは仲間です>と書かれてあった。
 いじめるグループは、容姿、能力など優れた位置にある子をリーダーとした子達である。彼らは「僕」を日常的に「ロンパリ」あと嘲り、無意味に殴ったり蹴ったり、またゲームと称してチョークを食べさせたり、体育館でバレーボールのぬけがらを頭にかぶせて、サッカーボール代わりにしたりする。コジマも具体的には書かれないが同様の扱いを受けている。
 その間二人の「文通」が続く。このことがいつかいじめグループにばれて、酷い目に遭うのではないかと、読んでてひりひりする思いだった(最後にそうなるが)。ある日二人は一緒に小さな旅に出る。この出来事は物語り上重要な場面であるが、そこで交わす会話や佇まいなど、どちらかといえば醜い子供なのにとても美しい描写である。まるで神の子のように。
 そしてコジマは、いじめられることは自分たちの「宿命」のように「僕」にいう。「僕」が斜視であることもコジマ自身が汚いことも、自分自身であることのしるしであると。だから斜視を手術で直せると「僕」が話したときコジマは強く反発し、通信が途絶える。
 「僕」をいじめているグループの中に百瀬という子がいる。百瀬は、二ノ宮率いるグループの中では超然としていて独特であるから、いつか「僕」を助ける存在なのかなと思っていたがそうではなかった。「僕」の、何故いじめるかという問いに、彼なりの論理、いじめるもいじめられるもそれをどうにかしようと思うこともそれぞれの勝手である、というようなことを答える。それを「僕」は否定しきれない。
 そしてある日二人が待ち合わせた公園に二ノ宮、百瀬他が現れ、ここでセックスしろと迫る。雨の中パンツ一枚にされてかじかむ「僕」。そしてコジマは自ら全裸になり雨の中、笑いながら二ノ宮達に向かい合う。それはもうコジマではなく何者かになったかのようである。
 そのあといじめグループが処罰されたという描写も、コジマがどうなったかという描写もない。ただ「僕」は斜視の手術をしそれは成功し、初めて見る美しい世界に感動し、またそこで「僕」の何かが終わったことを知るのである。予定調和の全くない筋書きで、久しぶりに好いものを読ませてもらったと思った。そして、これはいわば殉教の物語のようだとも思った。
ヘヴンAmazon書評・レビュー:ヘヴンより
4062157721
No.90:
(3pt)

ファイト

何故か中島みゆきの「ファイト」の曲が重なってきました。今いじめとか差別とかに苦しんでいる人よりもいじめや差別をしている人していた人は読むべきです。
ヘヴンAmazon書評・レビュー:ヘヴンより
4062157721
No.89:
(1pt)

後味がわるい。

やはり文学なのかなぁ。。。
好みではないです
リーダビリティは良いと思いますが。
ヘヴンAmazon書評・レビュー:ヘヴンより
4062157721
No.88:
(4pt)

読みやすさで群を抜く

この作家のほかの作品(とくに初期の短・中篇作品)は詩人気質の強い才気走った印象が強く、好き嫌いがわかれると思いますが、この作品はとても読みやすい。平易な文章でつくられています。
長篇ということももちろんありますが、作家としてより広く読者に向かおうとした飛躍作なのだと思います。
題材もふくめて凡庸な箇所も多いかもしれないけれど、きっとその凡庸さこそがこの作家の飛躍であったのだと思います。
ほかの川上作品が読みづらかったというひとは、是非読んでみてください。オススメしたいです。
ヘヴンAmazon書評・レビュー:ヘヴンより
4062157721
No.87:
(2pt)

上から目線

美貌と才能を兼ね備えた作者への嫉妬かもしれません。たぶんそれも入っています。でも、それはないやろ、と思います。いじめられてる子の心理と違うでしょ。これを読んだら、いじめにあってる子はよけい傷つくのじゃないかな。それとも、なにも思わないか。
作者にはいじめられた子への共感がない。
きっと自分はいじめとは関係ない、いじめられたこともないしいじめたこともない、と思ってるんでしょう。
いじめた子に対してもいじめられた子に対しても、冷たく突き放してるように感じます。

いじめのしんどさは、普通の良心も邪心ももったふつうの人たちの中で起こるからしんどいんです。

悪者対犠牲者(犠牲者はあくまでも心が美しい)というような本書のような場合は、現実ではあり得ない。

この本が世の中に広がることでいじめについての認識がゆがんで伝えられてしまう。

今の時代じゃなければ、この内容も有りかもしれないけど、いじめが取りざたされてるときに出す内容じゃないでしょ。
作者は、今だから出したのかもしれないけど。

虐められてる主人公が思春期の子どもでなく、できあがっちゃった大人みたいです。
虐められてるときは、もっと自己否定や死にたい気持ちが強いだろうに、妙に周囲や自分を客観的にみていて、現実感がありません。
虐める側の人間も、未完成な中学生ということを忘れて、完全に「悪」です。
クラスの中に心を痛めながら、何もできない生徒もいるはずなのに、すべてが「僕」を見下している「敵」です。

現実の世界というより、どこか、現実とは違う抽象的に悪と善が分かれている世界の出来事のようです。

一人の人間の中の善も悪も混在した心理を描いてほしい。

いじめの描写は残酷でよく描かれていますが、いじめの一番きつい点は、精神を追い詰めてしまうところです。そこのところを描ききってほしかった。

虐める子も、虐められる子も、また傍観する子も、様々な矛盾をはらんだ未完成の人間で、葛藤を持ちながら生きてるのだから。

いじめについて書かれた本で一番良かったのは「大津中2いじめ自殺」共同通信大阪社会部 (PHP親書)です。
いじめる子、いじめられた子についても客観的に書かれていて、また学校のあり方にも客観的でした。
犯人捜しをするのでなく、学校教育のあり方を問うている姿勢に共感しました。
著者の子どもたちや遺族への誠実な思いが伝わってきます。

いじめを議論するとはこのようなことではないでしょうか。いじめられて死んでしまった子だけでなく、未熟な育ち方をしたいじめっ子の将来もなくなってしまうのです。

「ヘブン」のような、」追い詰められた人の心への共感のない、いじめの描写は、悲しくなります。
ヘヴンAmazon書評・レビュー:ヘヴンより
4062157721
No.86:
(4pt)

意欲作

いじめる側、いじめられる側の構造・論理を、独自の解釈で描いた意欲作です。ラストの展開を含め違和感を覚える場面も、著者が真摯に作品に向き合った苦悩の痕跡だとプラスに受け取ることができました。文脈を彩る文学的な表現はさすが!嫌味なく胸に響きます。
ヘヴンAmazon書評・レビュー:ヘヴンより
4062157721
No.85:
(3pt)

途中までは良かったが。

途中まではいじめられっ子である主人公の少年とコジマという少女が、少しずつ近づいていく様が繊細に書かれていて良かった。でも中盤で「ぼく」と、いじめっ子のリーダーの二ノ宮と仲の良い百瀬が病院で偶然出会うシーンから一転してしまう。いじめられっ子の「ぼく」が急に積極的になり、おおよそいじめられっ子とは思えないような大胆な言動を突然みせはじめるのだ。ここでぼくは興ざめした。百瀬の言葉は物語の体験として語られるべきだった。その後の展開も前半の物語から一転して、作者の思想を語るための無理矢理な展開になってしまったように思われる。
この小説の一番重要な部分はコジマにあると思うが、コジマにリアリティを感じられるかどうか、あるいはコジマの思考についていけるかどうか、にこの小説の成否はかかっていると思う。自らをあえて汚していじめられっ子にとどまろうとすることは異常であるが、その理由が読者を納得させられるくらいに切実なものであったならまだ話についていけたと思う。しかし、その理由が簡単に言ってしまえば父親が可哀想だからという程度の理由なのである。それならばそんな可哀想な立場にある自分のために自分の娘が敢えて汚くしていじめを受けていることを父親が知ったら、それこそ父親を悲しませることになるとコジマは考えられないのだろうか、とぼくは思わずにはいられない。コジマという人物は作者が思想を語るために創造された人間味のないキャラクターである。そしてそれは百瀬にもあてはまる。
中盤に百瀬が語る内容は作者の考えそのままなのかもしれないが、この考えはやはり甘いと思う。百瀬は未熟であり、世界も自分も知らない。世界は弱肉強食では語り尽くせない(実際に強者が弱者に負けることもある)。人間社会は欲求に従って生きていけば滅びてしまう(動物の世界では大いなる自然によってコントロールされているが人間は違うのだ)。百瀬は自分もいつでも絶望の、弱者のどん底に突き落とされる可能性があり、そうしたどん底でも果たして「たまたまそうなった」とか「意味なんてない、みんなただしたいことをやっているだけ」などと語れるのかどうかが問題である。人は絶望のどん底に突き落とされたとき、自らの無力を知り、神や自然などにすがるのである。だから神はいないなど(天国や地獄はないなど)簡単には言えないのである。どん底にいる人にとって、それらはあるのかないのかではなく、まさに必要なのだから。百瀬の声(作者?)には切実なものがない、故に未熟なのだ。コジマに関しても、自ら汚れいじめられる立場に甘んじようとしている限り、甘い(否応なくその立場に突き落とされたわけではないから)。そして「ぼく」も斜視を治せば簡単にその立場から逃れられるのであれば(現実にはそんなに単純ではないのであるが、いじめの構造は)、やはり甘い。どうあがいても逃れられないようなまさに絶望のどん底において(まさに罪と罰のソーニャのような)、弱さが強さにもなりうるのだという価値の転換がぎりぎりのところで苦し紛れに行われるのである。そういう描かれ方がされたなら、この小説は現実を凌駕するほどの迫真を持ち得たと思う。作者はいじめの描写の凄惨さによって、「ぼく」やコジマが置かれた立場の深刻さを表したかったのだろうが、それならば簡単な逃げ道を容易してはいけなかったのではないか。「ぼく」は斜視を治すことで苦境を脱することができた。コジマも抜け出そうと思えばいつでも抜け出せる。いじめの構造は現実にはもっと泥沼で、だからこそ自殺者がでてしまうのだ。
ヘヴンAmazon書評・レビュー:ヘヴンより
4062157721
No.84:
(2pt)

気持ちが沈みたい人向けなのでしょうか

冒頭の文章から今後の展開が期待できたので読み進めたが、読み進めるにつれイジメにあっている主人公があまりにも惨めであり、どんどん気持ちが沈んでいくばかり。

著者はイジメを正当化しているわけではないと思うが、イジメる側の発言はあまりにも自分勝手で無責任。実際にイジメをしている人間の発想はこんな感じなんだろうが、何一つこちらには響かなかった。
ヘヴンAmazon書評・レビュー:ヘヴンより
4062157721
No.83:
(1pt)

悪や正義は論じられているか?

登場人物の描写が少なく、なかなか感情移入が難しい。

また、文庫版には、「正義とは、悪とは…」と考えたとのことであるが、
本書内描かれているのは、一方的な悪であり、
一般的には考えにくい”常識”、考え方であった。

百瀬の考え方は、達観しているところはあるが、
一般的な悪と対比的に用いるには、
離れたところにあり、「悪とは」を考える考察には、
成りにくいのではないだろうか。

また、コジマの正義も、いくぶん受け入れがたいものであり、
一般的な正義とはこちらも対比しにくい。

また、散文形式であるから、細かな説明、詳細な設定等は、
必要ないが、最低限の説明はしてほしいところだし、

本書においては、あえてそれをしていない事は、
”逃げ”のような気がしてしまうのは、私だけだろうか。
ヘヴンAmazon書評・レビュー:ヘヴンより
4062157721
No.82:
(5pt)

「美人女流芥川賞作家が現代日本のいじめ問題を取り上げた話題作」

・・・・とかいう宣伝文句につられて読むと、意表を突かれるかも。

確かにまあ一応はその通りではあるんだけど、一見わかりやすそうで、実はなかなか奥の深い純文学作品。

なんというか、一読しただけではわからない、作者の狙いや思いが、話の展開の行間や、ちょっとした細部なんかに織り込まれた傑作。

理念や観念を支えに生きることの美しさと危うさ、生の実存的苦しみと出口の模索、生と俗との対比、等を通じながら、苦しみを受けた存在である我々にとって、「ヘヴン」はどこにあるのか、を作家は問うているように思える。

そして自分が読んで感じたところでは、それは他でもないこの世界の中にしかないし、この世界の中にあることを見いだせと、作家は訴えているように思われた。

読書会のメンバーの考えはとても一致にはほど遠かったけど(笑)

とはいえ、簡単に意見の一致などさせないところが、作品が純文学である証だともいえるわけで・・・・

このような作品と巡り会えた僥倖に感謝したいと思う。
ヘヴンAmazon書評・レビュー:ヘヴンより
4062157721
No.81:
(4pt)

苛めをするやつに罪悪感を問うのは無駄なんだと

知りました。したいからする。というのが本音? では、いじめってもうDNAに組み込まれたひとつの装置なのかもと思います。
そんな理不尽なものに立ち向かうのは割が合わない。ある意味、負の感情にのっとられた化け物を相手に人間ができることって相手を殺すしかないんじゃないかと。ほんとうに殺してしまっては、同じ犯罪者におちるだけ。さっさと断ち切って、自分の人生から退場してもらう=逃げだすのが正しいと思う。
負のDNAに犯されたビョウキのやつらなんか相手にするだけ自分が傷つくだけ。相手は自分がビョウキなんて知らないんだから。あげくに、自分を殺してしまったり、相手を殺してしまうくらいなら、積極的に逃げ出してほしいと思う。
苛められる側に、殺したい衝動があっても、その暴力を実行できる人と、できない人がいる。そこをちゃんと書いてくれていたことで、わたしはこの作品を評価します。
ヘヴンAmazon書評・レビュー:ヘヴンより
4062157721
No.80:
(1pt)

空疎ないじめ論

残酷なシーンばかりを煽情的に披露し、しかし登場人物は血の通っていない人形ばかりで、要はすべてがいじめに関する浅薄な持論を展開するための道具に過ぎない。
小説に必要な真の肉付けがなく、骨だけがさらされていて、だからこそ一見驚きもするが、実はできそこないの骨格標本にすぎない。
いじめという社会問題にも、善悪という根源的倫理の問題にもなんの石も投じない作品。
ヘヴンAmazon書評・レビュー:ヘヴンより
4062157721
No.79:
(2pt)

キャラクターが「人間」ではないように感じた。

うーむ。これは不満。どうも波長が合わなかった。

これは、いじめられている中学生を書いたものではなく、
中学生の形をしたハリボテを使って、作者の意図を語らせたようにしか思えない。
あえてそうした、という気もするけれど、そうした手法は僕には響かなかった。
ヘヴンAmazon書評・レビュー:ヘヴンより
4062157721
No.78:
(4pt)

イジメの根源を問う青春小説

イジメに意味を見出し、受動的にやられるのでなく、自ら引き受けることで強くなろうとするコジマ。
イジメをすることに意味などなく、たまたまその時の欲求が一致しただけだと吐き捨てる百瀬。
その間を揺れ動く主人公。
イジメの描写は凄惨で見ていて辛いが、物語としては面白い。結末に流れてゆくまでの怒涛の展開に圧巻。
小説として面白いだけでなく、「善」や「悪」と言った当たり前のことについても考えるキッカケを与えてくれる読み物としても面白いです。
オススメです。
ヘヴンAmazon書評・レビュー:ヘヴンより
4062157721
No.77:
(4pt)

二つの思想、それでも世界は美しい。

弱者、異端、異物を排除しようとする力。それは弱く、正しくないものだ。
だけど、それは存在する。
私たちが、弱者としてそういう正しくない力の受け皿にならなくてはいけない。
それは正しく、世界でいちばん大切な強さなんだ。
というコジマの思想。

この世界に善悪など存在しない。
あるのは、世界中の人々の欲求だけだ。
天国や地獄というものがあるとしたら、それはこの世界のことだ。
そして、そこに意味などない。
という百瀬の思想。

コジマの形而上の思想か。
百瀬の現実の哲学か。
そして“僕”は。

物語の最後。
すべてを受け入れた「コジマが百瀬に手をのばしかけたとき」
現実の力にはばまれた。
“ヘヴン”は“現実”を捕まえることができなかった。
それは、相容れることができないものだから。

そして、“僕”は人生を変える決断をする。
“ヘヴン”を見ることはできなかった。
けれども、僕の見たものはただ美しい世界だった。
誰かに伝えることもない、ただの美しさだった。

これは、単なるいじめ問題を小説にしただけの作品ではないと思う。
作者の哲学。この世界に対する答え。そういうものが凝縮されていた。
そして、読者に考えさせる意味深なシーン。
たとえば、コジマが“僕”の髪を切るところや、百瀬と美しい女子生徒(おそらく妹)とのシーン。
再読に耐えうる文学作品だと思います。
ヘヴンAmazon書評・レビュー:ヘヴンより
4062157721

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