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遠い山なみの光
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遠い山なみの光の評価:
| 書評・レビュー点数毎のグラフです | 平均点3.92pt | ||||||||
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Amazonサイトに投稿されている書評・レビュー一覧です
※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
未読の方はご注意ください
全118件 1~20 1/6ページ
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| 映画をみたのですが、よく理解できず、原本を購入しました。面白かったです。 まだ読み終わっていませんが。 | ||||
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| 悦子という日本人女性が主人公だが、彼女は戦後間もなくの長崎で婚姻し子供をもうけ、その結婚が上手くいかずに離婚して英国人の夫と二度目の結婚をしイギリスに住んでいるという設定である。日本人の夫との娘(景子)を自死で失い、英国人の夫が先立った後にイギリスの田舎で今は一人暮らしをしているのだが、そこに久しぶりに二番目の娘(英国人の夫との子供ニキ)が訪ねてくるのである。悦子は長女の死を思いながら日本居住時の様々な思い出をそこにオーバーラップさせ、今と過去を照らし合わせて回想するというのが大まかな筋書きである。 この小説は会話のやり取りが非常に自然でなめらかである。小説らしい作り物めいた雰囲気がない。一女性の回想が過去の様々な出来事にあらためて意味を生み出している様な『今考えればこういうことであった』という想念を浮かび上がらせながら過去と現在を行ったり来たりするというストーリーである。かつては理解できなかった様々な事柄が今では自然に納得できる、というか今なら分かるという感覚なのである。 過去の記憶として、理解できなかった長崎時代の子持ちの友人女性(佐知子)とのいきさつがあるいは悦子のその後の人生のほの暗さを象徴しているともいえる。何の屈託もなかった最初の子の妊娠時代の青空が今の暗く寂しい人生の夕暮れと、それまでにかかわった人々とのやり取りが重なって今更訂正の利かない人生のエンドロールを見ている様な結末であった。 この小説を読んで川端康成の『山の音』とヴァージニア・ウルフの小説をちょっと思い出した。悦子と最初の夫二郎の父である義父の緒方さんとのやり取りは『山の音』の義父と嫁との関係、悦子の行ったり来たりの想念の流れはウルフの『灯台へ』の意識の流れ文学…でもこれらは見かけだけでおそらくイシグロは説明不要な現実の不条理な世界をそのままに描いたものなのだろう。 確実と思われていた世界が一瞬にして別のものへと変わってしまう不確実性に対して足場を失った人間の虚無感であるとか、頼りにならないものと分かっていて縋ってしまう人の弱さであるとか、守ってやれなかった保護すべき対象への後悔と懺悔とか、分かり合えるはずのない人と人の疎外感とか、この小説にはこんな材料があちこちにバラまかれているけれど、結局最後には何の救いも無いという想定外の結末である。まあそういう事だよね現実の世界は、と思うのであった。ということで、予定調和の無いそれこそ真にホラーともいうべき作品と感じたのである。 どうして二郎と別れたのだろうか?その伏線は会話の端々にはあるのだが、佐知子はその後どうしたのだろうか?佐知子の子である万里子は思わせぶりな悪夢の様に悲惨な最期を遂げたのだろうか?長女の景子はどうして家族と乖離して自死したのだろうか?など多くの疑問には作者は何の回答も用意しない。当たり前の結婚を否定して一人の女性として生きていく次女のニキが不意にロンドンに帰ってしまうというラストで、悦子の想念はそれっきりぷっつりと終わってしまうのである。 こういう小説って内容にかかわらずこれが一番不条理であると思ったりするのであった。つまり、小説の筋書きこそが最も不条理なのであろう。 | ||||
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| 連続でカズオ・イシグロ満喫中。 長崎を舞台にした物語。でもイギリスにいる日本女性から始まる。 途中であれ?と思う。これは、一体誰の話をしているのだ??? となってからが面白い。自分の中での推理と物語の進行とが絶妙のバランスで「こういう読み方が正解だよね」のラインを行ったり来たりする。 英語から日本語訳された日本が舞台の小説なわけだが、あんまり戦後の日本の一般家庭の雰囲気は感じないかな。緒方さんというとても自分のやってきたことを誇りに思うタイプの人(悪い人じゃない)よりも息子の二郎の方が家長制度の権化みたくてなんだか不思議。 カズオ・イシグロの小説って、なんというか透明だよね。臭みがない。著者の痕跡がないというか。においがない。 これもよかった。 | ||||
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| 原作も映画も、へぇーと思う最後でした。 同一人物だったのかと。 彼女は私で、あの子は自分の子 旦那さんとは別れ、アメリカならぬイギリスへ行った。 義父はいて、息子とは全然上手くいっていなかった。 時代の裂け目をまたぐシビアなお話でした。 ただ一つ、過去の常識、倫理が後から完全否定されると辛くてたまらないでしょうね。 昔はみんなが当たり前と思っていた諸々の規範、習俗が否定されると、自分の人生まで半ば否定されますね。 不適切にもほどがある、と。 | ||||
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| Good! | ||||
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| 釈然としない話だと思いました。 皆さんのレビューを読んで納得。どうして半端な和訳で出版したのでしょうか? | ||||
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| "イギリス人は、それ以上の説明はいらないとでもいわんばかりに、日本人には本能的な自殺願望があるという自分たちの見方に固執する。新聞はそれだけしか書かなかった。景子は日本人で、自室で首を吊ったということしか。"1982年発刊の本書は著者長編デビュー作、映画化もされた一冊。 個人的には映画化もあって手にとりました。 さて、そんな本書は長崎県長崎市生まれ、イギリスに移住、2017年にノーベル文学賞を受賞した事でも知られる著者のデビュー長編、王立文学協会賞受賞作で。英国に渡って数十年になる悦子が長女の景子の自殺に直面し、その景子を身ごもっていた過去、原爆の影が覆う敗戦後すぐの長崎時代にたまたま知り合った母娘。アメリカ人の愛人に未来を託そうとしている母の佐和子、不気味な幻影に怯える万理子の事を回想していくのですが。 まず、日本生まれだが、幼くして英語に渡り、日本語を取得していない著者。実質的に英国人がそれらしいと信じて書いている『日本語人の会話』と本書を捉えると訳者の工夫も感じられる不思議なエキゾチックさが残りました。 また、本書は語り手である悦子の激しい時代環境の変化を背景に、犠牲を払った上での【女性としての自立】が、テーマだと思いますが。薄明かりの中で明確に語られない部分に余韻を感じます。 著者の初期長編として、また敗戦後の空気感を感じる作品としてもオススメ。 | ||||
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| カズオ・イシグロの作品で、映画にもなったので、読みました。 友人が主人公と同じころ渡英しましたが、今も倖せにくらしています。 不条理の気分が流れていますので、理解しにくい点もありますが、映画ではより pail view がわかりやすいのではないかと、見るのを楽しみにしています。 | ||||
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| なんだか不思議なお話でした。 読みやすくて一気に読めちゃいます! | ||||
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| 本は古書ですが、良い状態でした。 英語で書かれた原作ですから、当たり前といえば当たり前ですが、映画での博多弁はなく、標準語でした。 | ||||
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| 本書のテーマがわかりにくいのですが、私はカズオイシグロの私小説なのかなぁと思った。楽しかった思い出のある日本長崎を5才で離れ、イギリスでグラマースクールに通うなど恵まれた子供として育ったが、日本語を忘れ、日本人としてのアイデンティティを失った。それを悩み、母親になぜ日本を離れたのか、日本人としての教育をしなかったのかを尋ねて、自分を見つめ直す為にこの本を書いたのだろうか。 景子とニキは、カズオイシグロ自身なのではないか。アイデンティティを失って自殺願望すら抱く。話を聞くことで時代背景や被ばく体験などから母親を認めながら、自分のアイデンティティ喪失を悩み、小説を書くことで改めて自己の存在、生きる道を生み出そうとしたのではないか。 自らの再生と母親、あるいは両親との折り合いをつけたのではないのか。 カズオイシグロがノーベル賞を贈られた時、母親は喜び、友人に本を贈ったという(父親は亡くなられていた)。母親もカズオイシグロの養育、教育に悩んだり後悔もしていたが、ノーベル賞受賞で報われたと思ったのであろうか。 | ||||
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| 小説では語り手と主人公の悦子が同じ人間となるし、文章の中でもことわっているが、語り手の記憶にはあいまいなものや間違いすらあると。悦子は元の夫との間に「景子」がいるが、近所のあばら家に住む佐和子とその子供「万里子」の関係が、悦子ー景子の関係と渾然一体になって描写されている。最後に佐和子や万里子と一緒に長崎の山にケーブルで登った描写が、実は景子と一緒に行ったものであることが明らかになる。つまり、佐和子ー万里子の描写は語り手の混乱或いは意図的な作為であり、本当はただ悦子ー景子の思い出だったことが暗示されている。映画では、描写かリアルで言葉のように曖昧にできないので、鑑賞者はここで万里子=景子だと気づく訳である。 原爆の記憶や戦後の混乱、変動期に価値観や社会の変化に翻弄されつつも、生き方を模索する女性の弱さや強さがほのかな希望と共に描かれている。カズオ・イシグロの原点と言える作品であろう。 | ||||
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| 最後になって作品の主旨が浮かび上がるカズオワールド。 時代の変換期、人はどう生きれば正解だったのか。 たくさんの会話から思いを感じる形は読み手の想像力を掻き立て本当に面白いです。 | ||||
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| 映画を観て、確認すると違いに気づく、時の流れをフラットにみる視点を養うのにいいですね | ||||
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| 他の映画を見た時に予告編で気になり 読んで見ようと購入しました 早く届いて良かったです | ||||
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| 読みやすかった。ニキの「お母さま」という呼び方など、原作を読んで確かめたいと思った。 悦子がどうして日本を離れる決心をしたのかがはっきりとは書かれておらず、他にも自分で想像して埋めないといけない箇所が多くて、そこを楽しめるかどうかで味わいが変わってくる。 | ||||
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| 商品を受け取りました。ありがとうございました。 | ||||
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| 今話題の映画 長崎にゆかりのあるノーベル文学賞作家 定価で買えて良かったです。 原作読んで映画見に行きたいです。 | ||||
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| オーディブルで聴きました。語り手の方の奮闘ぶり(一人数役)に拍手でもあり少し無理も感じました。紙でも読み、映画も観ましたが結局いくつかのストーリー展開上のモヤモヤは消えませんでした。一番ストレートに感じたのはあの当時の男社会の傍らで生きる女性の生き辛さ、被爆者の苦しみが置き去りにされたかのように目まぐるしく変わる長崎の復興のエネルギーです。被爆者である悦子が妊娠し、それを知らない夫から「君が被爆者じゃなくて良かった」と言われたことは許せないと思います。彼女が日本を捨てたのはそれが理由ではないでしょうか? この作品を20代で書いたをカズオ・イシグロって、やはりすごい。 | ||||
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| イシグロの作品はすべて味読しているが、今回映画を見て、原作と違うのではないかという錯覚を 覚えた。 本書はイシグロが五歳のときの記憶を封印したまま、大人になって「母語としての英語」でその記 憶を留めるために書かれた。普通の日本人は、成長とともにその記憶が「上書き」されるから、日 本人が日本語で書いた小説が英訳される場合と一線を画して、英国人にとって、日本人の自殺願望 があるという「ステレオタイプ」が見事に解消されている。 イシグロ本人は、初期長崎2作のあと、『日の名残り』において、プルーストに寝覚めたことが、 その後の『充たされざる者』、『わたしたちが孤児だったころ』、『わたしを離さないで』に至っ て、もはやイシグロのトレードマークとさえ言われる”信頼のおけない語り手”手法を駆使すること によって、ノーベル賞受賞に至ったとわたしは考えていた。 『忘れられた巨人』、『クララとお日さま』で、イシグロの作品は文学と言うより、哲学作品の様 相を呈してきたと思う。例えば第二次世界大戦後は日本人にとって「深刻なパラダイムシフト」を 迫られることで、未だに混乱している日本人は多いが、イシグロの場合は過去を深刻に後悔し、絶 望と困惑に沈むだけではなく(無論日本人が反省しないと糾弾するのでもなく)、そこから希望の 光を見出そうとする。尤もそれ(=イシグロの根底にある「平和志向」)は、明るいというよりは、 薄暗がりの作風ではある。 映画では『生きる』のリメイクと同様、イシグロが総合プロデュースしているから、本作の場合、 イシグロが『青い山なみの光』をもしリライトするか、手を加えてより完成に近づけようとする なら、”こうなる”と考えてのイシグロの「答え」であるように思われた。 イシグロは多くの人がカフカ的だとか、プルースト的だとか言うが、わたしは彼らを超えていると さえ言えると思う。 今回、本作を日本語訳で読んでみて、本作の映画が原作と大きく違うことはなかった。尤も原作で は当然長崎でのエピソードの方がイギリスでのエピソードより多く書かれており、映画ではむしろ 「逆」に描かれているのは、興行成績を思えば自然なことであろう。 初めて日本語訳を読んで、訳者の卓越した「異化翻訳」の手法に感動した。例えば、日本語では 「~ところ」という。小野寺氏はそれを「~とこ」というふうに、正統英語風をそのまま日本語に 「同化翻訳」するのではなく、あえて「異化翻訳」の技巧を用いている。日本人は、同化翻訳こそ 「翻訳の王道」と考える人が多いと思うが、ここは日本人が今日日常的に用いる日本語表現通りに、 正統英語を今日的な現代日本語に合うよう「異化翻訳」されたのに唸ってしまう。 (日本人が「自然に」日本語を読める。) また小野寺氏は人名をイギリス人原作らしく、カタカナ表現にしようとお考えだったようだが、イ シグロ氏から「ある人名の”漢字”に、ある漢字だけは使ってほしくない」と突然の注文があったら しい。小野寺氏はその時点で、イシグロ氏の頭の中に「漢字がある」と察して、想像たくましく漢 字名を当てられたそうである。翻訳レベルの高さをも味わうことができて、大変幸せな読書のひと ときでもあった。 | ||||
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