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ヘヴン
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ヘヴンの評価:
書評・レビュー点数毎のグラフです | 平均点3.41pt |
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Amazonサイトに投稿されている書評・レビュー一覧です
※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
未読の方はご注意ください
全156件 81~100 5/8ページ
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空想に近い現実で、持論をリズミカルに勢いとノリで吐き出すのがウリであったと思うけど、(わたくし率〜、乳と卵しか読んでいませんが)いじめというドシリと逃げ場のない現実を題材にしたことでただ屁理屈をごねた内容になってしまった。 しかも正直それは今一度言われなくても…みたいなわかりきったいじめの考察。 そしてこう言うんだったらこういう考えもあるでしょ。って作者自身が泥沼に入っていくような救い難さがあった。 セリフのシナリオっぽさも不快だった。 登場人物は人生一回生きてるような悟り感あるし。 いらない描写や不十分な設定も気になった。 それを感じさせないほど圧倒する内容であったように思ったけど(多分暴力シーンがあまりにも濃かったため)それは刹那的なもので、あとからじわじわ疑問となって浮かび上がってくる。 とにかく持ち味の説明的なくどさが、この作品にはマイナスにしかならなかった。 | ||||
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元々日本人作家さんの本はあまり読まないけど、以前から取り上げられていたので、読んでみました。 ラストはすごくもやっとしました。もうちょっと描写してほしかった。何を言いたかったのか全然分かりませんでした。 百瀬は悟りすぎてるし、コジマは自分で選んで虐めにあってるし、よく分かりません。 最後の公園のシーンで、結局二ノ宮はホモなのかとても気になりました。ホモと虐めとは関係ないから、そこは別に書かなくても…みたいな。 しかも、何もかもが中途半端で話のまとまりがないように思いました。 | ||||
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まず最初に、本作はいじめを否定するありがちな作品ではない。 かといって肯定もしていない。 いじめという要素を扱ってはいるが、メインテーマは「生きる」こと、そして生きているこの「世の中」だ。 様々な登場人物の発言があるが、その一つ一つに深みがあり考えさせられる。 誰の意見が正しいとか正しくないとかいうものではない。 いじめを受ける主人公を中心とした人間たちとその関係、周囲の環境から「生きる」ということについて考える機会を与えてもらった。 また、文章表現には目を見張るものがあり、その繊細さと表現力には終始ハッとさせられた。 決して難しい言葉、技術は用いていない。 とにかく「伝わってくる」文章なのだ。 これだけのクオリティを一貫して保てる力は素晴らしいと思う。 是非手にとって、そして何かを感じ、それについて考えて欲しい。 読み手が何を考えたかによって評価が大きく別れる作品だろう。 あまりレビューの良し悪しに影響されないでもらいたい。 | ||||
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女優もこなせる芥川賞作家の川上さんの長編ということで 読んでみました。 中学生の苛めがテーマですが完全に人称と語りの失敗ですね。 以下のような詩的(?)な表現も効果としてはハマっていない気 がします。 「僕はうすっぺらい紙でできた文字を目のまえの空間にひとつ ひとつ貼りつけていくようにして、ゆっくりと声をだした」 テーマ自体がとても現実的で微妙なものなので、この作品のような 中途半端なイメージと結論しかないのであれば、あえて手を出さないほうが 賢明なのではないかと思います。 ただ、関西出身で音楽もなさるようなのでテンポはいいと思いました。 Sex and the cityのような女性を中心とした軽妙な物語であれば 是非読んでみたい作家さんですね、私には。 | ||||
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いじめから生まれるそれぞれの主張。 それぞれが導き出す生きるための哲学。 それは正義か束縛か…はたまた無関心か? アニメーション的な世界観ではあるけれど 現実に落とす影は確かに感じられる。 自分が導き出す正義は結局の所、 他人とは分かり合えないのだろうか… 正解も返答もこの小説には何もない。 しかし、ラストに主人公が見た光、 それは必ず日々日常に溢れていると思いたい。 | ||||
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「したら罪悪感が芽生えるからか?じゃあなんで君には罪悪感がうまれて、僕には罪悪感がうまれない?どっちがまっとうなんだろう?」 この作品の百瀬というキャラクターはすこぶる格好いい。 他の方も書いているがそれこそ『カラマーゾフの兄弟』のイワンのような《理論こそ全て》といったような態度は「お前、絶対中学生じゃねえだろ」とツッコミをいれたくなること必至。だが、こんな風に世の中を達観している百瀬はおそらく《死》を常に傍らにあるものとして生きているのだろう。故に、体育に出れず、常に咳をしていて、体を激しく動かすようなことはできない。 「地獄があるとしたらここだし、天国があるとしたらそれもここだよ。ここがすべてだ。そんなことにはなんの意味もない。そして僕はそれが楽しくて仕方がない」 本音かどうかは兎も角として、彼のこの思想は《ヘヴン》を信じるコジマの考え方と真っ向から対立する。 弱肉強食の原理で動いている社会で生き残るためには強くなければいけない。 そこに善悪の概念など必要ない、むしろ邪魔なものだ。 だから、強くなればいいんだよ、というのが百瀬の考え方。 しかし、コジマは弱肉強食の原理だからこそ、弱いものが絶対に生まれるシステムだからこそ、誰かの代わりに率先して自分が弱いものになることが現世での《試練》であり、それを乗り越えることで自分の大好きな絵のような人と人が完全に判り合い、愛し合える世界、《ヘヴン》に行けると考えている。 だから、同じ《試練》を乗り越える仲間であった“僕”が「斜視を治すことができる」という話をした時、悲嘆し非難する。 「わかっていたんじゃなかったんだね」と。 まぁ、それはそうだ。 コジマは実は金持ちの子どもであり、体を清潔にしさえすれば、身なりをきちんとしさえすれば、いつでも弱者から脱出することはできたのだから。 「あえて」弱者でいたコジマと「望まないのに」弱者でいた“僕”は決定的に違ったのだ。 僕の人生は「一万五千円」で変わることになる。 コジマとの絆、母との絆を立ち切って、目の前に広がる景色はただただ美しいものだった。 百瀬の言うとおり、世界は残酷で、“僕”もそのシステムに飲まれ、斜視を治し、学校をやめて、弱者ではない生活を送ることになるだろう。 罪悪感もなく。 故に、二度とコジマとも会わないし、会えない。 悲しいラストは、“僕”にとっては幸せなラストでもある。 それがまた、悲しいのだ。 | ||||
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何ども読みたい小説は何冊かあるけど、2回連続で読んだのは今回が初めてでした。それほど興味深かった。 川上さんが普通の文体で、いじめをテーマに小説を書いたというのに興味が沸いて、今回読んだことで作家の熱というものをはっきりと感じる、そんな作品でした。そこには作家独特のひやりとした諦観があり、表現者としての少し熱すぎるくらいの思いを感じることができました。そういった意味でも、久しぶりに小説を読むことのすばらしさを感じました。 百瀬の存在は理性を揺さぶるし、だからこそもっと知りたくなりますね。個人的には百瀬の選択は首を振りたくなるけど、百瀬の考えには納得する。百瀬が自分を凌駕するものと対立したときの姿を見てみたい。 最後の主人公の選択にはホッとしました。意味は意味でしかないということもまたひとつなんだって、いつかコジマも受け入れてほしい。 | ||||
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テーマが重厚な割に、綺麗にまとまりすぎているという印象を受けました。 場面場面の描写にはハッとさせられるものがあり、 詩的で、情景が目に受かぶようではありましたが、 ストーリーに芯がなく、 他の方も書かれていたとおり、この作品は”習作”だと思いました。 「乳と卵」での粘りつくような言葉遣いは、関西人の私にも読みにくかったですが、 ヘヴンは逆に言葉が淡白で、川上さんらしい我の強さが感じられませんでした。 川上さんの個性が秘められたまま終わってしまったこの作品は、 次の作品へのステップの一作であるという位置づけです。 | ||||
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「いぢめ」を素材に、「理不尽」「不条理」という人生につきものの根源的な問いを扱った、かなり深い小説。ほとんどの人は自分の人生や世界に登場する「不合理」や「不条理」を<受け容れられず>、それにすじみちを付け、納得し、理解したいと、もがいて一生を終る。<もがく>こと、それ自体が人生なのだ。そして<もがく>ことでしか見えてこない、辿り着けない境地が確実にある。それは何か?「合理」は即ち「人知」の範囲内であり、「不合理」や「不条理」こそ、「人知」を超えた「神慮」の世界であること、そのことが見えてくるのだ。まさに埴谷雄高の言うように「不合理ゆえに吾信ず」の境地に辿り着く。「不条理」「不合理」な事態にこそ、実はその人にとっての今生における最大のテーマが隠されているのであり、豊饒な実りはその中にこそある、そのことに気づくのだ。その時、その人の世界は一変するだろう。今生の地獄が天国へと変貌するのである。 | ||||
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百瀬の語るいじめる側の論理と、コジマの語るいじめられる側の論理。それらが交わるはずもなく、つまりは「関係ないんだよ」の百瀬が言い負かす形で、物語は最後の破綻へと向かう。 いじめる側の中学生が百瀬のような怜悧な自己分析をできるわけもなく、実際には善悪とは何かという川上未映子の考察を代弁させる形で百瀬は存在し、この議論がこの小説の核となるわけだが、この核の部分に抜き去られて結局は打ち負かされるコジマの哀れが、最後に切なすぎる。 憎むべき「いじめ」という構造が、まったく憎むべき「百瀬の論理」に収斂されてしまう敗北感。最後に手術をして世界の見え方が変わった「僕」が、壊れたコジマのあとに滑稽にさえ見える。 「あの」文体を捨ててしまった川上未映子。しかしコジマが「僕」の髪を切るシーンのぞくぞくする美しさなど、ネイティブ言語でなくても書けてしまうあたり、やっぱり凄いと思った。 凄い、と、この小説が好きかどうか、は別の話ではある。 この小説を凄いとは思うが、好きかどうかは、ちょっとわからない。が、このコジマという少女を、多分僕は10年経っても忘れられないでいると思う。 | ||||
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佐藤泰正先生と石原千明さんの公開講座を二年前の夏に受けました。そこで本作が俎上に載せられて、佐藤先生が頻りに「わたしは支持する」とおっしゃっていたので、ずっと気にはなっていたのですが、二年たってようやく読みました。佐藤先生があえて「支持」を表明するくらいなので、まぁ察しはつきましたが、読む前に数人の友人からも「期待はずれ」の感想を聞いていました。「乳と卵」の文体と比較すればそれも「已む無し」という気持ちにもなりますが、そもそも「乳と卵」にしても、文体という表皮の下には、非常にオーソドックスな「物語」がありましたし、そういった視点で見れば、意外と地続きの作品であるように思います。知る範囲では、これ以降取り立て大きな作品はものされていないようなので、この作品を経ての作品にいやがうえにも期待が高まります。この人には、凡百(といったら、失礼にすぎますが、あえて)の若手の女性作家にはない、作家としての「骨太さ」があるように思うので、短い文章でさえ読むたび長くその作品を追いたい気持ちにさせられます。 | ||||
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全体的な印象としては、川上さんが新しい表現方法へとうつっていく過程での 「習作」といった感じです。 「上手い小説」を書くぞ的な気負いが、やや、目立って感じられました。 あくまで私の主観によるものですが、 そもそも、川上さんの作品の最たる魅力というか、主幹をなしていたのは 語られる思想そのものよりは、彼女の持つ言葉への感性であり、 例の文体で、何となく実は深いコト言っているような、なんて感じさせられつつ ケムに巻かれる心地よさでした。 「ヘヴン」はそこから一転、いわゆる「文学」への試みです。 言葉によって酔わせるのではなく、思想によって酔わせるということへの試みです。 その飛躍の過程を見た、という意味で、一読の価値はあったと思いました。 川上さんがこの作品で描こうとしたのは 「苛め問題」それ自体ではなく、もっと観念論的なものなのでしょう。 ある対峙するふたつの関係… 善と悪、強者と弱者、受容と拒絶あるいは否定あるいは克服などを 「苛め」という舞台で<僕・百瀬> あるいは <僕・小島> に具体表現することを試みたのでしょう。 観念論。ああまたコムツカシイ事を…というその辺りが、川上節だなーと思いました。 物語の後半での、コジマの痛切な叫び、そして百瀬との対話。 どちらも物語において非常に重要な役割を担うところですが、 どうにも、百瀬が単なる口達者な詭弁家、ペシミストを気取った中二病との印象が拭えず、 コジマにしても、どうしてか特に後半において、 あくまで「受容」の体を一貫させているにも関わらず、 頑迷な思い込みに凝り固まった傲慢な…僕のみならず周囲の全ての人間に傲慢な…「独善家」に感じられてしまい、 コリャいじめたくもなるわ、と、うっかりした事を思ってしまいました。 そのふたりの精神の未成熟さを(←あえてそう描いたのならば) どちらも妙に達観した物言いをしているがために、ありのままに受け止めることができませんでした。 川上さんが小説家として劣っているということではなく、きっと、 この小説のテーマというものが、ちょっとした知識やエスプリ程度では捌ききれない、 哲学者達が何世紀もの間、人生をかけて考え続けてきたようなものだから、なんだと思います。 こうした観念論的なテーマを<物語> として完成させうるには 書き手が小説家としても、人生家としても、相当熟練されていなければ難しいのでしょう。多分。 人生の裏付けを持たない哲学は、ただの屁理屈になりかねず、 また、頭の中で繰り広げられるとめどない哲学思考を エモーショナルに人に届けるには、大変な苦労と力量を要するかとも思います。 (他の多くのレビューで「評論を読んでいるよう」との声がありました) 本作は、その途方もない道のりへの第一歩、なのでしょう。 ただ、前半部分、僕と小島のデリケートなつながり方は 今にも壊されてしまわないかという漫然とした心細さの中で 綺麗なガラス細工を見ているような感じで、読ませるものがありました。 ところで、物語のクライマックスともいえる最後の2ページ。 初期の岡本かの子を彷彿としたのは、私だけでしょうか。 | ||||
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まず、帯が煽りすぎだと思う。 驚愕と衝撃! 圧倒的感動! うーん…どちらもない。感動する場面はどこか。 百瀬君が言っていることは屁理屈にしか聞こえないし、何かを亡くしてしまっている感じがする。 何の話だったんだろう・・・。とりあえず、楽しめなかったし、もう一度読もうとは思わない。 いじめってこんなにサラサラしたもんじゃないと思う | ||||
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最初の数ページで、いやおうなく主人公に共鳴させられた。 じぶんが虐めを受ける疑似体験をする読書だった。 それは最初のページから始まり、最後の最後まで続いた。 現実にはこれ以上のひどい虐めが行われているのだと思う。 ときどき、ふっと、他人から不当に扱われた経験がフラッシュバックして、本を閉じた。 おそらくこの物語を読むと、誰もが似たような経験をするのではないか、と思う。 作者は、主人公と別に虐められる登場人物を置き、性別による虐めの違いや、 虐めの当事者どうしの共感と断絶を描き、 また、虐める側の人間の、ほんとうに身勝手で理不尽で残酷な心理を白状させる。 内容は重いが、文章は軽めで読みやすい。 渾身の力作。 | ||||
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コジマは自分のしるしと彼の目がある限り二人は仲間であり続けられると思っていて、そして二人が仲間のままでお互いの苛めを乗り越えた時にヘヴンの絵の二人のように自分たちもなれると信じていた。でも本当は僕の目はコジマのしるしのように自分の意思でそこにあるものではなくて、仕方ないと割り切られていたものだった。だからこそ彼の目の手術の話を受け入れられなかったし、手術の話が出ただけであんなに取り乱したんじゃないだろうか。 コジマの心の内は語られないので想像するしかないのですが、結局、僕を苛めていた百瀬たちも自分のヘヴンを求めたコジマも似ていると終盤あたりから思いはじめました。たまたまそこにいたから苛める、と、自分と同じ境遇で一緒にヘヴンに行けそうな人が(たまたま)いるから繋がりを求めるというところとか。どちらもたまたまで、相手の気持ちはあまり考慮されない。だから最後に百瀬とコジマが重なって見えたシーンはなんとなく納得というか。二人が重なって見えるのはそれだけが理由じゃないんだろうけど。 善悪の根源を問う作品かどうかは私にはいまいち分かりませんでした。 そしてこれは本の構成のことなんですが、回収されない複線が多い。作者の意思でよりリアルを求めるためにそうなっているんでしょうか。しかし読み手としては「あれ?」みたいな。新しいといえば新しいのかもしれないですね。 | ||||
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いじめられっ子で自らの汚れやぼくの斜視を「しるし」と呼びそれを大事にするコジマと、いじめっ子で現実的な百瀬のそれぞれの考え方は全く違うものだが、どちらが正しいとか間違っているわけではない 結局自分がどうしたいかということなのだ。それを考えさせてくれた 最初はどうしたいか全く見えてこない主人公も最後は自分で選んだ道を進むようになる その「ヘヴン」に、あるいは「ヘヴン」への第一歩に行き着くまでの話がこの作品である 個人的には百瀬の掘り下げがもう少しだけ欲しかったかな | ||||
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帯をみて、物語としての素晴らしさを期待して読んだから余計にがっかりした。 この本は最初から延々と読み進める時間はもったないくらい 中盤の会話劇である 「主人公と百瀬のいじめについての考え方」 だけ読めばいい。 それがこの小説のすべてだと思いました。 物語としては何も読ませるところは無いんじゃないでしょうか。 全体としても会話で説明するだけで進んでいくストーリー、 最初の主人公と女の子との手紙のやりとりから、実際に会いたくなって、 ひとつひとつの事に思いをめぐらせながら待ち合わせをしヘブンを見に行くあたりまでは 物語に対する期待感も少しはありました。 しかし、最後まで読んで「なんじゃこりゃ」というのが感想です。 途中の百瀬の意見にしたって、特に目新しいことは何もない。 エンターテイメントではない、小説でもない、キャラクターに魅力もない 本当にただの「イジメに対する考え方を登場人物に言わせてるだけ」の本だと思います。 | ||||
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今作はとにかく重く、考えさせられた。 「いじめ」を題材とし、人間の自他 を根こそぎ掘り起こし、活字に表現した 秀作。 僕・コジマ・百瀬に代弁させた、 自意識・価値観・善悪・強弱。 当たり前にある齟齬に決着を つけたいのか。 いわゆる「常識」というものは、 「常識」ではなく、あくまで 「人間の思想価値の平均値」としただけの ものなのか。 そして、「本当の強さ」とは、 攻撃・反撃・復讐することではなく、 「受け入れる」ことなのか。 終盤でのコジマの人間の尊厳とも いえるほどの「強さ」、コジマと 百瀬が重なるように感じる、僕が コントロールできない「自意識」。 そして、いろいろなことを暗示している コジマの「それから」。 最後に血のつながらない継母に 救われる僕の行く末。 とにかく、「哲学的」という表現 では軽く、それこそ読者によって、 「自他」の乖離をいろいろ考えることに 価値を見出す、衝撃作である。 「ヘヴン」を果たして、僕は見に行ったのか。 生まれ変わった僕は、それ自体、 思いの淵から消し去る強さを身につけたのか。 そういった余韻や疑問を、あえて残したまま、 作者は、読者へテーマを暴力的に突きつけて、 我々に強烈なインパクトを与えて作品は終わる。 いじめに苦しむ主人公二人の会話。 「花瓶は見た目が傷ついても、心は傷つかない。 でも、人間は見た目が何ともなくても、心が 傷つく。」 「痛みのない世界があったらいいのに。」 「痛み」のない世界こそ、「喜び」 や「楽しみ」のない世界になってしまう ことを、彼らはわかっていたのか。 わかっているけど、逃避したい衝動を 抑えることが逆に「快感」につながって しまっていたのか。 「痛み」のない世界に旅立つという、 安易な結末を選択しないことが、 本当の「強さ」であるという、 ありきたりなテーマではない、 深い人間小説を、ありがとう。 | ||||
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苦しい内容だったけど、2時間くらいでいっきに読みました。読むのをやめられませんでした。 いじめを受けている中学生の斜視の男の子。同じ教室で同じようにいじめを受けている女の子。いじめを中心的におこなっているグループの中の一人。 やがてそれぞれのもつ気持ち、理論、主張があきらかになってくる。 それぞれがあまりにすれ違っていて、驚愕しつつ、苦しくなってくる。 とにかく自分の常識が揺さぶられる感じでした。 子を持つ親として、いじめという真実は目をそらすことができない。他人事とはおもえない。そんな方には是非読んでもらいたいです。 | ||||
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ノンフィクションではない。 小説であれば、作者の意図なり、立ち居地があるはず。 それを読み込むことが私には難しい。 物語はどうすればいいのかわからない未熟な子どもたち【一応に主張はある】の袋小路の中の長いお話に 最終的に大人が介入して解決する。あえて言えばその方向性に意図があるのか? 読み手としてラストで初めてほっとした。 コジマの未成熟な思い込みは 現実的には、もう少し揉まれて、変化がみられるはずと思えてならない。とても危険な気がする | ||||
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