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遠い山なみの光
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遠い山なみの光の評価:
| 書評・レビュー点数毎のグラフです | 平均点3.92pt | ||||||||
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Amazonサイトに投稿されている書評・レビュー一覧です
※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
未読の方はご注意ください
全118件 21~40 2/6ページ
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| カズオイシグロの小説の特徴である「信用できない語り手(悦子)」が主人公である。「語られない記憶」が物語の中心にあり、記憶と幻想が入り混じっていく。「語られないこと」とは、ミクロでは娘(景子=万里子)の自殺であり、マクロでは原爆によって亡くなった長崎の人々のことである。亡くなった者たちのことを、どうしても語れないのが悦子なのだ。 この小説の深さは、2025年公開の映画の「答え合わせ」で明らかになる。佐知子とは悦子のことであり、万里子とは景子のことなのだ。ただし、佐知子は、語り手の悦子が子ども(景子=万里子)を生み、離婚し、イギリス人男性と結婚して渡英する直前の女性であり、二人が語り合う場面は数年間を隔てたモノローグとなっている。 映画は、広瀬すずさん、二階堂ふみさん、吉田羊さんらの見事な演技と美しいカメラワークが光る名作である。しかしこの作品は、表向きには何も事件が起こらない日常を描きながら、静かな描写の裏に激しい断念のドラマの残響が響いている。美しい物語というより、ホラー的要素を感じる。 例えば、川向うから万里子を迎えに来る女の人は、終戦間近に赤ん坊を水につけて溺死させた女性のメタファーであり、狂気をたたえた母親(悦子=佐知子)のメタファーでもあり、原爆で亡くなった方の象徴でもある。映画で、この女性について語る二階堂さんの演技には背筋が寒くなった。 また、川べりに隠れた万里子を悦子が探し行く場面が二度あるが、そのどちらも悦子の足に縄が絡まり、その縄を見た万里子が「それなあに?」「なぜ、そんなものを持っているの?」とおびえて問いかける。その縄は、縊死した景子につながる縄であり、母親の狂気を象徴するものでもある。映画は、画面が赤色に染まる中、広瀬すずさんが鬼気迫る演技を見せる。1950年代とはいえ、猫の親子を箱に入れたまま川に沈めて殺す場面もある。これも映画で見ると、二階堂ふみさんの演技が恐怖だ。 イギリスで悦子が夢に見る、ブランコに乗った女の子が、ロープウェーに乗った万里子=景子の幻影であることも徐々に明らかになる。小説の最終盤では、「あの時は景子も幸せだったのよ。みんなでケーブルカーに乗ったの」と決定的なセリフがある。映画では、イギリスの家に残る思い出の写真を通して、謎が解かれていく。 「本当に大切なことは語られ」ず、その謎の周りを登場人物がグルグルと回りながら淡々と物語が進んでいく様は、村上春樹の「風の歌に聞け」と同じ構造だ。どちらも「大切な人の自殺」を語ることができない物語だ。本作は、より読者の想像にゆだねる部分の多い。正直、解説なしでこの小説を読んだら、小津安二郎の映画のような、地味な話だな、といった感想しか持てないのではないか。 映画も、カズオイシグロの「信用できない語り手」構造を知らずに見た場合、訳が分からないという感想を持つ観客も多いように思う。しかし、ホラー映画として宣伝するわけにもいかない。 「語られなかった記憶」こそが大切であり、静かな諦めの裏側にある、人間のダークな面が、ぼんやりと明らかになっていく、そんな小説であり映画であった。暗い話ではあるが、二度、三度と読み返したくなる魅力がある小説だ。「記憶を語ること」そのものに、絶望の向こうの希望を垣間見せる力があるのかもしれない。 発表されて40年以上が経っても普遍性を持ち、現代の映画の原作として全く遜色がない、さすがノーベル文学賞作家のデビュー作である。 | ||||
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| 登場人物、名前は日本人だけど感性も会話中の比喩表現も日本人離れしている。なんだかそれが妙に気になってあまり内容が入ってきませんでした。 | ||||
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| 淡々と進む語りについていくのは、忍耐を要する。今まで、日の名残り、わたしを離さないでをよんでいるが、これは、一番読みづらかった。カズオイシグロの世界を知っていないとつまらないだろう。 | ||||
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| 今夏映画化されると知り、読んでみた。 全体を通して、誰のところでも何か起こりそうで起こらない、どの場面もずっと不穏な感じ。この空気感、温度感は今まで読んだカズオイシグロの作品全部(と、言っても3冊)似ているような気がする。 舞台は長崎だけど、自分の頭の中で描く風景はなぜか、広島のそれだった。 佐知子と娘の万里子を取り巻く事情、見え隠れする「アメリカさん」(この言い方は現在においてはNGなのかもしれないが)の存在とか、おいおい、と思わずにはいられないのだけど、こんな感じの母娘、当時は珍しいわけではなかったのかもしれないと思う。 一方、比して悦子の家は一見、順風満帆ぽいのだが、当時に家庭内における男女、上位関係において、義父のことを「緒方さん」と呼ぶのはすごく違和感がある。いくら「緒方さん」の息子の二郎と一緒になる以前からよくしてもらってたという関係だったとしても。変に勘ぐってしまった。 読後、巷の感想をあさってみると、悦子&景子=佐知子&万里子と解釈してる人が多かった。言われてみたらそんな気がしてきた。大した知り合いでもないのに、やたら悦子は佐知子&万里子にそこまでしてあげなくてもよくない?ってレベルで親切にしているし、あんな越し方で、佐知子が英語がペラペラというのも、おかしいし。 悦子と佐知子の対話になっているようでなってないやりとりが脳の表面を横滑りしていく気持ち悪さから、すぐに再読して確認する気にもなれないので、映画を見たらまた考えてみようと思う。 | ||||
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| 翻訳について書かれているレビューが多いですが、個人的にはかなり良かったです。 日本語という婉曲表現豊かな言語で、原文の雰囲気を損なわず、読者の想像の余地を残すような言葉をうまく選んでいると感じました。 悦子や二郎、緒方さん、藤原さんが標準語である点は確かに気になったものの、そのくらいでしょうか。 原作では悦子と佐知子についてもっと明確に書いてある!と批判される方は、そのまま原作だけ楽しむか、原文をDeepLにでも突っ込んで読めば良いのでは? わたしは直訳ではなく、言語や文化のの違いをうまく生かして再表現してくれる力のある翻訳家による文章が好きなので、とても読みやすかったですし気に入りました。カズオイシグロの文章の端正さをよく伝えていると思います。 本の内容自体は、登場人物同士の会話が全然噛み合っておらず、全体を通して不穏さが漂っていました。カズオイシグロ作品の中でも好きな方かも。 残念だったのは解説陣、特に三宅さん。本来は本文に深みを与えてくれる新たな視点や知識、発見を期待したいところが、内容はペラペラ、ろくに解説せず自我が出すぎ。さすがにちょっと力量不足な感じがしました。 | ||||
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| 英国籍の作家が書いた戦後すぐの長崎を舞台にした日本人のお話。 この作品を読んで多少の違和感を持ってしまった。と言うのも作中の登場人物はとても日本人らしくない印象である。 いわば英国人が勝手に想像した日本人像なのだろう。リアルな日本人気質ではこのような物語は創作できないのかもしれない。 戦後すぐの(作中でもうすぐ進駐軍が出て行く、と言わせてるから多分1950年くらいか)日本人はまず「肩すくめ」などの動作はしないはずだかそれがしょっちゅう出てくる。この動作も違和感のもとだ。 悦子が渡英して英国人の夫を持ちニキという娘を持つが先の夫の二郎はどうなったのか?ともに英国に来たのか、来ていないのか?二郎との長女、景子は自殺したことになっているがその理由は全く明かされていない。 増して佐知子と万里子はどうなったのか?神戸に行ったのか、フランクという男とアメリカへ旅立ったのか。 これも分からずじまいだ。幼い万里子は学校へも行っていなかったようでその後が気になる。 英国在住の悦子はどうやら一人暮らしのようだが娘ニキとのやりとりも何か不安な要素を醸し出している。 結局、幸せとは言い難い悦子の思い出話なのだがそれが真実が嘘か判然としない、まさに過去は幻という事か。 | ||||
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| 今回おそらく2025/9月公開の映画「遠い山なみの光」(監督:石井慶)に合わせて新装版が出たと聞いて再度読んでみることにしました。最初に読んだのは、同じ小野寺健さんの翻訳でしたが、カズオ・イシグロと同じ長崎県出身の村上龍による「半島を出よ」を読んだ後あたりでしたから遥か昔になります。当時、私は何を読んでいたのでしょうね。腹立たしいほど感想が残っていませんでした。 イギリスの田舎町で暮らす主人公、悦子の下へロンドンに住む娘のニキが訪ねてきます。そのニキの五日間の滞在期間に、悦子は故郷、長崎で生きた時代を回想します。おそらく1950年代。あの戦争が終わり、悦子は二郎と結婚していました。彼女は妊娠していましたが、そこで会った佐和子とその娘・万里子との日々が淡々と語られていきます。 悦子と義父にあたる「緒方さん」との会話、「緒方さん」と息子の二郎との会話、悦子と知り合いの(アメリカ人を恋人に持つ)佐和子との会話。そのそれぞれの会話が緊張感に満ち満ちており、まるで上質のサスペンス小説のようでした。もしかすると突き抜けてしまうのではないかという不安が突き抜けない。それは、やはり<小津>の映画のようでした。 最初に読んだ時に緩いと感じたあの<戦争>と長崎を襲った原爆についてのささやかな描写は、今読むと適切だったのだと思えたりもしました。何故なら、カズオ・イシグロの視点は<世界>の遥か上にあって、それほどのことであったとしても、世界の歴史の道筋の中では一つのインシデントであったに過ぎないと思えるからでしょう。 それでも「国宝」を書いた吉田修一と「限りなく透明の近いブルー」を書いた村上龍とカズオ・イシグロという三人の文学者が同じ長崎県の出身であることに深い痛みを覚えたりもしました。何故なのでしょうね?それを深掘りしながら考え続けることについてはひとまず批評家たちにお任せしたいと思います。 私は、ロンドンに住むことになった悦子が実はアメリカからイギリスに移住した佐和子であり、亡くなったのは悦子の娘ではなく万里子ではなかったのかと考え続けています。それでは勿論、辻褄が合わないことは理解しています。でも、それでも尚、悦子には長崎で娘を産んで、佐和子と万里子と共に見た長崎の港の遠い山なみの光を見て生きていて欲しかったと思うからかもしれません。 生きるということは、"A Pale View of Hills"が限りなく透明に近いブルーに染まっていくことなのでしょう。 なんて事だ。 ◻︎「遠い山なみの光 "A Pale View of Hills"」(カズオ・イシグロ 早川書房) 2025/6/13。 | ||||
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| 朝鮮戦争が起きた1950年頃の長崎。語り手である悦子が佐知子と出会った数週間の話を核とする本作は戦前から続く価値観と、復興から発展の段階へと移りつつある戦後の風潮との衝突がとても静かに描かれる。 ①長崎に引っ越してきた佐知子においては、それが、以前の裕福な暮らしぶりから一変して、ぼろ家での娘との貧しい生活を送ってまで追い求めた新天地への渇望となり、他方で②佐知子に比べて非常に安定した暮らしを送れている悦子においては、それが、養父と夫あるいは夫の友人との間でちくちくと繰り広げられる確かな軋轢と、その狭間に立つ一人の女性として後景に追いやられる姿となってその意味を密かに、しかし深く問うものとなる。 もっともカズオイシグロさんの作風らしく、動の佐知子と静の悦子という物語上の対比もそれほど激しく書かれることはなくて、不安定な生活を送る佐知子のことを観察する悦子の内心も、思っていた以上に記されない。「私はこう思う」という述懐が少ない分、全体的にのっぺりとした小説だと感じてしまうのは否定できない。 けれど、そこに現在の悦子がイギリス人の夫と再婚して渡英、二人の娘をそこで育てていたというファクトを重ねると本作の印象は大きく変わる。 というのも、その生活ぶりこそ、長崎時代に出会った佐知子が追い求めて止まなかった未来そのものだったから。まるで悦子が佐知子になり変わって彼女の夢を叶えたように思えてくるこの偶然は、佐知子の娘である万里子と悦子との間におけるやり取りの描写を横目に追うと、さらなる変貌を遂げる。 作中、悦子は不自然なくらい万里子と二人っきりで会話する。勿論、なぜそういうシチュエーションになったか?という合理的な説明は地の文の方できちんと行われはするし、その内容のとりとめなさや飛躍の仕方も、子供との会話という前提で追えば非常に納得できるものである。 しかしながらただ一点、何度読んでも解消できない部分があって、それが悦子の足元に絡まった古い縄。なんでそんな物を持ってるの?と悦子に尋ねる万里子の恐怖。物語の後半で唐突に再現されるこのやり取りをフックにして全体を俯瞰すると、本作の内容が全て悦子のフィクション。記憶の混濁による象徴的な述懐の積み重ねなのではないか?という疑問が唐突に湧き起こる。 実は悦子=佐知子で、「万里子」は自殺を遂げてしまった前夫の間に生まれた悦子の長女、景子自身で、彼女のことを救えなかった自分自身を責める気持ちと、悦子自身の幸せを信じて行なった選択をどうしても後悔できない気持ちとのせめぎ合いがあって…と止めどなく続く連想が『遠い山なみの光』というタイトルの響きと呼応し、どんどん膨れ上がっていく。 本作の実写化にあたって悦子を広瀬すずさんが、佐知子を二階堂ふみさんが演じられるということだが、これ以上ないってくらいのキャスティングだと思う。真っ直ぐに正道を進むような広瀬さんの眼差し、燃える野心を燻らせるような苛立ちを原動力に変えて生きるような二階堂さんのギラつきないし力強さは、作中の現在パートの悦子=吉田羊さんの苦悩の現れと解釈すれば、映画『遠い山なみの光』は、実力派の俳優三人が時代を超えて共鳴する傑作としてその名を映画史に刻むことになるのは間違いない。 なので、映画の鑑賞を予定されている方には先ず小説を読むことをお勧めしたい。小説世界に流れる不穏さを知って観るとのそうでないのとでは終演後の感想が大きく変わるはず。是非。 | ||||
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| カンヌ映画祭の話題を見て読んでみようと思いKindleで読みました。 そう長い小説ではないので一気に読むことができました。 戦後の長崎の様子が伝わりましたが、イギリスの情景はあまり伝わってこなかったように感じました。 | ||||
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| 悦子はいわゆる「信頼できない語り手」です。 佐知子のエゴとその犠牲者の万里子、それを心配し万里子を哀れに思っていたという自身を語ることで、実は悦子自身のエゴ、そしてそのエゴによって最終的には孤独の中自殺をした景子との関係についてアリバイを語っているのだと思いました。ニキの母親に対する思いやりも表面的というかおそらく儀礼的・社交的線上で、母親との精神的な隔たりなのか、あるいはそもそも1920年代ごろの生まれの日本人で原爆を体験した悦子と60年代生まれでイギリス人として育ったニキとの根本的な相違を感じました。私もヨーロッパに住む国際結婚で子供を持つ日本人なので、言葉では言い表し難いですが、文化の違いからの感性の違いなのか。感性と親子の愛情は別物ですからニキが母親に愛情がないということではなく。 しかし、その悦子のエゴも、戦争、長崎の原爆、一瞬にして変わってしまったパラダイムのなかで必死に生き抜こうとした人間のエゴだとしたら、哀れというのが適切なのかもしれない。 | ||||
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| 世の中で評価されている作品をつまらないと思った時、私は作品のせいにしています。タピオカやミセスグリーンアップルと同じです。その作品と、評価してる人も一緒につまらないだけです。仮に丁寧に読めば何かしら意味のある場面にであえるとして、それでもこんな風に出鱈目に特徴のない人物をぽんぽんと登場させる作品を信用しようがありません。 | ||||
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| 戦後まもない荒廃した風景とその時々の生活者の思いが丁寧に描かれた素敵な作品だった。 | ||||
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| 映画化されたと聞いて購入。 最高の「あとがき」が記載されていた。 読解の助けになったが自分の読み込みが甘いと再認識させられた。 フェミニズム文脈で語ることが可能だが、村上春樹の「ノルウェイの森」よりも前に書かれた作品であることに驚く。 日本は昭和時代は文化的後進国だったといえる。 山と川と港は強く長崎を想起させる。 | ||||
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| デビューの翌年に発表された長編らしいが、巧みな対話を通じて心の動きを表現し人物像を造形してゆくというイシグロの特長が早くも表れている。この小説は複数のテーマが含まれており、短期間で価値観が変動した世界での人間の評価という後に「浮世の画家」の中心テーマとなるものもその一つだ。 登場人物はそれぞれに価値の変動の前後で生き方に苦労しており、戦後零落してしまった佐知子もその一人だ。彼女は現在の自分が受け入れられず、絶えずどこか別の世界を必死に探し求め、外国に旅立とうとしている。彼女の支配下にいる子供の万里子はその被害者だ。佐知子は最後に狂気の世界に近づいてゆく。 悦子が主人公としてこの小説の語り手になっている。彼女は佐知子と違い常識人で常に佐知子を常識の世界に戻そうとしている。しかし、後に彼女は子供を連れて日本を出てしまうのだ。女の子の幻影に取りつかれており、最後にそれが万里子の姿をとった自殺した娘の景子だということに気づく。 解説には佐知子=悦子としているが、それは違うと思う。佐知子はあちら側の世界に行きかけていたが、悦子は常にこちら側にいるからだ。彼女は狂ったような佐知子の姿に自分を見つけてしまっただけだ。自身のエゴと向き合ったのだ。 作者は日本映画の影響を受けているというが、確かに家族の中での対話や人間関係は古い日本映画を髣髴とさせる。この作品の評価は様々だと思うが、イシグロの世界にはまってしまった私にはとても面白かった。しかし、「浮世の画家」ほどではないということで☆4つにした。 | ||||
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| 義父の緒方さんと二郎とのパートはなんとなく小津安二郎の東京物語を思い出してしまった(カズオイシグロも小津映画は好きみたいなので、影響はあるのかな)。そして佐知子と万里子の部分は終始不気味で、不穏で、ホラー小説を読んでいるような気分に。 ラストでささやかに明かされる真相を、その言葉通りに捉えるなら、悦子と佐知子、景子と万里子は同一人物だということになり、この小説で語られる回想は英国に移住したある日本人の老婦人(名前が悦子なのか佐知子なのかは置いといて)による、過去に自分の犯した罪の正当化ないし逃避のためのものとして読める(もちろんそういう風に読むことで色々な矛盾点は出てくるし、それを解消するために矛盾点を全て悦子の妄想・でっちあげとしてしまうのも雑な気がするが)。 まあ真相がどうであれ、悦子と景子、佐知子と万里子という二つの母娘関係がオーバーラップしていることだけは確かだ。英国移住後の景子の抱えていた問題とその自死に対して、悦子自身が果たしていたであろう役割は大きいはずなのに、悦子はそこの部分には触れようとしない。これは回想シーンの中で佐知子が万里子に対して酷いことをしているにも関わらずその自覚がないことと重なる。 ともあれ読者はこの小説の唯一の語り手である悦子(英国に移住した日本人老婦人)の語ることしか物語の内容を知ることができないわけだし、これ以上推理してみても仕様がないのであろう。 | ||||
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| 主人公は悦子の視点で描かれてはいる。が、どうも佐知子は、悦子のようだ。 佐知子の娘の万里子は、当時悦子のお腹にいて、将来自殺してしまう景子なのだ。 悦子の近所に住む佐知子は非常に自己中心的な性格で、なんか嫌な女だと思いながら読んでいた。 反面、佐知子より10歳くらい若い悦子は、古風な日本女性の佇まいで好感が持てる。 それが、ラスト近くで、佐知子は、何年後かの悦子であることが仄めかされ、 本当の悦子は、実は佐知子のような性格で、これは、自分の過去に対して、 もう1人の自分が、反省を促していると言うことなのか。 特に、子育てに関して、反省しているような気がする。 混乱の戦後の中で、子供の敏感な心を蔑ろにして、大人の都合で翻弄してしまった反省。 万里子の純粋な思いを、佐知子は軽視していた気がするから。 あえて伏線回収ということもなく、諸々の詳細は明かされることなく、終わる。 | ||||
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| 映画化ということで読んでみた。 戦後の暗い長崎の物語と、イギリスに移り住んだ後の暗い話が続き全体的に陰鬱な内容。 また、著者自身が日本語で書いていないので、日本語表現は訳者の力によるもの。 これが令和の映画でどう表現されるのだろうか。 | ||||
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| 一気に読みました。完全に理解できていないので、しばらくして再度読み返します。戦後の日本の話ですが、英語から日本語への翻訳なので、不思議な言葉使いです。 | ||||
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| 舞台は敗戦後の長崎。 古典的な日本女性の代表の様な優等生的の主人公。 妙にとがった、先鋭的で自立心の強い謎の隣人女性。 対象的な2人に、読者はかすかかな不穏さと違和感を覚える。 だがそれは漠然としていて、深海の底に静かに潜んでいる。 ラストの章で静かに明かされる事。 それはあまりにさりげなく描写されているので気付くのに、一拍遅れるのだ。 だが、その衝撃はじわじわと読者の中に広がっていく。 男性優位社会で、戦後の女性達が何者かになろうともがく。 それは静かに確実にそこにあり、一気に臨界点を超える爆弾なのかもしれない。 元は「女達の遠い夏」を「遠い山なみの光」に改題している。 女達にとって、光はまだ遠いのか。 掴める光なのか。 Audibleで聞いたが、朗読者が素晴らしい事を追記しておきたい。 特に、さりげなく「明かされる事」の表現が秀逸だ。 | ||||
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| カズオ・イシグロ氏の作品、私はこれで二作目です。 私は前回『私を離さないで』を読み、そのディストピア的雰囲気と他人の為に命を供することを運命づける命、という存在に、意識のある家畜などを想起しました。まあとにかく、その設定に魂消た。 そして今回の作品も実は原作は40年前となかなか古め、そして不穏さがプンプン漂う中、釈然としない終了。模範解答が示されない! 友人知人に解釈を聞いて尋ねたくなるような展開でした。 【不穏①自殺した娘、景子】 本作は長崎時代の悦子と老年(50代後半)の悦子の状況が、行き来しつつ展開します。 冒頭では英国に渡り再婚した悦子から始まります。どうやら日本から連れてきた長女景子は自殺してしまった模様。他方英国に来てからの再婚後の子である次女ニキ。彼女と母の母娘の関係はもとよりニキと景子の姉妹関係もどうもしっくりいっていなかった様子。 こうした中、一体どうして景子が自死を選んだのかは明かされませんでした。英国が合わなかったのか、母との関係が良くなかったのか、或いは日本人の父親との間に何かあったのか等々、個人的には色々勘繰りました。一体どうして? 【不穏②再婚の経緯】 語り手である悦子が英国にて再婚したことは状況から分かります。でも、経緯については一切語られません。今現在、英国人の夫も亡くなり、その資産を受け継ぎ田舎に引っ込んでいるという事だけが分かります。 来し方を振り返り、戦後の結婚当初の日本人夫そして義父については振り返りますが、この英国人の夫については詳細が分かりません。こちらはどのような背景があったのかは全く分かりません。一体何があった? 【不穏③佐知子と万里子親子はいったい】 アメリカ人の情婦と思しき佐知子とその子である万里子(純ジャパ?)。 悦子が景子を亡くし、その後かつての長崎を想起する際、この母娘を思い出します。この佐知子・万里子親子は、没落貴族?のような風であり、プライドも高く、特に母は虚言癖の如く、米国人情婦のフランクとともに母子ともども米国へ移住すると何度となく悦子に告白(自慢?)します。 佐知子によるオオカミ少年的繰り返しの何度目かで、娘万里子が可愛がる猫がアメリカへは持っていけないと分かった万里子は、母親の反故にした点を佐知子にねちねち言ったところ、母親はとうとう猫を川に沈めて殺してしまった!?なんだこの母親!? 読者として、そんな病的な行為を後々振り返って考えると、実は英国での悦子というのは佐知子なのでは? そして英国で自殺した万里子とは景子のことでは?等と想像してしまいました。つまり佐知子は長崎でしった悦子(本物)を英国で思い出していた!?とか。 あるいは猫殺しやフランクへの執着から佐知子・万里子母娘の不仲が想定されましたが、実は景子とは佐知子から引き取った万里子のことで、悦子が英国へ連れて行ったのか等を想像しました。では長崎で孕んでいた悦子の子供はどうしたんだってことにもなりますが。 いずれにせよ、行間の広い、そして不穏な空気が美しく文語チックに描かれる様が美しい作品でした。 ・・・ ということでイシグロ作品二作目でした。 今回は翻訳が非常にすばらしかったのですが、原典でも(お値段安かったら)読んでみたいなあと思いました。 純文学好き、英国好き、長崎好き等々にはお勧めできる作品です。 | ||||
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