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ヘヴン
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ヘヴンの評価:
書評・レビュー点数毎のグラフです | 平均点3.41pt |
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Amazonサイトに投稿されている書評・レビュー一覧です
※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
未読の方はご注意ください
全156件 41~60 3/8ページ
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2009年に出版されたものだが、いまになってはじめて川上未映子の作品『ヘヴン』を読了する。だが、いま読みおえても10年間の隔たりはまったく感じられないことがわかる。 本著はきわめて衝撃的な作品とはいえ物語の構図はきわめてシンプルといえる。つまり、苛める側とそれを受ける側のはっきりした二極化で構成され描かれているのだ。だが、この作品がおもしろいのは苛めの対象となった二人が接近しコミュニケーションをとりながら過酷な状況をのりこえようとするところだろう。 生々しい苛めの描写だけでなく読者をひきつける力強さと緊張感その筆力はきわだっていて説得力もある。それゆえに作品のインパクトは衝撃的でさえある。 ひと言で苛めといっても現代社会が抱える特異な病理現象のようにみられがちだが、ある意味で私たち人間が抱える普遍的な命題とも考えられるのである。 ここでは周囲の人とは少しちがう些細なことから苛めの対象とされたコジマとロンパリとよばれるぼくが設定される。つまり、ぼくは斜視でコジマは汚れた容姿をもつだけで一方的に苛められ抵抗さえできない状況にあるのだ。しかもその過酷な状況はクラスの全員で共有されていて“外”には決して洩れ伝わることも家族に知られることもない。二人は手紙を通じて互いに言葉を交わし、ときどき会って話すようになっていくが二人への苛めはますますエスカレートする。二人の関係は手紙のやりとりで少しずつ心の支えともとれる存在に変わっていく。 コジマは自分の家族について離婚した父と母の暮らしと目茶苦茶になっていく家族の関係について感情をぶつけるように語る。別の人と再婚して裕福な暮らしを自分と母はしているけれど、靴も作業着も汚れたままひとりで暮らす父への思いについて熱く話すのだった。 「・・・わたしがこんなふうに汚くしているのは、お父さんを忘れないようにってだけのことなんだもの。お父さんと一緒に暮らしたってことのしるしのようなものなんだもの。・・・」(p94) 「わたしは君の目がすき」とコジマは言った。 「まえにも言ったけど、大事なしるしだもの。その目は、君そのものなんだよ」とコジマは言った。(p139) さらに、コジマは弱いからされるままになっているのじゃなく、状況を受け入れることによって意味のあることをしているという。やや自虐的なロジックに聞こえるけれどそれなりに説得力はある。 苛めの状況はさらにエスカレートしていく中でぼくはある日、二宮とともに苛める側にいる百瀬と激しく言い合うことになるが物語は思いがけない展開をみせる。病院の医師から斜視の手術のことをすすめられそのことをコジマに打ち明けるがコジマは大きく動揺し混乱する。 最終章の雨の日のくじら公園でのできごと、斜視(しるし)の手術をすることへの決断、物語はいよいよクライマックスを向かえていく。 本著は表面的には権力、暴力、欲望、支配というおよそ人間の理性とは対極にある行動原理のあやまちと正当性について問いかける作品ともいえそうだが、最近のトレンドでいえば反知性主義とでもいったところか。 なるほど、この圧倒する筆力と読者をひきつける凄まじい展開は衝撃的であり見事というほかない。川上未映子、並々ならぬ才能とすぐれた言語感覚を持ちあわせた作家であることはまちがいない。 | ||||
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主人公の「僕」は斜視で、それが原因で二ノ宮とその取り巻きたちからイジメを受けている。そしてクラスメートのコジマという女子も、女子グループから「汚い、臭い、貧乏」ということでイジメを受けている。 イジメの内容についての描写はかなりあるが、イジメそのものを扱った小説ではないと思う。 コジマは「私と君は仲間だと思う」ということで手紙を書いてきて、二人の交流が始まる。 世界をどのように見るのか。その状況や自分の行動に対して意味を見出していくのか、それとも単一の意味などは存在せず、欲求のみが存在するという見方をするのか。 例えば、イジメという自分に降りかかってきた理不尽な状況をどのように受け止めるか。 コジマは「僕」と立場を同一視するが、微妙な違いがあり、その違いによって物語は展開する。 コジマは実の父親との繋がりを自分の人生の中に位置付けて確認するために、「あえて」汚く貧しく臭い格好をしている。それを理由にしてイジメを受けても彼女は不抵抗であることを決める。このスタイルは自分が選びとっている。抵抗したり、逃げ出したり、その格好を止めることは、彼らの正しさを認めることであり、それは負けることであると。そしてこの非抵抗によってイジメに立ち向かうことは、いずれ必ず大きな意味を持つことになると。意味をもたずに空気だけでイジメに加担している子達よりも、意味を理解しながらその状況を受け入れていくことは「強いこと」であると、ひどいイジメを受けた後の「僕」に諭す。そこには神が人となっても神の子であるというアイデンティティは失わない、受肉の優しさと強さも感じさせる。 「僕」がイジメられる理由は、斜視にある。彼は幼い頃に手術を受けるが失敗し、一生治らないものと思って、そのイジメを受け入れていく。「私は君のその斜視の目が好きだ」とコジマから言われ、自分のこの斜視には意味があるという言葉に励まされるが、同じように不抵抗で状況を受け入れることに次第に限界を感じていく。 そして、医者から斜視は簡単な手術で治るもので、費用も一万五千円ほどであることを知る。斜視であることにアイデンティティを見出そうとしていた「僕」はコジマに相談するが、コジマは拒絶し、そのように逃げる者は自分の仲間ではないとして関係を絶たれてしまう。 斜視の相談と前後して、「僕」は二ノ宮のグループの百瀬と話す。なぜ自分をいじめるのか、そこにどんな意味を見出しているのか、という質問に対して、そんなのに意味なんか感じていないしそんなことはどうでもいい、たまたまその状況にあるだけで、欲求に従っているだけだ、君も嫌なら不登校なり周りに訴えるなり仕返しをするなりすればいいのだ、それをしないということは、意味の存在しないこの世界にあっては欲求に従える人間と従うことのできない人間がいるというだけの話だ、と平然と言ってのける。意味を見出そうとするのは、意味がないという真実に耐えられない弱い人間がすることであって、この世界には意味ではなくただ欲求のみが存在するのだと。 物語のクライマックス、「僕」とコジマは二ノ宮のグループに囲まれ、ここで二人でセックスしろと求められる。それだけは許してくれと懇願し以前コジマが言っていた意味で「屈する」一方で、手に入れた石で反撃をするチャンスがあっても百瀬に指摘されたようにそれをすることができない「僕」。コジマは不抵抗を貫き、彼女は自らと全裸となってその状況を受け入れて見せ、笑いながらその囲んでいる者たちの顔を撫で始める。その「強さ」にほぼ全員が逃げ出し、二ノ宮と百瀬は立ち尽くす。しかし我に帰った二ノ宮は全裸のコジマを倒すが、その時通りがかりの人に目撃されてイジメが発覚することで、物語の展開は終わる。その後、コジマや二ノ宮グループがどうなったかは描かれない。 エピローグ、「僕」は母親と相談して斜視の手術を受けることに決める。アイデンティティのように大切な者であるなら、それはなにをしても意識の中に残るし、そうでないなら残らない。どちらにせよ、解決できることは解決した方が良いと勧められ、手術を受ける。手術後、斜視でなくなった「僕」はよく見える世界の美しさに感動して、物語は終わる。 自分の目の前の出来事には、自分の選択には意味があるのかないのか。ただの欲求の総集に過ぎないのか。外から意味を教えられても自分のものとして受け取ることはできないこと。納得できない状況を解決できるならば、それまでの問いが意外に小さいことであったという実存的な雰囲気も感じられる作品。 | ||||
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作者に弱者の気持ちは理解できないし、 理解しようとしないということがよくわかりました。 作者は加害者側の視点の筆致のほうが生き生きとしているようでした。 インタビューで、もっと主人公をひどい状況に追い込みたくなったと言っていましたし、 それが作者の本質なのではないでしょうか。 クラスのヒエラルキー上位の人間が書いたような話で、 肩透かし、怒りを覚えるような作品でした。 | ||||
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作者は実際にいじめを受けたことのない人だということだけは理解出来ました。 いじめを題材にして違うテーマを書くことは止めて頂きたかった。 書くのであればいじめにより壊れていく人間の精神世界等きちんといじめと関わりのあるテーマで純文学をするべきだと思いました。 実際に酷いいじめを受けていた人間が読むとヘドが出るほど理想論な世界です。 作者はされる側ではなくした側だったのかなと疑念を抱いた程でした。 | ||||
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確か自分自身の事をフェミニストといい、その手の話題になると感情的になることから若干マイナスのイメージで読み始めたのですが、正直読みやすく、どちらかと言えば面白かったです。ただ自分としてはもう少し違った結末、展開を期待したし、性的な表現もちょっと違うかな、と。 | ||||
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元ホステスらしく、裏と表を使い分けるのが上手そうな作家らしい小説です。この人は被害を受けた経験はまずないでしょう。加害者側か若しくは傍観者タイプの人が書いたことが分かる内容でした。 村上春樹風に書いて、それらしく見せかけていますが、何の個性もなく、また虐めのテーマでは何も読者に伝えることが出来ていません。 | ||||
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しばらく前に読んだ作品です。稚拙な独りよがりの可能性もありますので、他のレビューと相照らして読んでください。 「完全な善と完全な悪の対峙」というのがテーマの一つとして挙げられますが、それだけでは内容が薄いでしょう。(倫理や哲学では昔から議論されてきたテーマだと思います。私はその分野に詳しいわけではないですが) いじめの中身も一方的で、凄惨なものですが、決していじめの評論のような作品にしようと思って書いた訳でもないでしょう。(いじめを取り出すのであれば、加害者側の心理描写や周囲の環境なども書くはず) では、この本の”本流となるテーマ”はなんなのでしょうか?正直私にも分かりません。 ただ、そのヒントは、コジマと主人公の間にありそうです。つまり、この二人の関係性、あるいは主人公の言動や思考の中にこの作品の核心があるとみて良いでしょう。そして、その核心が姿を表す描写は最後に集中しています。主人公は、最後の方でコジマを思い浮かべながらマスターベーションをします。(女性には少し理解しがたい場面かもしれません)この描写が大きな意味を持つように私は考えました。なぜなら、主人公のコジマに対する捉え方、つまり、自分から見たコジマの立ち位置がその時に変化したものだと推測できるからです。主人公はいままで、コジマを思い浮かべながらマスターベーションしたことはなかったと言っています。また、公園に呼び出された後の一連の描写とも関係性があると思います。 最後、主人公は斜視を直して銀杏並木を見るところで終わります。陳腐な考え方をすれば、前の方でコジマが「あかし」を持っていたのと同様に斜視こそが彼の「あかし」であり、その「あかし」から逃れることにより世界をまっすぐに見ることができた、という解釈になりますが、なんか腑に落ちない…考えると深みにはまります。 ちなみに、ストイックというタイトルは、描写の苛烈さ、この作品を書いた川上さんの苦痛(私の想像)からつけたものです。 | ||||
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消化不良気味に終わってしまうので「なんでやねん?」って、大阪弁風味いっぱいの気にもさせるけど、「ま、これでええかも!」っていう気にもさせる佳作品。大阪弁を離れたのも、いじめのメッカともいえる標準語使用地域が舞台だから!っていうことなのかどうかは、さておき、ここでも「ま、ええか!」っていうことなのか。 デビュー2作品は立て続けに読んでしまったけれども、テーマがテーマだけに、今まで積んどく状態だったこの御本。 へヴンてなんやねん? コジマはどうなったん?二ノ宮は?百瀬は?って、気にもなるけど、継母は継母であってもそれなりに母親!っていうことが、最後にわかるところがいいここでも佳作品。 | ||||
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途中までは良かったけど、後半以降読むのがキツくなってきました。 救われないとか、そういう感情的な部分を抜きとして 段々、非現実的に感じ始めたからです。 | ||||
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どなかたかも書いてますが、ドストエフスキーを感じました。カラマーゾフ。 百瀬が語る場面が大審問官に相当するんでしょうね。 川上未映子は「いじめ」というテーマを情緒で処理するのを嫌った。 小説でありながら論理でいじめの構造に迫ったという印象です。意欲作。 | ||||
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可もなく不可もなく、結局何だったんだ?何が伝えたいのかあまりよくわからなかった。 他の作品でもあるけど、その描写いる?と思うのが多い(部屋での射精のくだり等) 面白いかと言われるとそうでもないけど、つまらないわけでもない。 ただこの人の小説は読みやすいのでスイスイ読めます。 | ||||
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とても生々しい小説です。 イジメられる若者と苛める若者の本音がぶつかり合います。 何が彼らをそうさせるのか?それを考えさせられる一冊です。 | ||||
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川上 未映子 さんの作品をまとめて読んでみたのですが、 正直この程度かという印象。 この人が本物という事はないでしょう。 | ||||
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いじめという犯罪事実を事象として取り上げつつ、 でも、それに留まらない作者の世の中のありように対する 分析を表現しようとしているように感じた。 いじめのそれなりに凄惨なシーンが ある程度具体的に描写されているので、 人によっては読み飛ばしたくなる衝動に駆られるかもしれない。 別に読み飛ばしても構わないと思う。 そこにこの小説の本質的な部分はないと思うから。 けど、もし、主人公を通して作者の弱肉強食や人の衝動に対する 考え方を述べているのなら、あまりにも薄っぺらいように思った。 たぶん、それなりに最後は凄惨な結果に終わらせず、 何となく明るい結末で終わらせたのは、 小説的にはいじめに対する2つの対応の対比を書いたようにも思えるが、 単に作者がこういう問題を題材にして、それを凄惨な結末として 終わりにできない作者なりの躊躇というか、ためらいがあったように思う。 それと、おそらく主人公のような子ならイジメに遭わないようにも思えた。 この作者の作品は初めて読んだけど、 もう読まないかもしれない。 | ||||
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この小説のすぐれている点は、予定調和的な筋ではないということ、そして何よりも迫力のある描写だろう。以上は小説家として素晴らしい技量だと思う。共感できなかったのは、登場人物の思考が中学生のそれではないということだ(登場人物は大学生くらいが適していると思った)。 では、具体的に述べたい。 自分たちは意味を知っていじめを受け入れているというコジマの主張には感動する。しかしそれなら結末に近いところで二人(「僕」とコジマ)とも暴力を受けた後、「それが僕が見た最後のコジマの姿になった」のはなぜか、理解できなかった。この小説の結末に関して、コジマを称える終わり方を私は望んでいたのだが(四十年以上前、学園紛争が激しかったころ、自分は無力だ、自分に出来ることはこれくらいだ、と言って真冬の構内でハンストを試みた教授がいた。コジマはそこに連なるのかと期待していたのだが)、コジマは正体不明のまま小説世界から消えた。 「僕」と病院で出会った百瀬との議論についてだが、百瀬の考えは成熟していない。<誰でも自分の考えを持ち、それを実行する自由があるが、それを実行できるかどうかは人によって異なる>みたいな考えは受け入れがたい。時事問題となっている少女誘拐や無差別殺人をしていいと言う人はいない。百瀬の理屈を読まされる読者はちょっとフラストレーションを感じる。 いじめについての作者の認識は、残念ながら、実態と大きくずれているように思う(特に前半)。主人公もコジマも、あれほどの暴力を受けていれば、学校に行く気がしないはず(とても落ち着いて勉強できない。引き出しの中も見られるだろうから、引き出しの中に伝言を張ることはできない)。さらに、「僕」は外出も容易ではないのではないか(二ノ宮たちと会う恐れがある)。コジマも外出はいやなはずで、そうなると二人が手紙のやり取りを何度も重ねる設定は非現実的だ(いじめられる側が、放課後は自由に振る舞えるのなら、いったいそれはどんないじめなのか)。いじめの首謀者二ノ宮は、成績が良く、ハンサムで、スポーツも得意、先生からは認められ、他の生徒からも人気があるようだが、こういう生徒がいじめたりするだろうか。いじめの首謀者はどこかで破綻しているものだ。また、顔面に大怪我をした主人公を見た担任がその怪我を追及しないのもおかしい。このように凄惨ないじめがある以上、その学校は学校の体を成していないはずだが、そのことに触れられていないのも納得できない。 さらに、細かい点で私の推測を付け加えれば、夏休みに入ると主人公は宿題をすぐに仕上げてしまったようだが、まさか? と思った。どうして勉強に意欲的に取り組めるのか。私の知っている被害者の子は、夏休みに入った途端昼夜逆転の生活を始めた。それが一番安全だからだ(家の中では安全、という小説中の「僕」の気持ちは、私には理解できない。いじめる側は家の外をうろつく。大声で呼び掛ければ家の中にいても聞こえる。また匿名の電話という手段もある)。もう一つ、主人公の継母が初めの頃は主人公のいじめに対して鈍感で(子がいじめられていることに気づかない)、いじめを知った後では理想的な母親に変身する(子をすべて信じて、学校に行かなくてもいいと言う)。これは少々不自然に感じた(数年の葛藤を経たのち、親はやっと変れるのではないか)。 結論:「僕」はいじめに対して徹底して受け身を貫き、斜視の手術だけは積極的に受けて、最後はいじめ解決の兆しがほの見えた、というストーリーだ。しかしこのような受け身を貫くことができる生徒はめったにいないのではないか。川上氏は、個々のいじめの事例には極めて詳しくその描写もすばらしいが、暴力による精神的ダメージについては無頓着であるような印象を受けた(日常的に暴力を受けているような子が、どうして毎日他の生徒より早く登校できるのか)。にもかかわらず、作品は小説として完璧に仕上がっているように思える。川上氏は、小説を書こうと思えば、小説が書ける人なんだと思う(この意味は、私が小説を書こうと思っても小説に成らないということ)。 | ||||
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いじめられる主人公、いじめる二ノ宮や百瀬、そこに登場するマイペースな不思議っこコジマ、この関係は次第に強烈さをまし、くじら公園での事件に発展するのだが、そこには金色の雨が降るといったような不思議さが漂っている。コジマという少女には最後まで現実感がないけれど、これはまあ狂言廻しということだろう。しかし中学二年という設定は、百瀬と主人公の対話部分のレベルをみるとちょっと無理がある。あんな話ができるのは高校生くらいでしょう。 ともかく、主人公はくじら公園での事件以降、コジマには会っていないという。そこで終わるのは何だなあ、と思っていたら、最終章があった。要するにサロートの言葉のように彼はコジマの呪縛を超えたのだろう。目の手術をして「開眼経験」を持てるようになったのとともに目を閉じた、ともいえる。実際にはコジマは脊椎損傷で寝たきりになってしまったのかもしれないし、二ノ宮たちは補導されて施設に入れられてしまったのかもしれない。ともかく学校とは縁を切った主人公は斜視の手術とともに清々しい明るさを持てるようになる。結構、結構。 というわけで、物語作者としてのベテランが本領を発揮した作品といえる。 | ||||
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又吉先生のオススメということで読んでみたが、がっかりした。 残酷さを売りにしてるだけ、 自分に読解力がないだけかもしれないが、何か面白いか分からなかった。 精神的に参って病んでるいじめられっ子がこんな思考が出来るわけがない。 まぁ創作、表現の自由だから何を書いても良いと思うが、自分的にはハズレでした。 | ||||
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いじめられている中学2年生が主人公の作品です。 主人公の内省、 同じクラスでいじめられている女の子と主人公の会話、 いじめている男の子と主人公の会話、 どれも深いです。 なぜ人はいじめられるのか、なぜ人はいじめるのかについて 著者がとても考えた上で書かれた作品だからなのでしょう。 なので、登場人物の中学2年生の頭が良過ぎます。 中学生ではそこまで考えられないでしょう。 いや、考えはするでしょうが、冷静に客観的は捉え切れないでしょう。 大人になって、当時はそこまで思いを言葉にできなかったけど 今振り返れば、そう思っていたんだろうな、ということが 非常に適切に表現されています。 そのため、リアリティとしては欠くように思えたので ★★★としました。 | ||||
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正直、いじめの描写は、見たくない読みたくないテーマで、読んでいてつらく、目を覆いたくなりました。 が、文章力でぐいぐい引き込まれ、一気にラストまで読んでしまいました。 いじめられる側の、弱さを受け入れることの「意味」に、いじめる側(それを看過する側)の論理である、人間の欲望における「無意味」さを対峙させて、主人公の中に相克を引き起こす構成はスリリングで、読み応えがありました。個人的には、コジマの手紙やせりふの細部、描写の的確さが素晴らしいと思いました。自意識過剰になりがちなテーマでありながら、最後まで、人物との距離を保って描き切っているのは、著者の力量と思います。また、登場人物が、主人公から見て非常に浅く描かれているのも、そこが狙いであると思いました。いっしょに住んでいるのに、表面的な会話だけの継母(ある日いきなり家にやって来た)。たまにしか会わない父親。表面的な心配しかしない教師や医師。その救いのなさが、現代社会のリアルだと私は感じました。 本来であれば、5つ星ですが、途中で出てきた、二ノ宮のトイレのシーン、百瀬の妹のシーン、百瀬と二ノ宮の関係性など、伏線かと思わせる部分が回収されていなかったことと、ラストシーンが無駄に美しいことの意味がいまいち腑に落ちなかったので、マイナス1です。でも、読む価値は十分ありです。 | ||||
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(物語の筋や結末などに触れています。) この本の前に読んだのは 中原昌也 マリ&フィフィの虐殺ソングブック 芥川龍之介 地獄変・偸盗(短編集) 阿部和重 グランド・フィナーレ イジメについての小説というよりも、(根底では通じてるだろうけれど)倫理的問題、作中では複数の主張、主に僕、コジマ、百瀬(母さんや外科医もか)の三点を対立させてる。観念的な小説とも言える。また、作中で触れられるけれど、子供に関して、学校・金銭(労働)・離婚は、社会的に重要な意義を持つだろう。 「僕」の主張は、相互性の原理を基にした善悪の価値判断。 コジマは、実利ではない曖昧で観念的な目的の為に苦難の受容を説く。恐らく、その目的が達成されたかどうかは、誰にも判断できない。 百瀬は、偶然性に基づく状況にあって、自らに利するよう個々人が自らの行為を決定すると言う。 社会にあって、三つの主張はそれぞれそれなりに有用だろう。 「僕」のものは、作中にもあるように道徳のひとつとして教えられ、また、相互性の原理は、交換(貿易・労使)を支える原理として機能する。全く同じものを与えるわけではないけれど、それに準ずることとして、与えることの同質性を重視する。(与えるという行為の点では同じだが、与えるもの・ことが異なる点で交換は成立する。) コジマのものは、観念的な目標、例えば、より良い社会・理想的な教育環境といった言説を支える。平等や権利といった理念の達成といったものも観念的目標であるが、それを目標とすることができるということは、歴史的成果とも言えるだろう。 百瀬のものは、個人主義を支え、そのときの状況により協力したり、敵対したりする。これは、競争をも支える。(作中でははっきりとは書かれないけれど、恐らく、二ノ宮と百瀬はゲイだろう。この偶然と成立は、百瀬のニヒリズムを強化し、二ノ宮を混乱させた。)(斜視もそうだけれど、親の離婚を子供が止めることは難しい。というよりも離婚は、子供に無力感を与えるだろう。これは、作中のイジメの受容とも対応する。また、人間は世界に文句を言い続けていると言える。天災をさけ、独裁者を退けたりもする。) 三者の配置としては、常識的な「僕」を間に挟み、超越的な目的を孤独に目指すコジマ、実践的なニヒリストの百瀬という構図だろう。(コジマの名はコジマ・ワーグナーからか) 三者のいわば止揚として、母さんと外科医が置かれる。彼らは思想など語らず、学校に行かなくてもいいと言い、手術を勧める。 イジメの問題に実践的に対処するなら、「逃げてはいけない」「言ってはいけない」この二つの抑圧から開放することが、重要だ。(最近は変わってきたかもしれないが)学校はイジメを認めたがらず、転校や休学は簡単には受け入れられない(地域にもよるだろうが、粘り強く交渉しなければならない)。事件が起これば対処するが、残念ながら、報告・連絡・相談は、学校や警察などの官僚的組織ではなかなか有効でない。逃げ場があることと、言えることを子供に実感させねばならない。日本の子供達はアルコール依存も不倫もしない(外国ではわからない、あるかもしれない)。また、イジメが発覚したとしても、加害者の生徒を罰することは、公教育制度上でも法制度上でも困難だろう。 イジメが社会問題であるなら、当事者を語るより、学校や省庁や刑法の未成年者への扱いの改善を検討すべきだろう。人員を増やすなど公教育により金をかけるべきかもしれない。英語やバソコンよりも、いじめや不登校への対処、具体的には問題の認知、転校・休学などの対応を積極的にとるべきだ。 共同体・組織などへの帰属に関しても、より流動性が保たれたほうが望ましいと思う。倫理に於いても、効率に於いても。 | ||||
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