■スポンサードリンク
果てしなき流れの果てに
新規レビューを書く⇒みなさんの感想をお待ちしております!!
果てしなき流れの果てにの評価:
書評・レビュー点数毎のグラフです | 平均点4.20pt |
■スポンサードリンク
Amazonサイトに投稿されている書評・レビュー一覧です
※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
未読の方はご注意ください
全115件 21~40 2/6ページ
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
この小説の主題と関係ないが、「同じ設計の電子脳でも、使用履歴により個性が生まれる」とか「コンピュータ同士を対話させる」なんていう話が出てくる(コンピュータのことを「電子脳」と言っている。この時期、「電子頭脳」とか「人工知能」という言葉もなかったようだ)。 ただし小松左京は、「コンピュータが独自の考えを持つ」というような陳腐な話はしない。ハードが同じでもプログラムが違えば、同じインプットでも違うアウトプットを生じるというような意味だろう。同じ頃に書かれた「2001年宇宙の旅」でHAL9000が人間を殺そうとするが、ACクラークの方が発想が普通の人に近いかもしれない。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
SF作品が読みたくて評価の高さからこちらの作品を購入しました。2021年です。ここまで必要か?と思わせる風景描写が読むのを苦痛にさせ、説明や繋がりがなくそれっぽいことを書いてある雰囲気のみの物語と思いました。ただ雰囲気だけの物語なのですが、物語の最後はタイトルの果しなき流れの果にという雰囲気を感じましたので星は2つです。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
話が飛びすぎて 、私には没入できませんでした。 途中でギブアップ | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
海外の有名SFは色々読んだ。しかし、本作のスケール感には度肝を抜かれた。 太陽の異変から地球の最期が近づき、地球脱出から始まる果てしない追劇。 主人公野々村はいろんな星、いろんな時代へ逃げ続ける。 宇宙、時間、意識を超越していく縦横無人なストーリー展開、美しい描写力、作者の知識、圧巻の一言に尽きる。 余りの壮大な物語に、執筆当時、小松自身精神的肉体的にかなり追い詰めらていたようだ。 小松は終戦時は自らの命を国に捧げる覚悟をしていた少年で、その体験が根底に流れている気がした。 印象的だったのは、野々村が、過去に戻り、歴史や自らの存在消えることになろうとも、 人間の進化を促そうとする場面。そこには作者の、殺しあう人類への深い悲しみがある。 「我々の達成した知識、文明、認識を、大量に、先史時代へ持ちこむのです。ー私たちは、自然のルールに したがって、徐々に試行錯誤を繰り返し、一つの認識に達してきた。ーだがその試行錯誤というものは、 いかに非効率であり、いかに多くの取り返しのつかない犠牲を払ってきたかー工業主義時代に入った19世紀 以降においてさえ、人間は、自分自身の姿になかなか気付かず、無益な自己破壊を繰り返し、のちには 地球の資源と自然を荒らし、ついには自分と地球とをメチャメチャにしてしまう一歩手前まで行った。 こうしてようやく達成された現代的認識を、知識文明を、もしもっと早い時代に持ち込みことができたら」P398 自分には理解の及ばないところもあったが、無限のように拡がる宇宙、過去から未来への壮大な時間の 中で、明日への希望、目に前にある小さな幸せの意味を感じた。 感想を文にすると、読後印象が陳腐化してしまうが、なんか視野が広くなった気がしてしまうのは自分だけか。 SFの素晴らしさを再確認した。SFほど作者に膨大な力量を要求する分野はないのではないか。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
と強引に括(くく)ってしまえば、米国の少し前の人気TVドラマ『フリンジ』みたいなSFミステリーとも?言えるか。 その『フリンジ』のシリーズ終盤同様、年代やパラレルワールド間を主要キャストが縦横に跳び交うので、中学生時代に初読したときは1/4くらいを曖昧にしたまんまのレベルで(それでも)激しく感動してた。 あらためて40年ぶりにkindle本で読み返し、今回はアタマが老いてても(一発サーチで前後の脈絡が確認でき)100%クリアに完読できた!のは至福に堪えない。やっぱり、登場人物の多いミステリー系は電子書籍に限るねえ。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
永遠に砂の落ち続ける砂時計が白亜紀の地層から見つかる第一章。 実際に話題となった何百万年も前の地層からネジが見つかったというオーパーツ(Out Of Place Artifacts)に関する記述や世界中の謎の事件などを取り込むことで、「ムー」的な古代ロマンに思いをはせるワクワク感もあり、非常に面白いです。 そしてこの謎に近づくものが次々と事件に巻き込まれる展開を経たあとのエピローグ(その2)における感動的な最初の結末。 この前半部分の物語はサスペンス&ミステリー的で、エピローグにおける物悲しさも相まって、ある意味分かりやすく親しみやすい感動を味わえます。 しかし、本作の本領が発揮されるのは、第3章から。 ここからとてつもなく壮大な物語へと発展していきます。 その壮大さは、読者を置いてけぼりにしてしまう感があるほどで、実は私自身も十分理解できているわけではありません。 例えば、前半の主人公野々村が、なぜこのような立場の活動をとるようになったのか、その経緯が記述されていないことも原因かもしれません。 ただ、いったいこの物語はどうなっていくのかという謎は謎のままでも、様々な時代や場所における個々の物語はそれぞれ面白く、この多少の難解さを含む点がかえって本作の人気の要因なのかもしれません。 特に、本作執筆時にはまだ書かれていなかった小松左京の大傑作「日本沈没」におけるその後の日本人が、この作品ですでに書かれていたことには驚きました。 「日本沈没」で田所博士が「日本人は幸せな幼児だった。日本民族はこれから大人にならなければならない。日本民族が実質的になくなってしまうのか、それとも本当に新しい意味での大人民族に大きく育っていけるのか」と述べる場面がありますが、まさに、日本という母なる土地を失った日本民族がその後どうなっていくのか、という点について、超長期的視点で書かれていて、この点非常に興味深かったです。 その意味で、本作は「日本沈没第三部」としての面白みもあります。 そして、前半のエピローグ(その2)とつながるエピローグ(その1)での締めくくり方の巧さに物語の余韻を味わいつつ、誰かと本作について語り合いたくなる、そんな作品です。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
話の展開や構成に読みにくさや不可解な点が読んでいると途中あるが、あとがきまで読めば著者も大変な苦労と悩みのなかでを書き上げた作品なんだとわかる。その作品を生み出す苦しみを乗り越えた先の物語の終盤から結末までの流れだと理解できると、この物語のセンスの高さ、作者の作品を生み出すために起こす化学反応の奇跡的な能力を感じ、この作品に今この時、この時代、この時間に出会えたことに喜びと感謝を感じる。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
まだ3分の1しか読んではいませんが、とても壮大な内容でした!(単に私がこの著書の存在を知らなかっただけ、ということではありますが) 今日のようにIT社会が発展していなかった頃(1965年ですって!)に書かれたものとは驚きです。難しい言葉がたくさん出て来るのですが、頑張って読了します。 何かのサイトコメントの中で、この本がおすすめと見聞きし、注文したのですが小松氏の他の作品をもっと読みたくなりました。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
20代で読んでから5年に1度くらいの割合で読み返し、10回ほどは読んでいる。読む度に理解度が深まるが、まだ100%とはいかない。壮大すぎる。「復活の日」もすごいがこの本も小松さんの代表作だと思う。野々村と佐世子の再会シーンには何度読んでも胸が熱くなる。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
これぞSFという小説だと思います。 読むのは2回目ですが、私がこれまで読んだ国内外のSFの中でもベスト5に確実に入る名作だと思います。(ちなみに他は、山田正紀氏の「宝石泥棒」、クラークの「楽園の泉」、バクスターの「タイムシップ」など) 人類や宇宙の行き着く果てに何があるのかという根源的な問いがこの本にはあります。現実的には答えを得られるべくも無い疑問かもしれませんが、バクスターの「天の筏」に出てくる「何を知っているかではなく、何を疑問に思うか」という言葉を思い出しました。 結果的にこの小説を気に入るにせよ、気に入らないにせよ、全てのSFファンに一度は手に取ってもらいたい、それだけの価値がある名作だと思います。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
大神神社に想いを寄せながら、じっくり読んでみたい。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
この作品は何度も読んでいますが、太陽に2つの大きな黒点が発生する描写の後、途中からどういう話だったかどうしても思い出せません。何度目かの再読です。 前半はミステリアス、ドラマチックな展開でスケールも大きいです。後半から複雑、単発的、観念的になり、印象に残りにくくなります。 タイムマシンが発明されて、後半ではいくつかのルールを、木っ端みじんにする企てをもくろむ組織とそれを止めようとする組織の争いが描かれますが、小競り合いばかりで、読んでいて非常に退屈です。前半でミステリアスに感じた時間、空間を飛び回る描写が、後半は全くミステリアスさがなく、2つの勢力争いの描写も緊張感や盛り上がりを欠いているので、長編ということもあり後半を読むのが本当につらいです。 50年以上前の作品なのに、かなり考えて書かれていますが、何度も読んだのに後半の記憶がないのは、後半が面白くなかったからだと改めて気が付きました。星3.5、おまけして4。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
むか~し昔に読んだことがある。そのときは終わり方が今一理解できず、あまり面白いとは思わなかった。しかし年寄りになって再読し、年相応の読み方ができるようになったのか、楽しんで読むことができた。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
この作品は読む人によって 好き嫌いがはっきり分かれる作品の様で すが、私個人的には 彼の最高傑作だと思っています。 (何度読み返した事か) なぜ最高傑作と思うかと言いますと、 まず第一に、1965年の時点でこれを書けた先見性。 そして後の小松氏の人生との運命的な重なり。 が理由です。 2020年現在、流石に基本構成の「自由意志」や「宇宙意識?」に強い 疑義が生じていますが、それでも「進化論」や今で言う「AIと自由意志」 等を 同一のパラダイムに落とし込んでいる点は 今なお古さを感じさせ ないと思います。 星新一氏らとの交友関係等のこぼれ話で ある意味良く読む逸話ですが 小松氏の小説は 奥様を楽しませる事(売れる小説家になる前は特に)を考 えて書かれていたとか。 そして小松氏は八面六臂の活動の末、1995年の阪神淡路大震災では「日本 沈没」の先見性から、関西在住の氏は多くの被害者の方々に触れ、多くのイ ンタビュー等を受け 震災と対峙した事が一つのきっかけと言われている鬱 を患ったそうです その姿は刀折れた武士の様で、この物語の一方の主人公である 野々村が我 を喪失しながら 最愛の佐世子を看取り、自身も跡を追う様に息絶えた姿と 重なって見えてしまいます。 この佐世子の姿は 小松氏の奥様への思いの様に感じるのは 一読者の幻想 かも知れませんが、戦いの中で負けるかも知れない者達への慎ましやかな愛 情かも知れないと 切なくなります。 ここまでも少しネタバレだったかも知れませんが、この作品と同様の世界観 の作品は幾つか あって、もしかすると その時代の潮流かも知れませんし、 小松氏が影響を与えたものもあったかも知れません。 比較してみるのも 面白いかも知れません。 「宇宙=人」或いは「ブラフマンとアートマン」=「梵我一如」の世界観 「宇宙の外の宇宙」あるいは「神と宇宙」の世界観 1、「百億の昼と千億の夜」 光瀬 龍 1965年(果てしなき~と同年発表) 2、「暗黒神話」 諸星大二郎 1976年 少年ジャンプ 3、「チョウたちの時間」 山田 正紀 1979年 他にもテーマが近いものや、問題意識が近い作品も多々あると思いますが、 その辺は賛否が大きく分かれると思いますので、読者の皆様が ご自分に 近づけて こちらの書評等で発表して頂けると嬉しいですね。 私には 思い入れのある作品なので長文になってしまい お恥ずかしい限り です。 読後に「面白かったぁ」とか、「すっきりした」という作品ではありません。 どちらかというと ハードなSFなのだと思います。 また扱う分野が広範で、物語の後半では少し力業の収斂(タイムマシンの直列 接続)も気になったりもしますけれど、小松左京を読むなら これを読まない と始まらないと思います。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
時間とは空間とは?宇宙とは?生命、人間歴史文化とは。 あらゆる概念疑問を統括していくと、科学と宗教は同じものになる。(という私の表現すら陳腐) そのなんというか、全宇宙の原理、意識(宇宙の成り立ちから太陽が死ぬまでの未来という限られた時間内ではあるが)に触れようとした著者は1965年にこれを書き上げた。 しかも、その全宇宙意識ですら「なにかもっと上の階梯」に動かされているに過ぎない。 一人の人間が、それに触れようとすることで、受けてしまう苦しみは並大抵のものではなかっただろう。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
すでに半世紀以上前の小説ですから如何せん古臭くなるのは仕方ないですが、それがバキバキのSFという事で小説内での未来と今現在の現実との間の齟齬が凄まじく広がっていて違和感が気になって仕方ない。インターネットだのスマホだのがいかに予測不能だったかという事でしょうけど。なんせタッチパネルという物が小説内の時間で数千年後ですら存在しない事になってるんですから。 さらに言うと、超能力やUFOがまだ科学の領域に存在しており古代遺跡にも超科学的妄想を抱けた時代の小説なので当時のそういう世相や雰囲気を知らないとよくわからないって事になる。昔のSF小説でネタになってた超能力もUFOも古代文明もこの半世紀で見事になくなりましたね。今じゃ極々少数の年寄りが気にする程度だ。昔はどれも若者が本気で存在するって思ってたんですね。 ネットもスマホも存在しないうえに超能力だなんだが当たり前になってる世界の話を今読んでもそりゃ理解できないですよ。 ついでにいうと、文章もクドいです。つうか、この半世紀で徐々にではあるけど日本語が変わってきていたんでしょうね。読みにくいったらありゃしない、書いてる事は理解できるんですよ同じ日本語だから。でもね、全然頭に入ってこないというか読んでても情景が浮かばないというか兎にも角にもわかりにくい。明治時代の文章を昭和の時代に読んだような違和感がこれだったと思うけど。内容は理解できるけど文章のリズムが全然違うような違和感が最初から最後まで続く。 内容がわかりにくいって人は「地には平和を」を先に読めばかなりわかりやすくなると思います。あの短編で小松左京が描こうとした事がほぼまんま書かれてるんですから。 日本SF小説における金字塔なんでしょうけど、今読んでも完全に手遅れでギリギリ内容を理解できる程度で発表当時の感動なんかは望むべくもないです。同じ小松左京でも日本アパッチ族は楽しめるんだけどね。内容に普遍性あるかないかの差でしょうが。この小説わからないって人はそっち読みましょう。おもしろいから。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
刊行後半世紀を経ても日本SF史上最高傑作の一角を担う本作。 SFのガジェットをほぼすべて網羅する緻密かつ広大な構成と数奇な人間ドラマが、縦糸と横糸をなしています。価値観と感情がこれほど強く揺さぶられた読書体験は珍しく、さっそく夢にこの小説の世界観が出てきてうなされました。 映画化は不可能な世界観なので読むしかないのですが、ただ誰にでもおすすめできるものではありません。複雑怪奇で難解です。 あらすじ(ネタバレあり) 中世代白亜紀の地球。火山弾が降りしきる中、剣竜を食い殺したT・レックスは未知の物音に導かれ洞窟に入る。そこでは金色の電話機が鳴り響いていた…という不可思議なプロローグから物語は始まる。 1960年代の日本都内。大学の理論物理学研究室に、著名な史学研究家、番匠谷教授がいくら砂が落ちてもカサが減らない、不思議な砂時計を持ち込む。研究所の助手、野々村は、番匠谷教授とともに砂時計の発掘された葛城山の古墳に向かう。明らかに古代には存在しえない技術で作られ構造上も謎が多い古墳の初動調査を終え、東京からかけつけた恋人、佐世子と合流する野々村。しかし、本格的な調査を開始する前に関係者は次々と失踪あるいは変死することとなる。野々村も例外ではなく、空港へ向かうタクシーの中で消え失せる。 取り残された佐世子は、失踪事件が起こった関西へ移り住み、中学教師に職を変え、ひとり彼を待ち続ける。謎の昏倒事件の被害者となっていた番匠谷教授は、3年後佐世子に看取られる。 いつしか年老いた佐世子は、晩年に旅の老人とともに暮らすようになるが、やがて二人とも同時期に他界し物語は終了する(エピローグその2)。この時点で小説は4分の1(118P)の分量であり、次章から物語はおよそ想像もつかないほどの跳躍をみせる。 25世紀。宇宙の軌道エレベータ上にある超科学研究所で、20世紀日本で使用されていたTVの解析が行われていた。TVには亡霊が現われ、未来から干渉してくる2つの勢力について警告する。だが、亡霊の名がバンショウヤ・タカノリであることを知った工作員M=アイに資料衛星を破壊され、研究は停滞。 アイは時空を越える進化管理機構に所属する超意識体であり、超科学研究所の破壊から戻った後、第26空間の「収穫」に向かう。全宇宙に存在する全ての「意識」は、審判者たるこの管理機構によって管理されていた。 第26空間に存在する地球は、1億年に1度と推測される太陽の異常発火で終焉を迎えようとしていた。まさに滅亡する数刻前に突如地球へ現れた「宇宙人」を装うアイたち管理機構は、「種の保存のため自分たちは地球人を保護する義務がある」と宣言し、多くの球人たちを円盤で連れ去った。しかし種の保存は方便であり、本来の目的は超能力を持つ地球人を選別し、進化の階梯(回心:オリエンテーション)を進ませ、宇宙管理の先兵に仕立てることにあった。 だが一方で、その管理機構に敵対するグループも存在した。あらゆる変化のベクトルに対する抵抗力が形象化された存在である“ルキッフ”をリーダーとした反逆者たちである。時流の統制を破綻させないように機能する管理機構と、タイムパラドックスを恐れずに歴史改変に介入していく反逆者グループの壮絶な戦いが繰り広げられる。反逆者グループの戦闘員Nは、ルキッフの後任と目されるほどの辣腕を振るい「収穫」のどさくさにまぎれて仲間を増やしていく。 選別された地球人の一人、松浦は、管理機構の船で移送される途中、旧知の女性エルマと再会し極限状態の中で契りを結ぶ。火星にある基地へ搬送されたのち、エルマと引き離された松浦は命がけの試練を乗り越え超能力に開花する(一方、松浦との子を宿したエルマは過去の日本に転送された)。しかしその直後、基地は反逆グループの襲撃により滅びる。その際に肉体が崩壊した松浦は、アイにその意識を吸収される。 松浦を吸収したアイ・マツラはその後、管理機構の工作員として全身全霊を以て反逆者たちを追跡、捕縛していく。 そしてアイ・マツラこそ、番匠谷教授の亡霊が憑依したTVを破壊した工作員Mであったことが明らかになる。 一方、反逆者グループのNは、管理機構のニューヨーク支部を襲撃した際に迎撃され、白亜紀の地球にはじき飛ばされるが、時間機(タイムマシン)を自力で修理し再び未来へ飛ぶ。自分でも理解できないほどの執念でNを追うアイ・マツラとNの、時空を超えた凄まじい追走劇が繰り広げられる。アイ・マツラは地殻変動で海中に没した日本からの難民の末裔が移民したアルファ・ケンタウリⅣまで出向くが、Nを取り逃がす。その後全宇宙の「すべての可能性の結節点」に網を張りめぐらしたアイは、白亜紀の地球で野々村の足跡を見つけ、追跡していく。 紀元前2世紀、7世紀、15世紀、と追跡は続いた。だが、同志に助けられたNは未来へ遡行し追跡の手を逃れていく。その過程で、アイ・マツラは松浦であったとき火星で別離した旧友がネアンデルタール人の慰み者に堕ちている場面に遭遇するが、もはや人としての感情は失っていた。一方古代日本に漂流したNは、仲間とともに葛城山にて古墳の造成と内部工作に携わるが、そこでデジャ・ヴを覚える。不可思議な砂時計に端を発した事件に巻き込まれた後に失踪した野々村こそ、Nが地球人であったときの姿だった(しかし野々村時代の記憶は失われている)。 反逆者たるNの目的は、歴史のフィードバックだった。つまり、未来世界の人間の知識・技能を古代に持ち込むことだった。フィードバックによって1万年を要した人類史の進化を100年に短縮し、新たな生物進化の先を促せるのではないか、それはタイムパラドックスではなく未知の先進的なパラレルワールドを新たに生み出す行為なのだ、と信じていた。 しかし45世紀の鯨座第5惑星で、N(野々村)はついに管理機構に追いつめられた。三台の時間機のエネルギーを一台に集中するという最終手段を選択し、N(野々村)は脱出と引き換えに超空間に突入した挙句、意識だけの存在となる。 全宇宙の進化管理を認識できる場(上位の階梯)にたどりついたN(野々村)は、追いついたアイ・マツラに吸収される。そのとき、アイの中に存在する松浦と野々村の意識が激しく共鳴し、アイは野々村への執着の理由を自覚する。野々村は、地球に転送されたエルマが産み落とした松浦の子供だったのだ。二人の共鳴にアイ自身の秩序が共振を起こし、アイは超空間に直行する方向に上昇を始める。階梯概念に逆らい、果てしなき流れの果てにあるものを求めて、アイは、問いを高に投げ上げる。 超意識体とは?進化管理の意味は?時間とは何か?時空間を超越する存在とは? アイは、自分の属する大宇宙が、超空間において逆行宇宙として認識される、もう一つの別の宇宙とともに、新しい可能性をはらんだ第三の宇宙を生み出しつつある姿をかいまみるが、ついにはイカロスのように力尽き、超意識体としての秩序を保てなくなった後、下位の階梯(つまり諸元の人間世界)の処置へ委ねられた。 そして2016年スイス、ベルンの国立病院。アルプス雪渓で発見されて以来50年間眠り続けた謎の遭難者が目を覚ます。回復した後も全ての記憶を失っていた彼は、自らの帰属する場所を求めて世界をさまよった後、和泉の葛城山麓へたどり着き、そこで一人の老女と遭遇する。老女、つまり佐世子は第一声、「野々村さん?」と彼に語り掛ける(エピローグその1)。 10億年の時の中で宇宙の隅々まで駆け巡り、人間存在と意識・時間の流れを俯瞰しながら生命哲学を壮絶に問い続けた野々村は、最終的にすべての記憶を失うことの代償に恋人の元へ還り、静謐な世界で人生を終えます。 決してわかりやすい描写ではなく、第三章以降は意味が咀嚼できませんでした。ただ、「これはどうしても理解しなければいけない」という焦燥で読み返し、なんとか自分なりにまとめました。 この作品に出会えたことを感謝します。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
久々に読んだ空想科学小説ですが、定番通り様々な登場人物が時空を超えた活躍をしており、しかもその原点が現実にある豊かな自然を表現することであるのが、ほろっとします。1960年代に生み出され、根幹としては、見事に現在を予言しており、驚嘆すべきと言えます。私が最も好きな日本の空想科学小説は「百億の昼と千億の夜」ですが、これに十分匹敵する面白さを味わえました。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
小松作品の中でも、指折りの傑作だと思う。印象的な砂時計のシーンから、作品世界は恐るべき時空間のスケールで展開される。 日本列島沈没や宇宙エレベーターのエピソードも興味深かった。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
導入部分は、興味がわいてきたが、進んでゆくと何の説明も流れもなく、全く別世界になってしまいどう関係しているのか、よくわからなかった。壮大ではあるけど小説としてもワクワク感やどうなってゆくんだろうなどの面白みに欠けていた。小松氏の作品は、いくらか知っているが、他の物の方がよいと思った。 | ||||
| ||||
|
■スポンサードリンク
|
|
新規レビューを書く⇒みなさんの感想をお待ちしております!!