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遠い山なみの光
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遠い山なみの光の評価:
| 書評・レビュー点数毎のグラフです | 平均点3.92pt | ||||||||
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Amazonサイトに投稿されている書評・レビュー一覧です
※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
未読の方はご注意ください
全85件 1~20 1/5ページ
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| 映画をみたのですが、よく理解できず、原本を購入しました。面白かったです。 まだ読み終わっていませんが。 | ||||
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| 連続でカズオ・イシグロ満喫中。 長崎を舞台にした物語。でもイギリスにいる日本女性から始まる。 途中であれ?と思う。これは、一体誰の話をしているのだ??? となってからが面白い。自分の中での推理と物語の進行とが絶妙のバランスで「こういう読み方が正解だよね」のラインを行ったり来たりする。 英語から日本語訳された日本が舞台の小説なわけだが、あんまり戦後の日本の一般家庭の雰囲気は感じないかな。緒方さんというとても自分のやってきたことを誇りに思うタイプの人(悪い人じゃない)よりも息子の二郎の方が家長制度の権化みたくてなんだか不思議。 カズオ・イシグロの小説って、なんというか透明だよね。臭みがない。著者の痕跡がないというか。においがない。 これもよかった。 | ||||
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| 原作も映画も、へぇーと思う最後でした。 同一人物だったのかと。 彼女は私で、あの子は自分の子 旦那さんとは別れ、アメリカならぬイギリスへ行った。 義父はいて、息子とは全然上手くいっていなかった。 時代の裂け目をまたぐシビアなお話でした。 ただ一つ、過去の常識、倫理が後から完全否定されると辛くてたまらないでしょうね。 昔はみんなが当たり前と思っていた諸々の規範、習俗が否定されると、自分の人生まで半ば否定されますね。 不適切にもほどがある、と。 | ||||
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| Good! | ||||
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| "イギリス人は、それ以上の説明はいらないとでもいわんばかりに、日本人には本能的な自殺願望があるという自分たちの見方に固執する。新聞はそれだけしか書かなかった。景子は日本人で、自室で首を吊ったということしか。"1982年発刊の本書は著者長編デビュー作、映画化もされた一冊。 個人的には映画化もあって手にとりました。 さて、そんな本書は長崎県長崎市生まれ、イギリスに移住、2017年にノーベル文学賞を受賞した事でも知られる著者のデビュー長編、王立文学協会賞受賞作で。英国に渡って数十年になる悦子が長女の景子の自殺に直面し、その景子を身ごもっていた過去、原爆の影が覆う敗戦後すぐの長崎時代にたまたま知り合った母娘。アメリカ人の愛人に未来を託そうとしている母の佐和子、不気味な幻影に怯える万理子の事を回想していくのですが。 まず、日本生まれだが、幼くして英語に渡り、日本語を取得していない著者。実質的に英国人がそれらしいと信じて書いている『日本語人の会話』と本書を捉えると訳者の工夫も感じられる不思議なエキゾチックさが残りました。 また、本書は語り手である悦子の激しい時代環境の変化を背景に、犠牲を払った上での【女性としての自立】が、テーマだと思いますが。薄明かりの中で明確に語られない部分に余韻を感じます。 著者の初期長編として、また敗戦後の空気感を感じる作品としてもオススメ。 | ||||
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| なんだか不思議なお話でした。 読みやすくて一気に読めちゃいます! | ||||
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| 本は古書ですが、良い状態でした。 英語で書かれた原作ですから、当たり前といえば当たり前ですが、映画での博多弁はなく、標準語でした。 | ||||
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| 本書のテーマがわかりにくいのですが、私はカズオイシグロの私小説なのかなぁと思った。楽しかった思い出のある日本長崎を5才で離れ、イギリスでグラマースクールに通うなど恵まれた子供として育ったが、日本語を忘れ、日本人としてのアイデンティティを失った。それを悩み、母親になぜ日本を離れたのか、日本人としての教育をしなかったのかを尋ねて、自分を見つめ直す為にこの本を書いたのだろうか。 景子とニキは、カズオイシグロ自身なのではないか。アイデンティティを失って自殺願望すら抱く。話を聞くことで時代背景や被ばく体験などから母親を認めながら、自分のアイデンティティ喪失を悩み、小説を書くことで改めて自己の存在、生きる道を生み出そうとしたのではないか。 自らの再生と母親、あるいは両親との折り合いをつけたのではないのか。 カズオイシグロがノーベル賞を贈られた時、母親は喜び、友人に本を贈ったという(父親は亡くなられていた)。母親もカズオイシグロの養育、教育に悩んだり後悔もしていたが、ノーベル賞受賞で報われたと思ったのであろうか。 | ||||
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| 小説では語り手と主人公の悦子が同じ人間となるし、文章の中でもことわっているが、語り手の記憶にはあいまいなものや間違いすらあると。悦子は元の夫との間に「景子」がいるが、近所のあばら家に住む佐和子とその子供「万里子」の関係が、悦子ー景子の関係と渾然一体になって描写されている。最後に佐和子や万里子と一緒に長崎の山にケーブルで登った描写が、実は景子と一緒に行ったものであることが明らかになる。つまり、佐和子ー万里子の描写は語り手の混乱或いは意図的な作為であり、本当はただ悦子ー景子の思い出だったことが暗示されている。映画では、描写かリアルで言葉のように曖昧にできないので、鑑賞者はここで万里子=景子だと気づく訳である。 原爆の記憶や戦後の混乱、変動期に価値観や社会の変化に翻弄されつつも、生き方を模索する女性の弱さや強さがほのかな希望と共に描かれている。カズオ・イシグロの原点と言える作品であろう。 | ||||
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| 最後になって作品の主旨が浮かび上がるカズオワールド。 時代の変換期、人はどう生きれば正解だったのか。 たくさんの会話から思いを感じる形は読み手の想像力を掻き立て本当に面白いです。 | ||||
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| 映画を観て、確認すると違いに気づく、時の流れをフラットにみる視点を養うのにいいですね | ||||
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| 他の映画を見た時に予告編で気になり 読んで見ようと購入しました 早く届いて良かったです | ||||
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| 商品を受け取りました。ありがとうございました。 | ||||
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| 今話題の映画 長崎にゆかりのあるノーベル文学賞作家 定価で買えて良かったです。 原作読んで映画見に行きたいです。 | ||||
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| オーディブルで聴きました。語り手の方の奮闘ぶり(一人数役)に拍手でもあり少し無理も感じました。紙でも読み、映画も観ましたが結局いくつかのストーリー展開上のモヤモヤは消えませんでした。一番ストレートに感じたのはあの当時の男社会の傍らで生きる女性の生き辛さ、被爆者の苦しみが置き去りにされたかのように目まぐるしく変わる長崎の復興のエネルギーです。被爆者である悦子が妊娠し、それを知らない夫から「君が被爆者じゃなくて良かった」と言われたことは許せないと思います。彼女が日本を捨てたのはそれが理由ではないでしょうか? この作品を20代で書いたをカズオ・イシグロって、やはりすごい。 | ||||
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| イシグロの作品はすべて味読しているが、今回映画を見て、原作と違うのではないかという錯覚を 覚えた。 本書はイシグロが五歳のときの記憶を封印したまま、大人になって「母語としての英語」でその記 憶を留めるために書かれた。普通の日本人は、成長とともにその記憶が「上書き」されるから、日 本人が日本語で書いた小説が英訳される場合と一線を画して、英国人にとって、日本人の自殺願望 があるという「ステレオタイプ」が見事に解消されている。 イシグロ本人は、初期長崎2作のあと、『日の名残り』において、プルーストに寝覚めたことが、 その後の『充たされざる者』、『わたしたちが孤児だったころ』、『わたしを離さないで』に至っ て、もはやイシグロのトレードマークとさえ言われる”信頼のおけない語り手”手法を駆使すること によって、ノーベル賞受賞に至ったとわたしは考えていた。 『忘れられた巨人』、『クララとお日さま』で、イシグロの作品は文学と言うより、哲学作品の様 相を呈してきたと思う。例えば第二次世界大戦後は日本人にとって「深刻なパラダイムシフト」を 迫られることで、未だに混乱している日本人は多いが、イシグロの場合は過去を深刻に後悔し、絶 望と困惑に沈むだけではなく(無論日本人が反省しないと糾弾するのでもなく)、そこから希望の 光を見出そうとする。尤もそれ(=イシグロの根底にある「平和志向」)は、明るいというよりは、 薄暗がりの作風ではある。 映画では『生きる』のリメイクと同様、イシグロが総合プロデュースしているから、本作の場合、 イシグロが『青い山なみの光』をもしリライトするか、手を加えてより完成に近づけようとする なら、”こうなる”と考えてのイシグロの「答え」であるように思われた。 イシグロは多くの人がカフカ的だとか、プルースト的だとか言うが、わたしは彼らを超えていると さえ言えると思う。 今回、本作を日本語訳で読んでみて、本作の映画が原作と大きく違うことはなかった。尤も原作で は当然長崎でのエピソードの方がイギリスでのエピソードより多く書かれており、映画ではむしろ 「逆」に描かれているのは、興行成績を思えば自然なことであろう。 初めて日本語訳を読んで、訳者の卓越した「異化翻訳」の手法に感動した。例えば、日本語では 「~ところ」という。小野寺氏はそれを「~とこ」というふうに、正統英語風をそのまま日本語に 「同化翻訳」するのではなく、あえて「異化翻訳」の技巧を用いている。日本人は、同化翻訳こそ 「翻訳の王道」と考える人が多いと思うが、ここは日本人が今日日常的に用いる日本語表現通りに、 正統英語を今日的な現代日本語に合うよう「異化翻訳」されたのに唸ってしまう。 (日本人が「自然に」日本語を読める。) また小野寺氏は人名をイギリス人原作らしく、カタカナ表現にしようとお考えだったようだが、イ シグロ氏から「ある人名の”漢字”に、ある漢字だけは使ってほしくない」と突然の注文があったら しい。小野寺氏はその時点で、イシグロ氏の頭の中に「漢字がある」と察して、想像たくましく漢 字名を当てられたそうである。翻訳レベルの高さをも味わうことができて、大変幸せな読書のひと ときでもあった。 | ||||
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| カズオイシグロの小説の特徴である「信用できない語り手(悦子)」が主人公である。「語られない記憶」が物語の中心にあり、記憶と幻想が入り混じっていく。「語られないこと」とは、ミクロでは娘(景子=万里子)の自殺であり、マクロでは原爆によって亡くなった長崎の人々のことである。亡くなった者たちのことを、どうしても語れないのが悦子なのだ。 この小説の深さは、2025年公開の映画の「答え合わせ」で明らかになる。佐知子とは悦子のことであり、万里子とは景子のことなのだ。ただし、佐知子は、語り手の悦子が子ども(景子=万里子)を生み、離婚し、イギリス人男性と結婚して渡英する直前の女性であり、二人が語り合う場面は数年間を隔てたモノローグとなっている。 映画は、広瀬すずさん、二階堂ふみさん、吉田羊さんらの見事な演技と美しいカメラワークが光る名作である。しかしこの作品は、表向きには何も事件が起こらない日常を描きながら、静かな描写の裏に激しい断念のドラマの残響が響いている。美しい物語というより、ホラー的要素を感じる。 例えば、川向うから万里子を迎えに来る女の人は、終戦間近に赤ん坊を水につけて溺死させた女性のメタファーであり、狂気をたたえた母親(悦子=佐知子)のメタファーでもあり、原爆で亡くなった方の象徴でもある。映画で、この女性について語る二階堂さんの演技には背筋が寒くなった。 また、川べりに隠れた万里子を悦子が探し行く場面が二度あるが、そのどちらも悦子の足に縄が絡まり、その縄を見た万里子が「それなあに?」「なぜ、そんなものを持っているの?」とおびえて問いかける。その縄は、縊死した景子につながる縄であり、母親の狂気を象徴するものでもある。映画は、画面が赤色に染まる中、広瀬すずさんが鬼気迫る演技を見せる。1950年代とはいえ、猫の親子を箱に入れたまま川に沈めて殺す場面もある。これも映画で見ると、二階堂ふみさんの演技が恐怖だ。 イギリスで悦子が夢に見る、ブランコに乗った女の子が、ロープウェーに乗った万里子=景子の幻影であることも徐々に明らかになる。小説の最終盤では、「あの時は景子も幸せだったのよ。みんなでケーブルカーに乗ったの」と決定的なセリフがある。映画では、イギリスの家に残る思い出の写真を通して、謎が解かれていく。 「本当に大切なことは語られ」ず、その謎の周りを登場人物がグルグルと回りながら淡々と物語が進んでいく様は、村上春樹の「風の歌に聞け」と同じ構造だ。どちらも「大切な人の自殺」を語ることができない物語だ。本作は、より読者の想像にゆだねる部分の多い。正直、解説なしでこの小説を読んだら、小津安二郎の映画のような、地味な話だな、といった感想しか持てないのではないか。 映画も、カズオイシグロの「信用できない語り手」構造を知らずに見た場合、訳が分からないという感想を持つ観客も多いように思う。しかし、ホラー映画として宣伝するわけにもいかない。 「語られなかった記憶」こそが大切であり、静かな諦めの裏側にある、人間のダークな面が、ぼんやりと明らかになっていく、そんな小説であり映画であった。暗い話ではあるが、二度、三度と読み返したくなる魅力がある小説だ。「記憶を語ること」そのものに、絶望の向こうの希望を垣間見せる力があるのかもしれない。 発表されて40年以上が経っても普遍性を持ち、現代の映画の原作として全く遜色がない、さすがノーベル文学賞作家のデビュー作である。 | ||||
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| 翻訳について書かれているレビューが多いですが、個人的にはかなり良かったです。 日本語という婉曲表現豊かな言語で、原文の雰囲気を損なわず、読者の想像の余地を残すような言葉をうまく選んでいると感じました。 悦子や二郎、緒方さん、藤原さんが標準語である点は確かに気になったものの、そのくらいでしょうか。 原作では悦子と佐知子についてもっと明確に書いてある!と批判される方は、そのまま原作だけ楽しむか、原文をDeepLにでも突っ込んで読めば良いのでは? わたしは直訳ではなく、言語や文化のの違いをうまく生かして再表現してくれる力のある翻訳家による文章が好きなので、とても読みやすかったですし気に入りました。カズオイシグロの文章の端正さをよく伝えていると思います。 本の内容自体は、登場人物同士の会話が全然噛み合っておらず、全体を通して不穏さが漂っていました。カズオイシグロ作品の中でも好きな方かも。 残念だったのは解説陣、特に三宅さん。本来は本文に深みを与えてくれる新たな視点や知識、発見を期待したいところが、内容はペラペラ、ろくに解説せず自我が出すぎ。さすがにちょっと力量不足な感じがしました。 | ||||
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| 英国籍の作家が書いた戦後すぐの長崎を舞台にした日本人のお話。 この作品を読んで多少の違和感を持ってしまった。と言うのも作中の登場人物はとても日本人らしくない印象である。 いわば英国人が勝手に想像した日本人像なのだろう。リアルな日本人気質ではこのような物語は創作できないのかもしれない。 戦後すぐの(作中でもうすぐ進駐軍が出て行く、と言わせてるから多分1950年くらいか)日本人はまず「肩すくめ」などの動作はしないはずだかそれがしょっちゅう出てくる。この動作も違和感のもとだ。 悦子が渡英して英国人の夫を持ちニキという娘を持つが先の夫の二郎はどうなったのか?ともに英国に来たのか、来ていないのか?二郎との長女、景子は自殺したことになっているがその理由は全く明かされていない。 増して佐知子と万里子はどうなったのか?神戸に行ったのか、フランクという男とアメリカへ旅立ったのか。 これも分からずじまいだ。幼い万里子は学校へも行っていなかったようでその後が気になる。 英国在住の悦子はどうやら一人暮らしのようだが娘ニキとのやりとりも何か不安な要素を醸し出している。 結局、幸せとは言い難い悦子の思い出話なのだがそれが真実が嘘か判然としない、まさに過去は幻という事か。 | ||||
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| 今回おそらく2025/9月公開の映画「遠い山なみの光」(監督:石井慶)に合わせて新装版が出たと聞いて再度読んでみることにしました。最初に読んだのは、同じ小野寺健さんの翻訳でしたが、カズオ・イシグロと同じ長崎県出身の村上龍による「半島を出よ」を読んだ後あたりでしたから遥か昔になります。当時、私は何を読んでいたのでしょうね。腹立たしいほど感想が残っていませんでした。 イギリスの田舎町で暮らす主人公、悦子の下へロンドンに住む娘のニキが訪ねてきます。そのニキの五日間の滞在期間に、悦子は故郷、長崎で生きた時代を回想します。おそらく1950年代。あの戦争が終わり、悦子は二郎と結婚していました。彼女は妊娠していましたが、そこで会った佐和子とその娘・万里子との日々が淡々と語られていきます。 悦子と義父にあたる「緒方さん」との会話、「緒方さん」と息子の二郎との会話、悦子と知り合いの(アメリカ人を恋人に持つ)佐和子との会話。そのそれぞれの会話が緊張感に満ち満ちており、まるで上質のサスペンス小説のようでした。もしかすると突き抜けてしまうのではないかという不安が突き抜けない。それは、やはり<小津>の映画のようでした。 最初に読んだ時に緩いと感じたあの<戦争>と長崎を襲った原爆についてのささやかな描写は、今読むと適切だったのだと思えたりもしました。何故なら、カズオ・イシグロの視点は<世界>の遥か上にあって、それほどのことであったとしても、世界の歴史の道筋の中では一つのインシデントであったに過ぎないと思えるからでしょう。 それでも「国宝」を書いた吉田修一と「限りなく透明の近いブルー」を書いた村上龍とカズオ・イシグロという三人の文学者が同じ長崎県の出身であることに深い痛みを覚えたりもしました。何故なのでしょうね?それを深掘りしながら考え続けることについてはひとまず批評家たちにお任せしたいと思います。 私は、ロンドンに住むことになった悦子が実はアメリカからイギリスに移住した佐和子であり、亡くなったのは悦子の娘ではなく万里子ではなかったのかと考え続けています。それでは勿論、辻褄が合わないことは理解しています。でも、それでも尚、悦子には長崎で娘を産んで、佐和子と万里子と共に見た長崎の港の遠い山なみの光を見て生きていて欲しかったと思うからかもしれません。 生きるということは、"A Pale View of Hills"が限りなく透明に近いブルーに染まっていくことなのでしょう。 なんて事だ。 ◻︎「遠い山なみの光 "A Pale View of Hills"」(カズオ・イシグロ 早川書房) 2025/6/13。 | ||||
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