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遠い山なみの光
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遠い山なみの光の評価:
書評・レビュー点数毎のグラフです | 平均点3.85pt |
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Amazonサイトに投稿されている書評・レビュー一覧です
※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
未読の方はご注意ください
全81件 61~80 4/5ページ
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何が起こるわけではありませんが、戦後の日本(長崎)と、そこに住む人の人生が人の心をつかみます。 長崎の地形なり、街並みを知っている人と理解に差が出てくるのでしょうか。 時間をおいてまた読まなきゃ、と思わせる内容です。 万里子さんの人生が少しでも良くなれば、と願います。 | ||||
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いかにも英語を訳しました、と云う文章で日本語になっていない。編集者は何をいていたんでしょうか。不得意ですが、英語で読み直して見ようかと思うほどです。 | ||||
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何度も読むごとにますます謎が深まる本である。 あてににならない語り手、それをとおしてちらちらと垣間見える別の世界、というイシグロの手法が処女作にこんなにも顕著だったこのに、今更ながら驚かされる。 身勝手な佐知子、そんな母にネグレクトされている万里子は10歳ぐらいなのにもっと幼稚に描かれていて、同時にいつも何かにおびえている。 佐知子については、もっと若く見えたのに、会うたびに老けて見えた、ということが2回ぐらい繰り返される。 何か意味があるのだろうか? そして、あまりにも無邪気な語り手である、悦子。この人が一番不気味だ。 この無邪気な悦子が足に縄をからめて歩き、万里子をおびえさせている。 悦子が夢に見たという女の子はブランコではなくて、何かちがうものに乗っていたらしい。 それは何だったのか? 緒方さんと、次郎のエピソードは戦前,戦後の考え方の違いを表していると考えてよいのだろうか? 緒方さんが日本が戦争に負けたのは、単に大砲や戦車が足りなかったからだ、と言い切っているところは印象的だ。 悦子は緒方さんの方に肩入れしているようだが、それこそイギリス人ジャーナリストの夫が批判する日本人像ではないのだろうか。 しかし全ての謎は放置されて終わってしまう。 最後の悦子とニキの会話の中のロープウェイのくだりは、作者の意図を強く感じる。(読者に衝撃を与えようとする) ひとつ気になるのは、解説が少し的外れに感じたこと。 佐知子のことを思い出したのは、果たして時を経てその奔放な生き方に共感できるようになったから、というような単純なものなのだろうか。。自分の信じていた価値観が遠い昔の出来事のようにぼんやりしてしまって、もう共感すら覚えないというようなことではないのだろうか。 何度考えてもよくわからない。 自分の貧しい読解力を嘆くばかりだ。 | ||||
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年を取って読んだらまた違う見方ができるのか。 なんだか読んでいて疲れるような気がしました。 ショッキングな部分もショッキングにしてないしどこに焦点があるのか20代の小娘にはよくわかりませんでした。 | ||||
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一読した時は「何だか謎の多い小説だな」と思ったのだが、再読して、主人公・悦子の人生と、悦子の昔の知人・佐和子の人生が重ね合わさってくるという物語の構造、時代の激変による失意や絶望、その先のか細い(paleな)希望といったテーマ(の断片)が見えてきて面白くなった。謎はむろん残るのだが。 ただ、『日の名残』を読んだ後に読んだので、悦子の(不確かな)回想をどこまで真実と受けとめるかいささか迷う(そこに記憶の改変がなされていることを著者は含みこんでいるのではないのか?)。 それから、翻訳時に、例えばEtsukoを悦子と訳したのはどうなのかなと思う。池澤夏樹による解説の「われわれは日本語でこれを読みながらでも、これがあくまでも英文学、むしろ英語文学の作品であることを忘れない方がいい(p.275)」とすればなおさら。 | ||||
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原作を読むと、終盤に衝撃的なストーリーの転換があります。 日本語版は最後まで淡々とした描写で終わっていきます。 全く趣の異なる本になってしまっています。 これは翻訳者のミスです。 日本語訳版しか読んでいない方は、ぜひ原書を読んで下さい。全くの別物です。 この日本語訳版の問題については著者もインタビューで語っています。 ちなみに原作は☆☆☆☆☆です。 | ||||
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もともとは英語で書かれていて、それを翻訳したことも忘れるような綺麗な文体です。 長崎を舞台にしていて、淡々とストーリーは進みます。 主人公と、よく登場する女性の苛立ちを含む会話、その女性の子供、その回想を軸に、主人公の現在をいったりきたりする手法は本当に見事です。 ただ、ストーリーに多くを期待すると最後に「あれ?」と思います。 「日の名残り」、「私を忘れないで」に次いで読みましたが、さまざまな引き出しを持った作家だと思いました。 | ||||
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作者は女性の視点を借りて、叙述している。登場人物の中で興味深いのは義父(緒方さん)である。彼は戦前はそれなりの地位についていたが、戦後は日陰に追いやられたようである。その彼に対し、作者は同情的であり、また尊敬の念をもっている。緒方さんが若者と論争するシーンがあるが、最後は若者を思いやる大人の余裕が読み取れる。 敗戦によって「家」制度が崩れ、アメリカの個人主義が入ってきた。遅かれ早かれ、上からの「家」制度は自然消滅の道を辿っただろう。しかし、なにがしかの下の絆も喪失した可能性があるのではないか?作者は英国の現状と照らし、考えを巡らしていると思った。 | ||||
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本書はカズオ・イシグロの処女長編だが、本書からすでにカズオ・イシグロの 長編小説のスタイルが確立されていたことがよくわかる。 ほかのカズオ・イシグロの長編と同じく、本書も語り手の回想と追憶によって 綴られる物語である。 本書は私を含めた一般的な読者が知りたいと思われる情報は、実は、直接に 語り手は語ってない。なぜ語り手である悦子は離婚したのか、なぜイギリスに 在住しているのか、なぜ景子は自殺を選んだのか。ページを読み落としたのか? と思えるぐらいに。(数行、触れているところはある) ただし、長崎での佐知子と万里子との交流、語り手の義父である「緒方さん」と夫、 ならびにかつての教え子のすれ違い・・・数々の回想から、その背景について、 読者に類推を迫っている。 本書は「わたしを離さないで」など、イシグロの最新作と比較すると劇的な、「ドラマ」 に欠ける作品で、人によっては退屈さを覚えるかもしれない。だが、その手法や リアリティに満ちた描写は見事としか言いようがない。 | ||||
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邦訳の結末を読んで、「えっ、それで終わり?」という感想を持たれた方が、多いのではないでしょうか。私もそうでした。しかし、友人から話を聞き、大事な部分でこの小説を読み取れていなかったのではないかと思うようになりました。 そのことは、Amazon.comの方の本小説のカスタマーレビューでも見ることができます。もし私のような感想を持たれた方がいらっしゃったら、ぜひ英語版と英語版のカスタマーレビューをご覧ください。ネタバレになりますので詳しくは書きませんが、佐知子と悦子の関係についてです。 『私を離さないで』で、「あっ」と感じたような気づきが、またもたらされると思います。もちろんイシグロ独自の書き方なので、それもひとつの解釈になるのかもしれませんが・・・。いずれにせよ本当に味わい深い小説です。 | ||||
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記憶とはなんだろう。ひとは遠い過去、近い過去とひとは断片的に思い出してはその周辺の事柄を連鎖的に思い出してひとひとつの物語を構成する。意識するしないに拘らず、ひとは遠い過去も近い過去も自由に頭の中に呼び出して内容の編集すら行なってしまう。 この物語は、主人公悦子の母娘関係を軸に、義父との関係、夫との関係、自分とは似て非なる佐知子との関係が折り重なって記憶の濃度が増していく。過去の時間の流れをその折々の会話で浮き上がらせる。すべては悦子の過去の記憶の語りの中に読者はいつのまにか自分自信を重ね合わせてしまう。私はカズオ・イシグロさんの作品ははじめて読んだが、著者の着想と構成のすばらしさと、翻訳者小野寺健氏のつむぎだす日本語訳に深い感銘を受けた。 | ||||
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日本を去り、イギリスに住む主人公・悦子は、 前夫とのあいだに生まれた長女・景子の自殺をめぐり、 その喪失感の中で自らの過去を回想します。 太平洋戦争が終わった直後の荒廃した長崎の様子と自身の孤独、 同じ長崎で、復興の兆しの見えたころ出会った アメリカ人と結婚をほのめかす不安定な女と心を閉ざすその娘、 老いてなお子どもに対して一言二言多い義父と前夫の未成熟な親子関係、 ゼロから興した蕎麦屋をはじめとする元気な市井の人々、 選挙権を得た妻をめぐる夫婦のエピソードなど、 混乱から脱していない社会と、 当時のイギリスから見ると(たぶん)人間としてまだまだ未熟な様相を ぽつぽつとちりばめています。 また、記述は少ないのですが、 自身の再婚の事情・渡英や 長女の引きこもりとの葛藤、 反抗期の次女ニキのとげとげしさを含め 惹かれるエッセンスが盛り込まれていて、 それを読者の想像に任せる余地を残して、詩的にまとめられた作風に仕上げています。 (読み落としたのではないかと何度もページを戻って読み返しました。) 筆者のひきだしの多さには感心します。 故意に現代と回想部分の時世を変えて惹き付けるという テクニックを駆使されています。 『』 『』 にみられる確実に伝達しようとする律儀さ・饒舌さは未だありません。 デビュー作。王立文学協会賞受賞作品。 | ||||
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はじめてカズオ・イシグロを読んだ。 2章あたりでこれはすごいと思って、没頭して読んでしまった。 「仕掛けに満ちた小説」とはこういうものをいうのだろうか。いやはや、これが20代後半の青年によって書かれたとは。 読み終えて、またすぐ読んでみたくなる小説なのだ。 この小説は、小説そのものに関心のある読者をかなり刺激する。 答えの用意されたなぞ解きはつまらないが、なぞはなぞのまま引っ張っていく語り方のサスペンス。 現在のものがたりと過去のおもいで、悦子はなぜ何十年も前の数週間の出来事をこんなにも鮮明に思い出すのか。 作者は何から語り始め、何を語らなかったか。何も語られないニキの父のことや景子のこと、それに比べて、佐知子と万里子の生き生きとした造形。 その筆の冴え。作者のたくらみは、作為をそれと感じさせずほとんど成功している。すばらしくよくできた映画を見たような感じ。 ほとんど会話で成り立っていると言ってもいいような小説なのだが、この会話が、なんともすごい。解説で池澤夏樹が書いているように、会話で、人物が粒だってくるというか、 際立ってくる。くりかえしとたたみかけと間。視線の交錯。いい演出家といい役者で名シーンになるような場面がいっぱいだ。 これがデビュー作である。はじめにこれを選んで正解だった。これからカズオ・イシグロの小説を順を追って読むことができる。本を読むことの幸せを感じる。 訳された小野寺健氏と池澤夏樹の解説が示唆に富んでおり、いろんな方向からの読みが楽しめる。 | ||||
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自分ではどうしようもない時に,心から離れていかないシーンを描く小説です。 遠い自分の居た場所(きっともう帰ることはない), 自分で分かるような分からないようなそのときの感情。 全編を貫く寄る辺の無さ,非常に細やかな感情の交歓。 共感と反発と見下しと同情。 そして時間がたって気がつくこと。 それらが,現在の悦子と長崎の悦子に浮かんでは消え,全てが薄ぼんやりとしたひとつの光景を構成していきます。 イシグロ得意の二つの時間軸の往来です。 とても表現が鮮やかで楽しめる小説でした。 | ||||
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イシグロの最新作「わたしを離さないで」に感動し、彼の長編をさかのぼって読んでゆき、たどり着いたのが、処女作「遠い山なみの光」でした。翻訳ものとは思えない読みやすさ。魅力的な登場人物たちは、私の心に入り込んで、その続編を想像させずにはおかない。何より驚いたのは、20代の男性が女心をここまで書けるのかということ。会話の言葉遣いに関しては、違和感を持ったことがここのレビューに書かれてありましたが、別のサイトにも同様のことがあり、主人公の娘景子と同世代の私にとっては、逆にそれは思いがけないことでした。「昭和は遠くなりにけり」なのかもしれません。何はともあれ、日本では埋もれているこの作品を、多くの人に読んでもらいたいし、出来たら映画化して欲しいと思います。 | ||||
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日系英国人作家、カズオ・イシグロの長編第一作である。 イシグロ本人も認めているが、本作と 『浮世の画家』『日の名残り』は同じトーンで貫かれている。 イシグロは本作の舞台を長崎に設定しているが 作中の長崎は、氏が五歳のときに出国して以来 一度も帰っていない記憶の中の場所だという。 そのためか作者の記憶も、作中人物の記憶も 夏の陽炎のようにゆらゆらと頼りない。 私たちにとり、自分をこの世界に繋ぎとめているものが、 ある時間を生きてきたという記憶なのだとしたら イシグロの作品は押し並べてこの拠って立つ 堅牢な土台に鋭いメスを入れているようなものだ。 エキゾチックな雰囲気を醸し出すことによって 注目を集めた部分は否めないが、 それだけにとどまる作家ではないことを この後の作品でイシグロは証明することになる。 | ||||
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語り手の女性を取り巻く一一あるいは取り巻いていた一一様々な人の姿を冷静な観察で細部から浮き彫りにしつつ物語は進行しますが、それぞれの言葉や態度、そうした表層から推察できるそれぞれの思惑や人生観が悲惨なほどすれ違っているのがおもしろい反面、それはじつはすれ違いではないのかもしれない、という何か無感覚に近い光明(?)をわたしにもたらしました。何より思うのは、これはある国や人びとの過去の姿ではなく、これと同種のことが今もそこら中で日常的に起きているということ、そしてそうした人たちをかろうじて繋いでいるのは、あるいは戦争が代表する死や恐怖の共同体験でしかないのかもしれない、ということでした。その読み易さ以上に深くて重い、わたしにとっては手ごわい作品。 | ||||
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翻訳者の日本語がちょっと古い感覚かな…。 女性の話す言葉が全て「~だわ」「~なのよ」調で、読むのがシンドかった。悦子の追憶にある昭和20年代や、その後ニキとのやり取りの舞台である昭和40年代(と思われる)の女性って、皆こんな言葉遣いだったのでしょうかねー? | ||||
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この小説はメイン舞台が日本であり、日本女性の手記という形であり、その主人公は自分のことを「わたし」と第1人称でよぶ。この形式だけみると、いわゆる私小説じゃないかと思いたくもなるが、この本は違う。 まず、主人公の感情が直接記載されていることはほとんどなく、スローモーションのような外界の描写がさらさらと淡白に描かれている。その文章の中に、激しい情念や絶望、儚い希望にしがみつく人々が息づいている。 戦後日本の国民的精神の揺れ、移り行く価値観に戸惑う人々、何とか人間らしく生きていこうとする人々を、遠い国から祖国に想いをはせ、美しく描き出だすことに成功している。 | ||||
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冒頭で明かされた「私はついに佐知子のことがよくわからなかった」という悦子の言葉は、自身に対する言葉でもあり、日本的な価値観で見て当時は批判的だった佐知子と同じく、母というよりも女として人生を歩む決意するに至った過程を、彼女自身が不可思議と捕らえているとも思えました。女としての思いと、母としての思いに引き裂かれる女性の物語と言っても良いと思います。筋立ては良く出来ていると思います。 米兵とともにアメリカに渡った後の生活を夢として語る佐知子と、夫と子供と共にある自身の生活は幸せだと語る悦子、二人の会話が完全にすれ違っている場面は一つの山場だと思いました。また、佐知子の娘の万理子と悦子の娘の景子の人生が微妙に重なる点は、物語に奥行きを与えていると思います。景子の末路は明らかですが、万理子のその後は明らかではありません。文章化されていませんが、全く別の結末があったのかもしれないという悦子の疑念や後悔が感じられ、同時に女性が自分らしく生きることの難しさを感じさせる展開でした。 | ||||
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