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ヘヴン
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ヘヴンの評価:
書評・レビュー点数毎のグラフです | 平均点3.41pt |
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Amazonサイトに投稿されている書評・レビュー一覧です
※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
未読の方はご注意ください
全156件 101~120 6/8ページ
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傑作である。 いじめという現象をこれだけ深く、人間のひだを感じさせるほど書きこんだ小説は読んだことがない。 何となく生きているというのは、罪なのであろうか。 いじめられている人間こそ、人間の真理をつかんでいるのだろうか。 なぜ、人間は周囲の雰囲気に同調してしまうのか。 中学生のうちにこの本を読んで、じっくり議論してもらいたい。 先生にも力量が求められる。 ともあれ、文学の力を感じることができる作品だ。 | ||||
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いじめ問題、善悪の論理の齟齬・・・。 わたしには本書は、まったく、そこが主眼とは読めませんでした。 確かに「百瀬と主人公の善悪対決対話」、「公園でのコジマの昇天」は 映画にするなら白眉、名場面でしょう。 しかし、私が本書に心から胸を打たれたのは、 最後の最後のたった4行の衝撃です。 ああ、そうだったのか。 セリーヌの引用も、そういう意味だったのか。 いかに奥行きのある世界を得ても、それは「ただ美しいだけの世界」で、 それをわかちあいたい「生涯の友を喪失した悲しみ」に変わりはない。 3Dの視界を得ても、それは眼をつぶるのと大差ないのだ。 そのように私には理解が、はた、と落ちてきました。誤読かもしれません。 陳腐な言葉ですがこれは稀有な「友情」の物語だと思います。 友情の芽生え、発展、変化、破綻、別れ・・・ レイモンド・チャンドラーの不朽の名作「長いお別れ」 の男と女版だと思います。 ごつい、哀しみを描いた名作だと思います。 例えば、ラノベ「1Q84」の天吾と青豆の関係のうそ臭さに比べ、 これは本格派です。 ちなみに、コジマが「ヘヴン」と名づけたシャガールの 絵のタイトルは「誕生日」。ニューヨーク近代美術館所蔵。 | ||||
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いじめに関する登場人物の台詞や表現はもちろん、その他の部分でも思わずどきっとするような言葉が何回も出てくる。 作者の言葉選びに驚きながら読み終えて、読んで良かったと思いました。哲学するのは三回目以降にしようかなという感じで気楽に(笑) ひとつの台詞やひとつの言葉だけで、好きになれる小説だと思います | ||||
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物事の正しいとか正しくないとかいう話と、道徳の善悪との対比みたいなものがあって、 なかなか考えさせられて、おもしろかったです。 正しいとか正しくないというのは、突き詰めると主観で決めるわけですけど、 道徳(いじめの問題)というのは社会的なものなので、 まあそれだけ社会よりも個人の方が強くなっているんですかね… (と、意外にもいじめる側の論理に納得してしまう…) あと、コジマ(主人公にからむ主要人物)の内面は描かれていないので、 本当に悟りを開いた聖人君子なのか、ただ単に自分より弱い人間を探している狂人なのか とか考えちゃう… はっきりいって感動はしませんでしたけど、いろいろと考えさせられる構図でしたので、 一読の価値はあると思います。 | ||||
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いじめ問題を扱っているので予想はしていましたが、読んでいていい気持ちはしなかったです。 主人公はひたすらいじめを受け続け、逃げることも、抗うこともせず、同じ立場のいじめられている生徒との交流を支えに毎日をやり過ごす。 そこに何の救いも無く、暗い出口の無い闇をずるずるとさまよっているような世界観を好きになれませんでした。 ここで多くの方のレビューを拝読し、様々な捉え方があることを知ったのがせめてもの救いでした。 読ませる文章を書く作家さんだと思いますが、当分は作品を手に取ることはなさそうです。 | ||||
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著者の作品は初めて読んだのですが この作品から本質を読み解く事は私の能力では無理でした 「で?」というのが読後の率直な感想です コジマと主人公の深層心理とかどうでもいいけど 二ノ宮は百瀬が好きなホモなのか?ということが最も気になりました | ||||
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今日1日で読みきって、その後今までここのレビューを読んでいました。 読み終えたときの感覚と帯から受ける印象に大分差があったので…。 小説を読むのが久しぶりな私の本に対する感覚は 世間とずれてんじゃねぇかと思いましたが レビュー読むとそんなこともなく。 いじめの現状を扱ったドキュメントっぽいものではなく あくまでいじめは題材で、テーマは別でした。 半分ぐらいまでは2人の手紙のやりとりや登場人物の行動、心の動きの描写に 中学生独特の未熟さ、青臭さが蘇るようで、 この時分で起こるいじめの加害者、被害者の心境も手に取るように感じられます。 が、後半は急に雰囲気が、というより話の方向性が変わる感じでした。 特に百瀬との語らいと衝撃の公園での展開は…その感覚についていけませんでした。 前半に色々伏線らしきものもあったのに… これは孤独な人を励ます本ではないでしょう。帯にはあるけど。 前半の誰でもわかる中学校時代の感覚のまま、 主人公が生活の中にある様々なことから意味を見、価値観を見、巻き込まれながらも そこから学んで自分に変化を与えるような話だったらそうなったかもしれません。 でもそんな葛藤と成長の話ではありませんでした。 こないだの新聞に川上さんの特集記事があって、その中で川上さんはヘヴンについて 「いじめの酷い描写があるけど、そこで うわ、ひどいな、何でこんなことするんだろうと 読み手に考えさせられれば狙い通り」みたいなことを仰っていました。 善悪について一考するための小説で、万事解決ではない。 だから登場人物たちのラストはああなったんだと思います。 | ||||
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辛い状況にあり、何が支えとなるのか、何が支えになっていたのか? ラストはたしかに衝撃です。 テンポも良く読みやすく感じたのですが、 軸としているものが見えず、モヤモヤと終わってしまいました。 | ||||
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斜視。日々見つけられる、気まぐれな「苛めの新しいたね」。「どれだけ考えてもけっきょくどうすればいいのかはわからな」い「なにをしても間違っているような気が」する中学生の日常。身近に同じような苦しみを抱える人がいるので、読んでいて胸が痛んだ。教室の中での苦しみがこんなふうにリアルに書かれていることに強い痛みを感じ、作者の持つ創造力の強度に圧倒される。 コジマは、ドストエフスキー文学に出てくるユロージヴァイ(聖なる白痴とも言うべき存在、魂とは逆に肉体は不潔なことが多い)みたいな存在で、ちょっと図式的に過ぎる人物だと思ったけれど、「僕」と美術館に「ヘヴン」という絵を見に行って、その絵を見ないで帰る夏の一日は、悲しい作品の中で、キラキラしている大切な場面だ。もちろん、ラスト前の雨の公園の場面は圧巻。 しかし、最もすごいのは160頁から180頁までの百瀬との対話だろう。ドストエフスキー風の悪魔的な人物のように描かれる百瀬って、実は今の中学生の多くの発想そのものを語っている。普通は言語化されないが、苛める側のあまりにもリアルな実感。もう、子どもたちはここまで追いつめられている。全ての苛められている中学生とその家族に読んでほしい場面だ。いや、文学を愛する全ての人に読んでほしい。 百瀬を造詣しただけでも、川上未映子は21世紀の文学の旗手だと思う。今後が最も楽しみな(最も怖い?)作家のひとり。 | ||||
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私といい、弘美さんといい、川上姓は揃ってキレイから、 次出てくる川上さんプレッシャーやねぇ。ごめんね。 あ、先に言うとくけど『ヘブン』の地の文、拙いんはワザとやでもちろん、 子どもの一人称やもん。 はい、本題。 学校なんて辞めてまえばええんよ。仕事なんて行かんくていいんよ。 別に、戦いから降りたっていいんよ、っていう話。 でも、くたくたになるまで踏みとどまった末に、 気を失うみたいに降りるべきなんよっていう。 したら、降りた先でも、すぐ何か見つかりますよっていう。 ラスト、降りた先の情景描写は、せやから渾身です。 戦いの激しさに見合うように、頑張りました。 やるだけやったら投げちゃいなって処世術を、 言葉を尽くして著したんよ。 哲学的アレは目的やなく手段なんよ。 ちゅーか、皆さん、もっと自分のために読めばいい。 読書って、めちゃめちゃ自由なんよ。 | ||||
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芥川賞の密室劇は、文章力で勝負!で賞を取ったような気がしたけど、 本作の構成は、芥川作品と全く変わらない構成で愕然としました。 この作者は、何かしら返還期が起こらない限り、これから先も毎回同じような作品を 執筆するのではないかと思います。 現在、素人のブログが氾濫している時代、似たような苛めのサイトを沢山 読ませていただいています。 本作を読んで新鮮味をかんじません。 今、苛めをテーマにするのは難しいと思いますよ。 公園のハイライトまでの過程を読んで、この作者は大の映画好きなのではないかと思いました。 個人的には、苛められっ子の男子が、同じ苛められっ子の女子に親近感を持つことに リアリティーを感じませんでした。 ありえないですよ。自分を鏡に映したような人間に好意を抱くなんて……。 文章力は村上春樹に似ているような気がしますが、とても読みやすいです。 私の区の図書館で100人近くが待っていることに驚きを隠せません! | ||||
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中学生の社会も大人の社会も突き詰めればみんな同じ人間がつくりだしたもの。 大人社会にだってこの中学生たちに負けず劣らずのイジメは存在しているし、今後なくなることもないはず。 なぜなら社会を構成している人間が変わらないのだから。 新聞やテレビはイジメをいけないと声高に叫ぶけど、新聞社にいた私が見た世界はこの物語の中の中学と大差なかったです、はいw ま、それは置いておくとして、イジメを受けるコジマが、神のような包容力を有しラストで全裸になる姿には感動を覚えた。 | ||||
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川上さんの作品をまとめて読むのは初めて。詩も書く人の小説としてはくせのない散文で読みやすい。斜視の中学生の「僕」が受ける激しいいじめ、「僕」に「仲間です」というメッセージを送ってくる、やはりいじめられっ子の同級生の女子「コジマ」との出会い、「コジマ」が語る「ヘヴン」。と、ある意味こんなに分かりやすくていいのかな、作者は本当にひりひりした心をもってこんな話を書いているのかなと、3分の2くらいまではちょっと眉に唾をつけつつ読んでいたのだけれど、偶然に「僕」が学校外で会ったいじめグループの「百瀬」が語る人間観(いじめには善悪のような意味はない)、いじめは選ばれた者がいつかヘヴンに辿りつくための試練だとする(いじめには意味がある)「コジマ」の辿る最期(?)には胸をえぐられる思いがした。 しかし、この展開は相当に作者の想像力による「作り物」という気もする。「いじめ」の陰湿さとはもっと違う、もっと静かで不気味なものではないかと。お話の上手さ、出来の良さはハイレベルだけれど、人間の怖さはもっと可視化できないところにあるのではという気持ちが残る。 | ||||
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非常に心を揺さぶられる小説でした。 才能があり、自分の世界観をしっかり持っている 作家です。 ラストシーンでは、胸が詰まって気がついたら涙を流していました。 しかしあえていいます。 いじめを行う側の論理が述べられていますが、 一言で言えば「たわごと」です。 よく読んでいる哲学者の言葉がそのまま出ているだけの幼稚なたわごとにすぎません。 小説で、登場人物にむぞうさにこのように他人の哲学を語らせてもいいのだろうか? 自分の言葉にさえなっていないこの「たわごと」はこの小説の 重要な部分でもあるのだが・・・。 レビューの方々も書いているように、 容易に、ニーチェとドストエフスキーを思い浮かべる。 すべて作者は承知して書いているのに違いないのだが・・・。 重松清氏の最新作「十字架」を読了したばかりなので、 「ヘヴン」とどうしても比較してしまう。 川上氏は、自分なりのニーチェ的言説とドストエフスキー的言説を 緻密な文章に構築するために、「いじめ」を単なる手段にした。 だから「ヘヴン」を読んでいじめを語ることはおそらくどうでもいいことだと感じる。 いじめという人間関係の係わり合いの中から、 人間はどのように変化してしまうものなのかを誠実に描ききった 「十字架」とはまったく異なる小説なのだと思う。 どちらが優れているかという比較そのものも意味は無い。 しかし、いじめに関する哲学好きの観念論者の「たわごと」を 別にすれば、非常にすぐれた作品だと思う。 次回作が楽しみです。 | ||||
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主人公と百瀬(苛める側の一員)のやり取りが印象的だった。 人間のもっている主観は人それぞれ違うものだ。だからお互いを本当に知ろうと思ってもそれはできないのかもしれない。 主人公の言い分が百瀬に通じなかったのもそのせいだろう。 百瀬と主人公はわかりあえなかった。 一度はわかりあえそうだった主人公とコジマも本当はわかりあえなかった、と思う。 だから悲しい、というわけではない。人間とは、そういうものだ。 そう感じた。 | ||||
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読了して、常識的な素直な感想を抱きました。 子供というのは、常に大人の監視下に置いて、へんな方向へ向かおうとしたら、 軌道修正させて導いてあげなくちゃいけないよな、ということです。 えらそうに、大人だって不完全じゃない、なんて意見は無用。大人は子供より偉いのだ。 状況を変えるための選択肢だって、子供より沢山知っているのだ。 前半はリアリティがありましたが、後半はファンタジー小説です。 村上龍が娼婦を描く小説同様、ファンタジーです。 百瀬なんて、少女漫画に出てきそうなキャラクター。中学生でしょ? おぼつかないファンタジーは、現実からこっぴどくやっつけられるんじゃないかな。 日本人がいじめを語るとき、なんでいじめられる側の物語にしてしまうんだろう、とずっと不満でした。 いじめを、いじめられる側が克服すべきもの、にしている。いじめられる側の成長の 物語にしてしまっている。本当はたかるハエを振り払うように、排除すべきものなのに。 克服の物語は、むしろいじめる側になるんじゃないでしょうか。 あと、いじめを描く小説って、どうして役割が固定しているのだろう。 馬鹿にしている筈の相手から、思いも寄らぬ屈辱を味わう、といった人間関係のダイナミズムがない。 そういう意味で、この小説には好感を抱きました。作者は百瀬もコジマも、同列に置いて否定している。 ちょっと贅沢な要望かもしれませんが、 ニーチェ的な力の理論と、キリスト教的な倫理観と、その対立をテーマに書くのだったら、 むしろ大人の複雑な世界で物語を展開させるべきでしょう。子供のいじめ問題を借りてそれを語るのは ちょっと危険な気がします。 | ||||
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いじめの本なのだが、全体の85%位が陰湿ないじめの表現と、 いじめられている二人の奇妙な友情?愛情?が描かれている。 いじめられているのは、斜視の男の子と、 ある理由から自分自身を不清潔にしておかねば気がすまない女の子の二人。 いじめられる原因として「不潔」という理由が一番多いという事で、 女の子がいじめられるのはわかるが、どうして斜視でいじめられるのか? その女の子が言うには、「斜視というよくわからない異常な存在を受け入れられることが出来ない弱い人間たちの八つ当たり」的な解説をしていたが、途中で実際にいじめている奴が言うには、「斜視なんて関係ない。選ばれたのだ」との事。 さらにそのいじめる側が言うには、「不満があるなら、自分で解決するしかない。自立して何か行動を起こしてみろ。それが出来ないなら、不満とか思うな、黙ってやられろ。それは自分が選んだ道だ」的な発言をする。 しかしいじめられる側は、なぜか最後の最後まで親にも先生にも相談せずに自らの命を立ってしまう人が多い。どうしてなのだろうか? 自分がそんな立場に置かれたら、どうするだろう。 この本では陰湿ないじめの具体的な表現が延々と続き、このままこんなのが続くなら、もう読みたくない…とまで思うほどだった。どうしてこの作者はこんな表現が出来るのだろう。しかもこれでもかこれでもか…というほど。 85%の残り5%は、男が意思を持っていじめる側に反抗しようか…と心の中で考えているシーンが表現されていた。私も「よし行け」と応援していたが、結局その男は反撃できずに、逆に一緒にいたいじめられていた女の子が、思いもよらぬ手段で想像もつかない反撃をする。そのシーンも想像するだけでもう耐え切れないほどの辛さがある。 残り10%は、斜視の手術をするかどうか…という話になり、多分手術をすることになると思うのだが、そのシーンでは女の子が全く消えてしまい出てこない。あの反撃の後にどうにかなってしまったのだろうか? 気がかりでならない。 この本は後味の悪いというか、それからどうなったの…で終わってしまうなんとも心残りの本だった。 | ||||
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一年にミステリーを中心に多くの本を読むが、僕個人としてはストーリー展開に自分の好みを押し付ける傾向は持たないようにしてきた。 それは各作者の意見が一番反映するものだからだ。 川上未映子の「ヘヴン」は本を読むという僕自身のそのポリシーを久々に覆させる本であった。 結論を先に言うとこのストーリーには嫌悪感を抱いた。文体、表現描写などは作者の上手さを感じるところもあったが、中盤における「人間サッカー」、この部分はななめ読みせざるを得ない残酷描写である。この本がミステリーのカテゴリーでない分より痛みが伝わるのだ。これをして筆者の描写力が優れているとは思わない。ここまでのことを書かないと筆者の意図を読者に伝えられないのかという疑問がわくのだ。現実にはもっと過酷な運命にさらされている人たちもいるのだろうが、「いじめ」をテーマに描く以上メッセージとしてはなんらかの希望をその対照にさしのべねばならないと思う。「いじめ」は本の商売に安易に使う類のものでない。誠心誠意考えたうえで取り組む問題だと思う。少し論点がずれるがそれは今、放映されているドラマ「泣かないときめた日」についてもいえる。センセーショナルに描写をエスカレートしていいものではない。 物語のラストで主人公は本来のヒトの見え方をとりもどすわけだが、筆者はこれをもってこの主人公への贖罪としているのだろうか?この問題は目を治したからといってラストにすべきものではない。とりわけいじめの加害者にたいしてのペナルティなど読者のある意味期待するカタルシスへもいざなっていない。純文学はエンターテイメントと違いその辺はあいまいにしてもいいのか? この作者が一番言いたかったことは案外百瀬がさりげなく(作者としては渾身の力をこめた論点)ぶったいじめ論にあるのでは。他の方も書いているがどうもいじめを肯定しているようにしか受け取れない。これが物語というだけで各方面から傑作と祭り上げられる風潮に僕は危惧を感じる。泣けるというヒトなど理解できない。この本はそんな表面上の読みで済ませていい本でない。僕は問題作だと思う。 ひょっとしたらこの作者は以前いじめをしていたのではないだろうか?救いがあるようにみえて主人公の今後、コジマの今後を思うと暗澹たる気分にさせられた小説であった。いろんなことを考えてみたい方は読まれるといいのでは。 2.19にNHK「トップ・ランナー」を観ていたら何週か後に川上未映子氏が出演する旨の予告があった。 この作品のことを司会者にどう語るのか注視してみようと思う。 | ||||
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いじめを肯定していたら、 出版できないでしょう。 いじめをなくすのは難しいから、希望を打ち出したら嘘くさくなる。 いい作品を書けば、今まで好きになれなくても覆ってしまうことがあります。 逆に、好きな作家であったとしても、上梓するたびにクォリティーが下がっていると嫌いになります。 ヘブンを読んでファンになりました。乳と卵は読みにくくて、秘すれば花である女性の生理現象を書いていたり、銭湯でいろんな女性の乳を描写していて、日本女性の奥ゆかしさはどこにいったと疑問をもち、嫌いでしたが。 ファンになったので、乳と卵を読み返して粗ではなく、良いところを探してみます。それが本来の読書の在り方だと、ヘブンを読んで立ち返ることができました。 次回作がとても楽しみです。 | ||||
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なんだか、この本について「善悪」について書かれている方が多いようですが。 自分は、全くそういうことではない、と思う。 即ち「このご時世に善悪二元論的内容を書くこと」で、その考え方そのものを打破しようとしているし、 その試みは当たらずも遠からずな印象。 と言っても、それ自体も目新しいものではない。 が、別にこれはポスト構造主義的な啓蒙書ではなく「それ自体」を加工せずに切り取るスタイルの文学、 として枠組みをすればそれなり以上だと感じた。 決して、いじめが云々、という教育的ものでもなければ、瑞々しさ故の歪んだリアルなんかでもない。 | ||||
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