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遠い山なみの光
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遠い山なみの光の評価:
書評・レビュー点数毎のグラフです | 平均点3.85pt |
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Amazonサイトに投稿されている書評・レビュー一覧です
※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
未読の方はご注意ください
全57件 1~20 1/3ページ
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一気に読みました。完全に理解できていないので、しばらくして再度読み返します。戦後の日本の話ですが、英語から日本語への翻訳なので、不思議な言葉使いです。 | ||||
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舞台は敗戦後の長崎。 古典的な日本女性の代表の様な優等生的の主人公。 妙にとがった、先鋭的で自立心の強い謎の隣人女性。 対象的な2人に、読者はかすかかな不穏さと違和感を覚える。 だがそれは漠然としていて、深海の底に静かに潜んでいる。 ラストの章で静かに明かされる事。 それはあまりにさりげなく描写されているので気付くのに、一拍遅れるのだ。 だが、その衝撃はじわじわと読者の中に広がっていく。 男性優位社会で、戦後の女性達が何者かになろうともがく。 それは静かに確実にそこにあり、一気に臨界点を超える爆弾なのかもしれない。 元は「女達の遠い夏」を「遠い山なみの光」に改題している。 女達にとって、光はまだ遠いのか。 掴める光なのか。 Audibleで聞いたが、朗読者が素晴らしい事を追記しておきたい。 特に、さりげなく「明かされる事」の表現が秀逸だ。 | ||||
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カズオ・イシグロ氏の作品、私はこれで二作目です。 私は前回『私を離さないで』を読み、そのディストピア的雰囲気と他人の為に命を供することを運命づける命、という存在に、意識のある家畜などを想起しました。まあとにかく、その設定に魂消た。 そして今回の作品も実は原作は40年前となかなか古め、そして不穏さがプンプン漂う中、釈然としない終了。模範解答が示されない! 友人知人に解釈を聞いて尋ねたくなるような展開でした。 【不穏①自殺した娘、景子】 本作は長崎時代の悦子と老年(50代後半)の悦子の状況が、行き来しつつ展開します。 冒頭では英国に渡り再婚した悦子から始まります。どうやら日本から連れてきた長女景子は自殺してしまった模様。他方英国に来てからの再婚後の子である次女ニキ。彼女と母の母娘の関係はもとよりニキと景子の姉妹関係もどうもしっくりいっていなかった様子。 こうした中、一体どうして景子が自死を選んだのかは明かされませんでした。英国が合わなかったのか、母との関係が良くなかったのか、或いは日本人の父親との間に何かあったのか等々、個人的には色々勘繰りました。一体どうして? 【不穏②再婚の経緯】 語り手である悦子が英国にて再婚したことは状況から分かります。でも、経緯については一切語られません。今現在、英国人の夫も亡くなり、その資産を受け継ぎ田舎に引っ込んでいるという事だけが分かります。 来し方を振り返り、戦後の結婚当初の日本人夫そして義父については振り返りますが、この英国人の夫については詳細が分かりません。こちらはどのような背景があったのかは全く分かりません。一体何があった? 【不穏③佐知子と万里子親子はいったい】 アメリカ人の情婦と思しき佐知子とその子である万里子(純ジャパ?)。 悦子が景子を亡くし、その後かつての長崎を想起する際、この母娘を思い出します。この佐知子・万里子親子は、没落貴族?のような風であり、プライドも高く、特に母は虚言癖の如く、米国人情婦のフランクとともに母子ともども米国へ移住すると何度となく悦子に告白(自慢?)します。 佐知子によるオオカミ少年的繰り返しの何度目かで、娘万里子が可愛がる猫がアメリカへは持っていけないと分かった万里子は、母親の反故にした点を佐知子にねちねち言ったところ、母親はとうとう猫を川に沈めて殺してしまった!?なんだこの母親!? 読者として、そんな病的な行為を後々振り返って考えると、実は英国での悦子というのは佐知子なのでは? そして英国で自殺した万里子とは景子のことでは?等と想像してしまいました。つまり佐知子は長崎でしった悦子(本物)を英国で思い出していた!?とか。 あるいは猫殺しやフランクへの執着から佐知子・万里子母娘の不仲が想定されましたが、実は景子とは佐知子から引き取った万里子のことで、悦子が英国へ連れて行ったのか等を想像しました。では長崎で孕んでいた悦子の子供はどうしたんだってことにもなりますが。 いずれにせよ、行間の広い、そして不穏な空気が美しく文語チックに描かれる様が美しい作品でした。 ・・・ ということでイシグロ作品二作目でした。 今回は翻訳が非常にすばらしかったのですが、原典でも(お値段安かったら)読んでみたいなあと思いました。 純文学好き、英国好き、長崎好き等々にはお勧めできる作品です。 | ||||
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敗戦後の長崎。原爆の暗い影とそこから立ち直ろうする街。長女の自殺や結婚の意思が不明な米国人の彼。そんな中でも力強く生き抜こうとする女性達の強い意思を感じました。 作者はほとんど英国で育ちながら古き良き時代の日本を感じさせる文章でした。 | ||||
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イメージ通りの作品で、購入してよかったと思います。 | ||||
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カズオ・イシグロがノーベル文学賞を受賞したときに読んだことがあったのは『わたしを離さないで』の1冊。読みかけが『忘れられた巨人』。 受賞を機会にこの『遠い山なみの光』を買った。処女長篇であること、カズオ・イシグロが生まれ5歳まで過ごした長崎が舞台になっていること、作品に原爆の影が落ちていること、日本人が主人公であること、そういうことに興味をもって読み始めた。 小説のほとんどが会話文で占められているのが1つの特徴だろう。 著者は多くは語らないし、登場人物もストーリーについて説明することはない。読者は文章の空白を想像力で補っていかなくてはならない。作品は読者の参加を要請する、読者は作品に参加する。それが文学というものなのであり、その参加する姿勢が本の読み方なのだと、いまさらながら思う。 | ||||
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〇 戦後の長崎が舞台で、登場人物はそこで何とか生き抜こうとする人たち、とりわけ二組の母娘(悦子と景子、佐知子と万里子)である。それぞれの登場人物の造形ははっきりしているが、人物描写は類型的でありきたり、会話は当たり前で面白くない、風景描写もストーリー展開も断片的だ。どうも味わいに欠ける文章だな、と少々物足りなく思いながら読み進んだ。 〇 ところが、最終章近くになってふたりの少女、万里子と景子が混同して描かれる箇所に出会った。読み違えたかと思ってページを戻って確認したがそうではない。印刷ミスかと思ったがそんなはずはない。そうかこれは作者の仕掛けなのかと気づいたら、何だか訳がわからなくなった。そうなるとそれまで個性的だと思っていた二人の母親、佐知子と悦子とが相似形に見えてきたりもする。性格は違ってもたしかにその運命はよく似ている。 〇 作者は何を言いたかったのだろう。確立された人物と見えてもふとしたきっかけでその輪郭は容易に溶け出し他の人との区別が曖昧になってしまうものなのだ、とでも言いたかったのだろうか。ともかくこうして、わたしは少々居心地の悪い思いを抱えたまま読了した。ということは、作者の術中にはまったということなのだろう。作者はどこかで「この作品では記憶の曖昧さを書こうとした」と語ったことがあるらしい。そんな表面的なことではなく、狙いはもう少し深かったような気がする。 | ||||
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久しぶりに感動した作品。面白い作品はいくつもあるが感動させられる作品はそうない。 自分の過去を悔いがないと思いつつもいろんなことからそう生きざるおえなかった昭和の時代を 生き抜いた悦子。自分の周りの人間が戦争で亡くなり人の世話にならざるおえない弱いその時代の女。 悦子は佐知子であり、万里子は・・・景子。子供が第一と言いながら、自分の人生を生きるために 子どもの気持ちが犠牲になる。佐知子と万里子は悦子の後悔が作り出した幻影なのか? 取り残されていく人間、進んでいく人間どちらも失うものがある。 これほど人生を考えさせらる作品にはなかなか会えない。 ただ日本での楽しかった思い出が悦子の胸に残っている。あの時は景子も幸せだった・・・ あの時は……。その後は?これが長編処女作だとは・・・ おそるべしノーベル文学賞受賞者。 | ||||
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状態も良く特に問題ありませんでした。 | ||||
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総じてリアルな描写がほとんど。だから、素直にそんな小説だと思って読んでいくと、終盤で「木からぶら下げられていた女の子の悲劇」とあって、その後に、万里子を追いかけた悦子の手には、何か(それ以前の描写から、縄が暗示される)が唐突に握りしめられている...とある。 ここで、現実感は根底から覆され、読者は「わたし」に信用が置けなくなり、これまでの「わたし」の語り全てが疑わしくなる(語り手が「わたし」だから)。 相対的にリアルさが勝っている(日本の私小説を思わせる淡々とした描写)だけに、悦子、ひいては作者さえ信用が置けない、という何とも言い難い、強烈な戸惑いと不信感とを覚えて読み終える。 ノーベル賞授与の理由の説明は、それであろう(だいぶ頑張ってひいき目に見た説明だ。それをきっかけにカズオ・イシグロを読み出したが、4冊目を読んでいる今は、作者の遊び心、つまり力量を強く感じる)。 ここで私が連想するのは、一つに、アガサ・クリスティーのスタイルズ荘の怪人事件』。 語り手が犯人であった。 次に、村上春樹の『カフカの海』。大きな謎が残された(ヨーロッパ文学の影響を受けている)。 彼は、ヨーロッパと日本の間に立つ、と見せているが、やはりヨーロッパの作家なのだなあ、と思う。 しかしながら、それは、現代、という一寸先の未来も予測が不可能な不安定な現代に生きる私(この文章を書いている「私」)自身の気持ちを代弁しており、そして、それは「私」にとどまらずに今現在のこの世界に住む全ての人々に共通の心情であることに気づかせてくれ、その意味で「私」はまさに世界につながっている、という実感を強く抱かせる。(あれっ、これってノーベル賞授与の理由と同じではないか?!ここでも話が回帰している!話が何度も振り出しに戻り解釈のし直しを繰り返して理解を深め足元を確かにしていく...このような思考法を取っているということ自体、我々は不確実な時代に生きている、ということを認めざるを得ない!) それにしても、読者を裏切らずに面白い話が書ける、という力量は抜群で、それだけでノーベル賞に値する作家だ。彼と同じ血を持つ日本人であることを誇りに思う。 たまたま図書館にあったので読み始めたが、久しぶりにアガサ・クリスティー100冊以来の読む楽しみを味わうワクワクした時間を過ごしている(8作品しかないのが残念!)。 | ||||
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現在では英国を代表する作家となったカズオ・イシグロが5歳になるまで過ごした長崎の記憶、そこに1950年代の小津や成瀬が撮った映画の要素を加え再構築された“ナガサキ”が舞台になっている。作家自身の薄れゆく故郷の“記憶”と、本作の語り部エツコがすり替えた“記憶”が、戦後のパラダイム変換を背景に微妙なシンクロをみせる小説である。 離縁後ケイコという娘を連れイギリスに渡り再婚したエツコが、日本でケイコを妊娠中知り合ったシングルマザーサチコとその娘マリコについての回想が核となって物語が展開する。実はこのケイコ、渡英後引きこもりの末首を吊って自殺しているのだが、その自殺や前夫二郎と離婚した原因について詳細は意図的に省略されており、サチコ及びマリコとエツコとの会話の中に隠されたある仕掛を発見することによって、はじめて真意が浮かびあがる非常にカズオ・イシグロらしい作品に仕上がっている。 多くの方が指摘するとおり、語り部であるエツコの回想の中で、エツコ→サチコ、ケイコ→マリコというエツコにとって都合のいい記憶にすり替えられているのだろう。原爆という生々しい記憶を刻む長崎を離れ、子供を連れイギリスに逃げるように渡ったエツコ。日本時代の暗い思い出を一時的に封印したものの、ケイコの自殺によってその封印が一部解け、エツコの中にサチコとマリコという架空の別人格を作り出したのではないか。その構造は、デヴィット・リンチが『マルホランド・ドライブ』や『インランド・エンパイヤ』でに見せた“死後の夢”によく似ている。 イシグロが参考にしたという小津作品の中に本小説と非常に似かよった雰囲気の映画がある。1957年に撮られた『東京暮色』。妻に逃げられ次女と二人暮らしの銀行員。夫のドメバイに耐えきれず子供を連れて実家に逃げてきた姉。男に逃げられ妊娠中絶後事故死してしまう妹。こんな救いのない物語のはずなのに、小津はまるでコメディのような演出を施して観客の違和感を煽っている。戦後いとも簡単に貞操を捨てるようになった女性の価値観変化に、小津安二郎が覚えたイメージをそのまま映像化したような異色作である。 くしくも『A Pale View of Hills』とタイトリングされたこの小説には、その価値観の変換にうまく対応できなかった女性たちの苦悩や自責の念が、記憶のすり替えという一種の狂気によって表現されているのではないか。映画『東京暮色』同様、離婚や自殺という具体的なトピックにはあえてボカシを入れ、何気ない会話における言い間違いや重複によって読者に隠された事実を妄想させる技法は映画的でさえある。純文学だと思って読んだらホラーだった、と感想を語った読者の気持ちもよくわかるのだ。 この小説の翻訳家の元にカズオ・イシグロから、登場人物の名前にある漢字を使用しないで欲しい、という事前のメッセージが届いたらしい。“幸”子と“真”理子だけはやめてくれ、という具体的な指示だったと思うのですが、皆さんはどう思います? | ||||
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綺麗でした。すぐ送ってくださってありがとうございました。 | ||||
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ノーベル文学賞受賞記念講演を読んで、3冊だけ限定でカズオ・イシグロの作品を読むことにした。作者の27歳時のデビュー作である。作者は幼少時に英国に渡る(まるで万里子や景子のよう)。血は純粋日本人で、その彼が純粋の英語で、長崎の話を書いている。 噂に聞く「わたしを離さないで」と同じ構造なのか、最初は日常風景が延々と続く。縁側、ざぶとん、うどん屋さん、三和土、等々と何処から調べたのか、1950年代地方都市郊外の日本の姿が詳細に描写される。ところが、何か謎を孕んでいる不穏な空気が常にある。 今はイギリスにいる主人公悦子は、おそらく80年代の初めに長女の景子を亡くす。その時に思い出したのが、長崎の暮らしである。まるで「失われた時を求めて」のように(記念講演で影響を受けたことを告白していた)、悦子にとっての過去が現代のように映し出される。 主な登場人物、悦子さんと佐知子さんと万里子ちゃん、3人とも何らかのものを抱えて生きている。それが何なのか、延々と続く会話の中で推測するしかない。私は3人のいずれかが被曝したと途中までは予測していた。 幾つかは、日本語として不自然な語句がある(日本の嫁はいくら心の中でも、舅のことを「緒方さん」とは呼ばない、あ、でも回想の中の語句なのだからその方が自然なのか?)。その他いろいろ。そういうのが、いかにも80年代初めの英国文学青年から見た戦後間もない日本の風景のようで、新鮮だ。長崎弁は一切出てこない。 第二部で、彼女たちはロープウェイで稲作山に登り、復興途中の長崎市内を見下ろす。表紙の絵かもしれない。そこで悦子と佐知子は希望を語るのである。どうも彼女たちの鬱屈は被曝ではないようだ。でも、ナガサキが彼女たちに薄暗い緊張感を与えているのは確かだ。 結局、悦子が歩んで来た人生は現代の次女からは「正しかったのよ」と言われ、過去の思い出からはホントにそうだったのかと悦子を苛む。最後のあたりで、それが読み取れる。非常に計算された、賢い作家なのだろうという印象を受けた。あと2冊、我慢して読んでみよう。 | ||||
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過去と現在とが交錯する、のっけからよくわからないとっかっかりだけど、読者に読み続け&読み込ませるのはイシグロの物語り方のうまさに加えて、池澤夏樹が解説で言ってるような、”創造的な、作家的な訳業”のせいかもしれない。それがいいかどうかはともかく、良き読者は英文オリジナルをも読むべきかもしれない。 「女たちの遠い夏」という最初の邦題のほうが、内容的には合ってる気がしないでもない。”女たち”、つまり、悦子、佐知子、真理子、景子&ニキ・・・の個性的な世界。 で、当の訳者小野寺健氏の”あとがき”には、そのあたりのことは何も書かれてないけど、イシグロの作品は世界を不条理とみる見方…薄明の雰囲気…なんだっていうことはわかる。 イギリス本国では王立文学協会賞までもらってるっていうくらいだから、これはすごいことなんだろうな!って、妙に感心&納得して、ここはやっぱ、オリジナル英文を読んでみようかな?って、思ってしまう。 | ||||
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今はイギリスに暮らす未亡人の女性 その女性が長崎に住み、妊婦であった時代に友人だった女性とその娘 その時代の思い出をつむぎながら物語は進んでいく・・・ 結局 その友人との思い出がなんであったのかは最終章で語られ 再び読者はページを元に戻し読み直すことになるのかもしれない 翻訳もので原書を英語で読む能力のない私だが 翻訳ものでも十二分物語としての出来は良いものだと思う | ||||
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作品全体は、ふんわり、ほんやりしていながら、不思議な流れに沿って、時空間の交錯の中を漂って、いつの間にか読了してしまった。この書き方が、戦争や移住など、過去の自分を形成していた全てからの変革を体験した者の物語としての手法に、合っていたと読み終わって感じている。 | ||||
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「日の名残り」が面白かったので、この作品にも手を出してみた。余韻の残る名品であった。会話のやり取りによる心の動きの表出の巧みさは絶品であるが、これは訳者の力量でもあるだろう。この作品の終わりに、あとがきと解説があり、この作品の魅力を十分に説明しているので、これ以上の説明は加えられない。個人的には、万里子の猫が目の前で川に捨てられるシーンが、切なくて切なくて胸に突き刺さった。ラストのほうで、港へ行った日の思い出が、万里子でなく娘の景子になっており、「あの時は景子も幸せだったのよ」と語る切なさも堪らない。タイトルは「女たちの遠い夏」でも良いと感じた。 | ||||
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非常に違和感のある訳文に最後まで引っ掛かりながら読んだ。それでも読めたのは原作の力だろうと思う。会話が長崎弁をとまでは言わないが、言い方がいつの時代のどこの人なのか、誰も言わないような言い回しである。悦子と佐知子の会話、二郎と父親の緒方さんの会話のどちらもかなり奇妙で、原作自体もともとかみ合わない雰囲気を出すような書き方をしていると思うが、訳出の仕方が原作にない違和感を感じさせているのではと思いつつ読んでいった。英文の原作を読んだ何人かの指摘が前のレビューにあり、疑問が氷解して一挙に納得した。なかなかの仕掛けがあったのだと。さらに、悦子がイギリスに行ったいきさつも暗示されている。 解説の池澤さんが訳者をとても持ち上げているのには呆然とした。星の数は以上を踏まえての数で、読んだ直後の星数なら2つです。 | ||||
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迅速な対応で綺麗な状態でお届け下さいました。内容も日本人の少し古い時代の作家の純文学のようで読み易く落ち着いていました。 | ||||
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