■スポンサードリンク


箱男



新規レビューを書く⇒みなさんの感想をお待ちしております!!
【この小説が収録されている参考書籍】
箱男
箱男
箱男 (新潮文庫)

箱男の評価: 4.22/5点 レビュー 73件。 Cランク
書評・レビュー点数毎のグラフです平均点4.22pt


■スポンサードリンク


Amazonサイトに投稿されている書評・レビュー一覧です

※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
未読の方はご注意ください

全56件 21~40 2/3ページ
No.36:
(5pt)

最高に深みのある、素晴らしい一冊。

この本は、人間の自意識を的確に捉えていて、
未来の日本、つまり現代社会への強いメッセージを送っているように思えてならなかった。
さすが世界の安部公房だと思った。ありがとうございます。
箱男Amazon書評・レビュー:箱男より
4103008083
No.35:
(5pt)

明くる日になって頭の中でストーリーが収斂する。

「箱男」を読み終わって一晩たつと、頭の中ですべてが統合されてくる。
「方舟さくら丸」の時もそうだったが、あまりにもぶっとんだ世界なので
読んですぐには頭が混乱してしまう。途中ではぐらかされて、箱男の
脳の中にまぎれこむ。

 一晩経つとすべてのエピソードが時系列でななく、登場人物の一人一人が
統合されて一つの人格に収斂してゆく。

 最後、「救急車のサイレンが近づいて来た。」わけだけれど、最後の解説にも
ここには触れていない。なぜ触れないのか不思議だけれど、触れられないという
べきか。自分なりの解釈が成り立っても、絶対こういう意味なのだという
確信はもてない。天才安部公房が答えてくれれば嬉しいが。。。

 記述がほとんどない人物がひとり。それは出て行った医者の奥さん。
他に女性としては看護婦とピアノ教師が出てくる。現実社会で奥さんが出て行って、
箱男の幻想の中に棲み着くのは、医者の愛人の看護婦。過去の思い出としてのピアノ教師、
彼女は「ぼく」にスコープでのぞかれた罰として、部屋に連れ込んで彼を鍵穴から覗く。
彼は覗こうとした対象のピアノ教師に覗かれて、勃起して射精してしまう。ピアノ教師は
その場面を楽しんでいたと思われるのだ。
 その存在は箱男の幻想の中で医者の愛人、後の箱男自身の愛人の看護婦となっているの
かもしれない。これらの女性2人は同一人格かと思える。また「ぼく」とABCDすべての
者は同一人格と考えれば話が理解しやすい。
箱男 (新潮文庫)Amazon書評・レビュー:箱男 (新潮文庫)より
4101121168
No.34:
(5pt)

匿名掲示板を予見した恐るべき作品

書棚を整理していて、この『箱男』の箱入りハードカバーを手にしつつ、ふと箱に印刷された著者の言葉を読み返した。
「(略)人は自由な参加の機会を求め、永遠の不在証明を夢見るのだ。(略)だが、誰でもないということは、同時に誰でもありうることだろう。(略)匿名の夢である。そんな夢に、はたして人はどこまで耐えうるものだろうか。」
今なら、この言葉の意味を、実感できる。
インターネットの世界は、誰もが自由に参加でき、誰でもない匿名の存在として振舞うことの出来る世界だ。
匿名掲示板では、誰でもない者としても自由な発言が許される。
だが、それはまた誰でもありうるということであって、発言が勝手に拡散し、恣意的に歪曲されて「まとめサイト」に転載されることもありうる。
そうした実感をふまえて、本書の内容を振り返ってみれば・・・
一冊のノートに、複数の登場人物が書き込みをするという設定の下で、誰が誰なのか判然としない書き込みが行われ、新聞記事の転載、画像の貼り付け、贋物の登場、果ては何だかわからない詩まで書き込まれる。
何という事だ!
まさしく、匿名掲示板によくあるスレッドの流れ、そのままじゃないか!
書く(=欠く)こと、語る(=騙る)ことをめぐる思考実験のうちに、安部公房は1970年代始めの時点で、我々が匿名掲示板や「まとめサイト」、過去ログなどで目にする世界を、幻視していたのか!?
恐るべき先見性。
発想の基になったのは、あるいは京都・嵯峨野の直指庵の「想い出草」であったかもしれない。
仮にそうだとしても、そこから、こうしたフィクションの仕掛けを発想できるのは、安部公房ならではの才能だろう。
これこそ、インターネットが当たり前になった社会を予見した、ある種のSFなのではあるまいか。
箱男は、今や我々のそばにいる。
パソコンの中に。スマートホンの中に。
ネットにアクセスするだけで、誰でも箱男になれる。
誰でもなく、誰でもありうる、匿名の存在に。
そして時には、SNS疲れを感じて、箱を脱いだりするのだ。
箱男Amazon書評・レビュー:箱男より
4103008083
No.33:
(4pt)

"かなりの数の箱男が身をひそめている"

安部公房の代表的長編小説、1973年作。前衛的な手法を用いた作品としても知られる。



「社会」内の匿名多数(彼ら/彼女らは、「社会」に於いて識別記号としての名前をもつが故にこそ、「社会」に於いて抽象的な何者かで在り得ているからこそ、逆説的にも匿名的で在り得るのだ)による無数の眼差しの結節点として自己同一性「I = I」の解が析出される。「What am I ? 私は何者なのか」「Who am I ? 私は誰なのか」の解を獲得する。これによって「社会」内に於ける存在許可証が与えられる。則ち、何者かとして・名前をもった存在として、「社会」から眼差されることによって、「そこ」に帰属することが許される。「眼差し」を「語り」と言い換えてもいい。帰属=布置=付値= topos が与えられることによる全体性の断片化という代償を払うことによって。

"言葉なんかごめんだ/眼差しなんかまっぴらだ"(トリスタン・ツァラ『ダダ宣言1918』)

しかし今や、「眼差し」や「語り」によって何の毀損も負っていない全き実存など可能であろうか。現代に於いては、我々を何者かたらしめる断片化に対する無際限の否定運動を以て、その成就ならざる成就の夢を、不可能を承知の上で、敢えて希求し続けるか、さもなくば、「眼差し」や「語り」による断片化の暴力性そのものから逃れるべく、頭からすっぽりと段ボール箱を被って覗き窓から外部を窺う箱男となるしかない。眼差しに捕捉されることなく、以て自らの存在証明たる名前を抹消して。則ち、a・topos として。箱男を何者かに範疇化しようとする"ワッペン乞食"を撃退しながら。

"見ることからも、見られることからも、ただ逃げ出したかったのだ。"

"・・・、もう月賦に尻込みするものはめったにいない。しかし、月賦というのは、身分や職業や住所を、借金の担保にすっかりさらけ出してしまうことなのだ。・・・。こんな時代に、月賦の便利さにさからってまで覆面をしたがるのは、ゲリラか、箱男くらいのものかもしれない。"

箱を被って覗き窓から「視た」世界は、ロカンタンに嘔吐を催させたのとは異なる相貌を現わす。

"すべての光景から、棘が抜け落ち、すべすべと丸っこく見える。すっかりなじんで、無害な物になり切っていたはずの、・・・そうしたすべてが、思いもかけず棘だらけで、自分に無意識の緊張を強いていたことに改めて気付かせられたのだ。"

"誰でも、風景に接した場合、つい自分に必要な部分だけを抽き取って見がちなものである。・・・。ところが、箱の窓を額縁にして覗いた途端、すっかり様子が違ってしまう。風景のあらゆる細部が、均質になり、同格の意味をおびてくる。・・・でも、僕はそんな風景が大好きだ。遠近が定まらず、輪郭が曖昧で、ぼくの立場とも似通っているせいかもしれない。"

安部は本文写真に付して云う、"見ることには愛があるが、見られることには憎悪がある"。しかし、視られることが断片化の暴力であるならば、視返すことは復讐ではないか。実存が、「名前」で埋め尽くされた無に走る裂け目であるならば、その裂け目から眼球が覗いているならば、無を貫き走るその眼差しは、実存からの復讐だ。"見るだけの人間"となって、復讐するのだ。

"考えてみると、しじゅう覗き屋でいつづけるために、箱男になったような気もしてくる。・・・。逃げたがっているような気もするし、追いかけたがっているような気もする。"



それでもなお、たとえ幻想でしかなくとも、断片化の暴力に曝されてきた全き自我を回復しようと、他者の愛を求めることには、何の不自然も無い。

"赤ん坊のように疑いを知らず、強力万能浄化装置のようにあらゆる負い目を拭い去ってくれる彼女・・・。めくらの女にように、他人の醜さに寛大で、アルコールか麻薬のように劣等感を忘れさせてくれる、欲望解放装置のような彼女・・・。"

しかし、眼球という一点に局在化された箱男の愛・眼差しに局限化された愛とは、如何なるものであろうか。それは忘我合一への憧憬の裏返しとしての、眼差しという権力による支配を通した愛でしかないのではないか。尤も相手は、美術モデルとして裸を他者の眼差しに晒すことを副業としてきた看護婦である。眼差しを一身に浴びる彼女は、箱男とは全く別の仕方で、より強かに、眼差しの暴力を遣り過ごしているかのようだ。結局、双方の心情が(相手への心情なるものがこの二人にあったのかそもそも疑問だが)捩れの位置にあって、決して交わることがない。これは愛としては不具だ。

"ひたすら覗かれることを待つ姿勢。この三年間、ぼくが待ちつづけていたのはたしかにこの機会だったように思う。"

"ここが重大なのだ、彼女からだと、いくら見られていても、ほとんど見られた気がしない"

"そういう時には、眼から唾が出る。・・・。上下の瞼には歯が生える。彼女を齧る妄想で、ぼくの眼球は火照り、勃起してしまうのだ。"



"箱から出るかわりに、世界を箱の中に閉じ込めてやる。いまこそ世界が眼を閉じてしまうべきなのだ。"

箱を「世界」にしてしまえばよい。いや、違う。何故なら、そのまま残されている現実の世界が箱に割り込んできて箱を壊してしまっては元も子もないから。逆だ。世界を「箱」にしてしまえばよい。「箱」の中に世界そのものを呑み込ませるのだ。自分たちを何者かたらしめようとする、世界が張り巡らす眼差しの暴力を消滅させんが為に、以て自らの復讐としての眼差しをも同時に消滅させんが為に、眼球によって局限化された愛の全体性を取り戻さんが為に、現代世界に於いても"かなりの数の箱男が身をひそめている"。



本作品にはメタ・フィクションの機制が組込まれている為、決定不可能な穴が残る。誰が箱男であり誰が箱男でなかったのか、この作品自体の一人称の語り手・ノートの書き手が誰なのか、ひいてはそれを誰に読ませているのか・読者たる我々はこの作品に対してどのような位置にいるのか、誰が書き・誰が読んでいるのか、遂に宙吊りのままである。

よって箱男は、この本自体を一つの境界・一つの穴として、虚構世界と現代世界を行き来する。
箱男Amazon書評・レビュー:箱男より
4103008083
No.32:
(5pt)

安部公房の表現

「見ることには愛があるが、見られることには憎悪がある」

「裸と肉体とは違う。裸は肉体を材料に眼という指でこね上げられた作品なのだ。」

最高です。
箱男Amazon書評・レビュー:箱男より
4103008083
No.31:
(5pt)

銀塩の時代

安部公房は写真をよく撮っていたようだ。
『箱男』が書かれた頃と現在では、写真を撮るという行為も大きく様変わりした。
公房の場合(ノーファインダーもあるだろうが)ファインダーを“覗いて”撮っていたのだが、デジカメにしろスマホにしろ液晶画面が街中にあふれ、「覗いて撮る」という行為が珍しくなった昨今では、この作品の写真の意味もいくらかは変容したといえるかもしれない。風景の一部を切り取るという点では、大した違いはないとしても。

写真や短章でできたモビール。モビールだから、見た目に楽しい。
といって、甘く滑らかなキャラメルを思い浮かべると失望する。『ガリバー』を子供向けおとぎ話と思って読むと、渋面のスウィフトから人間のグロテスクさを突き付けられて腰を抜かすというようなものだ。
ただ、スウィフトと違って安部公房には若い者に対する無邪気な信頼を感じさせるところがある。サルトルじゃないけど、アンガージュを指向している感じもある。
でも、よくわからないところがあるので、それについて・・・

箱男・看護婦・医者のエピソードでは、ルイス・キャロルの「アリス」の夢、もしくはエッシャーの「描く手」を連想させる仕掛けが組み込まれている。つまり、映画「カリガリ博士」、夢野久作「ドグラマグラ」などと同様のメタ構造が取り入れられているといえる。しかし、それがオチなのではない。むしろ、オチをつけず、放散させるための仕掛けだろう。

性的なキーワードの頻用は、皮膚表面を境に外界と切り離されているという存在の(不可避な)様態を描き出し、触覚的存在としての人間というイメージを提示する。

そして、箱男はありふれた存在だということになっている。しかし、そうすると、帰属からすり抜けたはずの箱男の存在意義にとって、ひとつのパラドックスが生まれるだろう。少なからぬ人間がそこからすり抜けている帰属とはそもそも何だったのだろう?

この小説は、放散し開かれた物語の構造を取り入れ、万人に共通の基底としての触覚的存在様態を提示し、そして帰属からすり抜けることの特権性の剥奪を行なっている。
これでは、わざわざ箱をかぶらせたりする必要はなかったのじゃないか?
隣家のピアノ教師にノゾキを見つかってお灸を据えられる、あの屈辱感からは、箱男になったくらいで逃れられるものではあるまい。箱男はじっと座り込んでいれは目立たないかもしれないが、にゅっと脚を出して歩いたりすればたちまち四方八方から好奇の視線を浴びてしまうだろう。
たぶん、箱を捨てさせるために箱をかぶせてみたということはあるのかもしれない。(だとすると無邪気過ぎないか、という気もする)

一種,現実の方が小説を追い抜いていった例といるかもしれない。バブル経済のバも、ツイッターのツも全然言われてなかった時代の小説だから、それも当然だろう。今では誰でもない者になるのは簡単だ。なにしろ“無縁社会”だから。
箱男Amazon書評・レビュー:箱男より
4103008083
No.30:
(4pt)

異形・異様・異常

安部公房らしいといえばらしいのだが、かなりむずかしい(?)小説である。他のレビュアーが本作から安部公房に入るな、といっているが半分同感。あまりにもわかりにくい、けれどもとても安部公房的。異様な物語である。ダンボール箱をかぶって暮らす箱男。自らを隠すのに自らは世界を切り取って見ている覗き者。全国にたくさんいるのに、注目されない慮外の者。殺され屋。能動者と受動者という対立構造がベースにあるようだが、物語の途中からなんだかよくわらかず。前衛的で実験的なのに妙な完成度を感じるとても不思議な作品である。
 おもしろくないのかというとそんなことはなく、もしかしたらすごい小説なのかもしれないと思わせるような型破りなところがある。一つ一つの文章がすごい。「犬の息にそっくりな海辺の雨の臭い(P22)」「小さなものを見つめていると、生きていてもいいと思う。・・・中略・・・大きすぎるものを眺めていると、死んでしまいたくなる(P165)」などの詩的表現の連射だけで充分にひっぱりこまれる。ストーリーはむずかしく、特に、後半はおかしな展開をする。
 人間は想像力の範囲でしか理解できないが、それでも安部公房はただものではない、と改めて痛感。
箱男Amazon書評・レビュー:箱男より
4103008083
No.29:
(4pt)

箱男になれるか

40代、古今東西の名作と言われるものを読み繋いでいるものです。
流行の現代小説にはあまり興味がありません。

作者は結局なにが言いたかったのか。読んだ直後は、自分の文学的な技巧を披露したかっただけなのかと思うほど
理解に苦しんだ。

ただ見るだけという傍観者的な態度への批判、危険性を指摘したかったのではないだろうか。
どんなに悲惨なニュースがあっても、自分にはただのニュースでしかない。
箱男は、主観的には傍観者であるが、客観的にはすごく目立って奇妙な目で見られる。
つまり、見るだけで見られない(傍観者)は、箱男以下だ。
そこに、作者のメッセージがあると思うがどうだろう。
箱男Amazon書評・レビュー:箱男より
4103008083
No.28:
(5pt)

箱男というメタファー

ダンボール箱を頭からすっぽりと被り、都市を彷徨する箱男は、覗き窓から何を見つめるのだろう。一切の帰属を捨て去り、存在証明を放棄することで彼が求め、そして得たものとは…。 いったい誰が、箱男ではなく、誰が、箱男になりそこなったのでしょうかか。そして、このメタファーは何を表しており、何を隠そうとしているのでしょうか。

「大事なのは、結末じゃない。必要なのは、現在この熱風を肌に受け止めているといえ、その事実なのさ。結末なんかは問題じゃない。いまのこの熱風そのものが大事なんだ。眠っていた言葉や感覚が、高圧電気をおびたように、青い光を発してあふれ出すのは、こうした熱風の中でなんだ。人間が、魂を実体として眼にすることが出来る、得がたい時なんだ」
箱男Amazon書評・レビュー:箱男より
4103008083
No.27:
(4pt)

箱男

一度読むくらいだと、展開やストーリーが解りません。
ただ、この小説のなかで「箱男」という存在は一種の形容詞かもしれない、と思いました。
世界から隔絶したからこそ得られる充足、埋没していく輪郭の危うさ、
それは箱男になったから得られるのではなくて、その思考が箱男にさせるのではないでしょうか。
文壇で評価されている「書くこと、書かれること」「見ること、見られること」には、あまり魅力を感じませんでした。
存在を考えすぎることで取り込まれる、など、そういう点が面白かったです。
精神異常者の真似をしていると、本当に精神異常になるという話を思い出しました。
数年後読めば、また違った感想が出て来るように思います。
また、砂の女でも思いましたが、安部公房の女性にかける情熱は、
しつこいくらいの神聖視があって、読んでいて妙な興奮を覚えます。
看護婦の女や、足への考察はその部分だけでも読む価値があります。
箱男Amazon書評・レビュー:箱男より
4103008083
No.26:
(5pt)

安部、覚醒。

例えば、日野日出志の『地獄変』と『赤い蛇』。筒井康隆の『パプリカ』と『夢の木坂分岐点』。安部の『箱男』は最高傑作『密会』と表裏一体をなす。この二作を読めば、安部の覚醒がよく分かってくる。

挿入されるモノクロ写真、偽切手作りの親子など脈絡のないエピソード(最終的に削除された乞食のエピソードも含め)、こそぎ落とされる垢、汗臭い段ボール、ひび割れたコンクリート、快楽をむさぼる自堕落な二人。迷走の度合いを深めるストーリーと反比例するように、安部は次第にひとつのイメージを明瞭にしていく。
打ち捨てられたもの、見捨てられたもの、敗者、負け犬、つまりはゴミ。
エッセイー「アリスのカメラ」(『笑う月』所収)で触れられたゴミへの憧憬が、『箱男』を俯瞰するとき立体視のように立ち上がってくることに注意深い読者なら気付くだろう。
『箱男』ではゴミはただあるがままに提供される。安部はゴミの美しさを読者に知らしめようと、愚直なほどに生(なま)の姿を書き殴る。そこから教訓を導き出そうとするのは無理だ。安部は自らの欲望を『箱男』の舞台にたくして、無計画にさらけだしたのだから。
しかしそれは美しい。『箱男』はある意味「生きること」を描いた小説だ。敗者たちが片隅でだれにも知られず謳歌をあげるさまを美しく描き出した小説だ。
続く『密会』では、安部はゴミを注意深く配置する手法を採用する。それは後のウィリアム・ギブスンのサイバーパンク小説や、映画『ブレードランナー』で描かれる猥雑で生命力あふれる圧倒的なガジェットの楼閣に通じる。
安部は早過ぎた。でも今なら分かる。

ところで、世の中には実際に「箱男」になってみた方が結構いらっしゃるようで。でも小説のようにはいかなかったみたい。安部おじさんはウソつきだからね。真似しちゃダメだよ。でもぼくらはおじさんの上手なウソが大好きなんだ。
箱男Amazon書評・レビュー:箱男より
4103008083
No.25:
(4pt)

日本文学史屈指の前衛作品

安部公房の作品を読んだのは随分久しぶりだったが、本書を読み、その前衛的な手法にただただ圧倒された。全編を通じて前衛的な手法が実験されており、これに幻惑されない読者はいないだろう。冒頭の新聞記事、いきなり箱の作り方から始まる本文、挿絵的に挿入される詩と筆者撮影の写真、破天荒な展開を見せるストーリー。同世代の作家の中では間違いなく最も前衛的、実験的な作風である。三島由紀夫や大江健三郎の他に安部公房を有していた戦後の日本は明らかに世界に冠たる文学大国であった。

 ただ、音楽や絵画でもそうだが、芸術性が優れていると感じてもなかなか好きになれない作品というのがある。私にとって、残念ながら、この作品はこのカテゴリーに属してしまう。その実験的な手法は間違いなく卓越したものであり、今後の世界の文学界に影響を及ぼし続けていくものだと私は思うが、私はより古典的な手法をとる作品を好む。しかしながら、安部公房の日本文学史における位置づけをあらためて考えさせてくれた本書は、一読の価値がある作品だと言えると思う。
箱男Amazon書評・レビュー:箱男より
4103008083
No.24:
(5pt)

パロディとしてのアンチ・ロマン

アンチ・ロマンがいくら頑張ったところで、作者→虚構→読者という構造は突き崩すことはできない。仮にこの構造を物語性と呼ぶならば、物語性において、アンチ・ロマンはそもそもの出発点から敗北している。
 
 書き手というバトンを、登場人物に渡し、さらにその受渡しを錯綜させたところで、バトンは誰にも渡らない。バトンは、常に作者の手の中にある。種は割れているのだ。小説という枠組の中では、作者は決して不在証明を得ることはできない。
 一方の読者という受動性も、また、突き崩すことはできない。「虚構」を完成したジグソー・パズルとして渡すのではなく、バラバラのピースとして渡したところで、読者が持ち得る能動性は、せいぜいのところ、文献学者のものだろう。「虚構」そのものに対しては、読者は、受動的であらざるを得ない。依然として「作者→虚構→読者という構造」は、無傷のままである。
 
 書き手が箱を被ってみせるのは、秀逸なパロディだ。見られる者-見る者(作者-読者)という関係が、その中で、露になる。見られる者(作者)は、箱を被ることによって、見る者(読者)となる。しかし、あくまでパロディなのだ。実際に、両者の立場が逆転する訳ではない。
 それではと、「虚構」を「現実」と等価なもの、もう一つの「現実」としてしまったらどうだろうか。それならば、作者も読者もその「現実」の中の存在となり、物語性は成り立たない。だが、「現実」は、そんなに甘くない。したたかである。もう一つの「現実」を持った者を、「現実」は、総合失調症と名付け、病院へ送り込む。安部はそんなことは百も承知さとばかり、最後に救急車のサイレンを鳴り響かせてみせる。
 
 この小説の、即物的で生理的な描写は、露骨である。描写が即物的で生理的であればある程、これは現実なのだと思わせようとする企みが露になるという意味で露骨である。まるで種明かしをしたがっているような手品なのだ。
 
 安部はこの小説で、アンチ・ロマンを徹底的にパロディにしてみせたのだ、と私は思う。『密会』以降は、書き手というバトンの登場人物へ受渡しは、文体の問題となる。「一人称」では即き過ぎ、「三人称」では客観的過ぎる文体上の問題を解決する手段となる。
箱男Amazon書評・レビュー:箱男より
4103008083
No.23:
(5pt)

次世代が見えていた安部公房。

この作品の評価は大きく二分されている。
否定と肯定に大きな振れ幅を描くのだ。
それはストーリーの迷走と、箱男と言う存在のディティールの完成。
箱男と言う現代の世相を反映した存在。
箱男の生態について深く洞察し、ある意味での社会へのアンチテーゼとして確立させ読者を作品中に引きずり込んでいく手法は安部氏の真骨頂だ。
まさかこれほどの小説家を知らなかったとは…。
砂の女は正真正銘の名作だが、これはまた違った形で小説のあり方を早期に提示した現代の若者と過去である安部氏を結ぶ橋頭堡的作品であろう。
少なくとも私は彼の作品を高く評価したい。
箱男Amazon書評・レビュー:箱男より
4103008083
No.22:
(5pt)

結局一番伝えたいのは・・・・・

人間を描写する上で最高の部類じゃないかな、この小説はさ。
箱男という見られることを拒否した人間を軸に、見ることと見られることとの関係性を
安部公房一流の観察力と内面から滲み出す知性の輝きをもって表現してるのが、この作品。
確かに、この作品を傑作とみなせいという意見もあると思う。ラストが、あまりにも迷路に
なっているからだ。だが考え抜いて突き詰めれば人間の思考は迷路みたいなものなんだから
結局、当然の帰結というわけだ。
そして不思議な事に、なぜか時代が経つにつれて、この作品の伝えたいことが明確になって
くるような気がしてるのは僕だけじゃないと思うんだがなー。時代が追いついて来たというか
なんとゆうかさー。
いろんな解釈ができる話だが、僕が思うに一番は「開き直り」だよな。良くも悪くも。
四角四面の箱ってものを伸縮自在なものに変えてるわけよ。つまる所、何男でもいいわけさ。
箱じゃなくてもね。開き直りならさ。
そして開き直って初めて認識する事っては多々あるもんでさ。つまり認識者にはなれる。
ただ認識することと達観することはまた違って、開き直れば、それまで繋いでものを切る
わけだから達観には永遠に届かない。人間って皮肉な動物だと、これを読むたび思うよ。
箱男Amazon書評・レビュー:箱男より
4103008083
No.21:
(5pt)

現代的

「甲殻類のヤドカリだっていちど貝殻生活をはじめると、

胴から後ろが殻に合わせて軟化してしまうので、無理に引き出されると千切れて死んでしまうということだ。(中略)箱を脱げるのは昆虫が変態するように、それで別の世界に脱皮できる時なのだ。」

箱は「悪夢のような都市」に生きる現代人の避けられない運命―――

昭和48年3月、実に前衛的な小説がうまれたのだ。

そして30年後、現代。

今も町の片隅に転がる無数のダンボールハウス。

他者の視線を遮断した箱男たちは箱という別の世界で

彼の日常を生きる。そして、「別世界」を覗き続ける。

時系列が、登場人物が、そして箱男自身までもがめまぐるく変転し交換し混乱する。

振り乱されるわたしたちは、なんだか箱がほしくなる。

現代にふさわしい作品のひとつではないだろうか。
箱男Amazon書評・レビュー:箱男より
4103008083
No.20:
(5pt)

終盤の一文に、判断の材料が多ければ解釈の方法もその数だけある、みたいなことが書いてあった。それがこの小説、あるいは安部公房の小説のすべてであるような気がする。

安部公房で一番有名なのは「砂の女」だが、むしろ「箱男」の方が、安部らしいと思う。
箱男Amazon書評・レビュー:箱男より
4103008083
No.19:
(5pt)

すごすぎる

見る、見られる、という関係の逆転を描いた作品は、やはり興味深い。オースターの幽霊たち、とか。

 箱男は見る、見られる関係の逆転を通し、書く、書かれるという逆転まで描いてしまっている。メタフィクションといってしまえばかんたんだけれど、こんな時代にこんな作品(ある意味、探偵小説の完成形)が描かれてしまったら、のちの文学が停滞しかけてしまったのもうなずける。

 探偵小説の技法を用いた純文学はわりと面白い。探偵小説の形式は日本に輸入されるまえ、欧米ですでに完成されちゃっているので、だいたいが焼き増しにすぎない。けれど、それが純文学と結びついたことで、こうも鮮やかに甦るとは。

 そもそも、相性がいいんですね。日常に隠されたものを再発見するのが純文学だとしたら、その隠された謎を解く、という探偵小説の形式に歩み寄っているわけだから。

 とにかく箱男、傑作です。
箱男Amazon書評・レビュー:箱男より
4103008083
No.18:
(5pt)

アノニマスであるということ。

目の表情でのみ何ごとかを語ろうとする者、このように表現するとなるほど確かに箱男とは薄気味が悪い。そしてそういった存在が目に入っていない、あるいはこうした性質を認知しない限り(実際に問題ないということはないのだけど、さしあたって)問題はない。ただ、そうした物言わぬ目の語る音のない声がある日もし聞こえてしまったら、そしてその声が聞こえないよう耳を塞ぐだけの無神経さを持ちあわせていなかったとしたら……水が低きに流れるように箱男は伝染性が高いというのも、じつに理にかなっているようにぼくには思われます。

 交換可能な偽物と本物、均質化した視線、よって、互いに透視できる互いの欲望、また、まんまと見透かされることによって引き起こされる定型あるいは予測可能な(予め対策を講じうる)反発一一箱男とは実のところ誰か? そして、箱男は箱男になったが最後二度と帰らない、では、その箱を脱ぐよう誘う者とは一体何者なのか?

 少なくともぼくにとってこの作品はやや観念的傾向が強いとしても、やはり現実的かつ実際的なお話しです。
箱男Amazon書評・レビュー:箱男より
4103008083
No.17:
(5pt)

なんだこれは

なんだこれは!

 岡本太郎みたいなことを言ってしまいましたが、それが最初の感想 ていうか、読みながらにしてずっとつきまとった思考

 ダダイズム並の飛躍を、偶然性が起こす飛躍を、理性上で文字にしている。凄い。

 箱男は誰なのか?

 無名なのだ 誰でも良いのだ

 某ネズミの国に、ネズミが何匹いても、全部、どのネズミも均質にネズミに違いないように、どの箱男も、均質に箱男なのだ 凄い
箱男Amazon書評・レビュー:箱男より
4103008083

スポンサードリンク

  



新規レビューを書く⇒みなさんの感想をお待ちしております!!